「斎宮跡」の碑 三重県明和町 | 夕闇迫る二上山 |
大津皇子が謀反の疑いをかけられ、死を賜ったのは、伊勢から帰ってきてすぐのことでした。
時に朱鳥7(686)年10月のことです。実際にそういう計画があったのかはいまとなってはわかりません。
ただ、『日本書紀』によれば、亡き天武帝の殯宮(もがりのみや)でのべた誄(しのびごと=お悔やみの言葉)に
不穏当なものがあったということが載っています。
また、仲良しの川島皇子に、それらしきことを打ち明けていたともいう説もあります。
この頃、石川郎女との仲も津守連通の占いに表れたということで、みんなの知るところとなっていました。
それに応えた歌が次の歌です。彼は一切弁解しません。
大船の津守の占に告(の)らむとは まさしに知りて我が二人寝し |
大津皇子 (2−109) |
(「大船」は「津守」にかかる枕詞)
「(大船の)津守連のの占いに表れると知って、
私たち(大津と石川郎女)はともに寝たのだ。
(愛し合っている。なんらやましいところはない。)」
実に堂々とした態度です。
人望があり、雄々しく、才能も豊かな大津皇子の存在は、
持統皇后にとって、我が子草壁皇子の存在を脅かすものと写ったと思われます。
「それに比べて我が子草壁は.......]と歯がゆい思いをされたとも思われます。
そういったいろいろな要因が重なってこの事件は起きたのでした。
自らの運命を予知したのでしょう。一人、危険を冒して、
彼は大好きだった姉、大伯皇女に会いに(最期の別れを告げに)、伊勢まで行きます。
伊勢斎宮は男子禁制の場所ですが、大伯は温かくはるばる訪ねてきた弟を迎え入れます。
そして、一夜語りあかし、姉に説得されたのでしょうか。
大津はまた、けわしい道を夜明けに飛鳥へと帰っていきます。
それを心配して見送る大伯皇女の歌があります。
我が背子を大和へ遣るとさ夜ふけて 暁露に我が立ち濡れし 大伯皇女 (2−105)
「私の君(大津)を大和へ帰らせるのを、夜明けに見送り、
私はこんなに露に濡れてしまいました。
(無事に帰ってくれるといいのですが。心配です。)」
二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかでか君が一人越ゆらむ 大伯皇女 (2−106)
「二人で行っても越えるのが大変な秋の山を、
君(弟)は一人で、どのようにして越えて行くのだろう。
(飛鳥で、何事もなければいいのですが。)」
仲のよい、かわいい弟の身を案じる姉の心情が痛いほど伝わってきます。
さて、大和へ、戻った大津皇子の運命はどうなるのでしょう。