コメント元の発言へ(田中さん『「リアリティについて」追記』)


リアリティについて(1)…大佐の朝食

リアリティについて(2)…ゴーゴリ 『鼻』

 

リアリティについて(1)…大佐の朝食

 

 リアリズムの問題はむずかしいので避けて通りたいなどと呑気なことを言っていたら、あれよあれよと言う間にリアリティの話題が盛り上がり、土曜の夜東京出張から帰ってきたらリアリズムに関する発言がたてつづけに3本も入ってました。ここで遅れてはなるまいと奮起して、いきなり参加させてもらいます。

例えばルポルタージュで「クーデターの当日の朝、大佐はコーンフレークを食べた」と言う事実があって、それを雰囲気が出ないからと言って、「クーデター当日の朝、大佐は緊張で何も口にする事が出来なかった」あるいは、「大佐は、妻が驚くほどの食欲を示した。以下大佐の口に入ったモノを列記すると、……(略)」と言うように書き換えたとして、確かにルポルタージュでなら事実こそが正解と言うか、リアリティを保証すると思うのですが、仮に、その事実をフィクション化するならば、後で書いたような脚色がなされた方が実際には、全体の構図と相まってリアリティが出るようにも思うのです。(田中さん『「リアリティについて」追記』より引用)

 スサノオに関する話で、全体の構図において川を流れてくる「箸」にリアリティがあるという説には納得しました。そこで、この全体の構図ということを考えてみる場合、コーンフレークを食べるよりも何も食べなかったり異常な食欲を示したりするほうが小説としてリアリティがでるのではないかということも言えないのではないかという話です。
 ふつうに食事をするよりふだんと違った行動をとる方がリアリティがあるというのは、クーデターが異常事態であり、大佐がそれに何らかの形で強い反応を示すのが当然だということが前提になっていると思います。しかし、いつの時代のどこで起きたどんなクーデターかが限定されていない状態では、クーデターが異常事態であるとか、大佐がそれに強い反応を示すと言う前提自体が言えないと考えます。
 クーデターがしょっちゅう起こるような政情不安定な国の話なら、大佐はクーデターにいちいち驚かないかもしれません。政治腐敗が蔓延し、クーデターが起こってもその危機を理解できないほど政治家や軍部指導者の頭が腐りきった国では、クーデターの朝に平然とコーンフレークを食べるというのが非常にリアリティのある描写になるかもしれません。また大佐の個性に焦点を当てた書き方をするのなら、平然と朝食を取ることが現状を理解できない無能をあらわすかもしれないし、状況を判断したうえでの徹底した冷静さをあらわすかもしれません。これは大佐の個性の描き方によって変わってくるでしょう。こうなってくるとクーデターに強い反応を示すという描き方の方が型にはまった退屈なものになるかもしれません。もちろん同等の意味で、大佐が異常な食欲を示したり、何も喉を通らなかったりするというのもその全体の構図においてリアリティを持ったり持たなかったりすると思います。あるいは大佐の朝食という描写自体が、全体の構図の中では重要性のないものとして切り捨てられるかもしれません。
 要するに大佐の朝食の描写は全体の構図の中で作者が何を表したいかという内容に関わってくると思います。大佐が朝食に食べたものが、いかにその内容と深く関わり得るかということです。と、こう書くと田中さんとの対立はなくなってしまうのですが、問題は全体の中で表したい内容の捉え方にあると思います。

 ところでちょっと余談です。あるエピソードの平凡さとか衝撃性とかいうことは、それだけではリアリティのあるなしの説明にはならないと考えます。たとえばトルストイの『神父セルギイ』の中で、セルギイが自分の指を斧で切り落とす場面があります。これは異常な、予想外の行為であり、読んだ瞬間には衝撃を受けます。私はこの本を古本で買ったのですが、この場面が描かれた頁には以前の持ち主の手になるものと思われる巨大なビックリマークが赤鉛筆で書き込まれていました。こんな書き込みがしたくなる気分がよく分かるほど衝撃的な場面です。しかしこう書かれてみると、この場面でセルギイにはこれより他に行動のとりようがなかったのだということがしみじみと感じられます。これはセルギイという人物の必然を深く捉えたことによって生み出された、衝撃的であると同時にリアリティにあふれた場面の一例だと思います。単に衝撃性だの日常から逸脱した異常さだのをねらって猟奇的な場面を描こうとしても、こんなリアリティを感じさせることはできないでしょう。

つまり、整合性と言う事です。ぼくは小説内で整合性が保たれているものについて、リアリティがあると書いたのもしれません。(田中さん 文学フォーラム13番会議室の発言より引用)

 上で書いたようなことからいくとこれには賛成したいような気もするのですが、これだけではまだ足りないという側面にこだわってみたいと思います。
 この場合、整合性というのはある一個の小説世界における一貫性ということですよね。私は大江の作品にリアリティは感じませんが、『ピンチランナー』にはあの作品なりの一貫性があると思います。その一貫性は私の考えでは、現実社会をひどく歪んで反映したものとしての一貫性であるとは思いますが。どんな小説においても、その小説世界における一貫性はあると思います。それが読むに耐えないハチャメチャなものだとしても、そういうものとしての一貫性はある、ということです。
 ですからある小説にリアリティを感じるということは、「小説内で整合性が保たれている」というだけでなく、もっと別の要素があると考えます。もっとも田中さんもこれだけを主張されているわけではなく別のところでは別の要素についても書かれているので、これはちょっと言いがかり的だったかもしれません。

つまり、それはあくまで個人的な世界観に基づいた内容となるわけですが、その意味で作品の評価が様々に読者にある、と言う事の理由になると思うのです。つまり、普遍的な傑作はないだろう、と言う事です。(同上)

 やはりここに戻ってくるわけです。これはその作家個人個人によりリアリティの内容が違ってくるということですよね。そして読者の側のリアリティの違いによって、その評価も分かれてくるということですよね。
 現実問題として、ある作品にリアリティを感じる人もいれば感じない人もいるというのは事実です。一般にどんな傑作と言われる作品でも、すべての人がそれを傑作と評価するわけではありません。しかしすべての人がリアリティを感じるかどうかとういことと客観的なリアリティとは別であると、私としては考えたいわけです。が、これについては延々と決着のつかない問題なので、いずれまたということで。

(1996/7/14 NIFTY SERVE 文学フォーラム 13番会議室 #1628(一部削除))

大佐の朝食へのコメントへ(田中さん「主観的世界のリアリティ」)

 

リアリティについて(2)…ゴーゴリ 『鼻』

 

 リアリティとは小説に描かれている内容の真実性、現実性を指すと考えます。ところでこの真実性、現実性というのは、現実にありそうだ、本当らしい、という意味とイコールになるかというと、そうは言えないと考えます。たとえば実際にあった出来事、朝起きてから会社に行くまでの行動をそのままだらだら書き綴ったものは、現実の出来事そのままという意味で現実的と言えるかもしれませんが、小説としては退屈なだけでとてもリアリティがあるとは言えない作品になるでしょう。また以前大江に関する文章でも書きましたが、非現実的な幻想的なストーリーあっても、リアリティを感じさせる作品はあるわけです。

 さらに、上記の「現実にありそうだ、本当らしい」ということと読者が感じる本当らしさというのはまた区別して考える必要があると思います。現実に有り得ないような話でも、読者が「本当らしさ」を感じたり「現実に目の前にありそうだ」という印象を受ける場合もあるからです。田中さんが川を流れてくる箸に「本当らしい」という印象を受けられたのも、こういう意味での本当らしさだと思います。ただ、この例の場合は現実に起こりうるということと、本当らしいと感じるということは対立していません。田中さんが例で出されていた鳥による知らせとなると、現実的ではないけれど物語の中ではリアリティをもって読まれるという例のひとつになるかもしれません。

 では、読者がある小説を読んだときに感じる「本当らしい」ということと、小説のリアリティは一致するかというと、これもまたそうは言えないと考えます。これは前回も書きましたが、ある小説にリアリティを感じる人もいれば感じない人もいるわけですから、読者の感じる「本当らしさ」のみを基準に考えるのであれば、結局小説のリアリティは個人個人によって違う内容を持つ、という結論にならざるを得ないからです。ある小説を読んで読者が「本当らしい」と感じるというのは、ひとつの結果にすぎないと思います。しかしこの話を持ち出すと混乱するので、これはちょっと後回しにします。

小説は作家の世界観が整合されて展開されている現実とは別の世界の物語であると言えるかと思います。逆に言えば、現実とは別の世界が、作家の手により整合されて小説化されたと言う事です。(田中さん「主観的世界のリアリティ」より引用)

 小説のリアリティとは現実とイコールを意味するのではなく、作家による世界の新たな構築によって生み出されるものであるという意味で上に書かれていることには賛成します。そこで現実とはイコールでないもの、たとえ現実には有り得ないような話でもリアリティにあふれた作品はあるということの説明には、ふたたび現実世界と作家が創造した小説世界との一致が問題になってくると思います。上で書かれているように、両者は違うものであるということを前提にした上での一致ということです。
 形式的にも描かれる現象そのものも小説は現実と同じである必要はない。となると、リアリティのある作品となるためにはそれを超えてなお現実と一致する何かが必要です。その何かとは作家が対象から掴みとるところの特徴であり、個性であり、本質である、と今のところはこのように考えています。結局小説のリアリティということについても絵画の場合と同様現実の中からその本質、特徴、個性等々をどのように掴みとり表現するか、という問題に(私の頭の中では)なってしまいます。現実にはありそうもないけれど、本当らしさを感じるということの意味は、そこにあると考えます。

 しかしこれだけではあまりに単純なので、ちょっと具体例の助けを借りたいと思います。ゴーゴリの「鼻」から引用です。
 「鼻」は八等官コワリョーフの鼻が朝起きると突然なくなっており、その鼻が床屋のイワンの朝食のパンの中から出現するという話です。なぜ鼻がなくなったのか、それがなぜ床屋のパンの中から発見されるのかまったく説明がつかない話ですが、リアリティのある小説だと思います。

 イワン・ヤーコウレヴィッチは、……やおらナイフを手にして、勿体らしい顔つきでパンを切りにかかった。真二つに切り割って中をのぞいてみると−−驚いたことに、何か白っぽいものが目についた。イワン・ヤーコウレヴィッチは用心ぶかく、ちょっとナイフの先でほじくって、指でさわってみた。「固いぞ!」彼はひとりごちた。「いったい何だろう、これは?」
 彼は指を突っ込んでつまみ出した−−鼻だ! イワン・ヤーコウレヴィッチは思わず手を引っ込めた。眼をこすって、また指でさわって見た。鼻だ、まさしく鼻である! しかも、その上、誰か知った人の鼻のようだ。イワン・ヤーコウレヴィッチの顔にはまざまざと恐怖の色が現れた。しかしその恐怖も、彼の細君が駆られた憤怒に比べては物のかずではなかった。
 「まあ、この人でなしは、どこからそんな鼻なんか削ぎ取って来たのさ?」こう、細君はむきになってどなりたてた。「悪党! 飲んだくれ! この私がお前さんを警察へ訴えてやるからいい。何という大泥棒だろう! 私はもう三人のお客さんから、お前さんが顔をあたる時、今にもちぎれそうになるほど鼻をひっぱるって聞かされているよ。」
 だが、イワン・ヤーコウレヴィッチはもう生きた空もない有様であった。彼はその鼻が、誰あろう、毎週水曜と日曜とに自分に顔を剃らせる八等官コワリョーフ氏のものであることに気がついたのである。

 八等官のコワリョーフはかなり早く眼を覚ますと、唇を「ブルルッ……」と鳴らした。自分でもこれはいったいどういう原因からか、説明する訳にゆかなかったが、とに角、眼を覚ますといつもやる癖であった。コワリョーフは一つ伸びをすると、テーブルの上に立ててあった小さい鏡を取り寄せた。昨夜、自分の鼻の頭に吹き出したにきびを見ようと思ったのである。ところが、おったまげたことに、鼻はなくて、その場所がまるですべすべののっぺらぼうになっているではないか! 仰天したコワリョーフは水を持って来させて、タオルで眼を拭ったが、たしかに鼻がない!(−略−)彼はさっそく着物を持って来させて着替をすると、真直に警視総監の許へ行こうと表へ駆け出した。

 コワリョーフ氏がこのペテルブルクにやって来たのは、それだけの要件があってのことで、つまり、自分の官等にふさわしい務め口をさがすためであった。うまく行けば副知事を、さもなければ、どこか重要な省の監察官あたりを狙っていたのである。コワリョフ氏には結婚する意志がない訳ではながったが、但しそれは花嫁に持参金が十二万もついている場合に限られていた。されば今や読者には、かなり立派で尋常な鼻のかわりに、ひどく馬鹿げてつるつるした、平べったい跡形を見た時のこの少佐の胸中がどんなであったかは、自ずから察しがつくであろう。(ゴーゴリ『鼻』平井肇訳)

 誰でも鼻がなくなったら困るわけですが、この小説は誰でも鼻がなくなったら狼狽するという意味での騒動を描こうとしているわけではありません。突然何の理由もなく鼻がなくなるという設定が面白く、コワリョーフの狼狽ぶりにリアリティが感じられるのは、コワリョーフのような人間にとって外見上の欠陥が重大な意味を持っているからだと考えます。当時のロシアにはびこっていた、地位や身分を価値基準として生きるコワリョーフのような人物を、ゴーゴリは「検察官」でも「死せる魂」でも(時期的には「鼻」は「死せる魂」や「検察官」より初期の作品ですが)見事に描いています。このような特徴の理解と鼻がなくなるという奇想天外な設定がうまく結びついてこの小説に特有のリアリティを生み出しているのだと思います。

 同じく非日常的な設定の小説ではカフカの「変身」を読んだことがあります。これは平凡なサラリーマンが突然巨大な虫になるという話ですが、こちらの方はいまひとつリアリティが感じられませんでした。虫に変化した主人公の当惑や嘆きは詳しく、それこそ自分が虫になったらやっぱりこう感じるかもしれないと思わせるほどにリアルに書いてあるわけですが、こういう意味でのリアルさは大して意味がないと私には感じられます。人間が虫に変身することは現実には有り得ないからです。

 ゴーゴリの場合、鼻がなくなったことによって描かれるのは、自分が突然鼻をなくしたらやっぱりこう考えるだろうとういうような意味でのリアルさではありません。この奇想天外な事件の中から現れるのは、コワリョーフという人物の特徴であり、それはただ単にコワリョーフ個人のものというだけではなく、当時のロシア社会の雰囲気というものを反映した特徴であると考えます。もちろん私は当時のロシア社会を直接知っているわけではありませんが、ロシア文学をいろいろ読むうちに、いかにも当時のロシアらしいというイメージができあがってきます。ゴーゴリの「鼻」もまた、そのロシアらしいという印象を強烈に感じさせる作品であるということです。

(1996/7/22 NIFTY SERVE 文学フォーラム 13番会議室 #1662(一部削除))

 

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