新世紀エヴァンゲリオン
〜私の帰る場所〜



 ビシュー
 EVA零号機の放った『ロンギヌスの槍』に貫かれて、第15使徒は呆気ない程簡単に消滅した。
 ミサトはそれを確認し、一瞬ホッとした表情を見せたが、直ぐに顔を引き締め指示を出した。
「作戦終了。EVA零号機及び弐号機は撤収準備を始めて。シンジ君もこっちに戻って来て良いわよ」
「了解]
「分かりました」
 レイとシンジからは答えが返って来たが、アスカからは何の返答も無かった。
 ミサトが、弐号機エントリープラグ内のマイクスイッチを入れると、スピーカーからはアスカの呟き声が聞こえて来た。
「いや・・・、覗かないで・・・、入ってこないで・・・、私の心の中・・・、みんな嫌い・・・」
 その弱々しい声を聞いて、ミサトの心が痛んだ。
『もっと早く手を打っていれば・・・』
 ギリギリと鳴るほど奥歯を噛み締めながら、ミサトが激しく後悔したその時、スピーカーから聞こえて来る声に異変が起こった。
「いや・・・、みんな嫌い・・・、嫌い・・、嫌い、嫌い」
 同じことを呟くアスカの声が、段々大きくなってきた。
「アスカどうしたの!ね、返事して!」
 不安になったミサトがそう尋ねる間にも、アスカの声はどんどん大きくなっていった。 猛烈に嫌な予感がミサトを襲った。
「直ぐにエントリープラグを排出して!早く!」
 ミサトが、伊吹マヤに向かってその命令を出した瞬間
「みんな大嫌い!」
 絶叫に変わったアスカの声が、司令室内に響渡った。
 そして、その声を合図とばかりに、EVA弐号機にも異変が起こった。
「弐号機、再機動!」
 マヤが思わず叫んだ。
 既に拘束具を着けられ、完全に沈黙していた弐号機が、4つの目を真っ赤に輝かせ動き始めた。
「そ、そんなバカな・・・」
 モニター内で展開されているその出来事を見て、ミサトは絶句した。
 拘束具を引きちぎって、雄叫びを上げる弐号機の姿は、かつて暴走した時の初号機を彷彿とさせた。
「レイ、弐号機を止めろ」
 呆然としているミサトに代わって、ゲンドウが命じた。
「ハイ」
 レイは、短くそう答えると、アンビリカルケーブルをつながれた零号機を操り、暴れる弐号機を後ろから羽交い締めにした。
 しかし、その状態は長くは続かなかった。
弐号機は、力任せに零号機を引きはがし、床に叩きつけてしまった。
「そんな・・。EVAの能力は、3体ともほぼ同等のはず・・・、こんな力の差がでるなんて」
 リツコが、驚きを隠せないといった様子で呟いた。
 零号機は、何度も果敢に弐号機を押さえようとしたが、結果は同じことだった。
 そんな状況の中、シンジが司令室に到着した。
「これは一体・・・」
 その光景を見て、シンジは言葉を失った。しかし、直ぐにマイクに向かって話し始めた。
「アスカ、一体どうしたんだよ。こんなの、こんなのアスカらしくないよ!」
 シンジがそう叫ぶと同時に、突如弐号機はその動きを止めた。
 停止した弐号機を見ても、ミサトの悪い予感は、一向に収まらなかった。
「す、直ぐにプラグを排出、ハッチを開け・・・」
「待ちなさい!」
 慌てて指示を出すミサトの声は、途中でリツコの声に遮られた。
「落ち着きなさい、ミサト」
 そう諭しながらも、リツコにはミサトの気持ちが、よく分かった。
『ミサト、あなたもアレを恐れているのね』
「プラグ内の映像を、モニターに映して」
 リツコが、マヤに向かって指示を出した。
 マヤのキー操作に合わせて、モニターにはプラグ内の様子が映し出された。
 ミサトの嫌な予感は的中した・・・。
「な、何なんですか、これは・・・」
 その光景を初めて目にするシンジは言葉を失い、2度目となるミサト達は、全員その場で凍りついた。
 モニターには、プラグ内に満たされたLCLの中に浮かぶ、真紅のプラグスーツだけが映し出されていた。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「アスカ・・・、アスカ・・」
 何処からか私を呼ぶ声が聞こえる。
最初は、面倒臭いから無視した。でも、呼ぶ声が段々と大きくなってきて、私はどんどん不機嫌になってきた。
「うるさーい。みんな嫌いよ!」
 気が付くと、私は大声で叫んでいた。
 目を開くと、青い髪で色白の女の子が、驚きの表情でこちらを見ていた。
『あれ?この子誰だっけ?』
 どうやら眠っていたようで、記憶が混乱している。
『ああっそうだ・・・』
 ゴン 
 全てを思い出した瞬間、私の後頭部に、鈍痛が走った。
「いっっったあー」
 頭を押さえながら、恐る恐る振り向くと、そこには、怖い顔をした一人の女性が拳を握り締めて立っていた。
 このクラスの担任で国語教師の『葛城美里』先生だ。
 「惣・流・明・日・香・さ〜ん。ここは何処、今は何の時間、そしてあなたは何してたの?」
一字一字切りながら、彼女が質問してきた。顔は笑っているが、目は笑っていなかった。
『あっちゃー、まずい』
 そうは思ったが、最早言い逃れできる状況ではなかった。
 覚悟を決めて、私はキッパリと言った。
「ここは教室で、今は国語の授業中、そして私は寝てました!」
「よろしい!よくできました」
 間髪入れずに帰ってきた美里の返事を聞いて、私は一瞬、『許してもらえる』と思ったが、それは甘かった。
「廊下に立ってなさい」
 あっさりと言い放った美里が、鬼に見えた。
「信じらんな〜い。今時廊下に立たせるなんて、一体美里は何考えてるのよ!」
 お弁当を頬張りながら、私は叫んだ。
「でも悪いのは明日香でしょ」
 サラリと言った麗の一言に、私は何も言い返せなかった。
 午前中の授業を終えた私は、幼なじみの『綾波 麗』といっしょに、屋上で昼食をとっていた。
 麗とは幼稚園からの同級生で、中学2年になった今年まで全て同じクラスという腐れ縁である。
 私と違っておとなしく目立たない性格だが、私にだけはずけずけと何でも言ってくる。今の一言が良い例だ。
「大体寝るだけならともかく大声で寝言を言うなんて、そっちの方が信じられないわ。一体どんな夢みてたの?」
 続けざまに言われてさすがに私も頭にきた。
「どうだっていいでしょ!夢の内容なんて覚えてないわよ!ただ、声が・・・」
「え、声ってなに?」
 すごい剣幕で怒っていた私が急に静かになったので、麗が不思議そうに尋ねてきた。
 「う、ううん何でもないの」
 私は慌てて取り繕った。自分でもよく覚えてないが、夢の中で誰かの声を聞いた様な気がした。それが妙に心に引っ掛かっていた。
「そういえば、明日香知ってる?転校生のこと」
 黙り込んだ私を見て、麗が話題を変えてきた。
「知ってる知ってる!午後のHRの時間に紹介するって美里が言ってたよね。格好いい男の子だといいな」
「明日香・・・、あなた長生きするわよ」
 豹変した私の態度を見て、麗が呆れたように呟いた。

 午後のHRの時間教室は妙にざわついていた。これから紹介される転校生に対する期待と不安の入り交じった喧騒だった。
「転校生かー、可愛い女の子やったらええんやけどな」
 クラスメイトの『鈴原冬治』が自分と同じ様なことを言っているのを聞いて、明日香はずっこけそうになった。すると、
「鈴原ー、何馬鹿なこといってんの!」
 クラス委員長である『洞木 光』が、鈴原に食ってかかった。
「何や、委員長。何処が馬鹿なことなんや。『転校生が可愛い女の子』、このシチュエーションは男の永遠の憧れや!」
「そこが馬鹿だってのよ!」
「な、何やとー、もう一遍言ってみー」
「何度でも言ってやるわよ!馬鹿、馬鹿、バーカ!」
「ムッキー」
 言い合いをする2人の横で、鈴原の親友『相田健輔』が、またかといった顔でそのやり取りを見ていた。
 私自身もそのやり取りを見ていると思わず笑いが込み上げてくる。
 光が鈴原のことを好きだということは、クラスの女子は皆知っていた。 
 それ故に、他愛のない鈴原の冗談に過敏に反応する光が、おかしくもあり羨ましくもあった。
『早く私にも好きな人ができないかなー』
 そんなことをぼんやりと考えていると、扉の開く音がして美里が教室に入ってきた。
「はい皆、席に着いて」
 美里がそう注意すると、皆お喋りをやめて自分の席に戻った。
 全員が席に着いたのを確認して、美里はひとつ咳払いをした後大きな声で言った。
「喜べ女子!転校生は男の子だぞ」
「えーっ!?」
 美里の言葉を聞いた瞬間、女子の黄色い歓声と男子の落胆の罵声が交錯した。
 もちろん私は、黄色い歓声を上げていた。
「良いわよ、入ってらっしゃい」
 皆の騒ぐ様子を楽しむかのように、美里がドアの外の転校生に声をかけた。
「失礼します」
 小さな声で挨拶をしながら入ってきた転校生は、ちょっと色白で坊ちゃん坊ちゃんした男の子だった。
『碇 真司』
 美里が、黒板に大きな文字で書いた。きっとこれが彼の名前なのだろう。
 それを見た瞬間、何故か妙な懐かしさ、いわゆるデ・ジャヴを私は感じた。
「今日からクラスメートになる『碇 真司』君よ。皆仲良くしてあげてね。さ、碇君皆にご挨拶して」
「ど、どうも『碇 真司』です。は、早くクラスに馴染みたいと思いますので、よろしくお願いします」
 美里に促されて、少しおどおどしながら頭を下げる彼の態度とその声が、私のその思いを、より一層強いものにした。
『何なんだろう・・・、これは?』
 そんなことを思いながら、私は転校生をじっと見つめ続けた。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「アスカを助けられないってどういう事?」
「言った通りの意味よ」
 ネルフ本部の司令室内では、ミサトとリツコの激しい言い合いが続いていた。
「シンジ君の時と同じように、サルベージを・・・」
「あの時とは状況が違うのよ!」
 ミサトの言葉は、リツコの言葉によって遮られた。
「状況が違うって・・・」
「本当はあなたにも分かってるはずよ。あの時とは、違うって」
 リツコの言葉に反論しようとしたミサトだったが、このリツコの一言で何も言えなくなってしまった。
 そんなミサトと状況が掴めずに呆然としているシンジ達を見渡しながら、リツコは更に続けた。
「先も言った様に、今回と前のシンジ君の一件とでは、まるで状況が違うわ。前回の場合は、シンジ君と初号機の急激なシンクロ率の上昇によって、どちらかと言えばEVAにシンジ君が取り込まれた様な状況だったわ。でも今回の場合、それまでのアスカの態度や言動から、アスカが自らの意志でEVAに同化したと考えられるわ」
「でも結局は、『EVAに同化している』という状況は同じなんじゃないですか?」
 日向マコトが、疑問を口にした。
「確かに『EVAに同化している』という『状態』は同じだわ。でも、『状況』が違うわ。これはわたしの推測だけど、前回シンジ君が戻ってこれたのは、シンジ君自身が『戻りたい』という意志を持ったからだと思うの。だけど今回の場合は、アスカがその意志を持つことは万に一つも無いわ。この状況では、サルベージも失敗することが目に見えてるわ」
「つまり、アスカが戻ってくるのには・・・」
 それまで黙って話を聞いていたシンジが、呟いた。
「アスカが自ら『帰りたい』という意志を持つしか方法が無い・・・」
 シンジの言葉を引き継ぎ、ミサトが呆然と言った。
 その場にいる者は誰一人として反論できなかった。
 その時、
「特に問題は無い」
 それまでじっと黙って様子を見ていたゲンドウが、口を開いた。
「直ちに、EVA弐号機エントリープラグを射出、その後プラグ内LCLを排出。処理終了後、弐号機パイロット死亡と断定し、新たな弐号機パイロットの選出を行う。以上」
 ゲンドウから出された指令は、実にシンプルで分かりやすいものであった。
「その命令お受けできません!」
 ミサトがきっぱりと言い切った。
「葛木三佐、これは『碇指令』の命令だ。従いたまえ」
 ゲンドウの隣に立つ、冬月が言った。
「たとえ指令の命令でも聞けるものと聞けないものがあります。指令は、アスカが死んでも構わないというんですか?」
「その通りだ。彼女の代わりならいくらでもいる」
 ミサトの質問に、ゲンドウはあっさりと答えた。
「そ・・・」
「ふざけるなー!」
 ミサトが反論するより早く、シンジが叫んだ。
 この行動には、その場にいた全員が驚かされた。普段滅多に表情を変えないレイですら、目を見張ってシンジを見ていた。
「何か不満でもあるのか、シンジ」
 その中において唯一人表情を変えずに、ゲンドウが言った。
「アスカの代わりがいくらでもいるだって。よくも、よくもっそんな事・・・。父さんに何が分かる!アスカの代わりなんていないんだ!いてたまるか!弐号機のパイロットは、世界で唯一人『惣流・アスカ・ラングレー』だけなんだー!」
 ミサトはそんなシンジを、信じられないといった顔で見ていた。
 これ程までに怒りを露にしたシンジは、初めてだった。
「言いたいことはそれだけか?」
 しかし、ゲンドウからの返答は、冷徹であっさりしたものだった。
「今のネルフには、助かる可能性の無い者に費やす金も時間も存在せん。そうだな、赤木博士」
 ゲンドウに名指しされ少しビクッとした後、リツコが話し始めた。
「現在までの状況から判断して、アスカが帰還できる可能性は極めて低く、指令の判断は正しいのでは・・・」
「僕が助けて見せる!」
 リツコの話を遮って、シンジがそう叫んだとき一番驚いたのは、ミサトでもゲンドウでもなく、シンジ自身だった。
 特に助ける手段を思いついた訳でもないし、自信がある訳でもなかった。
 しかし、『今アスカを救えるのは、自分しかいない』、何故かそんな想いがシンジにはあった。
「私も彼女を助けたいと思います」
 それまで一言も喋らなかったレイが、突然言った。 
「わ、私もレイやシンジ君と同意見です。このままアスカを失いたくありません。どうぞ御再考下さい」
 そんなレイに後押しされたかの様に、ミサトが懇願した。
 暫しの沈黙の後、ゲンドウが口を開いた。
「よかろう、惣流・アスカ・ラングレーのサルベージ作業を許可しよう。但し、期限は今より24時間以内とし、それを過ぎた場合直ちに作業を中止、パイロット死亡と断定する。以上」
 それだけ命じると、ゲンドウは冬月と共に司令室を後にした。
「24時間、それが私達に残された時間・・・」
 ミサトが、呟いた。
『アスカ待ってて、絶対助けるよ!』
 シンジが強い決意を胸にした。

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 『碇 真司』が転校してきて1週間が経った。
 クラスの女子による彼の評価は、真っ二つに別れていた。
 『おとなしいところが可愛い』という肯定派、『ひ弱そうで男らしくない』という否定派。
 でも、そんな事私にはどうでもいいことだった。
 だって、私には他に気になる人がいるんだもの。
その人の名は、『加持亮二』様。交通事故で入院した冬月先生の代わりに、数学の臨時教員として、3日前にやって来た素敵な男性だ。
 伸ばした不精髭と精悍な顔付きが、大人の雰囲気を醸し出していて、すっごく格好いい。
『碇 真司』なんて目じゃない。
 あんな素敵な人と恋人同士になれたら・・・。
『ああっ、加持様』
「明日香、明日香・・・、ちょっと明日香」
 妄想に耽っていた私を、横からつつく奴がいた。麗である。
「どうしたのよ、明日香。お弁当食べるの途中でやめたと思ったら、涎なんか垂らしてボーッとして」
 麗が変人を見る様な目で、私を見た。
「な、何でもないわよ。ちょっと考え事してただけよ」
 うろたえながら、私は必死に弁明した。
「考え事って、もしかして男の人の事?」
 ギクッ
 麗に鋭いところを突かれて、自分でも驚くほどのリアクションを起こしてしまった。
 こうなっては、最早言い逃れはできない。
「そ、そうよ、何か文句でもある?」
 私は、開き直って言った。
「その男の人って、碇君の事?」
 最後の方は消え入りそうな声で、麗が尋ねてきた。
 不思議に思ったが、私はキッパリと答えた。
「まさかー。『碇 真司』なんてガキの事考えるもんですか!私が目を向けるのは、もっと素敵な大人の男性よ!」
「ホ、本当に碇君じゃないのね!」
 普段の麗からは考えもつかない様な大声での返答が帰ってきたので、私はそのまま固まってしまった。
 それに気が付いたのか、程なくして麗は、真っ赤になって俯いてしまった。
「麗、あんたもしかして、彼のこと好きなの?」
 半信半疑で尋ねてみると、麗は何も答えなかった。いや、答えられなかった。
 麗の顔は、最早茹で蛸状態になり、今にも湯気を吹きそうだった。
「あいつの何処がそんなに良いの?」
 半分呆れながら、私は尋ねた。
「や、優しいところ・・・」
 消え入りそうな声で、麗が答えた。その態度が面白かったので、そこまでになった経緯を聞こうと、麗にあれこれ尋ねた。
 最初は嫌がっていたが、根負けしたのか麗が話し始めた。
「一昨日の日曜日、私、自転車で買い物に行ったの。行きは良かったんだけど、買い物が終わって帰る途中に、自転車のチェーンが外れちゃったの。私、チェーンの直し方なんて分からないし、日が暮れてどんどん暗くなってくるし、途方に暮れているところに碇君が通りがかったの。彼、私が困ってたら、両手と服真っ黒にして自転車のチェーンを直してくれたの。ありがとうって言ったら、『どう致しまして』って、笑顔で言ってくれて。その・・・、だから・・・」
「それで一目ぼれってわけ?」
 私の言葉に真っ赤になりながら頷く麗を見て、私は二の句が告げなかった。
『今時いるかー?そんなシチュエイションで一目ぼれする奴?』
 心の中で、私は麗に呆れていた。それと同時に麗のことが、羨ましかった。自分の気持ちに素直に従うことの出来る麗が・・・。
「それで、彼には好きって言ったの」
 無駄だとは思ったが、一応聞いてみた。案の定、麗は俯いたまま首を横に振るだけだった。
「全く仕様が無いわね。私が代わりに言ってやろうか?」
「駄目ー!絶対に駄目!」
 思った以上の鼻息で、麗が反論した。
「そのうち自分で言うから・・・、今はそっとしておいて」
 小さな声だが、ハッキリと麗が言った。
『そのうち、ね・・・、一体いつになるのかしら?』
 そんな事を思いながら、出来る限りの協力をしてやろうと心に決めた。

「全くどうしてくれるのよ!私、傘持ってないのよ!」
 放課後、突然の雨が降り出した空に向かって、私は文句を言った。
「どうしよう、麗はもう帰っちゃったし。大体、保健委員会が長引いたのがいけないのよ。
ああっ、保健委員なんてなるんじゃなかった!」
 所属している保健委員会の定例会合が思いのほか長引いて、既に授業が終了してから2時間が経っていた。もう殆ど生徒も残ってない。
 どうしたものかと考えていると、後ろから声を掛けられた。
「惣流・・さん?どうしたの?」
 後ろを振り向くと、声の主は、誰であろう『碇 真司』だった。
「見て分からないの?突然の雨に困ってるの!」
 昼間の麗のこともあって、思わず突っ慳貪な言い方をしてしまった。
「惣流さんも遅くなっちゃったんだ。僕も部活動の見学してたら遅くなっちゃって・・・。
そうだ、僕、傘持ってきたんだ。良かったら一緒に入って行かない」
 聞いてもいない事を喋ってると思ったら、『碇 真司』は、突然とんでもない事を言い出した。
「じょ、冗談じゃないわよ!あんたとなんか『相合傘』で帰れる訳ないでしょ!」
 『相合傘』という自分の言葉に赤面しながら、私は、むきになって言った。
「そうだよね・・・、変なこと言ってゴメン」
 済まなそうに言う彼の顔を見て、『悪い事したな』とちょっぴり反省した。
「この傘使ってよ!」
 突然そう言って、傘を私に渡したかと思うと、彼は雨の中に飛び出して行った。
「ちょ、ちょっと。あなたはどうするの?風邪ひいちゃうわよ!」
 私は慌てて叫んだ。
「平気、平気。それじゃまた明日」
 それだけ残して、彼は走り去ってしまった。
「何よ、馬鹿みたい」
 憎まれ口を叩いてみたが、悪い気はしなかった。
 気が付くと、私は傘を差して雨の中を歩いていた。
 何故か分からないけど、鼻歌を歌いながら・・・。



 次の日の授業中、『碇 真司』が倒れた。
 美里に指されて、教科書を朗読している最中の出来事だった。
「ちょ、ちょっと、大丈夫、碇君?」
 慌てて美里が、尋ねた。
「だ、大丈夫です」
 いかにも大丈夫じゃない様な声で、彼が答えた。
「とにかく保健室に行きなさい。惣流さん、あなた確か保健委員だったわよね?悪いけど彼を連れてってもらえる?」
 彼を支えながら、美里が言った。
「分かりました。でも一人だとちょっと辛いから、綾波さんにも手伝ってもらって良いですか?」
 昨日の借りもあったので、渋々ながら私は引き受けた。死ぬ程心配そうな顔をしている麗もしっかり引き込んで。

 二人掛かりで『碇 真司』を支えながら、私と麗は保健室に到着した。
「あら、どうしたの?」
 私達を見て、保健医の『赤木律子』先生が尋ねてきた。
 私がそれまでの状況を説明すると、赤木先生は彼を椅子に座らせ、診察を始めた。
「風邪ね、これは」
 あっさりと赤木先生が言った。更に、
「熱が39度以上あるわよ。よく学校まで来れたわね」
 と、呆れた様に続けた。
「大丈夫、碇君?」
 39度以上と聞いて、心配そうな声で麗が尋ねた。
「うん、大丈夫だよ。ありがとう・・・」
 ベットに横たわりながら弱々しい声で、彼が答えた。
 そんな彼を見て、麗は今にも泣きそうだった。
 私には、彼が風邪をひいたのは昨日雨に濡れたのが原因で、それを私に悟らせない為に無理して学校に来たという事が、何となく分かった。
 麗の様に、素直にいたわりの言葉を掛けられれば良いのだけれど、私にはそれが出来なかった。
 そんな自分にちょっぴり嫌悪感を覚えた。

 しばらくして、美里からの連絡を受けた、『碇 真司』の家族が彼を迎えに来た。
「初めまして。真司の母で、『碇 唯』と申します。この度は息子が迷惑をかけました」
 美里と赤木先生に向かって、『碇 唯』さんは深々と頭を下げ挨拶をした。
 顔立ちがどこか麗に似ているが、麗よりずっと明るい雰囲気を漂わせている。
「い、いえ、どう致しまして。それにお世話をしたのは、そこの2人ですし」
 唯さんの丁寧な挨拶に慌てた美里は、話を私と麗に振ってきた。
「あら、可愛いお嬢さん方。真司のガールフレンドかしら」
「か 、母さん、何言ってるんだよ!そんなんじゃないってば!」
 唯さんのとんでもない言葉を、『碇 真司』は慌てて否定した。
 熱のせいなのか、それとも恥ずかしかったのか、彼の顔は真っ赤になっていた。
「あら、そうだったの?真司に可愛い彼女ができたと思って、母さん喜んだのに」
 唯さんは、本当に残念そうな顔をしていた。
 これだけでも私達は、息子と母親の性格のギャップに苦しんだが、更に唯さん
が止めを刺す様な事を言った。
「御二人とも、良かったら真司のガールフレンドになって下さらない?」
「か、母さん!」
 病人とは思えないほどの大声で、『碇 真司』が叫んだ時には既に遅く、麗は顔だけでなく全身を真っ赤にしていた。
 でも、そんな麗の姿よりも、自分自身が顔を火照らせているという事実に、私は驚いた。
『どうして?何で?こんな奴、好きでも何でもないのに・・・』
 自分自身に問いかけてみたけれど、答えは見つからなかった。
 結局、『碇 真司』は早退という形をとり、車で帰宅することになった。
 麗の提案で、私達も美里たちと一緒に彼の見送りに行くことになり、駐車場へと向かった。
 彼が車に乗り込むまで、麗はあれこれと労りの言葉をかけていた。
 私は、そんな麗の後ろから黙って付いて行くだけだった。
 そうする事が、私にとって一番良い事の様な気がした。
 だけど、碇親子が車に乗り込んで出発しようとしたその瞬間、
「碇君、早く良くなって学校出てきなさいよ!」
 私の口から、思いもよらない言葉が出ていた。
 何故そんな言葉が出てきたのか、私には分からなかった。
 只、『ありがとう』と言ってにっこり笑った彼の顔が、頭から離れなかった。
『これって何なんだろう?』
 もう一度自問したが、答えはやっぱり出なかった。
 私は走り去って行く碇親子の車を、見つめ続けた。


「遊園地〜?何で私とあんたと碇・・君の3人で、遊園地に行かなくっちゃいけないのよ?」
「碇君のお母さんが、碇君を介抱してくれたお礼にってフリーパスのチケットをくれたから・・・」
 私の迫力に気圧されたのか、麗がややたじろぎながら言った。
 金曜日の昼休み、いつもの如く屋上でお弁当を食べながらの出来事だった。
「それってどういう事?」
 私が尋ねると、麗はもじもじしながらその経緯を話し始めた。
 昨日の放課後、休んだ碇君の家へお見舞いがてらプリントを届けたこと。碇君のお母さんと話が弾んだこと。土曜日に3人で遊園地にでも行ってきなさいと、チケットをくれたこと、等々・・・。
 それらの事を話している時の麗の顔は、恥ずかしそうだったがその何倍も嬉しそうに見えた。
 私は、麗の性格がどんなものか良く知っている。
 彼女が男の子の家に一人で行くなんて、余程の勇気が必要だったに違いない。
 そして、チケットを貰ってどれ程嬉しかったことか・・・。
 なのに麗は生真面目にも、私も一緒にと誘っている。
『適当な理由でもつけて、2人っきりで行けばいいのに・・・』
 私は、心の中でそう思った。
 勿論、麗がそんな嘘をつける娘でないことは、私が一番良く知っている。
「残念!私、明日ちょっと用があるの」
 私は、気を利かせて嘘をついた。すると、
「それじゃ、遊びに行く日変えてもらおうか?」
 麗が真面目に答えた。
『全く、この娘は・・・』
 心の中でクスッと笑いながら、私は言った。
「何言ってんの!折角の機会なんだから2人で楽しんできなさい!」
「で、でも・・・」
 それでも躊躇する彼女に向かって、私は最後の一押しとばかりに言った。
「こんなチャンスもう二度と無いかもよ!行ってきなさい!」
「うん・・・分かった!じゃ私行ってくるね!」
 ふっ切れたのか、そう言った彼女の顔は、太陽のように光り輝いていた。

 放課後、私は一人図書室にいた。
 特に調べ物があった訳ではない。何故か麗と一緒に帰りたくなくて、口実として図書室での調べ物を利用したのだ。
 どうして麗と一緒に帰りたくなかったのは、自分でも分からなかった。
『どうしてなんだろう?』
 そんな事を考えていると、
「よう、惣流。放課後まで調べ物とは感心だな」
 背後から聞き覚えのある声が掛けられた。
「加持先生!」
 私は振り返って、目一杯の笑顔で声の主の名前を呼んだ。少なくとも、私はそうしたつもりだった。
 しかし、彼から帰ってきたのは、意外な言葉だった。
「どうしたんだ、しょんぼりした顔して?まるで男に振られた後みたいだぞ」
「な、何言ってんですか。私は加持先生一筋ですよ」
 必死に弁明したものの、私の声は震えていた。
「そうか?そいつは嬉しいな。今度デートにでも誘ってみようかな?おっと、もうこんな時間か。悪いが用があるんでこれで」
 嘘か本当か分からない言葉を行った後、加持先生は時計を見て、慌てて図書室を出て行った。
『まるで男に振られた後みたいだぞ』
 一人残された私の中には、加持先生の言葉がいつまでも残っていた。

 学校を出てしばらくたっても、加持先生の言葉が頭から離れなかった。
 先刻は反論したけれど、加持先生の言う通りだとすれば、これまでのモヤモヤに説明が付く。
 それはつまり、『嫉妬』である。
 先日の保健室の時も、今日の昼休みの時でも、『嫉妬』が原因だとすれば・・・
『ううん、そんなことは絶対にない!』
 激しく頭を振りながら、私は心の中で、必死にそれを否定した。
「私が好きなのは加持先生よ!そうよ、あんなガキ目じゃないわ」
 自分自身に言い聞かせるようにそう言った時、
「ちょっと、やめて下さい!」
 眼下の河原の方から、女の人の声が聞こえてきた。
 その声に聞き覚えのあった私は、急いで道端に移動して土手を見下ろした。
 河原では、『嫌がる女の子を無理やりナンパしている悪2人』という構図が、展開されていた。
「あれは・・・」
 からまれている女の人は、私の予想通り近所の女子大生『伊吹麻弥』さんだった。
 彼女には昔から麗と一緒に遊んでもらっていたので、声に聞き覚えがあったのだ。
 一方、からんでいる男といえば、一人は長身で細身、いかにもロックをやっていると言わんばかりのロン毛男。もう一人は、やや小柄で頭をツンツンに立てたメガネ男である。
「やめて下さい!人を呼びますよ!」
「呼べるものなら呼んでみろよ!こんな夕食時じゃ誰も来てくれやしねえよ」
「そうそう。諦めて俺達と楽しいことしようぜ」
 まるで三文小説のような台詞を言いながら、男達が麻弥さんに迫った。
 それを見て私は叫んだ。
「お巡りさーん!こっち、こっち!」
 不良達にも分かるように、大袈裟な身振り手振りも交えた。
「まずい!逃げろ!」
 不良達は慌てて土手を駆け上がり私を睨んだ後、脱兎のごとく逃げて行った。
「大丈夫ですか?」
 私は土手を駆け降りて、麻弥に声を掛けた。
「どうもありがとう。明日香ちゃんだったのね。お陰で助かったわ」
 麻弥さんは、ホッとした顔で答えた。
 そして、私の後ろを伺うように言った。
「ところで、お巡りさんは?」
「やだなー麻弥さん。あんなの嘘ですよ!嘘!」
「明日香ちゃんて結構やるのねー」
 私の言葉に、麻弥さんは感心したような顔をして言った。
「えへへー、大したことじゃないですよ」
 私が謙遜すると、麻弥さんは更に言葉を続けた。
「そうだ、明日香ちゃんに何かお礼しなくっちゃね」
「そんな、いいですよ!」
「ううん。明日香ちゃんが来てくれなかったら、大変なことになってたかもしれないし、何かお礼させて!」
「うーん、困ったな」
 そんなやり取りをしているうちに、私の頭の中で閃いたことがあった。
「それじゃ、一つだけお願いしたいことがあるんですけど・・・」
「良いわよ、何でも言って」
 私の言葉に、麻弥さんが嬉しそうに答えた。
 しかし、私の口から出た言葉は、麻弥さんにとって、そして私にとっても意外な言葉だった。
「明日、私と一緒に遊園地に行って下さい」


 麻弥さんと私と麗の家は、私の家を真ん中にして3軒並んで建っている。その為、私の部屋の窓からは、麗の家の玄関がよく見える。
 土曜日、私は麗が外出したのを確認して外へ出た。
 行き先は麻弥さんんの家だ。
 呼び鈴を押すと、ポロシャツにジーンズといったいで立ちの麻弥さんが出てきた。
「あら、明日香ちゃん早いわね」
「ええ、麗が思ったより早く出たんで・・・、じゃなくて、ちょっと早起きしたものですから」
 麻弥さんの言葉に、思わず本音が出てしまいそうになり、慌ててごまかした。
「そうだったの。私の方も準備は終わってるから、ちょっと早いけど出かけようか?」
「ハイッ」 
 麻弥さんが全然気づかなかったようなので、私も調子を合わせて返答した。
 そう、実は何を隠そう私の目的は、麗と碇君のデートを尾行することなのだ。
 これも、初めてのデートで麗が何も失敗しないよう見守りたい、という親心なのだ。2人の関係が気になるとか、そういったことでは決してない。
 少し歩くと、タイミング良く向こうから、麗と碇君が並んで歩いてくるのが見えた。
「麻弥さん、隠れて!」
「えっ?」
 私は、有無を言わせず麻弥さんを脇道に押し込んで、自分も隠れた。
「ちょっ、ちょっと明日香ちゃん。一体どうした・・・」
「しっ!」
 質問してくる麻弥さんを問答無用で黙らせ、私は2人が通り過ぎるのを待った。
「あれ、あっちから来るの麗ちゃんじゃない?へー、男の子とデートなのかな?」
 麻弥さん言葉に、一瞬胸がズキッと痛んだ。
『何よこの痛みは?今はそれどころじゃないでしょ!』
 自分自身に喝を入れて、私は麻弥さんに言った。
「麻弥さん、あの2人を尾行しますよ!」
「えっ?何でそんなことするの?」
 至極当たり前の質問が、麻弥さんから出された。
「いいから!今日だけは、私の言う通りにして下さい!」
 私が余程真剣な顔をしていたのだろうか、暫く考えてから麻弥さんが言った。
「分かったわ。もう理由は聞かないから」
「ありがとう、麻弥さん!」
 麻弥さんにお礼を言った後、私達は麗達の尾行を始めた。
 やがて、私達2人と麗達2人は、目的地『箱根ドリームパーク』の入場ゲート前に到着した。
 麗達が入場するのを見計らって、私達もフリーパスを買って入場した。
 中に入るとすぐに私は、変装用のサングラスと帽子を麻弥さんに渡した。
「これで変装しろって言うのね?分かったわ!」
 ここまでくると麻弥さんも乗ってきたのか、すんなりと言う事を聴いてくれた。
 変装を終え暫く歩くと、碇君と麗を見つけることができた。
 どうやらジェットコースターの待ち列に並んでいるようだ。
私達は、麗達の4人後ろに並んだ。
 やがて私達に順番が廻ってきて、ジェットコースターに乗り込んだ。
 麗達は先頭車輛に乗っているようで、後ろからでも麗が緊張しているのが分かった。
 本来麗はすごい怖がりで、こういった類いの乗り物には絶対に乗らないのだ。
 ガコン
 金属が擦れる音がして、コースターが頂上を目指してゆっくりと上がり始めた。
 私はこういった乗り物は結構得意で、割と平気な方だった。
 ふと隣を見ると、麻弥さんは既に前屈みになって目を閉じていた。この人もこういう物は苦手らしい。
 やがて頂上に達したコースターは、一気に落下し始めた。
「キャーーー」
 隣で麻弥さんが絶叫している。でも、それに構っている余裕はなかった。
『これは意外に怖い!』
 このコースターは、私が今まで乗った中でもかなりきつい方で、私もかなりの恐怖感を味わっていた。
 ふと気になって前を見てみると、怖がりの麗が、泣き叫びながら碇君にしがみついていた。
『ズキッ!ムカッ!』
 それを見た私の中で、複雑な感情が起こった。
 今までも『ズキッ』といった感情は何回か有ったが、今回の『ムカッ』という感情は初体験だった。
 いつの間にかコースターは停止しており、隣では麻弥さんがぐったりとしていた。
 先頭車輛に目を向けてみると、そこには既に2人の姿はなかった。
 辺りを見回してみると、メリーゴーランドに向かう2人を発見した。
「行きますよ、麻弥さん!」
 まだ青ざめた顔をしている麻弥さんを、半ば引きずるように連れて、麗達の後を追った。
 麗達2人は、メリーゴーランド、コーヒーカップ、観覧車と次々に乗り物を回った。 
 何処に行っても、2人は楽しそうに何か話している。勿論会話は聞こえない。
 でも、こんなに輝いている麗を見るのは初めてだった。
 普段はどちらかというと地味な服しか着ない麗が、今日はヒラヒラのフリルの付いた鮮やかなワンーピースを着ている。それが良く似合っていて、彼女の可愛さを引き立たせている。
 そんな麗を見て、碇君も明るく笑っている。その様子を見ていると言い難い敗北感が沸いてくる。
 一体幾つの乗り物に乗ったのだろう。一番最初にギブアップしたのは、麻弥さんだった。
「明日香ちゃん、ちょっと一休みしましょ。私、もうダメ!」
 麻弥さんの意見で、私達は休憩コーナーで休むことになった。
「フーッ、疲れた」
 そう言って美味しそうにジュースを飲む麻弥さんを見ていると、こんなことに巻き込んでしまって悪かったという気になり、
「麻弥さん、今日はごめんなさ・・」
 と、謝ろうとした途端、麻弥さんは帽子を目深に被り、背中を丸めて縮こまってしまった。
 どうしたのだろうと思い話しかけようとすると、彼女は無言で私の後ろを指さした。
 私は嫌な予感がして、後ろをチラッと覗いてみると、そこには麗と碇君が座っていた。しかも麗は、私と背中合わせで座っている。
『やっばー』
 そう思いながら、私も自分の正体がばれないように、麻弥さんと同じポーズをとった。
 すると、距離が近いから、2人の会話がそっくり耳に入ってきた。
「先刻のアレ面白かったね、綾波さん」
「うん。でも、ちょっと怖かったな」
「そうかな?あれぐらいスリルが有ったほうが良いよ」
「碇君て、明日香と同じようなこと言うのね」
「『アスカ』って惣流さんのこと?」
「そう。明日香も怖いの好きだから・・・。明日香も来れれば良かったのにね」
「そうだね。3人だったらもっと楽しかったのにね」
 その会話を聞いて、私はハッとなった。
『私、何やってるんだろう・・・。2人は私にまで気を遣ってくれてるのに。私のやっていたことは、何て卑劣で嫌らしい行為なんだろう・・・』
 そう思うと、自分が惨めで卑しい人間になったような気がした。
 暫くして麗達がいなくなっても、私は俯いたままでいた。
「どうしたの、明日香ちゃん?2人を追わなくてもいいの?」
 私の様子がおかしいのに気付いたのか、麻弥さんが優しく声を掛けてきた。
「もういいの・・・・、帰ろ、麻弥さん」
 私は、そう返答するのが精一杯だった。

 遊園地を出たときには、もう3時を過ぎていた。
 先程の一件以来私が何も喋らないので、麻弥さんも何も聞いてこなかった。
 暫く歩いた後、麻弥さんが思いもよらないことを言った。
「明日香ちゃんは、あの男の子が好きなのね」
「な、何言ってるんですか!私は・・・」
「明日香ちゃん!今日一日付き合ったんだから、最後くらい言わせて!」
 麻弥さんにこう言われては、私は黙るしかなかった。
「明日香ちゃん、私もそんなに恋愛経験が豊富な訳じゃないから、あまり大層なことは言えないわ。でも、これだけは言っておきたいの!時には自分の気持ちに素直になることも必要よ!」
「はい・・・」
 麻弥さんの言葉が、痛いほど胸に染みた。
 夕食時で人気も疎らになった川沿いの道を、私はぼんやりと歩いていた。
 あの後、私は途中で麻弥さんと別れ、この時間まで街中でぶらついていた。
 別に用が有った訳ではないが、何となく一人になりたかった。
 ふと風に当たりたくなり、河原に降りた時、私は今日が厄日に違いないと確信した。
「ようよう、お嬢ちゃん」
「昨日は世話になったな」
 そう言いながら近付いてきた男2人に、私は見覚えがあった。
「あんた達、昨日の・・・」
 その2人は、昨日麻弥さんに絡んでいた2人組だった。
 よくよく見渡せば、その場所は、昨日麻弥さんが襲われたのと殆ど同じ場所だった。
「もしかして、またこの場所に来るんじゃないかと張ってれば・・・、こんなにうまくいくとは思わなかったぜ」
 長髪が、得意げに言った。
 私は、自分の軽率さを悔やんだ。助けを呼ぼうにも、人通りは全く無かった。
「私に何の用かしら?」
 聞くまでもない事だが、時間稼ぎにでもなればと思い言ってみた。
「本当は、昨日の姉ちゃんの方が良かったんだけど、ま、代わりということで。どう、俺たちと一緒に遊ばない?」
「代わり・・・」
 長髪の言葉に少しムッとしながら、私はキッパリと返答した。
「お断りします!」
 そう言いながら、何とか後退しようとしたが、そんな事は彼らもお見通しだった。
「おっと、つれないこと言うなよ」
 私の後ろにメガネが回り込んで、進路を塞いでしまった。
 前後を塞がれ、助けを呼ぼうにも誰もいない。正に四面楚歌である。
 そうこうしている間に、2人はジリジリと私との距離を詰めてきた。
「ちょ、ちょっと、止めてよ!人を呼ぶわよ!」
「呼んだって誰も来やしないさ!」
 私の脅しにも、長髪は全く動じなかった。
「誰か助け・・・ムグッ」
 大声を上げて助けを呼ぼうとしたが、メガネに後ろから口を塞がれてしまった。
「よし、あそこへ運ぶぞ!」
 長髪の指示で、2人は私を抱えて、更に人目に付きにくい橋の陰に運んだ。
 こうなると、2人の目的は火を見るより明らかだった。途端に、恐怖感が私を襲ってきた。
『やだっ、やだっ助けて!嫌!』
 必死に抵抗したが、メガネに後ろから羽交い締めにされ、身動きすることが出来なかった。
 自分では、結構腕力には自信があったのだが、やはり大人の男には全く敵わない。
「オイ、しっかり押さえとけよ!それにしても、中学生の割にはなかなか発育が良いな」
 メガネに命令した後、そう言って長髪は、私の胸の辺りをまじまじと見つめた。
 それを見て、私は完全なパニックに陥ってしまった。
『やだっ、やだっ、こんなの嫌!助けて、助けて、助けて・・・君!』
 無意識のうちに、私はある人物に助けを求めていた。
「それじゃ、味見させてもらおうか」
 そう言って、長髪が私の胸に手を伸ばそうとしたその時、
「止めろ!」
 河原に、凛とした声が響いた。
「だ、誰だ!」
 突然の声に驚きながらも、長髪は、声がした方向に向かって叫んだ。
 その先には、声の主『碇 真司』が仁王立ちしていた。
「その娘を離せ!」
 怒りに燃える目で、碇君が言った。
「何だ、てめえは!こいつは、俺たちの獲物なんだよ、邪魔すんじゃねー!それとも、こいつはお前の女なのか?」
 長髪が、不機嫌そうに言った。
 こんな時なのにも拘わらず、『お前の女』という言葉に、私は思わず赤面してしまった。
「う、うるさい!そんな事より、彼女を離せ!」
 心なし頬を赤らめながら、碇君が再び叫んだ。
「そんなに言うなら、力ずくでやってみな!」
 言うが早いか、長髪のパンチが碇君の顔面を捕らえた。
 まともにパンチを受けて、碇君は後ろにぶっ飛ばされたが、すぐに立ち上がった。
 口から血が出ている。今のパンチで切ったらしい。
「うおおおー」
 雄叫びと共に、碇君が長髪に飛びかかった。
 しかし、善良な一般中学生と不良学生では、力に格段の差があった。
 碇君の突進はあっさり躱され、逆に再びパンチを貰ってしまった。
 それでも碇君は、何度も立ち上がり、立ち向かって行った。
 そんな事を何回も繰り返すうちに、碇君は顔中痣だらけになり、私は痛々しくて凝視できなくなってしまった。
『もう止めて・・・』
 私は、自分でも気が付かないうちに涙を流し、哀願していた。
 やがて、碇君にも限界が来たようで、うずくまったまま動かなくなってしまった。
「けっ、手こずらせやがって!この野郎!」
 肩で息をしながら、長髪は止めとばかりに、倒れている碇君の顔を踏み付けようとした。
 その時、
「そこまでにしとけ!」
 凄みのある声が、長髪の動きを止めた。
『この声は!』
 聞き覚えのある声に視線を向けてみると、そこには加持先生とその後ろに隠れた麗がいた。
「な、何だてめえは・・・」
 先程と違い、長髪の声に迫力がなかった。明らかに、加持先生に気圧されていた。
「その子達の学校の教師だ!おとなしく彼女を離せば善し、さもなくば・・・・」
「さもなくば、何だー!」
 加持先生の言葉に切れた長髪が、殴り掛かった。
 次の瞬間、地面に倒れたのは長髪の方だった。
 長髪のパンチを避けながら放った加持先生のパンチが、カウンター気味に長髪の顔面にめり込んだのだ。
「どうだ、まだやるか?」
 加持先生は、私を押さえているメガネに向かって言った。
 完全に白目を剥いている相棒を見て、メガネは慌てて首を横に振った。
「だったら、その娘を離してさっさと消えろ!」
 加持先生の迫力に、メガネは飛びのくように私から離れ、長髪を担いで逃げて行った。
 そして、土手を上りきった所で、お約束の言葉を言った。
「畜生、覚えてやがれ!」
 それだけ言うと、脱兎の如くそこから逃げ去った。
「有り難うございました、加持先生。でもどうしてここに?」
 お礼を言った後、私は素朴な疑問を口にした。
「この近所をたまたま歩いてたら、綾波がすごい血相で現れてな、惣流のピンチだっていうんで飛んできたんだよ」
 加持が経緯を話していると、
「う、ううん・・・」
 うめき声を挙げて、碇君がゆっくりと起き上がった。
 顔中痣だらけで、口の周りには、血がベットリと付いていた。
 それを見て、私はポケットの中のハンカチを握り締め、彼の所へ行こうとした。しかし、
「碇君、大丈夫!」
 それよりも早く、麗がハンカチを手に駆け寄り、彼の口の周りの汚れを、拭ってやっていた。
 碇君も、そうされるのを嫌がっていなかった。
それを見て、私の中で何かが弾けた。
 次の瞬間、私の口からは、とんでもない言葉が出ていた。
「フン、余計なことして!アンタなんか来なくても、加持先生が助けてくれたのに!助けに来てやられちゃうなんて、格好悪ーい!」
「明日香!そんな言い方ないでしょ!碇君に誤りなさいよ!」
 私の言葉に、普段はおとなしい麗が、猛然と反発してきた。
 当然だろう。誰が見ても、非は私にある。
 そんな心とは裏腹に、私の口からは、更にとんでもない言葉が飛び出していた。
「麗、あんた、私にヤキモチ妬いてるんでしょう?」
 パシーン
 気付いた時には、麗に平手で頬を叩かれていた。
 麗はうっすらと涙を浮かべ、私を睨んでいた。
 碇君も、加持先生も、その事態に言葉を失っていた。
 私はクルッと振り返り、加持先生に軽く一礼をして、そのまま駆け出した。
「そ、惣流さん・・・」
 背後で碇君が呼んだような気がしたが、私は構わず走った。
 目から涙が、止めども無く溢れてきた。
 痛かった・・・・・・・。叩かれた頬ではなく、心が痛かった。
 許せなかった・・・・・。麗と碇君に、酷いことを言った自分が。
 信じたくなかった・・・。碇君に助けを求めていた自分を。碇君に惹かれている自分を。
 悲しかった・・・・・・。碇君に対して素直になれないことが。
 逃げたい・・・・。ここから逃げ出したい・・・・。

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「どう、マヤ?何か変化はあった?」
 リツコがマヤに尋ねた。
「依然アスカの意識は、負の領域にありますが、若干の乱れが認められます」
「そう、分かったわ。引き続き状態の監視を続けてちょうだい」
「ハイッ」
 リツコの指示に対して、マヤが了解した。
 ここは、ネルフ本部司令室。
 アスカのサルベージ作戦が発動して、早、10時間が経過していた。
「ちょっとリツコ、負の領域って何の事?もっと分かり易く説明してよ!」
 ミサトが、少し苛つきながら言った。
 サルベージ作戦が発動して以来、準備に時間が費やされ、実作業が始まったのはつい1時間前のことだった。
 ミサトやシンジには、詳しいことは何も説明されていなかった。
「分かったわ」
 リツコは、そう言って咳払いを一つした後、話を続けた。
「前回のシンジ君のサルベージの時、こちらからの干渉を一気に行う事によって、大きな拒絶反応を引き起こしてしまった、という苦い経験があるわ。そこで、今回は、少しずつ干渉を行い、サルベージ・バロメータによって状況を判断する、という方法を採用したの」
「サルベージ・バロメータ?」
 シンジが尋ねた。
「分かり易く言えば、アスカがLCL内に溶け出し、肉体と心が分離した状態を0と考え、現実の世界に戻れば正、逆に心の中の世界に行ったら負、といった具合にアスカの状態を数値的に見えるようにしたものね」
 リツコの説明が終わるのと同時に、ミサトが質問した。
「単刀直入に聞くわ。アスカが元に戻るためには、どれくらいの数値になればいいの?」
 一瞬考えて、リツコが答えた。
「正直言って、絶対という保証はないけれど、今までのデータから考えてプラス100といったところね」
「プラス100・・・」
 噛み締めるように、シンジが言った。
「ちょっち、辛い数値ね」
 ミサトも、やや不安気に言った。
「でも・・・」
 そんな2人の様子を見ながら、リツコが続けた。
「もし数値がマイナス100になってしまった時、彼女はその存在を無くしてしまう。つまり・・・」
「惣流・アスカ・ラングレーは、この世から消える・・・・」
 ミサトが、リツコの言葉を引き継いだ。
 ゴクッ、とシンジが息を飲んだ。
 部屋全体が、重々しい雰囲気に包まれた。
「それで現在の状況は?数値はどれぐらいなの?」
 この雰囲気を打破しようと、ミサトが口を開いた。
「現在、マイナス50前後です」
 マヤが、その問いに対する答えを言った。
「マイナス50って、それって凄くヤバクない?」
 ミサトが、慌ててリツコに尋ねた。
「いいえ、まだ大丈夫よ。先刻まではマイナス70近かったのが、徐々に良くなってきたのよ。因子干渉によってね」
「因子干渉?」
 聞き馴れない言葉に、ミサトが聞き直した。
「因子干渉・・・、つまり、アスカが現実世界でやってきた事、彼女の性格、周辺環境等々、彼女の生活の因子をデータにして干渉させるのよ。そうすることによって、アスカの心の中の世界は、現実世界と相似してゆき、最終的には現実世界と同じものになるわ」
「それってつまり、アスカの理想世界と現実世界を同じにして、こっちに引っ張ってこようってこと?」
「ま、そんなところね」
「それって、ちょっとやり方が・・・」
「他に方法は無いわ!今、アスカを救い出せるとしたら、これしか無いの!」
 リツコのやり方に、やや嫌悪感を持ったミサトだったが、こう断言されては、最早何も言い返すことはできなかった。
「シンジ君は、どう思っているの?」
 不意に、リツコがシンジに意見を求めた。
「ぼ、僕はリツコさんの意見に従います・・・」
 正直なところ、シンジもまたミサトと同様に、幾らかの嫌悪感を持っていたのだが、今の自分には何も出来ないと十分に分かっていたので、あえて反論しなかったのだ。
 シンジは悔しかった。ゲンドウの前で、あれだけ大きなことを言っておきながら、実際には何もできないでいる自分が。
『アスカ、無事に帰ってきて!』
 いまのシンジには、そう心の中で祈るしかなかった。
 残された時間は、あと14時間になっていた。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「えっ、ドライブ?」
「そう。明後日の日曜日、暇だったらドライブにでも行かないか?」
 加持先生が、笑顔で言った。
 あの事件から6日間が経過した金曜日、加持先生からの突然の誘いだった。
『どうしよう?』
 私は心の中で、行くか行くまいか決め兼ねていた。
 ほんの数日前ならば、二つ返事でOKしていただろう。でも今は・・・。
 その時、麗と碇君が楽しそうに話をしながら、歩いて来るのが目に入った。
「分かりました!是非ご一緒させて下さい!」
 次の瞬間、私はそう答えていた。
「嬉しいな!それじゃ日曜日の10時に、君の家へ迎えに行くよ。いいかな?」
「はい」
 返事をしたものの、私の視線は麗達に向いていた。
 加持先生とのデートをOKしたのも、2人に対する当てつけであることは、自分でも分かっていた。
『私って嫌な女だ・・・』
 心の中でそう思った。
 でも、もう後戻りは出来なかった・・・。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「大変です!バロメータが、負の領域向かってグングン伸びて行きます!」
 マヤの緊迫した声が、室内に響いた。
「何ですって!」
 リツコはそう叫ぶと、各種のデータが表示されているディスプレイを見た。
「信じられない・・・」
 リツコの呆然とした声が、事態の悪化を物語っていた。
 アスカのサルベージ作戦が発動されて、すでに20時間が経過していた。
 ここまで、状況は刻一刻と好転してきており、リツコも成功を確信していた矢先の出来事だった。
「どうしてこんなことになったのよ?リツコ!」
 ミサトが、リツコに詰め寄った。
「分からない・・・、ただ・・・」
「ただ・・・何よ!」
 はっきりしないリツコに、ミサトが声を荒げた。
「考えられる原因は、一つだけ・・・。恐らく、因子への反発・・・」
「反発?」
 リツコの言葉に、ミサトが首を傾げた。そんなミサトを見て、リツコが更に続けた。
「バネを引っ張ってやれば、手を離したときその反発力によって、バネは反対方向に弾ける、ということよ」
「つまり、現実世界に戻そうと無理矢理プラス方向に引張った反動で、負の領域に落ちた、ってこと?」
「その通りよ」
「落ち着いてる場合じゃないでしょ!何とかしなさいよ!」
 冷静なリツコの態度に、ミサトが食ってかかった。
「何とか出来るなら、とっくに手を打ってるわ!」
 リツコにしては珍しく、声を荒げて叫び、更に続けた。
「もう手はないのよ!これ以上因子干渉を行えば、再び反発が起こる恐れがあるわ。そうなったら、アスカはもう二度と助からないわ。私達に出来ることは、ただ見守る事だけなのよ・・・」
 リツコの言葉に、ミサトは何も言い返せなかった。
 リツコの言葉は、事実上サルベージ作戦の失敗を意味していた。
 重苦しい空気が流れ、誰一人として口を開かなかった。
 その時、
「アスカー!」
 シンジの絶叫が、部屋中に響き渡った。
 ミサトが、リツコが、そしてレイすらも、そのシンジの行動に驚きを隠せなかった。
 しかし、そんな周りの人間達の様子など目に入っていないかのように、シンジは叫び続けた。
「アスカ、戻ってこいよ!いつもみたいにケンカしようよ!アスカがいるべき場所は、こっちの世界なんだ!早く戻ってこいよ!」
 当のシンジも、こんな行為が役に立つとは、思っていなかった。それでも、叫ばずにはいられなかった。
 それが、今自分に出来る唯一のことだから。
「アスカー!」
 一際大きな声で、シンジが再び叫んだ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ビクッ!
 私は自分の名前を呼ばれたような気がして、後ろを振り返った。
「どうしたんだ、惣流?」
 加持先生が、優しく尋ねてきた。
『今の声・・・、碇君?そんな訳ないか・・・』
 私は、自分の考えを否定しながら答えた。
「いえ、何でもないんです」
 私と加持先生は、太平洋を一望出来る断崖の上に来ていた。
 先日の約束どおり、加持先生とドライブに出掛けて、私が『海が見たい』と言った為に、ここに来ることになったのだ。
 広い海を見れば、自分の中のモヤモヤが消えるのではないかと思ったが、一向に消える気配はない。
「ねえ、明日香。今付き合ってる男性は、いるのかい?」
 突然、加持先生が尋ねてきた。
 『明日香』と名前で呼ばれたことも気になったが、それ以上に、加持先生の雰囲気が一変していることが気になった。
「い、いいえ、いません」
 そう答えながら、私は、頭が痺れるような奇妙な感覚に襲われた。
「そう・・、それは良かった。それじゃ、君は今日から僕のものだ」
 そう言って、加持先生が私の両肩にそっと手を置き、顔を近付けてきた。
『あっ、キスする気だ・・・』
 今の私には、それぐらいの認識しか出来なかった。
 何を考えるのも億劫になっていて、拒否する気さえ起きなかった。
 私はされるが侭になり、目を閉じてその時を待った。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「サルベージ・バロメータ、マイナス95に到達!もう後が有りません!」
 マヤの、絶望に満ちた声が飛んだ。
「これまでね・・・」
 リツコが、項垂れて言った。
 シンジの必死の叫びも届かず、アスカのサルベージ・パラメータは負の領域を突き進み、もはや100に到達するのは、時間の問題だった。
 既に作戦発動から23時間が経過しており、時間的な余裕も無かった。
「どうやら、これまでのようだな」
 つい先刻戻ってきたゲンドウが、無表情で言った。
「待って下さい!まだ後1時間あります。それまでには何としても・・・」
 ミサトが、必死の形相で言った。
「フッ、好きにしたまえ」
 そう言って、ゲンドウは、まだ叫び続けているシンジに目を向けた。
 かれこれ1時間も叫び続け、シンジの声は、ガラガラになっていた。
 それでもシンジは、叫ぶのを止めなかった。叫ぶのを止めてしまった時、全てが終わってしまう気がしたのだ。
 シンジは、最後の力を振り絞って叫んだ。
「いくなーっ!アスカー!」

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「シンジ!」
 私は無意識にそう叫んで、正気に戻った。
 眼前に迫ってきた加持先生を必死に払いのけて、彼から離れた。
「どうしたんだい、明日香?」
 加持先生が、不思議そうな顔をして近寄ってきた。
「いやっ!あなた誰?ここは何処なの?」
 そう言って、私は後退りした。
 私は、加持先生に、いやこの世界に違和感を覚え始めていた。
 自分が本当の自分でない、そんな奇妙な感覚に襲われ、私はうろたえた。
「何を言ってるんだ?僕は『加持亮二』、君の学校の教師・・・」
「違う!こんなの何か違う!」
 彼の話を途中で遮り、私は叫んだ。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「バロメータに変動が有りました!」
 モニターを見守っていたマヤから、緊迫した声が飛んだ。
「まさか・・・」
 ミサトは、最悪の事態を想像して、絶句した。
「違うわ!ほんの少しだけれども、プラス方向に移動しているわ・・・。どうして?」
 リツコが、首を傾げながら言った。 
「先輩、これは私の予想なんですけど、シンジ君の言葉が、影響を及ぼしているんじゃないでしょうか?」
「多分、それ当たってるわ。シンジ君お願い、もう一度呼びかけてみて」
 リツコはマヤの意見に賛同して、シンジに協力を申し出た。
 シンジは、皆が注目する中、力強く語りかけるように言った。
「アスカ、戻ってきて!僕らのところに」

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 再びシンジの声が聞こえた時、私は全てを思い出していた。
 私は、『惣流・アスカ・ラングレー』。EVA弐号機のパイロット。
 そして、ここはまやかしの世界・・・。
「その通り。ここは、現実の世界ではない。しかし、まやかしの世界でもない。ここは、君の心の中の世界、つまり君の理想の世界だ」
 先刻もでの温かい言葉とは打って変わった冷たい声で、加持先生いやそうだと思っていた者が言った。
「こんな世界が、理想の世界であってたまるもんですか!」
 私は、激しく反論した。
「いいえ。ここは、間違いなくあなたの理想の世界。最も、外部からの干渉で、多少歪みができたけど」
 そう言った声は、男の声から女の声に変わっていた。
 注意して相手の顔を良く見ると、そこには『加持リョウジ』の姿は無く、『惣流・アスカ・ラングレー』、私本人が立っていた。
「何を驚いているの?そう、私はあなた。いえ、正確に言えば、あなたの心よ」
 呆然とする私に向かって、彼女は言った。
「それじゃ教えて、どうしてこれが私の理想の世界なの?」
 私は、開き直って聞いた。
「あなた、『綾波レイ』が怖いんでしょ?」
 その一言に、私の心臓は止まりそうになった。
「そう、あなたはレイが怖いのよ。レイに、シンジを奪われることが。だから、2人がくっついた時に、本当は自分に惚れていたシンジをお情けで譲ってやった、というシチュエーションを作りたい。そして、自分は大人の男と付き合い、世間体を取り繕う。それが、あなたの理想。現に、この世界はその通りに動いたわ。外部からの干渉で、あなたが『嫉妬』という感情を思い出すまでわね」
 彼女の言葉に、私の顔は蒼白になった。
「そんなことない・・・。私は本当は・・・」
 力なく言い返す私に、彼女は、追い打ちをかけるように言った。
「本当は何?本当は、シンジと付き合いたい、とでも言うの。無理よ、彼はレイが好きなのよ。あなたなんか、いらないのよ。だから、この世界で一生過ごしなさい。そうすればあなたのプライドは保たれ、幸せでいられるのよ。さ、僕の手を取って一緒に行こう」
 彼女の姿は、いつの間にか加持先生に戻っていた。
 私は言われるままに、彼の手に向かって、自分の手を差し出した。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「駄目です!再びマイナス方向に、移動しています」
 モニターを見ていたマヤの表情が、曇った。
「もう駄目なの・・・」
 約束の24時間もあと数分を残すのみとなり、流石にミサトの口からも、諦めの言葉が漏れた。
 ミサトだけではなく、リツコもマヤも、そして勿論ゲンドウも、全ての人間が、サルベージの失敗を確信した。
「僕は、諦めません!」
 そんな中にあって、シンジは、一人キッパリと言い放った。
 そして、マイクに向かい、弐号機に語りかけた。
「アスカ、僕は始のころ、君のことが大嫌いだった。無神経に、言いたいことをズケズケ言うところ、直ぐに怒るところ、挙げたらきりが無い。でも、今分かったんだ。僕は、君の笑顔が、明るいとこが、そして、さりげなく見せる優しいところが、大好きなんだって。このまま、もうアスカの笑顔が見られないなんて、やだよ!だから、戻ってきてよ、アスカ!」
 最後の方は、涙声になっていた。しかし、誰も、そんなシンジを笑わなかった。
 シンジがミクから離れると、それまで黙って事態を見ていたレイが、マイクに近付いていった。そして、呟くように言った。
「アスカ、早く戻ってこないと、碇君もらっちゃうよ」

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いやっ、絶対に嫌!」
 差し出した手を引っ込めて、私は叫んだ。
 私には聞こえた。シンジの声、そしてレイの声が。
「やれやれ、まだ分からないのかい?君のいるべき世界は、この世界だ」
 呆れたように、加持先生の形をした者が言った。
「違うわ!確かに、私はレイに勝てないかもしれない。負けるのが怖いのも確かよ。だけど、だけど私、シンジが好き!彼の気持ちを聞かないで終わるなんて、絶対に嫌!たとえ、どんな結果になるにしても、チャレンジしたいの。だって、私は『惣流・アスカ・ラングレー』ですもの!」
 そう言い切った私には、最早迷いは無かった。
「馬鹿な!自分の理想の世界を、捨てると言うのか?」
 彼は、驚いた顔で言った。
「私は、もう現実から逃げない!自分の心に嘘はつかない!」
 そう言い残して、私は、海に向かって飛び降りた。
「お願い、シンジ!私を受け止めて!」
 薄れ行く意識の中で、私はそう叫んだ。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「アスカッ!」
 そう叫んで、シンジは、突然駆け出した。
 先程のレイの言葉に対する驚きと相俟って、他は誰も動けなかった。
 シンジの行き先は、EVA弐号機の真下だった。
 シンジがそこに到着した瞬間、EVA弐号機のエントリープラグが排出され、中から大量のLCLが溢れ出した。
 シンジは、降り注ぐLCLの中で両手を前に出して、それを待った。
 程なくして、ズンという衝撃と共に、シンジの腕の中に、何かが落ちてきた。
 シンジは、それを抱き抱え、LCLの雨から抜け出た。
 シンジが腕の中に目を落とすと、そこには、全裸のアスカが横たわっていた。
「アスカ!アスカ!」
 シンジはアスカの体を揺さぶりながら、二度三度名前を呼んだ。その目には、喜びと不安で、涙が浮かんでいた。
「アスカ!目を覚ましてよ、アスカ!」
 目を覚まさないアスカを見て、シンジは、更に大きな声で呼びかけた。すると、
「うるさいわね。あんたバカ、何泣いてんのよ?」
 うっすらと目を開けたアスカの口から、如何にもアスカらしい言葉が漏れた。
「アスカッ!」
 感極まって、シンジはアスカが全裸だということも忘れて、抱き締めた。その目からは、
涙が止めどもなく溢れていた。
「ほんとバカなんだから・・・、でも、ありがと」
 アスカも涙を流しながら、シンジの耳元で囁いた。
「お願いシンジ、次に私が目を覚ますまで、私の側にいて」
 更にそれだけ言うと、アスカの意識はブラックアウトした。
「奇跡ね・・・」
 そんな2人を見ながら、リツコが呟いた。
「ううん、そうじゃないわ。アスカの心とシンジ君の心の結び付きが生んだ当然の結果よ」
 ミサトが、確信したように言い切った。
「そうかもね」
 リツコもそれに同意して、お互い顔を見合わせて笑った。
 マヤも日向も青葉も、それにつられるように笑っている。
「作業終了。各員は、後処理に入れ」
 何事も無かったようにそう告げると、ゲンドウは冬月と共に、司令室を後にした。
 レイは、抱き合う2人を、ジッと見つめていた。


 アスカが意識を取り戻したのは、病院のベットの上だった。
「ここは・・・。あ、そうか、私帰ってきたんだ・・・」
 次第に意識がハッキリしてきたアスカは、シンジがベットの脇で、座りながら居眠りしているのに気付いた。
『こいつ・・・、約束守ってくれたんだ』
 暫くアスカは、幸せそうにシンジの横顔を眺めた後、息を大きく吸い込んで叫んだ。
「こらっ!シンジ起きなさい!」
「ハ、ハイ!」
 律義にも、しっかり返事をしながら、シンジが跳ね起きた。
「お・は・よ・う、シンジ」
 アスカはそう言って、ニッコリ笑った。
「アスカ!良かった」
 アスカの元気な姿を見て、シンジが喜びの声を挙げた。
 しかし、照れ臭さがあったのか、2人はそのまま黙り込んでしまった。
 暫くその状態が続いたが、シンジによって、その沈黙は破られた。
「アスカが帰ってきてくれて、うれしいよ・・・凄く」
 俯きながら、恥ずかしそうに言うシンジを見て、アスカは自分の選択が間違っていなかったことを確信した。
『今こそ、シンジの本当の気持ちを聞こう!』
 そう心に決めたアスカだが、素直に言い出せなかった。そこで、少し考えた後、意外なことを言い出した。
「ねえ、シンジ。私のハダカ、見たでしょ?」
 案の定、シンジは顔を真っ赤にして、慌てふためいた。
「い、いや・・・、その・・・、あれは、その不可抗力で・・・じゃなくて、見てないよ!目をつぶってたんだ!本当だよ!」
 可哀想なくらい慌てふためくシンジに、アスカが再度尋ねた。
「私の体、キレイだった?」
「うん、すごく・・・あっ」
 シンジは慌てて口を噤んだが、時既に遅く、事実をアスカに知られてしまった。
「やっぱり見たのね?」
 アスカが、確認するかのように言った。
「ご、ごめん。その・・・つい・・・」
 シンジは何か言い訳をしようと思ったが、良い言葉が見つからず、怒鳴られるのを覚悟したかのように身構えた。
 しかし、アスカの口からは、意外な言葉が漏れた。
「いいわ、許してあげる」
「えっ、本当?」
 当然、怒られると思っていたシンジは、拍子抜けしたような顔で聞き返した。
「その代わり、私の質問に答えて!」
「分かった?」
 要求に、シンジが応じたのを見て、アスカは、蚊の鳴くような声で尋ねた。
「私とレイ、どっちが好き?」
「えっ?」
 シンジは、一瞬自分の聞き違いかと思ったが、耳たぶまで真っ赤になっているアスカを見ていると、どうもそうではないらしかった。
「分かった。今答えるから、少しの間目をつぶってて」
 勿論、普段のアスカなら、こんな要求を受け入れる筈もないが、今は緊張の余りアッサリと受け入れてしまった。
 ドキッ!ドキッ!ドキッ!
 答えを待つ間、アスカの心臓は、爆発しそうなぐらい高鳴っていた。
 1秒、2秒、暗闇の中でアスカがじっと待っていると、不意に唇をふさがれた。
 シンジはアスカにキスをしたまま、その体を抱き締めた。
 やがてシンジの唇が、アスカの唇から離れた。時間にすればほんの数秒だろうが、アスカには永遠の時間に感じられた。
 アスカが真っ赤な顔でシンジを見ると、シンジも同じように真っ赤な顔をしながら言った。
「これが僕の答えだよ」
 そう言った後、シンジは照れ臭そうに続けた。
「正直言って、2人の内どっちが好きなのか、今の僕には分からない。でも、今一番側にいて欲しいのは、アスカ、君だよ・・・。こんな答えじゃ駄目かな?」
 最後の方は消え入りそうな声で、シンジが言った。
 アスカはその問いに答える代わりに、シンジに抱き着いていた。
 アスカにとって、もうどんな言葉の意味を成さなかった。
 自分を必要としてくれる人がここにいる。それだけで、至福の気分だった。
 ゆっくりと流れる時の中抱き合う2人を、夕日が鮮やかに染め上げていた。


 次の日、私はネルフ本部の司令室に顔を出した。
「皆さん、どうも御心配をお掛けしました!」
 私が元気に挨拶すると、皆口々に祝福の言葉を掛けてくれた。
 私は、碇指令、ミサト、赤木博士の順に挨拶を済ませ、マヤさんの前に立って言った。
「マヤさん、忠告どうもありがとうございました!」
「はっ?」
 マヤさんは、訳が分からないという顔をして、言葉に詰まってしまった。
 続いて、私はクルッと横を向いて、青葉・日向両名に向かって言った。
「このスケベ!」
 2人とも訳が分からず、呆然としたままその場に固まってしまった。
『ちょっと悪いことしたかな?』
 そんなことを考えながらレイの方へ向かうと、意外にもレイの方から話し掛けてきた。
「あれぐらいじゃ私、碇君のことあきらめないから」
 静かだけれど、ハッキリした宣戦布告だった。
 どうやら、昨日の出来事を目撃されたらしい。
 内心驚きは隠せなかったが、私も腹をくくった。
「いいわよ!私だって絶対に負けない!」
 そう言って私がニッコリ笑うと、レイも笑い返してきた。
「あれ?2人ともどうしたの?」
 遅れてやって来て、事態が飲み込めないシンジが、キョトンとした顔で尋ねたきた。
「何でもない。ね、レイ?」
「そうね、女の子の秘密よ」
「チェッ・・・」
 私とレイの回答に、シンジが不満の声を上げた。
 ウー
 その時、新たな使徒接近を告げる非常警報が、司令室に響き渡った。
「行くわよ!シンジ、レイ!」
 そう言って、私はEVAの格納庫に向かって走りだした。
「ちょっと、まだ無理よ、アスカ!」
 ミサトの声が聞こえたが、私は笑って答えた。
「大丈夫よ!私もう負けないから!」
 そう、私はもう負けない。
 だって、帰る場所が見つかったんだから。
 私は一人じゃないんだから。
 横目で初号機を見ながら、私は叫んだ。
「EVA弐号機、発進します!」
 こうして私は、再び戦いに向かった。
 絶望から逃れるための戦いではなく、希望をこの手に掴むための戦いへ・・・。


 




 後書きのような物


 皆さん、どうもこんにちは。
 北極圏Dポイントの教授です。
 さて、今回はHPへのアクセスが15万Hitを突破した記念で、このエヴァ本をアップしました。
 これは、私の個人誌としては事実上一番古い作品なのですが、いやはや色々な意味で恥ずかしいですね。(笑)
 文章自体は今とさほど変わってませんが、内容がかなりこっ恥ずかしいですね。(笑)
 シンジなんて別人28号ですし。(汗)
 自分でもよくこんな作品が書けたと、ちょっぴり感心してしまいました。(笑)
 この頃は、エヴァそしてアスカにはまってましたからね。
 本編のラストの後味の悪さもあって、煩悩全開で書いたんでしょうね。(笑)
 ちなみに、アスカの夢の中での明日香と麗のやり取りは個人的には結構気に入っています。
 私の現在の作風の源流は、この辺りにあるのかもしれませんね。
 まあ、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
 それでは、また次の作品でお会いしましょう。

 2003年2月10日 教授





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