コメント元の発言へ(田中さん『「外套・鼻」 ゴーゴリ  「芋粥」 芥川龍之介』)


『外套』 と 『芋粥』

 

  『外套』は私の大好きな作品なので、久し振りに読み直してみました。ついでに芥川の『芋粥』も読み直しました。『芋粥』については以前に読んだ時もかなり不満を感じたのですが、田中さんの印象と同様、今回もやはり不満を持ちました。今回は『外套』を読んだ直後に『芋粥』を読んだので、その不満が以前より明確な形で現れたように思います。個人的には芥川の作品にもいくつか好きなものがあり、また芥川という作家自身にもある一面非常に共感する部分もあるのですが、『芋粥』はいただけません。そのあたりのことについて書いてみたいと思います。

 『外套』は何度読んでも面白いです。万年下級官吏で十年十月のごとく写字の仕事ばかり繰り返し、何から何までうだつのあがらないアカーキーですが、彼は写字の仕事を心底から愛し毎日の生活を楽しんでいます。私も『外套』を読みながら、一人で納得したり、くすくす笑ったり、写字の仕事に熱中するアカーキーのごとく『外套』の世界に熱中しました。ゴーゴリの描く一文一文にはこんなふうに読者を夢中にさせる、自由で豊かで深みのある味わいが感じられます。すでに冒頭の数行からして芥川の文体はゴーゴリにはまったく及ばないというのが私の感想です。しかしゴーゴリとまともにくらべたのでは、芥川に少し気の毒かもしれませんね。

 アカーキーはうだつが上がらず、身なりもぞんざいで、外套がつぎはぎだらけだろうが、窓から投げ捨てられるパン屑やキュウリの皮だのが帽子が引っ掛かっていようが一向に気にかけません。同僚が自分を馬鹿にしようが、自分の周囲で何が起こっていようが、彼は自分の大好きな写字の仕事に没頭できればそれで満足しています。彼は誰にも迷惑をかけず、誰からも注目されず、自分の小さな世界の中で平和な生活を送っています。彼が同僚たちに対して不満を表明するのは、彼らのいたずらが過ぎて写字の仕事の妨げになる場合だけです。「かまわないでください! 何だってそんなに人を馬鹿にするんです?」というアカーキーの言葉は、まったくそのような単純な感情から生じた言葉でしょう。その言葉は自分の世界を邪魔しないでほしいというアカーキーの心底からの訴えであり、人をはっとさせる響きがこもっています。この言葉の響きの中に何を感じとるかは、感じとる側のさまざまな事情によるでしょう。まだ年若く世間ずれしていない官吏は

その胸に滲み入るような言葉の中から、「わたしだって君の同胞なんだよ。」という別な言葉が響いてきた。で、哀れなこの若者は思わず顔をおおった。その後ながい生涯のあいだにも幾度となく、人間の内心にはいかに多くの薄情なものがあり、洗練された教養ある如才なさの中に、しかも、ああ! 世間で上品な清廉の士とみなされているような人間の内部にすら、いかに多くの凶悪な野性が潜んでいるかを見て、彼は旋律を禁じ得なかったものである。(ゴーゴリ『外套』)

 と感じるわけです。

 この場面を芥川は次のように描いています。

只、同僚の悪戯が、嵩じすぎて、髷に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」と云ふ。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。(彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが−−多数の誰かが、彼の顔と声を借りて、彼等の無情を責めている。)(芥川龍之介『芋粥』)

 この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映るやうになった。栄養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫害にべそを掻いた、「人間」が覗いてゐるからである。この無位の侍には、五位の事を考へる度に、世の中のすべてが急に本来の下等さを露すやうに思はれた。(同上)

 五位の言葉は迫害された人間の必死の訴えであるとされ、迫害される人間と、迫害される人間は五位一人ではないということに気付く侍との関係として描かれています。独自の世界に生きているアカーキーと、それを邪魔しないでくれという彼の訴えを自分なりの世界観にあわせて深く心に刻みつけた若い官吏との関係が、ここでは迫害される側とそれに気付く側というふうに単純化されて描かれていると思います。さらにそれが人間本来の下等さというふうに二重に単純化されています。
 『外套』の世界ではのびのびとくつろいだ気分になれるのに対して、『芋粥』を読んでいると描写のすべてが狭苦しい型の中に押し込められたような息苦しさを感じます。芥川がアカーキーを解釈している(あるいはアカーキーのイメージをもとに別の人物を創造しているというべきかもしれませんが、芥川がどちらの意図を持って描いたかはあまり重要ではないと思いますので)その解釈の仕方が非常に狭いと感じます。次の描写にもそのことが感じられます。
        
 アカーキーが上司や同僚の嘲笑を気にかけないことは、芥川の五位では次のように説明されています。

彼は、一切の不正を、不正として感じない程、意気地のない、臆病な人間だったのである。(同上)

 田中さんが書かれていた子供たちを諌める場面というのは、五位のこういう特徴を描くための場面だと思われます。五位は臆病な人間なので、誰かに同情を感じることがあってもそれを表明できない。犬を苛めているのが年端のいかない子供たちだったので、五位もふだん見せないところの勇気をもって相手を諌めた。ところが子供たちの馬鹿にしたような反抗的な態度に、この勇気はまたたく間にしぼんでしまった。このくらい五位は意気地のない人間である、ということがこの場面で芥川が描こうとした内容だと思います。

 アカーキーのように(五位のように、というべきかもしれませんが)うだつの上がらない人生は、芥川にとってはある価値観による明確な説明がなければ理解できないものだったのでしょう。つまり彼がこんなにうだつが上がらず周囲の嘲笑にも平気でいられるのは、彼が臆病で意気地のない人間だからである、と。ゴーゴリは小さな世界であってもアカーキーが彼なりの人生を彼なりに楽しんでいることを、ありのままに認めて描いています。けれども芥川には五位のような人生は何かの欠如であるとしか考えられないのでしょう。このあたりの捉え方が、ユーモラスでのびのびとしたアカーキーの描写と、うらぶれたみじめな印象ばかりが残る五位の描写の違いだと感じます。臆病で意気地がなくて他人にいじめられてばかりいるため精神が萎縮していまっているという五位の描写は、うだつのあがらない人生に対する芥川自身の価値観が反映されたものである、とここまで書くと少し言いすぎかもしれませんが、私はそんなふうに感じました。そしてこのような価値観に息苦しさを感じました。

『外套』の下級官吏はそれまでに使っていた外套がボロボロになったがために金を貯めて必死の思いで新調するのである。それは彼の日頃の生活にはない一大イベントである。だからこそ彼には執着が生じたと感じたのである。(田中さん『「外套・鼻」 ゴーゴリ  「芋粥」 芥川龍之介』より引用)

 外套を新調しなければならないという思わぬ災難が、いつの間にかアカーキーの生活を生き生きと充実したものにしているということを、ゴーゴリは次のように描いています。

この時以来、彼の生活そのものが、何かしら充実してきた観があって、まるで結婚でもしたか、または誰かほかの人間が彼と一緒に暮らしてでもいるかして、今はもう独り身ではなく、誰か愉快な生活の伴侶が彼と人生の行路を共にすることを同意でもしたかとも思われた−−しかも、その人生の伴侶とは、ふっくらと厚く綿を入れて、まだけっして着ずれのしていない丈夫な裏をつけた新調の外套にほかならなかった。彼はどことなく前より生々してきて、性格までがあたかも心に一定の目的を懐ける人のように強固になった。(ゴーゴリ『外套』)

 アカーキーが初めて新調の外套を着たときの喜びや、それが新調したてのその日に強盗に奪われてしまった時の彼の落胆ぶり、さらに今まで他人に何かを主張したことなどなかったアカーキーが、警察署長や有力者のところへまで出掛けていって訴える場面は、非常に共感をもって読めます。
 そこで田中さんがこだわっておられる幽霊のエピソードですが、私もこれが何を象徴するというようなことは分かりません。ただ、アカーキーが幽霊となって有力者の外套をはぎとって満足するというエピソードは、ごく素朴な感想として読んでいてとても安心します。アカーキーは現実には外套を取り返すことができず、ショックのあまり高熱を出して死んでしまいます。その死はほとんど誰にも注目されず、彼の死んだあとは別の人間が写字の仕事を何の支障もなくこなしています。現実的なストーリー展開としてはこれが妥当だと思いますが、せめて幻想的な物語の中でアカーキーの望みが叶えられるということで、読者としては気持ちが落ち着くように思いました。これはまったく論理的な読み方ではないと自分でも思いますが。でももしかするとゴーゴリ自身、幻想的な物語の中においてだけ、アカーキーの願いをあのように叶えることができたのかもしれないと思ったりもします。

 『芋粥』の五位の執着には、アカーキーの外套に対する愛着のような生き生きとした感情は感じられません。めったに食べられない芋粥を一度飽きるほど食べてみたい、この願望は理解できます。しかしそのためにどことも知れない遠い所まで連れ出され、おおげさな持てなしを受けて食欲がなくなってしまうというのは、芥川の五位の描き方や全体の流れからみて、ある意味で自然であるとも思います。(これはこの心理の流れに不満だという田中さんの意見に対する反論ではありません。芥川の全体の流れとしては自然であると思うのですが、心理の描写には不自然があると思います。それは後で書きます。)
 アカーキーは見ず知らずの有力者の所にまで出向いて外套を取り戻そうとします。彼にとっては外套が何ものにもかえられないほど大切なものだからです。五位が大量の芋粥を前に食欲を失うのは、もともと五位の芋粥に対する執着が何ものにもかえられないほどの大きなものではないからだと思います。五位の芋粥への執着は「彼の一生を貫いてゐる欲望」だと芥川は書いていますが、現実の描写として、そのような大きな、切実な願望としては描けていないと思います。五位の願望はもともと大袈裟な持てなしを受けたらたちまち萎縮してしまう程度の願望である。それを、大きな願いだったはずなのにいざ実現するとなると

どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。出来る事なら、何か突然故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。(芥川龍之介『芋粥』) 

 と描写しているのは、無理やりな心理描写だと思います。これは切実な願望を持ち続けてきた人間の述懐というよりは、切実な願望を持てない人間が、自分が切実な願望を持っていないという事実を前にしてうだうだと考えるような理屈であると私は思います。

五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返った。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。京童にさへ「何ぢゃ。この赤鼻めが」と、罵られてゐる彼である。色のさめた水干に、指貫をつけて、飼主のない尨犬のやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ欲望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。(同上)

 アカーキーはいざ外套が出来上がってみると思ったほど嬉しくなくて、外套が欲しい欲しいと思っていたころの自分の方が幸福でよかったなどという理屈じみた感想は抱きません。先の引用もこの引用も、素朴な下級官吏の述懐にしては理屈に走りすぎていると思います。願望は簡単に満たされるとかえって詰まらないとか、満たされない願望を抱いていたころの方が幸福だったとかいう総括には、芥川らしい二重化を感じます。この作品ではこのような総括が願望一般に当てはまる特徴として捉えられ、それが無理に五位の心理に当てはめられているという印象を受けます。この心理描写から現れるのは五位自身の姿ではなくて、この心理描写の奥の方から、何かの願望を抱くときにせよ、それが成就されたときにせよ、つねにそこに自意識の二重化を生じるような、屈折した心理に陥りがちな芥川自身の姿が浮かび上がってくるように私には感じられます。
 『芋粥』は初期の作品ですが、この作品の随所にみられるこういった総括に、すでに後期の作品に描かれる芥川の苦悩の片鱗を見るような気がします。読み込みすぎかもしれませんが。芥川の後期の作品についても前から書いてみたいと思っているのですが、なかなかその機会がありません。
 
 今回は前から気になっていた『外套』と『芋粥』の違いを、田中さんの発言をきっかけにようやく自分なりにまとめることができました。前からいろいろと思うことがあって書いたので、田中さんの問題意識への直接のコメントにはならなかったかもしれませんが。

(1997/1/18 NIFTY SERVE 文学フォーラム 13番会議室 #2205)

 

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