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漱石とシェイクスピア

夏目漱石『虞美人草』の問題

 水崎野里子

<初めに>
<漱石とシェイクスピア>
<『虞美人草』の現代に至るまでの評価>
<『虞美人草』とシェイクスピア>
<『虞美人草』に於ける悲劇と喜劇観>
<『『虞美人草』評価の問題>


<初めに>


 本論では,『虞美人草』の問題を藤尾を中心として,以下の二つの視点から考える.(1)シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』とメレディス『エゴイスト』との比較文学的視点(2)フェミニズムの視点からの検討,である.

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<漱石とシェイクスピア>

 漱石は,シェイクスピアを驚くほど広範囲に読んでいる.イギリス滞在中には,シェイクスピア学者として有名なウイリアム・クレイグ(1843−1906)にシェイクスピアの個人指導を受けた.野谷士の『漱石のシェイクスピア』によると,また,明治36年9月から明治38年6月までの東大での『文学論』の講義において,漱石は総数226に及ぶ英文学作品からの引用のうち,訳四分の一の56が,シェイクスピアからの引用であり,のち,明治38年9月から明治40年3月までの講義『文学評論』の中では,スウイフト,ポウプ,デフォオ等の18世紀作家たちの論述に六回,シェイクスピアからの引用がある.これらの講義と平行して,明治36年9月から,東大を辞める明治40年3月まで,『マクベス』,『リア王』,『ハムレット』などシェイクスピアの評釈が次々と行われた.1)その中で,『オセロ評釈』は野上豊一郎や小宮豊隆の説明付きで出版されている.2)また,『マクベス評釈』も出版された.3)論文『マクベスの幽霊について』が『帝国文学』に発表されたのは,明治37年1月であった.4)また,漱石は明治44年5月20日から26日にかけて行われた坪内逍遥の文芸協会第3回目の公演『ハムレット』を5月22日に観劇,感想『坪内博士とハムレット』を書いている.その中で漱石は上演の不満を述べ,逍遥の写実的なシェイクスピア受容に不満を唱えている.そして,シェイクスピア劇の「不自然さ」,「突飛さ」を強調,またシェイクスピアの原文の詩文の翻訳の難しさを述べている.この漱石の感想は,逍遥の写実的なシェイクスピア理解を批判するものとして,意味があろう.以下は漱石の逍遥の『ハムレット』上演の感想の抜粋である.

 けれども,博士が沙翁に対して余りに忠実ならんと試みられたがため,遂に我等観客観客に対して不忠実になられたのを深く遺憾に思ふのである.沙翁劇は其劇の根本性質として,日本語の翻訳を許さぬものである.5)

 沙翁を写実の泰斗の様に云ひ触らすのは真でもあるが,又大いなる嘘でもあると余は主張したい位に思っている.成程喜怒哀楽の因果的に流露する段落関係には普通の趣を具へているかもしれないが,其喜怒哀楽の中に盛られる表現には寄り付けない程に不自然で且突飛なものがある.6)

 此不自然で突飛な,我々とは尤も人間的交渉の少ない思想が,即ち沙翁の詩想なので..
7)
 また,『倫敦塔』には,漱石は「余の空想から抽出したもので,沙翁とは何の関係もない」と断ってはいるが,シェイクスピア『リチャード三世』からの引用,リチャード二世の妃エリザベスが倫敦塔に幽閉中の二王子に会いに来る場と,二王子の殺害への言及がある.また,『吾輩は猫である』にはシェイクスピアとハムレットへの,『趣味の遺伝』においてはマクベスの門番への言及が,『草枕』にはミレーの描いたオフィーリアへの言及が,『三四郎』にはハムレットへの言及が,『行人』にはオフェリアへの言及が,見られる.そして,『虞美人草』においては,クレオパトラとハムレット,マクベスの魔女への言及が,見られる.『虞美人草』は,シェイクスピアを広範囲にしかも丹念に読んでいる漱石の,その知識の実作への応用として,興味ある作品である.

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<『虞美人草』の現代に至るまでの評価>

 石原千秋はこう評する.

 漱石の小説の中で,『虞美人草』ほど毀誉褒貶の激しいものはないだろう.というよりも,これほど誉めるのに苦労する小説はないと言うべきだろうか.8)

 特に「近代」をすでにほとんど自然な環境のように生きている論者が,「道義」によって殺される「我」の女藤尾を見捨てることは人権問題(!?)にかかわるかもしれない.(略)現行憲法の思想から見るかぎり,甲野の「道義」は明治憲法の思想を積極的に支持しているとしか考えられないからである.9)

 また,水田宗子はこう述べる.

藤尾の選択を非難,批判することは,近代女性の願望そのものを非難することにほかならない.10)

 『虞美人草』を読んで,女性が<不愉快>をおぼえるのは,それぞれに家父長制の中の価値観を体現している作中の男達に対してであり,そのような物語を書いた作者への疑惑と不信感である.11)

 『虞美人草』は,漱石自身も好まず,失敗作とは言わぬまでも,問題作と考えられている,漱石の作品の中ではあまり評判のよくない作品である.石原千秋,水田宗子の他,正宗白鳥,唐木順三,酒井英行などが,かなり厳しく批判している.その批判の大要は,(1)甲野が作者の意を担いすぎている.すなわち,作者の代弁者として安易に使われすぎている.そのため,小説の筋に葛藤,ドラマがない.12)(2)作品の筋が,作者の「セオリー」の主張のために利用されすぎ,そのために,藤尾の死が不自然な印象を与える.13)(3)筋が,勧善懲悪の古い観念に支配されすぎている.14)(4)作者の女性観,結婚観,「道義」として捉えられている道徳観が古い15):作者はあきらかに藤尾で示される自我を持った女を嫌い,家庭的で地味な小夜子や糸子を賞賛している.また,家と家,親同士の決める結婚観が残存している.更に,小野は恩師の恩に報い,恩師の娘と道義のために結婚する.ゆえに,この作は,現代から見ればかなりの古さを感じさせ,評価のさらなる検討と読み直しを要求される「問題作」と言える.また,『虞美人草』とシェイクスピアとの比較文学的関連は,野谷士や久野真吉などにより述べられている.16)久野真吉は同論文でまた,ジョージ・メレディスの『エゴイスト』との関連を述べている.

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<『虞美人草』とシェイクスピア>
   
 『虞美人草』においては,シェイクスピアのクレオパトラのイメージを藤尾が,ハムレットのイメージを甲野が,マクベスの魔女のイメージを藤尾の母(謎の女)が,負わされている.漱石はハムレットの思考癖を甲野の中に描いた.また,藤尾の引用するクレオパトラの話はプルタークからであるが,藤尾を「紫」の女とした点,藤尾を並はずれた愛と嫉妬と虚栄(我)を持つ女と描いている点,また最後の藤尾の死のエピソードはシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』からの場面の応用で,プルタークを用いつつも,シェイクスピアが作者の念頭に常にあった.作中に実際にシェイクスピアのクレオパトラへの言及がある.故に,この作品は,小説という形式の中でシェイクスピアのドラマに言及している野心作である.また,メレディスの『エゴイスト』に描かれるエゴイスト,サー・ウイロビーの存在と「人間の愚かさ」を示すものとしてのメレディスの喜劇論は,『虞美人草』に影響している,少なくとも漱石は参考にしていると私も考える.では,次に,作中の藤尾の描写を追ってみよう.
初めての藤尾の登場時,彼女はこう形容される.

紅を弥生に包む昼たけなわなるに,春を抽んずる紫の濃き一点を,天地の眠れるなかに,鮮やかに滴たらしたるが如き女である.夢の世を夢よりも艶に眺めしむる黒髪を,乱るるなと畳める鬢の上には,玉虫貝を冴々と菫に刻んで,細き金脚にはっしと打ち込んでいる.静かなる昼の,遠き世に心を奪い去らんとするを,黒き眸のさと動けば,見る人は,あなやと我に帰る.半滴のひろがりに,一瞬の短きをぬすんで,疾風の威を作すは,春に居て春を制する深き眼である.(略)模糊たる夢の大いなるうちに,燦たる一点の妖星が,死ぬるまで我を見よと,紫色の,眉近くせまるのである.女は紫色の着物を着ている.17)

この箇所で既に早くも藤尾を規定する「紫色」が示されている.藤尾は小野にクレオパトラを習っている.すなわち,作中において,藤尾の登場と共に早くもその紫とクレオパトラが言及される.やがて両者の間に以下の会話がある.

「沙翁の描いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中に引き込まれて,出る事が出来なくなって,ぼんやりしているうちに,紫色のクレオパトラが眼の前に鮮やかに映て来ます.剥げかかった錦絵のなかから,たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます.」
「紫?よく紫とおっしゃるのね.何故紫なんです」
「何故って,そう云う感じがするのです」
「じゃ,こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける,長き袖を,さっと捌いて,小野さんの鼻の先に翻す.小野さんの眉間の奥で,急にクレオパトラの臭がぷんとした.18)

以上の箇所の中では,クレオパトラと藤尾双方に紫色が与えられている.この紫,そしてクレオパトラについては,シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』二幕二場に次の言及がある.エノバーバスによって語られる.

まず身を横たえたる小舟は,磨き上げたる玉座さながら燃ゆるがごとく水面に浮かび,艫に敷かれた甲板は金の延板,帆には紫の絹を張り,焚きこめた香のかおりを慕って,風は気もそぞろの恋わずらい,櫂はいずれも白銀,笛の音に合わせての見事な水さばきは,立ち騒ぐ波も我遅れじと慕いまつるかに見えました.かの女人その人はと言えば,到底言葉には尽くせませぬ,垂れ布は色絹に金糸銀糸の縫い取り,その陰にひっそり身を横たえた姿は,なるほど,かの絵筆の妙よく自然を超ゆる画中のヴイーナスも遠く及ぶところにあらずとでも申しましょうか.両脇に侍する童は頬に笑窪を湛え,笑めるキューピッドさながら,五色の扇をもって風を送ると,冷めた頬は二たび上気して,その薄居い肌に血がのぼり,かくして上げたり下げたり.
           (福田恒存訳)

次いで,小野はクレオパトラの恋と嫉妬について言及する.二人の間に以下の対話がある.

「そよと吹く風の恋や,涙の恋や,溜息の恋じゃありません.暴風雨の恋,暦にも録ていない大暴風雨の恋.九寸五分の恋です」と小野さんが云う.
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない.紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を斬ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が怒ると九寸五分が紫色に閃ると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「沙翁が描いた所を私が評したのです.ーー安図尼が羅馬でオクテヴィアと結婚した時にーー使の者が結婚の報道を持って来た時にーークレオパトラの...」
「紫が嫉妬で濃く染まったんでしょう」
「紫がエジプトの日で焦げると,冷たい短刀が光ります」19)

 次いで,小野はクレオパトラの嫉妬についてこう言及する.

「(クレオパトラが)オクテヴィヤのことを根堀り葉堀り,使の者に尋ねるんです.その尋ね方が,なじり方が,性格を活動させているから面白い.オクテヴィヤは自分の様に背が高いかの,髪の毛はどんな色だの,顔が丸いかの,年はいくつだのと,何所までも使者を追窮します...」20)

シェイクスピアの劇の方で,この箇所は二幕五場と三幕三場に示されている.

使者 女王様,アントニー様はオクテイヴィヤ様と御結婚式をお挙げになりました.
クレオパトラ 疫病に取りつかれるがいい!(使者を打つ)
使者 女王様,お気を静められますよう.
クレオパトラ え,何と?(二たび打つ)行っておしまい,悪党め!ぐずぐずしていると,その眼球をまりのように蹴とばしてやる,髪の毛を引きむしってやる,(使者を引きずり廻しながら)は針金の鞭で打ちのめし,その肌を塩水で煮くたらして,生きながら地獄の苦しみに浸らしてやろう.
               (福田恒存訳)
 
三幕三場で,クレオパトラは使者にオクテヴィヤの様子を聞く.

クレオパトラ 背は私くらいおありかい?
使者 それほどは.
クレオパトラ 物を言うのをお聞きだろう,甲高い声か,それとも低い方か?
使者 は,お聞きいたしました,むしろ低めの声と存じます.
クレオパトラ それなら,何もそう気にしなくてもよい,御寵愛もあまり長続きはしないね.
(略)
クレオパトラ どんな顔か,心に残っておいでだろう,面長か,それとも円顔か?
使者 円顔も,いささか並はずれで.
クレオパトラ えてして足りない女がそういう顔をしているものだよ.髪の毛は,色は,どんなだい.
使者 鳶色でございます.額の低いことと申しましては,いくら望みましても,もうあれ以上は無理と申すもの.
クレオパトラ さあ,黄金を遣ろう.先には随分手荒らなまねもしましたが,決して悪う思わぬように.
                (福田恒存訳)

以上で示される「紫」とクレオパトラ,彼女の暴風雨のような恋,嫉妬は,そのまま藤尾の人物造形に使用される.藤尾の小野への恋は暴風雨のような恋である.彼女は,安珍を追いかける清姫に言及する.そしてクレオパトラの嫉妬は,後に小野が結婚することになる小夜子への藤尾の強烈な嫉妬となり,彼女の死の起因として使用される.
そして,クレオパトラの女王としてのプライドは,藤尾の中に以下のように反映する.

沙翁は女を評して脆きは汝が名なりと云った.脆きが中に我を通す昂れる恋は,炊ぎたる飯の柔らかきに御影の砂を振り敷いて,心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ.(略)我の強い藤尾は恋をする為めに我のない小野さんを択んだ.(略)
 唯々として来るべきはずの小野さんが四五日見えぬ.藤尾は薄き粧を日毎にして我の角を鏡の裡に隠していた.(略)
 玩具にされたのならこのままでは置かぬ.我は愛を八つ裂にする.面当はいくらもある.(略)我が立てば,虚栄の市にわが命さえ屠る.逆しまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風は我(プライド)!我!と叫ぶ.ーー藤尾は俯向きながら下唇を噛んだ.21)

藤尾の,もう一つのクレオパトラとの関係は,クレオパトラの死の場面と藤尾の死の対比である.その場面は早くも小説の始まり近くに,藤尾によって読まれる.

花を墓に,墓に口を接吻して,憂きわれを,ひたふるに嘆きたる女王は,浴湯をこそと召す.浴みしたる後は夕餉をこそと召す.この時賎しき厠卒ありて小さき籠に無花果を盛りて参らす.女王のシーザーに送れる文に云う.願わくは安図尼と同じ墓にわれを埋め給えと.無花果の繁れる青き葉陰にはナイルの泥に焔の舌を冷やしたる毒蛇を,そっと忍ばせたり.シーザーの使は走る.たつを排して眼を射ればーー黄金の寝台に,位高き装いを今日と凝らして,女王の屍は是非なく横たわる.22)

この場面は,小夜子を選んだ小野に憤り,小夜子に嫉妬し,憤死する,藤尾の死の場面と,彼女の死の床の美しい情景に対応する.彼女は死の直前に金時計の鎖を投げつけるが,この鎖は蛇を象徴している.23)漱石は,かなりのスペースを割いて藤尾の死の床のありさまを物語る.その中,逆さに立てた銀屏風に虞美人草が美しく描かれている.そして漱石はこう描く.

凡てが美くしい.美くしいもののなかに横わる人の顔も美くしい.驕る眼は長えに閉じた.驕る眼を眠った藤尾の眉は,額は,黒髪は,天女の如く美くしい.24)
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<『虞美人草』に於ける悲劇と喜劇観>

 漱石はあれかこれかの選択の逡巡,また,死以外の人間の世界のなりわいのすべてを喜劇と見,悲劇を死による帰結とみなしている.喜劇観の方はメレディスの喜劇観を参考にしているかもしれないが,究極的には漱石独自の解釈であろう.一方,悲劇観の方は,シェイクスピアの悲劇の定義に適応する.だが,それをまた,勧善懲悪と結びつけ,死を「道義」による作者の作中人物への懲罰と考えている点では漱石自身の独特の悲劇観である.その是非についてであるが,シェイクスピアにも,勧善懲悪の要素,「正義」の具現,神による懲罰の要素はある.だが,シェイクスピアの場合は,漱石の場合ほど直接的,短絡的ではない.シェイクスピアの悲劇で示されるものは,究極的には,勧善懲悪の教訓より,逍遥が「没個性」と言ったように,人間のドラマの葛藤なのである.シェイクスピアは,プライド,並はずれた情熱,嫉妬を持つエジプトの女王クレオパトラを描くが,彼は彼女を完全に道徳的に非難される存在としては描いていない.あくまで,個性を持った一人の女として,眺めて行く.一方,藤尾殺しは,何人かの研究者が指摘しているように,作者の「道義」観が顔を出しすぎ,葛藤も十分ではなく,突然すぎる.25)そして,次の問題が生じて来る.一体,では,『虞美人草』は悲劇なのか喜劇なのか?
 もし,藤尾の死がなかったら,この作はメレディス『エゴイスト』に習った喜劇である.作中の登場人物は,小夜子と糸子以外,皆何らかのエゴ,打算によって行動している.特に,作中で示される小野の金時計と宗近の外交官試験のパスは,世俗的な成功の象徴である.その中で,甲野は継母の面倒を見ることをいやがり,自由な生活を求める.小野は,藤尾との結婚によって金を得て,その金で恩師に恩返ししようと目論む.宗近は,藤尾の外見上の華やかさを愛し,外交官の女房には,あのような女でなければ駄目だと考える.すなわち,彼の藤尾への愛は,虚栄の愛である.孤堂は,弟子の小野に娘の面倒を見させようと企む.藤尾の母は,甲野を排斥して財産のない小野を婿養子に迎えることで,老後の安泰を計ろうと計画する.その中で,藤尾は自我とプライドを持った女と説明される.すなわち,殆どすべての登場人物はエゴイストであり,その愚かさをさらけ出す.すなわち,この作は喜劇と規定し得る.だが,ただ藤尾の死のみが,この作の喜劇性を破壊する.ゆえに,喜劇の中に突然悲劇性が介入するという,この作の独自の構造が示されることになる.
 『虞美人草』の筋を,作者漱石の意図に従って読めば,小野が,厭うべき藤尾との結婚の非を悟り,恩師の恩に報いるべく正当に小夜子と結婚するまでの経緯である.また,甲野が藤尾という悪しき妹から解放され,従順な糸子と正当に結婚するまでの経緯である.だが,藤尾の自我を持った新しい女としての魅力については,既に水田宗子や中山和子等によって述べられている.26)
 藤尾を肯定的に捉えようとする読みは,作者の意図を離れて,テキスト自身を新しい現代という時代の中で読み直す行為を意味する.私も,藤尾は,自我と明確な意見を持った,更に女としてのセクシュアリティを兼ね備えた,魅力的な女だと思う.彼女ははっきりと自分で小野を選択し,彼を愛する.そして,最後になると,藤尾は,作者の意図を離れて生きた女として動き出している.藤尾をこのように肯定的に捉える読みは,『虞美人草』を,明確な自我を持った女が,周囲の古い道義にしばられた男達に理解されず,死に追い込まれる悲劇と読むことになるであろう.
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<『虞美人草』評価の問題>

 前にも述べたように,『虞美人草』は,小説の中で,ダイナミックなドラマであるシェイクスピアの劇からの要素を扱った点で,ユニークな構造を持った野心作である.その結果,クレオパトラのイメージを与えられた藤尾が,一人周囲から浮き出てしまい,彼女の死が唐突な感じを示してしまう.水田宗子の述べる通り,作中に,クレオパトラの威厳に匹敵するアントニーもシーザーも,不在なのである.27)すなわち,この作は,いわばメレディスの喜劇の中にシェイクスピアの悲劇が,互いに融合することなく示されている矛盾を持った構造である.この作が問題作であるゆえんがそこにある.漱石自身が,後に『坪内博士とハムレット』の中で述べているように,本来,シェイクスピアの劇は不自然さ,突飛さを持ち,写実的形式には適応しない.故に,写実的な小説の形式の中にシェイクスピアを導入すること自体,大いなる冒険であるはずである.漱石は,おそらくそれを知りつつ,その冒険を行った.漱石はその悲劇論の中で,シェイクスピアの場合よりもはるかに「道義」に固執しすぎた.それはシェイクスピアの受容としては短絡すぎ,作者自身の悲劇観を主張しすぎたことを意味する.そのことは,シェイクスピアと漱石の差異として認識すべきである.だが,私は,シェイクスピアと取り組もうとする,漱石のこの勇気ある冒険,試み自体は評価したい.漱石は,その成功不成功は別として,反自然主義的な小説の試みを,この作で示しているのではなかろうか.藤尾は,作者漱石からは嫌われたかわいそうな女である.だが,彼女は,作者の意図を超え,日常的な枠を越えた,並ならぬ愛と嫉妬を持つ自由でプライドを持った,シェイクスピア的な女として,小説の中で生き始める.彼女は,漱石の描く女たちの中ではひときわ明確な個性を持った女の一人として生きている.すなわち,藤尾一人に焦点を当てる限り,そして,作者の意図を離れて彼女を好意的に読む限り,『虞美人草』は,シェイクスピアのクレオパトラの翻案という野心作として,評価されるべきである.シェイクスピアを深く読み,英文学に深く通じていた漱石が,女性と恋愛,結婚の問題に関しては,日本の,当時の時代の枠から出ることは出来なかった(『虞美人草』の発表は明治40年)という事実は残念で意外なことであるが,だが,彼は,シェイクスピアの力を借りて,藤尾という魅力的な女を書き得てしまった.明治40年代,日本の女性は封建的な日本の家父長制度から,そろそろ歩み出し始める.
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注:

1)野谷士,『漱石のシェイクスピア』(1974,朝日出版社),4−5頁
2)同上,『漱石のシェイクスピア』所収.
3)岩波書店,『漱石全集』第14巻所収.
4)前褐『漱石のシェイクスピア』,4頁
5)『漱石全集』第16巻,383頁
6)同上,383頁
7)同上,384頁
8)石原千秋,「博覧会の世紀へーー『虞美人草』」:『漱石研究』第1号(翰林書房,1993),76頁
9)同上,76−77頁
10)水田宗子,「『虞美人草』における漱石の<藤尾殺し>について」:「国文学;解釈と教材の研究」1997年5月号,104頁
11)同上,104頁
12)例えば,清水孝純,「ある仮説」:『漱石研究』第1号,1993,201頁
13)例えば,酒井英行,「『虞美人草』論ーー小野と小夜子」:『日本文学』32号,(日本文学協会編集・刊行,1983)40−41頁
14)例えば,磯田光一,「『虞美人草』の文脈」:『漱石作品論集成』(1951,桜楓社)第三巻,108頁.正宗白鳥もそう評した.
15)例えば,水田宗子,前褐論文参照.
16)前褐,野谷士,『漱石のシェイクスピア』,久野真吉,「漱石・沙翁・メレディス」:『比較文学研究「夏目漱石」』(朝日出版社,昭和53年)
17)夏目漱石『虞美人草』:新潮文庫,(平成9年,新潮社),21頁
18)同上,24−25頁
19)同上,25−26頁
20)同上,26頁
21)同上,191−194頁
22)同上,36頁
23)前褐,清水孝純「ある仮説」,198頁
24)同上,381頁
25)例えば,酒井英行,前褐論文41頁
26)前褐,水田宗子,「『虞美人草』における藤尾殺しについて」
中山和子,「『虞美人草』ーー女性嫌悪と植民地」:「迷羊のゆくえーー漱石と近代」(1996,翰林書房)参照.
27)水田宗子,前褐論文110頁

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