URIAH HEEP 1971-1975
12/08/23 Updated

URIAH HEEP #5 / Mark Clarke / Lee Kerslake / The Wizard / URIAH HEEP #6 / Gary Thain / DEMONS AND WIZARDS / THE MAGICIAN'S BIRTHDAY / LIVE January 1973 / SWEET FREEDOM / KING BISCUIT FLOWER HOUR / WONDERWORLD / LIVE AT SHEPPERTON '74 / Return To Fantasy Sessions


URIAH HEEP #5 (1971/12-1972/01)
Mick Box
(guitars), David Byron (vocals), Mark Clarke (bass,vocals), Lee Kerslake (drums), Ken Hensley (keyboards,guitars,vocals)

Paul Newton の替わりのベーシストには 1971年11月20日の Dunelm公演で Paulの代役を務めたことのある COLOSSEUMMark Clarke が正式加入した。COLOSSEUM は丁度解散をして間もない頃で、各メンバーが去就を余儀なくされていた為、Mark に白羽の矢がたったというわけである。

Mark Clarke Mark Clarke page (工事中)

また、Ken Hensley がバンドにずっと欲しかった Lee Kerslake をようやく仲間に入れることが出来た。 Lee の所属していた NATIONAL HEAD BAND の活動状況が思わしくなかったことと、Paul Newtonの解雇ついでに Iain Clark も解雇したからである。

Lee Kerslake → Lee Kerslake page (工事中)

Mark Clarke と Lee Kerslake は二人とも歌えるミュージシャンであり、コーラスを重視する HEEP にとって、最高の "歌えるリズム・セクション" がここに完成したのであった。

UH#5 は 1971年12月1日の Public Halls公演から初陣、MAN をサポートアクトにしたイギリス・ツアー、年末年始にかけてイタリア・ツアー、1972年には DEEP PURPLE や Buddy Miles と一緒に HEEPにとって2度目のアメリカ・ツアーを敢行した(場所によって CACTUS)。


The Wizard / Why

シングル "The Wizard / Why" は、1971年12月頃に録音されたというデータが残っている、当時発売されたシングルのジャケットには UH#5 の写真が使われており、この2曲におけるベース・プレイは Mark Clarke であることが裏付けられる。

"The Wizard" は、中間部のヴォーカル・パート "Why don't we listen to the (voices in our hearts...)" などでリード・ヴォーカルを歌ったことを Mark 自身が認めている。1972年3月から録音されたアルバム『DEMONS AND WIZARDS』 に収録された "The Wizard" は シングルのテイクと同じだと思うが、まさか Gary Thain がベースをオーバー・ダビングし、Mark のヴォーカル・パートのみを活かしたテイク...なぁんてことはあるまいて。

"Why"は『THE LANSDOWNE TAPES』 に収録された Paul Newton のベースによる "Why" とは違うベースラインであり、このシングルのテイクは Paul 自身が本人の演奏では無いことを公言している。Mark のヘヴィなベースラインは、彼が後に参加した TEMPEST での荒々しいベース奏法に繋がるものであり、このシングルの"Why"は Mark自身のベースであることが判る。

しかし、Mark Clarke は 1972年1月31日の State Collage公演をもって HEEPから脱退した。音楽的に合わないことを理由にバンドを去ったのである...


URIAH HEEP #6 (1972/02-1975/01)
Mick Box
(guitars), David Byron (vocals), Gary Thain (bass), Lee Kerslake (drums), Ken Hensley (keyboards,guitars,vocals)

Mark Clarke の後任はすぐに決まった。KEEF HARTLEY BAND に在籍していた Gary Thain である。Gary Thain は 1967年に Keef Hartley (drums)、FREE の Paul Rodgers (vocals) & Paul Kossoff (guitars) との4人でセッションをしたことがあり、Ken Hensley が初ソロ・アルバム用に1971年冬に Paul Kossoff らと接触した時に Gary を紹介されたのかもしれない(憶測)。また Mark Clarke が Gary Thain とは友人であり、メンバーチェンジの素早さからすると Markからの紹介もあったと思われる。

Gary Thain → Gary Thain page (工事中)

Gary Thain は KEEF HARTLEY BAND で1曲リード・ヴォーカルを歌っているが、決してリード・ヴォーカリストでは無かった。しかし、ヘヴィでダークな当時の HEEPが メロディアスでファンタジックな HEEPへと変わっていく時期だったこともあって、まるでベースが歌を奏でているかのようなメロディアスなベースを弾く Garyは HEEPにとってうってつけの人材であった。

Gary Thain が加入してからの HEEPの初ステージは、1972年2月2日のロサンゼルス Whiskey A Go Go公演である。1972年2月中はアメリカ及びカナダ・ツアーを敢行。

日本では 1972年3月10日にようやく日本コロムビアから UH#4 によるアルバム 『対自核 (LOOK AT YOURSELF)』 とシングル 「対自核 (Look At Yourself)」 がリリースされたが、時すでにメンツは UH#6 となっていた(笑)


DEMONS AND WIZARDS

1972年3月〜4月にかけて 4thアルバム 『DEMONS AND WIZARDS』 を録音。アルバム・ジャケットには Roger Dean を起用し、まさに HEEPのサウンドとアルバムジャケットが一体となったかのようなファンタジー・ロックを追究していくことに!

1972年4月〜5月初旬にかけてはドイツで数回のコンサート。1972年5月3日の Munster公演からは "Rock 'N' Roll Medley" を取り入れている。セットリストは次のとおり → Bird Of Prey / I Wanna Be Free / Easy Livin' / July Morning / Tears In My Eyes / Rainbow Demon / Improvisation / The Wizard / Gypsy / Look At Yourself / Lady In Black / Love Machine / Rock 'N' Roll Medley

1972年5月12日からはイギリス・ツアーを開始。1972年5月19日には 『DEMONS AND WIZARDS』 がイギリスでリリースされた (アメリカ盤も同時期)。

イギリス・ツアーは 1972年6月19日まで続き、6月23日〜8月5日にかけては3度目のアメリカ・ツアーを敢行した。このツアーで HEEPは、FAMILY, ATOMIC ROOSTER などと一緒に共演している。中でも 6月の Chicago公演でトリの T.REX を完全に食ってしまったらしく、当時の HEEP人気の凄まじさを物語るエピソードであった。

日本コロムビアは 1972年6月25日にようやく 『ソールズベリー (SALISBULY)』 をリリース、シングル 「7月の朝 (July Morning)」 も6月にリリース。

1972年8月11日はアメリカの Minneapolisにある Dick Clark Studio (Bijou Theater) でTV録画。Introduction / July Morning / Interview / Easy Livin' という内容が録画されたが、この時の映像は 2004年になってリリースされた DVD 『CLASSIC HEEP LIVE FROM THE BYRON ERA』 の中で見ることが出来る。

1972年8月25日に新作 『悪魔と魔法使い (DEMONS AND WIZARDS)』 の日本盤をリリース、そして 9月になってシングル 「安息の日々 (Easy Livin')」 をリリース。9月25日に 『ユーライア・ヒープ・ファースト・アルバム (VERY 'EAVY, VERY 'UMBLE)』 の再発盤をリリースし、ようやくこれまでのアルバムが日本盤で全て揃えられた。


THE MAGICIAN'S BIRTHDAY

前作の録音から5ヶ月しか経たぬ 1972年9月〜10月にかけて 5thアルバムを録音(当時のアルバム・サイクルってスゴイ!)。1972年9月の時点で『FRIDAY:THE WIZARD'S BIRTHDAY』 と呼ばれていたアルバム・タイトルは、結果的に 『THE MAGICIAN'S BIRTHDAY』 となった。

レコーディング終了後は 10月から SAVOY BROWN らと 3週間のアメリカ・ツアー。

働き者の Ken Hensley は 11月に Lansdowne Studioに戻り、Ken自身のソロ・アルバム 『PROUD WORDS ON A DUSTY SHELF』 の録音を Lee Kerslake, Gary Thain, Denny Ball の協力を得て録音。既にブッキングされていた 1973年1月以降の HEEPのツアーまでにどうしてもソロ・アルバムを作り上げなければならなかったが、幸い 1971年11月に Paul Kossoff らとのセッションで試していた楽曲もあったので、すぐにアルバムは完成出来た。

1972年11月に イギリスとアメリカで 『THE MAGICIAN'S BIRTHDAY』 をリリース。1972年11月〜12月初旬にかけては、APRIL WINE をサポートにカナダ・ツアーを無難にこなした。

また、日本では少し遅れて 1972年12月10日にアルバム 『魔の饗宴 (THE MAGICIAN'S BIRTHDAY)』 とシングル 「サンライズ (Sunrise)」 がリリースされた。1972年中にリリースされた HEEPの国内盤アルバム&シングルは全部で9枚にもなり、この大々的な営業戦略と人気の拍車が HEEP来日の足掛かりとなっていく。


LIVE January 1973

1973年1月のイギリス・ツアーはオフィシャル・レコーディングされ、アルバム 『LIVE January 1973』 としてリリースされることになった。

1973年2月のドイツ・ツアーでは、Mick Box がインフルエンザにかかり休養を余儀なくされたため、Ken Hensley が全てのギターを担当し、4人でステージを務めたという珍事もあった。

そして、何と言っても 1973年3月16日〜3月21日に "初の日本ツアー" を行なってくれたことが我々日本人にとって嬉しい出来事だった!!! Gary Thain はロンドン滞在中に出会った美香さんと一緒に来日。
来日記念盤として 1973年2月にシングル
「魔法使い (The Wizard)」 を急遽リリース、同月には 『SPECIAL DJ COPY OF URIAH HEEP』 なる放送局用非売品のベストLPも作られた。

Japan Tour 1973
1973/03/16 (Fri) 18:30- Nippon Budokan, Tokyo
1973/03/17 (Sat) 18:30- Nagoyashi Kokaido, Nagoya
1973/03/19 (Mon) 18:30- Nagoyashi Kokaido, Nagoya
1973/03/20 (Tue) 18:30- Koseinenkin Hall, Osaka
1973/03/21 (Wed) 14:00- Koseinenkin Hall, Osaka

日本へは1973年3月12日午後に日本の土を踏んだ URIAH HEEP はヒルトン・ホテルに宿泊。3月14日にはヒルトン・ホテルでのインタビューや日本のレコード会社から記念のゴールド・ディスクが贈られている。(ニューオータニの庭園での写真は撮影のためだけの来園か?)

日本ツアーのセット・リストは次のとおり → Introduction / Sunrise / Sweet Lorraine / Traveller In Time / Easy Livin' / July Morning / Gypsy / Tears In My Eyes / Circle Of Hands / Look At Yourself / The Magician's Birthday / Love Machine / Rock 'N' Roll Medley

日本武道館でのライヴは録画され、テレビでも数曲放送された。

成毛 滋氏の弁 → 「Heepの73年のツアーの時は僕はロンドンに居たので見ていませんが、その後ロンドンに帰って来たGaryと美香が「ひどい目に遭った」と言ってカンカンに怒っていました。あの時の日本の「呼び屋」はウドーやキョードーと違ってロックバンドというものを全く知らないド素人で、しかもちゃんと英語がしゃべれる人がいなくて話もできず、どうしようもなかったそうです。とにかくホテルやホールへの送迎から、何から何まで不手際だらけでまともにリハーサルもできず、本番ではステージのフォールドバック・モニターが全く聴こえず、コーラスをやろうにもみんな自分の音がとれなくて演奏はボロボロだったし、その上本番直前にメンバーの奥さん達をバックステージから追い出そうとし、「我々は家族だ」と言っても英語が分からず強引に追い出そうとするので、ついにMick Boxがスタッフをブン殴ったそうです。こんなちょうしだったのでみんな頭に来てとても音楽を演奏できるような状態ではなく、美香も「日本での演奏はまるでヒープとは思えなかった」と怒りまくっていました。その後のロンドン公演には僕も見に行きましたが、素晴らしい演奏をしていましたから、日本のいい加減な呼び屋にあたってしまったのが不運だったようです。大体当時の日本の呼び屋は客席に向けるP.A.は立派なものを揃えても、フォールドバック・モニターは何の為に要るのか知らないのが殆どで、Led ZeppelinやDeep Purpleのようなバンドと違い、Heepのようにコーラスを売り物にしたバンドはフォールドバック・モニターを聴いて音程やバランスを掴みますから、フォールドバック・モニターがお粗末だと「音が悪い」のではなく、「演奏全体」がメチャクチャになってしまうんです。例えて言えばプロ野球選手に「目かくしをして試合してみろ」と言うようなもので、イギリスのコンサートでは客席へ向けるP.A.よりもフォールドバック・モニターの方にお金をかけますから、普段そういうステージで演奏しているバンドが日本へ行くとフォールドバック・モニターのあまりのお粗末さに演奏できなくなっちゃったりするんです。」

1973年3月に イギリスとアメリカでアルバム 『LIVE January 1973』 をリリース。日本盤 『ユーライア・ヒープ・ライヴ (LIVE January 1973)』 は4月にリリース。ツアーは1973年6月まで続き、イギリス・ドイツ・アメリカ等を回った。1973年7月には『ユーライア・ヒープ・ライヴ』 からのシングル 「ラヴ・マシーン (Love Machine)」 が日本のみでリリースされた。


SWEET FREEDOM

1973年6月〜7月にかけて 6thアルバム 『SWEET FREEDOM』 を録音。本作では 初の海外レコーディングを決行し、Elton John が良く使用していたフランスの Chateau d'Herouville でレコーディングが行なわれた (前作までは Lansdowne Studio でレコーディングを行なっていた)。

1973年8月〜9月はスポットでアメリカやイギリスでコンサートを行った。このうち、8月5日のロンドン Alexandria Palace公演から "Stealin'""Sweet Freedom" は録画されて口パク・プロモーション・ビデオ となった (9月28日の TV "Midnight Special" でオンエア)。

1973年8月25日の Buffalo, New Century でのライヴは次のとおり → Easy Livin' / Sweet Lorraine / Stealin' / July Morning / Dreamer / If I Had The Time / Gypsy / Seven Stars / Sweet Freedom / Look At Yourself / Rock 'N' Roll Medley

1973年8月26日の New York, Hempstead, Hofstra University公演からは "Sweet Lorraine", "Stealin'", "July Morning" が録画され、9月28日にアメリカの TVでオンエアされた。

イギリスでは 1973年9月7日に Bronze Records から 『SWEET FREEDOM』 をリリース。アメリカでは、今までの Mercury Records を離れ、Warner Brothers に契約を移したが、アメリカ盤もイギリス盤とほぼ同時期にりリリースされた。日本では 1973年10月10日にアルバム 『スイート・フリーダム (SWEET FREEDOM)』 と シングル 「ドリーマー (Dreamer)」 をリリース。

1973年10月はしばしの休暇期間、そして 1973年11月8日から12月の年内にかけて 大規模なイギリス・ツアーとベルギーやドイツなどの欧州圏をまわった。


KING BISCUIT FLOWER HOUR

当時 URIAH HEEP は本国イギリス以上にアメリカでブレイクしていたため、アメリカ・ツアーを多くこなした。1974年1月には既に次作 『WONDERWORLD』 のレコーディングを開始していた HEEP であったが、忙しいレコーディングの合間を縫って 1974年1月25日〜2月10日にかけてアメリカ・ウェストコースト・ツアーを行なった。新作にライヴの感触を持ちこみたかったのかもしれない。

このツアーの中で 1974年2月8日に San Diegoで行なわれたライヴは録音され、有名なラジオ・ロック・ショーである "King Biscuit Flower Hour" のために放送された。この時の録音は 1997年6月3日に CD 『KING BISCUIT FLOWER HOUR』 として発表された。ちなみに、この日 HEEP の前座を務めたのは、Rory Gallagher と MANFRED MANN'S EARTH BAND (Chris Slade在籍) であった。

日本では 1974年2月にシングル 「セブンスターズ (Seven Stars)」 リリース。


WONDERWORLD

1974年1月〜3月にかけて 7thアルバム 『WONDERWORLD』 を録音。前作のフランスでの海外レコーディングに続き、今度はドイツのミュンヘンにある Musicland でのレコーディングとなった。ドイツには税法がなかった為に、イギリスでのレコーディングは諦めたのである。

1974年3月15日にはTV放送用ライヴ "Don Kirshner's Rock Concert" の収録。後述→ LIVE AT SHEPPERTON '74 を参照。

「今年は公演回数を少なくし、リハーサルに時間をかけ、今のHEEPの音楽にさらに新しいアイデアを見つけるよう努力したい」と抱負を語ったHEEPは、1974年4月の間に本当に安息の日々に入った。それでもお呼びが掛る HEEPは、1974年5月〜6月にかけて BABE RUTHをサポートアクトにした欧州ツアー をこなす。またフィンランドやスエーデンでの大きなフェスティバルにも数回出演している。

1974年5月17日の Open Air Festival でのセットリストは次のとおり → Stealin' / Suicidal Man / So Tired / Wonderworld / The Easy Road / I Won't Mind / Something Or Nothing / July Morning / Sweet Lorraine / Easy Livin' / Look At Yourself / Gypsy
2曲目以降に怒涛の『Wonderworld』収録曲6曲連続攻撃をしているのが凄い。ツアーではグランド・ピアノをステージに設けており、"The Easy Road"1曲だけの為とはいえ 楽曲重視にかける HEEPの意気込みは凄いものがあった。

日本では 1974年5月に『スイート・フリーダム』 からのシングル第2弾 「セブンスターズ (Seven Stars)」 リリース。また、日本独自のベスト盤 『ベスト・オブ・ユーライア・ヒープ』 もリリース。このベスト盤はタイやマレーシアなどのバッタものベストを除けばオフィシャル・ベスト盤としては最古の物だ。

アルバム 『WONDERWORLD』 は イギリスで 1974年6月7日に Bronze Records からリリース、アメリカでも同時期に Warner Brothers からリリースされた。日本では 1974年7月(8月?)に 『夢幻劇 (WONDERWORLD)』 と シングル 「浮気な瞳 (Something Or Nothing)」 をリリース。

1974年7月〜9月にかけてはアメリカ・ツアー。8月中旬までは MANFRED MANN'S EARTH BAND と AEROSMITH がサポートを務め、8月中旬には AEROSMITH に替わり RUSH が3回サポ゛ートを務めた。9月になると Suzi Quatro がサポートを務めていた。

1974年9月15日のダラスの Moodie Coliseum公演 では アクシデントがあった。"July Morning" を演奏中、Gary Thain がステージ上で感電事故にあってしまい、1mも空中にふっ飛ばされてしまったという。すぐに病院に運ばれたが、Gary はそのまま休養を余儀なくされてしまった。この事故により、9月19日〜9月22日までの残りのアメリカ・ツアー3公演、10月8日〜10月11日までのイギリス・ツアー4公演は中止された。


LIVE AT SHEPPERTON '74

1974年9月30日にはTV放送用ライヴ "Don Kirshner's Rock Concert" が放送された。この模様は Bootleg Video 『DKRC'74』 で永年親しまれたものだが、1985年にビデオ 『EASY LIVIN' : A HISTORY OF URIAH HEEP』 がオフィシャル商品化され、その中でこの『DKRC'74』のクリーンな画質による映像が世に出た。さらに、このD.K.R.C音源は1988年に CD 『LIVE AT SHEPPARTON '74』 としてリリースされている。

このライヴの収録日は永らく不明であった。1997年に 『LIVE AT SHEPPARTON '74』 が Remastered CD盤として再発され、その中のライヴがスタートする前のMCで David Byronが "We're gonna play some songs. We've been recording for a new album" と言っており、『WONDERWORLD』 のレコーディングが終了した1974年3月から1974年5月から始る欧州ツアーとの間に収録された可能性が高いことが判明。この時点で、Mick Box も「WONDERWORLDのツアーに出る前だったと思う。」とファンに答えている。

しかしながら、ファンの間では Gary Thain の映像部分だけがやたらに編集されているので、 1974915日のダラス公演で Gary が感電事故にあった後に復帰して収録された生放送ライヴでは? 」 といった声や、 2002年に出版された Dave Ling 氏のオフィシャル・ヒストリー・ブック『WIZARDS AND DEMONS』 でも 「197499日に Shepparton公演があり、この時のライヴが"DKRC" だ」という記述もあったことから、ファンの間では「一体いつになったら収録日を特定できるんだ?」という不満の声が募っていた。少なくとも2003年頃までは不明であったが、調査により 「1974年3月15日の収録」 であることが判明した。


Gary Thain の感電事故により中断されていたコンサートは、1974年10月14日にイギリスの Munchester公演から再スタート。イギリス・ツアーは10月一杯(11月初旬?)まで続いた。

1974年10月には日本独自のベスト盤 『ザ・ベリー・ベスト・オブ・ユーライア・ヒープ』 をリリース。このベスト盤には Ken Hensleyのソロ・アルバムからの曲も収録されていた。

1974年11月19日〜30日まではオーストラリア・ツアーを敢行。1974年11月25日の Brisbane公演のセットリストは次のとおり → Stealin' / Suicidal Man / Something Or Nothing / Wonderworld / Sweet Freedom / I Won't Mind / July Morning / Easy Livin' / Love Machine / Sweet Lorraine / Little Piece Of Leather / Look At Yourself / Gypsy / Rock 'n' Roll Medley
"Little Piece Of Leather"は "So Nice"同様のインプロ・ナンバー。Garyが何とか復帰してライヴをこなしていた時期にこういった遊びナンバーが演奏出来ていたことは驚きである。

1974年12月12日〜14日は、10月8日〜11日にキャンセルされたイギリス・ツアー4公演のうち、3公演の代替公演。結果的に、12月14日の Oxford - New Theatre公演が Gary Thainのラスト・コンサートとなった。


Return To Fantasy Sessions

1974年11月から新作のレコーディングを予定していた HEEPであったが、オーストラリア・ツアーは、キャンセルされたイギリス・ツアーの代替公演などが追加され、新作のレコーディングは翌年に延期された。余暇を利用して Ken Hensley はソロ・アルバム第2弾 『EAGER TO PLEASE』 の制作に着手した。ベースに元HEEPの Mark Clarkeを迎えている。

1975年1月には URIAH HEEP の次作 『RETURN TO FANTASY』 のデモ制作の為に"Beautiful Dream", "Prima Donna", "Why Did You Go", "Showdown" を録音している。→ "Return To Fantasy" sessions with Gary Thain

この時期は不穏な時期で、David Byron も 1975年2月に 初のソロ・アルバム 『TAKE NO PRISONERS』 の制作を果たしている。David のソロ・アルバムには Gary Thain を除く HEEPの全メンバーが参加しているばかりでなく、やがて Gary Thain の後任になる John Wetton も参加していることから、公式に伝えられている Gary Thain の解雇日付 "1975年1月" は間違いなさそうだ。GaryはURIAH HEEP加入時から過度のドラッグを接種しており、私生活はボロボロ、ステージでは別人のように生き生きと演奏をこなしてはいたものの、HEEPを脱退したがっていたが、遂にバンド側も解雇せざるを得なくなったようである。

かくして、Lee Kerslake が かつてスクール・メイトだった John Wetton に声を掛けた。当時 ROXY MUSIC に助っ人参加していた John Wetton は 1975年3月に 正式に HEEP加入を受諾したのであった。


  • 一方、Gary Thainは...HEEPの解雇宣告、精神安定剤を大量摂取していたが、1975年12月8日、Norwood Grreenにある自宅の風呂場で倒れているのを発見された。Garyは 27歳という若さで他界してしまった。うぅぅぅ...悲しすぎる〜!!

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