(学事出版 『月刊 高校教育』 昭和55年10月 p48〜56)

「現代社会」への取り組み

−科目の枠をこえた発想を−


山本良久(北海道立千歳北陽高校時代)

 

1 「現代社会」試行の背景
 本校は昭和51年度に文部省の「研究開発学校」の指定を受けた。学校教育法施行規則57条の3の規定により学習指導要領に準拠しなくてよいことになった。
 そこで現行の教育課程ばかりか昭和57年度以降のそれと比較しても「大幅な選択制」を導入した教育課程を編成し、昭和52・3年度入学生に実施してきた。そのさい社会科では第1学年に本校独自科目「社会」(必修、4単位)を実施した。
 昭和54〜56年度入学生に対する教育課程は現行学習指導要領に基づいている。ただし、社会科では、教科構造が短期間に大幅に変化することを避け、新科目「現代社会」を実施している。
 本校の「現代社会」は、『教育課程審議会答申』、改訂『学習指導要領』、同『解説、社会編』に基づき、さらに本校における2年間の「社会」の実践研究を参考にして設定されたものである。「現代社会」新設の趣旨や理念などを正しく実施し得ているかどうかは、本校のおかれている状況なかんずく本校教員の能力などからいまだに自信のないところである。
 これ以降「現代社会」の試行の中から大切だと理解し得たことを思いつくまま紹介する。

2 「現代社会」新設の意義をこうとらえる。

 多くの人がこのことについて述べている。私たちが強調したいことは次のようなことである。
 今回の教育課程の改訂のねらいの「人間性豊かな児童・生徒」の育成に深い関連をもっている科目が、この「現代社会」だということである。この科目の新設が他の2項目のねらいともかかわっているのはもちろんだが、私たちはこのねらいとの関連を強調したい。『解説』が「現代社会」の指導で、客観的な社会認識ばかりでなく人間どう生きるかといった主体的な認識を重視していることからも、改訂のねらいとの密接な関連が理解できる。けだし人間性を育てるためには知識の伝達の域にとどまっていられない。
 「三無主義」「五無主義」といわれる生徒に生きる課題を発見させ社会や人間についての広い判断力や思考力を身につけさせることは、1科目1教科の枠をこえた高校教育全体の課題となっている。学校のすべての営みはすべてこの課題に集中させなければならない。各科目のなかでこの課題実現にとくに深い関連をもつのが社会科であり「現代社会」という科目であると考える。高校社会科教師としてそこにある種の使命感さえ成立しうると考える。
 本校の例でも、「現代社会」の実施の意義が教科・科目の枠内にとどまらないことを示している。たとえば、昭和54年度の「社会保障と福祉社会の実現」の指導は、生徒にボランティア活動に目を開かせ、指導は55年度からは必修クラブのひとつにボランティアクラブへの結成へと実を結んだ(『日本聴力障害者新聞』55年7月1日付に紹介された)。現在クラブ員は「手話」の練習や「布絵本」の作成、施設訪問などの活動に励んでいる。そこで育っているのは人間尊重の精神であり社会(人間)認識の深まりである。これはこの科目が今後実らせるほんのひとつの例にすぎないであろう。
 ひからびた知識のみの注入で終始してきた高校社会科の全面的な再検討を迫っているのが「現代社会」新設の意義である、と考える。

3 「現代社会」の担当者について

 まことに個人的な体験で恐れ入るが、「社会」の実践を始めた年の7月にある研究会で社会科の教科構造を広い視野から眺め、科目のあり方も再検討すべきだと私が述べたことがある。参加者の一人から「科目あっての教科だ」とのやや感情的な反発を受けたことがある。これほど強烈でなくても多くの先生にも同じ思いがあると推測する。科目の違いに執着しその立場からものを見る考え方は根深く、有形無形の影響を与えている。そのひとつに「現代社会」をだれが担当するのかが相変わらず個々の教師の"専門科目"との関連で取り沙汰されていることにあらわれている。
 このような科目の枠からの発想にとどまっているかぎり「現代社会」は難解で担当する自信も湧いてこないだろう。しかし、本校のように社会の教科構造自体を検討し独自に科目構成を行ったところでは、「現代社会」新設は何もショッキングなことではなかった。改訂のねらいの (3)のように、多様化した生徒に対応する教育課程を編成する場合、このような科目の新設はむしろ当然のことである。
 そして強調したいことは、「現代社会」の内容は、本校の例からみても、高校社会科教師であればだれもが扱いうる内容から編成されていると考える。したがって、いまの段階で自分の"専門科目"を理由にしてこの科目の担当を拒むのは、社会科の教師としての見識や経験のかたよりを表明しているといえば言いすぎだろうか。
 本校の例では、「地理」とか「世界史」「日本史」などの担当者が「社会」や「現代社会」の実施に当たった。表1は昭和55年度の科目分担表である。(表略)

4 「現代社会」の"専門家"はあってはならない。

 本校の例からいえば、さらに「現代社会」にはいわゆる"専門家"はあってはならないと考える。
 今日の教師に求められていることは、科目や教科の枠をこえた広い視野からひとつの課題を追求することである。その課題とは、前出の「人間性豊かな生徒の育成」である。
 各教科はもともと教育目標を達成するために設定され、それぞれの領域をその時々の必要に応じて決定されたものにすぎない。科目は教科目標達成のためにさらに細分されたものにすぎない。したがって細分のしかたに問題が生じたならただちに改善すべきものである。ところが、現実には「科目あって教科なし」または「科目あって社会科なし」という状況がつづいている。そこでは、教育目標どころか教科目標すら欠落している。科目王国の存在は周知の事実である。しばしば自分の担当科目を"専門科目"と称するところにも"科目エゴ"が見え隠れしている。自分の科目さえよければというのでは教科目標の達成はおぼつかない。
 今日われわれに必要なことは、戦後社会科発足の原点を十分に(批判的に)参考にし教科・科目を見直すことである。「現代社会」は、その性格・目標・内容を見ると、この科目自体が高校社会科の"ミニマム版"として編成されているといえる。もし「現代社会」の"専門家"と呼ばれる人がいるとすれば、むしろ社会科の専門家というべきであろう。それはまた科目の"専門家"とは異なり望ましい。すべての社会科教師は一度は真剣にこの科目に取り組んでほしいと考える。そのことがまた自分の"専門科目"の見直しにつながると考える。
 本校では、日常的にも"専門科目"という表現を避けるなどの細かい配慮を行ってきた。

5 強く望まれる発想の転換

 科目の枠をこえた発想の必要性をいままで述べた。指導内容についても発想の転換の必要性を強く感じている。

(1) 「現代社会」のまとまりについて
 この科目の内容にまとまりがあるのかという疑問が強く、教師を不安にさせている。寄せ集めでないかという。
 確かに現行科目とくらべてまとまりがないように見える。しかし、現行科目にまとまりがあるのかというとそう簡単な問いではない。高校教師は科目のまとまりをその科目と関連する諸学問との関連で見る習慣がついている。この習慣から見ても「倫理・社会」も「政治・経済」もその他の科目も関連諸学問の寄せ集めではなかったろうか。
 「現代社会」は上のような意味でまとまりを最初から構想していないと見るべきである。この科目が求めるまとまりとは、学習の主体である生徒の立場からみたまとまりなのである。教科のなかにあらかじめまとまりが完成しているのではない。日常的な学習の積み重ねのなかにまとまりが姿をあらわすように構想されている。まとまりは生徒の理解しえた諸事項の中にあらわれる。
 本校の例でいえば、1年間の学習がすんだ年度末に課した課題論文で数人の生徒が、教師の意図をこえて、理解しえた諸事項を系統的にまとめてきた。ここにこの科目のまとまりの意味がはっきりしてきたと考えている。このような事実は、まとまりとは何かを机上で考えるのではく、生徒に必要だと考えることを大胆に教材化していくことの大切さを示している。
 このような発想は、従来の既成の学問の"縄張り"から教師を解き放し、指導内容の現代化を図っていくうえできわめて大事な発想になると考えている。

(2) もうひとつの発想の転換
 さらに教材編成と深くかかわるものとして次のような発想の転換が求められていると考える。
 「生徒の思考力や判断力を育てる」ために「学習する生徒の立場に立って」「まず習得すべき一定の知識があり、それを理解させ、身につけさせるという考え方に立つのではなく、生徒が今後の人生を生きていくうえで、自ら考え、判断し、自分自身の人生と社会生活を充実したものにすることのできる力を育てることに重点を置いて」(『解説』)いることである。上の引用がなぜ発想の転換になるのか。それは、「知識の切り売り」とまで酷評されることの多い高校社会科教育の現状に対する鋭い批判をそこに見いだすからである。既成の学問の成果を無前提に拾い集め、それを生徒に注入し事足りてきた教育実践に対する鋭い批判でなかろうか。現場がこうなった原因に個々の教師の責任をこえるものがあるとしても、主体的に社会科教育の改善に当たろうとする者にとって見逃すことのできない意義をそこに見る。
 高校では事例をイメージ豊かに十分に生徒に与えるよりは、語句の定義を指導することが多い。曰く「○○○とは△△△である」とことばのみで指導し、生徒がことばで反すうすれば安心する。この方法の最大の欠点は、覚えた定義が生徒の現実の"生"とどうかかわるかがいっこうに明らかにされないことである。学問の成果を無批判に教材化する結果である。
 しかし、あるべき社会科はさまざまな事象を豊かに生徒に示し、その中から自己の生き方とかかわる課題を把握させ、その課題解決に必要な思考力や判断力を身につけさせることである。そもそも学問の根底には社会や人間どうあるべきかといった実践的主体的な関心がある。この関心なり課題意識こそ身につけさせるものである。要するに問題状況があってその現実を処理するときに学問の発想や成果が応用されるべきなのである。
 本校の例でいえば、中項目「現代の経済社会と国民福祉」では、定義の指導は背後にしりぞけ、表面に自動車産業を典型教材にし、この学習をとおして大量生産方式、市場機構と政府のはたらき、その他を具体的に指導できるようにした。
 ところで、前に引用した『解説』の発想は「現代社会」だけのもではない。第2学年以降の選択科目でも事情は同じだと考える。いやむしろ学習が専門的になればなるほど生き方との関連が配慮されなければならない。
 こう考えてくるとこの科目新設の意義は、社会科全科目にわたることが明らかになる。

5 研修体制の確立を

 「現代社会」新設は、われわれにさまざまな課題を提起している。しかも、その課題は高校教育自体が直面していることと重複している。ここで取り上げた事項はごく限られているし、十分な考察でもない。社会科30年の総括が必要かもしれない。そのためには教師の組織的な取り組みが必要である。なかんずく研修体制の確立が必要である。そのさい、科目エゴの狭い視野からであってはならない。
 いま教師に必要なことは、高校教育全般にかかわるストラテジー(戦略・方略)の確立である。十年一日のごとくの実践ではなく、刻々変化する生徒や社会に焦点をあてた戦略が必要である。現代に生きる人間に生きる課題を発見させることが究極目標でありストラテジーの根底である。教科・科目はストラテジーに規定された戦術である。戦術は多様であり試行錯誤もありうる。しかし、ストラテジーがはっきりしていれば試行は豊かな実りをもたらすだろう。

6 本校の暫定教育課程における社会科履修状況

 表2は、本校の昭和54〜56年度入学生に対する「研究開発」と昭和57年度との狭間における暫定的な教育課程である。57年度以降も実施するものでないが、社会科についてみれば今後の教科のあり方を示している。
 科目の構成に当たっては、「現代社会」とは教材の重複をさけ、「倫理・社会」と「政治・経済」は自由選択にし地理と歴史科目については選択科目数を指定する、という考え方に立っている。最近の各種の調査でもこのような構成があることが確認されている。
 しかし、これはひとつの考え方で、逆に「現代社会」と教材を重複させ指導の徹底をはかる考え方もあろう。
 本校の昭和54年度入学生の選択状況を紹介する。学年生徒数351人中、「倫理・社会」を選択した生徒の割合は、60%(2・3学年の2年間の計、以下同じ)、「政治・経済」では74%、「日本史」では94%、「世界史」では80%、「地理A」では50%となった。
 自由選択にした「倫理・社会」と「政治・経済」の選択者が多いのは、数学・理科などの科目を敬遠したためと考えられる。
 いずれにしても、「現代社会」と選択科目との教材の重複を避けるのか、それともそうするのかは各学校で決定すべき事項と考える。
 また標準単位数より少ない単位ですべての科目を履修させることも考えられるが、教科目標を達成することからみてもそこまで必要はないと考える。社会科教育は、生徒の履修単位数ではかられるではなく何を身につけたかで評価されるべきであろう。

表1、表2省略

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