心に浮かぶこと(日々雑感)

 

その九 目次

 

41現代中国社会事情瞥見

42新鉱物島崎石(Shimazakiite)の誕生

43試料整理こぼれ話(9) 鉄鉱石の組織・構造

44都茂鉱の不思議

45東大教授の生まれ月-嘘のような本当の話

 

41)現代中国社会事情瞥見

 

先月6月の半ばに,家内と共に「上海蘇州四泊五日」という団体旅行に参加した.何度も行ったことのある地域で,目新しいこともないのだが,「お二人様で5万円」という謳い文句につい魅かれてしまい,大震災で鬱屈している気分が少しでも晴れるのなら,といった気持ちだった.蘇州に2泊,上海に2泊で,ホテルはどちらも五つ星の豪華なホテルである.これで観光付き,全食事付き,というのだからこたえられない.尤も,飛行機のサーチャージや空港税は別料金なので,トータルでは二人で6万円ちょっとになってしまうが,それでも安いことに変わりはない.

全行程は5日間だが,初日は夕方に成田を発って夜遅く上海につき,最終日はホテルで早い朝食を済ませて,そのまま上海の空港に向かうのだから,実質の観光は中三日である.蘇州近辺を一日半と,上海市内を一日半だ.この駆け足旅行での雑感を書いてみようというのである.現代中国社会事情瞥見,とはまた大風呂敷だが,辞書を引くと瞥見とは,ちらりと見ること,となっているので,まあそんなところか,ということでご勘弁いただこう.

こういう団体旅行には,現地のガイドさんというのが付く.五日間べったりとお世話をしてくれる人である.このガイドさんの人柄や話しっぷりが旅行の印象を左右することも多い.今回の旅行ではLさんという40歳前後の陽気な男性だった.おそらく幼児の頃は,両親は文化大革命に翻弄されていただろうが,小学校高学年くらいからは,社会の流れは改革開放となり,そんな動きにしっかりと乗って,自分の生活を築いてきたものと思われる.この人の話がいろいろと面白く,目からうろこの解説も幾つかあった.そんな話を中心に,今回の旅行で印象に残った現代中国の社会事情の一端を書いてみたい.半分は自分の印象の整理のためでもある.

 

「国は金持ち,個人は貧乏」:ガイドのLさんがバスの中で何回か口にした言葉である.以前,1999年から2003年まで,北京に滞在していた頃の印象は,個人はもとより「国も貧乏」だった.ここでいう国とは,地方自治体なども含めたお上(かみ)である.消費税は取っていないし,徴税のシステムもあまりしっかりしていないのではないか,そんな印象だった.

勤務していた中国科学院の研究者には,この頃から自分の家(日本流にいえばマンションか)を買う向きも多く,中には小金を溜めているのか,二つ三つと買って賃貸しをしている者もいた.家賃収入の過半は銀行ローンの支払いに消えてしまうが,2030年もしてローンが払い終われば,老後の生活は安泰,とばかりに自慢げに話をしてくれたものである.日本でこんなことをすれば,すぐに税務署が来て,頭金はどこから出したか,親からの遺産なのか贈与なのか,それとも.. といった具合に徹底的に調べられる.しかし中国では,そういう調査は全くない,といい,固定資産税や売買にかかる税金などというものも,全く意識にないようだった.きっと市民生活が急激に膨張・変化していて,自由主義経済に慣れていないお上が,徴税のシステムというものを確立できていないのではないかと思われた.株に手を出す者もいて,こういう財テクに励む人を「財迷(ツァイミー)」と呼ぶが,半分軽蔑・半分羨望というニュアンスの言葉である.

ちょうどその頃,飲食店が出す領収書の書式が統一され,籤がつく,という時期があった(最近では,この書式は殆ど見なくなったように思う).領収書に銀色にコーティングした部分があり,コインや爪などでその部分を削ると賞金額が出て来るという籤である.これを楽しみに,お客が領収書を出すように店側に催促する,という仕組みだ.削ってみても大体は「謝々你(シェシェニィ)(有難うございました)」という文字が出てくるはずれなのだが,ときどき50元が当たったりすることもあった.こんなことまでして売上げ額を捕捉しなければ,お店が売上げを誤魔化して,利益を正確に申告しないという背景があるのだと思われた.税金を取るにも大変な苦労があるわけだ.おまけにインフラはひどいから,その頃はどこでも工事工事であった.そんなこんなで,中国のお上はひどく貧乏なのだ,と信じていた.

とろこが,である.Lさんの話では,今や国は金持ちで,予算はふんだんにあるというのだ.確かに最近の中国は何やら様変わりである.GDPは日本を抜いて世界第2位.「天宮」とかいう自前の宇宙ステーションも間もなく誕生するようだ.3年前の四川大地震の際は,今の日本よりはずっと迅速に多額の資金を供給して復興に取り組んだ.震災前よりずっと良い家を支給されて,大喜びの農民の姿がニュースになった.北京‐上海間に新幹線を完成させたし,上海では2005年から,市内と国際空港を結ぶリニアモーターカーが世界最速の時速430キロで驀進している(この日々雑感の第4章に乗車体験を書いた).外貨準備高は世界一で,かなりの部分はアメリカの国債を買っているのだという.

納税などという意識に乏しい中国で,どうやってお上は収入を得ているのか? 少し考えてみると,成程いろいろと財源はありそうだ.輸出入は絶好調で,関税収入も多かろう.「中東に石油あり,中国に稀土あり」と鄧小平が豪語した希土類元素の輸出をみても,資源環境保護と称して関税を引き上げ続け,稀土の価格は天井知らずの上昇を続けている.地元のレストランはろくに税金を納めなくても,日本を初め多くの国の企業が中国国内に進出し,こういう事業所はしっかりと納税しているに違いない.おまけに土地に関する収入というのがあるはずだ,と私は睨んでいる.ご承知の方も多いだろうが,中国では土地の私有は認められておらず,土地は国家のものである.70年間の使用権だけが認められている.都市部などで高額で売りに出されているマンションの値段の半分くらいは,この使用権のために国家に納められているのかもしれない.大都市周辺では宅地開発が進んで,どんどんとマンションが建つ.日本だとこれで土地開発業者や建設業者などが儲かるのだが,中国ではお上にどっと使用料が入るという仕組みなのではないだろうか.あれこれいろいろと考えてみると,近年お上が裕福になり,潤沢な予算を持っているらしいことは,何となく分かるような気もしてくる.

お上が金持ちとなれば,インフラ整備も進むだろうし,福祉制度も潤沢に設定できる.良いことづくめではあるのだが,最近の中国は大国意識も鼻につき始めたのではなかろうか.尖閣列島や南シナ海の島嶼の帰属をめぐって周辺諸国との摩擦が絶えない.新疆ウイグルやチベットでの民族問題にも威圧的な対応が目立つ.呆れるほど厚かましく扱いにくい国なのだが,侮れない隣人ではある.潤沢な予算は貧富の格差是正といった国内問題に使って貰い,航空母艦の建造や巡視船の増強など,外に向かって大国意識を振り回すような姿勢だけは,なんとか御免蒙りたい.

日本のテレビでは,銀座のデパートや秋葉原で,ウン拾万円の買い物をする中国人が報道される.北京や上海では一ヶ月に1万台ずつ車が増えるという.ニュースだけを見ていると,中国人も豊かになったと錯覚するが,やはりこれは一握りの人間の話に過ぎない.13億の一般市民・農民はまだまだ貧しい.Lさんの話を聞いていると,何とかこの貧しさから抜け出したいという切実な思いが伝わってくる.

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上海は黄浦江の東に広がるオフィス街の夜景.中央右が高さ468mの東方明珠塔と呼ばれるテレビ塔.左奥の青い四角は森ビルとも呼ばれる金融センター.

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古き良き時代の面影が残る蘇州.その歴史は遠く春秋時代にさかのぼる.絹織物が有名な運河の発達した商業都市で,東洋のヴェニスと称される.

 

「中国にもヤクザがいる」:ガイドのLさんが,バスの中で声をひそめて言うのがこの言葉だ.そのヤクザとは,公安(日本の警察に相当)だと言うのである.そんな馬鹿な,と誰しも思うが,そこが中国である.

Lさんの話を聞くまでもなく,中国で暮して実感するのは,その人間関係の濃密さである.殆どすべての取引に人間関係が顔を出す.贈収賄から接待・供応,果ては形にならない貸し借りまで,複雑に入り組んでいる.早い話が,中国で何人かで食事をすると,必ず誰かが支払いをする.割り勘という考えは全くない.誰が払うのか.居合わせた者達の過去の貸し借り(いつ誰に奢った,奢られた)と,未来の貸し借りの予測の総計として,払う者が自動的に決まってくる.

そんな社会だから,Lさんのように子供ができれば,幼稚園から小学校入学,と付け届けによって行く先が変わってくる.入学してからも担任の先生には必ず付け届けをする.私立だろうと公立だろうと,これが常識であって,当たり前なのである.学校の先生や,ちょっとした監督権限のある公務員などは,給料と同額くらいの副収入があるという.国家や共産党の年次将来計画などを見ると,必ずと言ってよいほど,「贈収賄・汚職の根絶」といった項目が入っている.北京や上海のような大都市でも,現役の市長の汚職が発覚し,あっさりと死刑になるという報道も珍しいことではない.こういう損得に基づく人間関係がびっしりと張り巡らされていて,これを抜きにした中国人という存在は考えられないのだ.ただ,中国人の良い所は,自分は自分,人は人,である.自分も最大限の利益を得られるよう,上手く立ち回るのだが,他人がそういう行動を取ることには一切目くじらは立てない.

ところが,である.公安というのは具体的な権力である.気に入らなければしょっ引いて拘留することもできるわけだ.そうなると,自分は自分,人は人,という暗黙の了解を破って踏み込んできても,文句が言えない.長いものには巻かれろ,ということで目をつぶる.かくして,それをいいことに公安がのさばる.その様子が日本のヤクザにそっくり,というのがLさんの言わんとしていることなのだ.

Lさんが例に挙げるのは,街中にある床屋だ.以前に北京でも聞いたことがあるが,下町の床屋というのは売春宿を兼ねているのだそうだ.すべてが暗黙の了解なのだが,公安には取り締まる義務(権利?)がある.制服の公安が,今日は少し小遣いが欲しいなあ,と思えば,床屋の店先に行って主人にちょっと顎をしゃくって見せる.すると何がしかの金が渡される.Lさんは日本のヤクザ映画を見たことがあるのか,その様子がまるで日本のヤクザそっくりだと言うのである.交通違反でもして公安にひどくとっちめられた経験でもあるのか,Lさんの公安への憎悪は激しい.公安こそが都会における悪の象徴であるかのような言い方だ.お互いに片目をつぶってやり過ごす中国式の生活習慣の中で,これにつけこんで横車を押す人間だけは許せないようだ.

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左は上海市街で最近建てられた高層マンション.値段はかなり高いようだ.

上はちょっと裏通りに入った辺り.各階からは洗濯物を干す鉄パイプが路上に突き出す.下の通りを歩くと,洗濯物から滴が落ちてくる.昔ながらの風景だ.

 

ロージン公園:四日目の上海市内見物の最初は魯迅公園だった.バスが走り始めると,Lさんはにやにや笑いながら,はい,今日はまずロージン公園に行きましょう,という.中国の都市の公園は,朝から老人で埋め尽くされている.だから老人公園と魯迅公園をかけた駄洒落を飛ばしているのだ.

魯迅公園は,有名な魯迅の資料館と彼の墓がある公園だ.しかし物静かな日本の公園を想像したら大間違い.バスを降りた途端に,様々な音楽が大音響で耳に飛び込んでくる.平日の朝の9時だが,早くも公園には沢山の人が群れている.一番多いのが何やらリズム感のある音楽に合わせて大勢の人が踊っているエアロビクスダンスだ.あちらに一塊り,こちらに一塊り,といった具合である.そのほか優雅な音楽でブルースを踊るグループ,激しいテンポでジルバやルンバを踊るグループもある.それに太極拳かヨガ,といった感じで,ゆったりと体を動かしている人達もいる.

大体が中年以上といった年格好だが,職がないのか,若い人もちらほらと混じっている.悲惨なのは車椅子に乗せられた沢山の老人達だ.介護人は何処へ消えたのか,置き去りにされたまま,通りすがりの私達を,力のない眼でぼおっと眺めている.一日こうやって過ごすのでは,あっという間にボケてしまうに違いない.体を動かしている人達は,まだましだと言えそうだが,いずれにしても頭は使っていなさそうだ.日本でも一時,一億総白痴化,という言葉があったが,朝から公園で踊り狂っている沢山の人を見ると,中国も13億総白痴化ではないか,と情けなくなってくる.

以前は,こういう公園で太い筆に水を含ませて,アスファルトに漢字を書く人をよく見かけたものである.北京では故宮の北の景山公園,それに天壇公園でも南北に伸びる長い道に,筆を揮う人が多かった.書くそばから消えてゆくので,人に迷惑をかけることもない,つつましい芸術である.しかし最近はそれもごく少なくなった. この魯迅公園で筆を握った老人を見かけたのは,たった一人だけだった.

仙台で医学を学んでいたが,医学で人を救うには限界があると感じ,故国に戻って人民の解放・救済を目指して奮闘した文学者・思想家の魯迅だが,あの悲しいまでに愚かで貧しい阿Qのどん底生活から,大群衆がエアロビクスに興ずる世に変わったのを,墓場からどう眺めているのだろう.13億総白痴化でも,阿Qの生活から見れば,大進歩だと評価しているのであろうか.古くは孔子老子を生んだ漢民族の,人倫を極めんとした真摯な思想は,何処へ埋もれ,何処へ繋がっていくのだろう.魯迅公園での喧騒にあっけにとられながら,ふとそんな思いが胸をよぎったのだった.(2011715日)

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平日(月曜日)の朝 9 時の公園は,ダンスに興じる上海市民で溢れている.ちょっと異様に感じるのは私だけだろうか.

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魯迅の銅像.像の後に墓があり,毛沢東が魯迅先生之墓と揮毫しているが,一部しか見えていない.

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42)新鉱物島崎石(Shimazakiite)の誕生

 

6月の初め,ちょうど私の72歳の誕生日の頃,国立科学博物館のMRさんから嬉しい報せがあった.新鉱物として国際鉱物学連合の新鉱物・鉱物名委員会に申請していた島崎石の投票が締め切られ,無事に承認されたというのである.まさに天にも昇る心地とはこのことだろう.鉱物が好きな者にとって,これにすぎる名誉があるであろうか.

申請者として名を連ねておられる方は9名.岡山大学のKIさんを初めとし,岡山理科大のKSさん,倉敷自然史博物館のTYさん,九州大学のNYさん,東北大学のNTさん,科学博物館のYKさん,MRさん,SMさんとMSさんである.産出した場所は,もう数十年も前から,岡山大学の先生方を中心に研究が進められ,数多くの新鉱物・日本新産鉱物が発見されている岡山県高梁市の布賀である.

実は2年ほども前から,そんな話が持ち上がっていた.私は2005年と2006年に,科学博物館の地学部のMSさんをキャップとする研究室に非常勤研究員として勤めさせていただき,以前にも書いたことがある張培善石や楊主明雲母といった新鉱物の誕生に関わらせていただいたのだが,私のあとに非常勤になられた岡山大学のKIさんが,布賀の難しい鉱物をこの研究室に持ち込まれ,博物館の方々の応援を得て,幾つか新鉱物が誕生しようとしていたようだ.そしてそのうちの一つを島崎石と命名したい,というお申し出を受けたのである.内容の詳細は分からないまま,私などはとてもそのような名誉を頂戴できる人間ではない,とKIさんと電話でお話しをしたのだが,「島崎さんはずっとスカルンをやって来られたので,布賀のスカルンに産出する鉱物ならふさわしいかと思って...」というお話で,そうか,スカルン鉱物なのか!と,途端に嬉しさがこみ上げ,思わず「それなら宜しくお願いいたします.」とお答えしてしまったのだった.

それから多少の曲折があって,昨年だったか,MSさんから頂いたお電話では,組成はカルシウムが2,ホウ素が2,酸素が5,の大変簡単なものです,ということで,なんとそれなら,恩師渡邊武男先生が朝鮮のホルゴルで発見された遂安石(Suanite, Mg2B2O5)のカルシウムアナログではないのか,と半信半疑だった.今度めでたく承認されたということなので,報せを下さった博物館のMRさんに,申請に使った書類の写しを送っていただき,どのような鉱物なのか,初めて実際のデータを眼にした次第である.

気になっていた化学組成だが,Ca2B2-XO5-3X(OH)3Xx=00.06)となっている.確かにx=0ならCa2B2O5となるが,ゼロでなければ,ちょっと複雑な,水酸基をもった組成となる.説明を読むと,赤外吸収にOH基の存在を示すピークがあるようだ.ホウ素は軽い元素で,分析が難しいこともあるのだろうが,分析結果では端成分組成(Ca2B2O5)よりもちょっと少なめに出ていて,結晶構造の中でいくらかのホウ素が欠落し,その分だけ酸素に水素がくっつくことで,価数を合わせているのか,と考えられる.いずれにしても想像していたよりは複雑な化合物のようで,申請者の皆様のご苦労がしのばれる,というものだ.

共生する鉱物がまた難しい.武田石・シベリア石・パラシベリア石・オルシャンスキー石・ニフォントフ石・方解石,それに未同定含水カルシウムホウ酸塩,となっている.方解石はよく知られているとしても,それ以外の鉱物をご存じの方は殆どおられないのではないか.方解石以外は,島崎石も含め,全部がカルシウムのホウ酸塩であり,武田石以外はいずれも含水鉱物である.シベリア石・パラシベリア石は,同質異像の関係にあり,島崎石の端成分組成Ca2B2O5に一分子の水H2Oがくっついた組成だというのだから,組成上は島崎石にごく近いものである.よくまあ,これだけ近い組成のものが共存しているものだと思うが,おそらくは生成時期・条件のやや異なるものが一緒に集まっているということなのだろう.しかも,それぞれは決して大きな結晶ではなく,細粒なのだから,これらを一つ一つ識別し,組成を決定し,X線粉末回折をかけて同定してゆくというのは,気の遠くなるような作業だ.改めて,同定にまで漕ぎつけられた申請者の皆様には敬意を表したい.

結晶構造は単斜晶系に属するそうだが,色は無色(灰白色)で劈開はない,という.その上,細粒で自形結晶はなく,他形で他の灰白色鉱物の間に埋まっているというのだから,肉眼での識別は絶望的であろう.しかし幸いなことに,申請書に添付されている顕微鏡写真を見ると,干渉色は鮮やかで,集片双晶(polysynthetic twinning)をするという特徴があるようだ.以前に,微小部分分析などを担当されているSMさんから,鏡下では綺麗な鉱物ですよ,というメールを頂戴していた通りである.

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島崎石の外観.布賀鉱山四番坑で採集.原記載で用いられた標本と異なり,島崎石を主としたスカルン.

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申請書に付けられた十字ポーラー下の偏光顕微鏡写真.上下に走り,直交方向に縞目(繰り返し双晶)のあるのが島崎石.双晶のない部分は武田石・方解石.写真の横幅は約1 mm

 

布賀の高温スカルンといえば,鉱物学関係者の間ではつとに有名で,私も1970年代の初め頃,岡山大学のHCさんにご案内いただいて,産状を見に行ったことがある.当時は地表の露頭で,林の中の転石を叩くと,眼にも鮮やかな紫色をしたスパー石を初めとする稀産鉱物が採集でき,いたく感激したものである.この経験は,後年岩手県の赤金鉱山の高温スカルンを記載する際に,大いに役に立った.

しかしここ何年か,ホウ素を含む幾つかの新鉱物が出ているのは,布賀鉱山という石灰石を稼行する鉱山の坑内だそうで,1980年代に入って二番坑と呼ばれる所から,五水灰ホウ石の産出が報告され,有名になり始めたようだ.その後に新鉱物逸見石の発見が続き,1990年代からは岡山大学のKIさんを中心とするグループも四番坑での研究を開始されたとかで,これらはいずれもホウ素スカルンとも呼べるような,多くのホウ素鉱物からなるスカルンだという.布賀地域から記載されたホウ素を含む鉱物は,島崎石まで含めると20種類.そのうち7種類が新鉱物で,残り13種類が日本新産鉱物だそうだが,その大半はこのホウ素スカルンから産出するというのだから,何とも恐れ入ったスカルンである.

申請が承認された直後だったか,筆頭申請者のKIさんからお電話があり,島崎石の採集会をやりましょう,と誘って下さった.布賀鉱山の四番坑に,島崎石を主とするスカルンが出ていて,行けば必ず採れることは確認してあります,とおっしゃる.こんな嬉しいお誘いはまたとないので,厚かましくも家内や姫路在住の次男共々,採集会に参加させていただくことになった.前日に備中高梁のホテルに集合し,翌日,7月のよく晴れた気持ちのよい午前に,布賀鉱山に入坑した.四番坑というと,山の中腹よりも大分上になる.坑内ではすでに地元の鉱物愛好家の方々が,坑壁のやや高い所に露出しているスカルン塊が採取できるように,足場まで組んで下さっていた.島崎石の記載・申請に用いた標本は,同じ四番坑でも武田石を主とするスカルン塊から採取したものだったが,今回訪ねたのは別の場所で,ここでは島崎石を主とするスカルンが発達しているのだという.付近にはニフォントフ石を主とする褐色味を帯びたスカルンも脈状に延びており,スカルン全体はやや複雑な形状だが,ホウ素を多量に含んだ熱水の通り道だったのではないかと思わせるような産状である.

足場に上ってスカルンを仔細に観察し,最初に崩した大塊を東大博物館用に頂戴し,あとは周辺に落ちたかけら(上に写真で示したもの)を自分の記念用に拾って大満足である.スカルンを背に,大勢のカメラマン(?)の前に立って,一斉にフラッシュを浴びるという,生涯で最初にして最後の経験もさせてもらい,本当に嬉しい一時だった.しかし緊張していたから,写真にはきっと引きつった顔で写っていることだろう.人間,この年になって慣れないことをやると,無様な格好をさらすことにもなる.(201188日)

 

(この記事にある724日の採集会の様子は

http://www.youtube.com/watch?v=ZPvZ8B2rIr8&feature=channel_video_title

で動画をご覧になることが出来ます.坑内の見学には

鉱山の許可が必要で,勝手に立入ることはできませんのでご注意ください.)

 

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布賀鉱山を遠望する.中央やや右に開いているのが,三番坑坑口.四番坑はさらに上部で,白く見えているガードレールの左奥に坑口がある.

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備中高梁のホテルでの会食.右が筆頭申請者,岡山大学のKIさん,左は科学博物館のMSさん.現代日本を代表する記載鉱物学の二大巨頭.

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布賀鉱山四番坑での産出状況.ちょっと分かりにくいが,右半分の上部5分の3ほどが,島崎石を主とするスカルン.やや褐色味を帯びた縁取りが見られる.周囲は石灰岩.

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足場に立つ地元の鉱物愛好家TMさんと博物館のMSさん.MSさん(右)が叩いている部分が島崎石スカルン(左の写真参照).やや褐色の強い部分はニフォントフ石を主とするという.

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43)試料整理こぼれ話(9) 鉄鉱石の組織・構造

 

今年初めに理学部3号館から,大量の試料が博物館の鉱床試料室に運び込まれた.長い年月を経て,やっと落ち着くべき場所に辿りついた標本達である.

かつて地質学教室が理学部2号館にあった頃,加藤武夫・渡邊武男・立見辰雄といった歴代の鉱床学の先生方が研究生活を過ごされた教授室があって,その部屋の前の,中庭に面した廊下の窓の下には,丈の低い木製の箪笥が作りつけで置かれていた.この中には,先生方が採取され,研究に供されたり,鉱床学の授業の際に学生に回覧されたりした,様々な貴重な標本がぎっしりと詰まっていた.

地質学教室が2号館から5号館に移り,さらに近年1号館地区に移ったため,廊下から取り外されたこれらの標本箪笥は,長い間理学部内をあちこち彷徨っていた.それがいよいよ,ここ何年か置かせてもらっていた3号館地下のスペースから追い出されることになり,行き場のない箪笥は廃棄され,取り出された多数の標本は150箱ほどのプラスチック製のモロブタに入れられて,2月の半ば頃だったか,博物館の鉱床試料室に運び込まれて来たのである.

それから半年,試料室内に何とかスペースを作りながら,運び込まれた標本類を少しずつ収納するという作業を行っている.半年かかって,やっと半分ほどの試料を片付けた.標本をあちらに動かし,こちらに移し,収納した引出しには鉱山名などを書いたラベルを貼り,という作業で,退屈な一面もあるのだが,時々はっとするような綺麗な標本に出会うという楽しみもある.最近幾つか出てきた鉄鉱石の標本は,その組織・構造がなかなか見事なので,それを紹介してみたい.そのまま鉱床学の教科書に載せたいような立派な標本なのである.

 

ミネット鉄鉱石:英語名では Minette iron ore と言い,ちょっと分厚い鉱床学の教科書であれば,必ず項目を立てて解説している重要な鉄鉱石である.フランス北東端のロレーヌ地方を中心とし,ルクセンブルク・ベルギー,それにドイツにまたがって分布する鉄鉱層から掘り出される鉱石だ.かつてフランスとドイツは,この地域の鉄鉱石と石炭をめぐって熾烈な争いを繰り広げたが,ロレーヌ地方は第二次世界大戦後は戦勝国のフランス領に組み入れられて現在に至っている.鉄鉱層はジュラ紀の石灰岩・泥岩・砂岩などに挟まれて存在し,褐鉄鉱・赤鉄鉱などからなる.リンの品位が高く,鉄鉱としては低品位であるとされる.

試料整理で出てきた標本は3点あり,いずれも加藤武夫先生の筆跡とおぼしきラベルが付いている.褐鉄鉱を主とした塊状鉱だが,中に化石を置き換えた鉱石があり,しっかりと元の化石の形を残している.ラベルには,Minette ore (with fossils), Anmetz mine, near Thionville, Lorrain と書かれている.加藤先生がドイツに留学されておられた頃(19091911年)に採取されたものかもしれない.二枚貝のほうは見てすぐに化石と分かったが,棒状の部分は化石なのか,化石だとすれば何なのか,自信がなかった.大学での後輩の一人にOY君という構造地質学の大家がいて,最近ちょっとご無沙汰だった.ご機嫌伺いかたがた,この棒状鉄鉱の写真を送ってみたら,間髪を入れずに返事が来た.これは有名なベレムナイト(矢石)ですよ,と書かれていて,言外に,こんなものも分からないのか,とのお叱りを受けているようだった.そうかそうか,そういえばこんな化石を授業で習ったような気がする.50年も前のことで,それ以来,こんなものを直接目にする機会がなかったんだ,勘弁してよ,と心の中で呟いたことである.

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二枚貝の化石を褐鉄鉱が置き換えている.貝は現世の小振りのハマグリ程の大きさだ.奥の鉱石の前面には,右の写真と同じベレムナイトが顔を出している.

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手前でまっすぐ左右に伸びているのがベレムナイト(矢石)の化石を置き換えたもの.中央の折れた断面を見ると,中空の部分を石英が充填している.

 

魚卵状赤鉄鉱鉱石:太平洋戦争以前に採取された古い標本である.独特の赤色を示す赤鉄鉱の鉱石で,龍烟鉄山の名前で稼行された鉄鉱層から産出したもの.場所は中国北京市の北西約150 km ほどの,現在の河北省張家口市付近にあたり,いわゆる旧満州の延長として,満鉄により開発された鉱床かもしれない.鉄鉱層は後期原生代の珪岩・砂岩などの中に,広範囲にわたって分布しているようで,付近には烟筒山・龐家堡などという名の鉱山として開発された部分もあり,今回の整理では,これらの鉱山名のラベルがついた同様の鉄鉱石の標本も何点か出てきた.

この標本では,魚卵状組織が何ともいえず見事である.英語ではoolitic と称されるが,まさに魚の卵が積み重なったよう.1mm 以下から23mm 程度の直径をもつ球体の集まりである.地学事典(平凡社,1970年版)の「魚卵状鉄鉱鉱床」という項目をみると,「浅海底の堆積性鉱床で,微細な異物を核として,鉄が化学的な作用により沈殿したもの」と書かれ,この龍烟鉱床の名も例として挙がっている.まさに一度見たら忘れられない美麗標本だ.

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魚卵状を呈する美しい赤鉄鉱鉱石.

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粒の大きさは必ずしも一様ではない.

 

腎臓状針鉄鉱鉱石:これまた戦前の古い標本である.産出したのは朝鮮黄海道の殷栗鉄山.殷は難しい字だが,韓国での発音はeunと表記され,栗はyulなので,ウン・ユルとなるが,韓国語はリエゾンするので,ウニュル鉄山ということになるか.黄海道は北朝鮮の南西部にあたり,地図で見ると殷栗はソウルから北西200km 程の所にある.以前は朝鮮半島の形は,左(西)を向いた兎の横向きの姿,と言い習わされたものだが(最近の若い方々は聞いたこともないだろう),ちょうどこの兎のチョコンと前に出した手の先にあたり,黄海を望む海岸に近い場所ということになる.

地質と鉱床に関して何か情報はないかと探しているが,現在の所,詳細な報告は見つけていない.わずかに加藤武夫先生の書かれた教科書「鉱床地質学」に10行ほどの記述があり,中期古生代の粘板岩・石灰岩に挟まれて胚胎する鉄鉱層で,鉄に富む堆積岩の風化露天鉱床であろうとされている.

ラベルはLimonite(褐鉄鉱)となっているが,見た所黒色の針状結晶の集合であり,Goethite(針鉄鉱)とした方が良さそうだ.ずしりと重いコンパクトな鉱石で,何と言っても針状結晶集合の表面のもっこりした形が美しい.腎臓状~葡萄状(botryoidal)と表現されるが,葡萄の粒よりは遥かに大きな球形だから,これはやはり腎臓状と言うのだろう.

北朝鮮は地下資源が豊富で盛んに稼行されていると聞く.古くから知られていた鉄鉱床の多くは,すでに開発し尽くされてしまったのではないか.このような見事な標本が,ピョンヤンの自然史博物館か大学の博物館に,しっかり保存・展示されているのだろうか. (201196日)

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針鉄鉱の結晶が放射状に伸びている様子を,横から眺めたもの.

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左の標本を上から見ると,このようにもっこりとした腎臓状になっている.

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44)都茂鉱の不思議

 

都茂鉱(Tsumoite, BiTe)は,私が卒業論文・修士論文の作成でお世話になった島根県の都茂鉱山から記載した鉱物である.発見の端緒は,当時鉱床学講座の助手をしておられたKAさんが野外調査の指導に来られ,鉱山の採鉱事務所に置かれていた鉱石をご覧になった折の,「ちょっと変なものがあるぞ」という一言だった.教室に持ち帰って調べたところ,ビスマス-テルル系の鉱物であることはすぐに分かったが,ビスマス-テルルの二成分系には,古くから幾つかの相が知られており,原子比が11の付近には幅広い固溶体(solid solution)があるとも言われていた.それらはいずれも類似のX線粉末回折パターンを示し,反射顕微鏡下での見かけも似たりよったりなのである.そのため,下に詳しく書くように,都茂坑のあるレベルから,幾らか纏まった試料は得られたものの,この「ちょっと変な鉱物」は,当時の私の実力ではきちんと同定することができず,その後長い間,お蔵入りということになってしまう.19641965年頃の話である.

この修士論文での研究から10年程も経った頃,EPMAelectron probe micro-analyzer)という微小部分分析器が使えるようになり,微小鉱物の化学組成の決定が容易になった.さらに鉱物学教室のスタッフで,かつての同級生だったOTさんの精密な結晶構造の検討という強力な援軍を得,また学生時代にお世話になったKAさんからは,今度は新鉱物検討委員会の委員長という立場から種々の助言を頂くこともできた.その結果,この「ちょっと変な鉱物」は,ビスマス-テルル比が11の新鉱物ということになり,OTさんとの共著で発表するところまで漕ぎつけたのだった.この間の経緯は拙著「石の上にも五十年」に詳しく書かせていただいている.

さてその都茂鉱であるが,組成が単純なせいか,国内の鉱物愛好家の方々の受けは結構と良いようだ.「入手したい鉱物標本」という人気投票では,かなりの上位に入っている,とさる方から教えていただいたこともある.お前が発見したのだから,標本は沢山持っているだろう,と期待されるのか,都茂鉱の標本を貰えないか,というリクエストのメールを頂戴することもある.しかし残念ながら,下の写真に示すような,ごく小さな標本1個を手元に残しただけで,あとは大学博物館の鉱物部門にタイプ標本として収めてしまい,人様に差し上げられるような標本は全く持っていないのである.

そもそも私が坑内調査をした時,都茂鉱の産出はごく僅かだった.最初にKAさんが手にとられて,これは変なものだ,とつぶやかれた標本は,坑夫が坑内から持ち出したもので,何処から産出したものかが分からなかった.私は,当時稼行されていた都茂坑と丸山坑という二箇所の鉱床を調査していたので,坑内調査の折には,できるだけピカピカ光るビスマス鉱物に注意しながらスケッチやサンプリングをしたのだが,はっきりとそれらしいものに出会ったのは,都茂坑のマイナス60メーターレベルというトンネルの一個所だけだった.都茂鉱床の東南端に近い所で,付近には採掘できるような高品位の鉱石の掘場はなく,通路・運搬用の坑道として使われている所だった.

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(上)都茂鉱の原記載標本.直径6 cmほどの丸箱に入っている.単斜輝石のスカルンで,光って見える幾つかの小粒が都茂鉱を主とするアグリゲート.

(右)都茂鉱山都茂坑の坑口,1962年頃.

都茂都茂坑.jpg

 

ウン,これはビスマスだ,と見当をつけ,坑壁を叩き落して,できるだけ欠片を拾い集めた.この鉱物は,単斜輝石を主とする淡い緑色のスカルン(石灰岩と鉱液が化学反応を起こすことにより新たに生ずる岩石のこと.有用金属が多く含まれることがあり,鉱床として稼行されることがある.都茂鉱山は,このスカルンからなる銅・亜鉛・鉛を主とする鉱床だった)の中に,針で突いた程度から径数ミリ程の大きさで,まばらに点在する.この試料を大学に持ち帰り,スカルンをかなり細かく叩き割って,ビスマス鉱物が入っている部分を選び出し,X線にかけたり,樹脂に埋め込んで研磨片を作ったり,といった作業に使用した.残ったのはごく少数の,それも私が手元に残したものと同様の,親指の先程の小さな標本が幾つかだけであった.そして約10年後に,これらの標本のビスマス鉱物が新鉱物であることが確定し,原記載タイプ標本として博物館に保管されることになったのである.尤も,その後多くの研究者が都茂鉱山を訪れて試料を採取しているし,旭坑という新しく開鑿した鉱体で都茂鉱の立派な標本が出たとも聞いているので,世の中には都茂坑の-60mL以外の場所から採られた都茂鉱の標本が,沢山出廻っているのかも知れない.

前置きが長くなってしまったが,都茂鉱の不思議というのは,この原記載の標本で見られた,ある組織のことである.この組織のことは,雑誌 American Mineralogist に発表した都茂鉱の記載論文では詳しくは触れていない.どれほど重要な意味があるか,きちんとした解釈ができるかどうかが分からず,またすべての場合に見られる組織でもなかったからである.ただ,径数ミリ程度に発達した,比較的大きめなアグリゲート(集合体)を検鏡すると,この組織が見られるのである.粒が小さな場合には,都茂鉱自身が単独で直接単斜輝石の中に埋まっていることもあるのだが,或る程度大きなアグリゲートの場合は,何時でもこのような組織が見られたと記憶しており,それ以来,この組織のことが頭の片隅にずっと引っ掛かっている.

さて,それではその組織をご覧いただこう.この組織については,国内でもきちんとした報告はしておらず,学会講演の折にちょっと触れた程度だったかと思う.最近,古いファイルの中から,講演で用いたと思われるスケッチが出てきたので,このホームページでご紹介してみようか,と思った次第なのである.図のアグリゲートの径は,ほぼ数ミリ程度という大きさである.周囲は単斜輝石の結晶で囲まれているのだが,まず輝石に接して,やや反射能が低く(反射顕微鏡下では,やや暗く見える)異方性の強い鉱物が狭い縁取りを作っている.図面に書かれているように,この部分は輝蒼鉛鉱(Bismuthinite)とコサラ鉱(Cosalite)からできている.この内側に,やや広い幅で,単一の鉱物が出現し,それは硫テルル蒼鉛鉱(Tetradymite)である.そしてそのさらに内側,饅頭の餡のような部分が都茂鉱なのである.この図面を描いた頃は,まだ新鉱物の承認は受けておらず,ただ化学式でBiTe とだけ書かれている.硫テルル蒼鉛鉱も都茂鉱も反射能は高く(鏡下では明るく),殆ど無色で,僅かに異方性の違いが認められる程度である.

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都茂鉱を主とするアグリゲート.直径は数 mm 程だが,内部は複雑な組織を示す.周囲は単斜輝石を主とするスカルンである.

 

都茂鉱はやや粗い結晶で,幾つかの結晶が様々な方位で集合している.都茂鉱はビスマスとテルルが層状に積み重なった結晶構造をもつので,積層に平行な方向に強い劈開があり,その劈開面に沿って,さらに別の鉱物がごく薄く,とぎれとぎれに挟まっているのが観察される.この図面を描いた時点では,まだ鉱物名を決めかねていて,”Phase D” としているが,この相はその後方鉛鉱(Galena, PbS)であることを確かめている.都茂鉱を主体としたアグリゲートなのだが,その内部はほぼ常に,このような5種類の鉱物が複雑な配置を示しているのだ.何とも不思議なことではないか.さて,これをご覧になった皆様は,この組織がどのようにして形成されたと考えるか,上手いアイデアが浮かばれるだろうか.検鏡した幾つかの,径数ミリというやや大きめのアグリゲートに,例外なく見られるこのような組織,それは何らかの生成時の情報を示しているに違いない.それをどう読み解いたら良いのだろうか.

ごく普通には,鉱脈鉱床などで,脈の外側から内側に向かって順番に鉱物が鉱液から沈殿する,というイメージがある.それにならえば,単斜輝石スカルンの結晶粒間に径数ミリ程の空隙があり,ここに鉱液が浸み込んで来て,温度の低下と共に輝蒼鉛鉱・コサラ鉱を沈殿し,続いて硫テルル蒼鉛鉱を沈殿し,最後に都茂鉱を沈殿する.と考えても良いわけだ.しかし,このアグリゲートはほぼ球形で,鉱脈などとは違い,上下や前後左右に延びているわけではない閉じた空間である.たとえこの空間を鉱液が満たしたとしても,鉱液から沈殿する固体(鉱物結晶)の量は微々たるものであるから,この空間を鉱物で満たすためには多量の鉱液が供給され続けなければならないが,閉じた空間では,そのようなメカニズムは考え難い.

そう,聡明な読者の方々はすでにアイデアを得られたことであろう.このアグリゲートの総組成そのものを持った物質が,単斜輝石スカルンの形成時に,輝石の粒間にこの形で閉じ込められたと考えれば,何ら問題はないのだ.何しろ主体はビスマスであり,融点の低い金属の代表格だ.単斜輝石スカルンの形成時に,鉱液の中ですでに析出を開始していたビスマスは,テルルや硫黄,それに少量の鉛を仲間に呼び込んで,熔融体のドロップ(液滴)として,鉱液中に漂っていた.勿論比重は大きいので,障害物がなければ,鉱液中を沈降するだろう.しかし,すでに周囲には単斜輝石がギシギシと成長し始めており,すぐにそれに引っ掛かって,自由に落下していくことはできなかっただろう.かくして輝石の結晶間に閉じ込められたビスマスを主体とする液滴は,温度の低下と共に,融点の高い鉱物から順に,壁に張り付く形で結晶化し,最後の液からは都茂鉱がゆっくりと大きく成長しながら結晶して,固化を終了したのである.またその後,いったんは都茂鉱中に固溶体として取り込まれていた鉛と硫黄が,温度の低下と共に居心地が悪くなって,方鉛鉱として都茂鉱の劈開面に沿って析出し,それは都茂鉱の中に完全に硫黄が無くなるまで続いた.ただ僅かな量の鉛は,結合相手の硫黄が無くなってしまい,そのまま都茂鉱の中に微量成分として残っていることは,分析で確かめられている.

このビスマスを主体とする鉱物のアグリゲートが,かつては液体(熔融体)だったのではないか,とする考えには,実はお手本がある.それは私の指導教官であった渡邊武男先生の論文である.先生は今からちょうど80年程も前に,朝鮮はピョンヤンの東南東数十キロメートル程の所にある笏洞(Holgol)という金・銅のスカルン鉱床を,卒業論文の研究地として調査をされた.学部卒業後,北海道大学に職を得られてからも,何度も現地調査を行って,このスカルンの研究で博士号を取られたのだが,その研究の集大成が北海道大学の紀要に発表されていて,その中に,自然蒼鉛(Native bismuth, Bi)の記載をしておられ,球状に近い丸い外形をしていることから,これを熔融体だったと解釈しておられるのだ.ビスマスの融点は摂氏271度だそうだから,300400度か,それ以上,と言われるスカルン鉱床の生成温度を考えれば,当然単体のビスマスが存在していれば,熔融していたに違いなく,極めて妥当な解釈である.

都茂鉱のアグリゲートは,ビスマスのほか,テルル・硫黄・鉛を含んでおり,この混合物の融点がどれ位になるか,調べたことはないのだが,数百度を大きく超えるようなことはないだろう,と勝手に見当をつけ,単斜輝石スカルン形成時には,全体が熔融体だったと解釈したわけである.この仮定が成立すれば,この特異な組織は見事に説明できる.しかし,やったあ! と思ったのは,ただの一瞬で,熔融体だったに違いない,と得心してからはすっかり熱が冷め,その気になれば,メタルなどの試薬を買って来て,このアグリゲートの組成になるように調合し,シリカ管の中にでも封入して炉に入れ,適当に温度を上げ下げすれば,この組織を人工的に作ることもできるぞ,などと夢想したのだが,一向に手は動かさなかった.他にもやることが沢山あった(と言い訳がましいのだが)時期で,それ以来,全くこの問題に深入りはしていない.

蛇足だが,都茂鉱山の都茂坑にはコンドロ石(Chondrodite, Mg5(SiO4)2(OH,F)2)という珍しい鉱物も出る.マグネシウムに富んだ環境で生成される鉱物で,都茂鉱床の中でも,ある特定の層準にしか出ない.渡邊先生はそれをご存じで,私が無名会上がりの鉱物好きとKAさんから聞いて,それなら島崎の卒論には都茂をやらせよう,あそこはコンドロ石が出るから,とKAさんに指示されたのだとか.殆どこの一言で,その後の私の一生の大まかなレールが敷かれたのであった.無名会上がりでなかったら,スカルンではなく,黒鉱鉱床か鉱脈鉱床に取り付いていたかもしれない.いやその前に,無名会上がりでなかったら,高校生でKAさんにお会いすることもなく,大学で地質学をやろう,などということにはならなかったに違いないのだが.(2011107日)

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45)東大教授の生まれ月-嘘のような本当の話

 

(註:この話は,日本人の出生数が月によって偏ることはないという,私自身が以前からもっていた誤解を前提に書いてしまったものである.この前提が誤りであり,特に戦前では,日本人の出生数は13月に多かった,という事実があることを,ある方からご指摘いただいた.詳しいことは第51話をご覧いただきたい.)

 

以下のお話は,具体的な数値をお示しできない話なので,多くの方には,そんな馬鹿なことがあるものか,と一蹴されてしまいそうだ.それはそれで結構なのである.信じようと信じまいと,一向に実社会・実生活では何の支障もない,他愛もない話なのだから.でもこれは,本当の話である.

 

東大教授は早生まれが多い:以前,私が東大で働いていた頃,1980年頃から1990年頃の10年程の間だったと思うが,面白半分でちょっとした遊びをしていた.毎年学年末になると,学内広報という大学が発行する学内情報誌に,その年度末で定年退官になる教授の一覧表が掲載され,そこには各教授の生年月日が記載されていた(1999年に私が辞めた頃には,もうこの一覧表はなくなっていたか,あっても,個人情報の問題からか,生年月日は載らなくなっていたと記憶する.現在発行の学内広報にも,こういう記事は載っていないようだ).ちょっとした遊びというのは,この表を眺めながら,教授の生まれ月を46月,79月,1012月,13月と4 区分し,それぞれの区分けの中に辞める教授の数を積算していったのである.数年もデータが溜まった頃,思いがけない事実がはっきりしてきた.私は6月生まれなのだが,46月生まれの教授というのは,ほんのチラホラなのであるが,13月の早生まれとなると,なんと大勢おられるのだ.

国民の税金で給料をもらいながら,毎年度末に例え数分間とはいえ,こんなことに時間を潰していたのか,とお叱りを受けそうだが,10年程やってみた結果では,79月生まれと1012月生まれは大体同数で,これで全体の約半分.これは至極尤もな数だが,46月生まれの教授は少なくて,全体の2割以下となる.逆に13月の早生まれの教授となると数は多く,全体の3割を超えて,46月生まれの約2倍近くになる,という結論だった.このメモは暫く机の引出しにあったのだが,退官で部屋を整理した際,捨ててしまったと記憶している.だから,冒頭にも書いたように,残念ながらきちんとした数値でお示しはできない.しかし,こういった傾向があるのは事実である.おそらく東大に行って,本部に保管してある学内広報のバックナンバーを閲覧させてもらえば,何方でも確認できるに違いない.

理由は簡単である.地質学教室にも例えば330日生まれだったかの教授がおられた.私より数年先輩の岩石学の教授で,若い頃からその活躍ぶりがつとに内外に知られたカリスマである.目から鼻へ抜けるというか,頭の回転が速くて議論好き,せっかちで何事もさっさと片付けなければ気が済まない.例えば,私の部屋に飛び込んで来て,あの話はどうなっているの? などと聞かれることもあったが,私が半分も答えない内にさっと状況を理解し,くるりと踵を返すやそのまま部屋を飛び出して行ってしまう,といったような方である.これが早生まれなのだ,と常々私は思っていた.小学校に上がったら,周りには1歳近く年上のお兄さん・お姉さんが沢山いる.苛められ小突きまわされる.徒競争でも鉄棒でも跳び箱でも,何時でも皆の後塵を拝するばかり.この中で生き抜くことを強いられれば,気が強く意地っ張りの負けず嫌いにならないわけがない.こういう気質の人が東大教授に向いているという,ただそれだけの理由なのだ.

一方,46月生まれの東大教授が少ないという理由はこの逆で,小学校低学年での優位性から,総領の甚六ではないがのほほんと育ち,受験戦争では後れを取り,大学では教授の座にも就けず,ということになるのだろう.今の日本では6歳を過ぎてから初等教育を始めているが,6歳になってからまだ23日目の(早生まれの)子供でも充分授業について行かれることを考えれば,あと何日かで7歳になろうかという4月生まれの子供にとっては,相当の時間のロスがあるとも考えられる.もっと早くから初等教育を始めた方が良い,という示唆を含んでいるのかもしれない.

 

蛇足その一:上記の岩石学のカリスマ先生は,階段を一段とばしで駆け下りたり,食事は大体5分で済ましたり,といったせわしない方なのだが,何も学問ばかりやっていて味もそっけもない人間(残念ながら東大教授には,そういう方が多いのも事実である)だという訳ではない.70歳代後半の今でも,まだ現役そこのけでご活躍の先生の名誉のために,一言付け加えたい.長くアメリカで研究生活を送られたからでもあろうが,欧米人に良く見られるウイットに富んだ会話も得意で,人情味溢れる先生なのである.思い出話を一つご披露しておこう.

以前の地質学教室には,毎週水曜日だったか,会食というものがあった.教室の教授・助教授が集まって,昼食時に会議室で弁当を食べながら,教室の雑事について,あれこれ相談をする.ある時,飯島先生という堆積学の先生が,ぷりぷりしながら会食に出て来られた(飯島先生は残念ながら退職されてから早くに亡くなられたので,ここでは実名で書かせていただく).飯島先生の居室の上が鉱物学教室の実験室で,X線発生装置の冷却水が漏れたのか,先生が出勤されたら,天井から大量の漏水があったというのである.鉱物の連中は全く怪しからん,こちらはいい迷惑だ,とお怒りである.席に座られて,手近の盆からお茶を取られたのだが,興奮のあまりか,手元に引き寄せた茶碗から,お茶がバシャッとこぼれて弁当とノートにかかった.その時すかさず,件の岩石学のカリスマ先生が一言,「飯島さん,水難の相が出てますよ」.

 

蛇足その二:何故長いこと忘れていた東大教授の生まれ月の話を,最近になって思い出したのか.それは,東大も欧米並みに10月入学を視野に入れている,というTVニュースを見たからである.でも留学生相手ならいいが,学部の新入生を全部10月にするのは,日本全体の教育制度が変わらない限り,無理があろう.以前は,もし子供を東大教授にしたいと思ったら,梅雨の頃にせっせと子作りに励んで,節分後にでも出産を目指せば,実現の可能性は格段に高まりますよ,と世のお母さん方に言いたいと思っていたのだが,10月入学となれば状況は一変する.などと愚にもつかぬことを考えていて,ふと私が卒業したかつての都立日比谷高校のことを思い出したのである.自慢をしたいわけではないのだが,当時の日比谷高校は日本全国の秀才の集まりであった.一橋大学とか東京工業大学,あるいは利根川進さんのように異色の京都大学など,特色のある大学を目指すなら別だが,大学は東大へ行くのが当り前で,私が東大教養学部の理科II類-7組だったかに入った時,50人の中の6人が日比谷出身だった.

東大教授は東大生のなれの果てであり,東大生は日比谷高校生のなれの果てのようなものだとすると,実は高校受験というハードルを越えた時に,すでに早生まれが遅生まれを圧倒しているのではないか.こんな疑問が頭をよぎったのである.幸い,手近なところに日比谷セミナーと称するグループがあって,昭和33年卒の日比谷の同級生が年に2回,旧交を温める会がある.それで先日の10月のセミナーで,グループに昭和15年(1940年)生まれがどれ位いるか尋ねてみた.我々の学年は昭和14年生まれが遅生まれで,15年が早生まれである.今の方はご存じないだろうが,昭和15年は「紀元2600年」という節目の年で,子供の名前に「紀」の字を使うのが流行だった.グループの中の紀雄・紀代子・辰子(15年は辰年)という名前の3人は,この名前だけで早生まれと知れる.そしてその他に4人の15年生まれがいて,なんと15人のメンバーのうち7人が早生まれだった! 自然発生的に集まった仲良し15人(文系もいれば理系もおり,大学教授もいれば企業の役員もいて,同じ趣味の者が集まった訳でもない)でこれだけの偏りがあるのなら,日比谷高校生には早生まれが多いと考えることは,決して不自然ではないであろう.この事実を目の当たりにして,東大教授に早生まれが多いことは決して偶然ではない,何処かに書き残す価値がある,という自信を深めたのである.

 

蛇足その三:日比谷セミナーのメンバーの一人であるIHさんが,早速ネットでいろいろ調べてくれた.長くなるので,結果を簡単に記しておこう.

      人口動態調査(平11)によれば46月生まれ:24%,79月生まれ:26%,1012月生まれ:24%,13月生まれ:26%であり,出生は25%前後で均等に分散している.

    Jリーグ・プロサッカー選手における早生まれの影響,という研究によれば,J リーグ全登録選手(519人)において,46月生まれ:36%,79月生まれ:29%,1012月生まれ:18%,13月生まれ:16%,であり,46月生まれの選手数は早生まれ(13月生まれ)の選手の約2.3倍である.

    プロ野球選手(813人)についての調査では,46月生まれ:35%,79月生まれ:30%,1012月生まれ:20%,13月生まれ:15%,であり,これまた,46月生まれの選手数は早生まれの約2.3倍である.

このスポーツ選手における生まれ月の偏りはちょっと意外だった.プロの選手契約をする時に,例えば20歳で採用とあれば,何月生まれであろうとも,生まれてから20年は経っているわけで,体力も経験も何らの差はないはずだ.それでもこれだけ有意の差があるというのは,高校卒のような若い段階で,3月末といった区切りで選手を採るために,早生まれの者は46月生まれより1年近く身体が未発達である,という理由も考えられる.或いは,小学校低学年時の何時も味噌っかすだった体験から,長じてもスポーツ嫌い,運動嫌いが多く,それがそのまま数字に出てしまっているのかもしれない.

ネットで見ると,ある人の記述に,以前「早生まれの科学」といった類の書物があり,著者は東大卒で,その本を書いたきっかけは,東大の同窓会名簿を見ているうちに,東大生には早生まれが多いことに気付いたことから,と書かれていたとある.早速アマゾンで調べてみたが,現在こういう題名の書物は市場に出ていないようで,ちょっとチェックができない.しかし,日比谷高校の例を見れば,東大生も早生まれが多い,ということは充分納得できる.

ネットで多く見られるのは,早生まれは損だろうか,といった議論である.そういう題の書物もある.早生まれは,小学校低学年でお兄さん・お姉さんに揉まれることにより,負けず嫌いの頑張り屋になると書いたが,全員がそうなるという保証はない.むしろ,そこまでは頑張りきれずに,勉強にしても運動にしても,ずっとそのまま仲間の後塵を拝する生徒も出るに違いない.早生まれの子供を持つ親に,いろいろのアドバイスを提供することもまた必要なのだろう.早生まれは遅生まれより,生涯の就学年数が短い,という統計的データもあって,早生まれは勉学の上でも不利であると強調する記述もあった.東大教授も沢山出るが,落ちこぼれも出てしまうという二面性を,早生まれの特質と捉えるべきなのかもしれない.「生まれ月学」の勧め,とやらを提唱する学者もおられ,生まれ月と各種疾病の罹患率を調べられているとか.しかし,生まれ月によって老後のアルツハイマーにかかる率に違いがあるかも,などと言われると,血液型で性格が決まる,などと同じレベルの話になって,ここまで来るとちょっと首を傾げたくなる.(20111014日)

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