芭蕉俳諧を「解凍」す

 芭蕉の俳諧観については、芭蕉の手になる書簡集をはじめ「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」「おくのほそ道」「嵯峨日記」「幻住庵記」、さらには門弟たちの覚書ともいえる「去来抄」や「三卅子」、「聞書七日草」等によって、相当部分うかがい知ることができる。しかし、芭蕉の俳諧に対する根本思想や感覚、感性が解明されてはいない。芭蕉本はおびただしくあり、その全てに目を通したうえで、私は言っているのではない。私が目にしたわずかな芭蕉本に基づいての知見だから、私が知らないだけで、芭蕉俳諧の根本思想や感性を解明した書物があるのかも知れない。そうした書物の心当たりがあれば、教えていただきたい。「芭蕉俳諧」と言っても、連句ではなく、一句独立の「地発句」(俳句)についての、私の見方であり、捉え方である。「芭蕉俳諧を『解凍』す」とのタイトルは、いささか誇大の観なきにしもあらずだが、芭蕉俳諧に立ち向かう私の覚悟みたいなものだとご理解いただきたい。
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 芭蕉の人となりを理解する上で、芭蕉が29歳の春「貝おほひ」を懐に江戸へ出るまで過ごした伊賀上野時代の解明が不可欠だが、これがなかなか困難なことで、数多の学者が研究を重ねているものの、今日なお「霧」の中にある。
 私は、芭蕉の書簡に出てくる「猶子桃印」との関係が分かれば、霧はだいたい消えてゆくと見ている。「猶子」というのは、「『礼記』による、自分の子供のようなものの意。または甥、姪。親族、他人の子を自分の子としたもの」(大辞林)。芭蕉は、その猶子桃印を、延宝4年、江戸と連れて来ている。芭蕉は江戸に移り住んで五年目33歳、桃印16歳。郷里の姉(異説がある)が、桃印5、6歳の時に夫と死別して後も女手一つで育てていた桃印を、芭蕉はなにゆえ、江戸へ引き取ったのか。母から息子を、なにゆえ引き離したのか。肉親の情にはことのほか細やかな心遣いを見せる芭蕉が、姉の子を引き取り、桃印が33歳で結核で他界するまで、母親にふたたび会わせることはなかった。芭蕉は郷里に再三帰っている。桃印を同道できないはずはなかっただろうが、なぜか桃印の存在が薄い。桃印の死期が迫ってから、芭蕉は許六や荊口宛の書面に「手前病人」「猶子桃印」と記しているくらいで、それまでは影すら出ていない。
 いや、「影」は出ていたのかも知れない。
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 芭蕉が、兄・半左衛門に出した貞享年間の書面、前半を失した断簡と見られるものだが、「かれらが事まで拙者などとんぢゃくいたすはづに而も無御座候へ共、一はあねの御恩難有、二つ大慈大悲の御心わすれがたく、色々心を砕候へ共、身不相応之事難調候(略)」。兄から何らかの経済的な助力を頼まれながら、応じられない旨を述べた書簡だが、私が注目したのは「一はあねの御恩難有、二つ大慈大悲の御心わすれがたく」と姉に最大級の感謝をしつつ、「身不相応之事難調候」と断っているところだ。この箇所の解釈は学者の間でもさまざまだが、私は、この姉は桃印の母親ではないかと考えている。姉の嫁ぎ先か何かでどうしても金の入り用ができ、それで兄半左衛門を通して芭蕉に依頼したのであろう。姉の依頼による金の工面はどうもこれまでもあったのではないか。「かれらが事まで拙者などとんぢゃくいたすはづに而も無御座候へ共」と、芭蕉にしては珍しく感情を剥き出しにし、吐き捨てるように言っていいる。それにつづけて姉の「御恩難有、二つ大慈大悲の御心わすれがたく」と言わざるを得ないところに、私は、桃印の影を見る。
 その桃印にしても、肉親の情に通じ、郷里に心をそそぐ芭蕉が、江戸に連れて来てから17年間、母に一度として会わせることもなく、桃印の死を迎えた事実は、なんとも腑に落ちない。桃印というのは雅号であろう。芭蕉の「桃青」の桃を与えて「印」と付けたのは、後を継がせる心づもりだったのだろう。桃の隣とした近親者とおぼしき「桃隣」の存在からして、桃印の雅号の重みというか、桃印に寄せる芭蕉の思いが伝わってくる。
 芭蕉は、若い頃の「妾・寿貞」(風律筆記の「小ばなし」)の子、次郎兵衛を伴って元禄7年帰郷し、大坂で病没していることからしても、雅号を与え跡取りと目していた桃印を伴って一度の帰郷していない事実は、不可解としかいいようがない。
 今日はひとまずここで筆を置くことにしたい。
 このテーマは資料を渉猟しながら書き続けてゆかなければならないため、これを「その1」としたい。 

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