心に浮かぶこと(日々雑感)

 

その一 目次

 

1四の五の言う年齢(とし)じゃない! 諸先生からの励まし

2新鉱物−楊主明雲母の誕生(近頃嬉しかったこと−その1

3 培善先生からのお手紙(近頃嬉しかったこと−その2

4日食上海旅行−ツキに見放されるの記

5富士山登頂を断念する

 

1)四の五の言う年齢(とし)じゃない! 諸先生方からの励まし

 

初めてホームページなるものを作ってみた.主題は最近収集している中国産鉱物標本の写真を並べて楽しむことと決めていたが,ふと,リンクの一つに日々の雑感を書くページを作って,皆様に読んでいただくのはどうか,というアイデアが浮かんだ.すると突然のように,ある一つの話題について,どうしても書いてみたい,という想いが澎湃と湧き上がってきた.それは,今年5月末に刊行した拙(つたな)い随想集に関連した話である.この本の出版そのものをめぐっても,いろいろと面白い経験をしたのだが,何より心に沁みたのは,大勢の諸先生方から,大量のお手紙,お葉書,メール,論文コピー,ご著書などなどを頂戴したことである.これは全く想像もしていないことだった.だが,献本の発送を出版社にお願いしてから四五日経って,毎日郵便受けを覗くと,懐かしいお名前の先生方からのお便りが続々と届いているではないか!

到着の順は不同だが,お年の順で行くと,すでに90歳代の半ばを越えたと書かれている,もと三菱金属におられたSMさんからはパソコンで打ったお手紙が届き,そこには岩石学講座の久野 久先生が満州でウラン資源調査をされることになった経緯が綿々と記されていた.久野先生は一兵卒として高射砲部隊に配属されていたが,満州の高射砲部隊の殆んどは,戦局の悪化に伴って南方に転戦し,ほぼ全滅したとのこと.SMさんが久野先生を資源調査のために部隊から引き抜かなければ,先生はあの輝かしい業績を挙げられる前に,戦死されていた可能性が高かったというのである.「書けば幾らでもあるが,長くなるので久野さんの一件だけを...」と書いて下さったSMさんは,大変お元気なようで,成蹊高校での同窓の間柄からか,立見辰雄先生を,立見,と呼び捨てで書かれていて,我々の鉱床学の分野での大先輩なのである.

大先輩といえば,東京教育大学におられたMT先生も95歳になられた.お葉書を頂戴し,「これからも面白いことがたくさん起こりますよう願っています.」と書いて下さった.拙著の終章を読まれ,その最後のくだりを頭におかれて,こう書いて下さったに違いない.この激励にお応えするべく,毎日を過ごしたいものである.東大工学部におられ,これまでも私が散々お世話になったIH先生も94歳になられるが,早速にお手紙やら,先生が最近書かれたいろいろの出版物のコピーやらを送って下さった.なんとIH先生は府立五中の卒業で,渡邊武男先生・久野 久先生の中学の後輩とのこと.またびっくりしたのは,拙著の中で書いた日比谷高校の池谷敏雄先生に,五中で英語を習われたというのである.こんな繋がりがあろうとは! 文章もしっかり,字もしっかり,記憶もしっかり,で,何時ものことながら,なんとも頭が下がる.

圧巻は埼玉大学におられたSY先生である.たしか84歳におなりだと伺っている.先生は退官後に大部の自伝を発表しておられ,以前にそれを読ませて頂いた時の,ご自分や周囲の人間に対する突き放した客観的な視点に感動したことも,私が拙著の後半で幾らか自分史めいたことを書いた理由の一つであった.そのSY先生から,思いがけず大変なお褒めの言葉を頂戴し,お手紙では「よく書けている,面白い」を連発して下さっていた.「2日で一息に読了,続いてゆっくり再読,三読したい」とも書いて下さった.このお手紙は,額にでも入れて飾っておきたいほど,私にとっては名誉なものである.また,先年の自伝の補遺版ともいうべき「日本共産党・地学団体研究会と私」も送って下さった.自伝では多くの人名がイニシャルで書かれていたが,今度はしっかりと実名である.戦後の学界の皆さんのご苦労のほどが,手に取るように書かれている.続いて「80才過ぎになって,なんとか元気に生きてゆくには,どういうことに気を付けたらよいのだろうか」という,お手製の冊子も頂戴した.これはいろいろな雑誌や新聞などから,健康維持に役に立ちそうな記事を抜粋し整理されたもので,有難く座右に置かせていただいている.その中の記事で真っ先に実践させていただいているのは,「よく咀嚼する」である.これは消化を良くするのは勿論だが,脳の活性化にも効き目があるという.まさに一石二鳥で,これをやらないという手はない.

83歳になられたという,もと地質調査所におられたKNさんからも,2度にわたってお電話を頂戴した.拙著の終章を感動して読んだ,とおっしゃって下さり,これを機にご夫妻で献体の登録をされることに決めた,と話しておられた.お声は何時ものとおり張りがあり,大変お元気のご様子だ.また,多分80歳を少し過ぎられたかと思われる,もと名古屋大学におられたSK先生からのお手紙も長文であった.拙著に登場する多くの先生方との繋がりをあれこれと回想され,新鉱物の話に出てくる宮久三千年先生とは高校の先輩後輩の間柄であるとか,渡邊武男先生の奥様は大垣藩主戸田家のお嬢さんだとか,話題は尽きない.騎馬民族で触れた江上波夫と会食をされたこともあったとかで,その話の豪快な内容の一端(ちょっとここで書くのは憚られる)も書かれていて,実に楽しい.小藤文次郎が学生一人ひとりを掴まえて,「君は士族か平民か」と尋ねた,というくだりでは,私がうっかり「氏族」と書いてしまい,早速に「士族ですぞ!」と指摘されてしまった.話は脱線するが,この本の中には,随分と記憶違いがあって,おかしなことを幾つも書いてしまい,多くの方からご指摘を受けている.注意したつもりでも,人間の記憶は当てにならない,と実感させられた次第である.SK先生には,ご著書の「科学を短歌によむ」まで頂戴してしまい,恐縮至極である.

他にも大勢の先生・先輩から,いろいろな感想などを頂戴した.とても書ききれないので割愛させていただくが,これらのお便りを拝見して,一つ深く心に響くものがあった.それは皆さん,とてもお元気そうで,80歳・90歳というお年齢(とし)を何の苦にもしておられないようだ,ということである.言外に,「お前のような70歳などというのは,まだまだ若造だ.四の五の言う年齢じゃない!」というお叱りをいただいているような気がするのだ.どなたかも,「70歳まで来れば80歳までは何とかなる.むしろ80歳を元気で越えられるかどうかが,分かれ道だ.80歳を元気で越えられれば,90100歳への道が見えてくる.」と書かれていた.確かに渡邊先生は79歳,立見先生が81歳,私の父も82歳で亡くなっていて,80歳前後は一つの節目なのかもしれない.この山を何とか元気で,しかもただ生きているというだけでは仕方がない,諸先生方のように元気一杯で乗り越えて行かねば,私のような意気地なしの後輩を励まして下さっている大先達方に申し訳が立たない.そんな覚悟を新たにしたのだった.(200997日)

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2)新鉱物−楊主明雲母の誕生(近頃嬉しかったこと−その1)

 

7月の初め頃だったか,国立科学博物館のMRさんから嬉しいメールが舞い込んだ.宿題になっていたある鉱物が,国際鉱物学連合の新鉱物・鉱物名委員会により新鉱物として認定されたという吉報である.拙著「石の上にも五十年」で書いたように,2005年の4月から2年間,博物館の客員研究員をさせていただき,その間,館員のMRさんが中国のバヤンオボ鉱床から採取してきた試料を検討させていただいたのだが,2年間でもまだ時間が足りず,また私の能力不足もあって,幾つかの問題は未決着のまま,MRさんに引き継いでいただいたのだった.宿題の鉱物というのはその中の一つで,殆んどアルミナのない雲母である.少し鉱物に詳しい方ならどなたでも,雲母といえばアルミナを含む代表的な造岩鉱物であることは知っておられるだろう.ところが顕微鏡下の観察ではっきりと雲母と思われる鉱物が,分析で殆どアルミナを含まないのである.任期の終わる頃には,化学組成はほぼ明らかになってきたが,それ以上の検討は私の手に余った.その後MRさんは,得意技を発揮して微粒の結晶を研磨薄片から掘り出してX線粉末回折パターンを得,この鉱物はテトラシリシック雲母と呼ばれるグループであることを確立した.また他の研究機関の応援も得て,僅かながらリチウムが含まれていることも確認された.

このグループは,名前のテトラシリシックからも分かるように,本来はアルミニウムが入る4配位の位置に,シリコンが入ってしまう雲母である.例えば代表的な雲母である金雲母なら4配位には1個のアルミニウムと3個のシリコンが入り,KMg3AlSi3O10(F,OH)2 と表わされるが,このグループではアルミニウムが全く欠如して,その位置にシリコンが入る.3価のアルミニウム1個を4価のシリコン1個で置き換えるので,当然価数が1だけ過剰になる.その過剰分は2価の金属,上の式ではマグネシウム,が0.5個分だけ欠落することによって相殺される.上の金雲母に合わせて書けば,KMg2.5Si4O10(F,OH)2 と書かれることになる.合成では早くからその存在が確認されており,我々が今度見つけた鉱物は,ちょうどこの理想式にぴったりの,マグネシウムに富み,水酸基は乏しく,フッ素に富んだものである.調べてみると,ちょうど30年前の1979年にフランスのアルカリ流紋岩から,マグネシウムではなく鉄に富んだ組成のものが Montdorite の名前で記載されていた.我々の試料には僅かにリチウムが含まれていて,それが結晶内のどの位置に入っているのかという問題もあるのだが,基本的には上記の式で示される組成であることは間違いなさそうだ.

この鉱物の名前は,中国科学院の楊 主明(Yang, Zhuming)博士に因み,楊主明雲母,Yangzhumingite, とした.楊さんは,MRさんを初め何人かの日本人鉱物学者をバヤンオボ鉱山に案内し,完全秘密主義で普段は試料はおろか写真を撮ることさえ厳禁のこの鉱床から,沢山の試料を採らせてくれた大功労者でもあるのだが,希土類元素鉱物の結晶構造解析を軸とした仕事を展開している学者で,バヤンオボ鉱床の希土類元素鉱物を知り尽くした権威である.その意味で,彼の名前こそバヤンオボ鉱床から

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命名者のMRさん(左)と楊 主明さん.20077月中国バヤンオボにて

の新鉱物につけるのに相応しい,というMRさんの考えに私も大賛成であった.アルミニウムのない雲母,しかもシリコンが入ることによる過剰の電荷を,金属が抜け落ちることによって相殺するというメカニズム.この常識を越えた化学組成の妙,その麗しさに,私などは心の底から痺れてしまう.2年間,それまで殆んど見たことも触ったこともなかったバヤンオボ鉱床の希土類元素鉱物にあれこれ悩まされながら,それでも何とか一つひとつの鉱物と格闘した結果,こんな魅力的な化学組成の新鉱物の発見者の一人に加えてもらえたのである.苦労の甲斐があった,とはこんなことを言うのであろうか.(2009910日)

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3)張 培善先生からのお手紙(近頃嬉しかったこと−その2

 

またまた中国絡みのお話である.2005年から2年間,国立科学博物館の地学部で客員研究員をさせていただいた時,館員のMRさんが中国が世界に誇る希土類元素鉱床のバヤンオボから採取してこられた鉱石試料の検討をし,美しい紫色の蛍石の中から,電子顕微鏡で BaFCl なる化学組成の新鉱物を発見するという幸運に恵まれた.MRさんと相談の結果,この鉱物を張培善石,Zhangpeishanite, と命名した.張 培善先生は中国科学院の教授をされ,一生をバヤンオボ鉱床の鉱物の研究に捧げた方で,中国における希土類元素鉱物研究の第一人者である.前の話に出てきた楊 主明さんは,張先生のお弟子さんである.因みに中国語で「先生」と書くと,男性に対する呼称で,日本語の「さん」に相当する.日本語の「先生」に当る言葉で書くとなると,張教授ないし張老師,ということになる.しかしここでは日本語で書いているので,「先生」を使っていても,勿論「張さん」のつもりで書いているのではない.

張先生は今年84歳.文化大革命などの風雪にも屈することなく,研究一筋で一生を送ってこられた方だから,穏やかな中にも気骨を感じさせる.また大変礼儀正しい方で,我々が新鉱物の名を先生のお名前としたことを喜んで下さり,季節季節にはきちんとしたお便りをいただく.最初の頃は英文で,しっかりとポライトな表現で書かれていた.あまりに申し訳けなくて,多少は中国語が分かりますから,お手紙はどうか中国語で書いて下さい,などと大見得をきってしまったら,それ以降は達筆な漢字のお手紙を頂戴するようになった.あまりに達筆で読めない字が時々混じっている.辞書さえ引けば,何とか意味くらいは分かる,と思っていたが,実際はそれほど簡単ではない.

客員研究員だった時のバヤンオボの試料の検討結果が,昨年ようやく科学博物館の報告に載った.また,Resource Geology という国内の資源地質学会の英文誌に,バヤンオボの幾つかの鉱物から,これまではっきりとした記載がなかった少量のスカンジウムの存在を認めた報告を書いた.最近,この二つの論文の別刷りを楊さんを通して張先生にお送りしたところ,日を置かずして,それに対するご返事が送られてきた.

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張培善石を新鉱物として国際新鉱物・鉱物名委員会に申請する書類に目を通される張 培善先生.20067月,北京中国科学院,楊 主明さんの研究室にて.

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楽しい昼食の一時.筆者(左)と張先生.20074月,北京にて.

その中国語がまた難しいのである.でも何やら大変な賛辞が並んでいるようなのだ.二つの論文を読んだ,と書かれているあとに,「読此二文后,拍案叫絶,嘆為観止!」となっていて,「您潜心研究鉱物,観察細緻,工作認真,是一位名副其実的鉱物学家.」とある.この一位というのは,別にトップという意味ではなく,一人の,という言い方であることくらいは分かるが,何やら褒めて下さっているように見える.「我在垂暮之年,能結識到像您這様一位優秀的鉱物学家,真是我的栄幸!」と続く.どうも何やらくすぐったい気分だ.私は鉱床学者で,本当のところ,鉱物学者と言われるような人間ではない.しかし,一人の優秀な鉱物学者,と言われると,鉱物が好きなだけに悪い気はしない.ただ中国は「白髪三千丈」の国である.この文章はどれほどの賛辞なのか,本当の所は見当がつかない.今度北京に行く時は,この手紙を持っていって,かつての同僚で気の置けない友人に,この手紙の意味は本当の所はどうなの? と聞いてみようかと思っている.これは通りいっぺんの儀礼的な挨拶だ,とでも言われれば,幾らかがっかりするかもしれない.しかし何はともあれ,達筆な漢字で認められた張先生のお手紙は,今の私にとってはかけがえのない宝物である.(2009912日)

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4)日食上海旅行−ツキに見放されるの記

 

今年の722日には日本付近で皆既日食が見られるとのことで,早くからあちこちの旅行会社から日食ツアーの案内が来ていた.子供の頃だったか,部分日食は見た記憶があり,木漏れ日が一面に三日月を敷き詰めたように見えた驚きは新鮮だった.皆既日食はコロナが美しいと言い,この世のものとも思えぬ天体ショウだとのことなので,少なからず食指が動いた.しかしいずれの旅行社の国内ツアーも一人20 万円前後で,結構高いなあ,との印象だった.どうせなら,日食以外にも観光や見物などもしたい,などと思っていると,家内の友人の妹さんが上海で暮していて,何やら日食を見る企画があるというニュースが飛び込んできた.

聞いてみると,上海在住の日本人の企画で,市内からバスを仕立てて郊外の公園へ行き,そこで日食を見物するというツアーで,大人一人が500 元くらいだと言う.約7,500 円である.これならあとは安い飛行機と宿を見つければ,安上がりで楽しめそうだ.早速 HIS などを探して全日空の安い便を予約し,宿も浦東地区の便利な所を予約した.夫婦二人で泊まっても一泊朝食付きで8,000 円だから,これなら文句はない.

720日の朝に出発して,午後にはホテルに入り,家内の友人の妹さんにもお会いし,22 日は何処へ集合するのかを教えていただく.3 時頃から暇になったので,ホテルから歩いて10 分くらいのビルへ遊びに行った.観光案内にも書かれていて,上海環球金融中心(中心はセンターの意)と言うのだが,通称は森ビルで,日本の森ビルが15 年の歳月を費やして建てた超

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上海環球金融中心ビルの展望階で.地上474 は現在世界で最高.

高層ビルである.ここの100 階は現在世界最高の展望階というのでここに登る.確かに高い.周囲には高いビルも沢山あるのだが,ちょうど飛行場に近づいて低空飛行をしている機上から見ているくらいの感じだ.たまたま鉱業界の大先輩のONさんが,学士会の日食ツアーで上海に来て,今日の夜はこの森ビルの高層階で晩餐会がある,という予定を聞いていたので,ひょっとしてお会いできるかと期待していたが,案の定,ビルの入り口でばったりとお会いした.世界も狭いものである.

21 日は一日上海市内の西側をぶらぶらし,新天地という繁華街で,北京で散々通ったポラナーというミュンヘンビールの店がここにもあるのを見つけ,昼の喉を潤す.よく晴れて暑く,35 度くらいは優にありそう.この天気がこのまま続いてくれれば,と祈るような気持ちで22 日の朝を迎える.天気はちょっとどんよりしている.

集合場所は浦東地区のやや南,日本人の多く居住している地域.バスに乗って黄浦江を渡って西へ向かう.上海市街からかなり出た所の公園が見物会場だが,この公園の名前はちょっと難しい字を使う.形は余山公園,のように見えるが,余の字は傘の下が「示」で,この字は日本ではお目にかからない.発音はシェーシャン公園である.驚いたことには日本からのツアーらしい団体が,大型バスを連ねて幾つも到着しており,公園内の湖を囲んで東西南北に区分けされて陣取る形である.遥かには,この公園を借景としているのであろうか,ONさんほかの学士会ツアーが滞在している高級ホテルも遠望される.

最初は公園内を物珍しげに散策していた人達も,あと10分程で欠け始める,という時間になると,神妙に椅子に腰掛けて日食眼鏡の用意をする.しかし,この頃からだんだん雲行きが怪しくなり始める.白い雲が全天に広がり,太陽は肉眼でもまぶしくなく見られるといった具合.いよいよ欠け始めたら,何と真上から欠けてきたのにはびっくり.何となく予想としては右横か,右上あたりから欠けるのだろうと思っていた.月の軌道はどうせ傾いているのだろうが,太陽と月と上海を,どう結べば真上から欠ける姿になるのか,三次元のイメージを頭の中で組み立てようとするが,ピンと来ない.

何やら薄暗くなってくるが,日食が進んで暗いのか,黒雲が厚くなって暗いのか,ついに太陽は全く姿を捉えることが出来なくなる.幾らかでも雲が切れれば,欠け具合も分かるのに,と多くの人はなおも熱心に太陽のある辺りを眺め続ける.そのうちに雨が降ってくる.それもあっという間に土砂降りとなる.完全に日が暮れた状

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ツアーが用意してくれた椅子に座り,日食眼鏡も用意していざ観測.

 

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いよいよ欠け始め.この頃までは薄曇り.フィルターなしで,こんな写真が撮れた.

 

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黒雲のためか,皆既日食か.辺りは真っ暗で,沛然たる雨と雷鳴.

態で,皆も浮き足だっている.雷鳴もとどろき,ツアーの案内人もどこかへ消えてしまう.私は傘を用意していたので,傘をさして椅子に座って,このままで良いとも思ったが,何しろ真っ暗で,どう見ても改善する兆候はない.やむなく唯一明かりの見えている公園事務所に向かって,皆と一緒に小走りで退散する.事務所付近は避難してきた人達でごった返していた.やれやれである.

数分で明るくなり始め,雨も小降りとなってくる.ツアーの案内人も途方に暮れたのか,ともかくバスに皆を乗せ,公園を望む高級ホテルまで案内してくれ,ロビーを使わせてもらって一休みし,それから市内に戻ってくる.一生のうちでも何度とないハイライトのはずだったが,ツキに見放されるのも甚だしい,とはこのことであろう.家内は日頃「晴れ女」を自称し,私が行くから天気はバッチリよ,を連発していたが,当てにならないことがはっきりしてしまった.

23日は午前中は南京東路のホコ天などを散策し,お昼は少し南に下がって,友人の妹さんから聞いた小龍包子の店へ行く.流石は地元の人のお勧めだけあって,安くて美味しい.そのあとはお定まりの豫園や周辺の商場を廻って帰ってくる.24日に帰国したが,地下鉄駅から浦東国際空港まではリニアモーターカーである.来た時にも乗ったのだが,どういうわけか観光案内書にも記述されている最高速度には達しなかった.しかし今回はぐんぐんスピードが上がり,とうとう記述通りの時速431 kmに到達.空中を滑行するのだから,全く揺れないのかと思っていたが,

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ほんの僅かな時間だが,最高時速431 kmが表示される.結構揺れて写真は撮りにくい.

車体を支える磁場に継ぎ目でもあるのか,結構と小刻みに振動する.全体で15分くらいの乗車時間だが,431 kmは僅かに15 秒位か? すぐに減速して飛行場駅に滑り込む.案内板を見ると,リニアモーターカーの中国語表示は「磁浮」となっていた.なるほどご尤もである.なんでも片仮名で済ます日本より,味わいがあり,一目見て実体が分かるのが素晴らしい.(2009914日)

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5)富士山登頂を断念する

 

8月に入ってからひょっと思い立って,ツアー会社から案内が来ていた富士登山に申し込みをした.普段ならもう少し熟考してから申し込むのだが,今回は広告を見てすぐに申し込んでしまった.最近少し足を痛めている家内は行かないであろうから,私一人なら何とか登れるのではないか,といった軽い気持ちだった.というのも,ちょっとした背景があった.以前に富山大学のSMさんから,北アルプスの黒岳へ行かないかという誘いを受けた.黒岳は水晶岳ともいい,スカルン鉱床が露出している有名な場所で,私が所属していた地質学第三講座の初代教授,加藤武夫先生が書かれた古い鉱床学の教科書にも載っている.水晶・柘榴石・磁鉄鉱などの美晶が標高2,900 mの急斜面に露出・散乱しているといい,アマチュア鉱物屋の垂涎の場所でもあるのだが,何しろ険しい所で,日本の中では車などの交通手段で行ける場所から最も遠い鉱物産地,とまでいわれていて,実際に現地に行った人は殆んど聞いたことがない.SMさんは,この場所を学生の卒業論文の調査地にしたというのだから,随分思い切ったことをしたものである.山小屋のはしごをしながら,登りに2日半,下りに2日ほどもかかり,調査も入れると一週間の行程だという.今年の8月末に学生を連れて調査に入るので,一緒に行きませんかと誘われ,7月初め頃はすっかり行く気になっていた.

まず足慣らし,ということで,早朝のスロージョギングで持久力を,などと年寄りの冷や水を始めたのがまずかったか,すぐに右のふくらはぎの肉離れを経験した.幸いごく軽いもので,数日で痛みは消えた.しかしどの程度きちんと回復するか自信がなく,SMさんが8月初めから南米に長期出張されると聞き,その出発前に,8月末の黒岳行きは遠慮します,とお伝えした.SMさんは,それなら来年も調査しますので,来年行きましょう.北アルプスを歩くのは非日常の極致ですから.と言ってくれた.「非日常の極致」という言葉は,今の私の耳には夢のような心地よい響きがあり,一も二もなく,是非そうさせて下さい,とお願いしたのだった.来年までには何としても,一週間北アルプスを歩き廻れるだけの脚力をつけなければならない,そんな脅迫観念が頭に染みついたのかもしれない.自分の脚力は現在どの程度か,それを確かめたい,という気持ちもあった.何の迷いもなく,富士山頂でご来光を見る一泊二日の旅,という23,000 円程だったかのツアーに申し込みをした.

さて8 16 日,京成津田沼駅前からツアーのバスに乗り込む.天気は上々のようだ.参加者はちょうど30名.ツアーのガイドは,60 歳過ぎに見えるがっしりしたおじさんだ.後で聞いたが,この人は会社勤めを辞めたあと,趣味を生かして山岳ツアーのガイドをしているとのこと.見かけよりもとても強く,山歩きの際は,この人がしんがりである.バスの中の説明では,富士登山は決して簡単ではない.大概一回のツアーで12 割の人は登れないので,充分覚悟をしておくように,と言われる.バスの最後尾付近の席があてがわれ,見渡すと顔ぶれは多彩だ.私と同じような男性や女性の一人旅と言う風情も多く,勿論,何人かのグループや,カップル,親子連れ(子供は中学生とか)などもいる.中央道から河口湖に入り,すばるラインとやらで五合目(2,300 m)まで登ると11 時である.ここでバスを降りて自由昼食.その後に集合して,今度は山登りのガイドさんが紹介される.若い,いかにも山が好き,といった感じの男性で,頼りになりそう.準備体操の後,いよいよこのガイドの先導で登り始める.12 時過ぎである.

山のガイドは,ともかくゆっくりが基本,と言い,ペースが遅いのは有難い.六合目の辺りまではジグザグの傾斜道で,楽に上がれる.六合目は1 時過ぎ.これなら良い,と思っていたが,この先辺りから,だんだん溶岩流の上を直登するような部分が多くなる.道からはずれないよう,鎖が両側に張られている.七合目の下と言われたのが2 40 分くらい.この辺りから道が狭く,長い列になり,時々混み合って前のグループがつかえるようになってくる.休み休み行くのは良いのだが,直登に近い部分が長くなると,途端に足が重くなる.七合目は山小屋が幾つも続き,なかなかその上に出られない.4 時頃,ようやく

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八合目の山小屋から見る夕暮れの影富士.

 

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二日目.八合目でのご来光.下に見えるのは山中湖.

 

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二日目.ツアーから離れて五合目まで下山する.

七合目の小屋の列を抜け出して,3,000 mに近くなる.以前に中国の四川省で,黄龍や巴朗峠に行った時の経験から,高山病については多分大丈夫だと思っていたが,今回も高山病らしい兆候は全く出ず,この点は良かったが,だんだん足が利かなくなってくる.とうとう八合目直前になって左の腿がつり始めた.立ち止まっていると,最後になってしまって,しんがりのツアーガイドに追いつかれてしまう.どうしました,と聞かれたので,足がつりました,と答える.先頭のガイドが駆け下りてきて,腿をスプレーで冷やしてくれ,暫く待ってから,また登り始める.親切に私のザックを軽々と持って登ってくれる.5 時にやっと今日の目的地である八合目の太子館という山小屋に着く.高度は3,100 mである.足は,がくがくぶるぶるの状態で,小屋の前の最後の階段は,一段づつ両足を揃えて登るという有様.

カレーライスの夕食をとり,蚕棚のような所に押し込められて寝袋をあてがわれ,これから深夜11 時まで4 時間程の睡眠をとるというのだが,何しろ足がつるので参ってしまった.低い天井に背をかがめるようにして,荷物の整理に胡坐をかくと,つる.慌てて伸ばして痛みをこらえる.横になっても,曲げてはつり,伸ばしてはつり,と一晩中おちおちと出来ない.おまけに体も,あまりの状況の変化にびっくりしているのか,食事をしても,普段ならグーとかゴロゴロと言ったりして,働いている実感のある胃も,うんともすんともいわず,ただただ静まり返っている.体が疲れの回復のため,一生懸命何かをしている風ではないのである.まんじりともしないで一晩考えたが,11 時から起きだして,5 時前のご来光に合わせて,あと650 mを登れるだろうか.足がつって,しょっちゅう立ち止まるようでは時間ばかり遅れて,皆に迷惑を掛けることにならないか.夜11 時に集合がかかった時,きっぱりと諦めて,ツアーと登山のガイドさん達に,もうこれ以上は登りません,と告げた.私と同様に諦めた人は,他に二人.男性一人,女性一人だった.30 人で3人,やはり1 割は落伍してしまったわけだ.

皆が出かけてからさらに数時間,眠るようでもない.山小屋はひどい所で,チェックアウトは夜明け前,と言い渡される.他のツアーでも相当数の人が山頂を目指さず残っていたが,全員が支度をして小屋の前に集まり,ご来光を見,小屋の人に促されて万歳を三唱し,暫くなだらかな道を歩いて,下山道に合流する所まで連れて行ってもらう.ここからは自分で五合目まで下りるのである.幸い同じツアーで登頂を諦めた68 歳になられるOさんという男性と親しくなり,この方は定年後に国際協力機構のシニアボランティアとして,環境問題の指導で南米に行かれていたとのこと.すっかり話が弾んで,おしゃべりをしながら一緒に下りてきた.ただ足は一晩休んでも,すっかり踏ん張りが利かなくなっていて,がさがさのスコリア(溶岩の砕け散ったもの)に足をとられて,何回も尻餅をついた.脚力の衰えは勿論だが,問題は,休んでも容易に回復しない新陳代謝能力の低下である.これまでも大した山登りをしたことはないのだが,調査で山を歩き廻ることはさほど苦にしていなかった.しかし,これで現在のおよその体力とその限界は分かったつもりである.写真のように,ストックを突いて山に登るようなことは,これを最後にしようと心に決めた.黒岳の水晶採りも魅力だが,来年の北アルプス行も遠慮したい旨,SMさんには報せなければならない.「非日常の極致」の夢は,また別な方面で探すことにしよう.(2009915日)

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