utきょきょうき 

虚子批判が「俳句」復活の道
 
 は  
俳句は花鳥諷詠の文学
   俳句は
大衆文学
   俳句は
極楽の文学
   
虚子は言っている
   文学であるからには
   批判しなければならない
   私は虚子を批判することで

   
俳句の文学性を取り戻したい

 今日、高浜虚子は、近代俳句の創始者・正岡子規をしのぐ「名声」を得ている。俳句に対してさほどの見識もなく才能もなく、ただ子規の残した俳句結社「ホトトギス」の運営に成功を収めただけではないか。結社運営の才に秀でていた事実と、俳人としての評価はまったく次元の異なる問題だ。
 虚子は確かに多くの門弟、俳人を育てた。その俳人がそれぞれ結社を構え、その結社の門弟が独立したりして系列結社が増え、それで一大勢力を成しており、また虚子の子孫がホトトギス等の有力結社の主宰の座にあることから、虚子を侵すべからずの「巨匠」に仕立て上げている。

    
虚子門弟も過大評価の問題が
 35歳の若さで他界した子規と、86歳の長命を得た虚子の違いもあるだろうが、しかし、虚子自らそうした風潮を意図して作り出していった形跡がある。虚子の著作物や座談会での発言内容を当たれば、手取り足取り俳句に導いた師の子規をあえて過小評価することで、自らを大きく見せようと「背伸び」しているさもしさ、嫌らしさが随所に出ている。
 虚子はまた、門弟を育てたという評価に対して、私は、本当に門弟を育てたのかと、逆に問いたい。
 虚子門弟として著名な俳人がきら星のごとく並ぶが、著名性は優れた俳人を保証しているものではない。虚子の例で明らかなように結社運営に巧みな能力で力を得れば、駄句凡句であっても名句秀句と門弟たちがもてはやしてくれる。その虚名が一人歩きしただけのことではないか。
 虚子の高名な門弟の作句や選句・批評等を検証すれば、訳の分からない過大評価の実体が明らかになろう。
 文学的感性を有していれば、少し調べれば見えてくる世界だ。
 過大評価でないというのであれば、その事実を明らかにすればいい。蛇笏、石鼎、秋桜子、草田男、波郷など著名なほとんどの俳人は過大評価ではないか。私にはそのように思えてならない。

  
ぞんざいな表現で子規を扱う虚子
 まず、虚子の人間性について、事実をあげて問題提起をしたい。
   子規逝くや十七日の月明に  虚子

 子規は明治35年9月19日午前1時頃他界した。病室で添い寝していた母親が気づいた時には、子規の息がなく、周囲の状況から午前1時頃とされている。
 虚子の「子規逝くや」は虚子の句の中では秀句の一つに数えられているが、この「子規逝くや」はそれこそ単なる報告の句ではないか。座五の「月明に」が在り来たりで、どうも芝居がかっているところが嫌味になっている。
 子規が息を引き取った部屋に寝泊まりしていた中に、虚子もいた。虚子はそのありさまを、子規が他界した当日の十九日に記した「終焉」の短文のなかで時間経過を追って具体的に書いている。そのなかで虚子は子規のことを「
碧梧桐の電話に曰く子規君今朝痰切れず」「子規子昏睡の牀打ちつづく」と記している。前段の「子規君」は碧梧桐が電話で言った呼称として記し、後段の「子規子」は自らの思いとして表現。碧梧桐は郷里・松山時代からの馴染みで、子規を幼名の升(のぼ)さん、あるいは「正岡」と呼ぶのが普通ではなかった。子規を「子規」「子規君」と呼ぶのは、後年の座談や著作で明らかなように虚子の口調ではないか。
 碧梧桐は後に子規の妹律子から聞き取り(インタビュー)をしているが、そのなかで「升さん」「升さん」と一貫して幼名で追想している。この聞き取りの内容が発表されたのは昭和8年のこと。

 「玉藻」研究座談会の虚子の言いたい放題
 虚子は「玉藻」の研究座談会(昭和29年4月)で、敏郎の「先生が、子規に初めてお会いになったのは何時ですか」の問いに、虚子は「十九かな、十八かな。松山の中学校におる時分、東京の大学にいる子規に手紙をやって、文学に志があるから宜しく頼むと言うたら、すぐに返事をよこして」と発言している。
 さらに、虚子は、同じ座談会のなかで、帰省した子規と会った時のことを語っている。明治25年7月から8月にかけてのことで、虚子が19歳、子規26歳。子規はこの年の5〜6月にかけて「かけはしの記」を新聞「日本」に連載、また6月26日からは「獺祭書屋俳話」を連載しており、虚子からして7歳上の子規はまさに仰ぎ見る郷土の大先輩であったはずである。実際、子規の死まで、虚子は表面的にはひたすら子規に仕えている。
 子規に送った虚子の書面にしても碧梧桐の紹介を得てのことである。それを「子規に手紙をやって、文学に志があるから宜しく頼むと言うたら、すぐに返事をよこして」とぞんざいな口調で語っている。それだけではない。その口調のつづきで「その折だったかどうか忘れたが、漱石が松山の子規のところを訪ねて来たことがある。その席に、私もいました。それから子規が、漱石の句稿に手を入れていたことを覚えている。漱石はこの時分から句を作っていた。私もその頃から子規に句を直してもらいましたが、直してもらって、よけいまずくなっている。(笑声)余計月並になってしまっている。子規も当時は、月並臭いものを作っていましたから」と子規の添削を揶揄している。

  
子規を酷評する虚子の師弟関係
 師の子規の手直しによって、虚子のいうように余計まずくなっているかどうか、その事実を虚子の原句と、子規の添削句を明らかにすることで具体的に言うべきではないか。それを単に門弟との座談のなかで観念的に揶揄する「神経」はいかがなものか。
 それが「ホトトギス」の師に対する遇しかたなら、今日の俳人の虚子への過大評価は、見当違いもはなはだしいことになる。
 「虚子に手を入れてもらってまずくなったよ。駄句凡句になったよ。あれは俳句がも一つ分かっていなかった」などと師を酷評しなければならない。俳句において大きな業績を残した子規の手直しを観念的に門弟に笑いながら揶揄する虚子にふさわしい「師弟関係」を形成すべきではないか。今日の俳句界の師弟関係は、虚子が師の子規に対して取った師弟関係とはあまりに大きな隔たりがある。
 俳句が文学であるなら、虚子が子規に取った態度が本当である。
 俳人は、虚子を間違っても「虚子先生」などと呼んではならない。虚子の選句・作句を積極的に批判しなければならない。あえて足を引っ張るような酷評をせずとも、客観的な批判には事欠かないはずだ。客観的かつ論理的な真っ当な批判ができないなら、俳人の名前を返上し、「俳句作り」と名乗るべきだ。虚子が子規をどのように扱ったか、虚子の著述を見ればいい。

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