ラッキー幸治の歴史
〜師匠のこと、修行時代の話から現在に至るまでのエピソード〜
師匠のこと 私は6歳で、太神楽曲芸師の豊来家宝楽(ほうらいや ほうらく)に入門しました。 宝楽師匠の一番弟子で、入門後すぐに豊来家幸治として、アシスタントデビューしました。 その前にも、違う師匠の所に少し居たのですが、 その頃かなりの悪がきだったので、面倒が見きれないという事で、追い返されました。 前の師匠の所で、バチ3本は取れる様になっていました。 私の両親は夫婦漫才をしていたのですが、 その漫才の間で「幸ちゃん出ておいで」と呼ばれて、バチ3本を披露した事もあります。 しかし宝楽師匠に入門すると、クセがあるという事で、一本からやり直しさせられました。 その時は何で出来るのに、また一から練習させられるのだろうと思いました。 でも今では、宝楽師匠の元で修行出来た事を、本当に感謝しています。 前の師匠の所に居たら、今の自分は無かったと思います。 宝楽師匠は、タイマツの曲芸の第一人者でした。 戦前から海外へ行き、外国の新聞等でも取り上げられ、絶賛された様な人でした。 今でも師匠以上の、投げ物の曲芸を見た事が無いです。 すごく大胆かつ華麗にやるのに、ミスをした所は1、2回しか見た事が無かったです。 普通は失敗しない様、無難にやろうとすると、芸は小さくなってしまうものです。 その失敗した時というのも、夜に酒に酔っていて、急に仕事が入った時のみでした。 しかも師匠が練習している所を、見た事がありませんでした。 師匠は6本まで出来ましたが、舞台では4本までしか、やる必要が無いと言いました。 師匠もステージでは、4本までしか行いませんでした。 私も練習嫌いだったので、4本までしか練習しませんでしたが、 今はクラブなどで、5本を投げる人がたくさんおり、私も練習しておけば良かったと思っています。 獅子舞をやっても、師匠には日本舞踊の基礎があった為、 すごく貫禄があり、迫力があって、カッコ良かったです。 修行時代 内弟子時代は毎朝6時に起きて、掃除と練習をしてから学校に行きました。 学校から帰ってきてからも、仕事が無い時はすぐに練習でした。 冬でも外で、裸足で稽古しました。 学業より仕事優先で、学校を休みがちだったので、授業には全然ついていけませんでした。 中学は制服だったのですが、買ってもらえず、3年間私だけ私服で登校しました。 卒業式には、どうしても制服を着てもらわないと困ると先生に言われて、 やっと卒業式の為に、制服を買ってもらう事ができました。 嬉しくて、卒業してからも、しばらく制服を着たぐらいです。 髪型も、みんなは坊主頭でしたが、私だけずっと長髪にしていました。 練習嫌いだったので、学校からわざと遅く帰って、よく怒られました。 師匠は厳しく、自分も悪かったのでよく殴られましたが、 その反面、一番かわいがってもらいました。 一通りの曲芸の他に、お囃子や日本舞踊なども習いに行っていました。 そして笛を習いに行った宝家楽三郎師匠の家で、 息子の利二郎さんが、土瓶の練習をやっているのを目撃しました。 その時、土瓶の曲芸が一番上手なのは、 鏡味小鉄さんか、海老一染之助さんだと言われていたのですが、 そこで見た土瓶の芸はそれ以上で、ものすごくショックをうけました。 私は何かにとりつかれた様に、さっき見た土瓶が、頭から離れなくなりました。 家に帰ると、神棚に獅子頭と一緒に、土瓶が飾ってあるのを見つけました。 師匠にその土瓶をもらい、くるった様に練習を始めました。 それまで練習は嫌いで、あまり熱心では無かったのですが、 土瓶だけは、自分でやろうと思った芸だったので、熱心に練習ができました。 普通、手を使って行う部分を、手を使わずに行ったり、 人に、「つるの部分が立ったらすごいね」と言われた事がきっかけで、 「つる立て」もマスターし、曲芸師として自信がつきました。 宝家利二郎さんに感謝しています。 米軍キャンプ 師匠は太神楽の曲芸師でしたが、私は西洋スタイルでのショーに憧れていました。 師匠の奥さんが、アクロバット師(三浦奈美子)だったので、師匠に相談をして、 曲芸が一人前になったら、アクロバットを習っても良いという、許可をもらいました。 アクロバットは、雑技団仕込みの修行方法でした。 女の子の弟子は、30分間の倒立、 その後すぐに、倒立をしたまま100回けんすいをするという凄さでしたが、 私は倒立が10分間で精一杯でした。 それでもかなりきつかったです。 そして弟弟子と二人で、曲芸とアクロバットのショーを行う様になりました。 終戦後の昭和20年代から30年代前半は、米軍キャンプ廻りの仕事がほとんどでした。 キャンディーボーイズさんをはじめ、太神楽の曲芸師のほとんどが、 ジャグラーとして、洋服を着て洋風のショーをやっていました。 でも私達の様に、曲芸とアクロバットを一緒に行うチームは無く、 しかも子どもだったので、大人気になりました。 米軍キャンプの仕事では、当時一般の人が食べられなかった、チョコレートやアイスクリームなど、 おいしい物をたくさん食べられた事が、印象に残っています。 日本は食料難だったので、みんなバイキングで食べきれないほどの量をお皿に取り、 持って帰っていました。 米軍キャンプの仕事で、北海道から九州まで廻りました。 出演者は多かったにしても、 移動の電車の車両は、常に出演者の貸し切りでした。 他の車両は、寿司詰め状態だったので、羨ましそうに見られたりしました。 キャンプの米兵さんは、家族と離ればなれになっているからか、 子どものショーをとても喜んでくれて、特に女の子の歌手は大人気でした。 女の子の歌手と一緒の時は、いつもアンコールが続いて、なかなか帰れませんでした。 雪村いずみさんとは事務所が一緒だったので、よく仕事で一緒になり、 移動のバスの中で、遊びを教えてもらったりしました。 師匠からの独立 20歳の頃、アメリカ公演のオーデションがあり、 100組ぐらいの色々なジャンルの中から、合格しました。 でも太神楽師の修行は、20歳で終了なのに、 ここでアメリカに行くと、師匠の元から独立する機会を失ってしまうと思い、悩みました。 その結果、アメリカ公演を断念して、兄弟弟子と3人で、独立して大阪に行く事にしました。 その頃私の父が、東京から大阪に、移り住んでいたからです。 両親のこと 私の実の母は、小さい頃に病気でなくしました。 父は義理の母(内海桂子)と再婚し、夫婦漫才をやっていました。 義理の母は働き者で、私が6歳で内弟子に入るまで、 仕事が無く、麻雀ばかりしていた父の代わりに働き、家計を賄ってくれました。 私達兄妹の事も、とてもかわいがってくれて、感謝しています。 当時は終戦直後だったので、漫才師は暇でしたが、曲芸師は忙しく、 しかもどこの国に行っても出来るからと言う理由で、父は私を曲芸師に弟子入りさせたらしいです。 私の修行が終わる頃には、父と義理の母は離婚していました。 義理の母は、新たに内海桂子・好江として漫才を始めていました。 義理の母に、大阪へ行く事を相談すると、 なぜ東京で十分やっていけるのに、大阪に行くのかと言われました・・・ ラッキートリオ 大阪に出て来る前年の昭和36年、名古屋の金山体育館での仕事で、 当時大阪で大人気だった太平トリオさんと一緒になり、大阪に来る事を相談しました。 太平トリオの個人マネージャーだった、山口廣子社長を紹介して頂き、 大阪では、その方にお世話になる事になりました。 そして昭和37年、兄弟弟子3人で大阪に出て来ました。 当時大阪の演芸場は、松竹角座・吉本・千日劇場の3つで、父は吉本に入ってほしかった様でした。 しかし吉本では、個人マネージャーはいらないと言われて、千日劇場の専属になりました。 桂米朝師匠や、桂ざこばさん(当時は朝丸)などが出演していました。 兄弟弟子3人でラッキートリオを結成し、アクロバットをメインにしたショーを行いました。 私は土瓶の曲芸が最も得意な芸なのですが、洋風の芸で統一したいと思い 構成から土瓶を抜くと、仕事の依頼者から、土瓶だけは絶対やってほしいと言われ続けました。 そのおかげで、太神楽の曲芸で唯一、土瓶だけは現在までやり続けています。 仕事は劇場二回公演の後、キャバレー3ステージなどが毎日ありました。 この頃は、特にキャバレーでの仕事が多かったです。 キャバレーのショーでは、キャバレー専属バンドの生演奏で、ショーをやっていました。 テレビの演芸番組も盛んで、週に一度は出演していました。 各演芸場は一年毎の契約制で、当時は契約金もありました。 契約更新の時期になると、千日劇場の方からは、契約の話はしないものの、麻雀に誘われました。 角座にも声をかけて頂いたのですが、角座には舞台に所作が敷いてあり、 私達のショーでは、靴を履かないと様にならないので、出演できないと断わっていました。 すると、ラッキーさんがうちに来てくれるのなら、 所作を外しますので、ぜひ来て下さいとまで言って下さいました。 ほとんど無一文で大阪に出てきたのに、3年で喫茶店付きの家を購入する事が出できました。 マネージャーには、忙しい時ほど勉強しなさいと言われて、 サーカスやクラブ、キャバレーのジャグラーショーをよく観に行きました。 キャバレーやクラブには、外人ショーもたくさん入っていました。 中でも評判がいいジャグラーがいて、ミナミのクラブに出演するので、3人で観に行きました。 奥さんがすごいスピードで取っているクラブ3本を、奥さんを飛び越えて奪う。 くわえばちでボールを操る。一輪車に乗り、片手でリング3枚、もう一方の手で二段のスピニングボール、 くわえた棒の先と、おでこでバランスを取った棒の先に、回したボールを乗せてバランス、 片足でリングを回し、もう一方の足で一輪車を操作するというものすごい技。 そしてトリネタは、剣立てでした。 何よりも、体全部を使って行う、一輪車の芸に驚きました。 私達3人とも、天狗になっていた鼻をへし折られました・・・ モンテゴスというドイツ人ジャグラーで、世界でも3本の指に入る人でした。 元ダンサーだったので、身のこなしもすごく華麗でした。 クラブの投げ方を観ると、奥さんも相当うまいのに、 奥さんにやらせるとレベルが落ちるから、やらせないと言っていました。 音楽や照明の効果も凄かったです。 このショーを観て、スピニングボール、ローラーボーラー、剣立てを練習しました。 当時、モンテゴスのショーの演出や音楽を取り入れた、日本人ジャグラーがいました。 海老一染之助さんのお弟子さんの、小金井ブラザーズです。 彼らと一緒の現場になった時、芸では圧倒的にラッキートリオの方が上でした。 でも演出や音楽の盛り上げ方は、はるかに相手の方が上だったので、 お客様からの受け方は同じぐらいでしたが、負けたと思いました。 彼らは東京で活動していたので、お互い東京と大阪でがんばって、 ジャグラーをメジャーにしようと誓い合いましたが、のちに相手は解散して辞めてしまいました。 モンテゴスのショーを観て、ダンスの必要性を感じたのですが、忙しくて習いに行けないので、 演芸場にダンスの先生を呼び、振り付けをしてもらったりもしました。 忙しすぎて、事務所に文句を言うぐらい忙しかったのですが、 メンバーの中で色々あり、ラッキートリオを解散しました。 ラッキートリオ解散後 千日劇場が無くなった後は、梅田トップホットシアター、なんば花月、松竹角座などに出演し、 他の曲芸師と組んだり、弟子と組んで、アクロバットメインのショーをやっていました。 この頃まだ、落語家の桂ざこばさんが無名の時で、うちに居候したりしていました。 私の弟子には失踪癖があり、急きょざこばさんにお願いして、ショーを手伝ってもらった事もあります。 この時の縁で、今も独演会などに呼んでもらっています。 この失踪癖のある弟子ですが、曲芸の才能は天才的でした。 体は大きいのに柔軟性があって、ブリッジも軽々だし、前転、バク転も楽々。 アクロバットが出来て、私を片手で軽々と持ち上げられるぐらい力持ち。 曲芸も土瓶以外は全てマスターし、 剣くぐり(丸い輪に剣を8本刺し、その中をくぐる)も出来る様になった、すごい奴でした。 私が知る限り、最高の曲芸師になりました。 私は何も出来ない振りをしてぼけ役になり、前半この弟子に、ほとんどの芸をやらせて、 後半逆転するという、コミカルなショーも作りました。 角座での反応は、いまいちでしたが、 角座でのショーを見た、東京のテレビ局のディレクターが、東京に呼んでくれました。 全国ネットのテレビで、誰がやっても受けないと言われた後楽園ホールで、 大うけするショーが出来ました。 しかしこの弟子も辞めてしまい、初めて1人でショーをやる事になりました。 今まで道具の準備などすべて弟子まかせで、自分でやった事が無かったので、 出番前は忘れ物が無いか、不安で何度も確認しました。 昔は米軍キャンプ、それが無くなって来た頃にはキャバレーと、変わる仕事場がありましたが、 キャバレーも減って仕事の場が減り、相棒や弟子がこの仕事を辞めて行きました。 妻と組んでショーをやった時期もありました。 やっと形が出来て、仕事が順調に入り出した時に娘が出来て、又1人でやる様になりました。 その後色々あり、東京から出てきた時からお世話になっていた、広栄企画を円満にやめました。 今でもこの社長には大変お世話になっています。 現在 そして和光プロダクションに所属しました。マジシャンが多い事務所で、 1人のショーでは寂しいという事から、女性マジシャンのタキ松美さんと組むことになりました。 事務所が命名してくれた、ジャグラージックショーとして、 ジャグラーとアクロバット、マジックを融合させたショーをやっていました。 しかし結婚で引退され、又一人になって、その後娘が一緒にやる様になりました。 娘と色々話し合い、土瓶の芸は太神楽の芸なので、着物でやった方がいいのでは?という事から、 洋風な気こなしながら、弟子時代以来久しぶりに、着物を着る事になりました。 土瓶だけ着物を着るのはおかしいので、娘も傘回しや出刃皿など太神楽の芸を行い、 前半は和風、後半は洋服というスタイルのショーにしました。 昔キャバレーのショーは生演奏だったので、 肝心な所でシンバル音やドラムロールを入れてもらって、すごくショーが盛り上がったのを思い出し、 その雰囲気を少しでも再現出来ればと、キーボードを使った効果音を取り入れました。 使わない道具は、お客様に見せるべきでは無いと考え、妻にアシスタントをやってもらい、 その都度、袖から道具を持って来てもらう様にしました。 これで演者が道具の出し入れをせずに済み、間が空かずスムーズにショーが運ぶ様になりました。 今までショーの中でしゃべる事は苦手で、あまり好きではなかったのですが、 最近は話す事で親しみを感じてもらえるのか、 しゃべらない時より、話す時の方が受けが良くなる様に感じます。 これからは、構成、演出、音楽や遊びの部分を意識し、全体的にオシャレで、ずっと繋がっていく、 ストーリー性のある楽しいショーが出来ればと思っています。 現在、和光プロダクションからも円満に独立して、フリーで活動をはじめました。 どこの事務所にも属さないのは、今回が初めてです。 今まで以上にがんばらなければと張り切っています。 今まで色々な人とチームを組んで、その都度最高のショーを目指してやってきましたが、 現在はファミリーでショーが出来るので幸せです。
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