子規によって存在した「虚子」
 虚子あって「子規無し」の俳句界の現状だが、子規がいなければ虚子の「名声」もなければ、「虚子」という俳号すら存在しなかったであろう。子規の導きがなければ、凡庸な虚子はさして名前を残すことなく、そこそこの成功を収めた程度であろう。虚子にとって子規は、兄であり父であった。右も左も分からない7歳下の虚子を碧梧桐とともに俳句導き、文字どおり手取り足取り教えた。
 子規の死後、俳壇を引っ張っていった虚子・碧梧桐は子規の業績のうえでぬくぬくと胡座していた。子規が結核に苦しめられ病牀六尺から血を吐き呻きながら土台を築いた俳句という「家」に、虚子と碧梧桐が住みつき、そして子規の業績を意図して軽視し、自らの存在を誇示する。
 歌人の齋藤茂吉は、虚子ら一派のあまりの振る舞いにたまりかね、「俳句寸言」(大正5年11月29日)で虚子一派を痛罵。
 茂吉は言う。「子規のした為事は、あれは苦力の結果だ。芭蕉や蕪村の芸術に就いて開眼したもの、みんな自力でやったのだ。そして子規は、獺祭書屋俳句帖抄上巻の序で『自分が十年でやった程のことを今の人は半年で達するようになってをる。後生畏るべしといふもおろかなわけだ』と云った。子規は死んで、生き残った俳人にも、それ以後に現れ出た俳人にも子規のこの悲痛な言が胸にこたへないやうよ見える。
そして逸早く子規の句は芭蕉や蕪村の模倣に過ぎないと公言して、ひとりで育ったやうな顔付をして、己が独創家だといふやうな顔付をして、もう少年の前に教師気取でいる。何といふ恐ろしい態で、何といふあわただしい態であらう。子規が途中でへたばりへたばりしたのは、あれは自力でやったからだ」と、痛烈に批判している。


戻る       感想をメールでお寄せ下さい