With You〜みつめていたい〜
〜私だってみつめてた・・・〜




 第9章  あなたが見つめている女性

 ポロロロン〜♪
 St.エルシア学園の音楽室から美しいピアノの音色が聞こえてくる。
 放課後、夕焼けを浴びながらピアノを弾く乃絵美の姿がそこにあった。
 普段は学校のピアノなど弾かない乃絵美であったが、音楽室の片付けを頼まれてたまたまピアノが目に付き、片付けを終えた後なんとはなしに弾き始めたのだ。
 乃絵美が弾いている曲は、有名な曲でも荘厳な曲でもなかった。
 しかし、その調べは何処か人を惹きつけるものがあった。
『お兄ちゃんにどんなチョコレートを送ろう・・・』
 乃絵美はピアノを弾きながら、10日後に迫ったバレンタインデーに思いを馳せていた。
『お兄ちゃん・・・』
 正樹の顔を思い浮べるだけで、乃絵美の心の中は幸せで満たされ、ピアノの音色は益々優しいものになっていった。
 昨年暮れの停電事件以来、乃絵美が正樹に告白をするチャンスは現れていない。
 だが、2人の距離は確実に縮んで来ていると乃絵美は感じていた。
『今度のバレンタインにはきっと・・・』
 そんな想いを込め、乃絵美は更に熱心にピアノを弾くのであった。

 パチパチパチパチ
「え?」
 集中してピアノを弾いていた乃絵美は、突然の拍手に驚いて顔を上げた。
 すると、いつのまに現れたのか、一人の初老の男性が入口で拍手を送っているのが見えた。
『わー外人さんだ・・・』
 乃絵美は自分の演奏を聞かれて照れ臭かった以上に、拍手を送っている人物が金髪の外人である事に驚いた。
 外人は乃絵美の視線に気付いたのか、拍手を止めニッコリと微笑んだ。
 次の瞬間、外人が何を思ったのかツカツカと乃絵美に向かって歩き始めた。
『えっ!?』
 他人と接するのがあまり得意でない乃絵美は、その行動に思い切り困惑した。
 相手が男性で、しかも外人となればそれは尚更だった。
「トテモキレイナ曲デスネ」
 戸惑っている乃絵美に向かってそう言いながら、外人は再びニッコリと微笑んだ。
「え?」
 外人の口から少したどたどしくはあったがちゃんとした日本語が発せられたので、乃絵美は驚いて目を丸くしてしまった。
「ワタシ、感動シマシタ」
 外人がそう言いながら手を差し出した。どうやら握手を求めているらしい。
「サ、サンキュー・・・」
 なんとかそう言いながら、乃絵美はオズオズと握手に応じた。
「ハンス、こんな所にいたのか?」
 その時、外人の背後から突然そんな声がした。
 『ハンス』というのがその外人の名前なのだろう、その声に反応するように外人が振り返った。
 その拍子に、乃絵美からも声をかけた人物の姿が見えるようになった。
「校長先生!?」
 その見知った顔に、乃絵美は思わず声を上げてしまった。
 それは、間違いなくエルシア学園の校長・後藤雄一郎だった。
「おや、君は確か1年の・・・」
「はい。伊藤乃絵美です」
 懸命に記憶を手繰っている校長に向かって、乃絵美はオズオズとそう答えた。
「そうだ、伊藤くんだったね」
「すみません・・・勝手にピアノを使ってしまって」
 乃絵美はそう謝罪して頭を下げた。
「いや、いいんだよ。学校の施設はみんなの物なのだから、遠慮せずに使いたまえ。それにしても、さっきの曲は伊藤くんが弾いていたのか・・・それでハンスも釣られたというわけかね?」
「ハイ。トテモ美シイ曲ダッタモノデ・・・コンナニスバラシイ曲ヲ聞イタノワ、久シ振リデス」
 それまで2人のやり取りを黙って聞いていたハンスは、少し悪戯っぽく微笑んでそう答えた。
 その言葉に、乃絵美は少し赤くなって俯いてしまった。
「ほー、ハンスがここまで誉めるとは珍しい。伊藤くんも光栄だね、何と言ってもハンスは・・・」
 ス・・・
 その時、ハンスが校長の言葉を手で遮った。
「ハンス?」
 訝し気な表情の校長に向かって、ハンスは軽くウィンクをした。
『?』
 乃絵美はその行動の意味がまるで分からなかったが、校長はそれを察したらしく、それ以上の事は言わなかった。
「それよりも、ハンスそろそろ時間じゃないのかね?」
 話題を変えるように、校長が腕時計を指差しながらそう言った。
「オー、モウコンナ時間デスカ」
 その腕時計を覗き見たハンスは、少し驚いたようにそう答えた。
「そういう事だ。では行くとしよう」
「ハイ」
 ハンスはそう答えると、スタスタと出口に向かって歩き始めた。
「伊藤くん、そろそろ暗くなるから君も気を付けて帰りなさい」
 乃絵美にそう言い残して、校長も出口に向かって歩き始めた。
「はい。校長先生、さようなら」
 乃絵美は丁寧にお辞儀をしながらそう答えた。
「ノエミサン」
 そんな乃絵美に向かって、クルリと振り返ったハンスが声をかけた。
「はい?」
「マタ会イマショウ」
 少し驚いた表情の乃絵美に、手を振りながらハンスがそう言った。
「は、はい」
 乃絵美はキョトンとした顔で、思わずそう答えてしまった。
 その言葉に満足そうに頷くと、校長共々ハンスは廊下に消えていった。
『一体なんだったんだろう?』
 一人音楽室に取り残された乃絵美は、狐に摘ままれたような表情でしばらく佇んでいた。
 この出会いが、正樹と乃絵美の関係を大きく揺さぶる事になろうとは、今の乃絵美には知る由もなかった。


 週明けの月曜日、エルシア学園の男子生徒は妙にソワソワしていた。
 言うまでもなく、それは6日後に迫ったバレンタインデーのせいだった。
 今年のバレンタインデーは日曜日なのだから、学校でソワソワしても・・・と思いがちだが、それは違った。
 日曜日だからこそ、貰えるのは恐らくは本命チョコレートのみであり、それ故に女子生徒の動向を逐一チェックしておきたいという微妙な(?)男心が大きく働いているのだ。 去年までの正樹なら、そんな男子生徒の姿を他人事のように眺めていただろう。
 正樹は、これまで本命チョコという物を貰った事がなかった。
 決して女子生徒に人気がなかった訳ではなく、常に菜織が傍にいる為に他の女の子が遠慮してしまうのだ。
 それでも、当の菜織、母親、そして乃絵美の3人から毎年義理チョコを貰っていた正樹は、特にバレンタインデーには興味がなかった。
 しかし、今年は違った。
 正樹は、他の男子生徒と同様に、落ち着かない気分でバレンタインデーを待ち望んでいた。
 正樹が待ち望んでいるのは、菜織のチョコでも真奈美のチョコでもなく、乃絵美のそれも本命チョコレートだった。
 勿論、正樹本人はそれを自覚していなかった。・・・というよりは、自覚しようとしていなかった。
 しかし、本能なのか心の奥底の願望なのか、最近乃絵美の一挙一動が気になってしかたなかった。
 乃絵美が買い物から帰ればさり気なくその中身を覗き、台所に立てば何を作っているのかつい聞き耳を立ててしまう。
 ここ数日はそんな感じで過ごしている。
 反面、それ以外の時はボケーッとチョコレートの事を考えている事が多かった。
「・・・き、・・・さき、正樹!」
 そんな調子だったから、昼休みに入り先程から菜織が自分の名前を呼んでいる事にも、まるで気付かずにいた。
「正樹!!」
 そんな正樹の態度に業を煮やした菜織は、正樹の耳元で思い切り怒鳴った。
「うわっ!?」
 ガラガラガッシャーン!!
 さすがにこれには驚いたらしく、正樹は思わず椅子から転げ落ちてしまった。
「な、何しやがる菜織!?」
「何しやがるじゃないでしょ!もうお昼休みよ!今日は暖かいから、みんなで屋上でお昼食べようって言ってたでしょ!?もう忘れたの?」
 声を荒げる正樹に対して、菜織はキッパリとそう言い放った。
「あれ?そうだっけ・・・?」
「呆れた・・・」
 キョトンとした表情で聞き返してくる正樹の姿に、菜織は思わず顔を覆った。
「とにかく、みんなもう屋上に集まってるんだから、あんたも早く来なさい」
 菜織はそう言いながら、正樹の腕をグイグイと引っ張った。
「お、おい、ちょっと待てってば」
「いいから、早くなさい!」
 一瞬反論しようとした正樹だったが、結局そのまま屋上まで引きずられていってしまった。

「ねーねー、正樹くんは誰の本命チョコを狙ってるのん?」
「ブーーー!!」
 美亜子からそんな質問が出た途端、美亜子を除くその場にいた全員(正樹・乃絵美・菜織・真奈美・冴子)が一斉に食べていた物を吹き出した。
「ゲホッ、ゲホッ!ミ、ミャーコちゃん、何て事聞くんだよ!」
 激しく咳き込みながら、正樹は思わずそう抗議した。
「だってー、興味あると思わ〜ない?」
 美亜子はニヤーと笑いながらそう言うと、女性陣の顔をグルーっと見渡した。
「メ、メシの途中で変な事言ってるんじゃねーよ!」
 案の定、その言葉に真っ先に反応したのは、頬を赤らめた冴子だった。
「別に変な事じゃないよねー。みんなだって興味あるでしょ?」
 美亜子の言葉に、女性陣の顔がたちまち赤くなっていった。
 それを見て更に嬉しそうに微笑むと、美亜子は再び正樹に矛先を向けた。
「伊藤正樹くん、あなたの本命は誰なんですか?」
 マイクに見立てた箸箱を向けながら、美亜子は正樹に詰め寄った。
「べ、別に、本命なんて・・・」
 正樹は何とか誤魔化そうと口をゴニョゴニョと動かした。
「やっぱり、市販品より手作りの方が良いですよね?」
「そりゃ、やっぱりね・・・」
 さすがは美亜子と言うべきだろうか、正樹はいつのまにか美亜子に乗せられ口を割り始めた。
 正樹の言葉に、女性陣はいつの間にかググッと体を乗り出し始めた。
『チョコか・・・あんまり作った事はねーが、ま、何とかなるだろ!』
『やっぱり手作りの方が良いんだ・・・今年は手作りに挑戦してみようかしら・・・』
『ひ〜ん、どうしよう・・・私手作りチョコなんて作った事ないよ・・・』
『今年は少し凝った物に挑戦してみよう。・・・お兄ちゃん受けとってくれるかな?』
 冴子、菜織、真奈美、乃絵美・・・正に四者四様の事を考えながら、4人は次の正樹の言葉に神経を集中させた。
「チョコは苦目のビタータイプが良いですか、それとも甘目のミルクタイプの方が良いですか?」
「どちらかと言えばミルクタイプかな」
「大きなチョコを1つ貰うのと小さなチョコを沢山貰うのでは、どちらが良いですか?」
「う〜ん、食べ易さで言えば小さいチョコなんだろうけど・・・やっぱりせっかくのバレンタインなんだし、ドーンと大きいのを貰うのが嬉しいかな」
 正樹はスッカリ美亜子のペースに乗せられ、いつのまにかペラペラと自分の好みを喋っていた。
 もっとも、それらの情報は、正樹の事を充分に知り抜いている乃絵美と菜織にとっては、さほど重要な物ではなかった。
 また、料理を得意とする冴子にとっても、それは少し聞き耳を立てていれば足りるような事であった。
 しかし、ここにそのどちらも持ち合わせてない人物がいた。
 言うまでもなく、真奈美である。
『ウン、なるほど!』
 真奈美は、正樹の言葉に真剣に頷くと、無意識のうちに体を前に前に突き出していった。
「真奈美ちゃ〜ん、ちょっと大胆なんじゃないの〜?」
 美亜子にそうからかわれた時には、真奈美の体は正樹から僅か30センチ程の距離まで迫っていた。
「えっ!?あっ!?」
 バッ!
 そこで初めて自分の位置に気付き、真奈美は真っ赤になりながら慌ててその場を飛び退いた。
「真奈美ちゃんてば〜だ・い・た・ん!」
 真っ赤になって俯く真奈美に向かって、追い討ちをかけるように美亜子がそう言った。
「ち、違うの!べ、別に、そういう訳じゃ!!」
「真奈美〜、そんなにシッカリとメモ帳掴んだまま力説しても説得力ないわよ」
 真奈美が握り締めているメモ帳に視線を向けた菜織が、呆れたようにそう言った。
「こ、これは・・・その・・・」
 正樹の話の内容を書き込んだメモ帳を後ろに隠して、真奈美は恥ずかしそうに俯いてしまった。
「プッ!アハハハハ!」
 そんな真奈美の行動に、一同から笑いが漏れた。
「もうー、みんな意地悪なんだから!」
 真奈美がそう言って、プーッと頬を膨らませた時、
 ピンポンパンポ〜ン
 校舎に備え付けられているスピーカーから、呼び出しのチャイムが鳴った。
「1年B組の伊藤乃絵美さん、及び2年A組の伊藤正樹さん、いらっしゃいましたら至急校長室までお願いします。繰り返します・・・」
 バッ!
 チャイムに続いて流れたアナウンスを聞いた途端、全員の視線が正樹に集中した。
「ちょっとー、あんた一体何やらかしたの?」
「まったく、いい歳こいて校長室に呼び出されるなんてよー・・・お前何やったんだ?」
「ニャハハハハ、正樹くんサッサと謝っちゃった方が良いよ〜」
「校長先生は優しいから、素直に謝ればきっと許してくれるよ」
「だーーー!!何で俺が何かやらかしたと思うんだ!?」
 端から正樹を疑っている女性陣の言葉を聞いて、正樹が思わずそう叫んだ。
「だってー、乃絵美が呼び出されるような事するわけないでしょ?乃絵美もいい迷惑よね〜、出来の悪い兄のせいで保護者として呼び出されるなんて」
「そ、そんな菜織ちゃん・・・まだそう決まったわけじゃ・・・」
 菜織の言葉に、苦笑いをしながら乃絵美が答えた。
「でも、乃絵美には心当たりはないんでしょ?」
「うん・・・特には・・・」
「それじゃ、やっぱり正樹ね!!」
 乃絵美の言葉を受けて、菜織はキッパリとそう断言した。
「だ・か・ら、勝手に決め付けんなー!!」
「それじゃ、あんた乃絵美が何かしたっていうの?」
「うっ・・・」
 息巻いていた正樹だったが、菜織にそう言われてアッサリと絶句してしまった。
『やっぱり俺何か仕出かしたっけかな?』
 ここでそんな風に考え込んでしまう、ちょっと情けない正樹だった。
「お兄ちゃん、とにかく行ってみようよ」
 そんな正樹に向かって、乃絵美がそう言った。
「そうだな・・・それが手っ取り早いか!」
 我に返った正樹は、そう言いながらスクッと立ち上がった。
「乃絵美ちゃん、お弁当箱は私が預かってようか?」
 同じく立ち上がった乃絵美に向かって、真奈美がそう提案した。
「ありがとう真奈美ちゃん・・・それじゃお願いするね」
 乃絵美はそう言うと、抱えていた弁当箱を真奈美に手渡した。
「はい、確かに。正樹くんのも預かろうか?」
 乃絵美の弁当箱を受け取りながら、続けて真奈美がそう訊ねた。
「ありがとう、真奈美ちゃん。いや〜やっぱり真奈美ちゃんは気が利くなー」
 正樹は弁当箱を真奈美に手渡しながら、意味ありげな笑みを浮かべ菜織の方を見た。
「へいへい、どーせ私は気が利きませんよーだ」
 菜織はそう言いながら、ペロリと舌を出した。
「フフフ、さ、行こうお兄ちゃん!」
 そんな2人のやり取りを見て少し微笑んだ後、そう言って乃絵美は駆け出した。
「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ!」
 残った面々にそう言い残して、正樹もその後を追った。
「一体何なんだろうね?」
 正樹の後ろ姿を見送りながら、真奈美が菜織にそう訊ねた。
「どうせ大した用件じゃないわよ。ま、私達には関係ない話だしね」
 菜織は少し笑いながらそう答えた。
 しかし、この時から菜織達も徐々に運命の輪に巻き込まれて行く事になる。

「あーあ、一体何の用なのかな?」
 校長室に向かう廊下で、正樹が少し不安そうにそうぼやいた。
「フフフ、そんなに心配しなくても大丈夫だよお兄ちゃん」
 乃絵美は、正樹の肩をポンと叩きながらそう慰めた。
「だといいいんだけどな・・・」
 正樹はそう言って、大きな溜め息を1つ吐いた。
 『呼び出された原因=正樹』という図式が成り立っているところなど、日頃の2人の立場を如実に表している。
「スー・・・」
 コンコン
 校長室の前に立った正樹は、大きく深呼吸をした後意を決してドアをノックした。
「はい、どうぞ」
 中から校長の返事が聞こえてくる。
 カチャ
「失礼します!」
「失礼します」
 ドアを開けそう言いながら、続けざまに正樹と乃絵美は校長室に足を踏み入れた。
「あっ!」
 その瞬間、乃絵美は校長と向かい合ってソファーに座っている外人の姿に気付き、思わず声を上げた。
 その人物は、先日出会った外人・ハンスであった。
「乃絵美サン、マタ会エマシタネ」
 ハンスはそう言って、乃絵美にニッコリと微笑みかけた。
「ど、どうも、こんにちは」
 乃絵美は小さな声でそれに答えると、軽く会釈をした。
 チョンチョン
「乃絵美、この外人お前の知り合いなのか?」
 そんな乃絵美の脇腹を肘で突付きながら、正樹が小声でそう訊ねた。
「うん・・・ちょっと・・・」
 何と答えていいのか分からなかったので、乃絵美は曖昧にそう言って少し微笑んだ。
『ムカッ』
 そんな乃絵美の態度に、正樹は軽い嫉妬感を覚えた。
「さ、さ、2人とも突っ立ってないで、まずは腰を下ろしたまえ」
 そんな2人に向かって、校長がそう言った。
「あの、校長先生・・・こちらの方は・・・」
 先日から、校長とハンスの間柄が気になっていた乃絵美は、座る前にそう訊ねた。
「おおー、これはすまなかった。彼は『ハンス・シュナイダー』といって私の友人の息子さんでな・・・」
「ハンス・シュナイダー!?まさか!」
 校長から外人の名前が出た途端、乃絵美が思わず驚きの声を漏らした。
「ほほー、さすがに乃絵美くんは知っとるようじゃな?」
 校長の問いかけに、乃絵美はコクンと頷いた。
「何だ乃絵美、この外人さんお笑いタレントか何かか?」
 サッパリ事態を飲み込めない正樹が、小声でそう訊ねた。
「違うよお兄ちゃん!世界的に有名なピアニストだよ!・・・やだ、そんな人に演奏聞かれちゃった・・・」
 乃絵美は先日の事を思い出して真っ赤になった。
「名前、知ッテテモラエテ光栄デス」
 そんな乃絵美にそう言って、ハンスは再びニッコリと笑った。
「ささ、とにかく座りたまえ」
 校長はそう言いながらハンスの横に移動し、自分が座っていた場所に正樹と乃絵美を並べて座らせた。
「あのー、校長先生・・・俺達が呼ばれた理由って・・・」
 校長自らが煎れてくれたお茶を一口飲んだところで、正樹は恐る恐るそう訊ねた。
「うむ、実は乃絵美くんに用があってな・・・それで、一番身近な肉親という事で君にも同行してもらったんじゃ」
「乃絵美にですか?」
 正樹は予想外の展開に驚いて、思わず乃絵美と顔を見合わせた。
「単刀直入に言ってしまおう!乃絵美くん、ドイツに音楽留学をするつもりはないかね?」
「えっ!?」
「いっ!?」
 全く予想もしなかった校長の言葉に、乃絵美と正樹は同時に驚きの声を上げた。
「留学って一体・・・?」
 乃絵美は、茫然とした口調でそう訊ね返した。
「うむ、実はな・・・」
「ソコカラ先ハ、私ガ話シマショウ」
 校長が再び口を開こうとした時、ハンスがそう言いながら校長を手で制した。
 校長は軽く頷くと、スッと後ろに体を退いた。
「乃絵美サン、ドイツニ私ガ講師ヲ勤メル由緒正シイ音楽学校ガ有リマス。ソコヘアナタヲ特待生トシテ招キタイノデス!」
 ハンスが真剣な表情でそう語りかけた。
「え?何で私なんか?・・・私、本格的にピアノを習った事もないし・・・技術だって全然だし・・・」
 ハンスの気迫に気圧されたのか、乃絵美がどぎまぎしながらそう答えた。
「ノー!ソレハ違イマス!!」
 ビクッ!
 ハンスの強い言葉に、その場にいる全員の体が一瞬震えた。
「ピアノハ技術デ弾クモノデハアリマセン!心デ弾クモノデス!!」
『!』
 ハンスの言葉に、乃絵美は軽い衝撃を受けた。
『お母さんと同じこと言ってる・・・』
 そう、ハンスの言葉は、以前乃絵美がピアノを習ったときに母親が言い聞かせてくれた言葉と全く同じだったのだ。
「乃絵美サンノピアノヲ聞イテ直グニ分カリマシタ。アナタガ心デピアノヲ弾イテイル事ガ。アノ音色ニハ、トテモ暖カイ気持チガ溢レテイマシタ」
 ハンスはそう言いながら、優しい笑顔を乃絵美に向けた。
『あの時、お兄ちゃんの事を考えてたから・・・』
 乃絵美は、ハンスの洞察力に驚き、同時に彼を充分に信用するに足る人物だと確信した。
『でも・・・』
 乃絵美はそこで考え込んでしまった。
 世界的なピアニストが自分をスカウトしてくれている・・・それはこの上もなく名誉な事だった。
 しかし、乃絵美はこの桜美町を離れたくなかったし、留学して向こうで生活していく自信もなかった。
 そして何より、正樹と離れ離れになるのは絶対に嫌だった。
 チラリ
「・・・・・」
 乃絵美が横に視線を送ると、そこには強ばった表情で押し黙っている正樹の表情があった。
『お兄ちゃんはどう思ってるんだろう・・・』
 それを見て、乃絵美はふとそんな事を思った。
 正直、乃絵美はこの話を断ろうと思っていた。
 しかし、もし正樹がこの話に乗り気になったら・・・。
『良い話じゃないか!乃絵美、是非とも留学しろよ!』
 笑顔でそう言う正樹の姿を想像しただけで、乃絵美の瞳はジンワリと潤んできてしまった。
『お兄ちゃん・・・お願い、何か話して・・・行くなって言って・・・』
 乃絵美は正樹を見つめながら、心の底からそう願った。
 ガタン!!
 その時、ソファーを大きくずらしながら、正樹が突然立ち上がった。
 バン!!
「冗談じゃない!!」
 テーブルに思い切り手を叩きつけながら、正樹が開口一番そう言い放った。
「!」
 これには、校長もハンスも乃絵美も度肝を抜かれた。
「音楽留学!?確かに乃絵美の才能を認めてくれたのは嬉しいけど、何でドイツまで留学しなくちゃならないんだ!?日本だって音楽の勉強はできるだろ!?第一、そんな異国の地で乃絵美を一人ぼっちなんかに出来るか!!寂しくなった時誰が側にいてやれるんだ!?病気になった時誰が看病してやるんだ!?誰が乃絵美を守ってくれるんだ!?」
 呆然とする面々を尻目に、正樹は一気にそう捲し立てた。
「い、伊藤くん、落ち着きたまえ。君の気持は分からないでもないが、やはり本気で音楽に打ち込むつもりならば、より良い環境の方がいいとは思わないかね?第一、留学といってもほんの2、3年なのだよ。世界の『ハンス・シュナイダー』が認めてくれたんだよ。こんな幸運は滅多にないと思うがね」
 正樹の迫力に気圧されながらも、校長はそう言って正樹を宥めた。
 バン!!
「『ほんの2、3年』だって!?今の年頃の2、3年がどれほど大事なものか、校長先生だって充分にわかってるでしょ!?世界的なピアニストだか何だか知らないけど、1、2回会っただけのあんたに何が分かる!?俺は乃絵美の事を16年間見続けてきたんだ!乃絵美の事なら誰よりも分かってる!乃絵美に留学なんて必要ない!いや、留学なんて絶対にさせない!!」
 正樹はそう断言して、キッとハンスを睨み付けた。
「お兄ちゃん・・・」
 そんな正樹を見て、乃絵美の瞳から涙が一筋流れ落ちた。
 勿論、それは嬉し涙だった。
 正樹が自分の事をそれほど大事に思ってくれていた事が、乃絵美にはこの上なく嬉しかったのだ。
「校長先生、ありがたいお話しですが、私もお兄ちゃんと同じ考えです。音楽の勉強は日本でも出来ると思いますし、何より今は日本を離れたくありません。折角のお話しですがお断りします」
 乃絵美は、誰にも見られないように涙を拭いながら、校長にそう告げた。
「の、乃絵美!?」
「の、乃絵美くん!」
 その言葉を聞いて、正樹は驚きの表情で乃絵美を見つめ、校長は何とか説得しようと慌てて立ち上がった。
 しかし、そんな校長をハンスが手で制した。
「ハ、ハンス?」
「分カリマシタ。無理強イハデキマセンネ・・・残念デスガ、コノ話ハナカッタ事ニシマス・・・」
 乃絵美の表情から強い意志を感じ取ったのか、呆然とする校長を尻目にハンスが静かにそう言った。
「ありがとうございます」
 そんなハンスの言葉に、乃絵美はホッとしながらお礼を言った。
「タダ」
「えっ?」
 ハンスの言葉に、一瞬乃絵美の表情が強張った。
「私ハ仕事ノ関係デ、1週間ホド日本ニ滞在シマス。気ガ変ワッタライツデモ言ッテキテ下サイ」
 ハンスはそう言って、軽くウィンクしてみせた。
「はい」
 乃絵美はそれに笑顔で答えた。
「・・・・・」
 そんな2人のやり取りを、正樹は無言で見つめていた。

 その後、何とか思い止まらせようと校長も粘ったが、休み時間が終わりそうな事もあり2人は校長室から無事開放された。
「・・・・・」
 始業2分前とあって人気の絶えた教室への渡り廊下でも、正樹は一言も喋らなかった。『お兄ちゃん怒ってるのかな?』
 乃絵美はそんな事を考え、ふと寂しい気持に襲われた。
「乃絵美・・・」
 そんな乃絵美に向かって、正樹が不意に話し掛けた。
「何、お兄ちゃん?」
 少しドキドキしながら、乃絵美がそう訊ね返した。
「悪かったな・・・」
「えっ?」
「お前の気持も考えずに勝手な事言っちまって・・・その、もしかしてお前は本当は留学したかったんじゃないのか?」
『お兄ちゃん・・・』
 乃絵美は、正樹がここまで自分の事を気遣ってくれている事が嬉しかった。
 ドキドキドキ
 それと同時に、先程とは異なる胸の鼓動を感じていた。
「お兄ちゃんは、私が留学した方が良かった?」
 それを必死に押さえながら、乃絵美は小さな声でそう訊ねた。
「バカ!それなら、あんな事言う訳ないだろ!!」
 正樹は少し赤くなりながらそう言うと、プイッと横を向いてしまった。
「お兄ちゃん、だーい好き!!」
 そんな正樹の仕種が妙に嬉しくて、乃絵美はそう言いながら正樹の腕に飛び付いた。
「わっ!?こら乃絵美!」
「お兄ちゃん、私ずっとお兄ちゃんの側にいるよ」
 驚き慌てる正樹の腕に顔を寄せながら、乃絵美が静かにそう呟いた。
「ああ・・・」
 正樹はただ一言だけそう答えた。
 しかし、その一言には限りない優しさが込められていた。
 今の乃絵美にはその一言だけで充分だった。
 キーンコーンカーンコーン
 その時、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
「やべ!乃絵美急ぐぞ!!」
 照れ隠しの意味もあったのか、正樹は大袈裟にそう言うといきなり走り出した。
「あーん、お兄ちゃん待って!!」
 乃絵美は少し拗ねたような声でそう言うと、慌てて正樹の後を追った。
 『仲睦まじい兄妹』・・・その時の正樹と乃絵美の姿は誰の目にもそう映っていたに違いない・・・。

 その日の放課後、正樹は一人商店街を歩いていた。
 学期末テストを1週間後に控えたこの時期、エルシア学園は原則としてクラブ活動は休止となり、正樹も早々と家路に就く事ができるようになる。
 しかし、運が悪い事に、こんな時に限って乃絵美は図書委員会、菜織は保健委員会、そして真奈美は家の用件と、全員のスケジュールが見事に埋まってしまっていて、正樹は一人寂しく帰る事になってしまったのだ。
「ハー、ついてないな・・・ん?」
 溜め息を吐きながらそうぼやいた正樹の目に、不意に一件の洋菓子屋が留まった。
 バレンタイン前という事もあり、その店は若い女の子でごった返していた。
「ん、あれは・・・」
 正樹は、その人波の中に見知った顔を見付けた。
 見慣れたエルシア学園の制服、小柄な体、切り揃えたおかっぱ髪・・・間違いなく橋本みよかだった。
 その小さな体のどこにそんな力があるのだろうかと正樹が思うほどの力強さで、みよかは人波を掻き分けて店の外に飛び出してきた。
 その腕の中には、大きな赤い包みがシッカリと抱きかかえられていた。
『ははーん、あれは冴子への本命チョコだな・・・』
 直感的にそう感じた正樹は、探りを入れるべく行動に出た。
「みーよーかーちゃん!」
「キャッ!!」
 ドサッ!
 背後から突然声を掛けられて驚いたのか、みよかは飛び上がって手にしていた物を落としてしまった。
 みよかが落とした包み紙は2つあった。
 1つは先程正樹の目にも留まった赤くて大きな包み、そしてもう1つは赤い包みと比べると随分と小さい黒い包みだった。
「伊藤先輩!?もーう、驚かせないで下さい!!」
 声の主に気付いたみよかは、プンプンしながらそう抗議した。
「いやー、ゴメンゴメン。それより、そのチョコはもしかして橋本先輩の分?」
 正樹はそう言って謝った後、黒い包みにチラリと視線をやりながらそう訊ねた。
「え、え、これは、その・・・」
 どうやら正樹の推測は正しかったらしく、みよかは顔を真っ赤にしながらそう言うと、慌てて包みを回収した。
「お兄さんにチョコレートをやるなんて、みよかちゃんは優しいんだね。きっと橋本先輩喜ぶぞ」
 自分の事と照らし合わせながら、正樹が笑顔でそう言った。
「か、勘違いしないで下さい!あくまでも義理ですよ!ぎ・り!!」
 みよかは益々顔を赤くしながら、そう力説した。
「はいはい、分かってますよ」
 そんなみよかの態度を、正樹は微笑ましく見つめた。
 その後、帰り道が同一方向という事もあって、正樹とみよかはなし崩し的に一緒に帰路に就く事になった。
「伊藤先輩、本当に変な誤解はしないで下さいね!あれは義理以外の何物でもないいんですからね!」
 歩きながら、みよかは何度も何度もそう念を押した。
「分かってるって。だけど、やっぱりお兄さんの事嫌いじゃないんでしょ?嫌いだったらチョコなんてあげないもんね」
「それは・・・」
 正樹が悪戯っぽくそう訊ねると、みよかは恥ずかしそうに俯いてしまった。
 正樹はそれを見て少し嬉しくなった。
 別に正樹に女の子が恥ずかしがる姿を眺める趣味とかがあったわけではない。
 『兄を大切に思う妹』という構図が、妙に嬉しかったのだ。
「た、確かにそれは認めます・・・だけど、あくまでも『お兄ちゃん』として好意を持ってるだけですからね!」
 正樹の言葉を認めながらも、みよかは最後にそう釘を刺した。
「え?それってどういう意味なのかな?」
 その言葉に引っ掛かりを覚えた正樹は、思わずそう聞き返した。
「言葉通りの意味ですよ。『お兄ちゃん』は『お兄ちゃん』であるから我慢できるんですよ!」
 ギク! 
 みよかの言葉に、正樹は少しギョッとなった。
 しかし、そんな正樹の様子にはまるで気付かず、みよかは更に喋り続けた。
「例えば、ウチのお兄ちゃんなんか、『お兄ちゃん』でなければ絶対に嫌いな男の部類に入りますよ!」
 みよかはキッパリとそう言い切った。
「み、みよかちゃん、それはちょっと言い過ぎじゃない?」
「そんな事ありません!」
 恐る恐る訊ねた正樹に向かって、みよかはハッキリとそう言った。
「お兄ちゃんてば、何かと口実を作って私にやたらと話し掛けてくるし」
 ギクッ!
「事ある毎に私を抱っこしようとするし」
 ギクギク!
「この間なんて、私がお風呂入ってる時に間違って入ってきたんですよ!もー信じられないって感じでしょ!?」
 ギクギクギク!
 とても他人事とは思えず、正樹は思わず胸を押さえてうずくまってしまった。
「どうしたんです?大丈夫ですか?」
 さして心配した風でもなく、みよかがそう訊ねた。
「ああ、大丈夫・・・それより、橋本先輩だってそれはわざとやったわけじゃないんだし・・・それぐらいは大目に見てやった方が・・・」
 立ち上がった正樹は、控えめにそう意見した。
「甘い!甘いですよ先輩!それは、兄側の勝手な言い分です!」
「え?」
 みよかの言葉に、正樹の表情が少し強張った。
「さっきも言ったと思いますけど、『お兄ちゃん』だから仕方なく許しちゃう事って結構多いんですよ。例えば、お風呂覗いたのが赤の他人だったら絶対に許せませんよ!その意味で『お兄ちゃん』て得してると思いますよ」
「・・・・・」
 みよかの的を得た意見に、正樹は何も言い返せなかった。
「だけど、妹の側としては、その『お兄ちゃん』の特権ていうのを変に誤解しないでもらいたいんですよね」
「というと?」
「ほら、よくドラマなんかであるじゃないですか、兄に好意的な態度を取っていた妹が、兄と血が繋がっていない事を知って結ばれるっていうような話」
「あ、ああ、確かに・・・」
 正樹の脳裏に、年末に観たドラマが浮かんだ。
「私、あれって絶対に嘘だと思うんです」
「えっ?」
 みよかの言葉に、一瞬正樹の動きが止まった。
「だってそうでしょ?血が繋がってないって事は赤の他人て事でしょ?それを突然知ったからって安易にくっつくなんて、そっちの方がよっぽど不自然ですよ」
「そ、そうかな・・・?」
 正樹は何故か酷くブルーになっていくのを感じ、やっとの思いでそれだけ返した。
「まあ、確かに兄に対して憧れを持つ妹がいるのも事実だと思いますけど、それも『お兄ちゃん』効果の一環だと思いますよ。赤の他人と知った時点で、それも冷めていっちゃうと私は思いますよ」
「・・・・・」
 最早正樹の口からは何の言葉も出ず、その顔面は蒼白だった。
「あの・・・伊藤先輩、大丈夫ですか?」
 そんな正樹の様子に気付いたのか、さすがに顔を曇らせながらみよかがそう訊ねた。
「あ、ああ、大丈夫だよ・・・」
 正樹はそう言いながら、弱々しい笑顔を浮かべた。
「あの・・・私もしかして何か気に障るような事言いましたか?」
 みよかが申し訳なさそうにそう訊ねた。
「い、いや、本当に何でもないんだ。・・・あっ、俺こっちだから!またね、みよかちゃん!」
「あっ・・・」
 本当は曲がるべき角はまだ先だったのだが、何か言いたそうなみよかにそう言い残して、正樹はその場から逃げるように駆け出した。
 勿論みよかの言葉に悪気はない事は分かっていた。
 しかし、みよかの言葉は正樹にとってはかなりショックな物だった。
「『お兄ちゃん』効果・・・か・・・」
 そんな事を呟いた正樹の脳裏には、何故か乃絵美の笑顔が浮かんでいた。

 一方その頃、乃絵美はエルシア学園の校門をくぐろうとしていた。
「ふー、疲れた」
 肩をポンポンと叩きながら、乃絵美がそう呟いた。
 今日の委員会は、会議より図書室の本整理がメインだった為、乃絵美の顔にも少し疲れの色が浮かんでいた。
「乃絵美ーーー!」
 その時、乃絵美は背後から名前を呼ばれ、ピタリと足を止めて振り返った。
「菜織ちゃん、今帰り?」
 乃絵美は、駆け寄ってきた声の主に対して、ニッコリ微笑みながらそう訊ねた。
「ええそうよ。乃絵美も?」
 少し息を切らせながら、乃絵美に追い付いた菜織がそう聞き返した。
「うん、委員会の仕事があったから」
「それじゃ私と同じね。まったく、年度末が近付くと突然委員会って忙しくなるんだから」
 菜織はうんざりしたようにそう言いながら、う〜んと大きく伸びをした。
「フフフ、菜織ちゃんも大変なんだね。保健委員てどんな仕事をするの?」
 菜織の仕種に目を細めながら、乃絵美はそう訊ねた。
「そうね・・・普段は消耗品のチェックとかがメインなんだけど、この時期になると在校生の健康診断データの整理があるのよね」
「そっか、新学期始まるとすぐに健康診断だもんね」
 乃絵美は、春の恒例行事を思い浮べながらそう言った。
「そういう事。ま、データの整理って言っても、個人データのファイルを倉庫から引っ張り出してくるだけだけどね」
「お互い肉体労働だね」
「まったく」
「フフフ」
「アハハ」
 乃絵美の言葉に菜織がおどけて答えたところで、2人は声を揃えて笑い出した。
「ところで乃絵美、今日はこのまま真っ直ぐ帰るの?」
 笑いが一段落したところで、菜織がそう訊ねた。
「ううん・・・ちょっと寄り道して行こうと思ってるの」
 乃絵美が軽く首を振りながらそう答えた。
「もしかして、『エーデルワイス』に寄ってくつもりなんじゃない?」
「えっ!?どうして分かったの?」
 乃絵美が心底驚いた顔でそう訊ねた。
「正樹へのチョコレートでしょ?乃絵美って凝り性だから、きっとあそこへ行くと思ったのよ」
 菜織がしてやったりといった顔でそう説明した。
 菜織が言っている『エーデルワイス』とは、最近桜美町商店街の一角に出来た食材専門店である。
 洋菓子関係の食材も豊富に取り揃えられており、乃絵美も一度は行ってみたいと思っていたのだ。
「もしかして、菜織ちゃんもあそこへ行こうと思ってたの?」
「うん、そのつもりだったんだけど・・・駄目かな?」
 菜織が伺うような表情でそう訊ねた。
「ううん、全然問題ないよ!私も菜織ちゃんが一緒の方が心強いし、2人で行こうよ!」
「そう言ってもらえると嬉しいわね。それじゃ、一緒に行きましょう!」
「うん」
 乃絵美と菜織は確認しあうように頷くと、商店街に向かって歩き出した。
 他愛もないお喋りをしながら歩いていた2人は、ほどなくして目的地『エーデルエワイス』に到着した。
 時期が時期だけあって、こぎれいな店内は女の子で溢れかえっていた。
「ふえー、これみんなチョコレート買いに来た人かしら?」
 その光景を目の当たりにして、菜織が少しうんざりしたように呟いた。
「そうみたいだね。・・・やっぱり菜織ちゃんもチョコレートの材料を買いに来たの?」
 乃絵美は気になっていた事をさり気なく訊ねてみた。
「まあね・・・正樹には毎年何だかんだ言いながらもあげてるからね。まあ、あくまでも『義理』だけどね」
 菜織がテヘヘと照れたようにそう答えた。
「フフフ」
 そんな菜織を見て乃絵美が突然笑い出した。
「な、何よ・・・いきなり笑うなんて・・・」
 そんな乃絵美に対して、菜織がギョッとした表情で訊ねた。
「ごめんなさい・・・。だって、菜織ちゃんてば、一言も言ってないのにお兄ちゃんへのチョコのことだって思ってるから」
 乃絵美はそう言いながら、もう一度クスッと悪戯っぽく笑った。
「うっ・・・参ったわね、乃絵美に一本取られるなんて・・・だけど、そういう乃絵美だって正樹へのチョコレートの為にここまで来たんでしょ」
「うっ・・・」
 菜織の起死回生の一言に、今度は乃絵美が言葉に詰った。
「フフフー、これでおあいこね」
「やっぱり菜織ちゃんには叶わないなー」
 乃絵美はそう言って小さな溜め息を吐いた。
「私に勝つには、まだまだ修行が必要ね!」
「お見それしました」
 わざと偉そうに言う菜織に対して、乃絵美が少しおどけた感じで頭を下げた。
「ウフフフフ」
「アハハハハ」
 その後2人は、声を揃えて笑いあった。
「さ、乃絵美行きましょう!うかうかしてると買いそびれちゃうわよ!」
「うん!」
 乃絵美の返事を合図に、2人は込み合う店内に飛び込んで行った。
「うわー、やっぱり色々あるね」
 しばらく店内を物色した後、乃絵美が感心したようにそう言った。
「ホントねー、これだけあると目移りするわね」
 菜織が様々な種類の板チョコが並べられた陳列ケースを見ながらそう相槌を打った。
「そう言えば、確か去年も菜織ちゃんと一緒にチョコレート買いに行ったよね?」
「そうだったわね。あー、思い出しちゃった」
「え?なになに?」
 ニヤーと思い出し笑いをする菜織を見て、不安そうに乃絵美が訊ねた。
「去年のチョコレートよ。例の小猫の・・・」
「あっ!あれは・・・菜織ちゃんまだ覚えてたの?」
 乃絵美は少し頬を赤くしながら口を尖らせた。
「覚えてるわよ。正樹ってば、あんたにもらったチョコレートを私や冴子の前で食べようとしたら、それがあんまりラブリーな猫型のチョコだったんでそのまま固まっちゃったのよね。あの後、散々ミャーコにもからかわれたしね」
「もうーあれは忘れてよー。あの後お兄ちゃんに『何だってこんな恥ずかしいチョコなんてよこすんだ!?』って怒られたんだから」
 クスクス笑っている菜織に、顔を顰めながら乃絵美が言った。
「ゴメン、ゴメン。だけど正樹も酷い奴よねー。こんな可愛い妹にチョコもらって文句付けるなんて」
「ううん、そんなことないよ。お兄ちゃん結局あのチョコ全部食べてくれたもの」
 菜織の言葉に、ブンブンと首を振りながら乃絵美がそう答えた。
「だからこそ、毎年あげちゃうんだけどね」
 ペロリと舌を出してそう言った乃絵美を見て、菜織はクスッと笑った。
 それは、誰が見ても可愛いと思う『妹』の姿だった。
「さーて、今年はどんなチョコにしましょうかね?」
 菜織は少しふざけながらそう言って、再び視線を陳列ケースに戻した。
「今年は手作りチョコだから難しいな・・・あ、このチョコ色合いが良いな」
 乃絵美がそう言いながら、1袋の板チョコに手を伸ばした。
「どれどれ?あ、ホントに良さそうね。甘目のマイルドタイプだから正樹には丁度良いんじゃない?」
 袋に貼ってあるラベルに目をやりながら菜織がそう言った。
「うん。・・・お兄ちゃん、喜んでくれるかな?」
 ドキッ!
 そう呟いた乃絵美の横顔に、菜織はドキリとさせられた。
 それは、乃絵美の横顔が『兄を思う妹』のそれではなくて『恋人を想う女の子』のそれだったからだ。
『乃絵美・・・あんたまさか・・・』
 菜織はその時、今まで漠然と感じていた事が現実になったような気がした。

 その日の夕食後、正樹は自分の部屋のベッドに寝っ転がっていた。
「ハー・・・『お兄ちゃん効果』か・・・」
 正樹は昼間のみよかの言葉を思い出し大きな溜め息を吐いた。
 なまじ橋本まさしを良く知っているだけに、みよかの言葉には妙なリアリティが感じられた。
「やっぱり兄妹ってそんなもんなのかな・・・」
 正樹はそう呟いて天井を見上げた。
「だー、やめやめ!いつまでウジウジ考えてても仕方ない!よし、ビデオでも借りてこよう!」
 正樹は自分を鼓舞するようにそう言うと、ガバッと起き上がった。
「えっと、財布、財布・・・あっ、やべ洗面所に置いてきちまったか?」
 レンタルビデオショップの会員カードが入った財布を探していた正樹は、帰宅後の自分の行動を思い出しながらそう呟いた。
 ガチャ!トン、トン、トン
 自分の部屋を出た正樹は、軽快な足取りで階段を下りそのまま洗面所に向かった。
 ドアの前に立って正樹がそれを開けようとした時、
 ピチャン
 洗面所と隣接している浴室の方から僅かな水音がした。
「まさか!?」
 過去にも苦い経験をしている正樹は、慌ててドアノブから手を放した。
「母さん、今誰か風呂入ってるのー!?」
 事実を確認すべく、正樹は台所の母親に向かって大声でそう訊ねた。
「乃絵美が入ってる筈よ」
 母親からは、予想通りの答えが返ってきた。
「洗面所に財布置いてきちゃったんだけどさ、母さん取ってきてくれない?」
 正樹は台所を覗き込みながら、母親にそう頼んだ。
「え?悪いけど、今手が放せないのよ。自分で取ってきなさい」
 忙しそうに鍋をかき混ぜながら、母親は素気無くそう言った。
「いや、その・・・」
「なに?乃絵美に遠慮してるの?変な子ね・・・気にしないで取りに行きなさい」
 口篭もっている正樹にそう言うと、母親は再び作業に没頭しだした。
「ちぇっ・・・」
 仕方なく正樹は、再び洗面所のドアの前に戻った。
「この際しょうがないよな・・・」
 そう呟いてドアのノブに手をかけた正樹だったが、どうしてもドアを開く事が出来なかった。
『私がお風呂入ってる時に間違って入ってきたんですよ!』
 正樹の脳裏には、昼間のみよかの台詞と嫌悪感に溢れた表情が焼き付いていたのだ。
「仕方ない、待つとしようか・・・」
 正樹はそのままドアの前で乃絵美が出てくるのを待ち続けた。
 カチャ
 30分後、全身から湯気を出しながらパジャマ姿の乃絵美が姿を現した。
「お兄ちゃん、こんな所でどうしたの?」
 すぐに正樹の存在に気付いた乃絵美は、驚いてそう訊ねた。
「ああ、ちょっと取りたい物があってな・・・おっ、これこれ」
 正樹はスルリと洗面所内に入ると、自分の財布を手に取った。
「それで、わざわざ私が出てくるのを待ってたの?遠慮せずに入ってくれば良かったのに」
「まあ、そうなんだけどな・・・っと、俺ちょっと出かけてくるからさ!それじゃな!」
 不思議そうに訊ねてくる乃絵美をそうはぐらかすと、正樹は慌てて家を飛び出して行った。
「変なお兄ちゃん?」
 正樹の心中など知る由もない乃絵美は、その後ろ姿にただただ首を捻るばかりだった。


 それから数日が経ち、迎えた12日・金曜日・・・それは起こった。
「もう〜、いくら整理が間に合わないからって、こんな朝早く呼び出されたんじゃ堪んないわよね」
 保健室の片付けの為に早朝から呼び出された菜織は、そうぼやきながらも生徒の健康データが記載されたファイルケースを手際良く片付けて行った。
 これが真奈美だったらパニック状態に陥る所だが、菜織は全く躊躇することなく次々とファイルを整理して行く。
 しかし、思わぬ落とし穴が待っていた。
 スッテーン!ガサガサガサー!
「いたたたた・・・」
 調子に乗ってファイルを山のように抱えた菜織は、足元に落ちていたファイルに気付かずそれを踏んでしまったのだ。
 その結果、菜織は見事に尻餅をつき、抱えていたファイルは床一杯にぶちまけられてしまった。
「あっちゃー・・・やっちゃった・・・」
 床一面に広がるファイルの群れを見て、菜織は思わず天を仰いだ。
「ま、今更悔やんでも仕方ないか!早くしないと授業が始まっちゃうし・・・よし!」
 菜織は彼女らしい切り替えの早さを見せると、すぐさま片付けを再開した。
「よっと、よっと・・・ん?」
 床に散らばったファイルを拾い上げていた菜織の手が、ある1冊を持ち上げた時ピタリと止まった。
「あら、これ乃絵美のファイルじゃない」
 菜織の言う通り、ファイルに挟まれた用紙には『伊藤乃絵美』の名が刻まれていた。
「どれどれ・・・」
 普段はこんな覗き見のような事は絶対にしない菜織だったが、見知った間柄という事もあって、遂々中身をチェックし始めてしまった。
「どれどれ、1年前の乃絵美のスリーサイズは・・・ふむふむ、こんなもんだったのね。こうしてみると乃絵美も随分成長したわよねー」
 妹を見守る姉のような表情で、菜織は感慨深げにそう呟いた。
「あら、乃絵美ってA型なんだ。確かに几帳面な乃絵美にはピッタリな血液型だわね」
 乃絵美の血液型の欄を見て、菜織はそんな事を思った。
「そう言えば正樹が昔言ってたわよね。『ずぼらなO型一家のウチの中で、乃絵美だけが唯一几帳面だ』って・・・確かに、正樹はズボラで優柔不断な典型的O型タイプよね」
 自分がO型である事を棚に上げて、菜織はプッと吹き出した。
「そっか、乃絵美だけがA型か・・・えっ!?」
 そう呟いた時、菜織は自分の言っている事が不自然なことに気付いた。
「正樹がO型で・・・おばさまやおじさまもO型・・・何で乃絵美がA型なの?」
 菜織の疑問ももっともである。両親が共にO型だった場合、その子供は必ずO型になり、A型の子供が生まれる事は有り得ないのだから・・・。
「まさか、そんな・・・」
 菜織は、そこから自分が導き出した結論に愕然とした。
 床に散らばったファイルを片付ける事も忘れ、菜織はただただ呆然とその場に佇む事しか出来なかった。

「正樹、ちょっと付き合ってくれない?」
 その日の昼休み、昼食を食べおわった頃を見計らって、菜織が正樹にそう言った。
 それは、午前中考え抜いた末に菜織が出した結論だった。
「なんだ、何か用か?」
 何も知らない正樹は、不思議そうな顔でそう聞き返した。
「お願い、中庭まで付き合って・・・大事な話があるの・・・」
「話しだったらここで聞くぜ。わざわざ寒い中庭に出なくても・・・」
「お願い!」
「えっ・・・?」
 予想外の大声とかつて見たこともないような菜織の真剣な表情に、正樹は絶句した。
「分かった・・・行こうぜ」
 只ならぬ雰囲気を察した正樹は、大人しく菜織の言う事に従い教室を後にした。
『正樹くん、菜織ちゃん・・・』
 連れ立って出ていく2人を、真奈美が心配そうに見つめていた。
「で、話しってのは何なんだ?」
 中庭に出て辺りに誰もいない事を確認した正樹は、開口一番そう訊ねた。
「正樹・・・あんたの血液型、O型だったわよね?」
「お、おお・・・」
 突然の菜織の質問に戸惑いながらも、正樹は反射的にそう答えた。
「それじゃ、おじさまとおばさまの血液型は?」
「な、何だよ?俺の両親の血液型なんて聞いてどうするんだ?血液型占いでも・・・」
「いいから教えて!」
 ビクッ!
 菜織の一喝に、おちゃらけていた正樹の体が一瞬硬直した。
「ゴメン・・・だけど大切な事なの・・・」
 菜織はそう言って謝ったが、相変わらず表情は真剣そのものだった。
「分かったよ・・・父さんも母さんも俺と同じO型だよ」
「!!」
 正樹の言葉に、菜織の目がカッと見開いた。
「なんだよ?何をそんなに驚いてるんだよ?」
 正樹は菜織の驚きの理由が分からず、声を荒げてそう訊ねた。
「・・・・・正樹、あんた乃絵美の血液型知ってる?」
 しばしの沈黙の後、俯きながら菜織がそう訊ねた。
「乃絵美?・・・そうだな、几帳面なあいつの事だから・・・確かA型じゃなかったけかな?」
 菜織の質問に、戸惑いながらも正樹はそう答えた。
「正樹・・・変だと思わない・・・」
「え?変て、何が・・・あっ、そうか!父さんと母さんがO型だもんな、乃絵美だってO型だよな!いやー勘違い、勘違い」
 正樹は自分の言葉の矛盾に気付き、頭をポリポリ掻きながら照れ笑いをした。
「勘違いじゃないよ・・・」
 そんな正樹に、唇をギュッと噛み締めながら菜織がそう言った。
「え?勘違いじゃないって?」
「正樹、今から言う事、落ち着いて聞いてね・・・」
 キョトンとしている正樹に向かって、顔を上げた菜織がそれまで以上に真剣な顔でそう言った。
「何だよ改まって?」
「正樹がさっき言ってた事・・・勘違いなんかじゃないよ・・・」
 菜織が少し震える声でそう言った。
「俺がさっき言ってた事って・・・乃絵美の血液型がA型だって事か?」
 コクリ
 正樹の問いかけに、菜織は黙って首を縦に振った。
「なに言ってんだよ!?お前、保健委員のくせに知らないのか?いいか、よく聞けよ。O型同士の両親からはO型以外の子供は決して産まれな・・・」
「そんな事は分かってるわよ!」
 バッ!
 菜織はそう叫ぶと、正樹の眼前に1枚の紙を突き出した。
「何だこれは?」
 正樹が至極当然な質問をした。
「乃絵美の去年の健康診断書のコピーよ。本当はこんな物を持ち出しちゃいけないんだけど・・・良く見てみて・・・」
 菜織は伏し目がちにそう言いながら、正樹に紙を手渡した。
「どれどれ・・・えっ!?」
 話しの展開上自然と目が行った血液型の欄で、『A型』の文字を見付けた時、正樹は絶句した。
「これは一体・・・?」
「本当はこんな事教えない方がいいかもって思った。・・・ううん、今も思ってる!だけど正樹、あんたは知っておくべきだと思うの・・・」
「な、何言ってんだよ・・・菜織・・・」
 正樹は訳が分からず、いや、訳が分からない振りをして菜織にそう訊ねた。
「その診断書通りよ。・・・正樹、乃絵美とあんたは本当の兄妹じゃないわ!」
 ガーン!
 覚悟していた事とはいえ、菜織の言葉に正樹はとてつもない衝撃を受けた。
「な、何言ってんだよ!?こんなもん誤診に決まってるだろ!さもなくば、医者が故意に間違ったんだ!」
「正樹・・・血液型って人の命に関わる大事なことだよ。そんな物をお医者さんが間違うと思う?ましてや、故意に間違えてお医者さんに何の得があるっていうの?」
 うろたえる正樹を、菜織は冷静な声でそう諭した。
「・・・・・」
 菜織に言われるまでもなく、正樹自身もこれが事実である事には気付いていた。
『俺と乃絵美は血が繋がってないってのか?』
 キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン
 正樹が心の中でそう反芻した時、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
『俺と乃絵美が兄妹じゃないなんて・・・』
 チャイムに反応することなく、正樹は呆然とそんな事を考えていた。

 結局、正樹と菜織は午後の授業を早退し、市役所に駆け込んだ。
 以前乃絵美がそうしたように、事の真相をハッキリさせるため正樹も戸籍抄本を手に入れるためだ。
「戸籍抄本1部ですね?どうぞ」
 程なくして、カウンターのお姉さんが正樹に1通の戸籍抄本を手渡してくれた。
 ガサガサ
 慌てて広げながら正樹と菜織が覗き込んだそれには、乃絵美が養女である事がハッキリと記載されていた。
『そんな・・・』
 それを見た時正樹の中で湧き起こったのは、驚きでも悲しみでも喜びでもなく『恐れ』だった・・・。


 衝撃の事実を知ってしまったその日の夜、正樹は結局一睡もできなかった。
『乃絵美が本当の妹じゃないなんて・・・』
 最悪の目覚めを迎えた正樹は、寝転んだままぼんやりとそんな事を考えていた。
 正樹は、昨日の出来事をまだ誰にも話してなかった。
 無論、親に事実を確かめようと何回も思った。
 しかし、それはどうしても出来なかった。
 それによって、親の口から乃絵美に真実が明かされる事が怖かったのだ。
『乃絵美・・・』
 不意に、正樹の頭の中をここ数ヶ月の乃絵美の姿がよぎっていった。
 正直な話、正樹は心の何処かで『乃絵美と血が繋がっていなければ・・・』と思っていた。
 そうすれば、自分の乃絵美への想いは邪な物でなくなるのだから・・・と。
 そして今それは現実の物となった。
 正樹と乃絵美が実の兄妹でない事は、法律上証明されたのだ。
 しかし、正樹を襲ったのは『喜び』ではなくて『恐れ』だった。
 乃絵美が実の妹でないと知った時、正樹は同時に気付いてしまったのだ。
『もし、乃絵美が俺の事を兄だからこそ慕っているとしたら・・・俺が兄ではなく唯の男だと分かった時、乃絵美は・・・』
 そう考えた瞬間に、正樹は恐怖した。『乃絵美』というかけがえのない存在が自分の側を離れて行ってしまう事に。
 だからこそ、今はまだ乃絵美には真実を知って欲しくなかったのだ。
 その意味で、絶対に口外しない事を約束してくれた菜織の気遣いが正樹にはありがたかった。
「乃絵美・・・」
 正樹は小さくそう呟くと、今日学校が休みである事に感謝しながら浅い眠りに就いた。

 一方、当の乃絵美はそんな事など露程も知らず、エプロン姿で台所に立っていた。
『良かった、お兄ちゃんまだ起きてこないみたいだ』
 聞き耳を立て正樹の気配を探っていた乃絵美は、ホッと安堵の息を漏らした。
「さーて、急がなくっちゃ!」
 楽しそうにそう言った乃絵美の手には、銀色のボールと泡立て器が握られている。
 台所のダイニングテーブルの上に並べられた様々な食材、その中には先日購入したチョコレートの姿もあった。
 そう、乃絵美にとって今までの人生の中で最も重要なチョコレート作りが今から始まろうとしているのだ。
「美味しいチョコを作らなくちゃ!」
 乃絵美は自分に気合を入れるように呟くと、買ってきた板チョコを湯煎にかけ溶かし始めた。
 楽しそうながらも、乃絵美の表情は真剣そのものだった。
 それもその筈である。乃絵美はそのチョコレートに全てを賭けていたのである。
 乃絵美はこのチョコレートを作る前にある決心をしていた。
『このチョコレートを渡すと同時に、私の本心と真実をお兄ちゃんに全て話す』
 それが乃絵美の立てた決心であった。
 勿論、正樹に拒絶された時の事を考えると、乃絵美の胸は不安で押し潰されそうになった。
 しかし、それに負けない『強さ』が今の乃絵美にはあった。
 ここ数ヶ月の様々な経験が、乃絵美をいつの間にか成長させていたのだ。
『大丈夫、どんな結果になっても私は後悔しない』
 乃絵美の心には最早一点の曇りもなかった。
 溶かしたチョコレートに、甘味を増す為の砂糖や生クリームと一緒に自分の『想い』も練り込み、乃絵美はチョコレート作りに没頭した。
 乃絵美が全てに立ち向かう決心をしたその時、正樹は真実を知り苦悩している。
 この運命の悪戯が、後に2人の悲劇を招く事になる。
 明けて14日、バレンタインデー当日・・・正樹は早朝から家を抜け出した。
 乃絵美は何も言わなかったが、家に充満しているチョコレートの匂いで、正樹には今日乃絵美がチョコレートをくれるであろう事が分かっていた。
 だからこそ、正樹は乃絵美が起きる前に家を抜け出した。
 勿論、乃絵美からチョコをもらうのが嫌なわけではない。むしろ、その逆だった。
 しかし、乃絵美がくれるのはあくまでも『妹』から『兄』への義理チョコであり、それ以上の物ではない・・・。
 よしんば、それ以上の物であったとしても、それは自分が『実の兄』であることが前提になっていると正樹は思っていた。
 今の正樹には、とても冷静にチョコレートを受け取る事など出来なかった。
 正樹にとって行き先などどこでも良かった。ただ、今日1日時間さえ潰せれば・・・。
 正樹はそのまま当てもなく歩き続けるのであった。

 コンコン
 その2時間後、乃絵美は高鳴る胸を必死に押さえながら正樹の部屋のドアをノックした。
「・・・・・」
 しかし、いつまで経っても正樹からの返事は返ってこなかった。
 カチャ・・・
「お兄ちゃん?」
 正樹からの返答が来ない事を不審に思った乃絵美は、少し開けたドアの隙間から部屋の中を覗き込んだ。
 部屋の中はガランとしていて、当然寝ているだろうと思われたベッドももぬけの空だった。
「お兄ちゃん、どこ行ったんだろう?・・・ん?」
 部屋の中を見渡した乃絵美は、普段壁に掛けてある正樹のジャンパーがない事に気付いた。
「お兄ちゃん外へ出かけたのかな?」
 乃絵美は後ろ手に隠し持っていたチョコレートの包みをチラリと見て、寂しそうに呟いた。
「よし!」
 しばらくその場に佇んでいた乃絵美だったが、やがて大きく頷くと自らも出かけるべく玄関に向かって歩き出した。

 どれくらい歩き回っただろう、歩き疲れた正樹はとある公園のベンチに腰を下ろしていた。
 正樹の心と反比例するように空は晴れ渡り、公園にはのどかな風景が流れていた。
「俺は一体何やってるんだろ?」
 俯いて自分自身の行動を思い返しながら、正樹は自嘲気味にそう呟いた。
「はいお兄ちゃん、チョコレート!」
「えっ?」
 正樹は突然の言葉に驚き、思わず顔を上げた。
 すると、数メートル先に7、8歳くらいの男の子と女の子が向かい合って立っているのが見えた。
 女の子が男の子にチョコレートを差し出している所をみると、どうやら2人は兄妹で、先程の台詞はその女の子が発したものらしいという事が分かった。
 ニコニコ顔で女の子が差し出しているのは、何処にでも売っているような普通の板チョコだった。
 正樹はその光景にデジャブを覚え、何故かお兄さんらしき男の子が次にとる行動が予測できた。
「いらねーよ、そんなもの!」
 正樹の予想通り、男の子はプイと横を向きハッキリとそう言い切った。
 そう、それは10年ほど昔、正樹が初めて乃絵美にチョコレートをもらった時と全く同じ反応だったのだ。
「う、う、う、うえーーーん!!」
 10年ほど昔の乃絵美がそうだったように、女の子はたちまち涙を溢れさせ大声で泣き始めた。
「うえ、うえ、うえーーーん!!」
 女の子は更に声を大きくして泣き続けた。 
 しかし、正樹は敢えて声をかけなかった。男の子が次にとる行動が分かっていたからだ。
「お、おい・・・そんなに泣くなよ!俺が悪かったよ・・・チョコもらうからさ、もう泣き止めよ」
 男の子はそう言って、女の子が手にしていたチョコを掴んだ。
「ホントに?」
 そんな男の子の態度に、女の子はピタリと泣き止んだ。
「ホントにホントだよ!だから泣き止めよ。ほら、そろそろ家に戻るぞ!」
 男の子は照れ臭そうにそう言うと、女の子の手を引いて歩き始めた。
「お兄ちゃん、ホワイトデーには『ばいがえし』で何かちょうだいね」
「バ、バカ言うなよ!そんなのありか!?そんなんなら、このチョコ返すよ!」
「ダーメ!一度もらったものは返せないんだよ!」
「ちくしょー、だまされた!!」
 その兄妹はそんな微笑ましい会話を交わしながら公園を去っていった。
『俺にもあんな時代があったな・・・』
 正樹はその兄妹の後ろ姿を見送りながら、照れ臭さから乃絵美を泣かせてしまった昔の事を思い出していた。
『あの頃はずっと仲の良い兄妹でいられると思ったのに・・・今は・・・』
 正樹はそんな事を考え、再び俯いてしまった。
 勿論、正樹が乃絵美を大切に思う気持ちは、昔も今も変わりなかった。
 しかし、乃絵美が実の妹でないと知ってしまった今、正樹の乃絵美に対する想いは、昔の『兄妹愛』から『一人の女性に対する愛』へ変わりつつ・・・いや、完全に変わってしまっていた。
 正樹の取るべき道は2つあった。
 1つは、このまま真実をひた隠し生涯『兄妹』の関係を貫き通すこと。
 そしてもう1つは、全ての真実を晒し、乃絵美に自分の『想い』を伝えること。
 言うまでもなく正樹の望みは後者だった。
 しかし、そのリスクの大きさは、今の正樹にとって脅威だった。
『俺が乃絵美の事をそんな目で見てたと知ったら、乃絵美はどう思うだろう?』
 そう考えると、正樹はどうしても踏み切ることが出来なかった。
 冷静に考えれば、この数ヶ月の乃絵美の行動は、一般の妹が兄に対してとる行動を遙かに超えているものだという事に正樹も気付いた筈である。
 しかし、乃絵美が全ての真実を知っている事など予想できる筈もない今の正樹には、そこまで冷静に考える事は出来なかった。
 『オール・オア・ナッシング』、いつの間にか正樹の頭の中にはそんな図式が出来上がってしまっていた。
 今の正樹にとって、乃絵美は掛け替えのない女性だった。
 乃絵美の笑顔が見られない生活など考えられないし、乃絵美に嫌われたくはなかった。
 そこで、正樹が導き出した答えは『兄妹』で有り続ける事だった。
 しかし、それは同時に正樹に大きな矛盾をもたらしていた。
 『兄妹』で有り続けようとすればするほど、乃絵美の笑顔が優しさが正樹の胸に痛いのだ。
 決して手に入れてはいけない禁断の果実・・・、見守り続ければそれは永久に自分の側に存在するが、それが放つ香りに抗うのは余りにも辛すぎた。
 そして、正樹には乃絵美を避ける事しか出来なくなっていた。
 乃絵美を失いたくないばかりに、乃絵美との距離をとらなくてはいけない・・・そんなジレンマに正樹はもがき苦しんでいた。
『誰か教えてくれ・・・俺はどうしたら良いんだ?』
 自分でも情けないとは思ったが、正樹は見えない誰かに助けを求めていた。
「正樹・・・くん?」
 その時、正樹は不意に声をかけられた。
 先程とは異なり、今度はハッキリと名指しで正樹の事を呼んでいる。
 ガバッ!
 驚いて正樹が顔を上げると、そこには少し心配そうな顔をした真奈美が立っていた。
「真奈美ちゃん?」
「やっぱり正樹くんだったんだ。あんまり雰囲気が違うから別の人かと思っちゃった」
 真奈美は少しホッとしたようにそう言った。
「ご、ごめん・・・ちょっと考え事してたもんで・・・。真奈美ちゃんは散歩か何か?」
 正樹は咄嗟にそう言って誤魔化した。
「う、うん・・・そんなとこ。・・・正樹くん、隣いいかな?」
 真奈美は曖昧に頷くと、正樹の隣を指差しながら訊ねた。
「あ、ああ、勿論・・・どうぞ」
 正樹はそう答えると少しだけ端にずれた。
「それじゃ遠慮なく、・・・よいしょっと!」
 真奈美はスカートが皺にならないように押さえながら、ゆっくりと腰を下ろした。
「き、今日は良い天気だね。こんな天気のいい日は、ついついお散歩したくなっちゃうよね?」
「うん・・・そうだね・・・」
 そんな会話を交わした後、2人はお互いに黙り込んでしまった。
「あのね、正樹くん・・・」
 数分後、先に口を開いたのは真奈美だった。
「ん?なに?」
「さっきは散歩なんて言ったけど、私本当は正樹くんを探してたの・・・」
「俺を?」
 正樹が驚いたように訊ねると、真奈美はコクンと頷いた。
「俺に何か用なの?」
 正樹がそう訊ねると、少しモジモジしながら真奈美は1つの包みをポーチから取り出した。
「えっと、あのね・・・今日はバレンタインでしょ?だから・・・はい、チョコレート!」
 真奈美は真っ赤になりながらそう言うと、包みを正樹に差し出した。
「これを・・・俺に?」
 正樹の問い掛けに真奈美はコクリと頷いた。
「ありがとう、真奈美ちゃん・・・」
 心の底から喜べない罪悪感を感じながら、正樹はその包みを受け取った。
「あっ・・・」
 包みを受け取った時、正樹は真奈美の指が絆創膏だらけの事に気付いた。
「あっ、これ?・・・えへへ、私ぶきっちょだから、チョコ溶かす時に火傷しちゃって・・・」
 真奈美は恥ずかしそうにそう言うと、手をサッと後ろに隠した。
『真奈美ちゃん・・・そこまでして・・・』
 正樹は、馴れない手つきで自分の為にチョコレートを作っている真奈美の姿を想像して思わず目頭が熱くなった。
「どうしたの、正樹くん?何か心配事でもあるの?」
 涙を見せまいと正樹が俯いていると、真奈美が突然そう訊ねてきた。
「えっ?」
「正樹くんさっきから元気がないから・・・私で良かったら相談して」
 驚く正樹に向かって、真奈美は優しくそう言った。。
「真奈美ちゃん・・・」
「私ね、菜織ちゃんみたいに気は利かないし、乃絵美ちゃんみたいに優しくないし、サエちゃんみたいに頼り甲斐もないけど、正樹くんが何かを悩んでるごとぐらい分かるよ・・・だから遠慮しないで相談して」
 微笑みながらそう言う真奈美の姿を見た時、それまで我慢していた物が正樹の中から溢れ出してしまった。
「真奈美ちゃん!」
 正樹はそう叫ぶと真奈美をギュッと抱きしめた。
「ま、正樹くん!?」
 正樹の突然の行動に、真奈美は狼狽した。
「ゴメン・・・真奈美ちゃん・・・俺・・・」
 様々な意味を込めそう謝る正樹の目から涙が流れ落ちた。
「正樹くん、泣いてるの?」
 正樹の涙に気付いた真奈美が、驚いてそう訊ねた。
「う・・・う・・・」
 正樹はそれには答えず、ただただ低い嗚咽を漏らし続けた。
 真奈美もそれ以上は何も聞かず、正樹の頭をそっと包み込んでやった。
 2人がそうやって抱き合っていたのはほんの数分だっただろう、しかし、この数分に運命の悪戯は起こってしまった。
 バサッ!
 目を閉じて真奈美を抱き締めていた正樹は、前方から聞こえてきた物音に気付きハッと顔を上げた。
「の、乃絵美!?」
 そこに目を見開いて茫然としている乃絵美の姿を見付けた時、正樹の全身は凍り付いた。
「乃絵美ちゃん!?」
 正樹の変調に気付き振り向いた真奈美も、乃絵美の姿を見付け思わず叫んだ。
「ご、ごめんなさい・・・」
 ダッ!
 そんな真奈美の姿を見た瞬間、乃絵美は一言そう言い残して脱兎の如く逃げ出してしまった。
「乃絵美ちゃん!!」
 真奈美は反射的に叫び乃絵美の後を追ったが、正樹はピクリとも動けなかった。
 数秒後、のろのろと動き出した正樹は、乃絵美が落としていった包みを拾い上げた。
 チョコレートの甘い匂いが微かに漂うその包みには、1枚のカードが添えられていた。
「正樹くん、乃絵美ちゃんを追わなくていいの?」
 結局乃絵美を見失い戻ってきた真奈美が、ゼーゼー息を切らせながらそう訊ねた。
「いや・・・これで良いんだよ・・・きっと・・・」
 『大好きなお兄ちゃんへ』・・・そう書かれたカードを見つめながら、正樹は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
『これが、俺にとっても乃絵美にとっても一番良い選択なんだ・・・』
 それが、自分の心を押し殺した正樹が出した結論だった。

「はー、はー、はー!」
 乃絵美は激しく息継ぎをしながらひたすら走った。
 何処へ向かっているのかなど自分でも分からなかった。
 ただ、その場から少しでも遠くへ離れたかったのだ。
「乃絵美ちゃーん!」
 背後から自分を呼ぶ真奈美の声が聞こえてきたが、それも無視して乃絵美は走り続けた。
 その間にも、乃絵美の瞳からは涙が溢れ出ていた。
 ある程度の覚悟はしていた筈なのに、正樹と真奈美の抱擁シーンに対して、乃絵美は自分でも驚くぐらい激しく動揺していた。
『お兄ちゃんと真奈美ちゃんが・・・』
 乃絵美は現実から逃れるように、ただひたすら走り続けた。
 頭が真っ白な状態で乃絵美が辿り着いたのは、旧十徳神社の社がある高台だった。
 乃絵美がここに来るのは2度目だった。
 数年前、秘密の場所だからダメだと言う正樹に駄々をこねて連れてきて貰って以来のことだった。
 何故無意識のうちにここに来てしまったかを考えることもなく、乃絵美は社の脇に膝を抱えて座り込んだ。
 涙は既に止まっていたが、その瞳は真っ赤に充血していた。
『知らなかった・・・お兄ちゃんと真奈美ちゃんがあんな関係だったなんて・・・』
 そう考えると再び正樹と真奈美が抱き合ってるシーンが思い出され、乃絵美の目頭から涙が溢れ出て来た。
「う、う・・・」
 乃絵美は抱えた膝に顔を埋めるようにしばらくの間泣き続けた。
『ダメだな私って・・・どんな結末になったって後悔しないって心に決めてたのに・・・』
 一頻り泣いた後、乃絵美は目をゴシゴシ擦りながら顔を上げた。
「真奈美ちゃん可愛いもんね・・・お兄ちゃんが私より真奈美ちゃんを選んだのは、当然・・・あっ!」
 そこまで言った所で、乃絵美は重大な事に気付いた。
「私・・・お兄ちゃんに何も告白してない・・・」
 そう、正樹と真奈美の抱擁シーンに驚いて逃げ出してしまった乃絵美は、正樹に肝心な自分の本心を打ち明けていなかったのだ。
「ううん・・・お兄ちゃんは真奈美ちゃんを選んだんだ・・・今更・・・」
 口ではそう言ったものの、乃絵美の心の中では隠し切れない期待が徐々に大きくなり始めていた。
『もし、お兄ちゃんが私の事を妹だからって諦めていたら・・・もし、私が本当の妹じゃないって知ったら・・・』
 いつしかそんな淡い期待は、深淵の暗闇に落ちた乃絵美の心を照らす唯一の希望の光へと変わって行った。
『うん、まだ諦めるのは早すぎる!本当に諦めるのはお兄ちゃんに告白してからにしよう!』
 乃絵美は己をそう鼓舞すると、スクッと立ち上がった。
 こんなプラス思考も乃絵美の成長の証だと言える。
 しかし、同時にそれは乃絵美の身を滅ぼしかねない諸刃の剣でもあった。
 スタスタスタ
 立ち上がった乃絵美の耳に、石段を登ってくる何者かの足音が聞こえたのはその時だった。
『誰か来る?』
 驚いた乃絵美は、咄嗟に社の脇に身を隠した。
 特にやましい事があったわけではないのだが、泣き腫らした顔を人に見られたくなかったのだ。
 息を潜めて待っていると、高台に姿を現したのは巫女服姿の菜織だった。
『菜織ちゃんだ・・・』
 やってきたのが菜織だと分かり、乃絵美は出て行こうかどうか迷った。
 しかし、菜織の姿に妙な違和感を感じ、乃絵美はそのまま黙って見守る事にした。
『菜織ちゃん、元気ないな・・・』
 乃絵美の言う通り今日の菜織は少し変だった。
 いつもの弾けるような明るさが影を潜め、全体的に暗い雰囲気が漂っていた。
「はー・・・」
 菜織は手近な石の上に腰を下ろすと、手にした包みに目をやって大きな溜め息を吐いた。
『あれは・・・』
 遠目から見ても、乃絵美にはその包みが何なのかすぐに分かった。
 シンプルな空色の袋に黄色いリボンがかけられたそれは、紛れもなく正樹へのチョコレートだった。 
『やっぱり、菜織ちゃんも渡すんだ・・・』
 そんな事を考えながら乃絵美は菜織の動向をジッと見つめていた。
 一方の菜織は、見られていることなどまるで気付かず、石の上に腰を下ろしたままジーッと町を見下ろしている。
『いつまでああしてるつもりかな?』
 30分程経過したところで、乃絵美が焦れ始めた。
 正樹の事もさる事ながら、先程までの青空を覆い尽くすように真っ黒な雲が広がり、どんどん空模様が怪しくなっていくのが乃絵美には気になっていた。
『このままじゃ雨になっちゃう・・・どうしよう、今更出て行くわけには行かないし・・・』
 乃絵美がそう思い悩んだ時、不意に菜織の口から言葉が発せられた。
「あいつの本命って・・・やっぱり『あの子』なんだろうな・・・」
『えっ?』
 乃絵美は声が出そうになるのを必死に押さえた。
 菜織の言う『あいつ』とは間違いなく正樹の事である。
 乃絵美の知る限り、菜織が『あいつ』と呼ぶのは正樹だけだからだ。
『菜織ちゃんも知ってたんだ・・・お兄ちゃんと真奈美ちゃんのこと・・・』
 ここまでの展開から、『あの子』=真奈美という図式がいつのまにか乃絵美の頭の中に出来上がっていた。
『もしかして、知らなかったのは私だけなのかな?』
 乃絵美はそんな事を考え、暗澹たる気持になった。
 しかし、次に菜織の口から発せられたのは、乃絵美の想像の範疇を遥かに凌駕する言葉だった。
「そうだよね・・・乃絵美と血が繋がってないって分かったんだもん・・・あいつと乃絵美の間にはもう何の障壁もないんだよね・・・」
 ガーーーーーン!!
 衝撃などという生易しいものではなく、乃絵美は本当に心臓が止まりそうになった。
『お兄ちゃんが・・・知っている・・・?』
 全く予想外の事態に、乃絵美の思考は完全に止まってしまった。
 それ故に、乃絵美の頭の中には菜織の後ろ半分の言葉は全く入って来なかった。
『お兄ちゃんが、知ってた・・・私が実の妹じゃないって・・・』
 ザー!
 その時、今にも泣き出しそうだった空から遂に大粒の雨が落ちてきた。
「いけない、戻らなくちゃ・・・」
 雨に気が付いた菜織は手にした包みを寂しそうに見つめると、それを雨から庇うように駆け出した。
 ザーーー!
 更に激しくなる雨脚の中で、乃絵美はその場から一歩も動こうとしなかった。
『そっか・・・お兄ちゃんは私が本当の妹じゃないって知ってたんだ・・・そっか・・』
 ポロポロポロポロ
 激しい雨に混ざって、乃絵美の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「馬鹿みたい・・・一人で勝手に自惚れて・・・私って馬鹿みたい・・・」
 膝をギュッと抱きかかえながら、乃絵美は自嘲気味にそう呟いた。
「そうだよね。元々勝算は低かったんだし、変に期待なんかして・・・私って・・・う、ううう、うわーーん!」
 そこまでが乃絵美の限界だった。
 自分と正樹が本当の兄妹ではないと知ってから約半年、乃絵美を支えていた唯一の『想い』が今崩れ去ってしまったのだ。
「えっく、えっく、えっく・・・」
 全身を雨に打たれながら、乃絵美はひたすら泣き続けた。
 雪にはならないものの、身を切るような冷たい雨はその間も容赦なく乃絵美を襲い続けた。
『このまま消えてしまいたい・・・』
 乃絵美は心の底からそう思った。
 ス・・・
 その時、不意に乃絵美に放り注ぐ雨が遮られた。
「え?」
 乃絵美が驚いて顔を上げると、そこには大きな黒いコウモリ傘とそれを差し掛けている一人の外人の姿があった。
「ハンスさん・・・」
 乃絵美は、見覚えのある外人の名前を半ば呆然と呼んだ。
「乃絵美サン、風邪ヲヒキマスヨ」
 ハンスはそれだけ言うと優しく微笑んだ。
「私・・・」
 泣いている所を見られた気恥ずかしさで、乃絵美は俯いてしまった。
「サ、トニカク暖カイ場所ニ行キマショウ。話ハソレカラデス。私ノ泊マッテイルホテルガスグ近クデス。取リ敢エズソコニ行キマショウ」
「えっ!?」
 『ホテル』という言葉を聞いて、一瞬乃絵美の体がビクッと痙攣した。
「心配シナイデ下サイ。私ノ妻モ一緒デスカラ」
 ハンスは、左手の結婚指輪を見せながらニッコリと微笑んだ。
 それを見て、乃絵美の表情が少しだけ安心したものになった。
 しかし、それも束の間、乃絵美は再び悲痛な表情で俯いてしまった。
「何ガアッタノカハ聞キマセン。トニカクココハ体ニ障リマス」
 ハンスはそう言うと、乃絵美の手を取って立ち上がらせた。
「ハンスさん・・・」
 今の乃絵美には、ハンスのそんな気遣いが嬉しかった。
「サア、行キマショウ」
 ハンカチを差し出しながらハンスがそう言った時、乃絵美の心の中である決心が付いた。
「ハンスさん・・・お願いがあるんですけど・・・」
 寒さで凍える唇を開き、乃絵美はその言葉を口にした。

「えっ?乃絵美がまだ帰ってないって!?」
 帰宅して濡れた頭を拭いていた正樹は、母親からその事を告げられて愕然となった。
「そうなのよ。こんな雨の中をどこに行ってる・・・」
 ダッ!
 母親の言葉が終わらないうちに、正樹は傘を掴んで玄関を飛び出した。
『乃絵美!どこだ!?』
 傘を差すのももどかしく、正樹は商店街方向に向けて走り始めた。
『くそ、やっぱりあの時追うべきだった!!』
 正樹は自分の行動を頻りに悔やんだ。
『乃絵美、無事でいろよ!!』
 正樹が心の底からそう願った時、正樹の目に前方から歩いてくる一人の人物が映った。
『あれは・・・乃絵美!!』
 見慣れない青い傘を差し少し大きめのコート着ているが、それは紛れもなく乃絵美だった。
「乃絵美!!」
 その姿を見付けると、避けていた事などスッカリ忘れ、正樹は乃絵美に駆け寄った。
「あっ・・・お兄ちゃん・・・」
 正樹の姿を見て乃絵美は一瞬嬉しそうな顔をしたが、直ぐに顔を曇らせ俯いてしまった。
「乃絵美、大丈夫か?心配したんだぞ」
 正樹は乃絵美を覗き込むようにそう声をかけた。
「うん、大丈夫・・・心配かけてごめんなさい」
 乃絵美は顔を伏せたままそう謝った。
「そうか・・・とにかく家に戻ろう」
 正樹がそう促して歩きだそうとした瞬間、
「お兄ちゃん!・・・聞きたいことがあるの・・・」
 乃絵美の緊迫した声が辺りに響いた。
「な、何だよ、藪から棒に?家に帰ってからでいいだろ?」
 乃絵美の言葉にどこか不吉なものを感じ、正樹は恐る恐るそう訊ねた。
「ううん・・・今ここで聞きたいの・・・」
 小さい声ではあったが、乃絵美の言葉には有無を言わせない力強さがあった。
「・・・・・」
 説得は無駄だと悟った正樹は、諦めて再び乃絵美と向き合った。
「お兄ちゃん・・・」
「何だ?」
「お兄ちゃんは・・・真奈美ちゃんと・・・付き合っているの?」
「・・・・・・」
 乃絵美の質問は、正樹の予想した通りのものだった。
『あれは誤解だ!俺が本当に好きなのは・・・』
 正樹はそう叫びたかった。
 実際に、その言葉は喉元まで出かかっていた。
 しかし、結局正樹にそれを言う事はできなかった。
「乃絵美の見た通りだよ・・・」
 代わりに正樹の口から出たのはそんな言葉だった。
「そうなんだ・・・」
 乃絵美は一言だけそう答えると、そのまま動かなくなってしまった。
 その間にも、乃絵美の肩だけは小刻みに震えていた。
『これで良いんだ・・・これで俺達は今まで通り兄妹としてやっていける・・・』
 そんな乃絵美を見て、正樹は必死に自分にそう言い聞かせた。
 しかし、そんな正樹の思いとは裏腹に、乃絵美の口から出たのは信じられない言葉だった。
「お兄ちゃん、私ドイツに留学する」
「なっ!?」
 言葉通り絶句して、今度は正樹がそのまま固まってしまった。
「さっきハンスさんに会ってね・・・留学の件改めてよろしくお願いしますって頼んできたの・・・」
 乃絵美が震える声でそう言った。
「何言ってんだよ、乃絵美!?その話は、断った筈じゃ・・・」
「私、お兄ちゃんの事好きだった!」
「!!」
 正樹の言葉は、嗚咽混じりの乃絵美の声に遮られた。
「昔は確かに『お兄ちゃん』として好きだった・・・だけど、去年の夏自分がお兄ちゃんの本当の妹でないと知った時気付いたの・・・」
「なっ!?乃絵美・・・お前どこでそれを・・・」
 余りのショックに正樹はそれ以上言葉を続けられなかった。
「私はお兄ちゃんを愛してるって!」
 乃絵美の叫びは完全に涙声になっていた。
 声だけではなく、その瞳からは涙がとめどもなく流れ落ちていた。
「乃絵美・・・」
「お兄ちゃんも知ってるんでしょ?・・・私が実の妹じゃないって・・・」
『!!』
「その上で、お兄ちゃんは真奈美ちゃんを選んだ・・・」
「乃絵美、それは!」
「いいの、もういいの!」
 正樹は必死に何かを言おうとしたが、それはまたしても乃絵美の叫びに遮られた。
「自分でもずるいと思う・・・だけど、私はお兄ちゃんに愛される真奈美ちゃんに微笑みかけられる程強くないの・・・だから・・・だから・・・サヨナラ、お兄ちゃん!」
 ダッ!
 乃絵美はそう言い残して、傘を放り投げて雨の中を駆けていった。
「乃絵美ーーーーー!!」
 正樹は声の限りに叫んだが、その叫びは激しい雨音に掻き消されてしまった。
 そして、正樹は乃絵美を追うことも叶わず、その場にガックリと崩れ落ちた。
 ドン!!
「俺は・・・俺は、大馬鹿者だー!!」
 拳が壊れるぐらい強く地面を叩きながら、正樹はそう絶叫した。
 その瞳からは、悔恨の涙が尽きることなく流れ続けた。
 土砂降りの雨は、そんな正樹の叫びも涙も全て飲み込んでしまい、それが乃絵美に届く事は決してなかった。



第9章の後書きのようなもの

 皆さん、どうもこんにちは。
 北極圏Dポイントの教授です。
 今回は乃絵美本の第9章をお届けします。
 長きに渡ってお届けしてきた乃絵美本も、本編を含め残り2章となりました。
 今回は、クライマックスへ向けての試練の章でしたね。
 書いている私自身が、乃絵美が可哀想でなりませんでした。
 とは言っても、有り勝ちな展開でハッピーエンへ向かうのは、想像に難くないと思います。(笑)
 ベタベタで甘々でお約束な・・・だけど、きっと皆さんの期待に応えられるようなエンディングが待っていると思いますので、最終章を楽しみに待っていて下さい。
 それでは、また最終章の後書きでお会いしましょう。

 2001年6月15日 教授



 

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