月姫
月の願い(後編)




「う、う〜ん」
 開け放たれた窓から明るい日差しが射し込み心地よい風が流れてくる。
 昨日までならば何の感慨も受けなかった光景も、今日の俺には心地よい。
 アルクェイドが近くにいる。
 ただそれだけのことで、世界はこんなにも美しく見えるものなんだろうか。
 しかし、すがすがしい朝の光景とは裏腹に、昨日までとはまた違った違和感を覚える。
「あれ?そう言えば窓が開いてるってことは、翡翠が一度は来たって事だよな?」
 眼鏡をかけて周囲を見回してみるが翡翠がいる様子はない。
「変だな?」
 呟きながら何気なく時計に目をやる。
 9:30
「ふ〜ん、もう9時半か・・・9時半、9時半・・・くじはんんんんん〜!?」
 ようやく脳が状況を理解し、慌てて跳ね起きようとする。
 ふにゃん
「ん?」
 体を起こそうとした手に、何ともいえず柔らかく弾力があり気持ちのいい感触が伝わってくる。
 ふにゃんふにゃん
「んん?」
 何となく触れたことのあるような感触。
 なんだか俺のすぐ脇で人の大きさくらいに布団が膨らんでいるような気がする。
 俺は嫌ぁ〜な予感を覚えながら、布団を持ち上げてみた。
「く〜く〜」
 はぁ・・・やっぱり。
 俺は思わず頭を抱えてしまった。
 そこには予想に違わず、アルクェイドが幸せそうな顔をして眠っていた。
「そういや、昨日おしゃべりしてる最中に寝ちゃったんだよな。となれば、コイツがわざわざ隣の部屋に移動して寝るわけないか」
 納得した俺は、改めてアルクェイドの寝顔に目をやる。
 安らかな寝顔。アルクェイドがここまで安心しきって眠れるのは俺の隣だからかな、なんて言うのは自惚れかもしれないが、この寝顔を見ていると自惚れてもいいんじゃないかって思えてくる。
「っと、いつまでもこうしてる場合じゃないな。もう完璧に遅刻だけど急いで行かなきゃ。それにしても、何で今朝に限って翡翠は起こしてくれなかったんだ?」
 そこまで呟いてからギクリとする。
 ま、まさか。いや、冷静に順序立てて考えてみよう。
@部屋のカーテンと窓が開いている=翡翠は一旦俺の部屋に来た
A俺のベッドの中でアルクェイドが眠っている
Bいつもの起床時間はとっくに回り、俺は遅刻寸前
 ・・・・・・
 ノォ〜!なんてこった!
 つまり、翡翠は俺を起こしに来てアルクェイドと寝ていることを発見。怒った翡翠は俺のことを無視していると、こういうことですか?
 十中八九間違いないであろう推理に、俺は頭を抱えてしまった。
 不幸中の幸いはアルクェイドが服を着ていることであるが、この場合それはあまり意味がないであろう。
「おい!起きろ!アルクェイド!」
 本来吸血鬼が眠りにつくであろう朝に吸血鬼をたたき起こすのは気が引けるが、今はそんなことを言っている場合ではない。
 バンバンバンバン!
 文字通りアルクェイドを叩き起こす。
「ん〜」
 寝ぼけ眼をこすりながら、アルクェイドはのっそりと体を起こす。
「起きたか?」
 しばらくキョロキョロと周りを見回していたアルクェイドだったが、俺の声に俺の方を振り向くと、ぱぁ〜と花のような笑みを浮かべた。
「志貴だぁ」
「えっ?」
 驚く間もあればこそ、アルクェイドは腕を伸ばすと俺の首にしがみついてきた。
「ちょっ、アルクェイド!寝ぼけてるのか!?」
「ん〜」
 起きているのか寝ているのか、微妙な返事を返してきたアルクェイドだったが、そのまま再び寝息を出し始めた。
 まぁこれはこれで嬉しい体勢ではあるんだが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
「てぃっ!」
 煩悩を振り払うように、かけ声と共にアルクェイドの両腕を引き剥がし、その体を床の上に放り投げる。
 どさっ
「きゃん!」
 さすがに目が覚めたらしい。今度は頭に手を当て、慌ててキョロキョロと周りを見回している。
「何?何?」
「おはよう。アルクェイド」
「えっ・・・志貴?あっ、そっか」
 しばらくは状況確認が出来ていなかったようだが、俺の言葉にようやく状況が把握できたらしい。
「さぁ、目も覚めたところで説明して貰おうか」
 俺は腕を組み、床に座り込んでいるアルクェイドを見下ろしながら言う。
「説明・・・って?」
 何を言われているのか分からないと言った風に、指を頬に当て首を傾げているアルクェイド。
「お前が!用意された部屋に行かず!俺のベッドで!寝ていたことに関する説明だ!」
 理由は分かり切ってはいるが、ここでしっかりと躾ておかねば、俺の将来に暗雲が立ちこめることに間違いはないであろう。
「志貴と一緒に寝たかったから」
 サラリと言い切るアルクェイドに、俺は言葉を詰まらせる。本当に、なんでコイツはこうストレートで、飾るって事を知らないんだろう。しかし、それ故にアルクェイドの言葉は俺の心にストレートに響いてきて、反論する気力を失わせてしまう。
「む・・・ま、まぁいい。それよりこれから学校に行かなくちゃならないんだから、アルクェイドも一緒に家を出るぞ」
「あ、うん、そうだね。分かった」
 アルクェイドが立ち上がったのを確認すると、俺はアルクェイドを連れて食堂という名の針のむしろへと降りていった。
 はぁ・・・何と言い訳したものやら。

 居間へ辿り着いてみればさすがに秋葉はおらず、変わりに俺を待っていたのは昨夜に輪をかけて不機嫌そうな表情に加え冷たい視線を向けてくる翡翠と、いじめがいのあるオモチャを見つけた子供のような笑みと視線を向けてくる琥珀さんだった。
「あの〜おはようございます」
 必要以上に低姿勢になってしまうのはやむを得まい。
 いや、なぜ低姿勢になる必要がある?俺はやましい事なんて何もしていない。よしんばしていたとしてもアルクェイドは俺の恋人だ。別に悪い事なんてしていないんだ!
「夕べはお楽しみだったようですね〜」
 琥珀さんの楽しげな声に、高揚しかけた俺の精神はあっと言う間に冷却される。
「うんっ!楽しかったよ!」
 嬉しそうに俺に抱きついてきながら、アルクェイドが琥珀さんに答える。
 ぐはぁっ!何ちゅーこと言うんだ、コイツは!
「ち、違うんだ!アルクェイドが言っているのはそう言う意味じゃなくってだな」
「そう言う意味って、どういう意味ですか〜?」
 必死の俺の抗弁に、琥珀さんはうれしそうに更なるツッコミを入れ、翡翠の視線の温度は更に下がっていく。
 だめだ、今の俺には反撃のチャンスはない。
「と、とにかく!俺もう遅刻なんですぐに学校に行きます!」
 アルクェイドの首根っこを掴むと、俺は居間に背を向ける。
「志貴さん、秋葉様からの伝言です。『今晩はジックリと遠野家の人間としてのあり方についてお話ししましょう』とのことでしたぁ」
 そんな恐ろしい言葉を背に受けつつ、俺は家を後にしたのだった。
 ・・・今晩は、有彦の家に泊めて貰おうかな、いや、アルクェイドがいるからそんなことは出来ないし、なにより弓塚が来る可能性がある。
 やっぱり先制攻撃で早々に素直に謝るのが得策か?
 俺は本気で今晩の対応策に頭を悩ませるのだった。

     *

「ねー志貴、今日は学校に行くの?」
 遠野家の前の下り坂を歩きながら、アルクェイドが訪ねてくる。
「当然だろ?学生の本分は勉強!俺も3年生だからな。頑張って勉強せねば」
「本気でそんなこと考えてるの?」
「・・・ちょこっとくらいはな」
 苦笑いを浮かべながら親指と人差し指の間に5ミリくらいの隙間を作る。言ってることは正論だが、3年になり立ての今の状況じゃまだそんな気分になれないのが本音だ。オマケに今まではアルクェイドがいなかったせいで、余計にそんな気分になれなかったし。
「じゃあ、これから遊びに行こうよ!」
「えっ?」
 振り返った俺の目に、グッドアイディア〜と言わんばかりに胸を張っているアルクェイドの姿が映った。
「どうせもう遅刻でしょ?今晩会えないんだからいいじゃない。ね?」
 確かに今晩会えないのは事実だが、苦手な昼間にここまで熱心に誘ってくるとは・・・ふふっ、愛いやつめ。
「しょうがないな・・・まぁ、たまにはいいか」
「ホントに?やったぁ!」
「で?どこか行きたいところあるのか?」
「んー」
 顎に指を当てて考え込んでいるアルクェイド。やがて照れ笑いを浮かべながら頭をポリポリかく。
「えへへ、よくわかんないから志貴の好きなところでいいよ?」
 まぁ、知識はあってもどういうところが自分にとって楽しいのか分かってないからな。当然といえば当然の反応か。
「好きなところって言ってもな・・・」
 俺もそんなに遊び歩いているわけじゃないし、アルクェイドがどういうところが楽しいのか分からないしな。
「まぁ、とりあえず繁華街の方を歩いてみようか?」
「うん、それでいいよ」
 考える素振りも見せずに頷いてくるアルクェイド。俺がどこって言っても同じ返事が返ってくるような気がしないでもない。
「よし、それじゃあ行くか!」
 そうして俺は学校に背を向け、アルクェイドを伴って繁華街の方へと向かうのだった。

     *

 とりあえず、目的もなくブラブラと街中を歩いてみる。
 平日の昼間だっていうのに、街路は結構な人混みにあふれている。
 とはいえ、そのほとんどは主婦や外回りらしき営業マンばかりで、学生らしき人影はほとんど見受けられない。
「さて、繁華街に来たのはいいけど、これからどうするかな」
 考え込みつつ左右を見回していた俺の耳に、軽快な電子音のメロディーが流れ込んでくる。
「ゲーセンか・・・」
 音の発信源へと視線を向けた俺の目に、ゲームセンターのきらびやかな装飾が入ってくる。時々暇つぶしに寄ってみることがあるくらいでそれほど熱心に通っているわけじゃないけど、アルクェイドはどうだろう?
 そう考えつつアルクェイドをチラリと見てみる。
 ハッキリ言って、アルクェイドが真剣な表情でコントローラーを操作している姿や、ダンスゲームで踊りまくっている姿は想像しがたいものがある。
 しかし、似合わないからと言ってやらせないのもどうかと思う。アルクェイドには色々な経験をして欲しいし。
「アルクェイド、ゲーセン行ってみるか?」
「ゲーセン?」
「あぁ、ゲームセンター・・・って分かるか?」
「むー失礼ね。ゲームセンターくらい知ってるわよ。色々なゲームがあってゲームをして遊ぶところでしょ。『ゲーセン』なんていう風に略すのは知らなかったけど」
 ちょっとムッとしながら返事を返してくるアルクェイド。
「悪い悪い。で?どうする?行ってみるか?」
「うん、志貴が行きたいんだったら別にかまわないよ?私はよく分からないけど」
「よっし、じゃあ行ってみるか」
 そうして俺達はゲーセンの中に足を踏み込んでみた。
 さすがに平日の昼間と言うこともあって、店内はガラガラだ。とりあえず俺自身よりもアルクェイドに遊ばせてみたかったから、アルクェイドを引き連れて店内を一回りしてみる。
 アルクェイドは物珍しそうにUFOキャッチャーの中に入っているぬいぐるみや、体感ゲームの画面を覗いていたが、格闘ゲームの筐体の前でピタリと立ち止まった。
「ん?なんだ?それがやってみたいのか?」
「うん、何だか面白そうかな?」
 アルクェイドは画面の中で様々な技を出しながら戦っているキャラクターを興味深そうに眺めている。
 しかし、いいんだろうか?このゲームはバンパイアを狩ることを職業にしている人間がバンパイアを初めとするモンスター達と戦っていくってのがメインストーリーのゲームだが・・・。
「アルクェイド・・・その、このゲームは人間がバンパイアと戦うってストーリーのゲームなんだけど、いいのか?」
 念のために確認してみる。
「なんで?だってこれってゲームでしょ?」
 逆に不審がられてしまった。考えてみれば普通のゲームだって、人間が人間相手に殴ったり蹴ったりしてるわけだもんな。気にしすぎか。
「よっし、じゃあやってみるか?やり方は分かるよな?」
「うん、基本的なやり方は知ってるし・・・要は蹴ったり殴ったり色々な技を出して相手を倒していけばいいんでしょ?」
 ま、それだけ分かれば充分だな。
「そんな感じだ。じゃあ、とりあえずやってみろよ」
 そう言って俺は100円を投入する。
 スタートボタンを押すとキャラクター選択画面が出てくる。アルクェイドはどのキャラを使うのかな・・・げっ、よりによってバンパイアハンターを選んでるぞ。あ、でも、アルクェイドも死徒を狩ってるんだから当然の選択ともいえるのか?
 などと俺が悶々と悩んでいるうちに、アルクェイドは何とか勝ち進んでいく。
「おっ、始めてで三人目までいったのか。なかなかやるじゃないか」
「話しかけないで!」
「えっ?」
 軽い気持ちで誉めた俺の言葉に対して、返ってきたのはアルクェイドの鋭い叱責の声だった。
 見てみれば、アルクェイドの瞳には獲物を狩る危険な光が宿っている。
 その瞳の前に、俺は既に言葉を発することは出来ない。ただ、アルクェイドがマジになりすぎて筐体を破壊しないことを祈るのみであった。
 俺の祈りが天に届いたのか、筐体が破壊されることなく三人目の勝負はアルクェイドの敗北で幕を閉じた。
「残念だったな、アルクェイド。じゃあ次は・・・」
 被害が発生しないうちに場所を変えようとした俺だったが、ものも言わずに差し出されたアルクェイドの手にため息をつく。
「はいはい、もう一回ね」
 チャリン
 俺の気持ちとは裏腹に、軽快な音を立てて100円玉が吸い込まれていく。どうやら、俺は選択を間違ってしまったらしい。
「えいっ!このこのっ!」
 それでもまぁ、夢中になって文字通りゲームと格闘しているアルクェイドを見ていると、これはこれで良かったのかなと思えてくるから不思議だ。
「ちょっとなにボーっとしてるのよ志貴!これって対戦できるんでしょ?やろやろ!」
「あ、あぁそんなに引っ張るなって」
 さすがと言うべきか、いつの間にやらクリアしていたアルクェイドに腕を引かれ、アルクェイドが座っていたのとは反対側の椅子に座らされる。
「よぉし、いっちょコンピュータではない人間様の実力ってヤツを見せてやりますか」
「ふっふっふ、そう言う台詞は私に勝ってから言うことね」
 俺の言葉に怖じ気づくでもなく、余裕の笑みを返してくるアルクェイドに、俺の方がちょっとビビッてしまう。
 何せ相手は最強の真祖だ。油断は出来ない。俺は持ちキャラであるバンパイヤを選択するとスタートボタンを押す。
「いっくぞぉ」
「かかってきなさぁーい!」

 ・・・一時間後、俺は敗北感に打ちのめされていた。
 いや、確かに最初の頃こそ俺の経験がものをいい、アルクェイドに連勝することができた。しかし、5回6回と回を重ねる毎にアルクェイドが操るバンパイヤハンターの動きは良くなっていき、的確に俺の隙をついて攻撃してくるようになり、15分も経つ頃には全く歯が立たなくなっていた。
 頭に血を上らせた俺は幾度となく挑戦を繰り返し、ふと気がついてみれば筐体へ吸い込まれていった100円玉の数は両手の指で足りなくなっていた。
「くっそー、まさかアルクェイドのゲームの腕の上達がここまで早いとは予想外だった」
「へへー。ま、志貴の敗因はこの私を相手に吸血鬼で立ち向かってきた事かな?」
「ちぇっ。まぁいいや。見てろよ、次のデートまでには猛特訓して今度は見返してやるからな!」
「えっ?う、うん。そうだね」
 突然、楽しそうに話していたアルクェイドの表情が凍り付いた。
「アルクェイド?どうかしたか?・・・まさか死徒が?」
「う、うん・・・ちょっとそんな気がしたんだけど気のせいだったみたい。ちょっと神経過敏だったかな?」
 そう言って照れ笑いを浮かべるアルクェイドの顔に、さっきの陰りはカケラも見られなかった。
「驚かすなよ。まぁ、アルクェイドは元々そのために来たんだからしょうがないけど」
 そんな笑顔にかすかな違和感を感じつつも、俺はそれを振り払うようにアルクェイドの手を取り歩き始めた。
「さ、とりあえず昼間は血生臭いことは忘れて楽しもうぜ」
「うん!」

 その後もダンスゲームやUFOキャッチャー、ガンシューティングゲームなど色々なゲームで存分に楽しんだ俺達がゲームセンターを出る頃には、家を出る時間が遅かったことも手伝って昼食の時間をだいぶ回っていた。
「朝飯食い損なっちゃったし、そろそろ腹減ってきたな・・・。アルクェイドは何か食べたいか?」
「ううん、私はそうでもないけど」
 まぁ、そうだよな。
「そっか。んじゃあ適当にパンをいくつか買って公園で食べるか。アルクェイドも俺が食べるの見てて食べたくなったら食べればいいし」
 というわけで、俺達はパン屋でサンドイッチや菓子パンをいくつか買うと、公園へと足を運んだ。
 ベンチに腰掛けると、井戸端会議に興じる奥様方やその回りでじゃれつくように遊び回っている子供達の姿をボーっと眺めながら、パンにかじりつく。
 春の暖かい日差しも手伝ってか、そう言った平和な光景を見ていると自分たちが置かれている状況を忘れそうになってしまう。
「ねぇ、志貴」
「ん?なんだ?お前もパン食うか?このカニコロパンなんか結構オススメだぞ」
 俺はてっきりアルクェイドも食べたくなったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
 言いつつ横を向いた俺の目に、さっきまでの俺と同じように公園の平和な風景を眺めつつも、俺とは異なり悲しげな瞳をしたアルクェイドの顔が映った。
「ううん。そうじゃなくって、こんな世界もあったんだね」
 言われて再び目を前に向ける。
 奥様方が旦那や子供のことを不平そうに、それでいて幸せそうに語り合っている。
 子供達が喧嘩をしたり転んだりしながらも、楽しそうに駆け回っている。
 どこにでもありそうな風景。
 そして、今までアルクェイドが決して知ることの出来なかった風景。
 俺は無造作にアルクェイドの頭に手を乗せると、ぐしゃぐしゃと荒っぽいくらいになでた。
「ちょっ、志貴、いたいー」
「なんて顔してんだよ」
 俺はぼさぼさになったアルクェイドの頭を抱き寄せた。
「まだまだ、これからだろ?今までこういう幸せが理解できなかったお前だって、ようやく理解できるようになったんだ。これからもっともっと幸せなこと俺が教えてやるよ」
「うん、そうだね」
 言いつつ、アルクェイドは力を抜いて俺にもたれかかってくる。
「今日一日だって、朝起きてゲームしてお昼ご飯食べて公園でボーっとして・・・。昔の私からすればなんの意味もない無駄な時間。でも、今まで生きてきた何百年間とは比べられないくらい幸せな無駄な時間だったよ」
 そう言って微笑むアルクェイドの笑顔は、いつもの太陽のような朗らかな笑顔ではなく、まるで今にも消えていってしまいそうに見えて、俺は無意識のうちにギュッと力を込めてアルクェイドの頭を抱きしめていた。
「いたたたたた!志貴痛い!ギブギブゥ!」
 俺の腕をパンパンと叩きながら悶えるアルクェイドに、我に返った俺は慌てて手を離した。
「志貴ってば酷いじゃない!せっかくいい雰囲気だったのにぃ」
 そう言ってプンプンと怒るアルクェイドは、いつものアルクェイドだった。訳も分からず、俺はホッとした。
「スマンスマン、アルクェイドがあんまりかわいいこと言うからさ」
「えっ」
 ポッと頬を赤らめるアルクェイドを改めてギュッと抱きしめる。
「過去形にするには早いぞ。まだまだ夜まで時間はあるんだ。どうせだからたっぷり遊ぼうぜ」
「うん!」
 そうして俺達は何となく手をつなぎあうと、デートを再開したのであった。

     *

「ただいまぁ」
 アルクェイドとのデートを楽しんできた俺は、意気揚々と遠野家の扉を開けて屋敷の中へと入っていった。
 そう、俺は浮かれて忘れていた。今、遠野家において自分がどういう立場にあるのか。
「お帰りなさいませ。志貴さま」
「あ、あぁ、ただいま」
 翡翠の挨拶に、思わずどもってしまう。
 言葉はいつもと同じながら、そこに込められた冷たい感情に冷や汗が背筋を流れていくのを感じる。
「ひ、翡翠?どうかした?」
「どうかしたのは志貴さまの方かと存じますが?本日、学校の方から志貴さまが登校していないと電話がありまして、もしや途中で倒れていたりはしないかと先生も私どもも心配しておりました」
「そ、そうか。ごめん」
「いえ、志貴さまは私の主ですから。志貴さまのなさることに口出しはいたしません。ですが、遠野家のご長男としてキチンと学校には行くべきかと」
 そもそも、翡翠が朝起こしてくれなかったことがきっかけだったんだが・・・と口に出すほど俺は愚か者ではない。
「そ、そうだね。うん、今後は気をつけるようにするよ」
「はい。ただでさえ志貴さまは体が弱いせいで休みがちなのですから、女遊びなどにかまけているべきではないのではないかと存じます」
 うぅっ、何だか今日の翡翠はいつになく攻撃的な気がする・・・何故だ?俺が何かしたのか?
「まぁまぁ翡翠ちゃん。そのくらいにしておきなさい」
「姉さん・・・」
 追いつめられた俺に、救いの手をさしのべてくれたのは琥珀さんだった。
 ありがとう琥珀さん。俺は心の中で感謝の涙を流した、
「志貴さんには、これから秋葉様のながぁ〜いお小言が待っているんですから、今は休ませておいてさしあげないと」
 と、いたわる風を装いながらシッカリと俺を精神的に追いつめる琥珀さん。やはり侮れない。
 その一言がなければ、地獄までの一時を何も知らずにゆっくりと休めただろうに。
 そりゃないよ琥珀さん。俺は心の中でさめざめと涙を流した。

 なんとか部屋へと辿り着きベッドに横たわっているが、やはりこの後秋葉のお小言が待っているかと思うとどうにも落ち着かない。
 いっそのこと屋敷から抜け出そうか?なんて考えも頭をよぎるが、何の解決にもならない上に状況が悪化するだけなのでやめておく。
「志貴さ〜ん、お夕食の準備が出来ましたよ〜」
 悶々と考え事をしているうちに、死刑宣告ともいえる琥珀さんの声が階下から聞こえてきた。
 俺は重い足を引きずりつつ、食堂を目指した。
「うっ」
 食堂に一歩踏み込んだとたん、その場の凍り付いたような雰囲気に俺はうめき声を漏らしてしまった。
「どうしたんですか?兄さん。早く席にお着きになってください」
 いつもと変わらぬ様子の秋葉だが、それが嵐の前の静けさのように思えてしまうのは気のせいではあるまい。
「あ、あぁ。わかったよ、秋葉」
 思わずどもってしまいながらも、いつもの席に着く。なんだか、椅子が針のむしろに見えてしまう。
 とりあえず食事中は私語厳禁なので、表面上はいつもと同じ食事風景だ。これ幸いと、なんとかこの後のお茶の時間での追求を回避するべく頭をひねる。
 何か、何か良い案は無いのか?
 ・・・
 ・・・
 ・・・
 結論。無理だ。何をしようとも一時しのぎにもならない。
 思い悩んでいるうちに目の前の食べ物は徐々に減っていき、死刑宣告の瞬間がどんどん近付いてくる。
 いっそのこと食べ終わった瞬間、何もかも忘れて部屋に逃げ出そうか。
 そう考えないでもないが、秋葉は食事を口に運びながらもこちらの気配を瞬時も逃すまいとうかがっている。
 その目はまるで獲物を狙う鷹のようだ。
 最後のあがきとばかりに、少しでもお小言の時間を減らすべくいつもの倍以上の時間をかけて食べ物を口へと運んでいく。
 しかし、そんな俺の最後のあがきも無惨にうち砕かれることとなった。
「あらあら、志貴さん食欲ないんですか?無理に食べるのも体に悪いですから、今日はもう片づけてしまいますね」
 言うやいなや、琥珀さんは俺の返事も聞かぬうちにさっさと俺の前から料理の皿を片づけてしまった。
 まるでスキップをしているかのように軽い足取りで厨房へと食器を運ぶ琥珀さんの後ろ姿に、俺はコウモリの羽と尖った尻尾が見えたような気がしたのだった。
「さて兄さん。行きましょうか」
「はい・・・」
 もはや俺にそれ以外の言葉を口に出すことは出来なかった。

     *

「ふぅ・・・」
 ようやく秋葉のお小言というか追求から逃れ、俺はベッドに体を横たえた。
 時計に目をやれば、夜の十時になろうとしている。
 げっ、2時間以上もお小言を聞いていたのか。叱られていた俺も辛かったけど、秋葉もよくも飽きずに続けられたもんだな。
 なんだか、俺は妙なところで感心してしまった。
 でもまぁ、アルクェイドがいなくなってから今まで、秋葉の方も俺に接する時には一歩引いていたような感じがあったからな。その反動が来たのかもしれない。
 もしかすると、秋葉が2時間も延々と話し続けていたのも、ただ単に俺と話をしたかっただけなのかもしれない。
 そう思えば、長かった秋葉のお小言も何だか楽しい時間だったような気がする。終わったから思えることかもしれないけど。
 コンコン
 そんなことをぼんやりと考えていると、いきなり窓がノックされるように叩かれた。
 まさかアルクェイドか?
 今晩は街の見回りをするって約束をしていたはずだが、こんな時間に窓をノックするような人間には他に心当たりがない。
「アルクェイド!なんで・・・こ・・・こに・・・?」
 俺はカーテンをバッとめくりながらアルクェイドに文句を言いかけたが、窓の外には誰もいない。
「あれ?」
 気のせいかと思いつつよくよく見てみれば、窓の外にいたのはアルクェイドではなく一匹の黒猫であった。
「な、なんだ?お前が窓をノックしたのか?」
 窓を開け、周りを見渡しながら黒猫に問いかけてみるが、猫が返事をするわけがなく、もちろん周りに人の気配はなかった。
「あっ」
 窓を開けた隙に黒猫はするりと部屋の中に進入してきて、まるでそこが自分の居場所であるかのようにベッドの隅で丸まってしまった。
「なんだ、お前?野良・・・じゃないよな。どこの飼い猫だ?」
 首に白いボンボン付きの黒いリボンが巻き付いているところや、俺を怖がる様子がないことからも野良でないことは想像がつく。
 しかし、頭をなでようとすると煩わしそうに顔を背けるあたり、ずいぶんと気難しそうだ。
「う〜ん、こいつは攻略のしがいがありそうだな」
 珍しい来客に何だか心が浮き立ち、俺は嫌われない程度に遠慮しつつ黒猫へと手を伸ばした。
 黒猫も本気で嫌がっているわけではないのか、面倒くさそうにしつつもじゃれつくように俺の手を叩く。
 コンコン
 そんな風にしてちょっとだけホノボノしてきた俺の頭を一気に冷却するように、今度は扉の方からノックの音が響いてきた。
 そうだ。まったりしている場合じゃない。何のためにアルクェイドと別れて部屋に戻ってきたと思ってるんだ?
「どうぞ。翡翠か?」
 俺はとっさに猫を布団の中へと隠すように押し込めながら返事をした。
「はい。失礼いたします。志貴さま、昨日と同じ弓塚さんという方がお会いしたいと訪ねていらっしゃっておりますが、いかが致しましょう?」
 夕べの騒動が頭に残っているのか、翡翠の表情は不安げだ。
「あぁ、何の用かは分からないけどわざわざこんな夜更けに二日も連続で会いに来てくれたんだ。会わないわけにはいかないだろ?まぁ、ちゃんと玄関から入ってくるあたり夜這いのたぐいとは思えないし」
 そんな翡翠の表情を和らげるべく殊更戯けた口調で言ってみたが、翡翠の表情は柔らがない。
「志貴さま・・・」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。本当に単なる同級生なんだからさ」
「・・・分かりました」
 完全に納得してくれたとは言い難い。それでも翡翠は頷いてくれた。
「じゃあ、もしかしたら少し外に出るかもしれないけど、帰ってくるから鍵は開けておいてくれ。頼むよ」
「はい。分かりました。お気をつけて」
 そう言って翡翠は頭を下げ退室していく。
「さて、俺は出かけるから自分のねぐらへ帰ってくれ」
 言いつつ布団をめくってみたが、黒猫は影も形も見えない。
「あれ?」
 何度も布団をひっくり返し、ベッドや机の下を見てみたが、黒猫の姿はどこにもなかった。
「夢でも見てたのかな・・・」
 気にはなったが下には弓塚を待たせている。不審に思いつつも、俺は弓塚に会うべく部屋を後した。
 果たして待っているのは本当に弓塚本人なのか?本人だとして、一体今頃になって何故俺の前に現れたのか?
 様々な不安を胸に秘めながら、階段を下りていく。
 ゴクリ
 喉を鳴らし玄関の取っ手に手を置く。
 ガチャリ
「あっ、遠野くん。久しぶり」
 扉の向こうには半年前と全く変わりのない弓塚の笑顔があった。
 ついさっき別れたばかりといった感じの弓塚の顔に、半年もの間行方不明だったことや二日連続でこんな非常識な時間にわざわざ訪ねてきたといったことが、些細なことでしかないような気分に襲われた。
「あ、あぁ。一体どうしたんだよ、半年も音信不通でさ」
「うん、その事で遠野くんに大切な話があるんだ。ちょっと付き合って。ね?」
 そう言うと、弓塚は俺の返事も聞かずにクルリと振り返ると歩き出してしまった。
 俺は弓塚とはクラスメイトだっただけで、親しかったわけじゃないし弓塚のことはよく知らない。
 それでも、こんなに強引な姿は想像できない。
 違和感と共に、疑惑が俺の心ににじみ出してくる。
 そんなことを考えている間にも、弓塚はまるで俺がついていくのが当然だとでも言うようにスタスタと歩いていってしまう。
「お、おい。ちょっと待てよ」
 弓塚の背中に声をかけながら、慌てて追いかける。
 俺が追いついてもまるで気にしていないかのように、弓塚は俺に背を向けたまま歩き続ける。
 空気が重い。
 何か明るい話でもして空気を変えたいと思っても、弓塚の背中を見ていると口が開かない。
 眼鏡を取ればハッキリする。
 そう思っても手が動かない。
 もしも、その体に人ではあり得ない死線が走っていたら?俺はどうする気なんだ?
 いくらネロやシキと死闘を演じたとはいえ、それとこれとは別問題だ。半年前まで机を並べて勉強していたクラスメイトを相手に、俺はどうする気なんだろう?
 俺の苦悩を余所に、弓塚はひたすら歩き続ける。
「なぁ弓塚。一体どこに行く気なんだ?」
「ん〜、二人っきりになれるところ」
「なっ!」
 予想外の返答に思わず狼狽えてしまったが、弓塚のクスリと笑う気配に我に返る。
「な、なんだ。冗談か。変なこと言うなよ」
「別に冗談じゃないよ。二人っきりになれるところっていうのは本当のことだもん」
 言葉だけなら恋人が囁く甘い台詞。けれどその台詞を聞いた瞬間、俺は背筋にゾクリと寒気が走った。
 やはり俺は甘いんだろうか?俺の本能はさっきから警鐘を鳴らし続けている。それでも俺の理性は必死にそれを押さえ、弓塚が普通の人間だって信じようとしている。
 結局それ以降一言も口は開かず、黙々と弓塚の後をついていく。
 しばらく歩いて、俺はようやく弓塚がどこに向かっているのかが分かった。
 学校。
 確かにこの時間なら、二人っきりになれることに間違いはない。しかし、深夜の学校はただ単に雰囲気が怖いという以上に、半年前の死闘が思い出されてあまり気分のいいものじゃない。
 誰もいない校庭の中央、ようやく弓塚がこっちを振り返った。
「で?俺に話って言うのは何なんだ?」
 こみ上げる緊張を抑えながら、弓塚に問いかける。
「せっかちだなぁ遠野くんってば。何をそんなに焦ってるの?」
 内心の緊張に気付いているのかいないのか、焦らすように言う弓塚。と思いきや、いきなりトンッと軽く俺の方へ向かって跳ね、覗き込むように俺を見上げてくる。
 軽く跳んだようにも見えるが、とても普通の女子高生が助走も無しに跳べる距離じゃない。
「ゆ、弓塚・・・」
 喉がカラカラに乾いていく。
「私、やっと自分に自信がもてるようになったんだ」
 別にかわいい異性の顔が間近にあるからじゃない。
「ずいぶん色々頑張ったんだけどね」
 これは・・・
「結局半年もかかっちゃった」
 これは・・・
「でも、やっと私の願いが叶うんだ」
 コレハキョウフダ
 以前のような異質なものが目の前にいる死の恐怖とは違う、遥かにリアリティにあふれそれでいて現実感のない光景。
 信じていたものがアッサリと崩され、自分の立っている場所が分からなくなるような恐怖。
 俺は自分の首元へと徐々に近付いてくる弓塚の口と、そこから覗く鋭い犬歯をまるで人事のように眺めていた。
 プッ
 そんな音を立てて弓塚の牙が俺の肩に食い込もうとした瞬間、
「そこまでよ」
「なっ!」
 その声・・・というよりも、その声に含まれた圧力に押されるように、弓塚はバッと俺から身を引いた。
 同時に俺もようやく我に返り、慌てて弓塚との距離をとる。
「何者?」
 俺の背後を睨み付けながら言う弓塚の瞳は、真っ赤に染まっていた。
「あなたに言う必要はないわ。だって、あなたはここで死ぬんだから」
 振り返った俺の目に、白く輝く満月を背に立つアルクェイドの姿が飛び込んでくる。
 満月の光の中、自ら光り輝いているかのような錯覚を受けるアルクェイドの姿は、まるで月の女神の化身のようだった。

「アル・・・クェイド。どうしてここに?」
「レンが教えてくれたのよ」
「レン?」
 腕の中に抱える黒猫の頭をなでながら言うアルクェイド。
 その猫は、間違いなくさっおれの部屋へと来ていた猫だった。
『どういうことだ?』
 俺の頭にクエスチョンマークが浮かぶが、そんな俺を意に介さずアルクェイドは一歩歩みを進める。
 と、黒猫はまるで用が済んだとでも言うかのように、するりとアルクェイドの腕の中から抜け出して駆けていってしまった。
「そんなことはどうでもいいの。それよりどうやらあなたの予想が当たっちゃってたみたいね」
「あ、あぁ・・・」
「まぁいいわ。とりあえずそこにいる死徒を始末しないとね」
 言い淀む俺をアッサリと無視し、言いつつアルクェイドはジロリと弓塚を睨み付けながら再び一歩歩みを進める。
「くっ」
 アルクェイドの気迫に押されたのか、弓塚は逆に一歩後ずさる。
 その光景に、俺はわずかな違和感を感じていた。アルクェイドの行動がらしくないような・・・。
 しかし俺は頭を振ってそんなあやふやな考えを頭から追い払う。そうだ、それよりも先にしなくちゃならないことがある。
「待ってくれ、アルクェイド」
 俺はアルクェイドを止めるようにアルクエイドと弓塚の間に体を割り込ませた。
「何?志貴。まさかその死徒の味方をする気?」
 ギロリとアルクェイドが俺を本気で睨み付ける。昼間デートしたときの暖かさなんてカケラも感じられない冷たい瞳に、思わずすくみそうになる体を必死に鼓舞する。
「そうじゃない。そうじゃないんだ。頼む、少しだけ俺に時間をくれ」
 真剣な表情で懇願する俺に、アルクェイドは渋々といった感じで身を引く。
「わかった。でもイザって時は遠慮なく手を出すからね」
「サンキュー」
 アルクェイドに礼を言うと、俺は弓塚の方を振り返った。弓塚は相変わらず赤い瞳でこちらを睨み付けてはいるが、アルクェイドの登場のおかげで何とか自分を取り戻した俺はなんとかさっきのように我を失うことは無かった。
 俺は落ちついた心で、弓塚に声をかける。
「弓塚」
「・・・その女は誰?」
「はい?」
 あぁ、そうか。そりゃ死徒狩りモード全開のアルクェイドを前にすれば、誰でもそう思うよな。
 けど、イキナリ『死徒狩りを生業としている吸血鬼の真祖なんだ』なんて説明するのもはばかられるし・・・。
「そう・・・そうなのね?やっぱり私の考えは当たっていたんだわ。でも、躊躇って、完璧を目指しているうちにこんな事になっているなんて・・・やっぱり、もっと早く遠野くんに会いに来るべきだった」
 俺の躊躇を余所に、弓塚はなにやら訳の分からない台詞をブツブツと呟いている。
「いや、だからさ、弓塚。俺はまだ弓塚が何で俺に会いに来たのか聞いてないんだけど・・・」
「でも!まだよ。奪われた物は奪い返せばいいんだもん」
 奪われた?奪い返す?何のことだ?俺、なにか弓塚から盗ったりしたっけ?
「弓塚、俺、お前から何か盗ったりしたっけ?ゴメン。覚えてないんだ。言ってくれれば思い出すかもしれないけど」
『鈍感・・・』
 アルクェイドがなにやら呟いたようだったけど、興奮していく弓塚を必死になだめようとしている俺の耳には届かなかった。
「さぁ遠野くん。目を覚まさせてあげるわ!大人しく私に血を吸われなさい!」
「うわっ!訳分からないぞ弓塚!」
 ツッコミつつも、繰り出される爪を紙一重で避ける。
「くっ、今の攻撃を避けるなんて・・・どうやら本気を出さないと駄目なようね」
 弓塚の瞳が紅く輝く。死徒の魔眼か・・・半年前の俺ならどうなっていたかは分からないが、今の俺には耐えられないレベルじゃない。
「だから、落ち付けって。まずは話し合おう。な?暴力はよくないぞ暴力は」
 弓塚も別に俺が魅了できると思っていたわけではなく、ただ単に本気を出してきただけらしく、別段驚いた表情も見せない。
 かといって俺の言葉を聞き入れるつもりは微塵もないらしく、『さぁ本気で行くわよ』とでも言いたげに身構えている。
 ヤバイ。
 弓塚の死徒としてのレベルがどのくらいかは分からないが、本気を出した死徒を相手にどこまでやり合えるか・・・。
 確かにネロやロアとやり合いはしたし、あの二人よりも弓塚のレベルが上だとは思えないが、あの時の俺はスイッチが入っていた。
 考えてスイッチが入るもんじゃないし、弓塚の考えも想いも何も分からないままにブチ切れて弓塚を切り刻むようなマネはしたくない。
 アルクェイドなら『そんな甘いことを考えている暇があったらさっさと殺しなさい!』って言うかもしれない。
 けれど、ネロやロアならともかく、かつて机を並べて一緒に勉強していたクラスメイトを何も考えることなく切り刻むなんてことは、俺には出来ない。
 パチン。
 俺はポケットから『七夜』の名を持つナイフを取り出し、刃をだす。
「ふぅん、そう。遠野くんも本気ってわけだ」
 弓塚は『七夜』を睨み付けながら呟く。
 もちろん、俺はむやみに弓塚の点を突く気はない。まぁどうにもしようがなくなれば脚の線くらいは切る覚悟はあるけど、基本的には弓塚の爪を弾くためだ。さすがに素手じゃ防ぐどころか触っただけでも切られそうだ。
 とはいえ、わざわざそんなことを口にするつもりもない。油断無く身構える俺に、弓塚は再び話しかけてくる。
「ねぇ遠野くん、大人しく血を吸われる気はないの?大丈夫、チクッと痛むだけだから。ね?そうすれば私の下僕になってずっと幸せに暮らせるんだよ」
「わるいけど、誰かの『モノ』になる気はないし、ましてや血を吸わせてやるわけにはいかないな。なにせ、一番大切な人にすら吸わせなかったんだからな」
 俺はアルクェイドの方をチラリと見ながら言った。
「ふぅん、そっか。まだ遠野くんはあいつのモノじゃないんだね。よぉし、俄然気合入って来ちゃった」
 ・・・説得したつもりだったが、どうやら今の弓塚には完全に逆効果だったようだ。肝心な部分を聞いてる様子はないし、益々やる気になってしまっている。
「じゃあ・・・いくね」
 言うと同時に、まるで腕が伸びたかのごとく弓塚の爪が俺の肩に迫る。
 いくら殺される心配はないだろうとはいえ、わざわざ痛い思いをするつもりもない。
 その爪を七夜で弾く。
 しかしそれを読んでいたのか、弓塚はそのまま手をひねり七夜を掴もうとする。
 慌てて手を引くと、それを追って再び弓塚の腕が伸びる。
「くっ!」
 弓塚の爪が俺の腕をかすめ、一筋の血が流れる。
「ふふっ、やっぱりおいしい」
 爪に着いた俺の血を美味そうに舐めながら微笑む弓塚に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
 心のどこかで弓塚は死徒であるという意識よりも、元クラスメイトという意識が強かった。
 しかし、そんな認識の甘さを、まざまざと見せつけられた気分だ。
「俺には弓塚が何を考えてるのか分からないよ。けど、考えるのは後だ。俺も腹をくくるよ」
 俺は改めて七夜を構え直すと、眼鏡を外した。
 ズキン
 懐かしくも嫌な頭痛と共に、世界中に広がる線が俺の目に飛び込んでくる。
 そして、弓塚の体にも。
「さぁ、始めようか」
 俺の言葉が合図となったかのように、再び弓塚が飛びかかってきた。

     *

 どのくらいの時間が経過したんだろう?既に時間の感覚は消え去り、一体何分・何時間弓塚と戦っているのか分からなくなっている。
 吸血鬼と人間じゃ耐久力に差がありすぎる。しかも、俺の体はあんまり丈夫な方じゃない。弓塚はまだピンピンしてるようだけど、俺の方は限界だ。 校庭に生える木の根本で気配を殺しながら、なんとか息を整える。
 にしても、アルクェイドが未だに大人しくしていることは意外だが、それ以上にこれだけ長い間学校の中で暴れ回っていて全く騒ぎにならないってのは、いくら夜の学校に近寄る人はあまりいないとはいえおかしい。
 もしかして・・・。
「遠野くん、そろそろ終わりにしよう」
 俺の思考は弓塚の言葉によって遮られた。
「弓塚?」
 背筋にさっきまでとは異なる寒気が走る。弓塚の気配が感じられない。
 俺の精神が高ぶったせいか、さっきまでは弓塚の殺気をひしひしと感じていた。しかしそれが全く感じられなくなっている。これじゃ弓塚がいつ仕掛けてくるのかも全く分からない。
 ドクン
 ドクン
 意識を集中させようとすればするほど、心臓の音がうるさいくらいに耳に響く。
 カサリ
 意識したわけじゃない。
 頭上で木の葉がこすれる音がした瞬間、とっさに俺は頭上を振り仰ぎ七夜を持った腕をつきだしていた。
 七夜の先端が弓塚の点を突こうとしたその瞬間、弓塚の瞳が俺の目に飛び込んでくる。
「・・・・・・っ!」
 とっさに俺は腕をずらし、七夜は弓塚の脇をかすめていく。しかし同時に、俺を貫くはずの弓塚の爪も俺の体に突き刺さることなく体をかすめていく。
「きゃんっ!」
「ぐはぁ!」
 そのままの勢いで弓塚が俺にタックルをかました格好となり、もつれ合うようにその場に倒れ込む。
 弓塚が俺を押し倒すような体勢だが、照れたり喜んだりしていられるような状況でもない。
 俺の上から覗き込むように見つめてくる弓塚の瞳は、さっき俺が七夜を逸らしたときと同じ、そしてそれまで戦っていたときとは異なる黒い瞳だった。
 吸血鬼の紅ではなく、昔のクラスメイトだった頃の黒。その瞳を見た瞬間、俺は弓塚を殺せなくなっていた。
 いや、たとえ口で何と言おうと、いくら気合いを入れようと、やっぱり俺に弓塚を殺すことは出来なかったのかもしれない。
「どうして?」
「それはこっちの台詞だ」
 ゆっくりと体を離しながら問いかけてくる弓塚に逆に問い返す。
「だって・・・遠野くんってば本気なんだもん。本気で私を拒絶してるんだもん。それじゃ私、何のために今まで頑張ってきたのか分からなくなっちゃったよ。だから、どうせ普通の暮らしに戻れないなら、いっそのこと遠野くんに殺してもらえた方がいいかなって・・・」
「弓塚・・・」
 弓塚の気配・・・殺気が感じられなくなったのも当然だ。弓塚はもう、俺をどうこうする気は無くなっていたんだから。
 にしても、なんて思考の飛躍だ?あの帰り道の時にも少し思ったけど、弓塚ってもしかして思いっきり思いこみが激しくて、一度火がつくと回りが見えずに突き進むタイプか?
「でもね!」
 それまでの暗い雰囲気を払拭するかのように、バッと顔を上げると弓塚はいきなり明るく言い放った。
「今ので私、また俄然やる気が出て来ちゃった」
「は?な、なにがだ?」
 話の展開についていけない。
「あそこで腕を逸らしたって事は、まだまだ私にもチャンスがあるって事だよね?時間はあるんだし、もうちょっと色々と自分を磨いてもう一回チャレンジするわ。その時には遠野くんの気持ちも変わってるかもしれないし。じゃ!」
「お、おい!弓塚!」
 言うだけ言うと、弓塚は俺に口を挟ませる暇もなくいきなり跳んでいってしまった。
 結局、弓塚が何を考えているのかはよく分からなかったが、あの調子からするとまた来そうだし、次こそはちゃんと話をするように努力してみよう。
 それよりも・・・。
「シエル先輩」
「おや?気付いていたんですか?」
 俺が声をかけると、屋上からシエル先輩が飛び降りてきた。
「そりゃこれだけ大騒ぎしておいて、誰も入ってこなけりゃね。先輩が結界か何かみたいなものを張っておいてくれたんだろ?」
「そうですよ。まったく、もう少し考えて行動してもらえませんか?ここで騒ぎになって巻き込まれる人が出たりしたら、一番困るのは遠野くんでしょう?」
 俺の言葉に、先輩は呆れ半分お怒り半分と言った口調で応える。
「ごめん。成り行きでさ。それに先輩かアルクェイドがなんとかしてくれるかなーなんて考えもあったし。でも、先輩はよかったのか?弓塚逃がしちゃって」
 アッサリと弓塚を逃がしてくれと事には感謝しているが、当然の事ながら疑問も残る。
「まぁ、今の私は吸血鬼を殺す義務がある訳じゃありませんし、弓塚さんは無理矢理殺さないとマズイってレベルの死徒じゃありませんし」
「そうなのか?でも、昨日のニュースで・・・」
 俺は昨日の朝聞いたニュースを思い出す。弓塚を逃がしてよかったのか?改めて後悔が押し寄せてくる。
「あぁ、あれは弓塚さんじゃありませんよ」
「へ?」
 先輩の言葉に俺は思わず間抜けな声を上げていた。
「でも、全身の血を抜かれてって・・・」
「まぁ確かに血を吸ったのは弓塚さんですけど、殺した人は別にいて今日の夕方頃捕まりましたよ。恐らくは偶然殺人現場を見かけるか何かして、ついでに血を頂いたってところでしょうか?」
 先輩の言葉に、俺は全身の力が抜けていく気分だった。
「で、でもじゃあ弓塚はどうやって血を補給してるんだ?」
「最近、ここら辺一体の病院で輸血用血液の盗難が流行っていたり、表だってニュースにはなっていませんが貧血で倒れる人が増えてます。多分、その一連の血液がらみの犯人が弓塚さんでしょう」
「そ、そうなのか?」
「はい。本来死徒とはいえ相手を殺すことなく血を採取することも可能ですから。まぁ、そんな気を使う死徒は稀有ですが」
 先輩の話を聞いて、心底ほっとした。よかった。弓塚を殺さなかったのは間違いじゃなかったんだ。
「まぁ、その辺の他人を殺してまで血を吸わなかった理由は、恐らく遠野くんが関係してるんでしょうね」
「は?俺が?俺は半年前から今日まで弓塚には会ってないけど・・・」
「乙女の事情ってやつです!」
 なんだか不機嫌そうに言うシエル先輩。弓塚といいシエル先輩といい、女の子の言うことはイマイチよく分からない。
「志貴!大丈夫だった?」
 と、そこへ、弓塚が去っていったのを見たのか、アルクェイドが駆け寄ってきた。
「あぁ。見ての通りさ。弓塚は逃がしちゃったけどな」
「別にいいわよ。志貴が無事なら」
 嬉しいことを言ってくれる。でも、任せろと言った手前やっぱりちょっと心苦しい。
「よかったのか?アルクェイド。お前は弓塚を殺すためにこの街に来たんじゃあ・・・」
「え?私そんなこと言ったっけ?」
「いや、最初に吸血鬼を殺すために来たって言ってたし、今この街で活動してる吸血鬼って言ったら弓塚くらいじゃないのか?」
 言いつつ、俺は言い様のない不安感を覚える。
「ううん。今回の私にとって、あの弓塚って娘はただのオマケ。本当に殺すべき吸血鬼は他にいるわ」
「そ、そうなのか?」
 何故だ?背中に嫌な汗がじっとりと浮かぶ。
「えぇ。じゃあ本当に殺すべき吸血鬼を退治するとしましょ」
 まるでデートにでも行くかのように軽い調子で言うアルクェイド。
「た、退治するって言っても、どこにいるのか、わ、分かてるのか?」
「えぇ、もちろん」
 そう言って微笑むと、アルクェイドは俺に向かって腕を広げた。
「さぁ、志貴。私を殺してちょうだい」

     *

 ・・・・・・
 ・・・・・・
 数分か数十分か、俺の思考は完全に停止していた。
「なんだよ・・・どういう意味だよ!」
 俺の叫びにも、アルクェイドは悲しげな笑みを浮かべるばかりだ。
「もう限界なんですよ」
 返事はアルクェイドではなくシエル先輩からもたらされた。
「限界?」
「おかしいとは思いませんでしたか?死徒や私を目の前にしても、アルクェイドは殺気立つことはあっても直接実力行使をすることはなかった」
 確かにそれは俺も感じていた。
 最初に弓塚の前に現れたとき、イキナリ空想具幻術なりなんなりを使って攻撃することもできた。しかし、実際には殺気こそこもっていたものの声をかけてきただけだ。
 俺が任せてくれと言ったときもアッサリと引き下がったし、それ以降も手を出す素振りは見せなかった。
 俺を信頼してくれているのかと思っていたけど・・・。
「それに、昨夜私が黒鍵を投げつけた時、人間で言えば金槌で頭を殴られる程度の力で投げつけただけでしたが、実際にはハデに吹っ飛んでいきました」
 よくアルクェイドが怒らないなと思ったが、そのせいだったのか?しかしシエル先輩、金槌で頭を殴られる威力でも十分凶悪だと思います。
「他にも、遠野くん自身も言われてみれば心当たりがたくさんあるんじゃないですか?」
 我が儘なくらい一緒にいようとした夜。
 学校をサボらせてでもしたがったデート。
 楽しそうにデートをしながらも、時折見せた悲しげな表情。
 心の隅で引っかかっていた糸が、するりと解けていくようだった。
「アル・・・クェイド?限界って・・・」
「うん、吸血衝動だよ」
 言いたくなくて飲み込んだ言葉を、アルクェイド自身が引き継ぐ。
 聞きたくなかった言葉。でも耳をふさぐことも許されず、残酷なまでにハッキリとその言葉は俺の耳を通って脳へと達した。
「駄目なんだ。志貴と離れても・・・ううん、志貴が側にいないことを実感すればするほど、私の中の吸血衝動はどんどん膨らんでいく。今の私は、持てる力の全てを吸血衝動を抑えることに使ってるわ。少しでも気を抜けば、志貴に襲いかかりそうなくらい。だから今の私は、普通の人間よりもちょっと力が強い程度の能力しか発揮できないの」
「だからって・・・だからって、なんで俺がお前を殺さなきゃいけないんだよ!何か手はないのかよ!本当にどうしようもないなら、俺の血を吸ったってかまわない!」
 冗談じゃない。
 アルクェイドが死ぬ?
 しかも俺の手で殺す?
 そんなことをするくらいなら、俺が俺でなくなるくらい何でもない。
 でも、そんな俺の叫びにもアルクェイドはただ首を横に振るだけだった。
「そんなこと出来ないよ。私が好きになったのは今の志貴。冷たいように見えても困っている人がいるとほっとけなくって、自分が傷ついても他人を気遣って涙を流すことが出来る。そんな志貴だもん。確かに志貴の血を吸えば私の吸血衝動は収まって志貴を私だけの物に出来る。でもそれって志貴を殺しちゃうのと同じことだもん」
 そう言って微笑むアルクェイドの顔には、全てが吹っ切れたような綺麗な笑みが浮かんでいた。
「そんな・・・そんなこと・・・」
 アルクェイドの笑顔を見て、俺は何も言えなくなった。
 死ぬことを悔やんでいるわけでもなく、殺されることを悲しんでいるわけでもない。
 自分が望んでいた物がようやく手に入る事を喜ぶ、心からの笑顔がそこにはあった。
「それに、このままじゃいつか私は暴走して、結局教会の人間に殺されることになっちゃう。そんなのは絶対にイヤ。だからね。志貴」
 言いつつ、無防備に俺に向かって両腕を広げるアルクェイド。
 いつの間にか上りつつ朝日に透かすように、今までは見えなかったアルクェイドの線がそして点が徐々に浮かび上がってくる。
「私を殺してちょうだい」
 おだやかな表情で俺を見つめる瞳に吸い込まれるように、俺の足は意志に反して一歩、また一歩とアルクェイドへと歩み寄っていく。
 七夜を握る手に、ジワリと汗が浮かぶ。
「アルクェイド・・・」
 最後にそう呟くと、俺は母親に抱かれる幼子のように、アルクェイドの腕の中へと吸い込まれていった・・・。

     *

「はい、そこまでー」
 ガイン!
 七夜の先端がアルクェイドの点へと吸い込まれる寸前、アルクェイドは何者かによって殴り倒され七夜は空を切った。
 何者かも何もない。この場にいたのは俺とアルクェイドの他には一人しかおらず、またこんな事が出来るのはその人間しかいない。
「シ、シエル先輩・・・」
「何て事すんのよ!あんたは!」
 『何をするんですか!』と言う前に、殴られた当人であるアルクェイドが猛然とシエル先輩へと詰め寄る。
 しかし、今のアルクェイドがシエル先輩をマトモに相手に出来ないことが分かっているのか、慌てる素振りも見せずに平然としている。
「まったく、ラブシーンと言うのはドラマとかで見ている分にはいいものですが、目の前でやられるとここまでムカつくとは思いませんでした。ましてやあなた達二人となるとねぇ」
 そう言ってため息をつきながら肩をすくめている。
「いや、シエル先輩。気持ちは分からないでもないし、先輩のこと忘れてた俺達も悪いとは思うけど、今のはないんじゃないか?」
「そーよそーよ!シエルには関係ないんだからあっち行ってなさいよ。むしろ私がいなくなるんだからシエルにとってはいいことでしょ!」
 既にさっきまでの厳かな雰囲気は、イスカンダルの彼方まで吹き飛んでしまっている。
「まぁ、確かにそうなんですけど、そうすると私にとってもちょっと都合の悪いことになるんですよね」
 そう言うと、シエル先輩はスッと俺の目の前に小瓶を差し出した。
 中にはほんの2,3滴ほどの漆黒の液体が入っている。シエル先輩には悪いけど、あまりいい感じはしない。
「これは?」
「これを渡してもいいものかどうか判断するために、今まであえて表立って行動はせずに二人を監視させて貰いました。幸か不幸か、私の判断基準で合格ラインをクリアしたのでこれは遠野くんにあげます」
「ふーんだ。シエルの手垢が付いた怪しげなクスリなんていらないわよーだ」
「あら、そういうこと言っていいんですか?」
 アルクェイドが反発するものの、やはり昔ほどの威圧感が感じられない。そのせいか、アルクェイドの言葉にもシエル先輩は平然としている。
「まぁとりあえず、そこのアーパー吸血鬼は放っておきましょう。このクスリは遠野くんにプレゼントするために持ってきたんですから。まぁ、私の半年間に渡る研究の成果といったところでしょうか」
 言われて受け取った小瓶を軽く振ってみる。
 パッと見た目には炭酸の抜けたコーラみたいにも見えるが、そんななまやさしい物じゃあるまい。
「とりあえず、私はそのクスリに『直死の魔薬』と名付けてみました」
「なっ!」
 思わず落としそうになった小瓶を慌てて持ち直す。
「先輩、それって・・・」
「はい、この薬を一滴目に垂らすだけで、あ〜ら不思議、あなたも今日から直死の魔眼使いと言うわけです」
「な、なんてもん作るんですか!先輩、これがどういうことか分かってるんですか?」
 アルクェイドも、何も言わないものの厳しい視線でシエル先輩を睨み付けている。俺も先輩の返答如何によっては、この小瓶をこのまま叩き割るつもりだ。
「あぁ、心配しないでください。普通の人がこのクスリを使っても、目と脳の回線が合わずに廃人になるだけですし、それでも死の線がうっすらと見える程度のハズですから」
 怖いことをサラリと言うあたり、さすがというか何というか。
「いやぁ、苦労しましたよ。教会の研究機関から直死の魔眼に関する研究資料を奪って、それと私の魔術知識を総動員して開発したんです。完璧な物は出来ませんでしたが完璧に出来たら出来たで厄介な物ですし、これはこれでOKでしょう」
「で、その使ったら廃人になるクスリを俺にどうしろと?」
「決まってるじゃないですか。遠野くんが使うんですよ」
 何を当然のことをと言わんばかりに、先輩は腰に手を当てつつ言う。
「あのね、先輩・・・」
 俺は痛むこめかみを押さえつつ言った。
「そんな危険な物を俺に使えと?第一、そんな物使わなくっても俺の目は直死の魔眼なんだけど・・・」
「遠野くん」
 表情をガラリと変え、真剣な顔でシエル先輩が俺の言葉を遮る。
「そこのアーパー吸血鬼が、吸血鬼でありながら何故昼間でも行動可能か分かりますか?」
「は?」
 何を言い出すんだ一体?
「いいから答えてください」
「長い年月を生きたことによって体が順応した・・・ってところか?」
 アルクェイドの方をチラリと見ながら言うと、そんなところねといった感じでアルクェイドが頷く。
「そんな感じです。まぁ、何百年も生きた真祖でようやくその領域までたどり着くことが出来るんですけどね。では聞きますが、血を吸う必要はなく、昼間も自由に出歩けて、切り刻むこともできて、遠野くんの直死の魔眼なら殺すこともできる。これって吸血鬼と言えると思いますか?」
「いや、それって吸血鬼っていうよりも人間に近いんじゃないか?」
 俺の言葉に、シエル先輩はよくできましたとでも言うようにニコリと笑って頷いた。
「そう。何百年という時を生きた真祖は、環境に適応するために昼間はその体を人間の物へと変えます。もちろん、力は残ったままですし、吸血衝動自体も残っているので、あまりそうとは意識できませんけどね」
 シエル先輩の言葉に疑問が浮かぶ。
「でも、昔俺がアルクェイドを切り刻んだとき、アルクェイドはちゃんと生き返ったぞ?」
 そう。あれが全ての始まりであったわけだけど、アルクェイドの体が人間と同じになっているというならあそこから生き返れた理由が分からない。
「それはそうです。いくら肉体を切り刻まれ人としての肉体が死んだとしても、吸血鬼の魂はそう簡単に滅ぼすことは出来ません。たとえ体を細切れにされようとも、吸血鬼としての命が残っている限り完全に死ぬことはないんです」
「まさか・・・」
 俺はシエル先輩の言葉に掌の中の小瓶に目をやった。
「もう分かりましたか?昼間、肉体が人間の物へと変わっている間に吸血鬼の魂のみを殺す。そうすることによってアルクェイドの体から吸血衝動は消え去るでしょう。でも、そのためには今の遠野くんの魔眼の力でも弱い。それをパワーアップさせるためのクスリというわけです」
 俺は手の中の小瓶を見つめたままシエル先輩の言葉を聞いていた。それが事実なら、こんなに嬉しいことはない。
「アルクェイド。先輩の話、本当なのか?」
「さぁ?」
 期待を込めて問いかけてみたが、アルクェイドの返答は何とも気の抜ける物だった。
「さぁって・・・」
「だって、そんな話聞いたことないし、考えたこともなかったもん」
「でしょうね。私の想像の範疇を越えない、あくまで推測の話ですから」
「おいっ!」
 思わず俺はツッコミを入れてしまった。さすがに裏拳を入れたりはしなかったが。
「それはそうでしょう。過去、直死の魔眼は伝説として残っているだけで実際に確認されたことはありません。そして真祖の体の構造を調べるなんて、真祖自身が許すわけがありません」
「おいおい」
 見えかけていた光明が、アッサリと消えていくようだ。
「私の経験と研究成果から見て、ほぼ間違いないことだと判断していますけどね。それと・・・」
「まだ何かあるの?」
「さっきも言ったように、普通の人がこのクスリを使えば100%廃人になります。ですから、いくら遠野くんが元から直死の魔眼を持っているとはいえ、このクスリに耐えられる保証はありません」
 なんとも雲を掴むような話だ。随分危険な賭だな。
「ちょっとシエル。あなた志貴にそんな危険なことさせる気なの?」
「そう言うあなたは遠野くんに何をさせようとしていたんですか」
 アルクェイドの言葉に、シエル先輩は今までになく厳しい表情でアルクェイドを睨み付けた。
「な、なにって」
 その眼光に、アルクェイドすら後ずさっている。
「もしも遠野くんがあなたを殺したとして、後に残った遠野くんがどんな気持ちを抱えて生きていくのか、考えたことがあるんですか?そりゃあなたは遠野くんの腕の中で死ねて幸せでしょう。でも後に残った遠野くんは、あなたを自分の手で殺したことを一生悔やみながら生きていくことになるんですよ?だからあなたは、アーパー吸血鬼だって言うんです」
「うっ・・・そ、それは・・・」
 シエル先輩の言葉に、さすがのアルクェイドも二の句が継げない。
 それにしてもそんなにも俺のことを心配してくれていたなんて・・・。と感動していた俺に、今度はアルクェイドと同様の視線を向けてくる。
「遠野くんも何を悩んでいるんですか。選択肢は4つ。アルクェイドを殺すか。アルクェイドに殺されるか。アルクェイドを忘れるか。このクスリを使うのか。遠野くんなら、どの選択肢を選ぶべきなのか分かっているんじゃないんですか?」
 そうだ。俺は何を悩んでいたんだ?答えは一つしかないじゃないか。
「で、先輩。このクスリはどう使ったらいいのかな?」
「ちょっと志貴!」
 あまりにもアッサリと俺が答えたせいか、アルクェイドが慌てて腕を掴んでくる。俺はその手をそっと離す。
「シエル先輩の言うとおりだよ。悩む必要なんか無い。俺は自分が死ぬのも、アルクェイドが死ぬのもイヤだ。わずかでも二人で生き残れる可能性があるなら、俺はそれに賭けてみるよ」
「でも・・・」
 俺の言葉にもアルクェイドは納得しかねるのか、シエル先輩の方へとチラリと視線を向ける。
「シエルがここまで親切に私の得になることをしてるのが信じられない」
 ヒクッ
 シエル先輩のおでこ&口元がわずかに引きつる。まぁ、無理もないが。しかし、俺もちょっとだけ変だなと思わないでもない。
「安心してください。私にとっても目的あってのことですし、結果として吸血鬼が一匹減ることは私にとって喜ばしいことです。それに、色々脅しましたが遠野くんが廃人になってしまうような可能性は限りなくゼロに近いですから」
 『シエル先輩の目的』と言うところに不審な物を感じないでもないけれど、まぁそういうことなら納得できる。
「とにかく、他に手段はないんだ。俺はシエル先輩を信じるよ」
「むー」
 アルクェイドは不服そうだが、一応は納得したようだ。死ぬことすら覚悟していたというのに、やっぱりシエル先輩が絡んでくると勝手が違うようだ。
「それで先輩、これってどう使うのかな?」
 手の中で小瓶をもてあそびながら問いかける。
「目薬の要領で両目に一滴ずつ垂らしてください。効き目は約十分間。その間にアルクェイドの『吸血鬼の点』を突いてください」
 俺は黙って頷くと、小瓶の蓋を開ける。
 むわっ
 とたんに、えもいわれぬ怪しげな異臭が鼻を刺激する。
「先輩・・・なんですか?この匂い」
「聞かない方がいいと思いますよ」
 思いっきり顔をしかめる俺に、先輩はニコリと笑顔を向けてきた。
 うぅっ、こんな匂いのする物を体内・・・しかも目に入れるのは、相当の覚悟が必要だ。
 いやだなぁ。
「悩んでても解決しませんよ。さぁ、サクッと目に注してください」
 サクッとって・・・先輩、人事だと思ってないか?
 でもまぁ、悩んでいても仕方がない。俺は思い切って上を向くと小瓶を傾けた。
「志貴・・・」
 アルクェイドが心配げな声を上げる。
 ズキン
「がっ」
 突然、いつもに倍する頭痛が俺の頭を襲う。
「志貴っ!大丈夫?」
「あぁ、大丈・・・夫・・・」
 俺の肩へと手をかけるアルクェイドへと目を向ける。
 ドクン
「ぐうっ」
 吐き気がする。
 いつもよりも遥かにくっきりと、まるで太マッキーで思い切り書き殴ったかのように、アルクェイドの全身に線が走り、ブラックホールのごとく黒々と染まった点が右胸のあたりに見える。
 とりあえず、魔眼の力をアップさせるってところは成功しているようだ。
 などと悠長に考えていられる余裕は正直無い。
 マジで頭が破裂しそうだ。
「我慢してください。辛いでしょうが、もっとよく集中してアルクェイドを見てください。ハッキリと見える死の線とは別に、吸血鬼としての線が見えるはずです」
 言われて痛む頭をこらえながら、視線を集中させる。
 ズキズキズキズキズキ
 脳の血管が破裂しそうだ。視界が狭くなってくる。失いそうになる意識を、必死につなぎ止める。このまま意識を失ったら、二度と目覚めることは出来なくなりそうだ。
 ・・・見えた。
 アルクェイドの体にうっすらと、まるで髪の毛のごとくうっすらと這い回る線と針で刺したような小さな点が。
「み・・・え・・・た・・・」
「それです。さぁこれで」
 さすがにこの点を七夜で突くのは不可能だ。先輩が準備しておいてくれたのか、差し出された細長い針のような物を手に取る。
 思考が働かない。本当に吸血衝動だけが殺せるのか疑問がないでもないが、そんなことを考えられるような余裕はない。
「時間がありません。さぁ早く!」
 シエル先輩に後押しされるように、本能に導かれるまま針の先端をアルクェイドの点へと近づけている。
 アルクェイドは俺を信じてくれているのか、身動き一つせずに針の先端を見つめている。
 スッ
 音もなく先端がアルクェイドの体へと吸い込まれていく。と、同時に俺の意識もまた深淵の底へと沈んでいったのであった。





     エピローグ

 チュンチュン
 窓の外から小鳥のさえずりがかすかに聞こえてくる。とはいえ、意識はまだ覚醒はしていない。
 それでも、半分とはいえ翡翠が来る前に覚醒しかけているというのは、大いなる進歩だろうか。
 コンコン
「失礼します」
 などとボーっとしているうちに、ノックの音と共に翡翠が部屋の中へと入ってきた。
「志貴さま。おは・・・」
 ん?翡翠の挨拶が途中で途切れたような・・・半分寝ているせいか?
 しかし、パタパタパタと足早に部屋から遠ざかっていく足音からするに、挨拶の途中で何かに驚いて去っていったような・・・。
 と、翡翠の足音が去って数分と経たないうちに、今度はドタドタドタと盛大な足音がいくつも近付いてきた。
「兄さん!」
 バァン!
 ノックも無しに響き渡る盛大な怒鳴り声と、壊れるんじゃないかと心配になるくらい勢いよく開かれた扉の音に、否が応でも俺の意識は完全に覚醒させられる。
「んー秋葉。はしたないぞ。いつも俺に言ってるじゃないか『もっと遠野家の長男として自覚を持ってください』って」
 言ってから秋葉の顔を見て、俺は自分の言葉を激しく後悔した。
「えー申し訳ありませんでした。でも兄さん。そう言う発言は自分の今の状況をよく見てからおっしゃっていただけますか?」
「は?」
 『般若』と言う言葉がよく似合う秋葉の表情から顔を背け、俺は自分の身の回りを見回してみた。
「おはよー」
 俺のベッドの中にアルクェイドがいるような気がするのは、俺の気のせいだろうか?
「って、アルクェイドぉ!?」
「きゃんっ!」
 俺は慌てて布団から飛び出す。その際にアルクェイドがかわいい悲鳴を上げるが、そんなことを気にしている余裕はない。
「ななななななななな何でアルクェイドがここにいる!」
「えー、だからいつも言ってるじゃない。志貴と一緒にいたいんだって」
 そう言って照れるように微笑むアルクェイドは思わず抱きしめたくなるほどかわいいが、今はそんな悠長なことを考えていられるような余裕はない。
 アルクェイドが素っ裸ってわけじゃなく、ちゃんとメイド服を着ていることがせめてもの救いか。
「アルクェイドさん!節度ある行動をとることを条件にあなたを遠野家のメイドとして雇ったこと、忘れたのですか!」
「だってー」
「だってもへったくれもありません!」
 ビシィ!とアルクェイドを指さしながら怒鳴る秋葉の迫力に、さすがのアルクェイドも小さくなる。
 無事に人間となることができたアルクェイド。俺の方には多少の後遺症が残り、2〜3日の間はマトモに目が見えなくなってしまったものの、アルクェイドの方はなんだか吸血鬼だった頃以上に元気一杯だ。
 そして、城に帰る必要が無くなったけど、同時に行き場所が無くなった・・・と言うより俺と一緒にいたいと駄々をこねるアルクェイドをメイドとしてウチに雇うことになったわけだ。
 もちろん秋葉が素直に納得するわけが無く、一悶着どころか十悶着くらいあったわけだけど、正直あの時のことは思い出したくもない。
「だいたいあなたも!アルクェイドさんがこんな事をしないように見張ると言うことで雇ったんですよ?」
「すみません。まさか人間に戻ったアルクェイドにこれほどの力が残っているとは」
 秋葉に怒鳴られて小さくなっているのは、アルクェイドと同じようにメイド服に身を包み小さくなっているシエル先輩。
 顔のあちこちに傷があるのは・・・やっぱアルクェイドか?
 こちらも、直死の魔薬の一件やらなんやらで教会にいられなくなり、シエル先輩の希望と助けて貰った借りがあることから、この家でメイドとして雇うことになった。
 なんだか確信犯なような気がしないでもない。
 シエル先輩は、対アルクェイド用抑制兵器として自分を秋葉に売り込んだので、アルクェイドほど揉めることはなかった。もっとも、あまりいい顔はしなかったけれど。
 というわけで、今俺の家には琥珀さんと翡翠に加えてアルクェイド&シエル先輩という合計四人のメイドがいることになる。
 有彦あたりに知られたら絞め殺されそうな気もするが、当事者たる俺にはあんまりその幸せを噛みしめられるような余裕はない。
「やーい、シエルってばおっこられたぁ」
「誰のせいだと思ってるんです!」
 言うやいなや、どこからともなく取り出した黒鍵をアルクェイドに向かって投げつける。
「はっずれー」
 危なげもなく避けるアルクェイド。
 あぁ・・・俺のベッドに穴が・・・。
「くっ、表に出なさい!このあーぱー吸血鬼!昨夜気絶させられた借りを返して上げます!」
「へっへーん。もう吸血鬼じゃないもんね」
 いいつつも、さすがにこの部屋の中で暴れるのはマズイと分かるのか、窓から外へと飛び出す。
「兄さん・・・」
「いや、言いたいことは分かる。後でよーく言っとくから」
 背中に秋葉の殺気のこもった視線を感じながら言う。
 外ではアルクェイドとシエル先輩が戦闘の真っ最中だ。言い争う声が部屋の中まで聞こえてくる。
「何で人間に戻ったくせにそんな力があるんです!」
「殺されたのは吸血衝動だけだもん。力は昔通り使えるに決まってるじゃない。シエルこそ用が済んだならいつまでもつきまとわないでよね。吸血鬼じゃなくなったんだから、私にも用はないでしょ」
「あなたになくても、遠野くんにあるんです!吸血鬼にたぶらかされていた遠野くんの目を、側にいて少しずつ醒まして上げるんです」
「じゃあ、なんで私を助けるようなマネしたわけ?」
「遠野くんがあなたを殺したりしたら、一生心に残しちゃうでしょう。だったら素直に生かしておいて愛をさましていった方が得策というものです」
「ふんっ!相変わらずの女狐ね。なんだかんだ言って結局志貴を自分のものにしたいだけなんでしょう」
「なっ、そ、そんなことは」
「ふっふーん。図星ね。でも志貴は誰にも渡さないわよ」
「その自信、うち砕いて見せます!」
 二人が一つ言葉を交わす毎に、秋葉の視線の温度が一度ずつ下がっていく気がするのは俺の気のせいだろうか?
「兄さん」
「はははははい!」
 思わず声が裏返ってしまう。
「ずいぶんと、おもてのようですねぇ」
 背後から襲ってくる威圧感に、俺は振り返ることすら出来ない。いや、振り返らなくとも目の笑っていない秋葉の笑顔がまざまざと想像できてしまう。
 こういうときは、何と言ったっけ?そうだ。『三十六計逃げるにしかず』だ。
「おっと、もう学校に行く時間だ。早く着替えなくちゃな」
 そう言いつつ、上着を脱ぎだす。
「なななななにににににに兄さん!なんてはしたない!」
 と、秋葉が顔を背けた隙をつき、俺は一瞬で着替えを済ませると部屋を飛び出す。
「あっ、兄さん!お待ちなさい!翡翠!兄さんを捕まえなさい!」
「で、ですが・・・」
 秋葉も無茶を言う。
 家の中では俺と秋葉の騒動が響き渡り、庭ではアルクェイドとシエル先輩が暴れている。 そんな俺達を翡翠は呆れたようなため息をつきながら、琥珀さんは楽しげな笑みを浮かべながら見つめている。
 どこか遠くの地の底で、『私も混ざりたい〜』と弓塚が嘆いてる声が聞こえたような気がした。
 普通の日常とは懸け離れた日常。
 それでも、俺が望んだ平和な日常。
 騒がしさに頭を痛めつつも、俺はこんな日常が続けばいいと強く願うのだった。


 


 

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