チェーホフ三部作(2) 『すぐり』

 

『すぐり』

 都会の下級役人の生活は息苦しい。毎日小さな机に齧りつき、十年十月のごとく同じ書類の山と向き合う生活では、精神の高揚も人生の幸福も感じることができない。こんな生活にうちひしがれ今にも押しつぶされそうになった男が、狭苦しい灰色の都会生活に見切りをつけ、豊かな自然に囲まれたのどかな田園生活を夢見る物語である。

 獣医イワン・イワーヌィチと弟のニコライは、子供時代を豊かな自然の中で過ごした。イワンは都会に出て学問の道を志し、ニコライは税務監督局に勤めた。都会での生活はニコライの精神を萎えしぼませた。彼は来る日も来る日も書類の山と向き合う生活に次第に気分が滅入り、少年時代を過ごした田園生活を夢想するようになった。机の上の膨大な書類を前にしながら、ニコライの目に映っているものはこんな風景であった。広い草原や森に囲まれた地主屋敷、ベンチに座って素晴らしい景色を眺める自分、庭にはあひるの泳ぐ池があり、屋敷じゅうにすばらしいシチューの匂いが漂っている。家のまわりには果樹園があり、そこには「すぐり」の木が植えられている・・・。

 こんな生活を想像しながら、ニコライはいつか地主屋敷を買うことを夢見てすさまじい倹約生活を始めた。乞食のようななりをして爪に火をともすような生活を何年も続け、その姿を見かねてイワンが金を送ってやっても、ニコライはそれを使わずにためこんだ。40歳も過ぎてニコライは裕福な後家と結婚した。ひとかけらの愛情もなく、ただ金が欲しかったからであった。それまで好きなものを食べ贅沢になれていたニコライの妻は、ニコライのすさまじい倹約生活のために3年もするとやせ衰えて死んでしまった。しかしニコライは妻の死が自分の責任だとはかけらほども思い及ばなかった。自分の倹約が妻にどんな苦痛を強いていたかも、愛情もなく金目当てに結婚することがどういうことかも考えなかった。役所では上役に睨まれるのを恐れて自分の主義主張は一切持たなかった。彼はこんなふうにして貯めこんだ金で、ようやく念願の地主屋敷を手に入れた。

 このような観念のとりこになった人間がその目的を果たしたとき、はたしてどのような満足を得られるのかという疑問を多くの読者は感じるだろう。ニコライの想像の中で、地主屋敷はこの上もなくすばらしい理想郷となっていた。一方ニコライが手にいれた地主屋敷は彼の想像とは程遠いものであった。工場の排水のために小川の水はどす黒く、果樹園もなければすぐりの木もない。しかし普通の人間なら失望するはずのこの現実を前にしても、一生を地主屋敷に費やしたこの男はびくともしなかった。幸運なことに、彼はありのままの現実を受け取るだけの感性もとっくにすり減らしてしまっていた。こうしてニコライは自分の新しい境遇に完全な満足と完全な幸福を見出すことができた。

 幸福というのは主観的なものである。他人から見てどのような状況にあっても、人間がニコライのような完全無比の幸福を感じることはあり得る。イワンがニコライの地主屋敷を訪ねたときに見た彼の姿は次のようなものであった。役所では保身のために主義主張を持つことを恐れたニコライが、ここでは地主の旦那としていっぱしの意見を述べ、百姓に自分のことを「閣下」と呼ばせている。工場や組合を相手に無意味な訴訟を起こし、善行と称して百姓相手に怪しげな治療を行い、自分の名の日の祝いには百姓たちにウォッカをふるまって彼らの卑屈な態度を悦にいって眺めている。

弟はおとなしい善人で、わたしは彼を愛していましたが、一生涯自分の持ち村に引きこもろうという願望には、なんとしても同感できなかった。・・
都会からはなれ、闘争や浮世のさわがしさから逃げ出して自分の持ち村に引っ込む−−これは生活じゃなくて、エゴイズムです、怠惰です、一種の出家生活、それも苦行なき出家生活です。

 あらゆる闘争を避け、現実から目をそむけて逃げ出すこと、その隠れ蓑がニコライにとっての田園生活であった。都会の矛盾から逃げ出したごとく、田舎に暮らしてもニコライの目には相変わらず何も映らなかった。ニコライが人生のあらゆる喜びと牧歌的幸福を見出した農村では、農地が日増しに荒廃し、多くの地主が没落して土地を手放し、だからこそニコライのような小役人でも金を貯めて領地を買うことができた。農民は食いつめて都会に出てゆき、村に残った農民はそれ以上に貧しく惨めな状態に置かれていた。田舎暮らしは牧歌的長閑さどころではなかったが、ニコライの目には地主である自分を崇める百姓やあひるの群れやすぐりといったものしか入ってこなかった。都会の矛盾にうちひしがれたニコライはそこから逃れるために、より不毛でより耐えがたい、もっとも時代遅れで停滞した生活を選んだのだった。ニコライのような欲望を何の疑問も感じずに達成し、何の疑問も感じず満足するためには、あらゆる出来事に鈍感になり、あるがままの現実を何も見ないこと、何も感じないことが必要であり、このような欲望がニコライのような「おとなしい善人」の中にもいかに愚劣な自己満足を生み出すかを見て、兄のイワンは愕然とした。

しかし問題は弟のことではなくて、わたし自身の内部のことなのです。わたしがあなた方にお話したいのは、弟の領地にいたほんのわずかのあいだに、どんな変化がわたしの内部に起こったかということなのです。・・・      
わたしはふと、満足し幸福な気持ちでいる人びとが、実際にはどんなに大勢いることだろうと思いめぐらしてみました。それはなんという圧倒的な力でしょう! 

 イワンが弟の姿の中に見たのは、ただ一人のニコライだけではなかった。ニコライのように極端ではなくても、多くの人間が、イワン自身も、自分の現在の生活に満足し、幸福を感じ、現実のさまざまな矛盾に目を向けようとしない。多くの人間がニコライと同じようにみじめな幸福にかじりつき、飽食し、愚かな自己満足の中に暮らしている。こんな幸福やこんな自己満足にいつまでもうずもれている生活はどこか間違っているのではないか。
 
 自分の庭ではじめてとれた「すぐり」を見てニコライは涙が出るほど感動し、夜中じゅう起き上がってはその実を一粒一粒むさぼるように食べた。その物音は隣で寝ているイワンの部屋まで聞こえてきた。あさましくもあり愚劣でもあり同時に哀れでもある弟の姿が、イワンの心にその後消えることのない重苦しい印象を植えつけた。

幸福はないし、あるはずもない。もし人生に意義や目的があるならば、その意義や目的はけっしてわれわれの幸福のなかにはなくて、何かもっと賢明な、偉大なもののなかにあるのです。よいことをなさい!

 しかしこんなふうに熱っぽく語るイワン自身、一体何がよいことなのか分からなかった。イワンの語る陰気くさい話を聞いた教師と地主は、彼の話に不満だった。夜中に一人ですぐりを食べる男の話は、二人をやりきれない気分にした。二人ともゆったりとくつろいだ幸福な宵にふさわしい、もっと陽気で屈託のない優雅な人々の話を聞きたいと感じた。

(1998/8/8 NIFTY SERVE 文学フォーラム 13番会議室 #2933 (一部修正))

 

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