死刑と天皇と通信簿

 
死刑制度を議論する掲示板 旧掲示板

天皇制を議論する掲示板

外海を埋め立てて巨大島を建設し、すべての刑務所を集中し、産業廃棄物埋立、海洋浄化、リサイクル、発電基地とする計画を推進しよう

 死刑制度は人間をダメにする  『死刑執行は国家が行う』のウソ

 死刑制度は犯罪者が反省して立ち直り、社会に復帰することを絶対に認めず、殺害する制度だ。
 それは無実の罪だった場合でも二度と取り返しのつかない人殺しの刑である。殺された者は二度と帰ってこない。取り返しのつかない犯罪の上に、死刑執行者の罪を重ねようというのだろうか?
 「人は人を殺してはいけない」  「だから、人殺しを殺す」 という理屈は、幼稚園児にも通用しない。 この屁理屈について、良心の痛みを感じないように正当化する理屈が多く語られているが詭弁にすぎない。

 先進国といわれる歴史の長い高度国家のなかで、死刑制度を残している国は、日本・アメリカ(一部の州)など、ごく少数にすぎない。ユーロ諸国、オセアニア諸国、カナダなど大部分では、とっくに廃止している。
 死刑制度の有無は民主主義のバロメータである。本当の民主主義国家に死刑制度は存在しない。それが存在する国は、権力が国民を恐怖で支配し、特権階級の利益に奉仕する独裁体制の国家である。民衆のための国家ではなく、支配者のための国家なのだ。だから、民主主義の存在しない、北朝鮮・中国・イスラム諸国などで苛酷な死刑制度が実行されている。日本もまた民主主義が薄い国なのだ。

 刑罰とはいえ、死刑殺人は執行官の心をも深く傷つける。それを行うのは、我々と同じ人間である。だが、『死刑執行は国家が行う、人でない機構が行うのだから問題ない?』 という主張する者がいる。まずは、この理屈が真っ赤なウソであることを明らかにしよう。国家って何なの?

 ジョン・レノンのイマジンを思い出そう。 「想像してごらん ♪ 本当は国なんて、どこにもないんだよ♪」
  それは心のなかにだけある幻なんだ。
 幻でなく、本当にあるものは何? それは、地球という大自然、無限に過ぎてゆく時間、次々に死に絶え、生まれくる生命生態系、そして、生まれきて、老いさらばえ、死にゆく人の男女だけだ。
 われわれ人間、そして生物すべては、みんな宇宙船・地球号の平等な乗組員じゃないか。

 地球には本当は国境などない。現在の人類が定着して20万年、国境なんて誰かが勝手に決めたのは、わずか数千年前のこと.
その頃、人類の社会には食べ物を有利に得るための部族の争いがあった。生活といえば、食べること、子供をつくり、育てること、そして争うことだった。争いの規模は大きくなり、集団化し、やがて縄張りを定めて争わないようにする知恵が生まれた。それが国家のはじまりだった。戦わないですむ縄張りが国境となった。でも、それは人間社会だけの約束事にすぎない。

 動物たちは、国境など目もくれず行き来している。今では人間の活動規模が巨大になり、国境の縄張りでは収まらなくなっている。例えば、原発で放射能が漏れれば、地球全部を汚染する。特定の人たちが金儲けのために化石燃料を利用すれば、地球全体が困ることになる。こんな時代だから、人間のケチな約束事にすぎない国家にこだわっていては、人類全部が滅んでしまう。
 
 まるで裸の王様の見えない衣服のような国境線に夢中になって、愛国心を叫び、自分たちだけが豊かな、強い国家を望み、領土拡大を要求する人たちは、どんな人? 愛国心を主張する人たちは死刑が大好きだ。「国なんて、ないんだよ」 と言う人々が面白くない。次々に殺してしまう。領土拡大の大好きなソ連・ロシアでは戦後、少なくとも数百万人が国家に従わないという理由で殺された(6千万人という説もある)そうだ。
 国家なんてケチなことを言っていてはいけない時代なのに、国を絶対の存在と信じ、自国の利益だけ確保することに血眼になり、国を支配しているつもりで幻に支配されている人たちは、どんな人だか考えてみよう。

 国家とは、地球上の特定の地域に長く住んでいる一群の人たちが、法というルールを勝手につくり、住民たちに対し、強制力のある支配を行っているだけのこと。それを、みんなが国と信じているだけのことだ。
 それは、「今日から国はありません」と、みんなで決めた瞬間に消失するような薄っぺらなものだ。
 我々は、まだ最近、不滅とも思えた巨大国家、ソ連、そして東ドイツルーマニアの、あまりにもあっけない崩壊を見た。未来を閉ざす鋼鉄の城のように思えたベルリンの壁が、わずか数日で消えた。莫大な民衆を殺害し、冷酷に支配した権力も、数日で崩壊した。国家は想像以上に脆いものだった。アメリカや日本でも同じことだ。 みんなが「もう国家なんてイヤだ!」と叫んだ、その瞬間に消滅するのだ。

 「国家が、こんなに薄っぺらだったなんて、どうして気づかなかったんだ!」
 国家は、というより、国家権力を握った人たちは、ときに恐ろしい組織を使って人の財産を奪ったり、拘束したり、殺したりする。だから、みんな国家は怖いものと思いこみ、恐怖心から理不尽な命令にも従うようになる。
 みんな、国家というものは個人の力では、どうにもならない巨大な存在と思いこまされてきた。
 普通の人ではできないこと、宇宙ロケットや、原子力発電所、巨大なダムも、巨大な神殿も、軍隊も、国家は作り出す。自分にできないことができる国家、それは凄いもの、それは恐ろしいもの、それは従わなければならない巨大な力。
 「反抗すれば殺される!」
 これこそ、実は、みんなが国家を実在する強固なものと勘違いしてしまう本当の理由である。だから、国家は国民を、いつの時代でも必ず、巨大な建築物で威圧し、軍と死刑の恐怖で支配しようとする。国民を恐怖心によって臆病な愚民にしてしまう。国家は怖いものだから、黙って従おうと考えるようになる。それが死刑制度を維持する本当の理由なのだ。

 国家が、とてもやさしいものだったら、誰も従う者はいなくなる。傲慢な輩は傍若無人の振る舞い、力の強い者が社会を支配してしまう。これでは社会の秩序ルールは壊れてしまう。
 そうなれば弱い立場の人たちが、とても困るようになる。だから、少しぐらいの不満を我慢しても、みんなの共通のルールである、法治国家を存続させることに反対しないという意見が、国家を生きながらえさせている理由だろう。
 でも、本当にそうだろうか? 

 この社会に不満を持ち、社会を壊そうとする者たち、それは理由もなしにそうなったのか?
 法務省は死刑制度擁護の説明で 「犯罪者の脳には異常があり、そんな遺伝子を持つ者は淘汰しなければならない」
 という意味の説明をしたことがある。
 犯罪を繰り返す者は本人に原因があるのだろうか? 淘汰し、殺さなければならないのか?
 ならば、今日、これほどの犯罪の激増、これまで犯罪とは無縁だった普通の青少年が万引きやひったくりを行うようになった現実を見れば、彼らは、すべて淘汰しなければならないことになる。日本国民全員が淘汰されなければいけない。
 人は必ず過ちを犯すものだから。

 少しでも知恵のある人なら、決してそうは思わない。
 犯罪が増える原因は、個人の脳の問題ではない。みんなが毎日、辛い苦しい思いをする希望のない社会では、社会をよくしようとする意志よりも、投げやりになって社会を壊してしまおうとする意志が強くなるからだ。つまり、社会が間違っているからなのだ。

 自分の欲求のおもむくまま他人を顧みず、みんなで決めたルールを守らないで、迷惑をかける人たち。彼らは、どうして、そんなことをするのか、考えたことがあるだろうか?
 彼らがひどいことをして、みんなに迷惑をかけた結果だけを見て、罰を与えて無理矢理抑えようとしても、彼らの暴発の原因をなくさなければ、いつまでも暴発・迷惑は繰り返される。暴発した者を殺しても、原因を解決しなければ、また別の人が暴発することに気づくべきじゃないか?

 人は困ったことを解決するのに、結果だけを見て、どんなに怒っても、決して解決しないことを知っている。なぜそうなったのか? 原因を考え、それを解決して、はじめて困ったことは克服できる。これを知恵と言い、理性というのだ。
 もし人に知恵があるならば、社会のなかで困ったことをする人たちが、なぜそうなったのか原因を確かめ、どうすればひどいことをしなくなるのか考えなければいけない。こうして、はじめて問題は解決するのだ。
 この意味で、死刑制度は、犯罪の原因を考えず、犯罪者を罰し、淘汰してしまう知恵のないやり方だ。間違った社会を治そうとしないなら、次々に犯罪者が出てきて、どれだけ処刑しても間に合わない。

 実際に、日本では、戦後、数百名の人が絞首刑で殺されたが、どれほど殺しても死刑囚は増えるばかりじゃないか。それは政府のやり方に知恵がないからだ。自分たちの間違いを正当化するばかりで改めようとせず、誤った政治が原因で産み出された犯罪を悪と決めつけ、捕まえ、殺してしまう。
 原因が解決されないまま犯罪は次々に増えてゆく。これが正しいやり方だというのだろうか?
 困ったことをする人たちを罰し、ときに殺してしまってすませるなら、いつまでも問題は解決せず、いつまでも人を殺し続けなければならない。日本政府は、いったいどれだけ殺し続けるつもりなんだ? 怒った人を死刑の恐怖で従わせられると思っているのか?

 「北風と太陽」という童話がある。
 旅人の厚いマントを脱がせようと、太陽と北風が競争した。北風は冷たい風を、凄い勢いで吹かせたが、旅人はマントを飛ばされないように、しっかりと抱え決して脱ごうとしなかった。太陽は、暖かい日差しで旅人を暖め、マントを脱がせることに成功した。
 社会のなかで、不満を抱いて暴発する人たちを、懲らしめ罰して、無理矢理やめさせようとするやり方はどちら? 北風の考えだ。だが、それでは決して不満の暴発を解決できない。不満の原因を確かめ、不満を持たないように社会を変えてゆくやり方が太陽の考えだ。われわれは、どちらを選ぶべきか? 死刑制度は、どちらなのか?

 さて、遠回りしたが、「死刑は国家という機構が行う」 という理屈で死刑殺人が許されるのか?
 国家、それは一人一人の人間の集まりであって、死刑執行者もまた同じ人である。どんな官職にあっても、個人としての責任を免れることはできない。死刑執行者もまた殺人犯になるのだ。
 かつて、日本が太平洋戦争に負けてからの戦争裁判で、上官の命令に従って捕虜を殺した兵士たちが絞首刑にされた。「私は貝になりたい」というドラマに、ひとつの経過が描かれている。
 「国の命令、上官の命令」という理屈は通用しなかった。オウム裁判でも、指導者である松本静夫の命令によって殺人を繰り返した信者たちに死刑判決が下された。
 人は一人の独立した人格だ。すべての人が平等な権利と責任を負っている。日本政府のルールでは死刑執行という代理殺人が許されても、その日本政府が瓦解すれば、それは犯罪として処罰される可能性があることを考えるべきだ。
 人殺しを憎んでも、被害者の代理人として加害者を殺すことのできる者などいない。公的代理殺人がタテマエとして許されても、実際に殺す人の心には「人殺し」という深い傷がつくられる。

 現実問題として、日本の国力なら、遠い無人の離島に死刑相当犯罪者を閉じこめて、社会に害をなさないようにすることは容易なことだ。費用負担をいうなら、囚人に相当の仕事をしてもらい、生きている限り、犯罪によって被害を被った人々に弁償してもらえばよい。それくらいのことは、その気になれば容易に実現する。クソの役にも立たない巨額のダム・河口堰・原発などにそそぎ込む金があるなら、どうして、死刑制度を廃止して、犯罪者を離島で社会貢献させないのか? 

 人を憎むことは、とても苦しいことだ。人を殺すことも、もっと苦しいことだ。人を殺した者が幸福な気分になれることなどありえない。執行官に、無用な苦しみを与える必要がどこにあるのか? そして大勢の死刑支持者たちに、心の重荷をつくりだすこの制度が、どれほど社会を重苦しいものにしているのか気づくべきではないのか?
 死刑制度をなくすことは、人々が自分の優しさを取り戻す機会になる。それは、みんなの重苦しい心を軽くする。
 人は、「他人を殺せ!」と言うとき、実は、自分を殺せと言うに等しい。他人への姿勢は、自分への姿勢なのだ。他人が過ちを犯したとき殺せというなら、自分が過ちを犯したときも、自分を殺さなければならなくなる。
 だが、人は必ず過ちを犯す弱い存在だ。多かれ少なかれ、過ちを犯さない人などいない。他人の過ちに苛酷な姿勢で臨む人は、自分の過ちをも苛酷に処分しなければならなくなる。それは人生を重い苦しみに変えてゆくのだ。 

 人は本来、過ちを犯すようにつくられている

 人は弱い生き物だ。この世に生まれて、何一つ過ちを犯さず、自分に後ろめたいものを持たない人がいるだろうか?
 すべての人が失敗を重ね、他人を妬み、恨み、憎み、怒り、がっかりし、悲しみ、苦しみ、親しみ、愛し、慈しむ心を持っている。だから人間なのだ。人は暴走する。ときどき自分が見えなくなって、我を忘れて暴走し、大きな失敗をする。何もかも、すべてうまくできる人など一人もいない。そんな人、見たことあるかい?
 他人は自分よりよく見える。恵まれて見える。だから、自分の馬鹿さかげんに怒っている人は、他人が自分と同じような過ちを犯しているのを見て、「馬鹿なヤツだ!」と思い、もっと怒り、批判したりする。
 他人の失敗が許せない人、それは、実は、劣等感を抱いている人だ。自分がイヤだ。だが、人の失敗は、もっとイヤだ。他人に甘えようとするクセのある人ほど、他人の失敗が許せなくなるのだ。
 人は追いつめられ、やむにやまれず暴走し、罪を犯すことがある。だが、人が、そのようにつくられていることを知っているなら、自分だって同じことになるかもしれないと思う。
 暴走した人に怒るだけでなく、なぜ暴走したのか調べ、その人が追いつめられた真の原因を見なければならない。そして、その人の誤りを悔い改めさせ、再び楽しい人間関係が回復できるように、その人を指導してやらねばならない。
 これが人間の知恵というものであり、人類の理性というものなのだ。
 暴走の結果だけを見て怒り狂い、「殺せ!」と叫ぶ姿勢に、知恵や理性があるだろうか? それは猿や犬の発想ではないか。我々は長い進化の歴史をもち、長い社会経験を獲得した人間なのだ。人は理性によって未来を獲得するのだ。

 悪事に怒るのはいい。誰でも腹が立つ。だが、結果だけを見て、悪事をもたらした、その原因を見ようとしないなら、もはや、それは人の知恵ではない。犬や猫、馬や鹿の世界だ。そこには進歩は存在しない。
 死刑制度とは何か?
 それは、人を追いつめて悪事を行うに至った原因を見ようとせず、悪事の結果だけに怒り、本当は悔い改めて、以前より、はるかにすばらしい人間に成長し、社会のために尽くしてくれるかもしれない人を殺害・抹殺してしまう制度である。
 それは人の知恵、理性の敗北である。人を愚かにする制度である。クサイものにフタをし、人の進歩を破壊する制度である。
 死刑制度は人間をダメにする。どうしてやめさせないのか?

 みんな、考えよう、死刑は、我々の明日の運命である。
 国家は権力に都合の悪い人を押さえつけ、殺してしまおうとする。社会の間違いを正す行動を、破壊活動として検挙し、みんな死刑にしてしまった例が、この世には無数にある。ソ連で、アルゼンチンで、中国で、北朝鮮で、アメリカで、日本で。
 社会を変革しようとする正義の行動も、権力の手にかかれば強盗殺人にされてしまうことだってある。こうした歴史を知る者は、死刑制度の欺瞞を思い知らされている。
 騙されてはいけない。死刑制度はやめさせなくてはいけない! 
 死刑制度をやめさせることができるなら、我々は、人に対して優しくなれる。自分に対しても優しくなれる。人の失敗も、自分の失敗も許し、改善し、もっとすばらしいものを作ることができる。

 人を責めるものは自分を責める。人を許す者は自分を許す。
 この社会では、人の失敗を責め、批判し、短所を是正しようとする者は必ず失敗する。人は怒られ、矯正できるほど利口ではない。反発し、それから逃げたくなるだけだ。だが、人を誉め、その長所を伸ばそうとする者は必ず成功する。人は他人に認められた嬉しさに、その能力を最大に発揮できるからだ。
 人が過ちを犯したとき、人を責め、制裁するのか、それとも許し、もっとすばらしい成果を得るのか問われているのだ。  


 死刑制度を廃止し、問題を具体的に解決する施設を作ろう

 死刑制度を廃止すれば、「ひどいことをしても殺されずにすむ」 と考えて悪事を重ねる者が出てくる。だから犯罪抑止効果が薄れる。という意見が多いが、それは大きな誤りだ。世界中のどこでも、死刑制度によって凶悪犯罪が抑止されたことは一度もない。
 「悪いことをしたら殺す!」と人を脅して犯罪を抑制しようとしても成功したことは一度もない。日本でも死刑囚が激増し、執行される者も多いが、それで犯罪が少なくなったと思っている人がいるだろうか? 人間は脅されて心から反省するようにはできていない。むしろ逆効果になるのだ。

 欲望を恐怖で閉じこめると、それは神秘の快感が隠れた宝石箱のように思ってしまう人が多い。例えば、少年・児童などの性的虐待を防止する立場の、学校長・教育委員・警察署長などの立場の人は、タテマエで犯罪防止を言いながら、心の奥底に子供たちへの性的虐待の憧れをため込んでゆく。そこに、まばゆい快感が隠れていると信じるようになる。
 「いつか内緒で自分もしてみたい」と思い、そんな機会が見つかると実行してしまう。権力で悪事を抑止する立場の人たちは、必ず、悪事に憧れるようになる。そして内緒で実行し、バレて捕まる人たちのなんと多いことだろう。
 これは、人の欲望を死刑をはじめとする強制力で抑止しようとする考えが、根本的に間違っていることに気づくべきだ。

 人の心を、権力・強制力によってタテマエで抑えようとすれば、ホンネは反発し、逆効果になる。それが人というものだ。 「悪事を働けば殺される」 と言われたなら、人のホンネは、逆に悪事に憧れるようになるのだ。
 本当に悪事を抑止したいのなら、ホンネの世界で、自分が納得しなければならない。「やってはいけない」ではなく、「やらなくてもいい」と納得することだけが、悪事を起こさない理由になるのだ。
 この社会から法の裁きを取り去ったなら社会は大混乱に陥り、強いヤツが好き勝手にし、弱い者は殺されてしまうのだろうか? 
 決してそうはならない。必要なものが残り、無用なものは消えるのだ。
 子供たちへの性的虐待を好きなようにさせれば、みんな被害を受けるだろうか?
 たぶん、事態は逆になるだろう。タテマエの抑制がなくなれば、本当に必要なことだけが残る。子供たちは性の対象ではなく、愛の対象になるだろう。世界中の、権力によるタテマエ支配の及ばない未開国の事例を見てみるがいい。

 さて、それでは、死刑制度も法も警察力も廃止すれば、必要なものだけが残る? というわけにはいかない。
 現実問題、いきなり司法や刑罰を廃止することはできない。社会の誤りが正され、みんなの苦しみが減れば確実に犯罪は減ってゆく。しかし、すぐになくなるわけではない。社会が完全によくなるまで、犯罪は長い間続くだろう。
 遠い将来、法律や警察力を必要としない、心暖かい社会をめざすとしても、当分のあいだ法も警察も刑務所も必要だ。だが、効果のない誤ったやり方は正されなければならない。

 犯罪をもたらした真の原因を見ずに、結果だけを見て、責め、制裁するやり方では、ますます犯罪を増やすばかりで犯罪をやめさせることは決してできない。だから、まず人を追いつめて、罪を犯させた原因を追及し、解決しなければならない。
 しかし、人を殺したくなるクセのついてしまった人を野放しにはできない。彼を閉じこめ、教育し、反省させ、更正させなければならない。だが、これまでのように凶悪犯を殺してしまう必要はない。

 簡単には逃げ出せないように、離島に閉じこめ、エネルギーやリサイクルなどの仕事で、長い時間、社会に貢献しながら反省してもらう必要があるだろう。二度と社会に害をなさないと、みんなが納得するまで、そこで学び働いてもらえばよい。
 ちょうど、日本の土地では廃棄物の埋め立て場が不足し、とても困っている。だから無人の離島を中心に大規模な埋め立て地を設け、産業廃棄物を集中し、廃物をリサイクルする基地にすればよい。
 そこに全国の刑務所を集中する。一カ所に集中すれば人々の関心も集中し、刑務体験ツアーなども行えば、刑務官による虐待もできなくなるだろう。そして、廃物リサイクルと、太陽・波濤・風力などのエネルギー基地とし、具体的に社会に貢献してもらえばいい。懲役刑囚は、毎日、社会貢献することで社会復帰への自信をつけることもでき、社会に戻る希望が生まれ、更正の意欲も増す。
 死刑相当囚も、簡単には出せないが、完全に復帰の目を摘む必要はない。少なくとも20〜30年のあいだ、そこで具体的に社会貢献を積み重ねることで、数万人の社会復帰嘆願署名が集まれば出してあげればよい。

 この事業は極めて巨大なもので、5キロ四方ほどの埋め立て地が必要だ。それは最後の国家プロジェクトとなり、完成まで数十年の歳月が必要だ。現在、税金浪費、利権のムダなダム・道路など公共事業に携わっている人たちを無理なく、本来の農業者などに吸収してゆく経済シフト・ソフトランディングの中核事業とすることができる。