齋藤茂吉の虚子批判
 
 
「俳句寸言」のなかで斎藤茂吉は、「正岡子規のした為事は、あれは苦力の結果だ」と子規が自力で切り開いた「俳句」を評価。そして「自分が十年でやった程のことを今の人は半年で達するやうになっておる。後生畏るべしととうふもおろかなわけだ」との子規の言葉を具体的に引用し、「子規は死んで、生き残った俳人にも、それ以後に現れ出た俳人にも、この子規の悲痛の言が胸にこたへないように見える」「そして逸早く子規の句は芭蕉や蕪村の模倣に過ぎないと公言して、ひとりで育ったやうな顔付きをして、己が独創家だといふやうな顔付きをして、もう少年の前に教師気取りでいる。なんといふ恐ろしい態で、何といふあわただしい態であらう」と虚子一派を痛烈に批判。 
 茂吉は、師の伊藤左千夫が子規の門人であり、また新聞「日本」等での子規の著述、著作によって短歌の世界に導かれたことから、茂吉は子規を敬愛し、歌論のなかで子規のふれる時は「正岡先生」と記す。しかし、子規に手取り足取り導いてもらい、俳句界に大きな地歩を占めた門弟虚子らの、子規の死後、「子規」と呼び捨て、子規の功績や作品(俳句)を貶める言動に我慢ならなかったのであろう。

   
子規を敬愛した伊藤左千夫
 伊藤左千夫は、子規より三歳年上であったが、短歌について教えを得たことから、子規を「先生」と敬愛して已まなかった。左千夫は子規の死後、「竹乃里人」(明治36年8月)のなかで、「予は無造作に考へたのを、先生かういふのは如何ですか、物になりますまいか。先生は句にあぐねた時であるから、どれどんな句が、と笑いながら筆を置かれた。予は、
 三穂に渡る舟の日傘や揚雲雀
と読むと先生手を拍って悦ばれ、それそれ其の日傘だ、それが山だ、それは写生であらう。写生でなくてとても出来ることではない、自分も今渡舟に雲雀の配合を頻りに考へたが、どうしても物にならなかった、『三穂に渡る渡小舟やあげ雲雀』では句がたるんでさうして景色も引立たず甚だ平凡であるが、そこへ舟の日傘と無造作に這入るから生きてくるのである、中七字の所、只渡舟では文字が足りない為に無用な詞を挟む、それで全く句がたるんでしまふのだ、其日傘が解れば、歌でも文章でも出来る、総じて山がないから俳句でも歌でも文章でもしまらないのだ、作者が小細工をやって埋草など書いたとて、とても物になる筈のものではない。懇ろに教へられた後、其句は早速翌翌日の『日本』へ顕はれ、先生自身春夏秋冬を撰ばれた時に春の部に予の俳句が一句出たのは其句である」と追想している。
 左千夫は牛乳搾取を業とし、病床の子規への牛乳の提供はもとより、医療費の工面で生活の苦しかった子規へ経済的にも援助を惜しまなかった。

   師弟関係を否定した子規の精神
 一方、左千夫とは比らぶべくもないほど子規の世話になった虚子は、子規の死の直後に認めた「終焉」(明治35年9月19日記)と題する短文のなかで「9月18日午前11時頃、碧梧桐の電話に曰く子規君今朝痰切れず、心細き故呼べとの事なり、直ぐ来いと。来て見れば昏睡中なり」と述べている。子規は生前「先生」と呼ばれることを嫌い、「正岡君」と呼ばせていたが、それは宗匠俳句からの脱皮を求めた子規の基本精神に基づいていた。
 従来の「師弟関係」を破壊し、文学のうえでは師匠も門弟もないすべて平等だという「精神」である。だからこそ、7歳年下の虚子にもあえて「正岡君」と呼ばせていたのであろう。
 子規の俳句革新はそこまでいっていたのである。師弟関係を壊さなければ、文学としての俳句は生まれないと。

    自己肥大の虚子の言動
 その子規の「精神」を最も継がなければならないはずの虚子は、子規の死後、子規の残した「ホトトギス」を舞台に、どのような師弟関係を形成していったのか。
 碧梧桐は、虚子と同様に子規の死の直後、「絶筆」と題する短文のなかで子規を子規と言うのが憚ったのか「病人」と表現している。子規の妹、律子への聞き書きの中では、子規の幼名の「升さん」(のぼさん)と言っている。また、碧梧桐は虚子より一歳年上であったが、どうしてなのか碧梧桐は虚子に「碧梧桐」と呼び捨てに書かれている。
 親疎の関係で、その呼び方が自然であったのかも知れないが、しかし、不特定多数が目にする刊行物のなかで師の子規を「子規君」と呼び、年長の碧梧桐を呼び捨てにする虚子の感覚は、親疎の情ではなく、自己肥大の精神によるのではないか。



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