チェーホフ 『ワーニャ伯父さん』

 

 はじめに

 好きな作家はたくさんいるけれど、チェーホフは私にとって特別な魅力を持っている。才能という点でなら、バルザックやトルストイの方が巨大な才能を持っているように思うし、作品もダイナミックである。けれどもロシアの片田舎で、あるいは小都会の片隅で、俗悪な生活に押しつぶされそうになり、退屈のあまり惨めないざこざを引き起こし、あるいはただ嘆いているだけのちっぽけな人々の姿を描いた彼の作品は、その世界の息苦しさ、彼らの苦しみの不毛さにもかかわらず、一種独特の味わいがある。

 チェーホフのこの魅力をうまく描写したゴーリキーのこんな文章があった。

この無力なひとびとの退屈な灰色のひと群れのそばを、大きな、賢い、すべてにたいして注意ぶかい人間が通りすぎた。彼はおのれが故国のこれらの退屈な住人たちを眺め、悲しげな微笑と柔らかい、けれども深みのある非難の調子をもって、顔や胸に希望のない憂愁をもって、美しいしん底からの声で言った。 「きみたちはひどい生活をしていますよ、諸君!」(ゴーリキー「追憶」)

 こういう人のことを思い出すのはじつにいい。たちまち生活に元気が立戻り、ふたたびその生活にはっきりとした意義がはいって来る。(同上)

 チェーホフの作品を読むと、そこに描かれる人々の絶望や苦しみ、あるいは嘆きや愚痴や愚かしさにも関わらず、なぜか人生が軽やかで肯定的な、意義のあるものに思えてくる。

 

『ワーニャ叔父さん』

 チェーホフの他の戯曲と同様に、『ワーニャ伯父さん』でも田舎生活の倦怠に押しつぶされそうになっている人々が登場する。

 

1.ワーニャ

 都会で大学教授をしていたセレブリャーコフが定年退職し、田舎の領地へ戻ってきた。長年田舎暮らしをしてきたワーニャにとって、セレブリャコーフの退官はこれまでの生活の意義を根底から覆すような大事件である。

 ワーニャとアーストロフは隣村まで何十キロもある田舎で若い時代を過ごした。ロシア経済の発展に伴い、農村では地主が没落し、大量の農民が都会へ追いやられた。ワーニャは多額の借金を抱えた田舎の地所を守るために、領地にとどまり働き続けた。合理性を失った農村の経営は、生活を切り詰め、ワーニャが身を粉にして働くことでようやく維持できるものだった。

 この単調で消耗的な生活の中で、ワーニャの精神的なよりどころになったのが、妹婿のセレブリャコーフである。ワーニャは都会で教授になったセレブリャコーフを才能ある学者と信じ、地所から搾り取るようにして稼いだ金を25年間セレブリャコーフに送り続けた。セレブリャコーフの書く論文を読み、その生活の援助をすることで、ワーニャは自分の生活に意義を感じることができた。しかし退職し田舎の地所に戻ってきたセレブリャコーフは、わがままでもったいぶっただけの無能な老人だった。彼はありふれた俗物学者の一人にすぎなかったが、この無能な男を25年間も信奉し続けられるほど田舎の生活は後れたものだった。ワーニャはすでに47歳になり、人生に取り返しのつかない時になってようやくそのことに気がついた。自分の人生が無駄に費やされたという苦い現実を前にして、ワーニャが味わう苦悩と葛藤を中心に、この戯曲は展開される。

やっこさん25年のあいだ、やれリアリズムだ、やれナチュラリズムだ、やれくしゃくしゃイズムだと、人様の考えを受け売りして来ただけの話さ。25年のあいだ、あいつが喋ったり書いたりして来たことは、利口な人間にはとうの昔からわかりきったこと、馬鹿な人間にはクソ面白くもないことなんで、つまり25年という月日は、夢幻泡沫に等しかったわけなのさ。

 ワーニャのこの言葉は、セレブリャコーフの特徴を的確に指摘している。セレブリャコーフへの批判には人生を賭けたワーニャの切実な思いがこもっているが、セレブリャコーフを批判しても人生の浪費が取り戻せるわけではなかった。ワーニャの人生が田舎での単調な労働に虚しく費やされたことは、セレブリャコーフの責任ではなかった。チェーホフが他の作品でも繰り返し描いているように、ワーニャの苦しみは当時広大なロシアの片田舎に取り残された多くの人々が味わっていた苦しみである。しかし長年セレブリャコーフを信奉し続けたワーニャには、自分の苦しみがすべてセレブリャコーフの無能のせいだと感じられた。ワーニャはセレブリャコーフを仇のように憎悪し、なりふりかまわずセレブリャコーフに当たり散らすことで苦しみを紛らわそうとした。

 セレブリャコーフはワーニャの妹の死後、若く美しいエレーナを後妻に迎えていた。苦悩と苛立ちがつのる日々の中で、このエレーナがワーニャに微かな希望を与えた。美しいエレーナの愛情を得ることができれば、自分の人生にも新たな展望がひらけるのではないかとワーニャには思えた。彼は一縷の希望にすがりつくように、エレーナに恋をした。

 

2.アーストロフ

 アーストロフもまた、田舎生活に苦い幻滅を味わっていた一人である。彼は農村医として長年農民の治療にあたってきた。彼らの多くは病気にならなければ不思議なくらいの劣悪な環境のもとで暮らしており、アーストロフがどれだけ駆けずりまわって治療をしても農民たちの生活はひどくなる一方だった。彼は不毛な生活の中でしだいに自分の価値が信じられなくなり、自嘲的なニヒルな感覚を身につけた。辛い仕事と退屈な地主たちとの付き合いは、生き生きした豊かな感情を萎えしぼませた。

人間らしい感じの方は、どうやら、だいぶ鈍って来たようだがね。なんにも欲しくない、なんにも要らない、誰といって好きな人もない。

 彼は自分の生活を「どうにもならない運命」と諦め、未来の生活に希望を託す。ワーニャがセレブリャコーフの才能を信じたように、アーストロフにも何かの信念が必要だったからである。彼は農民たちの手で荒らされる森林を伐採から守り、新しい苗木を育て、森が根だやしにならないように熱心に管理した。自分の力が何らかの形で未来に形跡を残すのだという考えが、殺伐とした彼の生活に慰めを与えた。

 アーストロフは植林の仕事でいくつもの賞状を貰うほど成果をあげた。しかし農民たちが次々と森林を伐採するのは他に生きる手段がないためであり、彼にはその現実を忘れ未来の夢想にのみひたることはできなった。手術をするため麻酔にかけたとたんに死んでしまった患者のことが時々記憶に蘇り、彼はそのたびに自分の無力を思い知らされた。アーストロフもまた、厳しい現実から逃れるように美しいエレーナに恋をした。

 

3.エレーナ

 ワーニャとアーストロフにとって、エレーナは苦い現実の中にともる微かなともしびのような存在であった。しかしエレーナ自身もまた、彼らとは違った意味で生活に倦怠を感じていた。アーストロフはエレーナについてこんなふうに語っている。

人間というものは、何もかも美しくなくてはいけません。顔も、衣装も、心も、考えも。なるほどあの人は美人だ、それに異存はありません。けれど・・・じつのところあの人は、ただ食べて、寝て、散歩をして、あのきれいな顔でわれわれみんなを、のぼせあがらせる−それだけのことじゃありませんか。あの人には何ひとつ、しなければならない仕事がない。あべこべに、人の世話にばかりなっているんです。

 ワーニャには若く美しいエレーナがセレブリャコーフのような退屈な老人に貞節をつくす気持ちが理解できない。しかしアーストロフが言うように、エレーナは年老いた夫との無為の生活が似つかわしい個性として描かれている。
 エレーナは自分の退屈な人生を嘆くが、その生活を乱すちょっとした困難や矛盾も彼女には重荷に感じられる。彼女は波風を立てず日々を無難にやり過ごそうとして、ひがみっぽい夫との瑣末ないさかいに苦しめられる毎日を送っている。自分のことを「退屈な、ほんの添え物みたいな女」だと嘆く彼女の生活は、没落しつつある有産階級の富が生み出した無気力で浪費的な生活である。

 ワーニャやアーストロフに対する態度にも、彼女らしさが現れている。エレーナはワーニャがしめっぽい愚痴や繰り言を言うときには彼に好意を感じその気分に同調することができる。しかしエレーナの愛情を求めるワーニャにはどんな馬鹿げたことでもやりかねない自暴自棄な情熱があり、その情熱がエレーナには不愉快で余計なものと感じられる。
 一方、エレーナはアーストロフに魅力を感じるが、その思いも彼女に思い切った行動をとらせるほどの強い感情ではない。それは彼女の生活にわずかな彩りを与え、やがて消え去る弱々しい感情の起伏のひとつに過ぎない。

 アーストロフはエレーナのこの特徴をよく理解して彼女と接している。アーストロフはワーニャと違い、エレーナとの恋愛に未来の希望を見出すほど世間知らずではなかった。彼は恋愛によって生活が救われることがあり得ないことを理解しており、真面目な恋愛など望んでいない。エレーナがアーストロフを引きつけたのは、彼女が厳しい生活を一時忘れさせてくれるほどに美しいと同時に、彼女が退屈しており、退屈な生活から抜け出すだけの力も欲望もなく、深刻な矛盾や人間関係が生じない無力な個性だからである。

あなたはこの世で、何ひとつする仕事のない人だ。何ひとつ生きる目当てのない人だ。何ひとつ気のまぎれることのない人だ。だから晩かれ早かれ、所詮は情に負けてしまう人なんだ、−−これは、ちゃんと決まったことなんです。どうせそうなるからには、ハリコフだのクールスクだのという町よりか、いっそこの、自然のふところにいだかれた土地のほうが、百倍も千倍も増しじゃないですか。


  エレーナとセレブリャコーフは、勤勉に働くワーニャやアーストロフのもとに都会の浪費的な生活を持ち込んだ。ワーニャの労働が合理的な役割を果たさなくなったのと同様に、彼らの浪費的な生活もやがて没落していく運命にある。しかし彼らは無為の生活が送れるかぎり深刻になることも現実に向き合うこともなく気楽であり、自己の享楽にのみかかずらわることができる。一方のワーニャやアーストロフの生活は、無為の生活を送るエレーナやセレブリャコーフでさえ退屈のあまり逃げ出したくなるほど単調で殺伐としたものであった。

 

4.結 末

 セレブリャコーフは退屈な田舎生活に嫌気がさし、田舎の地所を売ってその利子で生活することを提案する。それは地所を守って働いてきたワーニャの立場も行き先も考えていない、セレブリャコーフらしいわがままで気まぐれな提案であった。こんな愚鈍で無神経な男を信奉してきた自分の人生を考えると、ワーニャは抑えがたい怒りと絶望に捉えられ、セレブリャコーフに向かって銃を発砲する。セレブリャコーフへの憎悪に身をまかせることで、下らない生活にも自分自身の人生にもけりをつけたいとワーニャは望んだ。しかしこんな騒ぎも彼が嫌悪した生活と同様に、無意味で馬鹿馬鹿しいものにすぎなかった。

 エレーナに対する空しい愛情、セレブリャコーフに対する憎しみ、そして馬鹿げた衝動的な行動を経て、ワーニャはようやく冷静になった。自分の生活がセレブリャコーフの才能を見誤ったというだけでは説明のできない、何か動かしがたい運命のように感じられはじめた。この生活に変化が訪れる可能性はないこと、これから十何年もこの生活に耐えていかねばならないということを、ワーニャにはようやく現実のこととして理解し受け入れる。

僕はもう四十七だ。かりに、六十まで生きるとすると、まだあと十三年ある。長いなあ! その十三年を、僕はどう生きていけばいいんだ。どんなことをして、その日その日を埋めていったらいいんだ。
 
せめて、この余生を、何か今までと違ったやり口で、送れたらなあ。きれいに晴れわたった、しんとした朝、目がさめて、さあこれから新規蒔直しだ、過ぎたことは一切忘れた、煙みたいに消えてしまった、と思うことができたらなあ。

 セレブリャコーフとエレーナはふたたび都会に戻り、ワーニャは今まで通り彼らに送金することを約束した。自殺するか、残りの人生をただ耐えて生きていくかのどちらかの道しかワーニャには残されていなかった。その長い時間を埋めるために、ふたたびせわしい労働の中に身を置くことが彼には必要だったからである。

 セレブリャコーフとエレーナが去ったあと、アーストロフにとってもふたたび生活は厳しく殺伐としたものとなった。アーストロフもまたワーニャと同様に、自分のやるべきこと、森林の仕事と患者の診察をただ黙々と続けるだけである。

まっくらな夜、森の中を歩いてゆく人が、遙か彼方に一点のともしびの瞬くのを見たら、どうでしょう。もう疲れも、暗さも、顔をひっかく小枝のとげも、すっかり忘れてしまうでしょう。・・・私は働いている−−これは御存じのとおりです。この郡内で、私ほど働く男は一人だっていないでしょう。運命の鞭が、小止みもなしに私の身にふりかかって、時にはもう、ほとほと我慢のならぬほど、つらい時もあります。だのに私には、遙か彼方で瞬いてくれる燈火がないのです。

 「どうしたら新規蒔直しになるんだ」と問い掛けるワーニャに対して、アーストロフは今さら新規蒔直しなどないと腹立たしげに答える。アーストロフは湿っぽくなりがちなワーニャとの会話に苛立つが、ワーニャの嘆きはアーストロフの嘆きそのものである。

 アーストロフにもワーニャにも、自分の運命がこれほど耐えがたい馬鹿げたものになってしまった理由が分からない。彼らは勤勉に働き、自分の生活に何か積極的な意義を見出そうとし、世の中の発展を信じていないわけでもなかった。彼らは愚鈍な人間でも、悲観的な人間でもなかった。ワーニャもアーストロフも自分たちの嘆きや愚痴をすべて過去のものとして笑いとばし、もっと有意義な人生を送りたいと願っている。しかし人生を新たに踏み出すべき新たな信念を、彼らは自分たちの生活のどこにも見出すことができなかった。

 アーストロフが自分たちのことを「開拓者」と言うように、ロシアは確実に変化しつつあった。しかしそのざわめきは彼らの耳には届かず、彼らはただ停滞の苦しみのみを味わわなければならなかった。
 彼らの生活をどんづまりに追い込んだ現実の発展は、アーストロフが夢想した未来の生活を、彼らには想像もつかない形で急速に築きつつあった。

 

おわりに

 ボリショイ劇団が上演する「ワーニャ伯父さん」を何年か前にテレビで見たことがある。私は演劇にはあまり詳しくないが、この劇は今まで見た数少ない劇の中で、一番面白くて一番感動した劇だった。
 本で読んでいるときには何気なく読み過ごしていたのに、この劇を見て非常に印象に残った場面があった。アーストロフとソーニャの会話の場面である。

 アーストロフが夜中にウォッカを飲み、ほろ酔い気分で羽目をはずしている。(この場面の演技もよかった。底抜けに陽気で、同時に憂うつで、印象に残っている。)そこにソーニャが現れ、アーストロフはあわててだらしのない服装を直しに部屋に入る。そして再び現れたアーストロフは、ウォッカの酔いも手伝って、彼には珍しく日頃のうっぷんをソーニャに話しだす。

アーストロフ 今日ではもう、自然や人間に向って、じかに、純粋に、自由に接しようとする態度なんか、薬にしたくもありはしません。……あるものですか。(飲もうとする)

ソーニャ (さえぎって)いけません、どうぞお願いですから、もうあがらないで。

アーストロフ なぜです。

ソーニャ まるであなたに似つかないことですもの! あなたはすっきりしたかたで、とても優しい声をしてらっしゃるわ。……わたしの知っている誰よりも彼よりも、ずっと立派なかたですわ。だのに、なぜあなたは、飲んだくれたり、カルタをしたり、そんな凡人の真似がなさりたいの? ね、そんな真似はなさらないで、お願いですわ! いつもあなたは仰しゃるじゃないの、−−人間は何ひとつ創り出そうとせずに、天から与えられたものを毀してばっかりいる、って。なぜあなたは、なぜあなたは、自分でご自分を台なしになさるの? いけないわ、いけませんわ、後生です、お願いですわ。

アーストロフ (片手を差し出して)もう飲みますまい。

ソーニャ 約束して下さる?

アーストロフ 約束します。

ソーニャ (ぎゅっと手を握って)ありがとう!

 アーストロフは自分の価値が信じられなくなっている。自分の力が無駄に費やされていると感じている。この不毛な毎日の中で、飲んだくれようと、しらふでまじめに生活しようと、彼にとっては同じことである。けれどもソーニャが彼の価値を認め、まじめに彼を諌める言葉がアーストロフの心を動かす。それは厳しい生活の波に飲まれてすぐに消え去ってゆく一時的な感情である。同時にアーストロフの日々の生活の苦労がふと彼に感じさせる、切実な感情でもある。

 アーストロフがこの瞬間はっと胸をつかれる様子を、ボリショイの役者は非常にうまく演じていた。派手な身振りがあるわけではなく、じっとソーニャの言葉に耳を傾けていたアーストロフが、彼女にさっと手を差し出すというだけの演技である。

 ところでこの劇は、たまたまテレビのチャンネルを回していて見つけたので、録画しなかった。今となってはもう二度と見られないのが非常に残念である。

(1996/12/27 NIFTY SERVE 文学フォーラム 13番会議室 #2152 (一部修正))

 

チェーホフ『退屈な話』へ    INDEXへ    ロシア文学INDEXへ    mail

チェーホフ三部作へ