クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』

 

 さて、私もクンデラの「存在の耐えられない軽さ」を読みました。現代文学はあまり詳しくないのですが、この作品はなかなか面白かったです。で、この作品の読了後にもっとも印象に残り、また疑問にも感じたことが、小説の社会的背景と個人的な感情が描き分けられるときの微妙なバランスでした。この小説の舞台となっているのは、「プラハの春」の後ソ連軍の侵攻を受け、言論の自由が圧迫されるようになった時代のチェコスロバキアです。この独特の重苦しい空気は当然のことながら個人の生活に大きな影響を及ぼします。一方で個人の生活は個別の事情によって、偶然によって、個人的嗜好や傾向によって独自に流れて行く。この二つの要素が、クンデラに特有の微妙なバランス感覚でもって描き分けられているように感じました。
 クンデラは当時のチェコの社会の雰囲気を、ソ連軍の侵攻に対する国民の反抗や言論の自由への圧迫、秘密警察の活動、盗聴、脅し、といった出来事を通して淡々と描きます。主人公のトマーシュやテレザも反体制的な言動を行ったために職を追われた人々のうちの一人です。しかしこのような小説の展開とは裏腹に(あるいは裏腹ではないのかもしれませんが)、クンデラが描こうとしているのはあくまで個人的な生活であり、個人的な感情であるというような印象を受ける。クンデラは自ら政治的迫害を受けたチェコの社会体制や社会主義的イデオロギーにあくなき関心を抱きつつ、しかし体制批判を自己の小説のテーマにしたくはない、反体制小説家であるとみなされたくもない、あくまで個人の内面にこだわりたいと考えているように思える。この小説で描かれる社会的背景と個人的生活との間にどこか奇妙な分断が感じられるのは、こんなところに原因があるのてはないかと思いました。

 あるいはもしかしたら政治的関心がごく希薄な日本人には分からないだけで、内面世界への傾倒と先鋭化された政治的関心、社会批判と社会批判への懐疑といった一見相反するように見える意識の混在は、クンデラのような政治的状況下に置かれた人々にとってはごく日常的な感覚だったのかもしれません。だとすれば私には少し分離があるように見えるクンデラの書き方も、一つの意識のあり方として、現実味があるのかもしれません。ここらへんはまだ考えがまとまっていないので、一応保留ということにしておきたいと思います。

 主人公のトマーシュは特異な人物のように思えます。彼はかつて一知識人として、新聞の読者欄に政治批判の文章を掲載しました。その直後にチェコはソ連軍の統治下に置かれるようになり、トマーシュは過去の文章の撤回を病院の部長から勧告されます。トマーシュは文章の撤回を拒否し、そのために病院で最も優秀な外科医としての地位も、部長の後任として約束されていた将来も失うことになりました。彼は田舎の診療所へ、さらによりポストの低い街の医療センターへと転職し、機械的に診察し薬を出すだけの仕事に追いやられます。それでもなお秘密警察はトマーシュに近づき、過去の文章の撤回を要求します。そこで彼は医者としての仕事を捨てて窓拭き職人になることを決心します。医者のような地位の高い人間の言動には社会的な影響力があるけれども、一労働者になればもはやその言動に社会的価値はなくなり、このような執拗な追求をうけることもなくなるからです。当時トマーシュのように反体制的言動のために職を追われたインテリはプラハにはたくさんおり、窓拭き職人になった当初、人々はトマーシュに厚意を示します。

 と、このようなトマーシュの経歴だけを見ればトマーシュは反体制の旗手のように見えますが、実際は彼は明確な政治的・思想的信念によって病院を去ったわけではありません。彼を動かしているのはもっと身近な、日常的な感情です。最初に文章の撤回を要求されたとき、トマーシュは同僚たちのすべてが自分の思想的妥協を望んでいることに気がつきます。すでに体制と妥協した人間は、非妥協的と思われていたトマーシュが妥協することで自分たちの臆病を正当化することができる。あくまで非妥協的立場を貫くつもりでいる人々は、トマーシュの妥協によって自分たちの道徳的優位を確認することができる。トマーシュには同僚たちのこのような態度が耐えられなかった。当時プラハの人々は誰が体制と迎合したとか裏切ったとかいう情報に極度に神経質になっており、自分の預かり知らぬところでこういった多くの人々の評価を受けることがトマーシュには耐えられなかった。これがトマーシュが最初の病院を去った主な理由です。

 二度目にトマーシュが要求された過去の文章の撤回は、政治的に利用される恐れがあったし、また誰かを陥れる危険があった。トマーシュは即座に辞職願いを出します。しかしクンデラはトマーシュの辞職を、政治的な圧力だけではなく、トマーシュ自身にも意識されないところの内面的な理由によって説明しようとしています。
 トマーシュにとって外科医の仕事は内的な声につき動かされた天職ともいうべき使命であった。この内的な声は深く、彼は自分の天職に熱心に打ち込んだが、一方で常に自分を追い立てるこの使命から解き放たれたいというひそかなる願望がどこかで働いたのだ、と。
 
 こんなふうにクンデラはトマーシュが文章の撤回を拒否して医者の地位を捨てることを、体制に対する批判意識によってではなくより日常的な、具体的な、あるいはより内的な理由によって説明しようとしています。しかしこれが本当に日常的で具体的な理由だといえるかどうか少し疑問が残ります。たとえば思想的な信念のために、正義のために職を投げうったというような書き方はどこか抽象的で現実的ではないような気がする。というより、そういった人々も現実にはもちろん多く存在したのでしょうが、クンデラが書きたかったのはそういった確固たる信念を持った人々ではなかったのでしょう。こんな高尚な動機ではなくもっと日常的な動機をクンデラは描こうとしているのですが、これもまた抽象的だという気がする。医者のような社会的地位の高い職をなげうつということは、単にその場限りの決意ですむことではなく彼の一生に決定的な影響を与える事件です。社会的地位はもちろんのこと、これまでの生活レベルを保ってゆくことさえ難しくなるかもしれない。それも一時的ではなく永続的に。というようなことがトマーシュの意識にはまったくのぼらない、つまり自分の将来と目の前の選択肢を秤にかけてみようという意識がトマーシュにはまったくなく、撤回を拒否するかどうかがただその時の自分の気持ちひとつの問題であるかのような選び方をしています。自分の将来を秤にかけてみることもなく、大して逡巡することもなく、トマーシュが撤回を拒否したような理由だけで本当にこのような選択ができるものだろうか、と思うわけです。
 このような選択のなされ方がトマーシュの特異な個性として、作者によって計算された上で書かれたものなのか、それともトマーシュの意識の中から思想性を取り払おうとして、より日常的な、より個人的な次元で彼の行動の理由を描こうとして、作者が別の抽象性に陥ってしまったのか、正直言って私にはよく分からないのですが。

 人生も歴史も化学の実験のように繰り返すことはできません。だから、自分があれこれの場面でとった選択が本当に正しかったのかどうかは分からない。なぜなら、別の選択肢を選んだ場合の別の人生をもう一度やり直してみて、もう一つの人生と比べてみることはできないから。歴史も同じことで、もっと別の選択肢があり得たか、もっとよりよい選択肢はあり得たか、あのときどう行動すべきだったか、すべきでなかったかということは誰にも言うことはできない。これは医者から窓拭き職人へ、さらにプラハから逃れて田舎のトラック運転手へと大きく運命を変えていったトマーシュの実感としてよく理解できます。同時に、社会の変動によってその運命が大きく変わったクンデラ自身の実感でもあったのでしょう。ただし、このような個人の運命を単に社会的側面から、社会の変動に翻弄された人生という側面から捉えることはしたくはない、個人が社会的な影響を受けることは避けがたい事実だけれども、その中にあって何者にも踏み込めない個人の領域を、個人によって選び取られた運命として捉えたい、というのがクンデラの立場だと思いますが。

 トマーシュは窓拭き職人を3年続けたあと、住み慣れたプラハを捨て、田舎に引き籠もってトラック運転手となります。

田舎で生活することは、二人に残された逃走の唯一の可能性であった。ここではたえず人が足りず、住居はたっぷりあった。畑や森へ働きに出るのをいとわない人たちの政治的な過去をほじくりかえすことには誰も関心がなく、彼らのことをねたむ者もいなかった。(クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』)

 トマーシュが窓拭き職人になったころにプラハの人々を捉えていた熱狂は、すでに失われていました。政治的活動によって地位を失った人にとっても失わなかった人にとっても、プラハは息苦しく、住みにくい町になっていました。トマーシュが医者に戻る道は絶たれていたから、彼に残されているのはプラハで窓拭き職人を続けるか(しかしそれは彼には耐えがたくなっていたと書かれています)、プラハを出て別のところへ行くかのどちらかでした。当時チェコの田舎では誰もが都会へ出て行きたいと望み、わざわざ自分から田舎にやってくる殊勝な人間に干渉する人間は誰もいなかったし、仕事も住居も比較的簡単に見つけることができました。

そして陽気なかけ声と、くつろいだおしゃべりに満ちた一日の仕事が終わると、まるですきま風のように趣味の悪さがただよってくる近代的な家具のある自分たちの家の四つの壁の中に閉じこもり、そして、光り輝くテレビの画面に目をこらした。お客を呼ぶこともせず、ごくたまに夕食の前に、となりに顔を出して、ちょっとことばをかわすくらいなものだった。誰もが街へ引っ越すことを夢見ていた。村は少しでも興味ある生活にふさわしいものを何ひとつ村人に用意していなかった。(同上)

 トマーシュとテレザはこれまでの人間関係のすべてをたちきって、何の楽しみもない片田舎へやってきて、それでも二人は「幸福であった」とクンデラは書いています。この二人の運命を、クンデラがいかにとらえて、いかに評価を下しているのかが私にはよく分かりません。あるいはいかなる否定的評価も肯定的評価も下さずに、ただ個人の運命をあるがままに描こうとしているだけのようにも思える。そうは言ってもやはり田舎のトラック運転手として一生を終えるトマーシュとテレザの運命が、本当にこうなるべくしてなった運命として描ききれているのだろうかという疑問は残ります。プラハが息苦しくなったというのは分かるけれども、それがために誰もが出ていきたがっている田舎へやってきて、本当に幸福だと実感できるのか、と思います。この疑問が正しいのかどうかもよく分からないのですが。

 分からないところだらけの作品ですが、クンデラはなかなか面白い作家だと思います。ふだん現代小説はあまり読まないのですが、たまにこういった現代小説を読むと、いろんな意味で刺激を受けます。古典的名作の世界はもちろん魅力的ですが、複雑化した現代人の感覚や感情はオーソドックスな古典の手法では表現しきれないのではないかというようなことも改めて感じさせられました。

(1999/3/17 NIFTY SERVE 文学フォーラム 13番会議室 #3287 (一部修正))

 

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