世界わが心の旅 モスクワ・ぼくの青二才の街 旅人・島田雅彦
アナトリー・ヴェデルニコフを訪ねる



モスクワ市内のアパートの一室。
そこには1993年に他界したピアニストの夫人、オリガ・ヴェデルニコワが住んでいる。

島田が3年前に演奏を聴き、初めて知ったピアニストアナトリー・ヴェデルニコフ。生前、その名は海外はおろか国内においてもほとんど知られていなかった。

バッハ「パルティータ6番」を弾くヴェデルニコフの映像(年代不詳)

アナトリー・ヴェデルニコフは革命を逃れ、ハルピンに亡命した実業家の両親の元に生まれた。
1936年一家は一人息子の音楽教育の為帰国。
しかしその頃、祖国は粛正の嵐が吹き荒れていた。一年後、両親はスパイ容疑で逮捕、父は銃殺刑に処せられ、母は強制収容所に送られた。

両親を奪われたヴェデルニコフはひとり、モスクワ音楽院でピアノを学ぶ。しかし人民の敵の汚名を着せられた両親を持つヴェデルニコフに国家の仕打ちは冷たかった。

有り余る才能を持ちながらもコンクールの出場は許されなかった。その後、晩年に至るまで、演奏家としての活動は制限され、ヴェデルニコフはモスクワ音楽院の一教師として3年前その生涯を閉じたのであった。


島田雅彦と夫人はヴェデルニコフ夫妻が週末を過ごしたモスクワ郊外の別荘、ダーチャへ。

ヴェデルニコフの書斎。
書棚に収められた哲学書や古典文学、読書家でもあったヴェデルニコフはまた信念の人でもあった。演奏家としてよく弾いたのは当時、批判の的に立たされていた作曲家・プロコフィエフのピアノ曲。

プロコフィエフ「悪魔的暗示」を弾くヴェデルニコフの映像(年代不詳)


当局の批判を意に介することもなく、己に忠実であったヴェデルニコフ。
そのために楽譜の入手にすら完全な自由を与えられず、西側での演奏活動を許されたのはペレストロイカが始まる直前であった。

島田雅彦
「ああいう凄い演奏なのに、楽譜に全然書き込みが無いんですよ。頭の中に入っていたんでしょうね。ただ、練習はものすごくしていた…、(楽譜の破れた端を指し)それがここに現れている。」

オリガ
「彼はヨガもしていたのよ。毎日30分間、一生懸命に」
「ほらこれ、逆さに見てしまう人もいるわ」


芸術家にとって、ひとりの人間として生きるのにも困難な時代にあって、余裕とも言うべき態度と振る舞い。何がヴェデルニコフを支えていたのか。

オリガ
「彼はいつだって楽観主義でした。もちろん辛い時期もありましたよ。でも彼はいつも物事を楽観的に見ようと務めたんです」
「こんな時代はいつか終わると思っていました。やがていい時代が来ると信じていたのです」

島田雅彦
「彼は70を過ぎても精力的に録音、演奏をしていた。」
「その強さを維持するためにヨガなんかをやったりしてね。練習を欠かさなかったし、知識欲の方も衰えを知らなかった」

「人生の食欲、というものを死ぬまで持ち続けた。その強さを自分も引きつけたい。」


別荘をあとにする島田雅彦。

遠ざかるオリガと別荘

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ヴェデルニコフについてもっと知りたい、という方は是非コチラへ。

アナトリー・ヴェルニコフの世界
「アナトリー・ヴェデルニコフの世界」

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