子規に金を貸した虚子の金銭感覚

 子規と虚子との晩年の「関係」を知る有力な資料がある。誰でもが知っている「仰臥漫録」(岩波文庫)だ。定価400円の文庫本で、手軽に読める。一読をおすすめしたい。虚飾を取り払った人間・子規の病牀六尺の日常生活が生々しく記されている。結核とカリエスに悩まされつづけながら、消えかかる生命を奮い立たせる食欲、その一方で、どうしようのなく不安定になる精神状態、そして俳人、歌人等の集まり、見舞いの数々を事細かくつづっており、その中に「余も最早飯が食へる間の長からざる思ひ今の内にうまい物でも食ひたいといふ野心頻りに起りしかど突飛な御馳走(例、料理屋の料理を取りよせて食ふが如き)は内の者にも命じかねる次第故月々の小使銭俄にほしくなり種々考を凝らししも書物を売るより外に道なくさりとて売るほどの書物もなし 洋紙本やら端本やら売ったところで書生の頃べたべた捺した獺祭書屋蔵書印を誰かに見らるるも恥じかきなり とさまかうさま考へた末終に虚子より二十円借りることとなり已に現金十一円請け取りたり これは借銭と申しても返すあてもなく死後誰か返してくれるだろー位のことなり 誰も返さざるときは家具家財書籍何にても我内にある者持ち行かれて苦情なき者なりとの証文でも書いておくべし」。子規の切々たる思いと息遣いを伝わってくる。「仰臥漫録」は明治34年9月2日から筆を執っており、この虚子に20円借りた云々の記述があるのは、同年10月25日。子規が死ぬほぼ11ヵ月前のことだ。子規は、その日の記述につづけて四句詠んでいる。
   病牀の財布も秋の錦かな
   栗飯や病人ながら大食ひ
   かぶりつく熟柿や髭を汚しけり
   驚くや夕顔落ちし夜半の音
 
新聞「日本」の社員として月給40円、ホトトギスから10円の報酬を得ていたが、医者への支払い等が嵩み、一家の台所は楽ではなかった。
 子規は
10月13日の記述のなかで、妹の律が風呂に出掛けたあと、にわかに「余の精神が変になって来た。『さあたまらんたまらん』『どーしやうどうーしやう』と苦しがって煩悶を始める」。子規は次第につのる病状と、死期が近づいておりながら御馳走が食べられず、苦労を掛けっぱなしの家人にも御馳走を食べさせられない自分自身をもてあまし、千々に心が乱れ、精神的に怪しくなる。実際、子規は、母が四方太宛に電信を出しに出掛け、独りなつた家で、硯箱の二寸ほどの鈍い小刀と千枚通しの錐を見詰め、「この小刀でものど笛を切断出来ぬことはあるまい 錐で心臓に穴をあけても死ぬるに違ひないが」と思いが乱れつつ「考へて居る内にしやくりあげて泣き出した その内母は帰って来られた」と自殺衝動に苦しめられながら、思いとどまった心の推移を記している。
 そして、「死の近きを知るからそれまでに楽しみをして見たくなる 楽しみをしてみたくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる 雑用がほしくなるから書物でも売らうかといふことになる……いやいや書物は売りたくない さうなると困る 困るといよいよ逆上する」
と13日の記述を結んでいる。
 子規が自殺衝動に駆られる前日の12日、「夕虚子来る 雑用借用論ほぼ定まる」と記している。子規は、かねてから虚子にホトトギスの毎月の報酬(10円)を家内の生活が少し楽になり、食べたい御馳走が食べられるくらいに上げてくれるよう頼んでいたのではないか。死期迫っている子規の頼みを、虚子は婉曲に断りつづけ、結局、虚子から借用するという話になり、それもいろいろなやりとりの末、ようやく決着を見た。そのことを子規は「雑用借用論ほぼ定まる」と記したのであろう。雑用借用論の「論」に、虚子に対する子規の歯がゆい思いがにじんでいる。事実、この日の記述は二行だけ。簡単極まる。その翌日に、子規は心が不安定になり、自殺衝動に苦しめられることになる。
            ※
 仰臥漫録を仔細に見ると、虚子との「雑用借用論」に行き着くまでの子規の心の軌跡が浮かびあがってくる。 
 仰臥漫録を書き始めて間もない9月10日、「鳴雪翁来る『ホトトギス』会計の上につき話あり 水飴一壜贈らる」。鳴雪翁とは内藤鳴雪のことで、子規より20歳上の郷土の大先輩。鳴雪は子規の人生の師のごとき立場であったが、俳句においては子規に一目置いていた。子規は、俳句の論争では鳴雪といえども容赦なくやり合ったが、しかし常に鳴雪翁と呼び、礼を尽した。
 その鳴雪がホトトギスの会計上のことで、なにゆえ水飴一壜持って子規の病床を訪れたのか。余命いくばくもない子規がホトトギスの報酬増額を望んでいることを察した虚子が、鳴雪を差し向けたのではないか。鳴雪に礼を尽す子規の弱点を突き、子規の望みをやんわり断とうとしたのであろう。
 翌11日、子規は、母を碧梧桐、虚子宅に行かしている。「母帰らる 河東高浜二軒訪はれしに皆留守なりきと」と記す。子規は、碧梧桐、虚子のことを、「河東」「高浜」と記すことで、人間としての距離感と屈折した思いを表現してるようだ。普段呼び慣れている碧梧桐、虚子の俳号と、河東、高浜とあえて姓で呼ぶ場合とでは、あきらかに親疎の感情に隔たりがある。門弟としての感情が勝っているいる時は俳号で、門弟としてではなく一社会人、ホトトギスの経営者として向き合わざるを得ない時は姓で呼んだのであろう。そこに、手塩にかけて育て上げた門弟への不満や屈折した感情が読み取れる。
 母が訪ねた時、河東、高浜ニ軒とも留守とのことであったが、その翌日(12日)「高浜より使、茶一かん、青林檎ニ、三十、金一円持来る 茶は故政夫氏のくやみかへし、林檎は野辺地山口某より贈り来る者、金円は臍斎より病気見舞」と記述。この日、子規は、
   消えんとしてともし火青しきりぎりす 
 
          ※
 9月18日の記述に「午後虚子来る 晩飯をくふて帰る 虚子は九段坂上に転居せりと 家新し 家賃16円なりと」「晩飯後腹はりて苦し 四、五日前の薬を出して呑む」。
 翌19日に子規は「家賃くらべ」をあげている。「虚子(九段上)16円 飄亭(番町)9円 碧梧桐(猿楽町)7円50銭 四方太(浅嘉町)5円15銭 鼠骨豹軒同居(上野涼泉院)2円50銭 我廬(上根岸鶯横町)6円50銭 ホトトギス事務所4円50銭 把栗(大久保)4円 秀真(本所緑町)4円(畳建具なし)」と記す。
 この「家賃くらべ」から虚子の金回りのいいのが分かる。子規の根岸の家賃より2.5倍の家賃の家に住み、子規の望むホトトギスの報酬増額につれない対応をする。子規はよほど腹に据えかね、気持ちをなだめるために家賃くらべを認めたのであろう。金を出し惜しみ、根岸の子規庵の2.5倍の家賃の家に平然と移り住む虚子の感覚が、子規には理解できなかったのだろう。
 さらに翌20日、「虚子より『ホトトギス』先月分のとして10円送り来る」と記し、そして次の行から有名な「律は理詰めの女なり」の文章がつづく。その一節を紹介する。「律は理詰めの女なり 同感同情のなき木石なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命じることは何にてもすれども婉曲に諷したることなどは少しも分からず 例へば『団子が食ひたいな』と病人は連呼すれども彼はそれを聞きながら何とも感ぜぬなり 病人が食ひたいといへば同情あるものならば直ちに買ふて来て食はしむべし 律に限ってそんなことはかつてなし」云々と。
 翌21日には子規は、「律は強情なり」と理詰めの女とは異なる一面を書いている。「もし余が病後彼なかりせば余は今頃如何にしてあるべきか 看護婦を長く雇ふが如きは我能く為す所に非ず よし雇ひ得たりとも律に勝る所の看護婦即ち律が為すだけの事を為し得る看護婦あるべきに非ず 律は看護婦であると同時にお三どんなり お三どんであると同時に一家の整理役なり 一家の整理役であると同時に余の秘書なり 書籍の出納原稿の浄書も不完全ながら為し居るなり しかして彼は看護婦が請求するだけの看護料の十分の一だも費さざるなり 野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事はをはるなり 肉や肴を買ふて自己の食料となさんなどとは夢にも思わざるが如し もし一日にても彼なくば一家の車はその運転をとめると同時に余は殆んど生きて居られざるなり」と妹の律の働きと存在に感謝している。
 思うに、前の「律は理詰めの女なり」の同感同情のなき木石なりの表現は、むしろ虚子に向けられたものではないか。そして、子規は、律の名誉のために翌日に、律の看護ぶりと家事炊事の働きを書き、律いなければ「余は殆んど生きて居られざるなり」と記すにいたる。
             ※
 子規に対する虚子の金銭感覚に話をもどそう。
 10月4日、「鳴雪翁ホトトギスよりの10円をとどけられかつホトトギスに付き談する所あり」と一行のみの記述に終わっている。翌5日は「衰弱を覚えしが午後ふと精神激昂夜に入りて烈しく乱叫乱罵するほどに頭いよいよ苦しく狂する能はず独りもがきて益苦む」と。
 虚子は、鳴雪にホトトギスの10円を子規に届けさせている。自分は子規の2.5倍の家賃の家に住んでいながら、余命いくばくもない子規の報酬増額に耳を貸そうとせず、ホトトギスの報酬を届けるのに鳴雪を使う。虚子の子規に対する感覚と、いじましいまでの金銭哲学が透けて見える。
 10月13日「
再ひしやくり上て泣候処へ四方太参りほとときすの話金の話などいろいろ不平をもらし候ところ夜に入りては心地はれはれと致申候」と子規は記す。子規に金を出さず、16円の家賃の家に移り住む虚子の金銭感覚、金銭哲学に、後の俳句界の堕落・退廃の芽が宿っているようだ。
 子規が病牀六尺で喘ぎつつ記した「仰臥漫録」の記述から、子規と虚子の関係、さらには金銭をめぐる子規と虚子の「軋み」から、私は虚子のいじましい金銭感覚を推論として批判した。
 虚子の崇拝者は多い。俳句総合誌を開けば、虚子から直接、教えを受けていない俳人までもが臆面もなく「虚子先生」と媚びへつらう。死してなお影響力衰えない虚子への批判は、文学としての俳句への第一歩だと確信している。
            ※
 仰臥漫録の記述の要点を時間経過で改めてあげておく。         
9月10日 鳴雪翁来る『ホトトギス』会計の上につき話あり 水飴一壜贈らる
9月11日 母帰らる 河東高浜二軒訪はれしに皆留守なりきと
9月12日 高浜より使、茶一かん、青林檎ニ、三十、金一円持来る 茶は故政夫氏のくやみかへし、林檎は野辺地山口某より贈り来る者、金円は臍斎より病気見舞
9月18日 午後虚子来る 晩飯をくふて帰る 虚子は九段坂上に転居せりと家新し 家賃16円なりと
晩飯後腹はりて苦し 四、五日前の薬を出して呑む
9月19日 (家賃くらべ)「虚子(九段上)16円 飄亭(番町)9円 碧梧桐(猿楽町)7円50銭 四方太(浅嘉町)5円15銭 鼠骨豹軒同居(上野涼泉院)2円50銭 我廬(上根岸鶯横町)6円50銭 ホトトギス事務所4円50銭 把栗(大久保)4円 秀真(本所緑町)4円(畳建具なし)
9月20日 虚子より『ホトトギス』先月分のとして10円送り来る
10月4日 鳴雪翁ホトトギスよりの10円をとどけられかつホトトギスに付き談する所あり
10月5日 衰弱を覚えしが午後ふと精神激昂夜に入りて烈しく乱叫乱罵するほどに頭いよいよ苦しく狂する能はず独りもがきて益苦む
10月12日 夕虚子来る 雑用借用論ほぼ定まる
10月13日 (枕許の硯箱の)小刀でものど笛を切断出来ぬことはあるまい錐で心臓に穴をあけても死ぬるに違ひないが…
考へて居る内にしやくりあげて泣き出した その内母は帰って来られた
再ひしやくり上て泣候処へ四方太参り
ほとときすの話金の話などいろいろ不平をもらし候ところ夜に入りては心地はれはれと致申候
10月25日 余も最早飯が食へる間の長からざる思ひ今の内にうまい物でも食ひたいといふ野心頻りに起りしかど突飛な御馳走(例、料理屋の料 理を取りよせて食ふが如き)は内の者にも命じかねる次第故月々の小使銭俄にほしくなり種々考を凝らししも書物を売るより外に道なくさりとて売るほどの書物もなし 洋紙本やら端本やら売ったところで書生の頃べたべた捺した獺祭書屋蔵書印を誰かに見らるるも恥じかきなり とさまかうさま考へた末終に虚子より二十円借りることとなり已に現金十一円請け取りたり これは借銭と申しても返すあてもなく死後誰か返してくれるだろー位のことなり 誰も返さざるときは家具家財書籍何にても我内にある者持ち行かれて苦情なき者なりとの証文でも書いておくべし

 
私の虚子批判に、反論・批判をいただきたい。
虚子崇拝者は、反論・批判もできない腑抜けばかりではないはずだ。

 

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季語と季感について
(俳誌「雛鳥」2号掲載予定

 無季俳句もあるが、「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀 虚子」という句があるように、有季定型の俳句においては、「季語」の存在は一つの「信仰」となっているようだ。
 宗祇は「発句の事、先は其の季の前後をたがへず」(吾妻問答)とその時節にふさわしい発句を旨とすべしと教えていて、「季の詞」がものの本性・本意へと深化してゆく。去来抄には其角の有名な「鶯の身を逆さにはつね哉」の句を評し「去来曰、角が句は春暖の乱鴬也。幼鴬に身を逆にする曲なし。初の字心得がたし(略)凡物を作するに、本性をしるべし。しらざる時は陳物新詞に魂を奪われて、外のことになれり。魂を奪るるは其物に着する故也。是を本意を失ふと云。角が巧者すら時て過有、初学の人慎むべし」(同門評)と、本性、本意を厳しく指摘している。鴬の初音に見られるごとく物の真実に対する去来の作句姿勢が眼前の如く見えてくる。去来のこの作句観は芭蕉の教えによるものだろうが、「俳句」の本質を突いている。
        ※
 ところが、子規以後の俳人で、ものの本性・本意に真摯に心を傾けた人物がいただろうか。山本健吉は「純粋俳句」のなかで、
 道のべの阿波の遍路の墓あはれ  虚子
 赤魚鰾は毛物のごとき眼もて見る 誓子
 檻の鷲さびしくなれば羽搏くかも 波郷
 焼跡に残る三和土や毛毬つく  草田男
 あきらめて鰤のごとくによこたはる 秋邨

 の句をあげて「俳句は季感の有無より季語という一種の『選ばれた言葉』がはっきり一句の中に存在することが大事だということ」を示していると断定している。
 虚子以後の俳人の取るに足らない句を羅列して、季感より季語という「選ばれた言葉」の約束事と言ってしまえば、季の詞としての本性・本意はどうなるのか。季語にもたれかかった「季題趣味」に堕すとかどうとかいうことではなく、俳句における季語の存在をどう見るかという本質的な問題だ。
 子規は、季語について「四季の題目を見れば即ちその時候の聯想を起すべし。(略)この聯想ありて始めて十七文字の天地に無限の趣味を生ず」(俳諧大要)と述べ、四季の聯想を解さざるものはついに俳句を解せざるものなり、と言っている。
 「季語は日本人の感性のインデックス」と言ったのは山本健吉のように記憶しているが、私は、季語とは感動を伝える「共鳴板」のようなものだと見ている。バイオリンは共鳴板があるからこそ人々の琴線に触れる音をもたらす。ほとんど全ての楽器には何らかの共鳴装置があり、だからこそ微妙な音を奏でるのだろう。
 共鳴板としての季語が、単に俳句における因習的な約束事として置かれるだけであれば、感動の共鳴とはほど遠いものになる。共鳴板の構成要素に「季感」の存在がある。季感なくして共鳴板としての季語は成立しない。季の詞、季の題といわれていたものを初めて「季語」という言葉で表現したのは大須賀乙字だと言われ、乙字は季感に重きを置いた。俳句の約束事だからと感動のない「季語」を置けば、途端にその句は無季俳句より無味乾燥したものになる。「感動ない季語」とは季語に心血をそそぐことなく、季語を単に比喩に、あるいは何者かへの当てつけに用いることである。ちなみに高浜年尾が珠玉の句と讃えた虚子の「五百句」の中に、
 酌婦来る火取虫より汚きが      虚子
 天の川のもと天地天皇と虚子と    虚子
 これよりは恋や事業や水温む     虚子
 一を知つて二を知らぬなり卒業す   虚子
 亀鳴くや皆愚なる村のもの      虚子

 こうした句が少なからずある。
 虚子は、一方で「俳句の存立は季題を尊重する、といふ事にある。季題を尊重しなくなれば俳句は滅びる」(虚子俳話)と述べていながら、感動とは無縁のこうした句を作り、しかも自選の五百句として世に問うている。何らかの腹いせや自己アピールのために俳句形式を用いているだけであり、こうした句は、子規が提唱した俳句ではない。
 何らかの感動を得て、その感動を表現するために俳句形式の十七文字で表わす。感動を掬いあげ伝える、その感動の再生産の核となるのが季語ではないか。
 湖の水まさりけり五月雨      去来
 さみだれや大河を前に家二軒    蕪村

  
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