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主要な作品と作者の峰

古事記  712年(和胴元年)。現存する最古の歴史書。元明天皇の命を受けた太安麻呂が稗田阿礼の暗誦していた神話、伝説、歌謡、歴史を文章に書いたもの。全三巻。
 天地の初めから、推古天皇にいたるまでのことが書かれ、天皇を中心とした国家の形成過程を描いている。神話、伝説、歌謡などは文学的価値が高い。
「日本武尊」の物語は有名。江戸時代に、本居宣長が『古事記伝』を表す。
 変体漢文。紀伝体。
日本書紀  720年(養老4年)。舎人親王・太安麻呂らによって成立bした。全三十巻。巻一、二は宇宙創造にまつわる神話が中心で、巻三以下は、神武天皇から持統天皇までの伝説・説話・歌謡などが記されている。中国の歴史書(司馬遷の『史記』など)の体裁をまね、また事
跡に対する異伝をも載せるなど、『古事記』よりも客観的な歴史書としての性格が強い。
文章は純粋な漢文体である。
正格漢文。編年体。
 古事記と合わせて『
記紀』と呼ぶ。
 この後『續日本紀』から、平安時代までいわゆる『六国史』が編纂される。
風土記  713年(和胴6年)元明天皇の命によってまとめられたわが国最古の地誌。諸国の産物、地名の由来、古老が伝える民話や伝説などが記されている。現存しているのは出雲・播磨・常陸・豊後・肥前の五カ国のものだけで、そのうち完本は『出雲国風土記』だけである。
 
懐風藻  751年(天平勝宝3年)成立。淡海三船らによって編集されたとされる。わが国最古の漢詩集。天皇・貴族・僧侶などの漢詩120編が収められている。大陸の漢魏六朝
から初唐にかけての文学の影響がみられる。

万葉集  759年(天平宝字3年)頃成立。大伴家持によって編纂される。わが国最古の歌集。全二十巻。古くは古墳・飛鳥時代から、奈良朝までの歌を収める。詠者も天皇から一
般庶民にいたるまで各階層にわたる。歌風は自然と共に生きた万葉人の心を反映して、おおらかで、素朴であり、「ますらおぶりと言われる。期間がほぼ300年と長きにわたるので、一期から四期にわけている。
 歌の種類も後に作られなくなる長歌をはじめ、短歌、旋頭歌(五七七・五七七)、仏足石歌(五七・五七・七七)と幅広い。また、歌の内容上からは恋を歌う相聞歌、死を悼む挽歌、雑歌に分類でき、三大部立という。しかし、万葉集を特徴づけるのは東歌防人歌」であろう。これらの歌は東国地方の農 民の当時の生活の様子がうかがわれ、東国方言とあいまって、心うたれる。 現代人と変わらない人の心の姿を身近に感じさせてくれる。
 代表的歌人としては、柿本人麻呂山部赤人高橋虫麻呂山上憶良額田王大伴家持志貴皇子大伴坂上郎女などが考えられるが遊女にいたるまで、忘れがたい歌人ばかりである。専門歌人ばかりではない。天皇・皇族から読み人知らずの歌にいたるまで、心して味わいたい。
 表現としては、枕詞や、序詞、それに反復・対句表現が多い。また五七調で二、四句切れのリズムが、力強さや、雄渾さを生み出している。
 表記は「万葉仮名」が使われている。漢字の音を借りたものであり、漢字を摂取して日本語を書き表そうと工夫と努力の様子をしのぶことができる。          
                                      
日本霊異記  822年(弘仁13年)頃成立。僧景戒の編集。後の『今昔物語集』などに影響をあたえた。

竹取物語  900年(昌泰3年)頃成立。ご存知、かぐや姫の物語。現在でも広く親しまれている。作者は、源順か。五人の貴公子たちが、成長したかぐや姫に求婚するが、姫は、難題を与えられことごとく失敗する。帝の求愛さへもことわったかぐや姫は、やがて 翁夫婦の嘆きをよそに月に帰ってしまう。
 わが国最古の仮名物語で、11世紀にはかなり普及していたらしく、『源氏物語』に「物語の出で来しはじめの祖」として書かれている。民間の伝承や、説話を取り入れ脚色して書かれたと考えられる。
 
 
古今和歌集  905年(延喜5年)頃成立。醍醐天皇の勅命によって編集された最初の勅撰和歌集。万葉集』が編まれてから、150年ほどたっていた。撰者は、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人で、「古」は『万葉集』から後、「今」は「撰者の時代までの140年間の名歌を集めた。
 歌風は『万葉集』に比べ、繊細・優美で技巧的な歌が多い。「たおやめぶり」といわれる。
 序文は、漢文と仮名の両方で書かれ、「仮名序」は、紀貫之の作とされ、優れた文学論(歌論)となっている
 時期は、三期に分けられ、「読み人知らず」の時代、「六歌仙」の時代、「撰者」の時代で、特に六歌仙には、小野小町や、在原業平がいて有名である。
 さらに古今集を特徴づけるのは、部立、歌の配列の妙であり、季節や、情景がよく考えられて、配置されており、後の和歌集の規範となった。

土佐日記  935年(承平5年)。紀貫之の作。土佐国の国司(土佐守)の任期を終え、都に帰るまでの出来事を描く。海賊の心配など、当時の困難な船旅の様子がよくわかる。「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」と女性を装って書いている。当時、仮名は「女手」と言われ、男は漢字を使って書くのが普通であった。これ以降、仮名による日記が多く書かれるようになり、正式の公文書は漢字で、私的な日記などは仮名で書かれた。
 55日間の旅日記で、57首の和歌があり、幼くして亡くした娘への思いで貫かれている。

伊勢物語 947年(天慶10年)頃成立か。和歌の詞書から発展して、歌が詠まれた背景を語る、最初の「歌物語」。「昔、男ありけり」と在原業平らしい男を主人公として、その男の一生を語る構成となっている。125の章段には必ず一首以上の歌が入っている。作者は業平にゆかりの人とされるが不明。能楽の「井筒」や近世・近代の小説の題材にも影響を与えた。
蜻蛉日記  974年(天延2年)。作者は藤原道綱母。夫藤原兼家との間に道長の異母兄弟、道綱をもうけるが、夫の兼家との夫婦生活は必ずしも満足のいくものではなかった。21年間の生活を歌や消息をもとに回想的に記している。夫や息子に対する愛情や人間性などは現代人にも共通するものがある。
 「嘆きつつ一人寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る」 は百人一首にも入れられている。
 愛に苦悩する我が身を「蜻蛉(かげろう)」のはかない存在なぞらえている。
宇津保物語  984年(栄観2年)頃成立。全二十巻。長編の伝奇物語。作者は一説によると源順。波斯国に漂着した、遣唐使清原俊蔭が霊琴を得て帰朝し、その子孫仲忠等が音楽の家として栄える。母と仲忠は、貧しい時、北山の大杉の「空洞(うつほ)」に住んだ。貴族社会の様子がよく描かれている。
 参考ー『落窪物語』。
枕草子   1001年(長保3年)頃成立。わが国最初の随筆文学。全約300段。作者清少納言。『源氏物語』と並ぶ平安町文学の最高峰。作者が約10年間に及ぶ宮廷生活で経験したことや、見聞したことを精細な表現と軽妙な機知でとらえ、歯切れのよい簡潔な文章で描いている。「ものづくし」に代表されるように体言止めで述語を省略した表現が多く余情に富んでいる。  
 作者清少納言は学問に優れた清原元輔の娘で、才能にめぐまれ教養を身につけていた。理知的で明るい生活であったと考えられる。30歳頃離婚し、一条天皇の中宮定子に仕えた。同じく中宮彰子に仕えたのが『源氏物語』の作者紫式部である。しかし定子が不遇のうちに亡くなると、宮中を退き、晩年はさびしい生活を送ったようである。
 同じ「趣深さ」「情緒深さ」でも『枕草子』は「をかしの文学」、『源氏物語』は「あはれの文学」と呼ばれる。「をかし」は「美しく心ひかれる。風情がある。おもしろい。」という感じ方で、知的理性的なのに対し「あはれ」は「しみじみとした趣き」のことで心情的である。二人の人間性も感じられおもしろい。
 「枕」にはかたわらにおいてよりどころやなぐさめとするものという意味がある。後の『方丈記』、『徒然草』とともに「三大随筆」と言われる。
和泉式部日記  1007年(寛弘4年)頃成立。女流歌人和泉式部の、帥宮敦道親王との熱烈な恋愛を、贈答歌を中心につづった歌物語風の日記。作者は自分を「女」と表現して心情を吐露している。彼女が流した浮き名は、後世多くの説話に載り、逸話が語られた。
源氏物語 1008年(寛弘5年)頃成立。作者は紫式部。全五十四帖で、最後は源氏の子どもたちを描いた「宇治十帖」と呼ばれる。「光源氏」を主人公に天皇四代、七十数年間、登場人物が、四百人以上の大きな人間世界を描き物語という形式を借りながら平安貴族社会の愛と悩み、理想と現実を語り、人間の真実の姿を追求した作品で後世の芸術、特に文学に与えた影響は非常に大きい。
 作者紫式部は漢文学者藤原為時の娘。清少納言と同じく、幼い時から聡明で和漢の教養に通じていた。結婚して娘を産んだが、夫と死別して、石山寺にこもり『源氏物語』を書き始めたと思われる。藤原道長に見出され、一条天皇の中宮彰子に仕えた。宮仕えの経験も加え、物語は書き続けられた。この宮廷生活の体験や見聞、感想は『紫式部日記』にまとめられ、彼女の人柄を知る資料になっているが、清少納言や和泉式部のことも書かれていて、彼女らの人柄も知れ、興味深い。
 「あはれの文学」と言われ、『枕草子』と対比される。近代以降、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴などが現代語訳し、よく読まれている。海外でも訳され高い評価を得ている。日本文学の最高峰と言ってよい。
栄華物語  1028年(長元元年)頃成立。続編は1086年(応徳3年)か。作者は赤染衛門。「六国史」の最後『三代実録』の後を継いで書かれた歴史物語。藤原道長の人間像と栄華を、見聞回想記の形で書かれている。
更級日記  1059年(康平2年)頃成立。作者は菅原孝標女で、右大将道綱母の姪にあたる。「更級」は信濃国の枕詞で、月、姨捨山とともに詠まれた歌言葉。作者は受領の父の任国の関係で上総国(千葉県)で育つ。物語への憧れを早くから持ち、『源氏物語』にあこがれている。13歳で都に戻ってくる。夢見る少女時代から夢破れる晩年までの自分の人生の回想記となっている。
  
大鏡  1115年(永久3年)頃成立。歴史を写し出す大きな鏡の意味。大宅世継と言う翁が主人公。文徳天皇の時代から、14代176年間の歴史を紀伝体の形で語っている。その間の歴史の回顧座談会の形式をとっている。歴史書は鏡(鑑)ものと言われ、これ以降、『今鏡』・『水鏡』・『増鏡』と「四鏡」と呼ばれる歴史書が書かれる。
今昔物語  1120年(保安元年)頃成立。天竺(印度)、唐土(中国)、本朝(日本)の説話が収録され、最大の話文学となっている。全三十一巻、千二百話。作者は源隆国か。「今ハ昔」で書き出し、文体は漢文体に和文を混ぜた「和漢混交文」である。また、仏教思想が基調として流れている。
 近代の作家芥川龍之介は題材を『今昔物語』にもとめて、『羅生門』・『鼻』・『芋粥』などの名作を生み出した。
梁塵秘抄  1169年(嘉応元年)頃成立。当時庶民の間にまで流行していた「今様」と言う歌謡を集め編集したもの。編者は御白河法皇。「今様」は、それまでの「催馬楽」・「神楽歌」などの古代歌謡と違い、仏教の和讃の影響を受けて成立した。末法思想の流行る不安な世相を反映し人々の熱狂的な支持を受けた。長らく行方不明で、「幻の書」と言われた。明治になり偶然発見され、原形が推定され、研究が進んだ。
千載和歌集  1187年(文治3年)。後白河院の命で、藤原俊成撰。俊成は定家の父。次の『新古今和歌集』に続く幽玄体や、本歌取りの技法が多く見られるようになる。
山家集  1190年(建久元年)。生涯を旅に送った、漂白の歌人西行法師の私家集。元鳥羽上皇の北面の武士、佐藤義清は、23歳の時無常を感じ出家する。以後西行と称し、修行と旅に過ごし、自然・文学・宗教の一体化した境地を作歌活動を続ける中でもとめた。ものにこだわらない自由な魂を持ち、自然にひたり、自然を友とし、研ぎ澄まされた歌風を作り上げた。
 晩年を河内国の弘川寺(現河南町弘川)で過ごし、自身の歌のとおりに春、美しく咲いた桜の花の下で、その生涯を閉じた。芭蕉の言う「古人」の一人で、芭蕉も西行の後をたどった。

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