流 感

白井 重範(『葦牙Journal』No.57)


 急な発熱。全身の関節や筋肉が痛い。眼球の奥にツンとした刺激がある。総合感冒薬を飲んで三日ほど様子を見たが、三八度七分を保ったまま、熱が下がらない。ひどい悪寒が続き、「これはもしや」と思った。めったに行かない医者へ行くと、案の定、インフルエンザだった。特効薬の抗ウイルス剤は、発症後四八時間以内に飲み始めることが条件だそうで、期待薄。ワクチンを打っておかなかったのを心底後悔した。
 インフルエンザ=流行性感冒を略して「流感」というのは、日本も中国も共通だ。それはともかく、自分が罹ったので思いついたのだけれど、この「流感」という言葉、略称であるだけ余計に、あれこれと別の意味合いを付与してみたくなる。なんだか、昨今の世相をうまく言い表す言葉として使えそうな気がしてくる。私個人の感覚として、「流れている」ということが、近頃とみに意識されるからかもしれない。「ゆく川の流れは絶えずして……」だとか、なにがしか仏教的な無常観を連想しかねないが、そういう達観と、達観することへの拒否感との間のせめぎあいも、嫌いなテーマではない。しかし、今の「流れる感じ」はそれとは違う。もっと卑近な、もっと恐ろしい「流れ」現象である。foto©k.y
 現代を「激動の時代」と呼ぶ人は数多い。今は「戦時下」であると言い放つ人もいる。それらの認識に、私はおおむね賛成する。ところで、少し前に戦前戦中の日本人の書いた文章を乱読する機会があって、一九三〇〜四〇年代の人々の意識の有りようについて、少し感じるところがあった。戦後世代のそのまた息子として生まれた私にとっては、伝え聞く第二次大戦の惨禍はただただ恐ろしいものでありつづけていた。当時にあっても、人々は怒り、泣き、笑いながら、日々生活を営んでいたことに思い至らなかった。戦争を知らない世代に、戦争の悲惨さを伝えようと躍起だった年配の小学教師から、私は情報だけはたくさん与えられた。夏休みになると、原爆展や東京大空襲展を見に行くよう勧められたし、戦争をテーマにした本の感想文を書くことも奨励された。戦争体験者から話を聞き、それに感想を付して提出することも何度かやらされた記憶がある。原爆展を見た後は、しばらく立ち直れないほどのショックを受けた。ショックの大きさゆえか、私の戦前と戦中の日本に対するイメージは、少なからず偏ったものになったような気がする。もっとも、小学二年の担任の先生は、すぐれた教師であったと今でも思っている。大空襲を自ら体験し、廃墟からの再出発を誓い、初志を貫徹した。まだご存命かどうかわからないが、近頃軽く扱われ、批判の対象にさえならなくなった感のある「戦後民主主義」の、良い意味での伝道師であった。
 小学校低学年の頃、私はまだ両親と川の字に並んで寝ていた。父親は早く眠ってしまい、母親は遅く寝て早く起きるのが常だった。デパートの特設会場で開催された原爆展を見た日、私は初めてお化け屋敷に行った時のように、いささか興奮し、なぜだか心細く、なかなか寝付けなかった。蒸し暑い晩で、足元の方で扇風機が回っていた。タオルケットをかぶると汗が噴き出し、それが不快で手足を出すと、今度は扇風機の風が薄ら寒く感じられる、そんな夜だった。
 母親は枕元に小さな電気スタンドを置いていて、寝る前によく何か読んでいた。ベストセラー小説が多かったようだが、その夜は様子が違った。音が大きい。いつもの文庫本だったら、ページをめくる音などほとんど気にならなかったはずだ。あるいは、単に私の頭が冴えてしまっていて、小さな音が気になっただけかもしれない。ともかく、眠ろうとしてじっとしているのにも疲れた私は、電気スタンドの方に目を向けた。暗い部屋の中で、そこだけスポットライトに照らされたように、嫌なものが目に入った。昼間見た写真だ。皮膚が熔けて顔の無くなった「お化け」の写真。それを見ている母親の顔は、陰になってよく見えない。私は母親も「のっぺらぼう」になっているような気がして、慌てて眼をつむった。
 その晩、母が見ていたのは、原爆展のパンフレットだった。パンフレットといっても、展示写真のほとんどを収録した図録のようなものではなかったかと思う。翌日、私はパンフレットに一通り目を通して、前の日に見た展示の様子を頭の中で反芻し、それが現実に起こったことだというのを理解した。放射能の恐ろしさ、核兵器が現在もなお発射態勢を整えたまま、世界の各地で息を潜めていることも知った。恐い写真はもう見なくても済むように、私はそれを母親の知らない場所、本棚の裏に隠してしまった。内緒で隠したものだから、かえってその存在が気になってならず、パンフレットが家の中にあること自体が嫌になった。数ヶ月後、掃除の折にでも母が本棚の裏に落ちているのを見つけたのだろう、パンフレットは他の本と一緒に、本棚に並べられていた。私は夜一人でその一角に行くのが嫌だった。
 いくら恐いといっても、子供のことだ。毎日新しいことをたくさん覚えるし、喜怒哀楽にまみれて過ごすうちに、やがて原爆展のことなど思い出さなくなった。小さな一人部屋をあてがわれて、一人で寝るようになっても、夜が恐いなどということはなかった。しかし、確か小学校高学年の頃だったか、どこかの国のミサイルが誤発射され、日本の頭上を横切るという事件が報道された。日本に落ちるなどということはまずないだろうとのことで、事実ミサイルは数日して太平洋上に落ちたのだったと思うが、私はテレビのニュースを見ながら一人で震えていた。声が詰まって、身体が硬直するようだった。論理的思考は完全に停止して、後から後から涙が出てくる。今日遊んだ友達の顔、先生の顔、両親の顔がみな「のっぺらぼう」になり、密かに思いを寄せる女の子の姿が、一瞬の閃光とともに醜く焼けただれる様子が見えた気がした。そして、両手の先から熔けた皮膚をぶら下げながら、誰だか分からなくなってしまった大勢の人々が、声にならない声を発して、焼け野原を行列しているのを見たように思った。
 さらに数年して、チェルノブイリ原発の事故が大々的に報じられた際にも、表には出さなかったが、内心ビクビクしていた。何がどう恐いのか、自分にもよく分からなかった。理屈でなく、生理的な恐怖に身がすくむのだった。中学生頃まで、高熱を出すたびにうなされる私に、両親はずいぶんと困惑したようだが、そのとき私が見ていたのも、話は込み入って複雑になり、登場する人々や背景などは変わっても、ミサイル事件の時と似たような情景だった。熱のせいで、抑制が効かなくなった私の空想は、肉体的苦痛さえ伴って私を襲った。眼を開けたまま「熱い、身体が熔ける」と叫ぶ私を、母親はオロオロしながらなだめていた。私に懸命に語りかけようとする現実の母の姿も見えてはいるのだが、恐ろしげな空想の方が現実味を持っていて、そちら側に引きずり込まれそうになる。熱が下がっても、空想の記憶はいつも鮮明に残り、私はこれを自分の癖として受け入れた。同時に、戦中の社会についてあれこれ考えるのは一切やめてしまった。
 成人後一〇年もたって、さすがにそのような癖はなくなった。高熱を出したとて、そうそううなされることもない。そして、子供の頃の私が異常なほど恐れたものについて、日頃から、比較的冷静に考えるようになった。親しい人々が無惨な姿に変わり果て、自分自身が消えて無くなるということは、多くの天災や人災につきものであり、放射能被害だけが原因ではない。また、とりわけ戦争のような大規模な人災の場合、惨禍は突如やって来はしない。徐々に徐々に押し寄せる。眼を掩いたくなるような地獄絵図の到来は、そのクライマックスにすぎないのではないかということも、最近思うようになった。クライマックス自体が長く続く場合もあろうし、一概には言えないけれども、そのやって来る足音は、耳をすませば聞こえるものではなかろうか。今の社会を「戦時下」だと呼ぶ人々には、その足音が確実に聞こえている。一方、足音を聞こえなくするために、騒音をまくし立てる人々がいる。耳障りの良い騒音は、感性を麻痺させる。麻痺した感性は、惨禍が到来するまで、その存在に気づくことはない。
 耳障りの良い騒音という言い方は、やや矛盾していよう。だが、そう言うのが一番妥当な気がする。耳障りの良くない言葉は、むしろ真実であることが多い。真実を糖衣でくるんで、耳障りを良くしたときに、それは感性を麻痺させる騒音になる。麻痺したら最後、関心は薄れ、抵抗する勇気も気力も奪われ、なすがまま、流れていくほかなくなる。実際私たちは、すでにかなりの程度流されてしまってはいないだろうか。政府がレトリックで民衆をごまかすようになったら、かなり重症だと思っていい。普段から、言葉遣いには気をつけて、「痛くもない腹」を探られないようにするのが政治家というものかもしれないが、彼らのレトリックが人口に膾炙し、大多数の人が騒音を騒音と思わず、警鐘を鳴らす人がメディアから消えたとき、おそらく惨禍の到来は、もう目の前に迫っていることだろう。
 平凡に見える風景の中、毎日の生活の中に、惨禍の足音を聴くために、私はクライマックスの恐怖、「黙示録」「終末」の光景を思い描くことを、もう一度習い性にしてもいいと思っている。足音は、おそらく日常の中にしか響かない。恐怖は日常と切り離されてはおらず、その延長線上にこそ存在するのだ。前世紀三〇〜四〇年代にもそうだったように、惨禍の直前にも人々の営みはあり、贅沢は敵であったにせよ、人が人として生活していたという事実は、現在とそう大きく変わるものではない。
 冷戦が終結して以降、核戦争の恐怖が以前ほど語られなくなった。拮抗した二つの勢力による最終戦争という図式が、いつの間にか「正義」の「悪」に対する殲滅作戦へと姿を変え、その裏には圧倒的軍事力に裏付けられた、鼻持ちならない「勝利の方程式」がほの見える。「流感」には特効薬があるが、それも発症後四八時間以内に飲まねばならない。罹患を回避する方法は、ワクチンを接種する以外ないらしい。思考の流れ現象を止める特効薬はなく、惨禍が惨禍として認識された時にはすでに手遅れだ。本当の地獄絵図へのタイムリミットは、おそらく間近に迫りつつある。