歌物語4

「吾(あ)を待つと......」 二上山悲愁
大津皇子と女性たち
         〜大伯皇女・石川郎女・山辺皇女・持統女帝

「二上山と虹」(河内側から)

 朱鳥7年(686年)の秋、
一人の若い皇子が飛鳥の都から、伊勢へとひそかに向かっていました。
天武天皇の皇子、大津皇子です。

この時期、彼の立場は皇位継承問題にからみ微妙なものでした。
9月にそれまで政治改革を推進してきた父君の天武帝が崩御されたのです。

 天武帝には、たくさんの皇子・皇女たちがいらしゃいました。
その中でも、大津皇子は、草壁皇子(母は持統女帝)と並ぶ有力な皇位継承者でした。
彼の母親は持統天皇の姉の大田皇女と言います。
(天智天皇の娘で、持統天皇の姉です。)

 彼には一歳年上の姉、大伯(来)皇女がいました。
二人とも百済国救援に向かう朝鮮半島への大遠征への途中で生まれました。
しかし、この過酷な旅が影響したのか、幼い姉弟を残したまま、母、大田皇女は薨去されました。

 やがて大津は「壬申の乱」を経て文武両道にすぐれた若者に成長していきました。
天武天皇も、やや病弱で、これといった特徴のない草壁皇子より、
大津皇子に期待したふしもあります。実際迷っていたと思われます。
人望は大津皇子に集まりつつありましたが、草壁皇子は母親が皇后でもあり、
天武帝としても草壁を皇太子にせざるをえなかったようです。
その上で大津にも政治をとらせるというようなことをしています。
実際、母親の出自も同じで、年齢的にみても、
どちらが天皇位についてもおかしくなかったのです。
ここに二人の皇子の悲劇がありました。

大津皇子はこんな歌を詠んでいます。

経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず娘子(おとめ)らが織る黄葉(もみじは)に霜な降りそね
大津皇子 (8−1512)

 「縦糸も横糸も決めないで乙女(天女)たちが織る紅葉に
 霜よ、降らないでくれ。」
 
 山の紅葉が紅く色ずくのは天女が織るからと言われていました。
また、散るのは霜が散らせると思われていたのです。
ロマンチックですね。
この人の運命はどうなっていくのでしょう。