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会津若松城(あいずわかまつじょう)
混乱を極めた時代の代償に、会津が選ばれた。戊辰戦争は、明治維新と言う革命を正当化するた
めの戦いだった。1868年新政府軍は若松城を襲う。多くの藩兵が出陣し、手薄だった城内は、
虚を衝かれて火の手が上がった。炎上する城に、飯盛山で白虎隊が自刃。若い血潮が飛び散った。
続く1ヶ月藩主松平容保とともに、老若男女が闘う。壮絶な戦の末、開城。7層の天守閣も落ちた

明石城(あかしじょう)
初代城主小笠原忠真は10万石から15万石になって小倉へ移封。続く松平氏は5万石から7万石
に加増された。さらに次の大久保氏も5万石から7万石の加増だった。初代城主小笠原忠真は
幕命を受け、義父で姫路城主本多忠政の協力を仰いで工事に取り掛かる。この時、
資材には一国一城令により廃城になった三木城、船上城、高砂城、
枝吉城などが解体されて用いられたと言われる
赤穂城(あこうじょう)
籠城か開城か。城内会議はもめた。1701年城主浅野長矩が起こした江戸城内、松の廊
下での刃傷事件により、藩に城の明渡しの命が下ったのだ。赤穂城は、甲州流軍学者の近藤正純、山
鹿流軍学者の山鹿素行らの指南を受けて築城した。当時、最新の軍学理論に基づく城であった。当然、
籠城戦の想定もしている。しかしながら、数日後、大石内蔵助は開城する。城を守ることだけが主君へ
の忠孝ではない。1702年12月14日 47人の義士たちは江戸吉良邸を襲う
安土城(あづちじょう)
この城で、この世のすべてを君臨する。それは信長の果てなき野望であった。5層7階の天守閣は、
朱と黒の漆塗りをあしらう洒脱な外観。最上階の屋根は赤瓦葺き、軒瓦は金箔瓦。最上階の外部柱お
よび内部は金箔押し。5階には瀟洒な八角堂もあった。内部の障壁画は狩野永徳、光信が手掛ける。
絢爛豪華をきわめ、朝夕、光輝いていたであろう。1582年本能寺の変に信長が倒れるととも
に城は炎上
伊賀上野城(いがうえのじょう)
藤堂高虎は、伊賀忍者を全国に放ち、彼らに主な城郭の機密を探らせたと言う。当城の造営の際に
は、それを多いに活かしたらしい。優れた築城家として知られる高虎の隠された英知である。いつの世
も情報収集は、他に先んずるための大切な手段であったことを教えている。ところで、高虎の築いた天
守閣は、完成直前、1612年暴風雨のため倒壊する。1614年大坂冬の陣が
終わり、豊臣氏は滅亡。乱世が終わり天守閣は再建されなかった
一乗谷城(いちじょうだにじょう)
華やかな越前文化の黎明地。応仁の乱以後、この地に入った朝倉氏が築いた。周辺の発掘調査で
は、城主の館、武家屋敷、寺などが当時のままに残っているのが発見されている。最盛期の城下町は、
その規模が約6km四方におよんだらしい。公家や文化人が城を訪れ、5代義景の時代には曲水の宴
など古式ゆかしい行事も行われていた。しかしながら風雅な生活だけで乱世は乗り切れまい。
1573年義景は織田信長に侵攻され、朝倉氏は滅亡
犬山城(いぬやまじょう)
古式ゆかしい趣が漂う。木曽川河畔の丘の上に建ち、尾張も美濃も一望できる。現存最古の天守閣
である。2層入母屋櫓上に望楼を掲げており、廻縁高欄をめぐらせている。唐破風の屋根、破風内の
壁面の狐格子、火灯窓など意匠も凝らした。唐の李白の「朝に白帝を辞す彩雲の間」という詩より別名
白帝城という美しい名があるのもよくわかる。明治期になって破却される運命を、保存運動によって救
われた。一時県の所有となるが、旧城主の手に再び戻り、全国でも珍しい個人所有の城である
今治城(いまばりじょう)
今治は、瀬戸内海の要所である。関ヶ原の戦い後、入部した高虎は、海水を取り入れて3重の堀を
めぐらせた城を築いた。海側の石垣には砲台を並べ、厳重な守りで固めた。船溜りを造り軍船を繋いで
水軍を指揮した。23基の櫓を備えた堅固にして壮麗な城であった。美しい石垣は周辺島々から集めら
れた石で造営。高虎は、その才を思う存分発揮して築城したのである。しかしながら完成7年後、高虎
は伊勢へ移封。1636年からは徳川の親藩になる
岩国城(いわくにじょう)
山上にあった城は、1615年一国一城令により破却された。大名ではない吉川氏に城の再
建はありえない。故に吉川氏は、大名昇格を悲願にする。吉川広嘉は願いを込めて、美しい錦帯橋を
造った。そんな吉川氏の願いが叶うのは幕末。萩宗藩主毛利敬親が、幕府に、吉川氏の大名昇格を
推挙し、晴れて、1868年正式に吉川氏は大名となった
上田城(うえだじょう)
真田一族は智将真田信繁(幸村)を筆頭に、巧みな戦術家として知られる。その真田氏の居城、上
田城で徳川家康と秀忠親子が苦い思いをしている。1度目は1585年領地を返上しない真田
昌幸に怒った家康が大軍を率いて攻めた。家康軍は一気に城内へなだれ込んだが、上から怒涛のよ
うな攻撃を受け退却。家康は昌幸と再び手を組む。2度目は関ヶ原の戦いの際、当城で西軍(豊臣側)
についた昌幸・その子信繁を秀忠が攻めたが中々落ちない。天下を決する戦いに結局、秀忠は間に合
わなかった
宇和島城(うわじまじょう)
平和な時代に造られた城は、城主の権威の象徴である。築城は慶長年間だが、現存する天守閣は
1662年の改築によるもの。徳川幕府の治世も安定期を迎えていた。故に、軍事的要素は余り
必要なく、代わって装飾的要素を開花させている。3層3階の天守閣は小造りだが、千鳥破風や軒唐破
風、さらには優美な唐玄関まで備えている
江戸城(えどじょう)
太田道灌が築いた、ここに徳川家康が入城するのは1590年。秀吉亡き後、家康は天下の
覇者として城造りに着手する。築城の三大名手のひとり藤堂高虎が城全体の縄張をし、諸大名に命じ
た大改修は、約半世紀にもおよんだ。広大な外堀に囲まれた外郭、内堀をめぐらせた内郭からなり、5
層の天守閣、19の櫓、92の城門を備えていた。さらに江戸の町は、城に向かって大砲が使用できない
ように造られた渦巻状都市である。まさに計算し尽くされて壮麗な名城は建ち、約260余年続いた泰平
の世の象徴となった
大垣城(おおがきじょう)
古くより畿内と東国と北陸を結ぶ交通の要所である。戦国時代には当城をめぐる争奪戦が繰り広げ
られた。そして慶長5年(1600)天下を分けた決戦に、石田三成は当城から関ヶ原へ出陣。勝つために
旅立つ義父の姿を、福原長堯は城に残って見守った。それから程なく当城にも東軍水野勝成が攻め入
り、両軍決死の攻防戦が始まった。城は中々落ちなかったが関ヶ原の敗戦の報に城内は動揺。最後ま
で抵抗した長堯だが開城し自決した。明治期にも天守閣と隅櫓は残されたが、戦火で焼失
大坂城(おおさかじょう)
武将としての頂点は、目前だった。安土城を凌ぐ城を造る。秀吉のそんな思いは5層の天守閣の随
所に見受けられた。最上階の屋根の軒瓦は金箔瓦。廻縁高欄をめぐらせ、高欄下には睨みをきかせ
た虎を彫刻する。千鳥破風や軒唐破風など優美な装飾にも凝った。黄金の茶室も備える。豊臣家の栄
華を誇った。そして、ここは人間秀吉の晩年のドラマの舞台でもあった。正室ねねと側室淀君、そして幼
子秀頼。華やかな登場人物を揃えたが、戦に長けた男は後継者に関しては仕切り得なかった。築城よ
り32年後、豊臣氏は滅亡。城は灰燼に帰した
大洲城(おおずじょう)
築城にまつわる伝説として人柱と言うのがある。難工事の際には、地霊を鎮めるために、人を柱にし
て築城したと言うものだが、ここ大洲城にも、人柱伝説が伝わる。いつの時代なのかは不明である。近
くを流れる川の洪水により造営は困難を極めた。そこで「おひじ」と言う娘が人柱に選ばれた。娘は城の
名と川の名を自分の名にして、後世まで伝えて欲しいと言って人柱に立ったと言う。故に当城は別名、
比志城、肘川は比志川とも言う。伝説故、真偽はわからない。けれど美城を前に、時の権力者の絶対
的な力を思うと、ありそうな話ではある
大多喜城(おおたきじょう)
小田原討伐ののちに関東に入った徳川家康は本多忠勝をこの地に10万石で入封させ
根古屋城を新しく築城したのが大多喜城である。建物は明治になってとり壊されたが郭跡は
残っていた。昭和50年天守と櫓が復興
大野城(おおのじょう)
越前一向一揆を平定した織田信長は、大野を金森長近に与えた。彼は、大野盆地の西に位置する
亀山の丘に城を築城する。北陸街道上にある北庄から美濃に通じる美濃街道を押さえる要所として、
この地の重要性を見込んでのことである。東麓を切り拓き、城下町も造った、長近の天塩にかけた城だ
ったが、1585年彼は飛騨高山へ転封された。飛騨高山も大野も、長近の手による城下町ら
しく、どちらもが小京都として、当時の趣を今に伝えている
岡崎城(おかざきじょう)
家康が誕生した、徳川氏ゆかりの城。けれど家康の誕生時、岡崎城は今川氏の支城であり、領内は
今川氏と織田氏に挟まれた苦境の時代であった。家康も自ら人質となって当城を離れる。彼が戻り、城
主として独立するのは桶狭間の戦い(1560)以後である。しかし彼の苦難は終わらない。
1579年織田信長の怒りをかった正室築山殿と子信康を処分しなくてはならなかった。天下への道は、
身内すら手にかけて失う孤独な旅でもあった
岡山城(おかやまじょう)
際立つ黒い外観が美しい。現在の岡山城の原型を築いたのは、豊臣氏の5大老のひとり宇喜田秀
家。彼は元の古城を取り込むように修築を加え、平山城から平城の形態へと移行させた。5層の天守
閣に諸櫓を従えた変形梯郭式の城を完成させた。秀家が関ヶ原の戦いに敗れた後は、小早川秀秋が
入城。天下の決戦の最後に東軍に寝返り、勝敗の行方を決めた男である。彼は裏切り者の烙印に悩
み、苦悩の人生をここに終えた。時を経て名君池田光政を迎え、以後明治まで池田氏の治世。天守閣
は空襲で焼失
小田原城(おだわらじょう)
小早川氏が築いた城に、世に名を馳せた巨城を築いたのは北条早雲。城下町を城郭に取り込んだ
城郭都市として、北条氏の栄華とともににぎわった。早雲より続く四代にわたり城は拡張され、その堅
固さに上杉謙信、武田信玄も攻略に失敗している。これを開城させたのが豊臣秀吉、小田原征伐であ
る。秀吉の徹底した兵糧攻めにより北条氏側は、次第に戦意を失って投降、関東の雄、北条氏はつい
に滅んだ。以後城主は様々に代わり、城は明治期に取り壊された
飫肥城(おびじょう)
百年におよぶ島津氏と伊東氏の攻防戦は、ここ飫肥城で繰り広げられた。島津氏は薩摩を中心に
周辺諸国を凌駕してきた古豪。対する伊東氏は、鎌倉時代よりこの地に勢力を伸ばし、本城都於郡城
の他47の支城を持つ強豪。両者決死の戦いは、天正16年(1588)秀吉の九州平定の際、戦功を上
げた伊東氏が正式に城主として認められて終わりを告げる。以後、伊東氏の所領として明治まで続く。
その後、館や桜櫓は破却
掛川城(かけがわじょう)
今川義忠が遠江進出の拠点として、その家臣朝比奈泰熙に築かせた。その後、孫泰朝が500m離
れた所に新掛川城を築く。戦国時代には、家康が旧掛川城のあった天王山に陣とって、今川氏真が身
を寄せた新掛川城を攻めている。激しい攻防戦は、約5ヶ月後に和議が成立。氏真は追放、実質今川
氏は滅亡し、家康が勝利する。その後関東へ家康が転封になってからは、山内豊一が入城。彼は町も
堀で囲み込むように外郭する堅牢な城を築き、それは当時東海の名城と呼ばれたと言う
春日山城(かすがやまじょう)
海に程近い山の頂きに、越後の雄、上杉謙信の居城がある。城内には毘沙門堂をはじめとする堂
跡が残り、彼の信念をよく表している。城の創築は南北朝か室町初期とかで定かではないが、
1548年謙信が入城後、修築、拡大され堅牢な城へと生まれ変わる。信州川中島で武田信玄と5度、
まみえるために出陣したのも、ここからである。謙信は1578年脳出血で倒れた。以後、跡目争
いが起こり、養子景勝が継いだが、その後会津へ転封、代わりに堀氏が入城したが、彼は福島城(新
潟県)を築き、春日山城を去った
金沢城(かなざわじょう)
加賀百万石の象徴、金沢城。12代斉広が贅を尽くした名勝兼六園を伴った雄大な城である。前身は
1488年より始まった加賀一向一揆の拠点となった金沢御坊。それは政治・経済・軍事の組織
的な宗教機関として約百年続いたが、柴田勝家により一揆は鎮圧。佐久間盛政が入城し大改修を行っ
た。さらに4年後、入城した前田利家により、本格的な近代城郭へと生まれ変わった。1602年
の大火により天守閣は焼失し、以後天守閣は再建されなかったが、3層の櫓を天守台に構えていた
上山城(かみのやまじょう)
武衛氏は、最上一族から、独立し城を持った。そして16世紀後半、出羽国で起きた内紛の際、時の
城主満兼は、伊達輝元と手を組み、最上義光に坑するのだが、満兼は義光に家臣を懐柔され、暗殺さ
れたのだった。その後、城主は次々に代わり、江戸時代、土岐氏の頃には3層の天守閣、2層の隅櫓
を掲げる風格ある城へと生まれ変わる。けれども17世紀末、幕府により天守閣が取り壊された。復元
された天守閣は、権力者によって取り壊されることは二度とない
亀岡城(かめおかじょう)
1582年6月1日深夜、光秀は心中深く決し、当城を出る。めざすは京。「敵は本能寺」。逆
臣としての汚名が強いが、この地における光秀の評価は意外にも高い。光秀は1578年信長より
当地を与えられ、もとよりあった荒塚城を活かして、これを拡張、新城を築いた。この際、城下も整え、
領内もよく治めたと言う。光秀の亡き後、民衆は密かにその霊を慰め奉っていたと言われる
唐津城(からつじょう)
風光明媚な唐津を望むようにして建つ。初代城主広高は、秀吉の家臣として次第に頭角を現し、
1593年頃、唐津を拝領する。関ヶ原の戦いでは東軍につき、領地を安堵された。城の造営には、
朝鮮出兵の際の拠点となった名護屋城を解体した資材なども用いられた。彼自身も築城の才のある男
であり、これに九州の諸大名が造営を手伝った。故に堀には、肥後堀、佐賀堀、長州堀、薩摩堀などと
言った名が付いている
川越城(かわごえじょう)
創城は室町時代。太田道真・太田道灌親子によるものと伝えられる。親子は岩槻城、さらに道灌は
江戸城の築城にも関わった。そして、ここは日本三夜戦のひとつ「川越の夜戦」の舞台である。
北条氏康が、自らの支城、川越城を包囲する扇谷上杉氏、山内上杉氏さらに古河公方足利氏の8万
の兵に、わずか8千の兵で夜襲を仕掛け、見事、城の包囲網を蹴散らした戦である。江戸時代には一
国一城令により武蔵国の諸城がほぼ壊された中、江戸城の前衛として当城は残り、明治を迎えた
川之江城(かわのえじょう)
南北朝時代に、伊予の太守河野氏が、讃岐の細川氏の侵略を防ぐために、家臣土肥義昌に命じて
築城させた。讃岐・阿波・土佐の国境に位置したため、その所有をめぐり、攻防の絶えなかった城でも
ある。故に、城跡はそのまま古戦場としても偲ばれる
岸和田城(きしわだじょう)
南北朝の頃、和田高家が築いた古城跡に、松浦肥前守が、本格的な近世城郭の形を築き、1597年
豊臣氏の家臣小出秀政が5層の天守閣を完成させた。17世紀には岡部宣勝が入城し、改築。東西約
370m、南北約650mの大城郭の平城を誕生させた。以後岡部氏が代々城主となり、明治を迎える
岐阜城(ぎふじょう)
油商人より美濃国の主となる斎藤道山の牙城。彼は謀略の限りを尽くしてのしあがり、
1530年当城を乗っ取る。眺める城下は、かつて油を売り歩いた町である。彼の目にそれらはどう映った
のか興味深い。がしかし彼の敵は外ではなく内にいた。1度引退したのだが再起を図って挙兵、子義竜
と交えて果てる。道山の孫竜興の時、織田信長に攻められ城は落城する。信長は居城を当城に移し、
後の安土城の片鱗を思わせるような華麗な城を造った。しかしその城も関ヶ原の戦い直前に福島正則
に攻略され陥落
清洲城(きよすじょう)
信長の野望は、ここに始まった。1555年彼は本拠地を、現名古屋市から清洲城
に移す。鎌倉街道、伊勢街道が合流し、中山道にも通じる要衝地である。この城から、今川軍25,000
に寡兵2,000で挑み、暴風雨に紛れて義元の首をとった。信長27歳、乱世の表舞台に名乗り出た瞬
間である。そして彼は、京に続く道を、一気に駆け上がる。清洲城は名古屋城の築城後は廃城となり、
城下町ごと名古屋へ移された。けれど波瀾に満ちた男の軌跡は、今もここにある
郡山八幡城(ぐじょうはちまんじょう)
父遠藤盛数が造った城を、慶隆は豊臣秀吉に没収される。が慶隆と当城は縁があったのであろう。
関ヶ原の戦いで東軍に属していたため、旧領に復活することになった。彼の喜びは計り知れない。郡上
八幡の夏の風物詩、郡上踊りは、この時の慶隆の喜びが領民たちに踊りを奨励させたことから始まっ
たとも言う。その後、城主は井上氏、金森氏、青山氏と代わり明治となる
久保田城(くぼたじょう)
仮にも、一国の大名でありながら、知行高を60年以上も明示されなかった城主がいる。当城を築城
した佐竹義宣である。義宣は、関ヶ原の戦いの際、中立を守り、戦後、常陸国54万石から、この地に
転封になったのだが、この時、知行高は知らされなかった。故に、入国後の当城の築城においても、天
守閣はむろん石垣もなく、土塀で囲む程度のものしか造営していない。心苦しいまでの幕府への配慮
である。しかしながら、佐竹氏に知行高が知らされたのは、1664年。入国後、半世紀以上も経
て、20万5千石という大幅減封を明示されたのであった
熊本城(くまもとじょう)
加藤清正は秀吉の家臣として国内外で幾多の戦に赴き、その数だけ城を見て、築城の才を磨いた。
当城は、そんな清正の集大成とも言える壮大さを誇る。そして熊本城と言えば銀杏である。城の竣工を
祈って2本の銀杏の木を天守閣の脇に植えさせるのだが、この時、清正は木が天守閣の高さにまで成
長する頃、動乱が起こると言った。銀杏の木が天守閣に達した頃、1877年西南戦争が勃発。西郷隆盛
の攻撃を受けたが城は陥落せず、名城としての誉れを上げた。けれどこの時天守閣、他の建物が焼失
久留里城(くるりじょう)
徳川家康が関東に入ると久留里に大須賀忠政を3万石で入封させた。この時、久留里城は
中近的な城から近世大名の居城に改築された。現在は本丸に三層の復興天守が存在する
高知城(こうちじょう)
後世にまでその功を称えられる妻もまた有名な山内一豊の居城。関ヶ原での戦功により、土佐の領
主となった一豊は、新城を建設する。が、この時一豊が手掛けた天守閣は焼失。現存するのは、18世
紀中頃に再建されたもの。焼失前の天守に準じたため2層櫓上に2層を掲げた初期天守閣の典型であ
るが、外観は破風も漆喰で塗り籠めた新しい建築様式を取り入れている。ちなみにこの漆喰塗籠は、
単に美しさだけでなく防火・防備の目的もある
甲府城(こうふじょう)
徳川家康が一度、築城を手掛けたものの、彼は関東へ転封。その後、加藤氏、浅野氏と城主が替わ
ったが、1600年関ヶ原の戦い後、再びこの地は家康の所領となった。彼は、江戸城を防衛す
る拠点のひとつとして当城に重きを置き、城代に警備に当たらせた。そして1704年柳沢吉保
が転封されてくる。彼は城を自らの居城にふさわしい形に改築した。しかし彼の亡き後、柳沢氏は大和
郡山に転封。甲斐国は天領となり明治を迎える
小諸城(こもろじょう)
戦国時代には、武田信玄の手中にあった城である。信玄は交通の要衝として、小諸を重要視して
いたのだった。そして武田氏が滅ぶと、織田氏、北条氏、徳川氏と所有が代わり、秀吉の
武将仙石秀久が入城する。彼は、城に大改築を施し、この時に造った2層の大手門は現存。
瓦門と言われる程、見事な瓦を使用しており、戦国の世の勇壮な雰囲気を今に伝えている
五稜郭(ごりょうかく)
完成間もない五稜郭を、榎本武揚は襲い、ここに蝦夷共和国を樹立させた。時に28歳。オランダに
留学し、革新的だった彼ならではと言える。しかしながら新政府が、これを認めるわけがない。翌年大
軍を派遣、圧倒的な力の前に、榎本もついに降伏。鳥羽伏見に始まった戊辰戦争が終わり、榎本の革
命も終わった。五稜郭は日本初の西洋式城郭である。俯瞰すると、その形がよくわかる。正五角形の
角の先端には大砲があり、どの方角からの攻撃にも対処できるよう設計されている。16世紀から18世
紀にかけてヨーロッパではやった築城形式である
佐賀城(さがじょう)
当初、鍋島直茂は、竜造寺隆信の重臣だった。豊後の大友宗麟と繰り返し交えた戦においても果敢
に戦い、隆信をよく助けた。島原の乱で隆信が戦死すると、その手腕をかわれて後継者として担ぎ出さ
れ、1590年秀吉から事実上の大名として認められた。佐賀鍋島藩は、堅実に代を重ねて明治を迎える
忍城(しのびじょう)
石田三成による水攻めにあったが、水が増しても落城することはなかった。それは城が浮くからだと
噂され、浮城という別名が生まれた
新発田城(しばたじょう)
新発田城は別称が3つある。1598年加賀大聖寺から、この地に移封された溝口秀勝が、新
発田氏の古城を活かして大城郭を築いた。その時、付近一帯に菖蒲が咲き並んでいたことから菖蒲城。
また何かあれば加治川の水を引き込むことができるように設計していたから浮舟城。そして狐が尾を引
いて縄張りを指示したという伝説があるから狐の尾引城。城は、江戸時代、2度出火し、建物は焼失を
繰り返したが、本丸表門、隅櫓などが現存
島原城(しまばらじょう)
島原の乱の原因のひとつは、島原城の築城にあると言う。1616年に当地に移ってきた松倉
重政は、石高4万3千石には不相応な程、大規模な城の造営を始める。当然、労力も財力もかかり、そ
の負担は全て領民にかかった。さらに切支丹禁止令を受け、あらゆる私刑を信者に与えて弾圧した。
重い労役と弾圧。血も涙もない城主の下にあって、人々がその救いとして神を求めたのは当然のことと
も言える。島原の乱は起こるべくして起きた
首里城(しゅりじょう)
琉球王朝の王城として、海抜100m程の珊瑚礁上に築かれた。察度王統(1350〜1405)が築城した
のではないかと伝わるが定かではない。珊瑚石灰石の石塁に囲まれた城内には、18基の諸殿、鐘楼、
城門などがあり、艶やかな王朝文化が花開いた。第二次世界大戦で、それらの建築物は焼失、石塁な
ども破壊された
白河城(しらかわじょう)
古くは白河関、東北地方への入口であった要衝の地、
白河小峰城は南北朝時代以来の名城であった
墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)
秀吉が一夜にして築いたとしてしられる。実際には5日間程費やしている
駿府城(すんぷじょう)
徳川家康はここに2度、城を築いている。1度目は1586年。駿河・遠江・三河・信濃・甲斐
の5ヶ国を掌握し、その中心として当城を築く。2度目は1607年。将軍職を秀忠に譲り、隠居
城として再び城を築くのである。そして大御所として天下人の人生を全うした。ちなみに家康は幼少の
頃、今川氏の居城であった旧駿府城で人質としての日々を過ごしている
関宿城(せきやどじょう)
家康の関東入封の際、実弟の松平康元が2万石で入城したのが初代。以後城主は代わり23代
久世広業まで続いて明治に。関宿城主は国替えごとに石高が加増されたので出世城の異名もある
仙台城(せんだいじょう)
仙台城に天守閣はなかった。けれど、その名から伊達男という言葉を生んだ政宗のこと。当時、天下
一と言われた工匠や絵師を多数招いて、本丸に桃山風書院建築の粋を集めた大広間を造らせている。
計算し尽くされた立地条件は東に広瀬川、西に原始林、南は断崖絶壁の峡谷。まさに要塞堅固を誇っ
た。また本丸の北に、現在復元されている大手門は、元々、肥前名護屋城の大手門を政宗が移築した
ものと言われている
高崎城(たかさきじょう)
高崎城の前身ともいうべき和田城は和田義信が築いた。和田城は越後の上杉、甲斐の武田、
相模の北条などの抗争渦中にあり数々の戦記が残っている。
現在はわずかに堀と復興の櫓などが残っている
高島城(たかしまじょう)
当城を築いた日根野高吉は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、安土城と大坂城の築城にも加わったと言
う。当然、自身の築城にも情熱を注いだであろう。諏訪湖畔のこの地に、三層の天守閣を持つ近世城
郭を築いた。けれど城造りのための年貢や労役は厳しく、多くの領民が逃散したらしい。堅牢な名城で
あったが、その影に人々の苦しみありと言うことか。そしてようやく完成した城を日根野氏は転封されて
去る。その後は諏訪氏が継いで明治を迎えたが、石垣と堀以外は壊された
高梁城(たかはしじょう)
中世からの備中守護代の居城として、当城は周辺戦国大名の争奪戦の舞台となった。宇喜田氏、
毛利氏、尼子氏といった中国制覇を狙う三つ巴の争いにも巻きこまれた。1575年最後に勝っ
たのは毛利氏だ。氏は城下町の形成に力を注ぐが、関ヶ原の戦い後、幕府直轄地となり、17世紀前半
に水谷勝隆を迎える。彼は現存する天守閣の増築を手掛けるなど、中世山城の縄張りに近世城郭を
整えた。けれど3代目で除封。この時、城受取りに来たのが赤穂藩主浅野長矩。城番には大石内蔵助
館山城(たてやまじょう)
館山城は安房の名門、里見氏9代目義康が築き本拠とした。
標高72mの城山山上に復興天守が存在する。
高松城(たかまつじょう)
城の縄張をした藤堂高虎は、ここは稀に見る天然の要害だと評したと言う。北は海に面し、東は入り
江、西に山をめぐらせ、南は平地。それは理想的な立地であった。完成した城は、3重の堀を備え、そ
の堀のすべてに海水を引く堅牢さを誇った。城主親正は、関ヶ原の戦いでは、子を徳川方へ、自らは豊
臣方につき一族の安泰を図った。しかし苦渋の処世術も末代まで実らず、生駒氏4代で移封となった。
次に徳川光圀の兄、松平頼重を迎える。彼は天下の威光を背に、天守閣を3層5階に改築。松平氏は
維新まで続く。天守閣は老朽化により破却
土浦城(つちうらじょう)
周辺は沼沢地で、防御の構想は沼沢に水を流入させ水城、浮城にも見られる。
そのため水上に浮かぶ亀に例えられ亀城の別名があった。本丸跡に残る二層の櫓門は
太鼓櫓と呼ばれ藩政時代、時を告げる太鼓があったとも伝えられる
千葉城(ちばじょう)
平安末期から16世紀末まで北総を支配した千葉氏の居城。東京湾に臨む小高い丘の突端に西は
断崖、北は川、南は谷と恵まれた立地に建つ要塞である。ここを拠点に千葉氏は勢力を広げ、鎌倉幕
府の樹立にも力を尽くし、陸奥、薩摩、肥前にまで領地を所有する豪族となった。しかしながら15世紀
中頃、一族の内紛により分裂。宗家は絶縁、千葉氏の名は馬加康胤が継ぐも次第に力は衰え、小田
原征伐の際、北条氏側につき滅亡した
つつじが崎館(つつじがさきやかた)
つつじが崎館は館と言っても、南北に約190m、東西に約280m、周囲に高さ約3mの土堤が築か
れ、堀をめぐらせてある。典型的な近世平城の初期形式を備えていた。武田信虎は、さらに当館の背
後の山に籠城用拠点として、要害山城も築いた。この戦国山城と当館が一体となり大城郭となった。し
かもまわりを山々に囲まれた甲斐国は、それ自体が天然の要害地、国全体が城郭であった。父信虎を
追放した後、信玄が当館を継ぐ。彼は領内に新城を築かなかった。当代きっての英将、信玄の軍旗『風
林火山』のはためく所に敵はなかった
徳島城(とくしまじょう)
阿波踊りの起源については諸説ある。ひとつは蜂須賀氏の入封と徳島城の落成を祝して始まったと
言うものだ。初代城主家政の父正勝は、野武士の首領から始まり、織田・豊臣・徳川の世を渡り歩いて
阿波・淡路25万石を拝領する大名になった人物だ。我を忘れて乱舞するのを奨励したのも、豪快な家
系によるものかもしれない。築城の際にも、立地が小山では要所にはならないと家臣が反対したのを、
これからは地の利に頼むよりは人の利を得ることが大切と説いた。城は明治期に破却
鳥取城(とっとりじょう)
身も寒くなるような渇殺で有名な城である。1581年秀吉は前年に引き続き再度、当城を攻
略。兵糧攻めに追い込んだ。城内には4,000人。兵糧は1,500人が食する2ヶ月分程しかない。当然、
食糧は見る間に減り、生き地獄さながらになった。死に行く者に群がる者まで出てきた。毛利氏が送っ
た米と弾薬を乗せた船さえ秀吉は撃沈。城番吉川経家はついに投降し、城内の人々の助命を乞い、自
らは切腹した。時代は下り、関ヶ原の戦い以後は池田氏が城主となり、陰惨な過去を振り払うように城
を改築した。以後代々引き継がれ、明治期に廃城
富山城(とやまじょう)
天下の情勢が城の命運を左右する。当城はまず上杉謙信の勢力に押され、彼の手に落ちた。それ
が謙信の死により、織田信長のの武将佐々成政が入城する。彼は神通川といたち川を城下に取り入
れ、ふたつの川の合流点にはダムを造り、攻撃されたら浮城となる戦闘的な城を築く。ところが時期を
置かずに本能寺の変。秀吉の時代になると前田氏の勢いに押され、成政は降伏。城は前田氏の所有
となった
豊田城(とよだじょう)
十ニ代善基が小貝川辺りに築いたと言われる。当寺の豊田城はかや葺きで川の水を要塞
とした城だったという
豊橋城(とよはしじょう)
牧野古白が造った城跡に、天正末期(1590頃)に、姫路城も手掛けた池田輝政が改修を行ったが、
工事途中で、輝政は転封となり、次に入城した松平忠利が完成させたと言う。本丸の石垣には名古屋
城にも使用されたことを示す刻印つきの石もある。忠利がゆずり受けたものであろう。江戸時代には東
海道の宿場町として城下は栄えた。本丸は宝永の大地震の際、倒壊
中津城(なかつじょう)
城の明渡しをめぐって戦になることもある。黒田孝高は1587年にこの地に入部するのだが、ここは
元々鎌倉時代より約400年間、宇都宮氏の所領だった。伊予今治に転封となった宇都宮鎮房は、秀吉
にこの地に留まれるよう願いを出した。けれどむろん願いが聞き届けられるわけがない。宇都宮氏は乱
を起こし、黒田氏は毛利氏の援軍を頼み、両者は交えることになったが、最後に鎮房は謀殺される
長浜城(ながはまじょう)
秀吉38歳、一国の主として城を持つまでになる。けれど彼には守りの要としての城は必要なかった。
鉄砲の出現により戦は大きく変化していた。騎馬戦から歩兵戦に移行する中、彼は軍兵の集結と移動
に便利な交通網を、築城地に望んだ。と同じに人や物資が行き交う城下町の形成を必要とした。軍事
的にも経済的にも強いことが戦略になる、新しい築城法であった
名古屋城(なごやじょう)
5重5層の大天守と小天守を結ぶ連結式天守閣で、宮大工は安土城も手掛けた岡部家。石垣は加
藤清正の手による清正流三日月石垣。華麗なる曲線で天守を支える。有名な金の鯱は、慶長大判約
1940枚を使用して製作。そして忘れてはならないのが壮麗な内部装飾を秘めた本丸である。ここには
幕府御用絵師狩野派の障壁画や天井画が惜しみなく描かれた。家康が第9男義直(築城開始時11
歳)に与えた壮大な城である。明治期にも取り壊されず残ったのだが、1945年戦禍により焼失
二本松城(にほんまつじょう)
二本松城にはふたつの悲話がある。ひとつは城主畠山義継に伊達輝宗が拉致されそうになった時、
これを防ごうと伊達政宗が義継軍を攻撃。父輝元は義継もろとも政宗、自らの手によって倒れた。復讐
に燃える政宗は当城を攻め、掌握する。もうひとつは幕末。戊辰戦争の際、ここに結成された少年隊が、
新政府軍の攻撃を受けて、わずか数時間の戦いの後に倒れた。時代の変革の中で若い命が散ったの
は会津だけではなかった
萩城(はぎじょう)
それは不本意な築城であった。関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ出された輝元は、戦後大幅に
減封。新城の候補地として次々幕府の意向を聞くが、ことごとく却下。ようやく許可されたのが当時の寒
村萩だった。5層の天守閣を持つ威風堂々とした城を築いたのは輝元の意地と言えなくもない。時を経
て、幕末。藩府は萩城から山口城へ移され、萩城の政治的役割も終わる。その後、長州毛利藩は、高
杉晋作、木戸孝允らを輩出し、時代の扉を開く原動力となる。故に維新後は、武装解除を示すため、他
に先駆けて、萩城も山口城も破却された
浜松城(はままつじょう)
家康が最初に手掛けた戦略的築城。今川氏の旧城を乗っ取り、突貫工事で近世城郭を造ったと言う。
西は浜松湖、東は天竜川という地の利と、東海道を征し木曽や甲斐にも通じる交通の要衝として重要
な地であった。ここで家康は29歳から45歳までを過ごし、次第に地位を固めていく。後に家康が天下
に昇った出世城と呼ばれ、江戸時代には浜松城主になることが、幕府の要職につく登龍門とされた。諸
大名は、浜松転封を願ったと言う。城主22代中、5人が老中になったのをはじめ、半数以上が大坂城
代、京都所司代を歴任した
彦根城(ひこねじょう)
慶長年間の起工より約20年の年月をかけて完成。築城にあたっては、周辺の大津、長浜、安土な
どの古城から石を運んだと言う。また石垣造成の際の石工は、安土城の天守閣を手掛けた職人だった
とも言う。ゆえに往時の城の名残りを随所にとどめていると考えられなくもない。井伊氏の情熱がそうさ
せたのであろう。築城時より代々井伊氏の居城であり、そのまま明治を迎えた。破却を免れた幸運な
城である
姫路城(ひめじじょう)
5層の大天守と3層の小天守が3基。それらの天守を渡り櫓で結ぶ連立式天守閣。
当城はこの天守閣の威風に、日本建築の粋を随所にちりばめた。白漆喰塗籠造りの外観。
千鳥破風や軒唐破風をあしらう流麗な屋根、それに調和する火灯窓や武者窓など。
変化に富む美しさを見せる。そしてその中に戦闘的要素を秘めた。
白壁には狭間、破風には石落とし、内郭は迷路
平戸城(ひらどじょう)
完成直前の城を、自ら焼き払った城主がいる。松浦鎮信である。家康への忠誠心を示すためとか、
当時オランダとの貿易で潤っていた所領を天領にされることを恐れ、居城を壊すことで幕府の警戒心を
解いたためとか言われている。以後100年近く藩は城を持たなかった。宝永元年(1704)ようやく新城
の許可が下り築城開始。鎮信の築いた城と基本的には変わらなかったと言うから再建とも言える。海
峡をそのまま外堀とする天然の要害地である。堅固な造りだった。松浦氏8代で明治を迎え、城は廃城
弘前城(ひろさきじょう)
城の存亡にも運、不運がある。弘前城はこの運をよく掴んだ。1度目は天守閣の再建時。当初の五
層の天守閣が1627年に焼失。幕府に気兼ねし多くの城が一度天守閣を失うと余り再築しない
のだが、北方防備のため幕府より天守再築の許しが出た。文化7年(1810)藩は現存の3層の天守閣
を再建する。幕府の威信が薄れていく時代背景もあった。2度目は幕末。12代藩主津軽承昭は奥羽越
列藩同盟を脱退し、新政府軍に付く。この功が明治期になっても当城が生き残る要因となった
広島城(ひろしまじょう)
秀吉に「聚楽第にも劣らず」と言わしめた当城は、5層の天守閣、45基の櫓を備える壮大にして華麗
な城だった。中国、四国、九州にわたる9ヶ国を平定した輝元が築いた。毛利氏の栄華の頂点である。
が、それも関ヶ原の戦いまで。輝元は萩に去る。そしてここは、幕末から昭和にかけての激動の歴史の
舞台である。2度にわたる長州征伐の本営になるのだが、薩長土芸の四藩連合が成立すると、倒幕の
主力となって維新を迎える。日清戦争では大本営となり明治天皇の指揮下になる。原爆により焼失
福知山城(ふくちやまじょう)
丹波を征した明智光秀が、ここに近世城郭を築く。築城の際、石の調達には苦心するのだが、光秀
も例外ではなかった。彼は領内中から石をかき集め、寺から墓石や供養塔まで強引に奪ったと言う。彼
は本能寺の変で信長を打ち、直後に秀吉に山崎の戦いで敗れ、果てた。その後城主は代わり続け、関
ヶ原の戦い以後に、有馬豊を迎える。豊は、城を改築し城下を整えるのに力を注いだ
福山城(ふくやまじょう)
当時、既に廃城となっていた京都の伏見城の遺構を、幕府より貰い受け、築かれた。伏見城は、家
康の将軍宣下式が行われた城である。が、3代将軍家光の時に廃城。福山城の初代城主水野勝成は
家康の従兄弟であり、彼が西国の地へ移封されたのは周辺諸国の外様大名への牽制のためであった。
当城を築くのに幕府が勝成を助けた所以である。城は桃山文化の粋を江戸時代に蘇らせた傑作となっ
た。1945年天守閣他が焼失するが、伏見城より移築された伏見三層櫓などは現存
舞鶴城(まいづるじょう)
細川藤孝は、風流な武将として知られる。1600年石田三成が、この地に攻め入った。藤孝
の嫡男忠興は会津征伐でこの時留守。藤孝自身は既に隠居していたが、舞鶴城に立て籠もった。しか
し50日間にもおよぶ攻防に、藤孝は勝利はないと覚悟。そして「古今集伝授」の歌道の秘訣が絶える
のを懸念し、当時の天皇智仁親王に秘伝書を贈る決意をする。秘伝書は使者から天皇の元へ届くが、
天皇は藤孝を心配し、大坂方に勅旨を出して撤退するように求めたと言う
松江城(まつえじょう)
簡素な造りが、現在には洗練に見える。天守閣は4層5階地下1階の構造で望楼型。2層までを下
見板張り。破風には禅宗建築様式の流れをくむ火灯窓。装飾性も併せ持つが、実戦に基づいて造られ
た堅牢な城である。正面付櫓に石落とし、天守2層目に隠し石落とし、壁には鉄砲狭間。さらに井戸あ
り、隠し天井ありと様々な仕掛けを秘め、天守閣まで容易にたどり着けないようになっている。城は堀
尾氏、松平氏と受け継がれ明治を迎えた
松坂城(まつざかじょう)
豊臣秀吉の臣下蒲生氏郷は、近江日野から1588年に移封された。彼はここに大規模な
城を築く。周囲を流れる坂内川と愛宕川を外堀とし、本丸・二の丸・三の丸からなる城郭のまわりを広
大な内堀で囲んだ。3層の天守閣をはじめ敵見櫓、金の間櫓、太鼓櫓、月見櫓など各種の櫓を配置し
た。城下には、楽市をしき、日野よりともなった近江商人らを中心に町の繁栄に努めた。氏郷は2年後、
会津へ転封となるが、今も商都として賑わう松阪の町は、この時に造られたのである
松前城(まつまえじょう)
前身は慶長11年に完成した福山館。幕末の1849年に北方防備のため改築を行い、安政
元年(1854)日本における最後の和式城郭として完成する。しかしながら函館戦争の際、榎本武揚軍に
手薄だった城の背後から攻撃を受けて落城。国内戦争を予見するのに、蝦夷地は遠すぎたのか。明治
になって天守閣、本丸御殿以外は壊され、その後、天守閣も焼失
松本城(まつもとじょう)
大天守と小天守が対になって美しい。連郭複合式の天守閣である。このうち大天守は5層の天守閣
としては現存最古である。豊臣の世も長くはない、再び乱世になるのは必然といった世情不安の中、建
築技術は格段に進み、築城は爛熟期を迎える。当城も武備に力を注ぎ、当時は三重の堀をめぐらせて
いた。辰巳付櫓と月見櫓が戦闘的な城には不似合いに見えるが1633年に増築
松山城(まつやまじょう)
加藤嘉明は、幼少の頃は恵まれず馬商人の馬引きをしていた。それが秀吉の家臣となり出世。関ヶ
原で徳川につき20万石の大名となる。約26年かけ5層の天守閣を掲げる城を造るのだが、完成直前、
嘉明は会津若松へ転封となった。建設中より既に天下の三堅城のひとつと噂されたそれが江戸に届
かぬはずがない。ただ彼は幼き頃の苦労を忘れ、手にした夢を形にしたくて他意はなかったであろうに。
その後の城主久松定行は3層の天守閣に改築
丸岡城(まるおかじょう)
戦国の勇壮な世を伝えるかのようにして建つ。当城は天正期に始まった天守閣建築の先駆けであり、
初期天守閣の典型で望楼型をしている。最上階に廻縁高欄をめぐらせているのは、権威の象徴であり、
ここで客人を接待したからだと言う。眺めのいい場所で、領地を誇り、密談もしたのだろう。丸岡城は柴
田勝家の甥勝豊が築城したが、その後めまぐるしく城主が変わり、お家騒動などもあったのだが、城へ
の咎めは免れた。1948年福井大地震の際、倒壊
丸亀城(まるがめじょう)
端正に積み上げられた石垣が美しい。石垣造りの名人羽坂重三郎の手によるものだが、この美しさ
の影には秘められた悲劇がある。城の完成も近い頃、当時の城主山崎家治が視察に訪れた。彼は見
事な仕事ぶりを誉め、重三郎を称えた。が、それに気を許したのであろう、普段はただ黙々と石を積む
だけの男が、鉄の棒一本で石垣をたやすく登るという芸を披露した。数日後、重三郎は殺される。もし
彼が敵に通じたらという家治の疑念であった。現存する天守閣は武装のない象徴天守閣として
1660年完成
水戸城(みとじょう)
徳川光圀のまた徳川斉昭の居城として余りにも有名な水戸城だが、徳川氏が城主となったのは江
戸時代以降のこと。築城は古く、鎌倉時代初期。源頼朝の信任も厚かった馬場資幹が築いたと伝えら
れている。馬場氏は8代目満幹の代に領地を没収される。代わりに1496年江戸氏が入城し、
大修築を行い、この時、水戸城と名付けられた。その後江戸氏は佐竹氏に追われ、佐竹氏は家康によ
って秋田へ移封。家康の第11子徳川頼房が城主となった
山形城(やまがたじょう)
南北朝時代、斯波兼頼が築城。その子孫は後に最上氏を称し、11代目最上義光をもって黄金時代
を迎える。この義光の時代に、城はさらに威光を放つべく構築された。関ヶ原の戦いでは、上杉軍が最
上領に侵攻、山形城を目指したが、その外観が霞に包まれて、城の所在がわからず、上杉軍を多いに
悩ましたと言う。義光は上杉軍を打破、出羽きっての大名となる
大和郡山城(やまとこおりやまじょう)
筒井順慶は信貴山城の城主松永久秀に2度にわたって、居城である筒井城を追われた。けれど筒
井城を援護する拠点として辰市城を築城したことから、俄然順慶の方が優位になり、戦局は逆転。久
秀が信長によって攻め滅ぼされた後、ようやく当城に手を加え、本城にするために改修を試みた。そし
て筒井氏に代わったのが秀吉の弟豊臣秀長である。秀長は城を拡張するため、周辺寺院の礎石や庭
石まで城内に運び入れたと言う。秀長の後、城主はめまぐるしく変わり、18世紀前半柳沢吉保の子吉
里が入城し、以後、柳沢氏が明治まで続く
米沢城(よねざわじょう)
築城はさかのぼること鎌倉時代。地頭として入部した大江時広による。大江氏はその後長井氏と称
し、八代続いたが、14世紀の終わりに伊達氏によって滅亡。米沢城が伊達氏の本拠地となって約20
年後、1567年伊達政宗がここに誕生している。その後、秀吉や家康の思うままに、政宗から
蒲生郷安、上杉景勝と城主が代わった。関ヶ原の戦いで敗者となった上杉氏は、大幅に減封。以後の
修築では、天守閣はむろん石垣も築けない程だった。一時は版籍返上まで追い詰められた藩を立て直
し、城を維持できたのは、名君上杉鷹山の功による
和歌山城(わかやまじょう)
8代将軍吉宗や13代将軍家茂を生んだ御三家の居城。1585年紀州を平定した秀吉は
自ら縄張をして、秀長の築城に尽力している。関ヶ原の戦い以後、浅野幸長が入城し改修。天守閣を
持つ城を誕生させた。その後城主に徳川頼宣を迎え、1629年の修築の際、今も残る花崗岩の
美しい「切り込みハギ」の石垣、城郭庭園「紅葉渓」を造営。その後、焼失した天守閣の再建を願い出
て、18世紀前半頃、三層の連立式天守を築く。1945年戦災により焼失

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