芥川 龍之介 『羅生門』

 

 『羅生門』のベースになっている今昔物語では、「盗人」が主人公になっている。芥川はそれを「盗人になる決意をする下人」に置き換え、平凡な人間が盗人になる決意を固めるまでの心理の揺れを描いている。ところでこの下人が平安時代の、本来ならこのような災害を何度も経験しているはずの人間として描かれていないという印象を、この小説を読んだときにまず受ける。当時の状況をふまえたリアリティという点からみれば、この小説にはそのようなリアリティは欠けている。ただ、芥川自身も下人を平安時代の人間らしい人物として描くつもりはなかったのかもしれない。舞台は平安時代であるが、描かれているのは芥川の時代の人間の感情であり、芥川は同時代的な身近な感情を書き込める形に今昔を少しずつ書きかえていったのだろう。では、同時代的な感情を描いた作品としてこの小説にリアリティがあるかといえば、やはり『羅生門』に描かれる世界はどこか不自然であり納得できない場面が多い。下人の心理の動きを細かく追っていきながら、この不自然さの理由を明らかにしていきたい。

最初の場面で「飢え死に」か「盗人か」と迷う下人の心理には、下人の特徴が非常によくあらわれている。

どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、飢え死にをするばかりである。……略……選ばないとすれば−下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげくに、やっとこの局所へ逢着した。

 このあと、「盗人になるよりほかにしかたがない」と続く。けれどもなぜ「盗人になるよりほかにしかたがない」のだろうか。飢えをしのぐための手段は他にも無数にあるはずだが、下人は他の手段を試してみる前に、まず人気のない羅生門にやってきて「盗人」になるかどうかという問題に頭を悩ませている。「くびになった・このままでは飢え死にする・盗人になるしかない」と考える下人の発想は非常に短絡的である。下人は今まで生活に困ったことがなく、「失業したら盗みをするしかない」ということを漠然とした知識として蓄えているだけで、実際にどんなふうに盗んだらいいかということになると皆目見当が付かない、他の手段などはなから考えてみようともしない、その意味で世間知らずの人物である。この場面の描写からはこのような下人の人物像が浮かび上がってくる。こういう人物が「飢え死に」か「盗人」かという問題を頭の中だけでぐだぐだ考えて、結局結論が出ないというのは非常に自然な流れである。

 町なかに出て食物を手に入れる方策を考えるのではなく、人のいないところでただ考えているだけという下人の行動と、この場面での下人の迷い方は、人物のイメージとして一致している。ただし芥川が下人の発想の単純さを意識して書いたかどうかということになると、疑問が残る。下人の迷いは客観的に描かれているというよりは、作者自身が「失業したら悪事を働くしかない」という下人の発想に近いものを持って描いたのではないかと私には感じられる。つまり、下人のような状況に置かれた場合は、誰もが「飢え死に」か「悪」かというような命題にぶつかり、誰もが下人のような悩み方をするものだというように、芥川は下人の迷いを一般化して捉えていたのではないかと思われる。芥川はここでの下人の迷いを下人に特有の個性を反映したものとしてではなく、人類の普遍的な命題として描こうとしているという印象を受ける。そして「盗人」か「飢え死に」かという人類普遍の(と作者には思われる)選択肢にそって、下人の心理がいかに変化してゆくかに作者の興味は集中している。

 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いてきた。−−いや、この老婆に対すると言っては、語弊があるかもしれない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増してきたのである。

 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪の何れに片付けてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それ丈で既に許す可らざる悪であった。

 下人の憎悪をかき立てた要素として、「雨の夜」「羅生門」「死人の髪の毛」等々が列挙されており、それ以外に下人の憎悪に根拠がないことが書かれている。にもかかわらず下人は老婆に「はげしい憎悪」を感じたとされている。下人のこの心理をそのままに受け取るのであれば、下人は大した根拠もなくちょっとしたきっかけですぐに「悪に対する反感」をかき立てられるような人物であり、それを「あらゆる悪に対する反感」だと感じ正義感に燃えるような人物であると言うことになる。

 ところで「あらゆる悪に対する反感」とは一体どのような感情だろうか。何を悪だと考えるかという判断は人によって、社会によって、あるいは状況によって無限に変化する。「あらゆる悪」を憎む、などどいうのは勧善懲悪の時代劇の世界で聞くことはあっても、現実にそのように感じる人間がそうそういるとは思えない。老婆に感じた根拠のない「憎悪」を「あらゆる悪に対する反感」であるなどと感じるには、よほどものごとを具体的に考えない思考回路が必要だと思われる。
 これは「あらゆる悪に対する反感」を感じるような人間が存在しないということではない。しかし現実生活に即して考えてみると、こんな感情は馬鹿げた形でしか存在しないことがはっきりすると思う。「ぼくはあらゆる悪に反感を感じる」などという人間がいたら、それはあまりにも漠然とした正義感であり、妙な道徳心であると思われるだろう。ところが芥川は「あらゆる悪に対する反感」をそのような現実離れした感情としては捉えていない。下人の正義感がすぐに解消してしまう種類のものであることは次の場面で書かれているが、「あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増してきたのである」−−この書き方は「あらゆる悪に対する反感」を無前提に、ごく一般的に理解される感情として、よくありがちな感情として認めている書き方だと感じられる。

これを見ると、下人は初めて明白に、この老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているという事を意識した。そうして、この意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつのまにかさましてしまった。あとに残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。

 下人の憎悪は老婆を取り押さえたことですぐに冷める。この下人の心理は、老婆よりも下人の方が強かったからということで説明されている。けれどもなぜ自分の方が強かったら憎悪が冷めるのだろうか。憎悪する相手を取り押さえても、簡単に冷めない憎悪というのもある。憎悪が簡単に冷めるかどうかというのはその憎悪の内容による。では下人の憎悪がもともと根拠のないものだったために簡単に冷めたのだろうか。それならなぜそんな根拠のない対象に「あらゆる悪に対する反感」を感じることができたのだろうか。

 憎悪の後には「ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足」が残る。ここでも憎悪が冷める場面と同じことが言える。何かを達成したことで満足を感じるかどうかというのは、何をなし遂げたかという内容にかかっている。なし遂げたことの内容に関係なく、なし遂げたこと自体に対して抽象的に得意や満足を感じることはできない。ところが下人の場合はその「何を」というのが問題になっていない。

 老婆に「あらゆる悪に対する反感」を感じること、その憎悪が冷めること、さらに「ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足」を感じること、これらの下人の心理の変化を見てきて感じることは、下人の心理の変化はその変化の要因になる対象と切り離されているということである。極端な例で書くと、道端に石が落ちていたので憎悪を感じた、その石を踏んづけてその憎悪が消えた、そして石を踏んづけたことによる得意と満足を感じた。これは馬鹿げた例のようだが、実際下人の心理の変化と老婆との間に、この極端な例以上の関連性があるとは言えないと思う。
 そこで対象との関連の希薄さというところに下人の大きな特徴がある。あるいは下人の個性の特徴というよりは、作品の特徴というべきかもしれない。対象自体(この場合老婆)と関わりなく、自分の方が強いことで憎悪が消えたとか、取り押さえたこと自体に満足を感じたというふうに、下人の心理は非常に抽象的な動きかたをしており、この心理の流れが不自然だと感じられる。

下人は、老婆の答えが存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑といっしょに、心の中へはいって来た。

 下人は老婆の行為が大それた悪事だと思っていたので老婆の行為が平凡な悪事であることに失望した、そして今度は老婆の行為が平凡な悪事であることに軽蔑を感じ始めた、とこの場面を表面的に説明するとこうなるだろう。
 しかし下人が老婆に想定していた「悪」というのは、おそらく下人自身にも説明できない漠然としたものであり、「大それた悪事」とさえ言えない抽象的なものだと思われる。だからそれとくらべて平凡だったというのも、どう平凡なのかよく分からない。死人の髪の毛を抜くことは殺人などに比べれば大した行為でないと言えるだろうが、下人はもともと老婆にそんな具体的な悪を想定していたわけではない。下人が老婆の行為を「平凡」と感じ侮蔑を感じることには、これらのこととは別の、芥川自身も意識していない法則が働いていると思われる。

 生きる手段のない老婆が死体の髪の毛を売って飢えをしのごうとすることは、飢饉を生き抜くための老婆なりの知恵である。飢饉という厳しい状況の中で人々は自分に可能な様々な工夫を凝らして生きる手段を見出そうとしており、老婆や魚売りの女の例もそのうちの一つである。
 最初の場面の下人の悩み方からは、下人がそのような人々の中にまみれ自分もまた生きていくための知恵を身につけていくという積極的な傾向を持っていないことが読み取れる。世間知らずで、現実的な様々な手段から切り離されていることが、最初の場面の「飢え死にか盗人か」という極端な想定を生み出していた。現実に対して消極的で、飢え死にか盗人かと抽象的に悩むこと自体が重大な意味を持つかのように考えることが、現実にまみれて生きていこうとしている老婆に対する軽蔑を生じさせている。ここまで書くと下人自身の心情というよりは、芥川自身の価値観が下人の心理に反映していると言った方がいいかもしれない。『羅生門』では老婆や魚売りの女の生活や知恵は単純に「悪事」と総括され、下人の心理の動きのきっかけにしかすぎない。飢え死にか盗人かという悩みの方が一般性があると考えられ、生きるための老婆の知恵は平凡であり、軽蔑に値するものとして扱われている。

成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、その位な事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。

わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、餓死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。これとてもやはりせねば、餓死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。

 この作品では老婆や魚売りの女の持つ人間関係や現実の多様な世界は問題になっていない。老婆の台詞にも作品のこのような特徴が反映されている。下人の発想は飢え死にしないためには悪事を働くしかないというもので、それは現実的な様々な手段から切り離されたことから生じる、現実の状況を全く捨象した抽象的な想定だった。そしてここで老婆が言っていること、つまり飢え死にしないためには悪事を働くのも仕方がないということも、下人の発想と同じレベルの抽象的なものである。上にも書いたが、何を悪と考えるかということは個人や社会や時代により無限に変化する。そのようなことはこの作品では問題になっていない。老婆の行為は「飢え死にしないためには悪事も仕方がない」という抽象論を導き出すためのエピソードとしてのみ扱われ、単純に「悪事」として提出されている。ところでこれは個人的な感想だが、私には老婆や魚売りの女のやっていることがそんなに悪い事とは思えない。私の予想にすぎないが、おそらく老婆や魚売りの女のことを悪い事をしていると感じる人はそれほど多くないのではないかと思う。そういうことも芥川の関心にはないようだ。

 下人が現実の事情を考慮に入れずに「飢え死にか悪事か」という抽象的な葛藤に迷い込んで解決がつかなくなったのと同様に、飢え死にするためには悪事も仕方がないとか、いややっぱり悪事はやってはいけないとか、じゃあ、飢え死にしてもいいのか、という抽象的な議論に入っていくと、どこまでいっても解決はつかなくなってしまう。

 ところで下人は「飢え死にしないためには悪事も仕方がない」と考えて老婆の着物をはぎ取る。これは「飢え死にか悪事か」という葛藤の最終的な解決であるように見える。しかし私はこの解決は、「飢え死にか悪事か」という抽象論によって導き出された結論ではないと思う。下人がこのような決意をするにいたるのは、下人が「飢え死にか悪事か」ということを考えている時には全く考慮に入れていなかった、そして老婆の着物を剥ぐにあたっても意識していないところの周囲の事情によると思う。

 周囲の事情というのは、つまり相手が簡単に盗みのできる老婆であること、周囲に人がおらず失敗する可能性がないこと、老婆自身が「悪事も仕方がない」と言っていることから、下人の盗みを老婆の理屈によって正当化できること、等々である。このような状況が少しでも変化すると(たとえば盗みが非常に困難な状況が生じるとか)「飢え死にしないためには悪事も仕方がない」という理屈はたちまち成り立たなくなる。しかし『羅生門』に描かれる小さな、閉鎖された世界には現実社会の要素が入り込む可能性はなく、状況が変化することはあり得ない。そういう意味で、「悪事も仕方がない」という下人の結論は、この世界においては必然的な流れになっていると同時に、この閉鎖された世界でしか成り立たない理屈であると思う。

 「飢え死にしないためには盗人になるしかない」とか「飢え死にしないためだから悪事も仕方がない」という単純な理屈は、現実社会の複雑な状況の中ではたちまち維持できなくなる。これを無理に維持させようとすれば、現実との妙な衝突が生じるだろう。この単純な理屈を成り立たせなくするような現実の様々な要素をすべて排除した、小さな、特殊な世界を描いたのが『羅生門』である。直接の続編ではないが『羅生門』のその後を思わせる作品に『偸盗』がある。この作品では盗人たちの世界が描かれている。しかしこの作品は芥川の小説としても出来が悪く、ストーリーの展開として明らかに破綻しているように思われる。

(1995/12/21〜1996/2/3 NIFTY SERVE 文学フォーラム 13番会議室 (99/4/16修正))

 

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