選句能力なき俳人
 (「雛鳥」5号掲載)

 選句能力は、他人の句を選ぶ力量のみを言うのではない。自身の句を自ら評価する能力でもある。だから、選句能力が劣っていると、他人の句の正当な評価が行えないばかりか、自分の作品の自己評価ができない。文学に限らず絵画彫刻、歌舞音曲にいたるまで自己評価が創作の「基軸」となる。
 自己評価が出来なければ「他人の能力」に頼ることになる。俳句を作ったことのない人物がたまたま俳句を詠み、その句の出来不出来を俳人に問うのは、いわば医師にレントゲン写真の結果を尋ねるようなものだ。しかし、医師として社会的評価を受け、他人の診断を躊躇なく下している人物が、自身のレントゲン写真は分からないからと、他人に判断を仰ぎ、その判断を唯々諾々と受け入れているとなると、その人物の医学知識や診断の根拠が怪しくなる。当然、医師としての適性が社会的に厳しく問われよう。それだけでなく、受診した患者からは、その不利益に応じた損害賠償請求がなされるであろう。
 ところで、俳句界はどうか。デタラメな選句をしていても、「感性の問題だから」と誰も咎めなければ、責任も追及されない。極め付けは「流派が違う」というような言い訳である。アホな選句や批評をしていても、ほとんど誰も異を唱えず、それどころか俳句総合誌で臆面も無く仲間褒めを繰りひろげる俳句界は、現代の奇観でさえある。
 俳句総合誌としてもっとも著名な角川書店発行の「俳句」二月号に、「五〇俳人が自解する『私の代表句』」の企画があり、現在、活躍中の俳人五十名が「私の代表句」としてそれぞれ五句をあげ、自ら解説を加えている。大正三年から昭和三十六年生まれまで、幅広い年齢層から結社の主宰或いはそれに準ずる人気俳人が、「私の代表句」に対する見解を合わせて述べている。
           
 さすがに、大正生まれの俳人は、門を叩いた主宰等との距離を保っていて、「恩師の選句」などというアホな記述は見当たらないが、中に一人、「自分の顔は自分では分からないもので、第三者の鑑賞、評価、斧鉞を得て、次第に代表句の地位が確立されてゆくものと思う」「代表句といわれるわが作品は、すべて先師及び畏友の推挽によるもの」と自己評価を放棄している人物がいた。他人に教えてもらわければ自分の顔が分からないというのは、なんとも情けない。鏡がなければ水に映してでも見ることが出来る。水が無ければ「心眼」で見ればいい。
 他人の眼や感性に判断をゆだねて得々とするより、他者の評価や判断を疑い、ともかく自分の顔を見ようと努力することが、物事の進歩発展につながるのは多言を要しないところであろう。
 昭和生まれとなると、「作品は作者の手を離れれば公共物。どう読もうとどう評価しようと読者の自由。とすれば代表作は読者が選ぶべきもの。幸いこれがわが代表作と自薦する厚顔を持ち合わせていない」「(代表句とは)多くの人々の眼識を経て評価の定まった場合であろう」「(代表句は)自分では解らないが、亡き師が選んで下さって、いまでも(略)」「自分に代表句と言えるような大層なものがあるかどうかも覚束ない。だから五句は友人に選んでもらった」などと、企画内容と見当はずれな記述や、自分では代表句が分からず、「亡き師」や「友人」に選んでもらったりの体たらくがつづく。
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 「私の代表句」とは、世評や結社等での評価にかかわりなく、これまでの作品の中から自分自身で代表句と認めたものであろう。企画タイトルの肝腎の「私の」に対する初歩的な認識を欠き、「幸いこれがわが代表作と自薦する厚顔を持ち合わせていない」とは何たる厚顔。出版社の企画内容に能力が付いてゆかないのであれば、執筆を断るべきではないか。無知ゆえに「私の代表句」を選べないと。そして、他人の選句や添削から離れるべきだ。
 自分の代表句すら選べない人物に、他人の選句や添削が出来る道理がない。他人の句は、結社の主宰や幹部同人の手慰みの玩具ではない。


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