過去の雑記 : '00 11月 '00 12月

 '01 1月



1月28日
 現代音楽「オリヴィエ・メシアン」を追加しました。tangerineさんのサイトへのリンクを追加しました。
 大分前になりますが、tangerineさんの"murmur" のコーナーで、"『話を聞かない男と、地図を読めない女』という本の中にある男性度・女性度テストをやってみました"、というのがあって面白そうだなと思っていたんですが、この間やってみました(立ち読みで)。普通、男性は180点以下、女性は150点以上となるそうで、男性で180点を越えるとゲイの可能性が高いとのこと(こわいテストだな)。結果は70点でした。私は極めて当たり前の男であったんですね。ホッとするというよりは、自尊心が少々傷つきましたね。しかし、僕がどんなに譲歩しても100点を越えることはできないであろうあのテストで150点以上取るという女性なるものは、価値観が全く男とは異なる生き物であるんですね。いまごろそんなことがわかったのかと言われればそれまでですが....。長年、奥さんと一緒だけれどそれほど違和感は感じなかったんですけどね....。まあ、この辺のところを理解して、お互い譲歩することが必要なんでしょうね。この本は、脳生理学によるアプローチにより性差について議論していて、従来の心理学によるそれに比べて、より説得力があるような気がしました。文庫化されたら買ってみよう。

○ 「手紙、栞(しおり)を添えて」/ 辻邦生・水村美苗
 この本は、朝日新聞に'96年4月から'97年7月までの1年と4ヶ月にわたり掲載された辻さんと水村さんとの往復書簡集です。二人合わせて50余通にのぼる手紙の中で語られているのは東西の古典文学の名作についてです。二人とも敬愛する作家であるので、僕にとってはこれはとても美味しい本でした。まず文学、あるいは本を読むことについて印象に残った言葉を抜書きしてみようと思います(文中 M:水村美苗、T:辻邦生 を示す)。

文学が実人生でないというところにこそ、文学の本質があるということです。

実際、よい文学というものは本当に不思議なものです。それがどんなにおもしろおかしくとも、私たちの人生が無限の中の一瞬でしかないのを、教えてくれる。

文学が面白く読めるというのは、「幸福」を知るということと同じです。... 文学 ― それは、少数の幸福な精神との結びつきにほかなりません。

それさえあれば、ほかがいっさい無意味になるような、人生最高の歓び。それは何よりもまず、この読書のことではないだろうか。

「地上の生とは、かくもはかなく、かくも美しく哀愁に満ちているのか」
 辻さんのお言葉です。実際、もし文学に何か使命があるとすれば、それは究極的には、この真理― 「地上の生」がはかないこと、こうするうちにも人生が過ぎ去ってゆくことを知らせるためにあるのかもしれません。もちろん多くの作品は、まったく別のことを語りながら、この真理を裏側や斜め側から照らしだす。(以上 M)



手紙、栞を添えて
朝日文庫 '01初版

長い小説を読む快楽は、とにかくそこに没入して、自分もこの世もすべて忘れ、ただ小説世界の中に生きる― それしかありませんね。

文学の中には事件も起こります。嬉しいこともあります。悲しいこともあります。でもそれが文学の中にあって私たちの喜びのためにいつでも出てきてくれるとは何と素敵なことでしょう。(以上 T)


 この往復書簡に登場する作家は、20名以上になりますが、個人的に気になる作家を挙げてみると、ブロンテ姉妹、スタンダール、ドストエフスキー、トーマス・マン、プルースト、リルケ、チェーホフ、ギッシング、ボルヘス、オースティン、樋口一葉、谷崎潤一郎、永井荷風、森鴎外、紫式部でしょうか。僕の好きな作品についてのコメントの例をいくつか挙げてみます。

ジェーン・エア/ シャーロット・ブロンテ

自由意志― 自分で善悪を選べる自由は、西洋において、人間が人間であることの証とされてきたものです。ジェーンは家庭教師という当時女に開かれた唯一の自活の道を盾に、どこまでも「人間」であろうとする。どこまでも「人間」であろうとすることによって、あのシンデレラより、強く、深く、狂おしく愛されるのです。 (M)

嵐が丘/ エミリー・ブロンテ
『嵐が丘』を読む経験― それを「快楽」と命名するのは、ためらわれる。少なくとも私にとって、それは、快楽であると同時に、何かとてつもなく恐ろしいものです。読み始めるたびに、悪夢の中にずるずると引きずりこまれるようです。偉大な作品というのは、かならずどこか遠いところまで連れてゆかれるものですが、『嵐が丘』の場合は、これ以上先へいってはならぬという、まさにぎりぎりのところまで連れてゆかれるような気がします。 (M)

悪霊/ ドストエフスキー
近代のニヒリズムは底なしです。どんな理由をつけても、生の無意味さから人間は逃れることができません。しかし人間を神にするために、つまり人間に真実と至福をもたらすために、自殺しようというキリーロフは生きることの嬉しさを何げなく生きているのです。ドストエフスキーは最後まで虚無との一騎打ちをしていたのですね。 (T)

カラマーゾフの兄弟/ 同上
人間は最後の瞬間まで、犯人になる自由も、犯人にならない自由もある。しかしその自由はたんなる自由意志ではない。それは自由意志そのものを超え、本人をも驚かすような行為を人間にとらせてしまう自由なのです。その瞬間、人は神を知る― あるいは自分自身を知る。それが人間の崇高かもしれません。小説家ドストエフスキーにおいては、その人間の崇高が、小説の流れの中に具体的に啓示されているのです。(M)

マルテの手記/ リルケ
リルケが『マルテの手記』の中で試みたのは、この無名詩人の生と死を通して、灰色の空虚の現代に、もう一度、幼少時代の思い出や、祖先の重厚な愛と死を呼び起こすことでした。そこでは、机も椅子も花々も戸棚も窓も、人間と同じ魂を持っていたのでした。ちょうどパリのクリュニー美術館にある「一角獣のタピスリ」が貴族の娘の美しい魂を今もそこに湛えているように、です。(T)






1月21日
 P.D.Jamesの『An Unsuitable Job for a Woman』とEmily Bronteの『嵐が丘』の紹介を追加しました。『嵐が丘』については映画も紹介しています。『Poisonwood Bible』は、3/4ほど(450p)読みました。一度ストーリーの中に入り込んでしまうと、あとは一気呵成にといった感じです。

○「私小説 from left to right」/ 水村美苗
 水村さんは個人的にお気に入りの作家です。この本は、題名の通り横書きで書かれています。英文混じりのためです。内容は、
"「美苗」は12歳で渡米し滞在20年目を迎えた大学院生。アメリカにとけこめず、漱石や一葉など日本近代文学を読み耽りつつ育ったが、現代の日本にも違和感を覚え帰国をためらい続けてきた。 To return or not to return. 雪のある日、ニューヨークの片隅で生きる彫刻家の姉と、英語・日本語まじりの長電話が始まる。異国に生きる姉妹の孤独を浮き彫りにする、本邦初の横書き bilingual 長編小説。" (文庫裏表紙の内容紹介より)
です。さすがプロ。これ以上的確に要約するのは出来そうもないので、そのまま引用しました。
 小説の中心部分を占める姉奈苗との電話での会話ですが、その例として始めのほうで美苗が日本の文庫本を奈苗に小包で送ったことについての会話から;


私小説
from left to right
'95野間文芸新人賞受賞
新潮文庫 '98初版

― 開けた?
― うん開けた。たくさんあるんで、びっくりしちゃった。 How am I going to read these?
― でしょう。重かったわよ。こっちは車がないんだから。
― ドモドモ。で、何から読んだらいいの。 Gotta tell me what to read, sis. もう読んだ本も大分あるけど。
 
 ほとんどが文学の本であった。そう訊かれるとどう答えたらいいのかわからなかった。私は適当に明治の文豪の名前を連ねて挙げた。
― その辺の big name は大体読んでるのよ。
― 一葉なんか、あなたちゃんと読んでないんじゃないの。
― 一葉? Gee thanks. 読んだわよ。 I've read her, I even liked her. 一葉は好きで、日記まで読んだわよ。 Didn't I tell you?

 といった具合で延々と長電話が続きます。この本を読むと、日頃は思ってもみない日本人であることの identity について考えさせられます。そしてその証(あか)しは美苗がアメリカで日本に思い焦がれながら考えるように、"日本語"に求めるしかないのではないか。

 
じきに私は日本人であることの証しは血にはないことを知るようになった。以来私は寝ても覚めてもそれを日本語に求めたのである。
 だが、そもそも日本人であるということ自体にどんな意味があるのだろうか ― 私はこの問いだけは問うたことがなかった。この問いだけは問わずに、ただ日本人であろうとして今まで生きてきてしまったのであった。

 So did I. 言語というものは、過去の歴史・文化をまるごと背負っているものであって、日常頭の中で考え、話す言語がその人の思考形態に与える影響というものは、ある意味で決定的なものだろうし、そういった言語という共通基盤を土台にして日本人であるという identity が築かれているのは確かなことだろうと思います。でも日本語を話すことにより日本人であり続けることの意味とは何なんだろう。答えは出ないにしても問い続けていく必要はありそうだな。

 
世界の一部でありながら、世界の一部ではない国、大国になればなるほど精神が矮小になる国、どこを向いてもうすら寒い女の写真と狎(な)れ合いの言葉が宙を舞う国 ― 眼に見えない世界で私に命を与え続けてくれた国であるだけに眼に見える日本は悲しかった。

 美苗は日本に帰って、日本語で小説を書くつもりです。奈苗との電話を切り、窓の外を眺めると雪が降り続いています。

 
雪は人間の悲しみも罪も一様に消すように空から降っている。死を思わす沈黙の中で、永遠の時間の中で降っている。狂おしい生への思いが身体をめぐり、その瞬間、墓を躍り出た山姥たちが蓬髪をたなびかせ、裸足で山を駆け降りる音が今一度耳朶(じだ)に轟と鳴った。

     目覚めよ、あらゆる願望よ。
     目覚めよ、あらゆる欲望よ。

 何日ぶりだろうか、真鍮の取っ手に両手をかけ勢いよく窓を開け放った。冷たい空気が入りこむと同時に私の回りのよどんだ空気がゆっくりと動き、天井に向かって大きく風が立った。

  




1月8日

 P.D.Jamesの『An Unsuitable Job for a Woman』を読み返し、懸案だった『Poisonwood Bible』(1998)を読み始めています。アフリカのコンゴに赴任した宣教師一家(牧師である父と母と4人の娘達)の30年間にわたる物語で、章ごとに4人の娘達の回想が語られるといった構成で、変化があり読みやすくなっているけど、大部なので当分楽しめそうです。
 
○「クリスマスの思い出」/ トルーマン・カポーティ(村上春樹:訳、山本容子:銅版画)
 Nakaさんが捜していて(見つかりましたか)、Hiroさんのお気に入りというこの本を読みました。原作は「Breakfast at Tiffany's」に収録されている15ページほどの短篇でカポーティ紹介ページでも簡単に触れています。これは誰にもお奨めできる素敵な本ですね。山本さんの銅版画(20作品所収)も文章と調和しているし、翻訳であることを感じさせない村上さんの訳が何よりも素晴らしいと思います。

 
この短篇はカポーティの散文のある種の頂点を記録していると言っても、おそらく差し支えないだろう。カポーティの文章的才気をあますところなく発揮した淀みのない、美しい、歌うがごとき文体である。 
本文ノートより(以下同様)/ 村上春樹


 訳文と原文を対比してみたいと思います。どこでもよいのだけれど、まずは冒頭の部分から ;

 11月も終りに近い朝を思い浮かべてほしい。今から20年以上昔の、冬の到来を告げる朝のことだ。広々とした古い田舎家の、台所のことを考えてみてほしい。黒々とした大きな料理用ストーブがまず目につく。大きな丸いテーブルと、暖炉の姿も見える。暖炉の前には、揺り椅子がふたつ並んでいる。暖炉はまさに今日から、この季節お馴染みの轟音を勢いよく轟かせ始めたばかりだ。
 白い髪を短く刈り込んだ女が、台所の窓の前に立っている。彼女はテニス・シューズを履き、夏物みたいなキャラコの服の上に、くたっとしたグレイのセーターを着ている。小柄で元気いっぱいで、まるで雌のチャボみたいな感じだ。でもかわいそうに、若い頃に長患いをしたせいで、背中の上の方がすっかり曲がってしまっている。顔だちはなかなか人目を引く。リンカーンに似ていると言えなくもない。ちょうどああいう具合にきゅっと頬がそげているのだ。そしてその肌は太陽と風に焼かれて染まっている。でも顔だちそのものは繊細と言ってもいい。骨格もどことなく優美だ。瞳はシェリー酒色で、見るからに内気そうである。「ねえ、ごらんよ!」と彼女は叫ぶ。その息は窓を曇らせる。「フルーツケーキの季節が来たよ!」

IMAGINE a morning in late November. A coming of winter morning more than twenty years ago. Consider the kitchen of a spreading old house in a country town. A great black stove is its main feature; but there is also a big round table and a fireplace with two rocking chairs placed in front of it. Just today the fireplace commenced its seasonal roar.
 A woman with shorn white hair is standing at the kitchen window. She is wearing tennis shoes and a shapeless grey sweater over a summery calico dress. She is small and sprightly, like a bantam hen; but, due to a long youthful illness, her shoulders are pitifully hunched. Her face is remarkable - not unlike Lincoln's, craggy like that, and tinted by sun and wind; but it is delicate too, finely boned, and her eyes are sherry-coloured and timid. 'Oh my,' she exclaims, her breath smoking the windowpane, 'it's fruitcake weather!'



 スックおばあさんと少年バディー(おそらくはカポーティ自身)は、毎年のクリスマスに、ケーキを友人たちの為に焼き、クリスマスツリーを切り出し、飾り付け、そしてプレゼントの交換をしていた。そんなふたりが最後にともに過ごしたクリスマスの情景を描いた作品です。

 
ここに描かれているのは完璧なイノセンスの姿である。そのイノセンスは無垢な少年としてのバディー、世間からは外れてしまった童女のような60歳のスック、そして犬のクイーニーという三者によって形成されたサークルの中にひっそりと維持されている。彼ら三人(二人と一匹)は誰もが弱者であり、貧しく、孤立している。しかし、彼らには世界の美しさや、人の抱く自然な情愛や、生の本来の輝きを理解することができる。そしてそのような美しさや暖かさや輝きが頂点に達して、何の曇りもなく結晶するのが、このクリスマスの季節なのだ。

 村上さんは続けて、"そのようなイノセンスは、多かれ少なかれ誰の少年期、少女期にもあるものだろうと思う。"と書いていますが、この作品に感動する根底には、子供の時の自分がもっていたであろう、そしてもうそこからは遠く隔たってしまったイノセンスへの憧憬があるのではと思います。


 クリスマス・イブの午後に、僕らはなんとか5セントを工面し、肉屋に行って恒例のクイーニーのための贈り物を買う。ちゃんとかじることのできる上等の牛の骨だ。その骨は漫画新聞に包んで木のずっと上のほうの、銀の星の近くに載せておく。クイーニーは骨がそこにあることを知っている。彼女はツリーの足元にうずくまって、感に堪えかねるというようなうっとりした目でじっと上を見ている。寝る時間になっても彼女はがんとしてそこから腰をあげようとはしない。僕の興奮ぶりだってクイーニーに負けない。僕は布団を蹴りあげ、枕をひっくりかえす。まるで暑くて寝苦しい夏の夜みたいに。どこかで雄鶏がときの声をあげる。でもそれは何かの間違いだ。太陽はまだ世界の裏側にあるのだから。

 Christmas Eve afternoon we scrape together a nickel and go to the butcher's to buy Queenie's traditional gift, a good gnawable beef bone. The bone, wrapped in funny paper, is placed high in the tree near the silver star. Queenie knows it's there. She squats at the foot of the tree staring up in a trance of greed: when bedtime arrives she refuses to budge. Her excitement is equalled by my own. I kick the covers and turn my pillow as though it were a scorching summer's night. Somewhere a rooster crows: falsely, for the sun is still on the other side of the world.




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クリスマスの思い出
文藝春秋 '90初版



Breakfast at Tiffany's
/ Truman Capote
PENGUIN





2001年1月1日

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
 今年は新規企画として、今読み返している福永さんの『意中の文士たち』の関連もあり、福永作品紹介ページに、関連作家紹介コーナーを追加して、個人的に関心が高まっている明治文学を紹介していきたいと思っています。それから、タルコフスキーの全作品紹介ページも始めようと考えています。ということで、昨年に引き続きバブル路線の継続となりそうです。

 更新情報:暮れにチェーホフの『三人姉妹』の紹介を追加しました。映画と舞台の紹介もしています。

 今年の抱負"今年こそ何事も前向きに取り組もう"に沿った以下の2つの特集を組みました。

正月特集 その1:西村由紀江さんの'99年のアルバム「自分への手紙」から『未来(あした)の私へ』の演奏MIDIを付けました(著作権の都合により'02年2月に外しました)。ちょうど昨年の今ごろレッスンしていた曲です。なお最後のいちばん盛り上がる部分は、難しいので省略しているので、聴きたい方はアルバムを購入してください。西村さんのピアノ・ソロ・アルバムは、ずっとフォローしているけど、とくに最近の3作「大地のうた」('98)、「自分への手紙」('99)と「風が生まれる瞬間」('00)では、彼女自身の意志が、前面に出て来ているような気がして、とてもいいと思います。
 
 
お元気ですか
 今日も空が青く見えていますか
 時には さみしいこと かなしいこと
 いろいろあるでしょう 
 でも 決してあきらめないで
 いつも前を向いている
 そんなあなたが好きだから
     ― 未来の私へ 

 
 アルバム「自分への手紙」より
西村由紀江










自分への手紙 '99


正月特集 その2:「ターン Turn」/ 北村 薫
 「スキップ Skip」に続く時間3部作の2作目。3作目の「リセット Reset」は、今月ハードカバーが発売となる予定とのこと。北村さんの本領であるミステリーではなく(ミステリー的な要素もあるけど)、SF/ファンタジーに分類される作品です。春に牧瀬里穂さんの主演で映画公開されるとのことなので期待しよう。
 主人公の森真希は29歳のまだ無名の銅版画家で、車の運転中事故に合って意識を失ってしまう。目覚めた世界は、意識を失う前と全く同じの見慣れた世界であるが、そこには真希以外の人間が存在していなかった(人間だけでなくあらゆる生物も)。しかもこの世界では1日たつと、時間が1日前に戻ってしまう(彼女はこの現象を『くるりん』と名づける)。真希は、この孤独の世界をさまようが、ある日彼女の家の電話が鳴り、あわてて受話器を取った真希の耳に男の声が聞こえた。その声は.....
といった展開ですが、半年にもおよぶこの不思議な孤独な世界に暮らす真希は、ある出来事のあと、どんな状況に置かれても、"今"の瞬間を大切にしなければという思いに至ります。少し長くなるけど、その部分から引用してみます(自分の為に)。



ターン/ 北村 薫
新潮文庫 '00 7月

 ...今、目の前を過ぎ行く一瞬一瞬がたまらなくいとしいものとなった。
「......こんなに大事なものを、わたしはどう扱って来たのだろう」 手をついて何かにあやまりたくなった。
 わたしの前にあるのは、砂漠を行くような日々だと思っていた。緑はないと。
 誰も見てくれず、誰も言葉をかけてくれないのなら、......そして何よりも、どうせはかなく消えてしまうのなら、何も生み出すことは出来ないと思って来た。
 そうだろうか。
 わたしには何があるのだ。自己流だろうと、下手だろうと、版画だ。それなのにどうして、輝くプレートを削るのをやめてしまったのだろう。半年のうち一日でも、メゾチントに正面から向かいあったことがあったろうか。
 農家のおじさんがこうなったら、いずれかの一日、畑で汗を流したのではないか。マラソンランナーだったら、一日ぐらいは根限りに走ってみたのではないか。花火師なら、見る者のない空に会心の花を咲かせたのではないか。本が好きなら一心に読み、花が好きなら見つめたろう。消えないものは、そこにしかない。
 消えてしまうというなら、こうなる前でも、わたしのメゾチントが、5年残る、10年残る、という保証がどこにあったのか。ありはしない。それなのに、わたしはスクレーパーを握り、プレートに向かって来たはずだ。そのひと削りごとに喜びを感じ、印刷機をくぐった紙に、逆転された絵が浮かぶ度に、新鮮な驚きを感じたはずだ。
 この地球さえ、いつかは形を失う。永遠であるというなら、一瞬さえ永遠だ。こんな当たり前のことを、わたしはどうして忘れていたのか。顔青ざめて、毎日が不毛な繰り返しだといっていたわたし。不毛なのは≪毎日≫ではなく≪わたし≫だった。そういう人間が、どうして生きている世界に戻れよう。
 身内に湧き上がる力を感じた。





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