心に浮かぶこと(日々雑感)

 

その十四 目次

 

66続・石の上にも五十年

67たった三文字の情報でも

68北京地質博物館に豊コーナー誕生

69中国長沙の鉱物ショー

70世智辛くなったか?中国

 

66)続・石の上にも五十年

 

ちっとも話が続かないHPなのだが,それでも4年近く書き継いで,65話までやって来た.このまま書き続けていくと,しまいにはどうなるのだろう.私が生きていて,何とか書き継いでいるうちは,この形で続くのかもしれない.しかし分量が多くなると,どうせ古いものは読まれなくなるだろうし,容量が大きくなってくると,プロバイダーに払うお金も馬鹿にならない.ということは,ある程度から先になると,古い部分はどんどん切り捨てられてゆくことになるだろう.もし私が死ねば,暫くはそのままでも,やがて全部がネットから取り下げられる運命だ.駄文を連ねて来たのだから,未練はないといえばそれまでだが,それでも,その時々に心をよぎる想いの一端を,幾らかの感慨・感傷を滲ませて書いてきたつもりだから,いささかの愛着はある.

どうしたら良いのか,この所少し頭を悩ませていた.そして辿りついた結論が,また本にしてしまえ,である.4年前の70歳になる時,友達の勧めで何やら駄文を書き連ねていたのだが,ひょっと明文書房なる出版社の,自費出版お引き受けします,という広告が目に入り,70歳の記念に自分の本を出す,というのも良いかな,という気分になった.それが「石の上にも五十年」の誕生のいきさつである.最後の方は話題に事欠いて,父母の話や生い立ちの記まで書いてしまったので,古希の記念にはちょうど良いか,とも思ったりした.

今回は74歳になるのだが,特に何の記念ということにもならない.しかし,ボケ防止のために文章を書く,という趣旨から行くと,ますます防止に力を入れなければならないような生活を続けているのだから,書き残した文章が溜まってゆくのは避けられないわけだ.裕福な老人(私のことではない)が金を使わなければ,日本経済の立ち直りは難しいとか聞く.アベノミクスとやらで,何やら消費消費が声高に叫ばれている.私自身は僅かな年金でのその日暮らしだが,どうせあの世へは持って行かれない訳だから,せいぜい有り金をはたいて消費をして,若い世代へお返しすることが求められているらしい.そうとなれば,皆さんからの「また彼奴がくだらない本など出しやがって」といった顰蹙などを気にしている場合ではないだろう.またまた明文書房のお世話になって,HPで書き継いだ65話のなかから,いくらかでも人様に楽しんでもらえそうなものを纏め,「石の上」の続編を出そう.そういう気持ちが湧いて来たのである.

そうと決まれば話は早い.「石の上」と全く同じスタイルでいけば,余計なことは考える必要がない.書き継いだ65話の中から,今回も36編を選び出し,HPではないので,書いたものをすぐに読んでいただく訳ではないから,いくらか年月が分かるように手も入れて,またHPではイニシャルで書いていた人名も実名をそのまま使わせていただくこととした.またHPでは写真を豊富に入れられるのが便利だった.でも印刷となると,写真集のような仕上がりでは情けないし,お金もかかりすぎる.それで,写真は必要最低限のものだけを残す形にした.こんな風に方針が決まれば,手直しは簡単だ.あっという間に原稿はできた.

明文書房の編集をやっておられる石村さんはお元気のようで,メールをお送りしたら,すぐに好意的なお返事を頂戴した.お手伝いします,やりましょう,ということである.思いついたのがつい先日なので,62日の74歳の誕生日までに刷り上げるというのには,やや時間が足りないかもしれない.でも奥付の発行の日付を誕生日にしてもらえば,お世話になっている皆様のお手元にお届けするのに,多少の時間がかかっても何の問題も無い,と相談が纏まり,いよいよ編集作業にかかっていただいた.

勿論,私もまだ手に取ってみてはいない訳だが,体裁が全く同じだから,皆様にお送りすると,おや,また「石の上」が来た,とびっくりされるかもしれない.中身はHPと同じである.話題があれこれと変わるので,日々雑感,旅行記,鉱物・試料整理,の三つに分類して並べてみた.鉱物愛好家の方々には,鉱物・試料整理の話が少なくて,ちょっと物足りないかもしれないが,専門に関係のない一般の方々には,日々雑感や旅行記を楽しんでいただけるかもしれない.でも考えてみると,今このHPを読んで下さっておられる方々は,ほぼ同じものが全部このサイトで見ることができるわけなので,改めて本に目を通すということはあり得ないことかもしれない.何のために本を作ってお配りするのか.ネットをご覧にならない方のためか,それとも何年か先,ネットからこのページが消えた後に,こんな馬鹿なことを書いていた奴がいたのか,と後輩諸君を驚かすためか.自分でもよく分からなくなってくる.まあ,あれこれ考えても仕方がない.ささやかな私のアベノミクスへの応援歌として,なけなしのお金の出費先を考えついただけ幸せだ,ということにしておこう.(2013419日)

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67)たった三文字の情報でも

 

なかなか面白い話題が見つからず,四苦八苦のこの頃なのだが,東大博物館の鉱床試料室の整理の方は,毎週大小様々な事件(?)の連続である.そんな中から,たったの三文字が書かれていたために,大量の試料が廃棄を免れた,という話を書いてみよう.

先日も,何時ものように,スチール大棚と呼んでいるロッカー様の大きな箱の中の,木製のモロブタ(平箱)の整理をしていた.一区切りが付いて,さておあとは如何に,と次のモロブタを覗き込んで見ると,硫化鉱物を含むような鉱石はなくて,堆積岩のような試料や,白色~桃色のがっしりした試料が一杯に詰め込まれている.何処の鉱山のものだろう,とラベルを探して見たが,鉱山名を書いたような紙片は全くないのである.一つひとつの試料には,34cm角ほどの小さな紙片が付いていて,何やら数字や英字が書かれているが,記号のようで全く意味が分からない.

こういう書いたご本人しか分からないラベルというものは,付けられていても殆ど役に立たないのである.こういう試料を博物館に持ち込んだ人は,将来自分がこれらを整理する機会があるとでも思っていたのだろうか.もし,このままになってしまうのであれば,せめて後日に整理する人にも分かるように,鉱山名を書いたラベルの一つも残せなかったのかと,何時ものことながら,恨めしい気分で一杯になる.モロブタ四箱分を片っ端から調べてみたが,鉱山名らしいものは無い.どうやらマンガン鉱床らしく,綺麗なピンク色をしたバラ輝石かパイロクスマンガン石からなる鉱石はあるが,黒色の酸化鉱や炭酸マンガンのようなものは殆ど見当たらないといった試料である.

標本整理の基本方針は,産地の分からない試料は,即断でまずは「廃棄」である.これだけまとまった数のあるセットの試料なので,残念ではあるのだが,廃棄もやむを得ないか,と考えた.まあしかし,隣の鉱山部門試料室で整理に励んでおられるBMさんは,鉱床の知識も豊富だし,肉眼鑑定も確かなので,まずは彼の意見も聞いてみようと思い,ピンクの鉱石を持って鉱山部門試料室を訪ねてみた.BMさんのご意見は,立派なマンガン鉱石で,四国の西部辺りに良く見られるマンガン鉱床のものにも似ている,ちょっと検討して見たら(すぐに捨てるには及ぶまい),とのことだった.そう言ってもらえると,何となく安心して,それなら当分,産地不詳マンガン鉱床試料,として,このモロブタ四枚をそのままにしておこう,ということにした.しかし標本棚の記述には,産地不詳標本,という,有難くない文字が並んでしまうことになるのは,いかにも残念だ.

乱雑に詰められているものは取りだして,幾つかは埃も払って,一部は紙箱を使ってきちんと並べ直す.そんな作業をしていたら,標本についている紙片とは別に,「敷島坑」と書かれたやや大きめな紙片がモロブタの底に貼り付いていた.続いて,35m坑,と書かれた紙片が入っているモロブタもあった.これは何やら産地に結び付く情報かもしれない,とピンときた.

週に一度の整理のあとはお茶ノ水まで出て,BMさんと東京ガーデンパレスのロビーで一休みし,いろいろと雑談するのを楽しみにしている.その日もお茶ノ水まで一緒に歩きながら,「さっきのマンガンのサンプルだけれど,敷島坑,と書かれた紙が出てきた」と話すと,流石はBMさんである.「えっ,それは浜横だ!」と言われる.長野県の浜横川鉱山だというのである.彼は浜横川には行ったことがあると言い,実は私も行ったことはある.しかし,敷島という坑名には全く覚えがなかった.記憶力というのは,これ程歴然と人によって差があるのか,まざまざと見せつけられるようで悔しいが,事実だから仕方がない.家に帰って調べたら,全国の鉱物産地総覧といった大部のデータを出しておられるYSさんの,鉱山内の鉱床・鉱体別の名称目録にも,敷島は浜横川,と出て来るし,吉村豊文先生の文献を見ても,敷島坑というものは記載されている.何と,私自身のフィールドノート(野帳)を見ても,この名前が出てくるし,35m坑,の名前も出てくるではないか.これなら浜横川の試料であることは,100% 確実だ.私は1982年に鉱山を訪れていて,ノートには見学時の様子がやや詳しく記述してある.

それでは標本の写真でもご覧頂こう.たった三文字の「敷島坑」を頼りに,浜横川鉱山の標本,と断定されるに至った貴重なものだ.品位の高そうなマンガン鉱は殆どなく,このようなピンクの珪酸鉱,といったようなもの,それに周囲の母岩とおぼしき粘板岩やチャートなどが大量に採られている.おそらく鉱山に二三日は滞在して採取したのではなかろうか.一体誰のサンプルなのか,筆跡も見覚えがないし,このように記号とも番号とも分からぬ記述を試料に付ける,という先輩・後輩にも心当たりがない.

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層状マンガン鉱石.産地に関する情報が付けられていないラベルばかりで困ってしまう.

帰宅後,私自身の野帳やアルバムを引っ張り出して見て,いくらか当時のことを思い出した.私が浜横川を訪れたのは上にも書いた1982 年である.野帳の記述によると,教室のジープを借り出して,1017日の朝8 時に,国家公務員共済の竹橋会館に行って,インドからの研究者 Supriya Roy 先生をピックアップ.Roy 先生はマンガン鉱物・鉱床の権威である,と伺っていた.河口湖畔で富士山の熔岩を採取,諏訪のSA で遅い昼食を取り,3 時過ぎに伊北IC から中央高速を降りて辰野町の吹原ホテルに投宿,とある.そして夕方6 時半に,渡邊武男先生が辰野駅に汽車で到着され,合流された.先生は,おそらくこの日の午前中に会議があって,Roy 先生と一緒には来られなかったのである.翌18 日が鉱山見学で,国道153 号線を北上,信濃川島駅脇から西の方角へ,横川川を遡上して9 時半に鉱山到着.鉱山事務所は名勝「蛇石」の対岸にあり,とノートに書かれている.まず事務所で,鉱床の発見は明治末,当初は浜氏の個人経営で地表付近の二酸化マンガンを稼行したため,「浜横川」と呼ばれるようになった,などの説明を聞く.鉱山のN氏の案内で,弥生坑に入坑,坑口より500m の地点で渡邊先生サンプリング,と書かれ,Roy 先生は坑外の貯鉱場でサンプリング,とある.お二人の先生のサンプリングの仕方が対照的で面白かったのであろうか.

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浜横川鉱山にてRoy 先生(左)と筆者.

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写真はいずれも渡邊武男先生が撮影されたもののようだ.数枚の写真に先生は全く写っておられない.私はカメラを持って行かなかったらしい.

横川の名勝「蛇石」.筆者の足元に川沿いに横たわるもの.平行岩脈に垂直に石英脈が等間隔で入っている.

 

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  坑内で.右が案内して下さったN氏.    坑壁の様子.石英脈が多数見られる.

 

浜横川は,古生層中の層状マンガン鉱床で,辰野の街から西方に10km ほどの山中にある.領家帯よりもさらに西に位置しており,領家の火成作用が及んでいることはないのであろうが,蛇石の中には石英脈が入り,坑内の写真でも,鉱床帯に数多く石英脈が見られる.どのような起源かは分からないが,鉱床付近に,かつて活発な熱水活動が存在したことは確からしい.(201358日)

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68)北京地質博物館に豊コーナー誕生

 

511日から19日(実際の帰国は,飛行機のキャンセルがあって,20日になってしまったのだが)の日程で,中国は北京と長沙に行ってきた.目玉は湖南省の省都である長沙で開かれた Mineral and Gem Show の見物だったのだが,その話は,いずれゆっくり書くこととして,まずはお目出度い話題からご紹介しよう.

以前から,このHPでもたびたびご登場願っている,私の鉱物学の師匠である豊 遙秋(ぶんの みちあき)さんに関わるお話である.このHPでは,登場人物のお名前は,ネットという誰でも閲覧できる場であることを考慮して,イニシャルで書かせて頂くことにしているのだが,今回のお話はお目出度いことでもあるし,国内の多くの鉱物愛好家にもご記憶に留めていただいて,北京へ行かれる機会があれば,是非お立ち寄り頂いて,実際にご覧頂きたい,という気持ちが強い.そのためには,はっきりと固有名詞で書かせて頂いた方が印象も強いかと思い,お許しを得てご本名で登場いただくことにした.

たびたび書かせて頂いているように,豊さんは無名会出身で,個人の鉱物コレクションを大量に持っておられた.しかし2006年だったか,「娘を中国に嫁にやるような気持ち」との名言を残して,持っておられたコレクションの殆どを,中国の国土資源部(部は日本の省に相当)の北京地質博物館へ寄贈された.これはウィキペディアの豊さんの項目にも紹介されており,脚注についているBYさんの文献で,その詳細を知ることができる.寄贈された標本の数は約4000点,鉱物種の数は約1400種ほどと聞いている.そして,それ以降,殆ど毎年のように博物館を訪れては,新たに入手した世界の新鉱物の,生まれたてホヤホヤのような標本を追加寄贈したりもしておられるのである.

北京の地質博物館は,西四(シースー)という,北京の人なら知らない人は居ないという,東京でいえば,新宿の様な所に建っていて,入口のすぐ脇に地下鉄の階段が上がって来ているという,交通至便な場所にある.北京に行かれた方は,是非お立ち寄り頂きたい.中国産の鉱物なら,最上級の標本にお目にかかれること請け合いである.

それで,今回のお話とは,この博物館の1階の,岩石・鉱物のフロアの一角に,何と「豊コーナー」が設けられていた,というご報告なのである.標本の寄贈を受けた博物館は,勿論大変喜んで,カタログ作りなどの作業も進めているそうだが,何といっても,こういうものがある,ということを来館者に知らしめるために,特別なコーナーを設けて,寄贈を受けた経緯を書いたプレートと共に,豊さんの標本の一部を常設で展示公開する,という計画を以前からもっていたようだ.それで,実際どのようにするか相談もしたい,ということで,豊さんとメールの交換をしておられた.ところがご存じのように,昨年から尖閣諸島の問題が発生し,加えてPM2.5とやらや,鳥インフルの話も始まった.あれこれ,計画を延ばしのばしにしているうちに,あっという間に時間が過ぎ,結局昨年は1度も北京に行かなかった,ということになってしまっていたのだった.そして今回,何時ものように2030点の標本を携えて博物館を訪れてみると,何と,「豊コーナー」は既にできていて,簡単な説明のプレートと共に,前回彼が持参した標本の中から,10数点の鉱物がガラスケースの中に陳列されているのだった.

予想もしていなかった展開に,豊さんも大変喜ばれ,コーナーの前で,写真を撮ったりした訳である.幅2mほどのガラスケースが1個ではあるが,1階を一回りするコースの,入ってすぐの辺りに常設で置かれているのであるから,これは予想以上の好意的な扱いをしてくれた,という印象でもあろうか.内容は,その都度,新着の良いものを展示するのであろうが,現在の展示の中には,光栄にも前回豊さんが持参した中に入っていた島崎石の標本も展示されていて,博物館の人達も,毎回豊さんのお供でやってくる白髪の年寄りが,この島崎石の本人なのか,とやっと認識してくれたのではないかと思う.(2013527日)

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豊コーナーと,豊 遙秋さん.

 

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ケースの中には豊さんの写真,経歴,寄贈に至った経緯などが書かれたプレートも置かれている.

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69)中国長沙の鉱物ショー

 

5月に中国へ行ったのは,湖南省の省都である長沙で開かれた国際鉱物ショーを見物するのが主な目的だった.昨年のミュンヘンの鉱物ショーの折にも,すでに大きな広告が会場に立てられていて,中国では初めての本格的な国際鉱物ショーである,という触れ込みだった.

日本を発つ前から,中国科学院の友人である楊 主明さんに,北京-長沙間の飛行機や長沙での宿を手配してもらっていた.彼と一緒に515日に長沙へ移動し,1617日の二日間でショーを見物,18日に北京へ戻ってきた.China (Changsha) Mineral and Gem Show と銘打たれたこのショーは,開催期間が16日(木)~20日(月)という長期間のものだったが,後述のような内容であり,まずまず二日間の見物で充分だったと言えよう.

まず長沙の空港を降りて,タクシーで市の中心部に向かうと,高速道路の街灯というのだろうか,道路の両脇に立つ照明用の支柱には,どれにも鉱物ショーの開催を告げる幕が掲げられ,市を挙げての,いや,省を挙げての大歓迎ぶりで,ちょっとびっくりした.相当のお金も使い,組織も動員した催しであることがうかがわれる.会場は「湖南国際会展中心」という,大きな体育館の様な建物で,1階が主に鉱物の展示販売,2階が玉石である.古生物の関係では,恐竜の骨格標本などの立派な化石が,幾つか展示されていたが,これはデモンストレーションで,販売する店の様なものはなかった.中国からは化石標本の持ち出しは禁止,とか聞いているので,販売はされなかったのだろうと思われる.2階は玉石が中心であり,その意味で,我々に興味があるのは,1階の部分だけということなる.何処にでも出店するインドの沸石・魚眼石の標本屋などは多かったが,ミュンヘンでよく見かけるロシアやルーマニアなどの鉱物を並べるような,欧米の標本屋はごく限られていたようで,何といっても中国産鉱物のオンパレードに近い.

しかし宣伝は行き届いていたのか,会場にはかなりの外国人の姿が見られた.第1回目の国際ショーとしては,まずまずといったところか.来年以降も,これでやっていけるのかどうか,これから暫くの間が勝負どころであろう.私としては,日本の鉱物愛好家の方々にももう少し興味を持って頂き,ヨーロッパやアメリカまで行かなくとも,中国産の鉱物を中心に,世界の鉱物を長沙で楽しめるようになれば良いのに,と願うのだが.写真を並べるだけのお粗末な紹介で恐縮だが,会場の雰囲気を多少なりとも感じていただければ幸いである.

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高速道路越しに鉱物ショーの会場を写してみた.あまり

大きくは写っていないが,なかなか広い会場である.

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1 階の会場はこんな具合に店が配置されている.

中国産の鉱物は,長いこと北京の潘家園に通っていたせいか,さして珍しいものはないように思われた.ただ,どれも良く知られた産地の見なれた鉱物だったが,流石にこれまで見たこともないような立派なものが多く出品されており.大いに目の保養になった.また,ここ23年ほど前から市場に現れ始めた,内蒙古の黄崗梁(Huanggangliang)の珪灰鉄鉱は,立派な結晶や大塊が売りに出されており,日本のスカルンでは,殆ど自形結晶などはお目にかかることが無かっただけに,圧倒される想いで標本を眺めたことだった.(201365日)

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この 4 枚の写真はいずれも黄崗梁鉱山の珪灰鉄鉱.

中国では,黒柱石(ヘイジュウシー)と呼ばれる.

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恐竜の卵の化石.

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岩石や鉱物を使って,中華料理の

見かけを再現している.

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左は毎年ミュンヘンの鉱物ショーで会

う中国人女性ディーラー.何と長沙の

人だった.可愛い娘さんもお店番.

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会場ではお茶のサービスもあり,

琴(?)の演奏もついていて,

和やかなひと時が過ごせる.

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70)世智辛くなったか?中国

 

6869話に続いて,中国についてのお話だ.1年半ぶりの北京,45年ぶりの長沙市,と,途切れとぎれの記憶を繋いでの印象を書くわけだから,本当に実態に即しているのかどうか,全く自信はない.でもやはり,中国は変わりつつある.訪れるたびに,こう感ずることは確かだ.

勿論悪い話ばかりではない.北京での定宿にしている圓山大酒店というホテルがある裕民路は,かつての国有企業などの社宅地らしく,5階建ての古いアパートが道の両側に建ち並び,所々にレストランや小さな食堂・薬局などがあり,今では便利なコンビニも一軒ある.今回,511日の夕刻に北京に到着し,地下鉄の駅から裕民路を抜けてホテルまで歩いた.普段はさほどに賑わうことも無いのだが,この日は土曜日だったせいか,歩道には沢山の椅子やテーブルが持ち出され,裸電球をぶら下げたコードを木に渡して,大勢の人が何やら飲み食いをして夕涼みをしている.以前よりも,ずっと開放的で,豊かになった感じである.夕食をとりに入ったレストランも満員で,暫く待たされた.中国人は外食が好きであり,殆ど家では料理をしない家庭も多いように聞く.賑やかにレストランには子供連れが集い,路上では大人が酒を傾け談笑する.これは豊かになりつつあることの象徴であろう.

北京の地下鉄は整備されて,大分路線が伸びた.ホテルから鉱物市場のある潘家園までは,乗り換えなしの一本で行かれるようになった.ホテルから地質博物館・北京大学などへも,もうタクシーは使わずに済む.西四とか西単,それに王府井といった繁華街を歩いてみると,相変わらず賑わってはいるが,以前よりは落ち着いた感じもある.人々は生活をエンジョイし,世情は安定の方向に向かっている,北京はそんな印象だった.

513日(月)には,何年かぶりに北京大学の構内を歩く機会もあった.東大工学部にいたことのある地質のRYさんを訪ねたのである.彼のオフィスで暫くおしゃべりをした後,食事のために西門の方へキャンパスを横断した.女子学生が多い,自転車が多い.この2点が厭でも目につく.統一国家試験で入学先が決まるそうだが,女子の成績が良いので,こういう結果になる,というのがRYさんの解説.地下鉄が発達しても自転車が多いのは,地方から出てきた学生の多くは,大学近くで下宿生活をしているということなのか.

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女子学生が多い北京大学.

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構内は何処も自転車だらけ.

 

長沙市の食堂で(1):さてここで,鉱物ショー見物のため訪れた長沙市での,思いがけない“世智辛い“話を書いてみよう.宿泊は,中国科学院の楊さんが予約してくれた国立金海大酒店.15日の夕刻に到着し,荷物を置いてから夕食をとろうと楊さん・BMさんの3人で,ぶらっとホテル前を走る大通りを渡り,すぐ目の前のレストランに入ってみた.満員ではなく席はあったが,夕食時でもあり,そこそこお客の入っているお店,とみた.

BMさんと二人だけの旅行だと,毎回困るのが中国料理の注文で,何処のレストランでも品数だけは百も二百もある.どれにしたらよいのか迷ってしまうのだ.でも今回は楊さんという中国人と一緒だから,全ては彼に任せてしまう.彼はざっとメニューを見て,迷わず羊のあばら肉(羊排)・空心菜の炒め物・豆腐の鍋,を頼んだ.そして,出てきた羊排なる料理を見ると,刻んだ真っ赤な唐辛子を載せた半球の様な形をしている.運んできたおばさんがナイフを持っていて,切り分けようか,と言っており,楊さんが,そうしてくれ,と頼むと,やがて何本かの細い棒状に切り分けられて戻って来た.ところが,である.この細い棒状のものは,数ミリ角くらいの四角い断面をもち,やや湾曲して10 cm ほどに伸びた骨で,それに僅かな肉がこびりついている,といった代物なのである.とても箸では食べられないので,行儀は悪いが,各々が手に取って,端からがりがりと肉をそぎ取って食べるという次第.暫く試みたが,辛いばかりで美味くもない.流石に温厚な楊さんもこれには憤然として,くだんのおばさんを呼びつけ,これは羊排ではない,何の肉なのだ,と詰め寄った.中国語はさっぱり分からないのだが,おばさんは頑として,これが羊排だと言い張っている様子で,いくら楊さんが問いただしても,のれんに腕押しである.

楊さんは,これは何の肉か分からないので,食べないほうがよい,と我々にも注意し,彼自身は全く手をつけなかった.しかし,私とBMさんは,それでも何やら肉片が少しは付いているから,と何本か食べてみた.楊さんは,これは大きなネズミか,子供のウサギではないか,と言っていた.後でふと思い出したのだが,2003年にサーズが流行した時には,南方の何処かの街で,ハクビシンを調理した料理人から感染が始まった,という話があった.ネズミかウサギか,などというのなら,イタチかハクビシンか,であってもおかしくないし,路地裏を歩いていた猫か子犬でも可能性はある.ともかくも肋骨のさほどに大きくない小動物を料理したもの,というのが楊さんの結論で,こういうものは食べてはいけない,と彼は言う.最後に勘定をとりに来たお姉さんにも,楊さんがこれでは金は払えない,と粘ったが,これが羊排だ,の一点張りで,合計110元の所,楊さんが100元札を出したら,それだけ受け取って引き下がった.たった10元の値引きである.因みに羊排は58元(約1,000円)で,今夜の料理の中では一番高いお皿であった.

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料理の注文を考える楊さん.この時は

まだおばさんとのバトルはなかった.

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問題の羊排を食べた後に残る骨.皿の

直径は20cmほど.中型の取皿である.

 

長沙市の食堂で(2):同じレストランで,もう一つ,面白い(?)話があった.料理と一緒に飲み物も注文するのだが,楊さんも私もアルコールが駄目なので,お茶だけを貰う.でもBMさんは大のビール党である.ビールのメニューを眺めてみると,数少ない銘柄の最後に「老青島」というのがあった.「青島(チンタオ)」ビールはいわずと知れた中国で最も有名な銘柄で,大瓶で12元と値段が付いている.そしてその脇に「老青島」大瓶6元,と並んで書かれているのである.「老」とは,勿論古いという意味だが,紹興酒などでは,古いものほど値段が高かったりして,「老」とあれば,何やら有難い感じがしないでもない.しかも安いのである. BMさんもご機嫌で,じゃあこれにしようかと,「老青島」一瓶,と期待をこめて注文したのだった.出てきたものは写真でご覧の通り,青島啤酒2000というラベルが付いている.啤酒(ピージュウ)は勿論ビールのことである.青島2000とは何なのか.一種のブランド名で,2000年に新たに売り出したビールのことなのか.2000年の頃,私は北京に住んでいて,ビールも飲んでいたのだが,何時もアパートと同じ建物の中にあるポラナーというドイツビールのビアホールに通っていて,青島ビールのことは全く記憶にない.

飲み終わったBMさんに味を尋ねると,完全に気が抜けていて,ビールらしい味もせず,全く酔うということがない,との答え.されば,青島2000,という銘柄ではあったのだが,発売はとうに終了していて,売れ残りを10年近くたった今も「老」の名のもとに半額で売っているものらしい,との結論になった.やれやれ,こんなものに引っ掛かる方も間抜けだが,売る方もあまりにあこぎではないか.

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これが問題の「老青島」だ.2000というのはブランド名で,製造年ではないにしても,何とも古そうだ.瓶の裏側のラベルなども調べたが,何処にも製造年月日を示す数字・記号は付けられていなかった.

 

長沙市の食堂で(3):長沙の二日目の夜は,北京大学の鉱物学の教授で,現在は長沙市の中南大学の地学関係の専攻主任(?)も兼ねておられるという大先生のお招きで,中南大学のレストランでご馳走になった.さてそして,17日は長沙での最後の夜である.またまた楊さん・BMさんの3人でぶらりと食事に出た.先日の怪しげな店は避け,大通りに直行する道を暫く上がってゆくと,郷土料理風のレストランがある.売り物が××湖の土鴨,と大書してある.まあこれなら良いかと入ってみた.楊さんは,今回はメニュー選びはご免だという顔をしている.それで仕方なく,私が特別料理となっている二種の中から,土鴨の鍋,というのを選んでみた.78元である.ところが,出て来たのは野菜の煮込み風で,親指の先ほどの肉塊が幾つか混じっている.これを食べてみると,軟骨と肉が絡んだようなもので,どれ一つとして満足な肉ではない.ひょっとBMさんが取りだした鳥の足首の様な部分は,水掻きがなく,鴨ではなくて,鶏のようである.薄い四角に切った赤い半透明の豆腐のようなものもある.我々はレバーだと思って食べたのだが,どうも柔らかすぎる.楊さんの説明では,調理をする鶏は,まず首を切って暫く逆さにつるして血を抜く.普通は捨てるものなのだが,その血を袋にとって加熱するとこういうものができる,これはレバーではない,とのこと.潔癖な彼は,ここでも殆ど,この皿には手を出さなかった.

この店でも支払いの時,楊さんが何やら文句をつけていたが,勿論相手にされない.しっかりと138元也,を取られて帰って来た.ここでも「老青島」は大瓶6元でメニューに載っていた.どうやら考えるに,土地の者でない,と見くびられて,料理は適当な残り物などを出されたのではないだろうか.一回限りのお客なら,どんな扱いをしようとも,将来不利益が返ってくるとは考えられないからであろう.湖南省の省都という大都会だが,もう少しのんびりと純朴な気風が残っていると思うのは,幻想なのだろうか.中国も,大分世智辛くなったなあ,と感じたことだった.(2013610日)

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