山ゆかば草むす屍 日本の平和はあの屍が支えている

坂本 明和

1)

や〜ま〜ゆ〜かば〜く〜さむす屍・・・引揚船750tの巨済丸の拡声器から鎮魂歌が悲しく流れる。甲板に溢れる数百人の敗戦避難民の重い静かな沈黙と、暗く悲しい啜り泣きの鳴咽が続く。今船が離れていく満州大陸に荒野に曝したまま放置してきた多くの肉親の屍を・・・・えいえいと築いた家を・・・・一人ひとりの胸の中に迫る、未だ日本の誰もが経験した事のなかった、虚しい惜別と無念の慟哭は人々の体内を覆った。

船が陸を離れ始めたとき、突然「よしお〜 たみこ〜・・・」体を引き裂かれるような悲鳴に似た、失くした子供を呼びかける母の絶叫が聞こえ、同時に甲板の上は今まで耐えていた人々の悲しみと絶叫が渦巻き、私には修羅場、いや地獄の叫びにも聞こえた。

私もじっと陸を見つめながら「もう再び親に会うことは絶対ないなぁ」と何故か半年前、父親を葬った(ただ荒野の中に埋めただけ)リョクエンの現場と父の顔が鮮明に浮かんできたが悲しみは麻痺して体を震わすだけで涙にはならなかった。気が付くと左手と右手は父も母も亡くした弟と妹の手を堅く握っていた。「これからどこへ行くのだろう、日本に行くとしたら日本が敗戦でどうなっているだろう」「もうこの一年の逃避行のような惨劇から逃れられるだろうか」長男の私には不安のほうが大きかった。その日はやけに真っ赤な日が地平線に沈みはじめていた。昭和21年7月?日私が十二歳のときでした。

昭和20年8月7日ソ連が不可侵条約を破って満州に侵攻してきた時から日本より遥かに平和であった毎日から一転してあの一年365日、何処にも安全な所のない、生死をさ迷う毎日の逃避行の恐怖の中で私は12歳にして親子の情の極限、革命戦争の実態、土地続きの国境の厳しさ、治安のない国の恐ろしさ等々を体験することになる。

(2)

昭和20年8月10日頃から私たちが滞在していたソ連国境に近い別荘地ジャラントンでも日本の敗戦が見え始めると満州人の反乱で放火・掠奪・銃殺、燃える家の前で満州人に惨殺された日本人が木に吊るされたり、首が曝されたりで町は騒然となった。

軍隊や警察は民間人を放置して逃亡し、全く無防備になった私たち日本人の民間人は身の回り品を馬車に乗せて、家や財産を放棄して、深夜に集団で居留地を脱出した。しかし幾らも進まないうちに近くで激しい銃声が起こり、「危険だ!皆動くな」と森の陰で立ち往生し途方にくれた。暴風雨の中、羅針盤の無いこぎ船と同じで、戦争に負け無防備の本国民間人の安全な場所が植民地にあるはずがなかった。このとき初めて子供の私にも日本の歴史の激動そのものに巻き込まれ、迫ってくる死の恐怖を肌で感じた。

何処へ行けば安全かと白旗を揚げて何回か偵察を出すが帰ってこない。帰ってこないはずである。何人目かの偵察が右手を切り裂かれながらも帰ってきて「どの道もダメだ。反乱の満州人で溢れている、先の偵察は全部殺された。白旗もダメだ!戦うしかない!子供も女も銃を持て!」私は手にした銃を見ながら子供なりに身奮いのする戦慄を覚えた。

動くに動けないまま夜も深まり不気味な静寂がさらに恐怖感をつのらせている時、突然満州人の襲撃と掠奪が起こった。馬車は燃える、人々は逃げ惑う、銃声と怒号の中で多くの日本人が命を落とし、持ち出した身の回りのものはほとんど掠奪された。

夜が明け始めて、かすかに見えてきた惨劇の後は目を奪うばかりのもので、生き残った人の中にも親子ともども自決する人もあり、10数日後ソ連軍に発見される迄更に負傷・病気・餓死で命を落とし、最初の500人ほどの数は121人の老人と女性と子供ばかりの集団になっていた。しかし不思議に私の家族4人(祖母・弟・妹と私)は生き残っていた。

 

3)

ソ連軍に発見されたのは夜になって私と数人が食料を探しに出たところをソ連の斥候隊と鉢合わせ、銃を乱射され私は一瞬気を失った。幸い銃弾が外れて女や子供たちの悲鳴で気がつき、ばたばたと死ぬ人を見て私が白旗を振り廻して全員投降させた。日本の軍隊さえ守らない我々を敵地の最前線でソ連軍が殺さないわけがない、何処かで殺されるだろうと不安のまま捕虜となり、馬に乗ったソ連兵に銃尻でこつかれながら121名が一昼夜歩き続けて、陽が落ちて暗い捕虜収容所に収監された。

捕虜収容所は鉄条網で3重にも囲まれ、4カ所の監視塔から探照塔の白い光が不審な者を追いかけ、私たちは6畳ぐらいの部屋に30人位が詰め込まれた。翌日になってすぐには殺されない事だけは分かったが夕方になると銃声が聞こえ「軍人から順次処刑が行われている」と聞き、終日部屋の中で身をすくめていた。私の家族は体を寄せ合って眠り、食事は朝と夜に粟のおかゆが缶詰の空き缶一杯だけ与えられたが空腹なのにのどを通らなかった。

ところが数日経って、ソ連軍は「抵抗しない限り非戦闘員とみなし、処刑にはしない」と通告してきたときは方向舵が故障した飛行機が20日間も迷走を続けていて墜落を免れ不時着して奇跡的に「助かった」という実感に似ていただろう「とりあえず今、生命は残った」・ただ声も無く家族が肩を寄せあって泣くだけだった。

「おまえたちをお父さんにどうしても元気で渡さんへんかったら、わては死ねへんのどす。明和あんたは確りしとくりゃっしゃ」67歳の祖母は気丈夫だったが無理が崇り腰を痛め医者も薬も無く、ほとんど歩けなくなった。3カ月後あの広い満州で奇跡的に父と再会するがその日の夜まで気力だけで祖母が孫を守って寿命をを引き伸ばしていく「親の子に対する心情の深さ」を見続けることになる。

4)

捕虜収容所に収監される迄、植民地が崩壊して流民(外地の無国籍者)となった体験は全く情報のない孤島に置かれているのと同じで、何が安全でだれが敵なのかも分からない。殺意を感じたらそれを殺してでも本能的に自分の生命を守る(動物的)行動していただけで希望とか苦しいとか悲しいとかの感情は「意識」の中には全くなくけもの道を這い廻っていた。こうした戦争が人間を原始人世界に戻していく狂気の状況は書き尽くせないが収容所では一応国際難民扱いとなり始めて流民の恐怖心からは解放され「これからどうしよう」と比較的冷静に物を見られる自分を取り戻し、記憶も確かなので難民として日本に無事帰還する迄の私の個人体験を中心に綴ってみたいと思います。

捕虜収容所で一週間たってみるとここも安全な場所では無かった。「あんな!お母さんが死なはったYちゃんの兄弟な、昨夜から何もを食べる物があらへんし、死にかけたはったけど、今、」満人に貰われていかはったで、これからはご飯が食べられるさかい助からはるな!」一杯のお粥しか食べられないで空腹を抱へる弟はYちゃんを羨ましがった。お母さんがソ連軍に強制連行されて帰ってこないk子ちゃんが昨日養女として貰われていった。

親がいないと食べ物が貰えず、飢えと伝染病で次々と死ぬ子供たちの中でこういう命拾いをする子供は大変幸運な事だった。しかしこの事が将来に残留孤児の悲劇になるとその時考えた人は誰もいなかったしそんな余裕は無かった。

またシベリア囚人のソ連兵が監視の目を盗んでトラックで乗りつけk子ちゃんのお母さんのように女性を何人も引きずり込んで連れ去り、再び帰ってこなかった。昼間のをレイブ等はやさしい方で抵抗して殺されることがあり、女性は皆丸刈りにして顔に墨を塗り必死で自分を守った。

(5)

私が捕虜収容所で、最初に苦しかったのは家族の食物が確保できないことでした。1日お粥一杯では死ぬのを待っているようなものです。そこで14歳以上の男子が近くの山でダイナマイトで粉砕した砕石を拾い集める使役に徴発されるがここで働くと余分の食糧が貰えると聞き、年を誤魔化して作業現場に潜り込んだ。ところがこれが大変危険な作業でダイナマイトが破裂するときの合図もなく避難所も暖味で、「ボカーン」の爆発音を聞いて慌てて避難所へ走らせる非情な作業、拳程の石が走ってる横や前に「ドンドン」と落ちてきます。その日もすぐ側にいた若い義勇軍の頭に石があたり、即死するのを見て怖くなったがその後も余分にパンが貰え家族に少しでも分けられるので毎日行きました。数日後、年がばれて使役に行けなくなり悲しそうな顔をしていたらソ連軍の女の将校が理由を聞き、「家族のためにパンが欲しい」と手真似でいうとパンを三個くれたこともあったが祖母が「危ないからやめとくりゃす」と強く止められ行けなくなった。

こんな食糧事情で栄養失調の上、風呂はなく便所は何十人に一つで排泄物は蓄ったままの不衛生のため、伝染病のコレラ等が発生し始めた。その日となりの部屋がだれも食事を受け取りに来ないので私が運んで部屋を覗いて見ると部屋中が血便で真っ赤になり呻き声だけが聞こえ、起き上がる者がいなかった。司令室に走って「隣の部屋がコレラで全滅している」と伝えると「う〜んどうしようもあらへん。お前らも危ないからこっちの6棟にすぐ替われ」いつも親切にしてくれる係りの人の指示で部屋をすぐ替わった。その内病気で死ぬ人が続出し始め、大人の手が足りなくなり子供たちも手伝い遺体を馬車で運び出した。最初の日、馬車が埋葬地に着いた時「わー!ひどいな!」と息を呑んだ。遺体の山が幾つも幾つも数えられぬ位あるのです。

6)

着物を剥がれ、痩せ細ったどす黒い遺体はまるで田圃の藁のように積みあげられ、何人もの人が遺体を焼いていた。「1日何人も死ぬさかい、なんぼ焼いても追っ付かへんにゃ」「乾パンあげるからぼんも手伝うてや」恐々遺体に触れるとズルっと皮が剥け、夏の暑さの為腐敗して鼻を突くように臭い。しかも死体は想像以上に重たいので主に子供の遺体を馬車に積むのを手伝った。食物欲しさに毎日の仕事になったが異臭のする死んだ子供を「もう1日待って!」と必死に抱いている母親、死んだ子供を10日間も抱いたままで、コレラに感染して亡くなる母親、子供の遺体を背負ったままどこかへ行ってしまう母親たちの顔が今も脳裏に残っている。

しかも使役や遺体の始末で男たちの留守を狙ってソ連兵が臨検と称して若い女性を強引に連行したり、空き地で強姦したりするのを目のあたりにして、「このままでは俺たちもやがて病気か栄養失調で死んでしまうぞ」 「女の人は全部ソ連兵に連れていかれるで」 「脱走しても日本の国は戦争に負けて、もっとひどいぞ、どこへ逃げればいいのや」

そんな不安に苛まれている時、指令室の人から「男と独身の女の人はソ連に抑留され残りの者はもっと状態の悪いところへ移るされるぞ、寒い冬も来るし、早く脱走して、とにかく一番近いチチハルへ行け」と耳打ちされた。すぐに脱走するしかないと相談を始めたが食物に釣られてスパイする奴が出て、リーダーの私ら三人はソ連兵に取り調べられ三日間絶食で問い詰められたが子供の冗談という事と女の人をソ連軍の宿舎に連れてきたら見逃してやると条件付きで釈放された。そこでこれを逆手に使って陽動作戦を考へ、夜に「女の人を北の方の小屋に連れて行く」と監視兵等を集めて引き付け、南の暗い所の監視を手薄にして、南から脱走する計画を慎重に立てた。

捕虜収容所・死の脱走

7)

「おい脱走する人数が増え過ぎ、赤子も多いし危険やぞ」脱走の失敗は死ぬ事であり、成功しても命の保証はない。皆に「それでもいいか」と念をおしたが張り詰めた沈黙だけがあった。日の暮れる9時頃北の方で火事が発生した。女の人を宿舎に連れて行くと監視兵を北へ集めておいて、近くの家に火をつける陽動作戦の開始だった。その火を見た時、考えている間もなく「今や!鉄条網の下を後の者が通れるように掘るぞ」と脱出を開始した。

監視塔のソ連兵は全く気付かない。必死で掘るのだが思うように前へ進まない。こんな硬い土は初めての気がするし、掘る音がやけに大きく聞こえ、気がきでなく、なんとなく絶望感が見え始めた時「この鉄条網は電気が通ってないで!「切ろう」とバイスの佐渡が言った。鋏を二つ使うと意外に簡単に切れた。長〜い一時間だった。とにかく道はついた。

今度は自分の背丈ほどある荷物を背負って鉄条網の下を潜り抜けるのだが鉄条網に服を引っ掛ける奴、声を出す奴、身の竦む思いで100人ぐらいを脱出させた時、突然「わー」と赤子が泣いた。直後、目が眩むようなサーチライトが目の前を照らした。「見つかった!後の奴は引き返せ」と叫んだが同時にバリバリ!ダダダダとライフルの弾が地面に炸裂し、バタバタとドミノのように何人もが地面に叩きつけられた。そばで「ギヤー」と悲鳴がして一瞬立ち竦んだ時、左の手に焼火箸を突き通したような熱さを感じたが「こっちや」と必死で近くのコーリャン畑に逃げた。息が切れそうになって「皆いるか〜」側にいた弟に聞いた。「ウン“妹はいるよ」「にいちゃんの左の手真っ赤で取れかかっているで」初めて気が付いたら、薬指がちぎれかかっていた。「おばちゃんは」と声をかけると近くで「わては歩けます、それより指をチャンと包帯しおしやす」司令室の人に背負われて逃げた祖母が意外に歩いていた。

8)

うーんうーんとうめき声がするのでそっと近づいてみると、一緒に脱出した野口医師が銃弾を浴びた老夫婦の手当てをしていた。傷をみて「おばあちゃん大丈夫やから、確りせんとあかんよ」と言いながら、横にいる家族には首を横に振った。私にも銃弾が掠めた指の治療を手早くしながら「このおばあさんはダメや、他にもだいぶ負傷者がおるぞ」小さい声だったが(事態が大変な状況だぞ)という雰囲気がよく分かった。泣いたあの赤ん坊が憎かった。しかしだれしも助かりたいのは同じだし、責められない。突然そのおばあちゃんが「年寄りは此処へ置いて、子供たちを安全な場所に移動させなさい」と言うと「何を言うんですか、お婆ちゃんしっかりして」背中に子供を背負ったお嫁さんらしい人がお婆ちゃんを叩きながら泣いて励ましていた。

「水野です」私の祖母を背負って脱出させてくれた司令室の人が野口先生と挨拶して「先生とにかく夜が明けないうちにもう少し捕虜収容所を離れないと危ないです」「負傷者が大勢いるし、全員はとても無理だ」水野さんが「もし発見されたら先日もソ連軍は全員処刑しましたから全員殺されるますよ」しばらく沈黙が続いた。先生が静かに「私が残ろう、動ける人はすぐ移動させてくれ」水野さんはじっと先生の顔を見て、涙声で「分かりました、線路添い右側をチチハルに向かいます。先生も後ろから必ず来てください。移動する者にも先生が必要ですから」頷きながら先生は「皆に伝えてくれ、身内の怪我人を置いてでも元気な者は早く移動しないと全員が死ぬことになる」水野さんは皆に伝えるよう指示するとお嫁さんを「あなたは六人の子供を守れ、お婆ちゃんは先生が守るから」と移動を始めた集団に連れて行ったが「嫁として義母を捨てて私が助かることはできません、私だけでも残して」と取り乱した。他人も同じ立場の人が泣きだした。

親がわが子の生命をを奪う時

9)

「義母を見捨てられない」と置き去りにした畑へ引き返す母を9人の子供も追いかけて行った。それを見て重症の身内を置き去りにした幾つかの家族が思い余って引き返し始めた。しかしこのことは親や夫への服従が良い嫁とした当時の女性の道徳観が我が子や他人をすべて死に引き擦り込むことになり、私の幼児体験としては重すぎる悲劇でした。(この体験から今も残る親の古い観念や、感情のまま育てられる子供を見ると今も心が痛む)

集合してきた人の中には動けるものだけでも日本に近い南に逃げるため銃撃で重傷を負ったり、行方不明の親や子を畑に置き去りにする非情な決心をして、集まった人達も多く、この母子等の行動を見て悲壮な雰囲気が漂い、泣きだす者がいた。

それを察した水野さんが「よく聞いてください」と低く強い声で話し始めた「これから南へ移動しますが日本に帰還できるかどうか、帰還できても祖国日本が安全な場所なのかも分かりません。今はもう何も頼りにするものは何もありません。生き続けるためには食料・水・衣服・寝床は人を頼らないで各自が確保していかなければなりません。また途中で倒れても、行方不明になっても歩くのをやめて助けることもできません。それは共倒れを防ぐためです。何故なら私たちは捕虜収容所で死んだ人達・あの畑に残してきた人たちの証人として、最後の一人になっても、誰かが生き残らなければならない責任があるからです。

皆さんは今そう決意されたばかりでしょう」水野さんの話は涙声で途切れがちになった。少し考えてから一気に話を続けられた。

これから昼間は草叢に潜伏し、夜に鉄道の右側をチチハルへ向かって歩き続けます。敵はソ連軍か満人か、それはわかりません。どんな危険が迫っても冷静に判断して人を頼りにせず、各自が自分の命を守り抜いてください。たとえ我が子でも動けない身内を庇っていては一家全滅です。万一自分が病気やけがで動けなくなったときは死を覚悟してください。畑に置き去りにした身内を思う余り、何家族かが引き返されました。悲しいことですが生きて再びお会いすることは絶対ないでしょう。家族への情は断ち切れんでしょうが家族が共倒れしたら何もならんのです。もっと厳しい事態も起こるでしょうがこうした事は家族のだれかが生き残るために絶対しないでください」話が終わった時、もう泣いている者はいなかった。水野さんの目に一杯涙が溢れていた。

夜になると私も弟も妹も自分の背丈ほどある特製の背袋を背負い、両手に目一杯の荷物を持って、畑・野原・山中と道なき道を歩き続けた。夜12時を過ぎるころには日本人の放棄した畑を探し出し食料にする穀物を拾い集め、湧き水を探した。昼間は体が隠れる背の高い野草の間に、鳥の巣のような場所を作って眠り絶対動かなかった。10日も経った頃は脱走を試みた人の6分の1の50人ぐらいが残っていたが男の大人は数人だった。

ある日、水野さんが私に「万一僕が倒れたら冷静に判断して、10月中にはチチハルに着いてくれ。そうでないと寒くなり全員凍死してしまう」と今の状況等を細かく説明された。

「途中のコウコウケイ市まで行けばめどは立つ。只其処へ着くのに後一月はかかる、問題はそれまでに反日の満人に見つからない事と本当の意味でこの集団が狩猟民族になって助けあえるかどうかなんや。食料にする家畜を奪う為牧場等も襲撃を仕掛けなければいかんし、逆に何回か襲撃も受けることもあるやろう。つい50年前迄の満州人はそうして生きてきたんや。今はその時と同じ状態やと思う。しかし日本人は他の民族を襲撃したり、国境を越えて逃げまわるる経験なんか無い農耕民族だから無理かなア。君はまだ分かりにくいけど、この集団がそんな狩猟民族に成れんかったら今の半分も生き残れんやろう。どうするかはその度にいうからよく覚えてくれよ。それから弟さんも妹さんも自分の食べるものは自分で探して生き残らなあかんで」分かったのかどうか弟はこっくり頷いたが祖母は黙って眠りかけている妹に枯草をかぶせていた。

10)

「もう僕もマリ子も食物あらへんし、何処かで探してこなあかん」弟が言い出したのが捕虜収容所を脱出して2週間目。その頃には携帯した食料も尽き、数日も食べず「もう歩けへん」と倒れる者が出始め、山や野原に置き去りになり餓死するものもあった。そんな中で私の家族は食べられそうな草や根、そして虫や貝を探しては飢えを凌ぎ、何とか全員生き延びていたがほとんどの家族は空腹で動けない脱落者を出していた。それ迄に危険を覚悟で食料と水を得ようと探し出した満人の穀物小屋等を襲ったが猛烈な反撃にあい負傷者を多く出し、私も右足の脛に銃弾を受け一時歩けなくなり気力で這うようにしてついていった。その後もオタフク草やイナゴ等を食べて飢えを凌いだ。20日過ぎたころ、人数が脱走時の10/1の30数人迄になり、全員が飢えで弱りきっていた。ちょうどその頃日本人が残した牧場と一軒家を探し当てた。しかし満人が住み着いていて、うかつには近付けない。水野さんが私を呼んで「ここまで込められたらとにかくあの家の家畜を襲うしかないが今度逆襲されたら皆逃げる力がもう無い。しかしここで餓死するわけにはいかん、とにかく最後の手段を仕掛けてくる。どんなことが起こっても皆を絶対騒がせたらいかんぞ」と男の人二人とその家に向かった。

以外と早く水野さんたちが何も持たずに引き返してきた。アレ駄目だったのかとガックリとしたが一軒家のほうで真っ赤に火の手が上がりすぐ火事と分かった。「坂本。豚が何頭かが焼け死んでいるやろう。皆が一番安全で確実に食糧を手に入れるにはここで慌てたらあかん持久戦や」その日はじっとそこに潜伏して次の夜を待って火事場へ行くと家も家畜小屋がすっかり焼け落ちて作戦通り満人も逃げ出しており、食料と水を確保して全員が蘇った。二日程体力を養い、これから歩き始めようという時、弟が一袋のお米を担いで帰ってきた「兄ちゃん、よそのお母さんが近くで倒れたはって(このお米をあげるさかい、子供を助けてほしい)て言わはったんや。そんな事でけへんと言うたんやけど、小さい子供もいたし、何かものすごくかわいそうで、必死で言わはるし、これ持ってきたんやけどどうしたらええ」場所を聞いて私が探すとすぐ分かった。

二人の子供が「お母ちゃん!早よう、確り歩いてエナ」と倒れている母親を必死で引き起こそうとしていた。「お母ちゃん!早よ起きてエ、皆について行かへんかったらここで死んでしまうでエ」一番上の子は大声で泣きながら母親を叩いたが微かに「ワカッテル、ワカッテル」と言って母親はもう意識がはっきりしない位弱っていた。しかも一人の小さい子供が母親の左の脇に抱かえられ、もう一人の子が虫の息で側に倒れていた。

「そこへ水野さんが走って来られ「お母さん分かりますか、お母さん」お母さんは顔をあげて微かに頷いた。水野さんは脇の下の子供の顔に手を当てて、様子を見られたが既に息途絶えていた。そのとき突然「この子は私が連れていきます。上の二人お願いします」と息絶え絶えにいうと母親は虫の息の三番目の子お抱え込んで首をギュッと締めてしまった。水野さんは目を逸らしながらじっと考えておられたが一言「後から必ず来てくださいね」と言われ、二人の子供に「お母さんは後から来はるから先に行こう」と手を出されたが二人は母親の顔を覗きながら「お母さん寝てたはるし起こさなあかん」と母親の体を強く揺さぶったがもう何の反応もなかった。

二人はついて来なかった。水野さんは歩きながら「小さい二人の子はあの母親が道連れにする事で無用な残酷さから救われた。残った子は動物的生命力で生きてくれるしかない。ここで他の大勢の人のことを考えると私の力ではどうすることもでけん」と一人で呟やかれた。二人のために私はお米を返しにもう一度戻ったが声を掛けるのが辛くて黙って子供のそばに置いた。「お母さんがまだ起きはらへんね」と子供は母親を引摺ろうとして、二人で服を引っ張っていた。このこと報告した時、水野さんの目に涙を見たが暫く喋らなくなった。

11)

豚の丸焼きにありついて5日たった頃、何日歩いても地平線が見えるだけの野原に出た。景色が全く変わらないので幾ら歩いても進んでいる実感がなく、しかも静かなので自分の足音にさえ怯えた。それでも見え隠れする線路だけを目安に夜が寒くなりはじめたので、けもの道を昼間も歩いていた。その日湧き水を見つけ、そこで野宿をすることになった。

「にいちゃん、あそこで泣いてはるお母さんが背負うたはる赤ちゃん臭い臭いで」弟がぼそぼそと私に話しかけた。「うん、あの赤ちゃんはな、もう生きたらへんのや」「へえー、死んだ赤ちゃんをあのお母さん、何で負うたはんの」途中で何人かの赤ちゃんが死んで土に埋めたのを弟は見ているので不思議がった。「あの赤ちゃんはな、お父さんが戦争にいかはったままで、まだ一回も顔見はったことがないからお父さんに見せる迄はどうしても連れて行くいうてお母さんが離さはらへんみたい」

この母親はもう二人の子を連れていた。三日前に次女が行方不明となって探すためにそこに残ると言い出したが、無理やりここまで連れてきた。

「今、一番上の子だけはどうしても生き残らさないかんから、その赤子を葬るように水野さんがお母さんに言い聞かせたはるのやけど、言うことを聞かはらへんにや」弟は「あかんわ、しまいにお母さんも死んでしまうやんか。ケンちゃんとこは弟と妹は病気にならはって歩けへんから、まだ生きたはったけど、お母さんが(カンニンしてや)と泣きながら洞窟の中へ置いてきはったやんか」

その後この親子を何回か見たが、いつからか男の子は見なくなり、母親はやはり赤ちゃんを背負っていて、赤ちゃんの耳や鼻の穴にうじ虫が湧き、母親の背中にはどす黒い赤ちゃんの死に水がへばりついていた。それは異様な姿ではあったが、その生きざまにこの母親の凄ましい子供への愛着を見る思いがした。

もう暗くなり始めたころ、水野さんが「全員伏せておけ」と急に言うや線路の方向に向かって背を丸めて走り出した。「ナンヤ」とその方向を見ると列車の煙が線路の向こうのほうに見えた。全員息殺して草叢に伏せていたがその煙がだんだん近づいてきた。それ迄にも列車は何回か見たがいつも逃げて近づかなかったのでこんな経験は初めてだった。

「オヤ」と思った。列車が近くで止まった。ドキドキと胸が高まるのが分かった。

他の者も何かが起こる予感がするのか、いつもの緊張時より騒ついた。「シーッ静かに、軍用列車かもわからんし、体を起こすな、一人でも見つかったら全員また収容所に逆戻りか、処刑かもわからへんぞ」と制した。

長い、ながい静寂が続いた。やがて私はいろんなことを想像し始めた。列車に乗せてくれるかもしれない。その代わりソ連に連れていかれ、奴隷のように働かされることもあるやろう。何度か見たようにこの原野で一列にならばされ一斉射撃で処刑されるかもしれない。銃で狙撃されると人間の体は2.3mは吹っ飛ぶのを見ているので「あんなになるのかなあ」とか思った。しかし、救いは水野さんが自分で列車の方へ走っていかれたのできっと一つの目算があってのことだろうと思うと落ち着いたが良い状況はあまり想像できなかった。

突然ボーオー・ボーオーと汽笛がなった。ハッとして心臓がドドッ・ドドッと音をたてた。逃げ出す者がいたり泣き出す者があったりで混乱状態になった。その時水野さんが小走りで帰ってこられた。「はあーはあ」と息遣いも荒く「何を慌てているんだ!集まって」と一喝されると「日本人なんでしょう、難儀な時ほどしっかりしないと。事情は後で話しますが今すぐあの列車に乗る希望の人と、このまま今まで通り行動する人と自分で決めてください。ただあの列車が何処に行くか言えません」厳しい顔で各自が決断することを求められた。突然のことで皆の顔に緊張感が漂った。突然祖母の声がした「汽車に乗る制限があるのやったら、明和だけでも乗せてやっておくれやす、わてらは歩きます」

国民を捨てて先に逃げた高級官僚と軍隊

12)

おおくの犠牲を出してやっとここまでたどりついたのに行き先も分からず、どこの国のものなのか得体の知れない列車に「乗るか乗らないか」と急に決断を迫られて途方にくれる人も多かったが苦しいこの一カ月の逃避行に疲れ切っていてほとんどの人が列車に乗る事になった。

 しかし只乗る訳ではなかった。2、3両目の無蓋車を枯草でいっぱいにしてさらに「全員枯草の中にもぐり込んで荷物になってください。どんなことがあっても顔を出したらあきません。皆が出てもいい時は合図をします。万一誰かに見つかったら何が起こるか分かりませんよ」全員が塗り終わると男の手で荷物を積んでいるようにシート掛けにした。

私の家族と数人は機関車の石炭の積んであるところに乗せられた。たくさんむしろが置いてあり、それを寝袋にしたが蒸気の余熱で随分暖かいところだった。その間、不思議なことに列車から誰も出てこないのが不気味に思えた。「この列車は何やろう??水野さんは機関士とどんな交渉されたんやろう??」頭の中がぐるぐると混乱した。

やがて列車はソ連と思われる方向に動き出した。「アレッ」と思っているうちにスピードを出して走り続けた。私の不安はどんどん広がって「これはおかしい、日本と違う方向に走っている」と思わず言うと祖母が「もう少し様子をお見やす、本当におかしかったらあんたはんだけでもお逃げやす。もうちょっと落ち着いて見まひょ」その時、列車が徐行し始め止まりかけた。不安になって私は禁止命令を破って外を見るため顔を出した。その時「ショウハイ・ライライ」と機関運転室から大きな声が聞こえた。一瞬ヒヤーとしたが呼ばれるまま石炭室から機械室に恐る恐る移った。

呼んだのは満人と思われる機関士で「・・・・・・・・・・・」と私を指差して水野さんに何か話しているが意味は分からなかった。機関車の内部を見るのも、石炭を蒸気釜に撒くように入れる作業も見るのも初めてだったが、釜の中で石炭が真っ赤に燃えているのが今までに見たことのない美しさだった。

水野さんと機関士は盛んに話をしていたが満州語で話すので意味は分からなかった。突然、遠くで「ボボボボー」と汽笛がなると機関士は体を翻してあわてて計器盤の鎖をひっぱった。「ボボボボー」と物凄い大きな汽笛を鳴らし、交互に相図をしているようだった。手早く機械を操作すると何故かさっきとは逆の方向に引き返すように真っ暗の中を走りだして間もなく「パパンパン」と威嚇射撃の音がして馬のいななきと男の大声が聞こえた。

すぐ機関士は列車を止め、私に「石炭を放り込め」と手真似で指示して機関車のドアを開けるとソ連の憲兵隊が二人入ってきた。水野さんが話を始めた。貨物を調べるらしいことはわかったが貨車に乗っている人たちが見つかるかもしれないとハラハラしていると「心配するな。帰ってくるまで石炭の作業を黙まってしてなさい」と憲兵と一緒に水野さんと機関士は列車の後の方に行ってしまった。

一時間ぐらいたって水野さんと機関士が帰ってきた。「よし!上手くいった」やがて列車は後の10数両の貨車を切り離して南に向かって走り出した。

「奥地に多くの民間人が取り残されている時に高級官僚や軍人は日本人を食い物にしたうえ、一番先に国民を捨てて逃げようとした。こうしておけばあのあくどい連中はソ連軍に殺されるな。こうしたくないけど、これでここにいる大勢の人間が助かるんや。これでいい」この意味は特務機関におられた水野さんが日本軍の軍用物資を日本のある高級官僚が隠匿して、この列車に隠していることを以前から知っていたので元部下の機関士と図って横取りして、それをソ連軍に引き渡し、交換条件に列車の運行を認めさせたらしい。一枚の書類を見せて「これがあれば新京まで大丈夫」水野さんが珍しくほっとした表情をされ「この話はだれにもするな、まだどんなことがあるかも分からないから皆は荷物になったまま新京(首都)迄行ってもらう」列車は豪快な音を立てて全速で走っていた。

(13)

あくどい官僚たちから乗っ取った列車は暗やみの中、無人の駅を次々通り過ごして走り続けた。元部下の満人の機関誌は水野さんに自分が見てきたあちこちの状況を話し続けていた。

機関士の話の中でも当時満州に暮らしてた日本の庶民は日本が負けることを考えた事もなかった。しかしソ連軍が国境を突破してきたとき、帰るべき祖国を見失い、しかも頼れるはずだった官庁・軍隊・警察の幹部は真っ先に逃げて何の情報もない無国籍者として満州の北部に取り残された。植民地時代の大きな恨みを持つ満人たちは逃げ場を失ったその人たちへ遺恨を晴らすべく「なぶり殺しに向かわせた悲惨な状況」は私たちと同じ状況だった。

「当時の風潮として(俘虜の恥ずかしめを受けず)と家族全員が自決する人たちも数知れなかったらしく捕虜収容所でも私たちの脱出した後、多くの人が自決したという」

更にこの苦しい逃避行が何年続くか見当もつかないし、日本に帰っても満州と同じ状況かもしれないと先行きに絶望したは親たちは体力のない幼い子供の命だけでも助けようと断腸の思いで満人に託した人が随分あり、一方親を失い餓死寸前の子供たちも満人に救われて命がつながった幸運な孤児も多くあったらしい。しかしその後、この子供たちが残留孤児としての悲運の運命を歩むことになってしまった。

話が終わり、うとうとしていて、もう夜明けかなと思ったころ機関士の大きな声で目を覚ました。「ガガガガーギギギギー」と激しい音がして、急ブレーキの激しいショックで私は眠っていた助手台から転げ落ちた。「パーロー(八路軍)や」と水野さんが言いながら飛び降りた。

列車の走る音の変化で線路の上に八路軍が列車妨害の障害物を置いていることが分かりそれを調べにいかれたらしい。すぐ水野さんが戻り機関士に指示して機関車を随分後退させた時、前方で「ダダダダダン」と銃声がした、機関士は一瞬たじろいて列車を止めたが外を偵察していた水野さんが「面倒なことをしている間はない。今度は前進にして強行突破する!」と叫ぶと列車は今まで出したことのない速度で蒸気は狂気のように吹き出し突進した。

同時に列車に気づいて集まってきた八郎軍の騎馬隊から銃弾がガガンガン機械室に打ち込まれた。中でも「キンカンキーン」と窓から飛び込んでくる銃弾が機械室の内壁にあたって跳ね返り暴れ回るのは恐ろしくて寿命が縮まった。体の何カ所かを弾がかすめ、「アツイ」と手をやると撃ち込まれた銃弾が服にくっついてぶすぶすと煙が出ており、やがて服が血だらけなった。列車を挟んで追撃してくる騎馬隊は銃声や罵声から相当数のようだった。「坂本身を屈めよ」の声を聞くや否や、ドーンと最初の衝撃が体に伝わり、両手で頭を抱え込み、目を閉じたが「ドドドドド・・・」という音とともに列車も前後に振れ「ドカーン」と爆発音もした。私は思わず小便を漏らしてしまった。

この時私は一瞬失ったよう、その少し記憶ないべとっとした血糊が入ってきてはっとついた頭をやられらしく血糊でべとべとしていたどうも線路妨害突破したようだった騎馬隊のほう初めよりも激しく攻撃してきた大人二人這いつくばって必死手づかみ石炭放り込んでいたその状況へばりつい血を見ているうちにくそ!」敵対むくむく沸き起こり持たされていた手留弾を握って窓越し騎馬隊叩き付けた。

ドーンギャー」ドタドタと人馬倒れる聞こえ無我夢中ぐらい投げたとき大きい「もうよい追跡止めた水野さんした外の人馬聞こえなくなり「適を振り切ったなあふと我に返った時、目の前真っ暗なり自分暗い沈んでいくのが分かった・・あきかずいう祖母気がついた、列車でなく建物木の床されていた

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八路軍の攻撃を機関車の爆進で必死で振り切った時、傷が深かった私は列車の中で気を失ってしまった。チチハル市の仮設病院に収容されたときは重体で絶対安静という診断だったというから列車を襲う八路軍との戦闘中も私の命は灯たり消えたりしながら目的地へ風前の灯で辿りついた事になる。列車に乗る前だったら満州の荒野に置き去りにされ日本の土を組めなかっただろう。

翌日、意識が戻ったとき「ここは何処」と問いかけると「あんたはんが夢に見ていたチチハルでっせ!皆も元気どす」祖母の声に・・・・家族の顔を・・・一人ひとり確かめているうちに「よう生き残ったなア」と思うと思わず涙が溢れ出てきた。「あんたが生きていてくれへんかったら、お父ちゃんに会えしまへんがな。よう頑張ってくれはりましたな」国境地帯に行ったまま行方不明の父にどうしても再会して子供を渡すことだけしか頭にない気丈夫な祖母は私の額に手を当てながらポロポロ涙を見せた。

「みんな一生懸命に生きてるんやからお父さんもキットどこかで生きたはります。はよ元気になっとくりゃしゃ」祖母はいつまでも私の頭を撫でていた。

二日も経つと状態も快方に向かい、弟に様子を聞くと「此処は小学校で難民収容所なんや」「そうか・・此処でも又ソ連の捕虜になってるのか?」「違うみたい・・自由に街に出られるもん。「僕あちこち行ってきた」「食べ物は?」祖母が「日本人会がお世話してくれはりますのや、まだしゃべったらあきまへんで」「水野さんは?」と聞くとまだ北満に何万という人が餓死寸前で残されており、今度は日本人会の役員として救出に向かわれたという。

チチハルもソ連の占領下なのに日本人が自由なのがそれまでの経験から不思議に思えた。驚いたことにあの3両目の列車に私たちよりももっと北方の満州里からの脱出者が200人も乗っていたことだった。 

その日の事だった。近くに臥せていた女の人が「ヨシオ・・ヨシオ」子供の名前を呼んでいたがやがて息を殺すような静寂が続くうちすすり泣きが聞こえてきた。間もなくその人は頭から白い布を着せられて外へ担ぎ出された。もう一声もなくピクッとも動かなかった。

横に寝かされている満州里から避難してきた女の人が、その人が担ぎだされたとき「ウウウッ・・・」と首を閉めるような声で鳴きだした。見かねた祖母が言葉をかけた「お知り合いどすか、お気の毒な事ですな」「・・・・エエご近所のお医者さんの奥さんでね、子供が5人もおられたんです。満州里では8月7日には満人が暴れ出し、さらに役所や警察にはだれもおらず、何の情報も入らない上に主人や男の人は全部国境警備に出ていましたから放火や掠奪が始まると中心街にいた私達は恐くても逃げようにも逃げ場が無く、町を右往左往しました・・。どうにか着の身着のままで公会堂前に集まりました。ところが先に日本の軍隊が立てこもっていて戸を閉めて建物の中へ入れてくれないのです。・・・ひどいものでした。そうするうちに満人の掠奪攻撃が始まり、私たちが弾避けになり、子供を抱かえ込んだお母さんたちがバタバタと倒れられました。・・・・私もその場で弾が頭に当たり倒れました。あの方や私の子供はその時死んだのか行方不明です・・・。その後の事はよくわかりませんが、先ほど亡くなった奥さんにここへ連れてきて頂いたようで・・・しかしあの奥さんは重い病気になられたらしく・・・これからのことを思うと・・・」と話しながら泣き続けていた。

こんな騒ぎがこの日だけでも5人もあったがここに収容されたほとんどの人が似たような体験者ばかりで一人一人の悲しみがどんなに大きくとも、こうした不幸が次々と続くと「又か」と、恐ろしいことだが言葉をかけてあげられる雰囲気はだんだんなくなっていった。それよりも命がけで食物を盗みに行くことから解放され、安心して眠れる安堵感がこの部屋に満ちて「やれやれ今日は無事でいられる」という気持ちが皆にありありと見え始めていた。

時代の大変革時こそ、希望をもって生き抜く時

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満州にソ連の戦車が傾れこんできた時、現地に流された情報は「日本はもうなくなり、日本人は抹殺される」でした。それを裏付けるように無政府状態になった居留地を捨ててチチハルに着くまでの体験を書いている最中に湾岸戦争が起きました。

湾岸戦争のニュースを見ると私の戦争難民の体験とダブって考え込んでしまう・・・」今の難民を見ていると僕の経験したのとは全然違うな」「時代が変わったという感じ?」「うーん・・例えたら現在の難民は誰かに手をさし出してもらえる迷い子の飼い犬、・・・僕らは捕獲されると始末される野良犬ぐらいの違いがあったなぁ。・・あの体験は政治や指導者がまともでないと、エゴだけの飼主が子犬を捨てるように、国が国民を犬のように棄てることがあるという実験みたいなもんや・・今回の戦争でも国家の論理をエラソウに言う「政治屋」が日本にもいるけど、権力エゴの奴らは庶民を犬ぐらいにしか考えていないと、考えている方が確かと思うよ」・・・

ここで体験談を中断してこんなことを書いたのは、東西冷戦構造が崩れ、世界の新しい秩序が生まれようとして激しく変化している時代(社会主義政権の挫折⇒それを見たサダム・フセインのアラブの旗手たらんとする野望の南北対決戦争)・・そしてまるでゲームのように、毎日の戦況が刻々と全世界のテレビに写しだされる情報時代に、平和しか知らない若者や既成観念に縛られる我々が変わろうとしないことが本当に許されるだろうか。

「温室日本のガラスは割れる事はない」と平和ボケになっている自分、神国日本がひっくり帰った激しい時代変革の体験の原稿を書いている自分に出会い、ちょっと今まで書いてきた事を整理してみたくなったわけです。

京都の西陣で生まれ五歳で母を亡くし、弟妹と共に家政婦と女中に育てられ、父の仕事の関係で八歳の時祖母らとともに満州に移り新京(首都)・大連・ハルピンと当時の日本とは違う、洋風の都会で暮らした記憶があります。特にハルピンの松花江(川)のパリセーヌ河畔を模した美しい風景は今も懐かしく思い出します。私たち家族は主に白系ロシア人が作ったジャラントンという保養地の別荘に住まうことが多く、そこで終戦という時代の大変革の瞬間に出会うことになります。その屋敷は森のような防風林に囲まれて、随分広い屋敷の中に使用人の満人2、30人が幾つかの苦力小家に住み、私たちの家族の身の回りのことをしたり、農場で働いていました。学校の行き帰りや外出は馬車で満人に送り迎えをしてもらい、夏は野原で乗馬遊び、冬は屋敷の広場に水を撒いてもらい、スケートを楽しむという、およそ戦争とは全く無縁の毎日の生活だった記憶があります。当時の満州ではこれがごく普通の中産階級の日本人の生活ではなかったかと思います。

しかし20年の6月頃から父はソ満州国境近くのハイラル・満州里等に出掛けることが多くなり、とうとう8月には音信不通となりました。

そんな状態で8月7日に何の前触れもなくはるか向こうに見える国道を、戦車が昼夜を問わず「ゴーゴー」と音を立てて進撃していた。「日本の戦車が物凄くたくさん集結している」「この辺で大演習があると言う事だ」そんな噂話が広まった。しかし戦車が全部南に向かって進撃していることに気の付いた人があり「これは大変なことになった。あれはドイツを破ったスターリン戦車(当時世界を席巻した最新鋭)だよ。とにかく外に出ない方が良い」・・・・・その後何の情報のないまま夜になった。その後大人たちはいろいろ対策を立てていたのでしょうが、子供の私には事情がよく呑み込めなかった。ところが使用人の頭だったリンさんが朝方に屋敷に入ってきてポロポロ涙を流しながら「東村の大ジン(日本人の主人をこう呼ぶ)の家が焼き打ちされ、大ジンが満人に殺されたようです。大変なことになった。とにかく馬車や警護のクリー(満人)は用意したからすぐ此処を出て日本庁へ行ったほうがよい」更に「うちの大ジンには私がを連絡をとる。とにかく日本人はいずれ焼き打ちに会うような物騒な状態です」この日を境に私たちは今まで書き綴ってきた底の見えない奈落の底へ落とされていった。

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使用人頭だったリンさんが用意した馬車と警護に数人のクリーをつけて「すぐ此処を出て日本街に行った方が良い」という意見に従うことになった「うちの大ジン(父のこと)には私が連絡をとる。とにかく日本人はいつ焼き打ちに合うかわからない物騒な状態です」これを聞いた祖母が「リンお前が一番うちのことをお知りやから、言うときますけど、此処に残す財産は全部お前がええようにおしやす。ただ大ジンと連絡が取れたら子供は新京まで、あてが預かってますさかい、そう言うとくりゃす」・・・リンさんは目にいっぱい涙をためて「必ず伝えます。財産は帰ってこられるま迄、守っておきます」「あほな事いいなさんな。土地や財産も家畜も全部みんなあんたはんに上げます。誰かに取られんうちにちゃんとおしやす。屋敷は大きすぎてあんたらの手に負えしまへんから、人に取られる前に火をつけてお焼きやす」・・・そんなことは私の手でできません」リンんは豪商の娘だった祖母の度胸に煽られて涙も止まりタジタジしていた。。「そんならはっきりさしまひょ。今からあんたはもううちの使用人と違うのどす。主人どす。主人として好きなようにおしやす。そうどっしゃろ、あんたはうちのことで一番苦労をしてもらいました。こんな時は人のええばかりではあきまへんにゃで、ノレン分けどす、身分不相応な家は焼きはらいなはい。その代わりそれ以外の財産であんたの一族をお養いやす」・・・・またリンさんは声を出して泣き出した「クックックッ・・・東村の大ジンは此のことで使用人とケンカして殺されたのに・・・」「ヨソはヨソどす。わてはみんなを大事に思てますにや」リンさんは泣きながら祖母の手を両手でしっかり握り「シェシェ・・これからは大変です。お達しゃを祈っております」もう言葉にならなかった。

やがてリンさんは使用人を全部集めて事情を話しているうちに使用人がどんどん部屋の中に入ってきて「私たちが絶対守るから此処に残ってください。それがだめなら付いて行かせてくれ」と祖母にくってかかるものが何人もおり、これにはさすがの祖母も目を真っ赤にして「おおきに・・忘れしまへんで、あんたらの事は・・おおきに・・そやけど皆しっかりしとくりゃしゃ。世の中がひっくり返ったんどす。あんたらはんの出番でっせ、、残した財産で村の一つ位できましゃろう、こんな機会を逃したらあきまへん」と大騒動を祖母が静めた。

そんな中でリンさんはじめ身の回りのことをしてくれていたワンさん・ギョさん・ピョンさん等が私ら弟妹の体をまるでひきちぎるように引っ張りあい、「ガオー」「ワ−ン」「行かないで・」と泣叫んだ。この離れは母親のない私たちには実の母と別れる以上に悲しみとはかなさが心を揺さぶった。今も心の深くに疼くものが残っている。

しかしこんな大騒ぎをいつまでも続けられなかった。情報集めに行った者の話から「やはり状況は大変悪く、ほとんどの日本人が脱出している、みなさんも早く此処を脱出した方がいです」とリンさんが急がしている時に「詳しいことは言えないが父に頼まれて迎えに来た」という馬に乗った日本人らしい三人が安全な場所へ案内すると訪ねてきた。

「そんなはずはない?」とリンさんは祖母に「何かの間違いではないか。大ジンとは連絡は取れてない。十分気をつけるように」と警戒しながら出発の準備を整えてくれた。

暫くその三人が丁寧に祖母に何かを説明していた。「リン大丈夫や、大ジンからのお便りどす。心配いりまへん」やがて三人の先導で別れを惜しんで泣き叫ぶ数十人の使用人に見送られ、暗くなるのを待って住みなれた家を後にした。

その後は避難する日本人と合流したので警護のクリーを帰らせた後に、先に書いた捕虜収容所へ辿り付くまでの戦闘に巻き込まれることになった。

この時先導してくれた三人はやはり父に依頼されたは特務機関の人たちだったが今は父の居場所は分からないという。しかし同時に新京で父と劇的に出会う縁を作ってくれる事になる。

 

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前回まで、敗戦前の私の生活や、チチハルまでの戦争難民の経験を綴りましたがチチハルに落ち着くと行方の掴めない父の安否が日に日につのったが「広大な満州でこんな混乱した状況では再会できる見込みなどないなぁ」とほとんどの人が行方不明の身内を諦めていた。私たちは諦めなかった「新京へ移動するのが父と再会できる一番近道だろう」と考え、その手たてを探している最中に満州航空に勤めていた父の弟にあたる叔父と偶然出会い、再会と私たちには心強い家族の増えたことを喜んだ。

そして12月の初め、叔父さんの手配で貨物列車に潜り込み、無事に新京に移ることができた。しかし新京に着いた時、私たちは大変なことを見落として父と再会できる機会を無くしてしまった。 

新京の駅は首都だけに近代的な大きな駅でしたが駅の壁に父が何十枚もの尋ね人の張り紙をして毎日駅に私たちを探しに来ていたはずですが私たちは張り紙に全く気づかず満州航空の社宅へ向かってしまったのでした。この新京には日本に帰り着く直前の5月までいることになるのですがここでも再び経験することのない事件に出会うことになりました。

@ 中国の内戦(中共軍と蒋介石軍)の市街地上戦に3回巻き込まれる。

A       父・祖母・叔父の大人ばかりを一カ月の間に亡くし、子供三人だけで日本に帰ることになる。

B       四十度の熱が一カ月間続く病気で何の医療も受けずに生き延びるがその間記憶は全くない。

湾岸戦争はとうとう地上戦に入り、そのニュースを聞きながらこうした敗戦体験等を書いていると何か因縁のようなものを感じます。

湾岸戦争で悲惨な犠牲者の出る地上戦を男のブッシュが躊躇するのを英国の女性宰相のサッチャーにケツを叩かれて決意したことは戦争体験のあるブッシュと知らないサッチャーの心理の動きが現実の地上戦を見た私には手に取るように分かる。

最初の地上戦の遭遇は新京に着いて間もなく新京に初めて中共軍が攻め込んだ時だった。小高い丘にあった私たちの家の真前に、ある日突然、蒋介石軍の多数の重機関銃を据えた陣地ができた。夜半から散発的に銃声が聞こえ始め、石壁の厚い部屋に避難した。時間が経つにつれ銃声はだんだん大きくなり、やがて大砲が撃たれると地響きがしだした。陣地を外れた砲弾が家に直撃すると家が「グワーン」と響いてバラバラと壁や屋根が崩れる。(満州の家は石で丈夫に作られている)。玄関に迫撃砲らしいものが直撃したとき、私たちのいる部屋の壁が吹っ飛び、恐怖で大便も小便も思わず漏らした。あわてて逃げろと裏山へ走り木陰に身を伏せた。

恐々、木と木の間から重機関銃が据えられた陣地を見ると300人以上が銃身が熱で真っ赤になるぐらいの連続して打ち続け、向こう側の森の木が草を刈るようにザクザクに薙ぎ倒されていく。片や中共軍は此の陣地の奪回を狙い集中攻撃をかけているようで、銃弾を掻い潜り丘の上の陣地に向かって続々と攻め上がってくる隊形と銃声の響きはライオン何千頭が獲物を狙う雄叫びをしているようだった。重機関銃陣地への一斉射撃はさらに激しくなり、そのごう音は耳を劈き、双方の戦死者が類類と転がり、硝煙の臭いが一体を埋め尽くし、地上戦争のすごさが体中にガンガン伝わってきた。そして先ほど迄いた家の形がなくなったのに気がついた時、突然大砲らしい弾丸が陣地の真ん中に命中した。まるで人間が凧のように爆風に舞いあがり、肉片がザクロのようになって飛び散った。空爆ならそれで終わりだが地上戦では壊れた陣地に前より激しく弾丸が串刺しのように襲いかかってきた。そこには人間の魂は欠片もなく、限りなく殺人鬼が荒れ狂う様にばたばた青い服の兵隊が死んでいった。

陣形が崩れると中共軍が雲が湧くように丘を駆け上がって来て白兵戦となった。見る見る蒋介石軍が敗走しだした。私たちも「危ない」と山奥へ逃げ込んだが敗残兵が私たちのいるところまで紛れ込み、私たちを盾にする為生きた心地はなかった。敗残兵を見つけると中共軍は目の前で狙撃する。青い服の兵隊は5mはふっ飛んで死んだ。私は体ががたがた震えた。

18)

地上戦は新京全市に広がり銃声は遠くの方でも「ダダダ・ドーン・アダダ」と雷鳴のように響き、近くでもまた激しい市街戦が続いており、近所の人たちと裏山の洞窟に隠れ震えていた。少し静かになったとき、突然バタバタといくつもの靴音がして、誰かが洞窟に入ってきた。大声がして敗残兵を探していることは分かったが中国語で意味がわからない。突然洞穴の入り口で「バババーン」と目の前で何発も大きな銃声がして伏せている頭の上をビュビュと弾が擦り抜けた。思わず誰かが「日本人だ撃つな」と大声を出した。一瞬を置いて「テヲアゲテデテコイ」とたどたどしい日本語が聞こえて、懐中電灯の光がヌーと差し込んできた。子供を見ると中共軍の兵隊はほっとした顔になり、全員外へ連れ出した。大人は一人ずつ身体検査をされ身分証明書を調べられたがその中の下着だけの見知らぬ五人がいた。蒋介石軍の兵隊が軍服を脱ぎ捨てて紛れ込んだらしく後手に縛りあげられ連行されていった。

夜明けには釈放されて銃声も収まり、私が崩れた家の下から荷物を引っ張り出している間に叔父が別の家を手配してきたのでそこへ移ることになった。

安全を確かめながら移動する街の中はまだ硝煙の臭いが残り市街戦の跡が生々しく、何100という戦死者が大きな石ころのように道端にごろごろ転がっていた。とりわけ激戦地だったところでは手榴弾を投げ込まれた家は屋根が吹っ飛び、壁には人の頭の皮や毛や肉片が壁にへばりつき、そのうえ柱の下敷きになった負傷者がまだ「ウーンウーン」呻いており、はらわたが剥き出しになった瀕死の人の姿を目のあたりに見たときはまさに地獄絵でした。

その後も移った家は満州航空の一番街外れの社宅で内戦も続き治安も悪く窓に板を張りつける等して、自力で身の安全を守る状態が続きました。その年の12月24日の早朝のことでした。玄関の戸を激しく叩く音で皆が目を覚ましました。普通の叩き方ではないので、どこかの兵隊(当時新京ではソ連軍・蒋介石軍・中共軍が入り乱れて駐留)が家宅捜査と称して強盗まがいの掠奪が行われるのが日常でしたから、皆は息を殺して静まっていた。その間5分ほどだったが「ドンドン」と激しく戸をたたくのが随分長く感じられた。やがて諦めたのか静かになり「何とか助かったな、しばらく危ないから様子を見よう」と皆は地下室に隠れていました。

30分ほどしてから「もう大丈夫だろう」と地下室を出かけたとき、今度は先よりもっと激しく、大声をあげて戸をたたく者があった。あわてて叔父が「静かに」と皆を制した。ドンドンドンと叩く音がやがてガンガンという程、前より激しく戸を叩きはじめ声も大きくなった。5分も続いた頃、じっと聞き耳を立てていた叔父の顔が一瞬さっと血が引いたように顔が真っ青になると跳ね飛ばされるように玄関に向かって走っていった。

「お兄ちゃん何やろう」「大変なことがあるみたいや、皆服を着ろ」と言った時、大きな声で何か玄関でいい合っていたが閂のしてある玄関の戸を開けられる音がした。・・・叔父さんが走り込んできて「おいお父さんやぞ、お父さんが帰ってきひゃったぞ」「おふくろ、兄さん(父のこと)や兄さんが帰ってきたぜ」「何どす・ほんまど!すか」「ほんまに・兄さんが返ってきましたんや!」新京に来てからずっと寝込んでいた祖母がスクット起き上がったとき「やっぱりここやったか、ヨカッタ!奇跡や!随分探したぞ」いろんなことを言いながら中国服を着た人が部屋に入ってきた。じっとその人の顔を見ると今迄見た事のないヒゲだらけの真っ黒の顔をした父だった。「皆無事やったか」と言うなりとポトポトと大粒の雨のように涙がこぼれ落ち、私たちを両手で抱かえ込んで「おばちゃん、ありがとう・・ありがとう」後は言葉にならないで力一杯私達を抱き締めていた。「喜一郎(伯父の名)子供をよう見つけてくれた。苦労をかけたやろう」と叔父の手をしっかり握った。その時だった「利一(父の名)。子供をおまえに確かに渡しましたで、たしかに・・これであてはもう安心どす」祖母はキリッとした声で言うとその場に崩れるように倒れた。

(19)

前回書いた激しい市街戦が続く広い満州で、父との奇跡の再開を果たせたその朝に、それまでしっかりしていた祖母が父の顔を見たとたんに突然崩れるように倒れ意識がもうろうとしていた。「おばちゃん、どうしゃはりましたいや、私が分かりますか!おばあちゃん」父が何回も呼びかけたが祖母は答えなかった。じっと心配そうに祖母の顔を覗いていたが「やっと安心しはったやろう。しばらくこのまま寝かせておいてあげた方がいいわ」というと、祖母はかすかに頷き「ゆっくり休んどくりゃす」父はそうねぎらいながら布団をかけ直した。

父が帰ってきて直ぐの事で肩にはまだ水筒を掛けたまま、それほど祖母が倒れたのが突然だった。朝の貧しい食事を始めたころ父と今までの経緯を話し始めた。その中で父が私たちを見つけるきっかけは大変不思議なことがあったからだという。

父の話では「敗戦時ルピンに居た父は大勢の部下が手分けして主要な都市等を探してくれたが全く私たちの消息はわからない」。ところが餓死寸前の二人の子供を抱かえた女の人を助けて収容したとき、その人の口から「チチハルの近くで坂本という小学生五年の男の子が何十人もの日本人避難所を引率しているのを見た」という話を聞き、さらにその時の状況を詳しく聞いてみると、その男の子の様子が非常に私に似ており、家族のことを聞いていくうちその子は家族と新京へ向かったらしい」という。決断した父はすぐに満人を装って新京に移った。

新京では元役人なので官憲(日本・中国・ソ連)の目を逃れて夜か早朝しか動けないから、満人に化けて駅に貼紙をしたり、毎日心当たりを片っ端から訪ねて歩いた。ところが不思議なことにハルピンで助けてあげた女の人のご主人(陸軍将校の伊佐岡)という人に偶然に新京駅で知り合い「奥さんはハルピンで無事です。日本人会の手で日本に帰られますよ」と教えてあげたことから、伊佐岡さんが昼間、私達を探すのに協力してくれた。しかし残念なことにその伊佐岡さんがたった二日目に病気で亡くなり、その遺品の中に満州航空の名簿があり、名簿に伯父の名前を見つけ社宅の所在地を知った。

父はここに手がかりを求めて新京の何千とある社宅を北から一軒一軒歩いて探し始めた。しかし20日間を費やしても何の手がかりも掴めないままとうとうこの南の端まで来て「この家が探す計画の最後の住宅だったし、ここがだめなら諦めるつもりだった。一回目に戸を叩いて何の反応もなかったとき、本当に崖からつき落とされる思いだった」という。ところが再びこの家へ引き返したのは「絶望のあまりトボトボ歩いていた時、突然膝がガクンと折れ、思わず手を合わしたとき、子供の叫び声がこの家の中から聞こえた」と言う(どんな大声を出しても聞こえるはずがない距離だったが)。思わず走ってこの家に戻り、狂ったように父はその家の戸をたたき、大声で私たちの名を呼び続けて再開を果たせたという。

そんな話を不思議がって聞いていると、祖母が「利一(父の名)子供は皆元気やで・・」譫言(たわごと)のように何回も言っていたが、やがて声も呼吸さえも聞こえなくなった「医者を探してくる」と叔父が出ていった。二時間ぐらいして来てくれた医者は聴診器を当てながら首を傾け「この人の体はもうとうに亡くなってますよ。只、心臓だけは動いていますがね」と不思議がった。父が今日の事情を話すと頷きながら医者が「これは、このおばあちゃんが子や孫への深い愛情から気力だけで自分の寿命を何カ月も延ばされたとしか言いようがありません。わかりやすくいえば三月前に亡くなっているはずの体ですよ。よく今日まで持ち堪えられたものだ、医者では説明できません」というと思わず父が「おばちゃん、ここ迄よく頑張らはりましたな」と祖母に涙声で呼びかけた。祖母は一回大きな呼吸をした。真っ白になった顔に笑顔が浮かんでいたが涙が一筋二筋と流れた。やがてだんだん表情が静かになり、涙も止まった。それは静かな海原に日が沈み、少しずつ暗やみが覆い、真っ暗になっていく姿を思わせた。父と叔父が号泣した。私は頭の中が真っ白になっていった。12月25日のことでした。

20)

20年12月25日は孫の私たちを父に必ず渡すまではと鬼気迫る信念で燃え尽きたはずの命を三カ月も永らえた祖母の最期の日となった。しかし私の悲しみはすぐには表れてこなかった。祖母の死顔をじっと見ながらいろいろ思い起こしてみると、高齢の祖母があんな過酷な毎日の連続の中、ここまで生き続けてきたのがとても不思議だったし、このあまりにも急な死と言う現実がすぐには信じられなかった。

それでも祖母の死は事実であった。家族で鎮魂の夜を過ごし、穴が掘ってあるだけの墓地だったが遺体は毛布に包まれ家族だけで丁寧に埋葬された。そこでも私の心には悲しみが表れてこなかった。埋葬している時にもあの凄いましい母親の執念と愛情の深さで燃え尽きた寿命を引き伸ばして迄、子や孫のために生き続けてきた祖母を目のあたりに見てきた私には悲しみより説明のできない母親の偉大さと生命の不思議さをひしひしと感じた。

そして翌日、父が少し疲れているからと、床に伏せた。父のソ連憲兵の探索(捕虜の逃亡)に注意を払う必要もあって、家の回りや日常生活でも厳重に警戒した。例えば父の下着を外へ干さなかった。

父が三日目ぐらいから四十度の熱を出し意識ももうろうとしてきた。「疲れがどっと出てきたんだろう」叔父が朝になると心配そうに父の様子を見て毎日医者を探しに行ってくれた(そのころの新京では病院や医院はほとんど閉鎖され医者がおらず、自分で医者を探すしかなかった)。

そんな中たった一回だけ診察してもらったが当時、新京には薬もなく治療もできないまま発疹チフスと診断された。そんな状況で明けて昭和21年の正月を迎えたが唯その日が来たというだけだった。しかも元旦から非常に激しい中共軍の正月攻勢が始まり硝煙と銃声と爆音に囲まれたまま私たちは地下室にこもっていた。三日目、静かになったので外の様子を見るため叔父と私は玄関のドアをそっと開けた時、ぱったり中共軍の兵隊が玄関に立っているのと出会った。兵隊が穏やかだったが「・・・」と言ったので一瞬ひるんだが叔父が幾つかの会話を交わした後、兵隊が家の中に入ってきた。米を一袋と水を水筒に入れてから寝ている父ををわざわざ見に来て、叔父に何かを言うとお辞儀をして出ていった。

玄関の戸を閉めてから叔父が「中共軍は言われているような悪い軍隊と違う、さっき渡した米は必ず返しに来ると、その証拠としてこの証明書を置いていったし、しかも医者を連れてくると言ってくれた」やがて5分も経たない内に中共軍の軍医が駆けつけた。しかも注射をして薬を置いてから叔父に「お大事に」と言って帰っていった。「中共軍は統制のとれた軍隊やな」と叔父がつぶやいた。事情は分からなかったが中共軍の兵隊の民衆に非常に親切な態度から、私は直感としてやがて中共軍が中国全体を治める時が来るなと感じたことを覚えている。

しかしそうした善意も虚しく、父の昏睡状態が続きどんどん痩せていった。「お父さん帰ってきてから、長い事寝たはるね?」と妹がいうと「今迄苦労が多くてあまり寝たはらへんから取り返したはるにゃさかい。心配せんでもいい」叔父はそんなことで弟や妹を元気付けてくれた。

ところが寝込んで十日目ごろ、父が急に元気を取り戻し、布団の上に座り「皆元気やのに、お父さんが元気にならんとあかんな。喜一郎、すまんがお酒を一杯頂けへんか」やがて買ってきたお酒を美味しそうに飲むと「もう大丈夫や、お酒がうまいのは元気になった証拠や」「父は今迄気にかかっていたことをペラペラしゃべり続けた。「おばあちゃんに負けられへん」父の顔が私には何か非常に輝いて見えた。

その時の父の耀いた顔が私たちの見た最後の元気な顔だった。その夜からまたこんこんと眠り始めた。

1月10日の朝、目を覚ましたとき、私はいつものように父の布団をじっと見た。いつもながら呼吸の分だけかすかに動いているのが全く動いていない。又見続けた。弟もそれに気がつき「お父さんなあ、夜中にお兄ちゃん呼んだはったよ」と言った。あわてて起きあがって顔を見た。全く動く気配がなかった。

父の寝床ににじり寄り布団に手をかけたとき、布団のエリは真っ白に凍っていた。それは父の呼吸が止まっていることを意味していた。 

「お父さん・・お父さん・・お父さん」何時もより大きな声で呼びかけた。昨日の朝までは声をかけると必ず瞼に反応があった。さらに声をかけてじっと父の顔を見ていると父は微か口を開いて「明和・・あきかず・・」」と呼び掛けてきた。「どうかなったんか」というなり私は思わず父の両頬を両手で抱かえ込んだ。

しかしその頬は氷のように冷たく石のように硬く、私の体が凍りつくように冷たくなっていくのを感じた。叔父も「お兄さん・・兄さん・・」と父の手をとったがもう硬直して動かなかった、父は口を開くことは再び無かった。しかし父の再起の言葉として確かに「明和・・あきかず・・」と私の名前を呼んだと信じているがそばにいた弟や妹は父は何も言わなかったという。「そんなはずはない。確かに聞いた」と今も不思議に思える。21年1月10日祖母が亡くなってから僅か16日目の寒さの厳しい早朝のことで、父の行年はあまりにも若い三十八歳でした。

折角子供を探し出した一念も自分の命を削り尽くしてしまう結果となり、ここまでたどり着きながら「さぞかし無念」だったろうと「子供思いの父の無念さが」今も私の心をよぎる。

21)

あっけない父の死は既に母のいない私たち兄弟三人にとって「あっと」と言う間に子供だけで生きていく孤児という宿命を投げつけられた。

祖母の死んだ時とは違う感情だったがこのときも不思議に悲しみが心を覆わなかった。それよりも「とうとう崖淵まで来た。俺がこれから弟や妹を面倒みんとあかんにゃ。明日からどう生きていこうか」の思いが強く涙さえ出なかった。 

と言うのも頼りとしていた叔父がさらに高熱を出し床に伏せっていたからでもあった。

父とは再会してからほとんど話す間もなく病床に伏せてしまったので私たちを探し出す本当の苦労は詳しくは分からなかった。

只「お父さんはおまえたちをやっとの思いで見つけて、精も根も尽き果てたのだろうな」と叔父が言い、父が私達の顔を見たとき「ああ、この最後の家におまえたちがいなかったら本当に死のうかと思った。ほっとしたよ」としみじみ言った言葉が虚ろに思い出され、枯れ木が朽ち果てるような、父の最期の様子からみて、病が巣食う体に鞭打ちながら満州を這いずり廻って私たちを探すことで、父が命を縮めたと思うとその事の方が私の胸を締め付けた。

その後叔父は病状が進むにつれて「おまえたちをどうしてもう日本に連れて帰らないかんのに、わしは助からんようや。明和、大人がいなくとも必ず日本に帰っておばあちゃんやお父ちゃんのことを伝えてくれような」と言いながら最後の大人だった叔父が1月29日、父に続いて二十九歳でこの世を去った。やさしくあたたかい叔父さんだったが私たちの犠牲になったのではないかと今も心が痛む。

新たな子供だけの難民生活は明日という日が全くない。朝起きるとまず今日の食糧を求めるに出る。食べる物を得て「今日は生き延びたな」と実感するだけで「生と死のとなり合わせのサバイバル人生で、良い籤を引き続けたな」という記憶しかなく。日本人がイスラム世界が全く理解できないのと同じぐらい何が罪で何が罰になるのわからない状況を、小説ではないので具体的には書き辛い。

しかも以前と違って都会の中なので殺人・掠奪・強盗・ひったくり・恐喝の類で物を得ることが生きていく条件になり皆が被害者にも加害者にもなった。私たちは子供なのが幸いしてこうした生存戦争のすき間をどうにか掻い潜って食料を確保し、生きていたのは正直なところだった。あえて言えば私の狩猟民族的な性格が幸いしたのかもしれない。

その中でも死ななかったのが不思議に思えることはいくつもあった。ある日、弟が水を汲みに行ってなかなか帰ってこないので迎えに行ってみると、零下30度の井戸に滑り落ちて一度は死んでいたが奇跡的に生き返ったり、私が高熱を出したが前の日から何も食べていなかったので食料を探しに出て行き、行き倒れになり、父たちが残していた金の装飾品を全部強奪され、大怪我のまま夜の道に放り出されて凍死寸前のところを運よく弟が見つけてくれて命拾いをしたり、三度目の激しい市街戦の最中に妹が高熱を出す病気になり、一カ月間ほとんど物が食べられずに死を待つばかりという状況から生き残ったり、生と死の間をさまよい続ける半年でした。

三月の終わりにとうとう私も高熱のチフスで倒れ、約一カ月床に臥し、その間のことは全く記憶がないが弟達の看病でどうにか回復した頃、治安も落ち着き、日本に還れる見込みがたってきた。落ち着いてくるとやはり生き残ったなという実感と共に亡くなった肉親や人々のことが頭に重くのしかかった。

特に多くの他人のために、自分の子供のために進んで犠牲になった若い女性の姿は今も私の心を離れない。そのことをあまり書かなかったのは「その人の、その時の」心境はとても筆では書き尽くせないし、その人格・心情は今の日本では失われていて、軽く書いてしまってはその女性の崇高な行動を傷つけ申し訳ないと思い、どうしても書けなかった。しかし正義と自由のために子供を家に残してまで、長期になるかもしれない湾岸戦争に志願して現地に行った米国の若き母親の姿に人間の精神の輝きを感じ、すごく感動するのはこうした幼児体験からだろう。

今見失われている,戦争・親と子の絆の語り部に

22)

私はこの文の最初を、満州の港を離れるときの引き揚げ船の甲板での情景で書き出しました。それは私の今までの人生の中で一番辛く悲しく感じた瞬間だったからです。

夕日で真っ赤に染まる満州の地平線をぼんやり眺めながら岸を離れていく引き揚げ船の甲板に立った時、「もうこの目で両親を見ることは絶対ないのだろうな」「日本に帰って、本当にこの一年の悲惨さら抜け出られるだろうか」「これから子供だけでどうして生きていけばいいのだろう」そんな暗い思いが心を駆け巡り、ぽろと涙がこぼれてきた。

私たち弟妹だけでこの引き揚げ船に辿り着いたのは暑い7月になってからでした。5月には日本人会の手で作られた、少しはましな難民収容所に保護されて、順番の来るのを待って無蓋貨物車を何回も乗り換え一週間後の7月の初めに大連の港に着いた。その時、港に待機していた何隻かの引き揚げ船の日の丸を一年ぶりに見た時「日本だ・日本の船だ・今度は本当に助かったぞ」何処かしこからも大歓声が上がって、大人たちは小躍りした。しかし私には日本の事情がよくわからないし、日本に待っている人もいないのであまり感激はなかった。

幾日か待機して、私たちは巨済丸という750tの小さな掃海艇にやっと乗船できた。大人たちは日本に帰れる確かな確信ができたのでしょう、皆が興奮気味だった。しかし翌日の夕方いよいよ出港する間際になると全員が甲板に上り、暮れ始めた大陸の岸を船が離れていく中、・・・う〜み〜ゆ〜かば〜・・・船のスピーカーから鎮魂歌の流れ始めると甲板にあふれた人たちの重く暗い沈黙が、やがて悲しい啜り泣きと鳴咽になった。荒野に曝(さら)したまま放置してきた親の屍が・・・、住み慣れた家を・・・。一人ひとりの胸に迫るのは未だ日本の誰もが経験したことのない祖国の敗戦によって愛する多くのものを失った無念の慟哭(どうこく)が、甲板一杯を覆った。

その後一路日本に向かい荒れ狂う南支那海では七転八倒の船酔いに数日間襲われながらやっとの思いで博多に上陸しました。しかし私たちの体は骨と皮だけの状態で、その年の暮れまで病院で療養生活を余儀なくされ、体が回復するのを待って京都に帰り、戦後の生活を送ることになりますが、実の子供を育てることですら大変な時代に、親戚や他人さまの善意の力をお借りして成長していきました。私の人生で本当に苦しかったのはその後のことで、そうした体験を通して(戦争や親と子の絆)について書き続ける要請を受けておりますが昨今見失われつつある事柄であり、その語り部として書きたいと思いますが少し休養と整理の時間をいただけることをお願いしております。

今回、私が書くことになったのは本クラブの今期のPR情報委員長のL川勝から例会誌が単に記録誌にとどまらず、家庭にあって少しでも読んでいただけるものにしたいので協力してほしいという要請があり、例会誌に一人称の歴史を自分で書くことに抵抗もあり、固辞しましたが再三の要請と若い人たちの何とか例会誌を前進させたいという意欲に心を打たれ協力させていただきましたが成果のほどは分かりません。

只多くの方から有難い激励や感想をいただき、挫折しそうになったときに大変勇気が沸き、どうにか一年続けることができました。ありがとうございました。例会誌の発展にひとつでも寄与できたら幸いです。ただこうした書き物は事実史ですので小説のように、あるいはエッセーのように筋書き構成を作ったり、情感の趣くままに表現したりできません。それが一番苦しく、読んで頂いた方には退屈であっただろうと思いますがその点、文章のまずさとともにお詫びを申し上げます。 

最後に私にとって失いかけた幼児期の貴重な体験の記憶を呼び起こし、この時点での人生観の整理整頓がこの文章を書きながら随分できました。これも京洛LCの皆様が大きな心で大切な例会誌に私の拙文を記載をお許しいただいたことによるものでございます。この一年本当にありがとうございました。