しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。
「風の歌を聴け」/ 村上春樹



とりとめもなく身辺雑記のようなものを書き綴ってみようと思います。


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'01 12月

12月31日
 今年読んでとくに印象深かった本について振り返ってみました。
 ペーパーバック約30冊、国内出版本約70冊読みました。ペーパーバックは、昨年HPを立ち上げた時のちょうど半分くらいとなりましたが、まだ再読のほうが多くなっています。ペーパーバックが減った分、国内本が増えています。新しく読んだ海外作家の作品は、全部広場のほうへ投稿された方、あるいは他のサイトで薦められて読んだものです。オースティン作品の持っている古典の底力はすごいなと思いました。来年はプルーストを読めるんだろうか。
 国内では恩田作品を12冊読んだのが圧倒しています。来年は、まずは水村早苗さんの『続・明暗』を読みたい。でもその前に、夏目漱石の本編を再読せねば。


○とくに印象に残ったペーパーバック(順不同)
○とくに印象に残った国内出版本(順不同)
 

12月18日
 ハックスリーの『すばらしい新世界』関連で映画『未来世紀ブラジル』、それから彼の著作『知覚の扉』(翻訳本)とタイトルの元となったウィリアム・ブレイクの詩の紹介を追加しました。

ビタミンF/ 重松清

 第124回直木賞受賞作品です。
 夫婦が30代後半から40代前半のサラリーマンで、従って子供がまだ小中学生の家庭を題材にした短編集です。 "ビタミンF"というのは実際にはないものですが、このタイトルには、人の心にビタミンのようにはたらく小説があったっていい、という作者の思いが込められていて、収録されている7つの短篇はFamily、Father、Friend、Fight、Fragile、Fortune など、「F」で始まる言葉がキーワードとして作品に埋めこまれているとのことです。
 常日頃、もっぱら現実逃避型の読書をしているので、この作品のようなとても他人事として読めない、身につまされる小説を読むのは久しぶりで、痛かった。中では"いじめ"を扱った「セッちゃん」がとくに心に残りました。

 一人娘の加奈子は中学2年生。明るくて成績もいい彼女はクラスのリーダー格で人気もあった。両親は、加奈子のクラスに最近転校してきたセッちゃんがクラスのみんなから嫌われ、いじめにあっていることを彼女からたびたび聞かされていた。娘から来なくていいと言われていた体育祭をのぞいた両親は、いじめにあっているのは加奈子であって、セッちゃんは彼女が自分の身代わりに作り出した架空の生徒であることを知る。

 
加奈子が傷ついているのはどこだろう。頭だろうか。胸だろうか。心は、体のどこにあるのだろう。セッちゃんは、加奈子の中のどこにいるのだろう......。

 小説は、両親と加奈子が川に身代わり雛(びな)を流すところで終わっていますが、加奈子は現実を直視することができるようになったようで、これからもいじめは続くにしても、なんとか切り抜けていくのではないかという兆しが感じられました。
 どんな家庭もそれぞれがユニークであって、それだからおのおのの家庭が抱える問題に対して共通して効果のある処方というのは多分なくて、直面する問題に対しては、家族のメンバー各人が、じたばたして、結局収まるところに収まるしかないのでは、という気がしていますが、『ビタミンF』それから"いじめ"をテーマにした5つの短篇を収録した『ナイフ』を読んだあとの思いもやはり同じでした。ただ親として、子供が危機に陥った時には、捨て身であたる覚悟を持たなくてはと思っています。たとえば息子のアーニーを救うために警察に乗りこんで行った『ギルバート・グレイブ』のお母さんのように。



ビタミンF
重松清
新潮社 '00年初版


ナイフ(1997)
重松清
新潮文庫 '00年初版



ギルバート・グレイブ '93
(監)ラッセ・ハルストレム
(演)ジョニー・ディップ、ジュリエット・ルイス、
レオナルド・ディカプリオ



12月9日
 金曜日に劇団東演の下北沢にある小劇場、東演パラータでの公演「黄昏のメルヘン」を観て来ました。これは故・矢代静一の作品で、矢代さんの作品では、浮世絵師の写楽、北斎を主人公にした「写楽考」、「北斎漫画」などが印象に残っています。知人の知人が東演の制作にいる関係で、時折誘われて見に行ったりしますが、100人でいっぱいになるくらいの小スペースなので客席と舞台が本当に近くて、いい雰囲気です。

 土曜日には、知人が2ndヴァイオリンを弾いている三鷹市管弦楽団の定期演奏会を聴きました。曲目は、幻想序曲「ロメオとジュリエット」(チャイコフスキー)、「ヴァイオリン協奏曲」(シベリウス)と本邦初演の「交響曲第1番」(カリンニコフ)で、アマチュアながらたいしたものですが、今回客演した指揮者の山田和樹さんとヴァイオリンの磯田ひろみさんがとても素晴らしく、このオケの今までの定期の中では最高の演奏でした。感動したのは僕だけではなかったようで、いつもは演奏中でもざわつきが感じられるのに、今回は全くそれがありませんでした。山田さんと磯田さんは、共に芸大出身のまだ20代前半の若手で、山田さんは若き日の小沢征爾はこんな感じではなかったと思わせる魅せる指揮ぶりで、表現の幅も大きく、将来のスターとなる資質を持っているように感じました。磯田さんの演奏では、確かな演奏技巧による落ちついた演奏で、好感が持てました。これに、いい意味でのパフォーマンスが加われば、きっと飛躍できるのでは、と思います。
 舞台にしろコンサートにしろ、やはり生というのは独特の魅力があって、いいなあと感じ入った週末でした。

 恩田さんの作品で読むのは10作目となる『光の帝国』、ペーパーバックではグレアム・グリーンの『情事の終わり』の後、オンダーチェの『イングリッシュ・ペイシェント』('92年英ブッカー賞受賞作品)を読んでいます。



光の帝国 常野(とこの)物語/ 恩田 陸

 
僕たちは、無理やり生まれさせられたのでもなければ、間違って生まれてきたのでもない。それは、光があたっているということと同じように、やがては風が吹き始め、花が実をつけるのと同じように、そういうふうに、ずっとずっと前から決まっている決まりなのだ。
 僕たちは、草に頬ずりし、風に髪をまかせ、くだものをもいで食べ、星と夜明けを夢見ながらこの世界で暮らそう。そして、いつかこのまばゆい光の生まれたところに、みんなで手をつないで帰ろう。

 代々超能力を持つ常野一族を描いた10篇の短篇からなる連作短篇集です。"常野(とこの)"の名は、おそらく柳田国男の名著『遠野(とおの)物語』との連想から名づけられたのだと思いますが、遠野が東北にあったように、常野一族の出身も東北地方のようで、各人が様々な特異な能力を持っていますが、極めて温厚な、礼節を重んじる一族で、権力を持たず、群れず、常に在野にあれ、という平和主義者たちでした。
 この一族の能力はバラエティに富んでいて、並外れた記憶能力、予知、人の心を読む、長命、発火、見えないものを見る、空を飛ぶ...など様々です。いくつかの短篇は互いに関連していますが、多くは独立していて、おそらくはこれからも常野一族の物語は書き継がれ、恩田作品の根幹となるサーガ(大河小説)に発展していくのではないかと思います。
 超能力とは勿論無縁の自分だけど(サイコロをころがして一生懸命、念力を訓練した事もありました)、なぜか常野の地とその一族に懐かしさを感じました。
 この短篇集の中から、今後サーガの中心人物となるであろう亜希子が登場する「黒い塔」のストーリーを紹介してみます。この短篇は、亜希子が常野一族の一員となるイニシエーション(通過儀礼)の物語となっています。
 社会人の亜希子は毎夜の悪夢に悩まされていた。その夢とは、彼女が寒い風の吹く暗い空を飛び、てっぺんの球体が燃えている黒い木材を積み上げた黒い塔に向かって飛び込んでいくというものだった。病気の父の容体が悪化し、バスで故郷の秋田に帰ろうとする亜希子に、必死の形相の女性が近付き、「バスに乗らないで!」と叫んだ。そして彼女の乗ったバスは途中で崖崩れに巻きこまれてしまう.....
 この出来事の結果、亜希子は孤児だった彼女を育ててくれた両親に対する心のわだかまりを解き、自分が不思議な能力を持っている事、そして常野一族の存在と自分の出生の秘密を初めて知ることになります。

 
自分が一人ではないこと、大きな営みの中に生かされていること。遥かな時間と人々の行為の積み重ねの上に自分が存在していること。自分という存在を無駄にはできないこと ―
 この流れはどこに行くのだろう。自分はどこまで流されていくのだろう。
 ふと、仕事の合間に亜希子は不安になる。ワープロの黒い画面を覗き込む。
 いつかその流れに恐怖を覚え、立ち止まることもあるだろう。どうすればいいのかと悩み、後ろばかり振り返る時もあるに違いない。その時は帰ればいい。みんなが待っている、あの広い世界。みんながかつて散って行った、そして今再び集まろうとしている野原 ― 懐かしい人々が待つ常野へと。


遠野(とおの)物語/ 柳田国男

 
その地はただ青き山と原野なり。

 この作品は、民俗学の父と呼ばれている柳田国男(1875−1962)が、明治43年(1910年)に自費出版したもので、遠野出身の佐々木喜善から聞いた東北の陸中遠野に伝わる話をまとめたもので、119の短いエピソードが収められています。佐々木喜善が著者に語った話は、昔話ではなく、"目前の出来事"であり"現在の事実"であると、まえがきで柳田国男は書いていますが、語られている中には、山男、山女、神隠し、座敷ワラシ(子どもの神様)、狼、河童(かっぱ)、天狗、雪女、山姥(ヤマハハ)などの関わる話が多く含まれていて、当時の人々の心象風景が垣間見られるようで興味深いものがあります。文語体で書かれた柳田国男の文章も気品のあるものです。

 
遠野郷より海岸の田ノ浜、吉里吉里(きりきり)などへ越ゆるには、昔より笛吹峠という山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢うより、誰もみな怖(おそ)ろしがりて次第に往来も稀になりしかば、ついに別の路を境木峠という方に開き、和山を馬次場として今は此方ばかりを越ゆるようになれり。ニ里以上の迂路(うろ)なり。

 
旧家にはザシキワラシという神の住たもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家には、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これは正(まさ)しく男の児(こ)なりき。

 佐々木氏の祖父の弟、白望(しろみ)に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るように思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼ばわりたるを聞けりとぞ。

 川の岸の砂の上には川童の足跡というものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。



光の帝国 常野物語(1997)
恩田 陸
集英社文庫 '00年初版


遠野物語 他(1910)
柳田国男
岩波文庫 '76初版



 Filmography links and data courtesy of The Internet Movie Database.



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