心に浮かぶこと(日々雑感)

 

その五 目次

 

21ドイツ駆け足旅行(3

22ドイツ駆け足旅行(4

23地味な新鉱物二種

24試料整理こぼれ話(1

25 培善教授の七言律詩

 

21)ドイツ駆け足旅行(3

 

ローテンブルク:正式な町の名前は Rothenburg ob der Tauber であるという.タウバー川の上方にある赤い町,の意味だ.町外れの公園まで歩くと,確かに目の下をタウバー川が蛇行して流れ,川からは相当に高い台地の上に建った町であることが分かる.泊まったホテルは,城壁に囲まれた旧市街からはちょっと外れていて,城門から歩いて10分程の所.それでも鉄道のローテンブルク駅の真ん前にあり,この町では主要なホテルの一つなのだろう.だが,この旅行中で最も質素なホテルだった.それだけ,この町が大都会から離れた,ドイツの田舎町であることを示しているのだろう.人口は1万人ちょっと,といった規模で,観光案内書によれば,中世の面影を良く残しているので有名な町,とある.

39日,今日はこのホテルにもう一泊するという,久しぶりに朝がのんびりした一日で,午後からはオプションとしてニュルンベルクへ観光に行く,というチョイスもあったのだが,結局ツアーの中では誰も希望者がおらず,全員が一日この町でのんびり過ごすことになった.9 時過ぎにホテルを出発,歩いて城壁内の観光に出かける.城門をくぐって町に入り,石畳の道を真っ直ぐ行くと,町の中心であるマルクト広場へ出る.お決まりの市庁舎の立派な建物があるが,その脇に市議宴会館というちょっと変わった名前の建物がある.市議会議員が宴会でもする所なのかもしれないが,この建物の広場に面した切妻の壁面に,大きな時計とその両脇に小窓があり,ちょうど11 時に面白い仕掛けが動くというので,皆と一緒に暫く広場で待ってみる.添乗員さんの説明によれば,17世紀の三十年戦争の際,この町を占拠した皇帝軍の将軍が,市の参事全員の首を刎ねようとした.たまたまその時に将軍が市のワインを勧められ,見事な大ジョッキに入っていたので,もしこの大ジョッキのワインを一気に飲み干す者があれば,斬首は止めようと言い出し,それを受けて当時の市長が一気飲みをして参事達の命を救ったのだそうだ.それで,毎正時に両方の小窓が開き,左が将軍,右が市長で,市長がゆっくりとジョッキを傾けてワインを飲み干す,という他愛もない仕掛けなのである.市長は直後に人事不省に陥ったが,無事に回復したとか.市長が住んでいた家というのも広場の近くにある.

町を一廻りした後,昼食となり,後は半日の自由行動である.町のおおよその様子は分かったので,慌てることもない.何組かのご夫婦と一緒に菓子屋に入って奥のテーブルに陣取り,この町の名物というシュネーバルというお菓子を食べてゆっくり歓談をする.狭い町なので,同じツアーの知った顔が菓子屋の前を通りかかれば,呼び込んで更に仲間が増えるといった具合だ.シュネーバルとは,英語で言えばスノーボール(雪玉)で,ドーナツのような生地で,握りこぶし程の大きさの丸いボールを油で揚げて,白い砂糖の粉をまぶしたようなもの.名前のような白いものばかりではなく,チョコレートを絡めたものなど,何種類かあるようだ.そのあとは気侭に町を散策.町はしっかりとした城壁に囲まれていて,その上を歩くこともできる.2 箇所ほどで城壁に登ってみた.城外に向いた方は,石と粘土を固めたようなしっかりとした壁で囲われているが,城内に向いた方は屋根を支える木の柱が立っているだけ.高さは2 階建ての家屋の屋根を斜めに見下ろす程度で,それほど高いものではなく,残念ながら市内全体を見晴らすような眺めにはなっていない.夕方まで遊んで三々五々ホテルへ戻り,この日は暮れる.

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マルクト広場にある市議宴会館.そろそろ11 時になるというので待つ.

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11 時ちょうどに左右の小窓が開き,右の市長がゆっくりとグラスを傾ける.

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この町の名物お菓子シュネーバル.

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城壁に登ってみる.右側が城壁内の町.

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(左)朝,家内と共にホテルの前の駅に立ち寄り,ホームに出てみた.日本人らしい男子学生が列車を待っている.聞いてみると,大学1年生で春休みを利用した一人旅であるという.結構と気概のある学生もいるものだと感心,記念に写真を撮ってもらう.

 

ヴュルツブルク:310日は,また朝早くバスで出発して一路北上し,9 時にはヴュルツブルクという町に到着する.ドイツ南部のほぼ中央に位置し,フランケン地方の中心都市であるという.紀元前1,000年頃に要塞が築かれたのが始まりという古い町でもある.町の西側をマイン川が北上しており,対岸の高台には要塞の威容が望まれる.ロマンティック街道の北の終点ということは,ローマ帝国時代の領土の北のはずれに位置するのだろう.

まずレジデンツ前の広場でバスを降りる.本来領主は要塞に住んでいるのだが,だんだん世の中が平和になると要塞から降りて,町中のレジデンツと呼ばれる館(やかた)に住むようになるのだという.ドイツ・バロック建築の最も美しい城館として有名だといい,流石に堂々たる見かけである.そして大聖堂とその脇のノイミュンスター教会(あのヴィース教会も手がけたツィンマーマン兄弟による内部装飾をもつ),要塞に通じるアルテ・マイン橋(12人の聖人の像が欄干に立ち並ぶ)などなど,見所が多くて,あっという間に時間が経つ.ローテンブルクなどよりはよほど大きな町で,路面電車も走っている.添乗員さんの話によると,この町の大学はドイツでも有数の古い歴史を持ち,X線を発見したレントゲンはここの大学で教えていた由,また日本の植物学などに大きな貢献をした博物学者のシーボルトはこの町の出身だとか.

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壮麗なレジデンスの建物と,その前の広場に建つ彫像.勝利の女神のようでもあるが,詳細な説明は聞き落とした.

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ノイミンスター教会の内部の装飾.聞きしに勝る美しさである.

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路面電車も走っている賑やかな町だ.

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何やら飾り付けをした商店街.

 

ハイデルベルク:ヴュルツブルクで早い昼食を取り,バスに乗って南西方向へ.途中から古城街道に入り,ネッカー川沿いに走って午後1 時半頃にハイデルベルクへ到着.途中は薄曇りだったが,山の中腹などのあちこちに,古城が建っているのが遠望される.

まずバスでハイデルベルク城へ登る.すでに廃墟になっている部分も多いが,残っている建物には様々な彫刻などの飾りつけもあって,なかなか立派な造りである.殆どが赤色砂岩を使っており,これも印象深い.地質関係の方にはお分かりになるだろうが,近寄ってよく見ると素晴らしい斜交層理が発達しているブロックを沢山使っていて,見飽きないほどである.地下にワインの大樽を擁する建物などは,中に入って見物する.この古城からの町の眺めは素晴らしい.帰りはケーブルカーで一息に,市庁舎や聖霊教会のあるマルクト広場近くまで降りてくる.さぞやいい眺めと期待して,ケーブルカーでは先頭近くに立ってカメラを構えていたが,殆どがトンネル内を下りて来たのにはがっかり.

ハイデルベルクといえば,ドイツ最古の大学がある町として有名である.この大学には,私の恩師や先輩達も多く留学しており,渡邊武男先生と立見辰雄先生が橋の欄干に寄りかかって並んで写っている写真が渡邊先生の追悼文集に収録されていて,確かその背景には古城が写っていたと記憶しており,静かな佇まいのアカデミックな雰囲気の町なのだろうと,期待してやって来た.しかし,結論から書くと,これまで見て来たドイツの町と,これといった違いがあるわけでもなく,ちょっと肩すかしの感じである.というのも,見学時間が短かったこともあろうが,どれが大学の建物なのかも分からず,道行く人たちも大学生かどうか見分けもつかず,期待していた大学街の雰囲気というものが殆ど感じられなかったのである.大体欧米の大学は,日本のように決まった敷地の中に柵に囲まれてまとまっている,ということはなく,町の中に散在していて,どれが大学の建物か分からないことが多い.ここでも Universität と金文字で書かれた標識がドアの上についている建物もあったが,外観だけでは,これが大学関係の建物だとは分からない.ということで,大学広場などという所へも行ってみたが,観光客らしい人達も含め,大勢の人が行き来していて,何処にでもあるような普通の賑やかな町だった.

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ハイデルベルク城の,華麗な装飾をもつ建物.赤色砂岩を使っている.

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ハイデルベルク城から町を見下ろす.なかなか風情がある眺めである.

 

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(左)マルクト広場に建つ

聖霊教会.

(右)教会の内部にあるステンドグラス.但しこれは広島の原爆を描いたもの.194586日との日付が入り,E=mc2 と書かれている.

 

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町中には大学と記された建物もあるが,外観はほかの建物と変わりはない.

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ネッカー川に架かるアルテ橋で.背景に城が見える.女性陣は元気一杯だ.

 

フランクフルトへ入る:フルトというのは,歩いて渡れる浅瀬のある場所,という意味だと添乗員さんからの説明がある.とうとう出発地であったフランクフルトまで戻ってくる.夕方6 時半,まだ町は明るい.旧市庁舎のあるレーマー広場でバスを降り,夕食まで少し町をブラブラする.建物の屋根の形や切妻に入った木の柱,それに窓枠の模様が寄木細工のような趣で,これまたおとぎ話の町のようだ.ほぼ屋根の高さが揃っているのも,一定の景観を保つには大いに効果があるのだろう.大都会の真ん中に,こんな魅力的な広場があるのは,羨ましいことである.

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レーマー広場に面した三つ揃いの建物.中央が旧市庁舎レーマーである.

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レーマー広場を取り囲む美しい建物.お菓子の国に紛れ込んだよう.

2010422

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22)ドイツ駆け足旅行(4

 

リューデスハイムへ:フランクフルトの正式名称は Frankfurt am Main といい,マイン川がこの辺りで浅瀬をつくり,歩いて渡れる場所に町ができたということなのだろう.一泊するといよいよ311日,旅行最後の一日である.フランクフルトの町を一日ゆっくり観光するのもよいのだが,ライン下りというオプションもある.追加費用は118,000円という高額なのだが,これに行かなければボンもケルンも見られない,と家内から尻を叩かれ,日本出発の時から,このオプションには参加することに決めていた.幸い,旅行中に親しくなったご夫妻の多くも,このライン下りに参加されるとかで,皆で賑やかにバスに乗り込む.マイン川はラインの支流なので,マイン川に沿って少し西に走り,ライン下りの観光船の船着場のあるリューデスハイムという町へ行く.

リューデスハイムはラインの真珠と呼ばれる美しい町だそうだが,観光船の出発までの僅かな時間には,ワインの酒蔵風の場所へ案内してくれる.何しろドイツといえば白ワイン,白ワインといえばここがモーゼルの本場なのである.ふんだんに何種類かの白ワインを試飲させてくれ,その美味しさについつい買う気になってしまう.日本への送料は無料,というが,多分相当の量を日本に輸出していて,日本には在庫が山とあるに違いない.辛口,はドイツ語でトロッケン,ということも覚えてしまった.甘辛3本ずつの6本を買い,144ユーロを家内がカードで払う.帰国後23日で品物は届き,美味しくてあっという間に飲んでしまい,あとには18,000円也のカードの支払いと,しゃれた細長いワインの空き瓶だけが残った.オプションツアーの参加とこの白ワインの買い物,これがこの旅行でのささやかな贅沢だった.

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古い町らしく,狭い路地もある.

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白ワインの試飲をさせてくれる.

 

ライン下り:こんなに気持ちのよいものだとは! 私にとってはこの旅行で,最も幸せな気分が味わえた一時だった.リューデスハイムの船着場から観光船に乗る.我々のグループのほかにもちらほら観光客が乗ってはいるが,まずまず空(す)いている,といっていいような状況だったのも幸いした.大半の人は上部の甲板に出て見物したようだが,私は寒風の吹きさらしになるのが厭で,船室の中央のテーブルの一番前で,一人で前方を向いて座る.180度ガラス張りで,視野は全く問題がない.船は上流に船首を向けて係留されていた.そのため動き始めたらすごいエンジン音で,川の中央に向けて右へ舵を切り,半回転した.こんなにエンジン音がすごいんじゃ,船室はあまり快適でもないか,と思いきや,船首が川下を向いた途端,もうエンジンの音は聞こえない.あとはただ,ひたすら静かに流れに任せて下っていくだけなのである.なるほど,これは本当にライン下りだ.ドイツ南西部の川を全部集め,オランダを経て北海に注ぐ大河である.相当に流れは速いが,両岸の景色の変化は速すぎもせず,遅くもなく,ちょうど快く左右に流れてゆき,何とも気持ちがよい.ボーイが注文を聞きに来たので,迷わず白ワインの小さなデカンタ(250 ccくらいか)を頼む.

船は右側通行なのか,左手には大きくて平たいコンテナ船のような船が,絶えず上流へ向かって進んでくる.相当の物流を担っている川だと実感した.乗ってから降りるまで,おそらく30キロ程の距離だと思うが,なんと,その間に橋は一本も架かっていない.低い山が両岸に迫っており,斜面は見たところブドウ畑が大半のようだ.時々タイミングが少しずれて,日本語で古城の説明が流れたりするが,まあ,どの城がどんな名前だろうと,あまり興趣には関係がないので,聞き流す.薄曇り〜晴れといった天候で,船室にいるから寒くはなく,ワインでほろっと酔いながら,移りゆく景色を楽しむのは,何ともいえず心地良いものだ.時々列車が走っているのが目に付く.右岸は普通列車,左岸を走るのは特急だと聞いた.川を挟んで両側に鉄道があるのだ.ボンとフランクフルトを結ぶものだろう.

添乗員さんから,右岸にはバーゼルからの流れの距離が書かれています.ローレライは555キロ付近なので,数字に注意していて下さい.と説明されていたので,553という白い表示を見てから,やおら甲板に上った.ここは船室内と違って大勢の人で,わいわいがやがやと賑やかである.すぐに右手に大きな断崖が迫ってくる.堆積岩の層理が緩く東に傾斜しているのが見て取れる.不勉強で,何時の時代のどういう堆積岩か,全く知らないのがちょっと残念だ.流れがきつく,大きく蛇行しているので,昔は舵取りが難しかったのかもしれない.あわてて何回かシャッターを切るが,周りの人を押しのけて撮るわけにもいかず,あまり綺麗には撮れなかった.人魚のようなローレライの銅像(?)が中洲に置かれていたが,これもあっという間に通り過ぎる.ざわざわと興奮も覚めやらぬ中,船は大分進んで,とある右岸の船着場に接岸する.ライン下りはここまでで,1 時間半ほどのクルーズだった.

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ライン川沿いに鉄道が走っており,線路を渡って向こうに見える船へ行く.

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下り始めると,まず見えてくるのが可愛らしい「ねずみの塔」.

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見るからに古城の趣,という「ラインシュタイン城」.

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川の中洲に建つ「プファルツ城」.通行税徴収のため建てられたとか.

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立派な見掛けだが名前は「ねこ城」.名前の由来は聞きそこねた.

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これが有名なローレライの崖.流れ

が速く,あっという間に通過する.

 

ボン:バスはちゃんと先回りして待っていてくれ,昼食を済ませてからボンに向かう.ボンに着くと現地の日本人女性のガイドが現われ,ケルンまで一緒についてきて案内をしてくれる.ボンといえば東西分裂時代の西ドイツの首都である.若い人は殆どご存じないだろうが,かつてアデナウアーという首相が長いこと戦後の西ドイツを仕切っていた.日本の吉田 茂にもたとえられる政治家である.彼はケルンの出身だそうだが,フランクフルトではなく,このボンを首都にしたのには,彼の思い入れが大きかったという.こんな小都市で大丈夫かと危ぶむ声もあったが,終わってみればボンは首都としての機能を立派に果たしたのだった.

まずボン大学を横切ってミュンスター広場へ行く.ライン川沿いの重要なロマネスク様式とかぞえられるミュンスター教会のある広場だ.教会はその佇まいも内部の装飾もしっとりとした落ち着きがある.そして広場の対面にあるのがベートーベンの立像だ.ボンは彼の生地で,マルクト広場を横切って少し歩くと,彼の生家も残っている.ボンも大学町だといわれるが,活気溢れる典型的なドイツの地方都市,と見た.

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ミュンスター教会.けばけばしい所がなく,町に溶け込んでいる.

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賑やかな表通り.やはりきちんと並んだ石の建物と石畳が景観を造る.

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広場に建つベートーベンの像.おこがましいがその前で撮った記念写真.

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こちらがベートーベンの生家で,三階建ての立派な建物である.

 

ケルン:さらにバスに乗ってケルンまで連れて行ってもらう.ケルンといえば大聖堂.この世界最大のゴシック様式の教会は,正面から見ても横から見ても,その堂々たる威容には圧倒される.13世紀半ばに建て始め,完成には600年かかったという.何しろ大きすぎて,どう撮ってもまともな写真にならない.まさに旅の終着駅としては申し分ない迫力だ.砂岩を使っていて,含まれている鉄分の錆で黒くなっているのだというが,内部の柱などを見ると,変成鉱物と思われる板状〜柱状の灰色の結晶がしっかりできていて,かなり変成を受けてもいるようだ.内部をうろうろして時間を使いすぎ,集合の時間に間に合わず,尖塔の中間あたりまで登るツアーに遅れてしまった.

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(左)大聖堂の威容.どう撮っても全体は写せない.

(右)大聖堂内のステンドグラス.ノイシュバンシュタイン城で有名なルートヴィヒ2世の父,バイエルン王ルートヴィヒ1世の寄進によるものだとか.

 

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正面の入り口付近の飾り付け.

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その細かさは圧倒されんばかり.

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大聖堂の中央祭壇奥に安置されている東方三博士の聖遺物を納めた箱.黄金で造られ,何人かの職人が30年もかけて造ったそうだ.

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市内のデパートの面白いトイレ.三つ並んでいる左右は空いているが,中央は使用中.ドアを閉めて鍵をかけると,ドアが一瞬にして曇りガラスになって,内部が見えないようになる.

 

旅の終わり:夕刻にケルンを発って一路フランクフルトに戻り,オプションに参加しなかった方々と合流して夕食をとり,昨晩と同じホテルでもう一泊.翌312日は,朝食の後10 50 分の集合までは自由というので,家内とタクシーを飛ばしてフランクフルトの大聖堂へ行ってみる.神聖ローマ帝国皇帝の選挙と戴冠式が行われた由緒ある教会だというが,内部は意外と質素というかシンプルであったのが,却って印象に残る.ホテルに集合し,空港へ向かい,あとは流れのままに日本への帰途につく.

旅行をしてみて改めて思うのは,ヨーロッパは石の文化,という事実.折角少しはバックグラウンドがあるのだから,もう少し石材についての知識を仕込めば,ヨーロッパの楽しみ方もまた変わってくるのではなかろうか.少し類書でも買い込んで勉強でもしてみようか,という気にもなったが,毎日を気まま気楽に過ごしている現在,そこまで手を拡げる元気が出るかどうか,あまり自信はない.

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(左)フランクフルトの大聖堂.これもゴシック様式だ.

(右)内部は荘厳な雰囲気だが,華美な装飾はなく,すっきりとしている.

 

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2泊したフランクフルトのホテル.出発の日の朝も小雪が舞っていた.

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空港内の「ゲーテ・バー」で.家内はドイツでの最後のビールが名残惜しそう.

2010424

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23)地味な新鉱物二種

 

もう数週間も前になるだろうか,科学博物館のMRさんから嬉しいメールが届いた.国際鉱物学連合の新鉱物・鉱物名委員会に申請していた鉱物が,二つとも新鉱物として承認されたというニュースである.産地はいずれも中国は内蒙古のバヤンオボ鉱床で,以前にも書いたことがあるが,中国が世界に誇る希土類元素の一大鉱床である.私は2005年度と2006年度の2年間,客員研究員として週に半日のペースで科学博物館の地学研究室に通い,館員の皆さんの研究のお手伝いをさせていただいたのだが,その折にこのバヤンオボの試料を詳細に検討するという,またとない機会を頂戴した.その試料というのは,秘密主義が厳しくて,試料の採取はおろか,鉱床区域での写真すら撮らせてくれないバヤンオボの鉱山から,MRさんが外国人としては奇跡的に,大量に持ち帰ってきた貴重なものなのだった.希土類元素の鉱床などは,これまでに扱ったことがなかったから,見るものすべてが目新しく,思いがけない勉強をさせていただいたのだが,その中には幾つか新鉱物の可能性を秘めたものがあった.そしてそれらの内から,張培善石は私自身が筆頭著者で,楊主明雲母はMRさんが筆頭著者で,新鉱物として誕生したことは以前にも書いた.しかし,そのほかにもまだ幾つか新鉱物になりそうなネタが残っていた.そして私が研究員を辞めたあと,しっかりとその後のフォローをしてくれて誕生したのが,今回の二つの新鉱物ということなのである.

表題に「地味な」と書いたのにはわけがある.それは,今度の二つの新鉱物はいずれも既知の雲母の仲間で,雲母といえば(OH) という水酸基が入ることは鉱物に詳しい方には自明なのだが,その(OH) 基の部分がフッ素によって置き換えられたものを発見したということなのだ.ということで,こういう場合には新しい鉱物名を提案することはできず,(OH) 基をもつ既知の鉱物名の前に「弗素」という接頭語をつけて呼ぶ,というのが決まりのようである.一つは日本人には馴染みの深い木下雲母.ご案内の通り,バリウムを含む雲母で,木下亀城先生に因んで名づけられた鉱物である.これにフッ素が入ったもの,ということなので,Fluorokinoshitalite,和名は「弗素木下雲母」,理想化学組成は BaMg3Al2Si2O10F2 と書かれる.しかしバヤンオボ鉱床の生成環境がかなりアルミナに乏しいことは,アルミナを含まない楊主明雲母の存在などからも明らかで,ここでもバリウムはこの式の形では,目一杯の1個は入っておらず,アルミも2個よりは大分少ない,といった組成になっている.しかし,慎重な分析を重ねた結果,上記の単位構造化学式で,何とかバリウムは0.5よりは多く,フッ素は充分に1を越えている,ということで,ここに新鉱物が誕生したのである.

もう一つの雲母はちょっと一般に馴染みのない雲母で,テトラ第二鉄金雲母のフッ素置換体,というものである.金雲母は,雲母の中でも代表格の典型的な化学組成をもち,4配位の部分に3個の珪素と1個のアルミニウムが入る.ところがバヤンオボでは上にも書いたように,全般的にアルミナが不足している.しかし鉄の鉱床として掘れるくらいに鉄は多量にある.そのため鉄の一部が3価(第二鉄)となってアルミニウムの代わりをした金雲母が生成しうる.化学式で書くとKMg3Fe3+Si3O10(OH)2 ということになる.これがTetraferriphlogopite で,和名はテトラ第二鉄金雲母ということになる.因みに第二鉄ではなくてシリコンが入り,余剰の価数を相殺するためにマグネシウムが0.5個抜け落ちたものが楊主明雲母である.今度新鉱物となったものは,このテトラ第二鉄金雲母のフッ素置換体で,Fluorotetraferriphlogopite という長い名前となり,和名は「弗素テトラ第二鉄金雲母」,理想化学組成はKMg3Fe3+Si3O10F2 となる.鉄がそれほど多量にあるのなら,この式のマグネシウムの部分を2価の鉄で置き換えて,Tetraferriannite,テトラ第二鉄鉄雲母ができてもよさそうだが,バヤンオボの生成環境ではマグネシウムは豊富だったようで,調べた限りでは金雲母の系統ばかりで,鉄雲母は見つからなかった.なお余談だが,4配位の3価の鉄を少しずつシリコンに置き換え,それに合わせてマグネシウムを減らしていけば,この弗素テトラ第二鉄金雲母と楊主明雲母は化学組成の上で連続する(連続固溶体)ようにも考えられるが,この二つの雲母が同じ試料内に見つかる例があるので,どこかに不連続な部分があって,連続固溶体は形成していないらしいことも,特筆に価するかもしれない.

これら二つの新しい雲母は,科学博物館のMRさんが筆頭著者で,私が第二著者,そして分析を担当されたSMさんが第三著者で,以下博物館の地学研究室の方々と他の研究機関の共同研究者,それにバヤンオボへの調査旅行をアレンジしてくれた中国科学院の楊 主明さんも著者として名を連ねている.特に重要な役割を果たしたのがSMさんで,第三著者にはなっているが,厳密な測定を繰り返し,フッ素が上記の単位構造化学式において1を越えているという,信頼の置けるデータを出してくれたことが新鉱物であることの決め手となっている.それは同時に第四著者に甘んじているYKさんについても言えることである.SMさんの上司の立場で,常に測定機器を最良の状態に管理し,定量に必要な標準物質を厳選し,きちんとバックグラウンドを切ることにより信頼の置ける定量値が出るように,多大な時間を割いてくださっている.このお二人の地道な努力が今回の発見の支えであったわけだ.出来上がってきた薄片を顕微鏡下でざっと目を通し,右から左へとSMさんの分析に廻しただけの私の貢献度などは,このお二人の足元にも及ばないのだが,年齢(とし)の功(?)ということか,第二著者としていただき,これで私が発見に関係した新鉱物はとうとう6種類にもなった.最後の二つは地味な鉱物だとはいえ,鉱物好きの私としては冥利に尽きるというほかはない.

最後に少し蛇足を付け加えると,弗素テトラ第二鉄金雲母(やれやれ,本当に長い名前だ.パソコンで打っていて実感される)は逆多色性がある.雲母の逆多色性については日本でもかつて研究された例があり,4配位の位置に3価の鉄が入ることが一因であろう,とされている.今回の弗素テトラ第二鉄金雲母も4配位の位置に3価の鉄があるので,逆多色性があって当然なのであろう.地質関係でない方にはちょっと分かりにくいかと思うのだが,多色性や逆多色性の説明を始めると,どうしても細かな解説をしなければならないので,ここでは省略させていただいて,写真だけを掲げておく.科学博物館の報告にも使った写真なので,著作権を侵害しているかもしれないが,写真を撮ったのは私本人であるので,何処からか苦情が来ればすぐに引き下げるとして,当分はお許しいただいているものとしておこう.

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左の写真の中央付近に見られる茶褐色の鉱物が弗素テトラ第二鉄金雲母で,雲母でありながら,底面の劈開と直交する方向に伸びている.この顕微鏡では,下方ポラライザーの光の振動方向は観察者に対して前後の方向なので,この伸長方向に振動する光に対して色がついていることになる.右の写真は90度回転した位置のもの.雲母の底面の劈開方向の光に対して,殆ど無色であり,逆多色性を示している.写真の幅は約1mm.雲母はヒューム石系統の鉱物とその分解物の中に埋まっており,片側にあるコロッとした見かけの鉱物は弗素セリウムブリソ石.

2010524日)

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24)試料整理こぼれ話(1

 

このホームページも最近とんと書き込みをしていない.直前の新鉱物の話が5月だから,ちょうど二ヶ月も間が開いてしまったことになる.理由は簡単,ネタ切れなのである.毎日毎日の生活から,何か書けることを拾い上げていかなければならないのだが,判でついたような変化のない生活をしていては,そうそう皆様にご披露して楽しんでいただけるような話は出て来ない.さてどうしたものかと,例によって毎日のように通っているスポーツジムの浴室で,浴槽の周囲に貼られた赤色花崗岩の板に腰を下ろし,汗を流しながら頭をひねっていた.すると,ふと名案らしきものが浮かんだ.やはり頭は使うものである.

以前にも書いたように,昨年から東大の総合研究博物館の鉱床試料室に週に一度くらいのペースで通って,試料の整理をやっている.整理といってもいろいろだが,現在は主に通路に積まれているモロブタやダンボールを,少しずつ片付けている.何しろ通路に山と積まれているので,これを片付けないことには通り歩きもままならないし,通路に面している引き出しの中を確認することもできない.モロブタやダンボールの中味は様々だが,大体は理学部地質学教室のかつての鉱床学講座の先生方や学生・院生が研究に使った標本が持ち込まれているのである.時々,鉱山から直接送られてきて,まだ開梱もしていない古い木箱があったりする.一つ一つ中味を取り出し,残すもの,捨てるものに分け,残すものは,ラベルが必要であればラベルをつけ,収納する場所を探し,何とかそこに収める,といった仕事である.

そうだ,この仕事のことをホームページで紹介したらどうだろうか.それがふと頭に浮かんだアイデアである.毎週のように行っているから,ネタ切れになることもない.このページを見てくださる奇特な方は,大体鉱物愛好家の方が多いと思われるので,こんな珍しい鉱石があった,こんな産地の鉱物が出てきた,といった話を写真入りでご披露すれば,何がしか楽しんでいただけるかもしれない.そのうち,東大の博物館の鉱床の収蔵標本にはこんなものもあるのか,という具合に何方かの目に止まって,それなら利用してみようじゃないか,といった標本活用のきっかけになるかもしれない.これは一石三鳥くらいのアイデアではないか,と我ながら良いことを思いついたと嬉しくなった次第である.

ということで,これからはその時々の試料整理で出てきた標本などを,幾らか写真もまじえながら紹介していこうと思う.

 

渡邊武男先生の試料:最近整理した試料の一つに恩師渡邊武男先生が採取されたものがある.先生の試料は,それこそ山のようにあるので,珍しくもないのだが,197810月の日付が入っていて,先生が71才,ちょうど今の私と同じ年齢の時,広島大学で三鉱学会があった折の巡検に参加して採られたものである.開梱していないダンボール箱二箱で,発送者は広島大学で当時助手だったかと思われるWMさんである.渡邊先生の場合,何時何処へ行かれたか,幸いにして調べる手段がある.それは先生が亡くなられてから,お弟子さん達が集って刊行した「回想の渡邊武男先生」という立派な本があり,この巻末に秋田大学におられた加納 博先生が,渡邊先生が秋田大学鉱業博物館に残してこられた三百数十冊の野帳を整理されて,渡邊先生の研究活動の年表を作っておられるのだ.これを拝見して大体の年月日を当てはめると,何時何処で採取された試料かということが判るという仕組みである.

三鉱学会というのは,当時行われていた,鉱山地質学会(現 資源地質学会),鉱物学会,岩石鉱物鉱床学会(後二者はその後合併し現在は日本鉱物科学会)という三つの学会の連合大会である.広島大学で開催されたあと,山口県の藤ヶ谷(ふじがたに)鉱山と玖珂(くか)鉱山というタングステンのスカルン鉱床への巡検があり,渡邊先生はこれに参加された.そしてさらにその後,岩国市周辺のマンガン鉱床の幾つかを,東北大学の南部松夫先生・広島大学の添田 晶先生の同行で廻られた,と年表に記述されている.広島大学から送られてきたダンボールには,この時に採取された試料が入っていたのである.

藤ヶ谷と玖珂鉱山は当時は稼行していたのであろう.坑内で採取した立派な十数個の標本が入っていた.渡邊先生のサンプルは往々にしてサイズが大きい.整理する時に困るのが,この大型サンプルである.展示などに使う時は大きいほうが見栄えがして良いのだが,整理棚の引き出しに収まらなければ,どこか別の棚に置いておくことになる.やや小型であれば,少し頭を小割りハンマーで欠いて背を低くしたりして,何とか引き出しに収まるようにする.今回の試料では一個だけかなり大きく,やむを得ず取り分けて別な場所に置くことにしたものがある.藤ヶ谷鉱山で採られたもので,スカルンの母岩となっている石灰岩を,珪灰石を主とした脈が貫いている標本だ.母岩の石灰岩は,花崗岩の熱で変成を受けているのか,かなり粗粒で,色は真っ黒である.炭質物が多いのかもしれない.この中にスカルンの脈が入ってくると,脈の周辺は真っ白に脱色する.脈が入るということは高温の熱水が侵入して来るということで,この熱水によって炭質物が分解され消失しているのかもしれない.スカルンの脈は当時の割れ目に沿ってできたもので,熱水が通りやすかった向きを示しているが,脱色している部分は別な方向に平行に延びている.これが熱水が脇へ染み出しやすかった方向を示しているわけで,おそらく石灰岩中に残っていた層理(地層)の方向であろう.スカルン脈は厚さ数センチ,主に白色の珪灰石からなり,中心には緑色の単斜輝石が生成し,ほかに橙色の柘榴石の結晶が散点している.これだけ見事なスカルン形成のミニチュア版は,滅多に採取できるものではない.きっと鉱床の末端部分を良く探して,見つけ出されたものだろう.

 

 

石灰岩中を貫くスカルン脈の写真.

 

標本の横幅:約23cm,スカルン脈の幅:約67cm

M:石灰岩,WM:白色化した石灰岩,Wo:珪灰石,Cpx:単斜輝石,Gar:柘榴石.

PICT0022のコピー

藤ヶ谷鉱山のスカルン鉱床は産業技術総合研究所(旧 地質調査所)のSKさんなどによって詳細に研究されており,単斜輝石は灰鉄輝石(Hedenbergite)分子に富み,柘榴石は灰礬柘榴石(Grossular)分子に富んでいる,と報告されている.このほか目に付いた試料としては,輝水鉛鉱(Molybdenite)の板状結晶が沢山入った石英脈の標本がある.同じく藤ヶ谷のものである.藤ヶ谷も玖珂も,山陽地域に特徴的なタングステンの鉱床で,モリブデンは殆どないということになっているので,これはちょっと珍しい標本だ.変質したアプライト様岩石に伴われた石英脈で,本体の鉱床とは形成の時期が少し異なるのかもしれない.

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輝水鉛鉱の結晶を含む石英脈.

試料の見えている部分の横幅:

10cm

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典型的な藤ヶ谷鉱山の鉱石.単斜輝石スカルン中に,石英を伴って黄白色のタングステン鉱物・灰重石の粒状結晶がある.試料横幅:約12cm

 

学会主催の巡検が終わった後も2日ほど岩国の辺りを歩かれたらしく,先生のお好きなマンガン鉱床からの試料も,幾つかのビニール袋に詰められて残っていた.すでに幾らか,晩年の渡邊先生を悩ませたパーキンソン氏病が出ていたらしく,ビニール袋には震える手で産地が記されている.かなり読みにくかったが,ここでも素晴らしい助けがある.それはマンガン鉱床の研究に一生を捧げられた吉村豊文先生の「日本のマンガン鉱床補遺」である.この本を見れば,まず日本のマンガン鉱床はどんな小さなものでも,何がしかの情報があるといっても過言ではない.この本を参照しながら,渡邊先生のビニール袋に書かれた文字を判読し,先生が試料を採られたのは阿品,久杉(滝迫(たきせこ)鉱体),和木,蓮華,天尾の5鉱山だったことを確定した.いずれの鉱山も既に閉山していて,ズリから採取した試料ではないかと思われる.かなり珍しい標本でもあるので,まとめてマンガン鉱床の棚に収めた.やれやれ,これでやっと通路に積まれた山から,ダンボール箱二箱が消えてくれたことになる.

下の写真は左右二つとも久杉鉱山滝迫鉱体のマンガン鉱石.

桃色の鉱物は薔薇輝石(Rhodonite)であろう.

試料の横幅:約12cm(左),約18cm(右)

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2010726日)

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25)張 培善教授の七言律詩

 

この日々雑感の第3章にも書いたが,中国科学院の張 培善(Zhang, Peishan)教授は,希土類元素鉱物の研究,特に中国内蒙古自治区のバヤンオボ鉱床の研究,に一生を捧げた偉大な鉱物学者である.バヤンオボから見つかった新鉱物「張培善石」(Zhangpeishanite; BaFCl)に,先生のお名前をつけさせていただいて以来,季節季節には丁寧な時候の挨拶状を下さる.バヤンオボの記載論文の別刷りをお送りした時には,びっくりするようなお褒めの言葉(らしい漢文)も頂戴した.ところがこちらからは何もお送りするものがない.しっかりと中国語を勉強して,季節の挨拶状くらいが書ければ良いのだが,今の私の中国語の実力は,とてもそこまでは達していない.かといって英語でポライトな挨拶状,というのもちょっと苦しいところである.それやこれやで,最近こちらからはすっかりご無沙汰で失礼していた.

先日,6月の半ば頃だったか,かつて聖徳大学の市民教養講座で中国語を習っていた仲間7人で西安を訪問した.講座で丁寧に中国語を教えて下さっていた先生が,故郷である西安に帰ってしまわれたため,先生のご機嫌伺いと観光を兼ねて押しかけたのである.帰途,北京にも立ち寄って観光をした.北京−西安間の飛行機の切符を手配してくれた中国科学院の友人,楊 主明博士を訪ねるのも目的の一つだった.折角の機会だから,楊 主明さんの師匠にあたる張 培善先生にも何かお土産を,と思ったが,適当なものが思いつかない.日頃のご無沙汰をお詫びし,何時も下さる季節の挨拶状のお返しになるようなもの,となると,飛行場の免税店で買ったチョコレート,というわけにも行かない.

そこでひょっと頭に浮かんだのが,この日々雑感の第9章にも書いた美麗鉱物小片の小箱である.昨年のミュンヘンショーで仕入れた鉱物も,最近この手の作業を全くしなかったので,すっかりそのままお蔵入りになっている.これらを引っ張り出して形を整え,以前と同じ横に6個,縦に3列,計18個が並んだケースに入れて仕上げてみた.まずまずの出来映えになったので,これを張先生に差し上げることとして北京へ持参した.楊さんも,こんなものは見たことがなかったようで,ちょっとびっくりしていたが,私が事情を説明し,どうか張先生に日頃のご無沙汰をお詫びして,これを差し上げてくれ,とお願いしたら,快く引き受けてくれた.この小箱は,まさかこのホームページで紹介することになろうとは思っていなかったので,写真は撮っていない.ただ,小箱の裏側には,鉱物名と産地を書いた紙を貼り付けてあり,この時にプリントしたエクセルの表は残っているので,それをここに紹介しておこう.

 

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中国語で鉱物名はどのように書かれるか,鉱物愛好家の方々には,学名を見て中国名を見ると,そのおよそが知られるであろう.日本語と全く同じ表記も幾つかあるが,鉱物名の意味を中国語で表現したものもある.構成元素名を並べて示すような書き方もあり,全元素名は漢字一文字で表されるので,化学組成は示しやすい.また,各国の国名の漢字表記も興味のあるところであろう.ここには,モロッコ,ロシア,パキスタン,マダガスカル,アフガニスタン,エチオピア,ブラジル,アメリカ合衆国,ボリビア,リトアニア,コンゴと並んでいる.表を追っていけば,簡単に対応がつくかもしれない.日本語のカタカナのような表音文字がないのは不便なようにも思えるが,外国語のこの音はこの漢字で書く,といったような慣用的な使い方が定着しているようで,大体問題なく表記できているようだ.ただ,毎日毎日のニュース報道などの際には,いろいろな国の新しく出てきた政治家や,スポーツ選手・芸能人の名前など,一つ一つの固有名詞に対応する漢字表記を決めなければならないし,いったん何処かで使われていれば,それと同じ表記にしなければ意味が通じなくなる.これは結構と面倒なことであるのかもしれない.

さて楊さんを通じて,この風変わりなプレゼントを贈呈してから何週間か過ぎた.律儀な先生のことだから,受け取ったというお手紙でも下さるかなあ,と思っていた梅雨も終わろうかという頃,果たせるかな,張先生の達筆な字で宛名が書かれた封書が一通舞い込んだ.開けてみると,何時ものような丁寧なお手紙で,その上,七言律詩なるものが書き付けられていた.勿論,現在中国で使われている簡体字で書かれているので,そのままでは一般の日本人にはちょっと読み下せないかもしれない.日本の漢字で書けば以下のようになる.

 

詩 贈 島 崎 君

張  培 善

東 瀛 友 人 島 崎 君, 饋 我 礼 物 鉱 標 本;

鉱 物 産 自 五 大 洲, 無 価 之 宝 多 珍 品。

東 京 大 学 教 授 座, 学 識 淵 博 世 公 認;

中 日 友 好 綿 千 載, 吾 儕 情 誼 倍 加 深。

 

この機会に律詩とはどんなものか,ちょっとウイキペディアで調べてみた.五言絶句や七言絶句というものがあることは高校の漢文で習っているが,律詩は絶句よりさらに規則が厳しいものらしい.第1句の第2字が重要で,ここでは瀛という難しい字が使われている.日本語での読みはエイで,海の意味,ここは易しく書けば東海ということらしい.この字の平仄(ひょうそく)で全体が決まる.この字は平声なので,全体は平起というスタイルになる.そして続く357句の第2字は,平仄仄平,という具合に作らねばならない粘法という決まりがあるとか.私の持っている漢和辞典では,とてもそこまではフォローできない.また3句と4句,5句と6句はそれぞれ対になっていなければならない.さらに有名な押韻というものがあり,第12468句の第7字は,一定の韻を踏まねばならない.ここでは日本の音(オン)で考えてもすぐ分かるとおり,クン,ホン,ヒン,ニン,シンと,n の音で韻が踏まれている.中国の発音には四声というものがあって,声の上がり下がりが顕著なので,この詩なども朗々と読み上げれば,きっと素晴らしく音楽的に聞こえるのではないかと思われる.一般の方には馴染みがないかもしれないが,中国語の発音を示すピンインで書いてみると以下のようになる.四声は(1)〜(4)で示す.中国語に堪能な方は,このピンインに従って,大声で読み上げてみていただきたい.

 

Dong(1) ying(2) you(3) ren(3) dao(3) qi(2) jun(1),

Kui(4) wo(3) li(3) wu(4) kuang(4) biao(1) ben(3);

Kuang(4) wu(4) chan(3) zi(4) wu(3) da(4) zhou(1),

Wu(2) jia(4) zhi(1) bao(3) duo(1) zhen(1) pin(3).

Dong(1) jing(1) da(4) xue(2) jiao(1) shou(4) zuo(4),

Xue(2) shi(2) yuan(1) bo(2) shi(4) gong(1) ren(4);

Zhong(1) ri(4) you(3) hao(3) mian(2) qian(1) zai(3),

Wu(2) chai(2) qing(2) yi(4) bei(4) jia(1) shen(1).

 

漢字を見れば,およその意味は分かる.東瀛は上にも書いたが,東海という意味で,翻って,日本の事を指す時にも用いられる.饋は贈るの意で,吾儕は我等と同義である.流石は80歳を優に超える中国の文化人,古典文学への造詣も深いのであろう.趣味の石のお返しを律詩でとは,何とも風流なことである.        (2010730日)

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