●この時代、最高級の完成度を誇るアクションゲーム 1987年に、ナムコの最新基板“システムI”の第一弾として発売されたのが、この『妖怪道中記』だ。この新基板は、それまでのゲームとは比べ物にならないほどのグラフィックの色数と自在なスプライト機能、高性能のサウンドを可能にした。本作では、その性能がいかんなく発揮されている。そのうえで、ナムコ伝統の力であるキャラクター作り、ゲームとしてのち密さなどがひとつに融合したのがこの作品である。 いまプレイしても操作に違和感を覚えることはなく、グラフィックも時代遅れにならないのは、その完成度の高さによるところが大きい。主人公の操作には慣性がつくものの、それは意図されたもの。数年前に発売された『ドラゴンバスター』(1985)とは比較にならないスムーズな動きができる。 また気合いを溜めて攻撃する基本システムは骨格がしっかりしており、気合いを溜めたまま歩くなどの発展系テクニックが使えるようになっている。重大な問題点もあるのだが、横視点のジャンプアクションとしては最高の完成度といえるだろう。
●ナムコならではのコミカルなアイデアが満載 “たろすけ”のキャラクター造形は秀逸である。鬼太郎を思わせる外観ながら、キャラクター的には永井豪のH系キャラが少し入ったようなところが斬新。気合い溜めによって表情も変化し、数少ない人型キャラクターとしてしっかりとメインを張っている。この造形の巧さはまさにナムコ伝統の力だ。ちなみにこの“たろすけ”のキャラは開発者がモデルになったと言われる。実際NGかなにかで(記憶が曖昧)写真を見たのだが、笑えるくらい(失礼)良く似ていた。開発者をモデルにする例は『メトロクロス』にも見られるが、案外ゲーム業界では多いようだ。 アイテムも種類が豊富で、生きたオプションである猫や犬など、魅力的なお助けキャラも存在する。オプションといえばグラディウスというイメージがあったが、なんとこいつらはまさに生物である。素晴らしい斬新さだ。動きのパターンもよくできていて愛らしい。見ていると苦行の道にもどこか“なごみ”を感じさせる。しかし早く進まないと地獄火が出てしまうので、よほどふところと心に余裕のあるプレイヤー以外には見向きもされなかったのだが……。 また、竜宮城で踊っているときに百円玉を投入すると、「ヒューヒュー」というはやし立てる音が鳴るのも驚きだった(おひねり?)。こういう細かいところに気が使われているのも名作の条件である。条件によってクレジット音が変化するのは、多分アーケード史上類を見ないアイデアであろう。これを見つけたときは興奮して、大発見!! と知人に触れ回ったが、思ったほど関心を示してもらえなかったのは心外であった(笑)。
|
|
●果たしてパターン化しやすいのか? 独特の敵出現設定を検証する 『妖怪道中記』では、一見するとすべて同じパターンで敵が出現しているように見える。かって『忍者君魔城の冒険』を作った藤沢氏はそこが物足りず、「あの基板を使えばもっと面白いゲームができるのに」と口にしていたことを覚えている。確かにこの時代まではパターン重視のジャンプアクションゲームが多く、『バブルボブル』の開発者の三辻氏もそのアンチテーゼとして『サイバリオン』を開発したことは知られている。(しかしこれ以降、アクションの主流は斜め視点平面フィールドの格闘アクションに移っていくのだが、それはまた別の機会に) だが、実は本作はかなりパターン化しにくい要素を含んでいる。わかりにくいが、敵の出現はマップに表示されているものと、時間で出現するものがありそれが混ざっている。押し出し霊などは時間で出現することが多く、それがどこの場所で出現するかによって難度が微妙に変わる。感じとしては、地上物は固定だが、空中物が独自の順番で回っていく『ゼビウス』とに近い発想となっているのである。 完璧に同じようにプレイすればいいのだが、なかなかそう簡単にはいかないものだ。だが、慣れてくると空中物の順番やタイミングがわかるので、注意深ければ上達していく感覚がそこで感じられる。 また、これはプレイしないとわからないのだが、転がってくる石やカラスなどの、固定モンスターの発生タイミングにはランダムが含まれている。同じように進んでも、石の転がってくるタイミングは毎回微妙に違うのである。これは意図してタイミングをずらすプログラムがわざわざ組まれたと思われ、単純なパターンゲームにならないように工夫が凝らされているのだ。後述する地獄火という大問題はあるが、何度遊んでも意外に飽きないのは、このようなところが影響している。
●時代が要請した地獄火によるプレイ時間短縮システム これだけの魅力と完成度を誇りながら、この作品は歴代のナムコの名作と比べて一般にヒットしたとは言い難い。それはなんといっても、強制的にプレイを終わらせようとする地獄火システムの存在が最大の要因となっている。 地獄火はゲームスタート後、一定時間で出現する。この地獄火に当たると一撃でライフが0になってしまうのである。なおかつ耐久力が高いので倒すのは困難。最終的には画面上に何匹も同時に出てきてしまうので、どれほどがんばっても15分程度しか遊ぶことができない。全体的に敵が難しくなるならいざ知らず、いきなり時間で強敵が出現する地獄火のシステムは、プレイヤーに「一定時間しか遊ばせてやらないよ」という意図が見え見えであった。プレイヤーの間ではプレイ時間以上に、その点にとても大きな違和感があったのだ。スコア、というものが存在しなかったこともそれに拍車をかけた。マニアに「おまえらは相手にしてないんだよ」と主張しているかに思えたのである。どちらにしてもエンディングのあるゲームなのだし、もう少し巧い調整法があったのではないだろうか。 「うまければいくらでも長く遊べる」というブロック崩し以来のアーケードゲ−ムの法則は、ここで完全に否定された。ちなみに驚くべきことだが、本作発売後、さらに難度を上げたバージョンがPC巣鴨でロケテストしていたことがある。このとき当時のマニアは興味を引かれながらも「あれを世に出さないために、みんなプレイしちゃ駄目だよ」というように身内に触れ回っていた。それも当然のことであろう。 しかし、この時期から1人プレイのアクションゲームは激減していく。アーケードがより収益性の高いゲームシステムを追い求めていくうえで、1人用アクションゲームの淘汰は必然であったかもしれない。だが、最終ユーザーを満足させつつも、収益性を改善できなかったのはなぜなのか。やはりどこか工夫の余地が存在していたのでは、と思わずにはいられない。
|