URIAH HEEP 1981-1986
12/09/30 Updated

URIAH HEEP #11 / Bob Daisley / John Sinclair / Peter Goalby / URIAH HEEP #11' / Ridge Farm Sessions / ABOMINOG / HEAD FIRST / URIAH HEEP #12 / EQUATOR / GYPSY (LIVE IN LONDON) / Break Up...?


URIAH HEEP #11 (1981/05-1981/07)
Mick Box
(guitars), Lee Kerslake (drums), Bob Daisley (bass), John Sinclair (keyboards), (+ Peter Goalby (vocals))

1981年3月に URIAH HEEP #10 の崩壊があったが、Mick Box は HEEP の存続を決意した。1981年4月には早速メンバー探しが始まった。

最初に声を掛けたのは黄金期 HEEPのメンバー Lee Kerslake であった。David Byronには断られ、Ken Hensleyは脱退し、Gary Thainはすでに故人であることを考えると、頼みの綱は Leeのみぞ!! といったところであったろう。Lee は丁度 UH#10 の崩壊と時期を同じくして 1981年3月に OZZY OSBOURNE BAND から解雇されてしまったので、Lee にとって HEEP復帰は自然な成り行きであった。

Bob Daisley → Bob Daisley page (工事中)

ベーシストには Leeと共に OZZY OSBOURNE BAND を解雇された Bob Daisley が迎えられた。Bob は WIDOWMAKER 時代に HEEP の "High And Mighty" Tour のサポートを努めており、その後 RAINBOW に加わった時にも HEEP が RAINBOWの前座になったりと、なにかと HEEP とは縁のあったベーシストだ。Ozzy のバンドで Lee と一緒に過ごし、Ozzy が Lee を追い出して Tommy Aldridge を雇用しようとしていたことに同意できず、Lee と共に解雇されてしまったのである。(当初は BLIZZARD OF OZZ というメンバー全員が対等な立場の新バンドだったのに、いつのまにか Ozzy Osbourne のバックバンドのような売り出し方になってしまったことについて Randy Rhoads, Bob, Lee の全員が不満を持っていた) Bob は Leeに誘われてそのまま HEEPへ加入したのである。

John Sinclair → John Sinclair page (工事中)

キーボードの John Sinclair もまた HEAVY METAL KIDS 時代に HEEP の "High And Mighty" Tour のサポートを努めていた。John は 1980年に Gary Farr 率いる LION に在籍していたが、活動が軌道に乗らず SAVOY BROWN や Eddie Money らのセッションに参加して生計を立てていたところ Mick Box からお声が掛った。John が Ken Hensley のファンであったこと、さらに John がキーボードのサンプリングなどが得意であり、今までの HEEPにはない新たな可能性を導き出すに相応しい人材であった。

Peter Goalby → Peter Goalby page (工事中)

ヴォーカリストとしては ARGENT のシンガー John Verity も候補に上がったが、John Lawton の後任シンガーのオーディション (結局 John Sloman が選ばれたが) の時に来ていた Peter Goalby に声を掛けることにした。しかしながら、声を掛けられた Peter はその時 TRAPEZE に在籍しており、Peter を含む UH#11 が 1981年5月に集結し、3週間ほど HEEPに加わってリハーサルをしたものの、すでにブッキングされていた TRAPEZE のアメリカ・ツアーに出掛けなければならなかった (この時の TRAPEZE のライヴは 『LIVE IN TEXAS』 としてリリースされた)。

Mick Box は Peter Goalby が TRAPEZE との仕事を終わらせて帰って来るまで HEEP の活動を停止にして待っていたのである。結果的に TRAPEZE は解散。


URIAH HEEP #11' (1981/07-1983/04)
Mick Box
(guitars), Peter Goalby (vocals), Lee Kerslake (drums), Bob Daisley (bass), John Sinclair (keyboards)

Peter Goalby が再び HEEP と合流したのは 1981年7月のことであった。

Ridge Farm Sessions

新生HEEPは早速 Ridge Farm Studios で新作のレコーディングを開始した。BLIZZARD OF OZZ がレコーデイングしたスタジオである。しかしながら、録音された楽曲の出来具合にプロデューサーの Gerry Bron が不満を持ち、結局もう一度最初からレコーディングすることになってしまう。ちなみにこの時の音源がいくつかのCDにて聴ける。→ "Ridge Firm" sessions

1981年秋には HEEP のレコーディングの合間の余暇を利用して Mick Box, Lee Kerslake, Bob Daisley がロンドンで開催された "CHELSEA FOOTBALL CLUB" に出場してサッカーを堪能。他に Ian Gillan (GILLAN), Jon Anderson (YES), Cozy Powell (MSG), Phil Collins (GENESIS), Kevin Riddles (ANGEL WITCH) らも出場し、客席には Mick Box の古い友人 Elton John の姿もあった。

日本では HEEP のレコード契約がまた変わり、今までの東芝EMIからビクター音楽産業へ。1981年10月21日、11月21日など数回にわたって旧作の何枚かが再発リリースされた。


ABOMINOG

甦った URIAH HEEP の 『ABOMINOG』 は、HEEP のエンジニアとして関わっていた Ashley Howe がプロデューサーとなり、1981年10〜12月にかけていつものイギリスの Roundhouce Studio にてレコーディングされた。アルバム収録曲の大半がカヴァー曲という今までにないスタイルでレコーディングされた初のアルバムである。また"Abominog"というタイトルは Bob Daisleyが考えたもので意味不明モード。

1982年2月28日にはアルバムからの先行シングルとして 「ABOMINOG JUNIOR」 がイギリスでリリースされた。このシングルは3曲入りで、Russ Ballard のカヴァー "On The Rebound" をA面とするものであった。

Bob Daisley は Ozzy Osbourne と同じ会計士を使っていたことがキッカケで、1982年3月初旬に通りのパブで Ozzy Osbourne & Sharon Arden と再会した。Bob Daisley & Lee Kerslake はJet Records と Don Arden を相手に印税の支払いと 『DIARY OF A MADMAN 』 に Lee & Bob のクレジットを入れるよう、訴訟を起こしていたが、Sharon は父親の Don と不仲になっていたこともあり、彼らの訴訟に力を貸してくれる約束をした。また、Ozzy Osbourne との関係を修復した Bob は、次の Ozzy の新作は Ozzy, Randy, Bob, Tommy Aldridge, Don Airey のメンツで録音することを約束している。

1982年3月19日にはアルバム 『ABOMINOG』 がイギリスでリリースされた。奇しくもアメリカ・ツアーのために HEEP が渡米したこの日は、OZZY OSBOURNE BAND のギタリスト Randy Rhoads が小型飛行機の事故で他界してしまった日である。Bobは HEEP のアメリカ・ツアーの初日となる Cardisの会場DJから Randyの訃報を聞き、BobとLeeの二人はホテルのバーで泣きながら飲んだという。ちなみに、HEEP のアメリカ・ツアーは 1982年3月21日に Texas, Cardis公演からスタートし、1982年5月3日の Atlanta まで続いたが、"The Wizard"は Peter Goalby のMCで Randy Rhoads に捧げられた。

1982年3月29日 アメリカの Arizona - Phoenix公演におけるセットリストは次のとおり → Intro / Sell Your Soul / Running All Night / Staelin' / Too Scared To Run / The Wizard / July Morning / That's The Way That It Is / Son Of A Bitch / Mick Box Solo / Gypsy / Easy Livin' / Look At Yourself / Children Of The Night
イントロは OZZY OSBOURNE BAND も使っていたオーメンのテーマを使用。"The Wizard" は Randy Rhoads に捧げられて歌われた。"Son Of A Bitch" は シングル 「ABOMINOG JUNIOR」 のB面に収録された曲。"Children Of The Night" は Ridge Farm Sessions でレコーディングされながらもお蔵入りになってしまった曲で、ライヴではアンコールで演奏された。

1982年5月21日にはイギリスでシングルの第2弾として BLISS BAND のカヴァー "That's The Way That It Is" をリリース。またアルバム 『ABOMINOG』 はイギリスのチャートでは 34位にランクインされた。

日本盤 『魔界再来 (ABOMINOG)』 は 1982年6月21日にビクター音楽産業からようやくリリース。

1982年6〜7月には欧州ツアー。1982年8月21日にはイギリスの Donnington で開催された 第3回 "MONSTERS OF ROCK" Festival に出演した。ここでの出演順は ANVIL, HAWKWIND, URIAH HEEP, SAXON, GILLAN,、そしてトリは STATUS QUO であった。

1982年9月11日には アメリカで 『ABOMINOG』 がようやくリリースされた。『CONQUEST』 がアメリカでリリースされなかったことからも契約に苦労をしたが、結局 Mercury/Polyggram からリリースすることが出来た。このリリースの背景には、"That's The Way That It Is" のプロモーション・ビデオが作られ、MTV でオンエアされてヒットが期待出来たことも関係したとされる。結果的に "That's The Way That It Is" はアメリカのチャートで 40位内に入るヒットを記録。また、ジャケットがワースト・アルバムであるというレッテルを貼られながらも逆にそれが話題となってアルバムも 63位に入るスモールヒットを記録。Ken Hensley が脱退して多くの古きファンから嘆かれた HEEPであったが、Mick Box にしてみれば "やったぜ!"という思いだったろう。そう、HEEPは見事に蘇生したのだから。まさに魔界再来!

1982年9月上旬は ユーゴスラビアやハンガリーといった共産国を周るツアー、1982年9月下旬〜10月上旬は ノルウェー、スウェーデン、フィンランドなどをツアーした。1982年10月下旬〜12月中旬にかけては再度アメリカで約2ヵ月に渡るツアーを敢行。"Abominog Tour"は1982年内一杯で無事終了。


HEAD FIRST

URIAH HEEP #11 の第2弾 『HEAD FIRST』 は、Ashley Howe のプロデュースにより 1983年1〜3月にかけてイギリスの Roundhouce Studio にてレコーディングされた。前作の路線を貫いたアルバムで、カヴァー曲もあるし、作品の出来具合から更なる成功を期待された。

しかし、1982年3月初旬に Bob Daisley が Ozzy Osbourne との再会で Ozzy の新作 (Randy Rhoadsとの3作目になる予定だった) への参加を決めていたこともあって、HEEP のレコーディングが終了するとともに 1983年4月に脱退した。ちなみに、この時 John Sinclair も Ozzy から誘われたが、断っている。

※Bob復帰後の OZZY OSBOURNE BAND の初ライヴは1983年5月29日の "US Festival"で、ギタリスト Jake E.Lee のバンド初舞台ともなった。1983年内に 『BARK AT THE MOON』 を制作し、ツアーにも同行。更に 1985年に制作した次作『THE ULTIMATE SIN』の作詞&レコーディングにも参加するも、1st & 2ndアルバムの印税支払い訴訟の件が一向に改善されず、再び Ozzy & Sharon と決別。『THE ULTIMATE SIN』は新ベーシスト Phil Soussan の再録音により発表された。


URIAH HEEP #12 (1983/04-1985/11)
Mick Box
(guitars), Peter Goalby (vocals), Lee Kerslake (drums), Trevor Bolder (bass), John Sinclair (keyboards)

1983年4月には脱退した Bob Daisley の替りに 元HEEPのメンバー Trevor Bolder を誘ってそのまま再加入させた。効率の良い交替劇の背景には、Bob の脱退が早期に決まっていたことと、当時 Trevor Bolder が在籍していた WISHBONE ASH がクラブ・ツアー程度のブッキングしか出来ず、アルバム 『TWIN BARRELS BURNING』 も自主制作のような形でリリースするという非常に経済難な状態であったことも一因で、Trevor の復帰はいとも簡単に行なわれた。

1983年4〜5月には欧州ツアー。1983年5月15日にはアルバム 『HEAD FIRST』 がイギリスでリリースされた。1983年5月21日にはベルギーで開催された "Heavy Sound Festival"に出演。

1983年6月4日にはアルバムからのシングルとして、カナディアン・ロック・シンガー Bryan Adams のカヴァー "Lonely Nights" をリリース。これから行なうアメリカ&カナダ・ツアーの布石として、妥当なシングル・カットであった。

1983年6月〜7月上旬にかけてアメリカ・ツアー。1984年6月18日&19日には STYX の "Kilroy Was Here Tour"の一環として行なわれた野外コンサートに Ted Nugent, Sammy Hager, TRIUMPH というアメリカ&カナダ勢の前座に混じって我が HEEP も出演。1983年7月中旬はカナダ・ツアー。

1983年7月21日には 日本盤 『ヘッド・ファースト (HEAD FIRST)』 が ビクター音楽産業からリリース。

1983年7月下旬〜9月下旬にかけては アルバム 『PYROMANIA』 が爆発的な成功を収めていた DEF LEPPARD の前座で長いアメリカ・ツアーに帯同。この時の出会いが後の CYBERNAUTS へと繋がっていく。

1984年8月13日には T.Jackson のカヴァー "Stay On Top" をリリース。プロモ・ビデオも作られたが大きなヒットにならなかった。

1983年10月12日〜17日はマレーシアやイスラエルをまわるインド・ツアー。このツアーの前後には日本ツアーも計画されたらしいがボツになっている (残念!!)。1983年11月〜12月はドイツを始めとする欧州ツアーで、後半にはハンガリー、ユーゴスラビア、チェコスロバキアなどをまわった。

1983年11月11日 ドイツの Bonn - Rheinterassen公演におけるセットリストは次のとおり → Roll-Overture / Sell Your Soul / Staelin' / The Other Side Of Midnight / Too Scared To Run / Lonely Nights / The Wizard / July Morning / Sweet Talk / Stay On Top / Mick Box Solo / Gypsy / Easy Livin' (encore) That's The Way That It Is / Look At Yourself

しばし休んで 1984年2月にはイギリス・ツアー、1984年3月〜4月にはオーストラリア・ツアーを敢行。

更にしばし休んで 1984年7月にはフィンランドで開催されたロック・フェスティバルに出演。1984年7月までに休みが多いのは、新曲作りに時間を充てていたことと、Mick Box が DEF LEPPARD とのツアー時から Bronze Records のサポート体制に不満を感じていたこと、そして新しいレコード会社とディールを獲得する為に動いていたからであった。Gerry Bron は当時 Bronze America の設立にヤッキになっていたが、これが上手く行かずについに HEEPを手放すことに... かくして HEEP は長年お世話になった Bronze を離れ、CBS 傘下のレーベル Portrait へ移籍していった。


EQUATOR

CBS/Portrait へ移籍した URIAH HEEP #12 は、MOTORHEAD, AC/DC を手掛けた Tony Platt のプロデュースのもと アルバム 『EQUATOR』 を数箇所のスタジオでレコーディングした。1984年8月27日〜9月9日まで Battery Studio、そして 1984年9月12日〜10月26日には Jacobs Studio にてレコーディング。

レコーディングを中断し、1984年11月〜12月にかけてはドイツ、デンマーク、スペインなどをまわる欧州ツアーを敢行。レコーディング期間中にもライヴをやるのは今までも HEEP がやってきたやり方である。ちなみにこのツアーですでに新曲の "Party Time" を披露。

1985年1月に入り残りのレコーディングの続き。Genetic Studio にて 1月12〜13日、1月19〜20日、1月26日と3回に分けてレコーディング。それから、ミックスのために Battery Studio に戻って 1月27日〜2月4日の期間で作業を終わらせた。

『EQUATOR』 発表に伴なうツアーは 1985年2月22日〜5月18日まで殆ど休みなくブッキングされた。
まずは、1985年2月22日〜1985年3月21日までのイギリス&アイルランド・ツアー。しかし...

このツアーを始めてまだ3日しか経っていない 1985年2月28日には悲劇が起きてしまう...
そう、HEEP のオリジナル・ヴォーカリストであった David Byron がバークシャーの自宅で死体で発見されたのだ。David はかねてからのアルコール依存がたたって前年クリスマスの時点で肝臓障害の為 「あと6ヵ月の命」 と医師から宣告されていたが、死は6ヵ月も David を待ってくれなかった...
ちなみに、David Byron が死亡したこの日、1985年2月28日 イギリスの Slough - Fulcrum Centre公演における HEEPのセットリストは次のとおり →
Roll-Overture / Sell Your Soul / Staelin' / The Other Side Of Midnight / Too Scared To Run / Rockarama / Angel / The Wizard / July Morning / Bad Blood / Party Time / Mick Box Solo / Gypsy / Easy Livin' (encore) That's The Way That It Is / Look At Yourself

1985年3月22日〜1985年4月8日まではオランダ、フランス、スペイン、イタリアなどを周る欧州ツアー。

1985年4月にはイギリスで アルバム 『EQUATOR』 リリース (アメリカ盤も同時期)。

1985年4月9日〜1985年5月3日まではドイツ・ツアー、1984年5月4日〜1985年5月13日までは再びデンマーク、スウェーデン、オランダ、フランスなどを周る欧州ツアー、1985年5月15日〜1985年5月19日まではイギリス・ツアー。これにてひとまず長〜かったツアーを終了。ロンドンの Hammersmith Odeon のライヴの後に行なわれたパーティーには、IRON MAIDEN の Bruce Dickinson, Nicko McBrain、MOTORHEAD の Lemmy、THE NOLANS のメンバーなどが出席して和んでいったそーな。


GYPSY (LIVE IN LONDON)

長いツアーの最終日、1985年5月19日の ロンドン Camden Palace公演は、ビデオ 『GYPSY』 としてリリースされた。Peter Goalby時代の HEEP映像を見るには恰好のアイテムである。ただし、ヨーロッパ圏で採用されている PAL-Video方式でのリリースであったため、NTSC-Video方式を採用している日本やアメリカなどでは一般的に見ることが出来なかった。※少し後になって NTSC-Video方式の 『LIVE IN LONDON』 が、2004年にはDVD 『GYPSY』 がリリースされた。

1985年5月22日にはようやく日本盤 『イクウェイター (EQUATOR)』 が Epic Sony からリリース。

実は、1985年5月のイギリス・ツアーの後には、アメリカ、カナダ、インド、日本、インドネシア、フィリピンなど 8ヵ月にも渡るツアーが計画されていた。しかしながら、ことごとくそれはキャンセルされた。理由として、度重なるツアーの連続で Peter Goalby の声が出なくなってきたことがあげられる。Peter については Gary Moore から 「ひどいヴォーカルだ!」 とケチョンケチョンに言われる始末。また、CBS/Portrait のマネジメント体制が悪く、全く HEEPをサポートしてくれないこともメンバーのやる気を無くしていった。特に John Sinclair の不満は大きく、Ozzy Osbourneからのオファーについて真剣に考えるようになっていく...

1985年6月には Peter Goalby, Trevor Bolder, John Sinclair の3人は "Little Caesars" と名付けられた曲のレコーディングに参加。Landsdowne Studio でレコーディングされたこの曲は、1985年5月29日(?)にベルギーのサッカー場でイタリアのファンvsイギリスのファンの争いが死者38人を出すという大惨事となった事件に胸を痛めたミュージシャン達が集まってレコードを作り、その売上金を38人の犠牲者の遺族に送ろうという目的でされたものであった。SCORPIONS のメンバーと、ドイツの JUMP というバンドのメンバー、さらに Frank Eyssen という人によって共作されたもので、F.Eyssen, Dieter Dierks それに Eddie Kramer がプロデュースを補佐した。このレコーディングのプロジェクト名は THE EUROPEAN TEAN と名付けられ、参加ミュージシャンは SLADE, MOTORHEAD, GIRLSCHOOL, VENOM, ALASKA, LIONHEART, SHY, BAD COMPANY, ROCK GODDESS, SCORPIONS らのメンバー、Robin George, Glenn Hughes, John Sykes, Neil Murray, Don Airey らが予定されていた。
しかし、実際に出来上がったレコードは、曲名を "Sport Alive" としてリリースされたが、SCORPIONS, Dieter Dierks, Glenn Hughes, John Sykes, Neil Murray, Don Aireyらの参加は実現しなかった。

1985年7月〜8月の間には北アメリカやフィンランドで単発のライヴ。John Sinclair が 『EQUATOR』 のプロデューサー Tony Platt のプロデュースするニューヨークのクリスチャン・メタル・バンド MASS のデビュー・アルバム 『NEW BIRTH』 にゲスト参加したのもこの頃だろう (憶測)。

1985年8月26日、URIAH HEEP, MOTORHEAD, GIRLSCHOOL, Robin George, BRONZ のプロモ映像が収録されたコンピレーション・ビデオ 『ブロンズ・ロック (BRONZE ROCKS)』 が日本でもリリース。

しばしの休息 (Peterの為か?) の後、1985年10月15日にはオーストラリアの Melbourne、1985年11月3日には Victoria でライヴをやった記録が残っている。1985年11月3日 オーストラリア Victoria - Phillip Island Race 公演におけるセットリストは次のとおり → Roll-Overture / Sell Your Soul / Staelin' / The Other Side Of Midnight / Too Scared To Run / Heartache City / Rockarama / Angel / The Wizard / Poor Little Rich Girl / Bad Blood / Party Time / Mick Box Solo / Gypsy / Easy Livin' (encore) That's The Way That It Is / Look At Yourself
1985年5月までの「EQUATOR」ツアーでは演っていなかった "Heartache City" や "Poor Little Rich Girl" を取り入れているが、ついに "July Morning" が外されようとは...


Break Up...?

1985年11月...ついに URIAH HEEP 崩壊!!!

1985年11月3日の Victoria公演が UH#12 にとっての最後のステージか否かは不明であるが、Peter Goalby はもう歌える状況ではなかった。ステージで声が出ないとは、ヴォーカリストとしては致命傷である。

Mick Box の苦渋の決断であった。一度はバンド体制を立て直し、アルバムもスマッシュ・ヒットした。Peter が TRAPEZE を辞めてくれるまで HEEEPの活動を待っていた Mick ...Mick はそれほどまでに Peter を大切にしていた。Peter がいたからこそ Mick はここまでやってこれた。Bronze Records との決別以降はまた波乱の日々であったが、それでも Peter が歌えないのなら HEEP は解散だと判断した Mick Box の男気がそこにはあった...

URIAH HEEP の解散は実は正式なアナウンスがなく、KERRANG!誌が憶測で判断して報じてしまった。確かにJohn Sinclair を除く元メンバーは音楽業界から離れた生活をしていた。John Sinclair はそそくさと OZZY OSBOURNE BAND へと加入したものの、他のメンバーは 肉屋さん、洋服仕立て屋さん、ローソク製造業 などの職に就いたのであった。(誰がどの仕事?)

悪いことは重なるもので、1986年春には Bronze Records が 100万ポンド以上の負債を抱えて倒産。URIAH HEEP を取り巻いていた誇り高き環境が次々と崩壊していった。

1986年4月には Raw Power / Castle Communications からベスト盤 『ANTHOLOGY』 がリリースされた。今思えばこの頃から Castle Communications との付き合いが始まったわけだ。

1986年6月26日、URIAH HEEP の 偉大なる歴史をライヴ映像やプロモ映像で飾る記念碑的ビデオ 『安息の日〜ヒストリー・オブ・ユーライア・ヒープ (EASY LIVIN' - A HISTORY OF URIAH HEEP)』 が日本でも ビクター音産 よりリリース (海外では Virginよりリリース)。Ken Hensley がバンドの歴史について語るインタビューが挿入されているが、何故ずっとバンドを支えてきた Mick Box では無いのか。結局のところ、『ABOMINOG』 以降も頑張ってきた HEEPであっても、ずっと Ken Hensley の影を求める声に悩まされてきたバンドの苦悩を労わずにはいられない。


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