俳句の評価の危うさ
  
(「雛鳥」3号掲載)


  <無点句を評す>
 兼題・席題の選句を通じて他人の句を評価しているが、その私自身の評価基準は実に曖昧なものだ。自己に照らして他者の内面を推し量るのは愚かなことだが、それ以外に他者の評価基準を推察する術がない。問題があるとすれば、想像力の「貧富」だ。私の推論が見当外れのものであれば、その批判は甘んじて受けたい。
 兼題・席題、俳句の評価は必ずしもそれだけではないが、ここでは分かりやすくそれに限って話をすすめたい。
 俳句に心を寄せる気心の知れたメンバーで句会をつづけていると、だいたい句柄が分かってくる。対象の把握、言葉選び、そして一句のかもしだす「雰囲気」等によって、作者の見当がつく。
 兼題・席題で点が低く、落ち込んだり自信を無くしかけている同輩がいれば、励ます気持ちを込めて点を入れる場合もあろう。主宰やゲストの句に点を入れなければ失礼に当たる、或いは俳句が分かると思われたいとの思惑もあったり、時には解釈や批評し易い句に点を入れる場合もあろう。さらには、好感を持つ異性の句に点を入れるといったこともあるのではないか。
 点を入れることで句を評価する営みには、さまざまな思いが交錯する。当然のことだ。機械では無い人間だから情緒が働く。情緒という曖昧なものに左右されることは恥ずかしいことではない。それが人間そのものだから。その曖昧な人間の曖昧な評価によって一句の出来不出来が問われる句会は、自身の「評価軸」が試される場でもある。確固とした評価軸を持たないと、模糊とした句会の評価に流される
 時には、他人の評価に耳を傾けることも必要だが、その「評価」を判断する能力が自己に備わっていないと、俳句の「樹海」に踏み迷うことになる。まず、自己評価ありきであり、自己評価が正当性を持つには、古今の俳人の著作を読み、批判力を養うことだ。主宰であれ有名俳人であれ、その言を盲目的に受け入れるべきではない。批判力の無い追随は模倣に終わる。
 なによりも大切なものは自己を批判する能力だ。句会でいくら高点を得ても、自句に満足できなければその選句を冷静に批判するぐらいの気概がなければならない。文学としての俳句とはそうしたものだ。         ※
 句会での評価がどういうものか、自身の反省を込めて無点句を評したい。
 三月の兼題句(水温む、芽立時)から見てみたい。
  ドーナツの砂糖こぼれて水温む  阪本憲司
 選句に私は参加しているのだから、無点句に私も点を入れていない。しかし、時間を置いて見詰め直してみると、なぜ点を入れなかったのか不思議な思いに責められることがある。
 掲句は、水温む実感を「ドーナツの砂糖こぼれて」と捉えていて、なるほど季節のうつろい、気温が上がってきて、ドーナツを手にして食べようとした拍子に、ドーナツの表面にまぶされている砂糖がこぼれ、それで水温む春の陽気を感じたという、余韻余情の確かな句である。技巧や衒いの無い素直な表現に、むしろ深い余韻がただよっている。
  山の端のかすか色めく芽立時   波多野守
 芽立時の実景を掬いあげている。観念ではこうした句は作れない。芽立時の山と向き合わなければ、「山の端のかすか色めく」表現は出てこない。芽立時であれば当り前の景色といえるが、その当り前が実景なのだ。芽立時の山の感動を詠んだ、誤魔化しのない句姿に、単に当り前と斬り棄てる感覚が技巧に走るのではないか。じっくりと向き合っていると、芽立時の山のイメージがひろがる。 
 五月の兼題、白玉の句の無点句の中から、
  白玉をころがし遊ぶペルシャ猫  照井定男
 白玉にじゃれるペルシャ猫を詠むという意外性にどきりとする。芭蕉が門人に繰り返し語った「俳諧自由」の真骨頂。季題の「白玉」の伝統的な句づくりとらわれない奔放な視線が生きている。白玉を作っている家人が、じゃれつく猫に遊び半分でポイっと作ったばかりの白玉を放ったのであろう。作り立てで白玉が熱いこともあって、猫は畳の上か床の上でお手玉でもするように転がしていたのであろう。白玉が冷えてくれば、要領を得た猫が本腰を入れた白玉で遊び出した、そうした表情がほのほのと伝わってくる。
 句会での評価によって、或いは主宰の指導によって俳句の目が開けることもあろうから、一概には言えないが、文学と名のつくものは批判力がなければ本当の意味での向上はない。主宰等の推薦によって名を成した俳人も少なくはないだろうが、文学的な裏付けを欠いた「有名性」は虚ろなだけであり、俳句を堕落に導くだけだ。
 今日の俳句界は、有名俳人の寝言タワゴトの句に溢れている。もはや俳句では無い。俳句の名を付けた戯言だ。
 批判力は、自己批判・批評から生まれる。


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