しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。
「風の歌を聴け」/ 村上春樹



とりとめもなく身辺雑記のようなものを書き綴ってみようと思います。


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9月23日
 カワイルカさんのサイト「村上ドルフィンホテル」へリンクさせていただきました。
 ペーパーバックでは、P.D.ジェイムズのコーデリア姫冒険譚第2弾『皮膚の下の頭蓋骨』を読んでいます。『松ケ枝町サーガ』/芦原すなお、『ライオンハート』/恩田陸 を読みました。
 新種の強力ウィルスNIMDA.A対応で先週は会社でも大騒ぎでした。自宅のパソコンもサイトからウィルスバスターの最新パターンをDLしてチェックをしましたが幸い感染していませんでした。サイトから「ウィルスバスター2001」30日間お試し版もDLできます(これに最新パターンをDLすることにより対策されます)。IEのセキュリティ対策バージョンはこちらのサイトからDLできます。ウィルスに汚染されているHPを閲覧するだけで感染してしまうというからとんでもないヤツです。サイバー・テロが、いよいよ身近な脅威になってきたような気がします。
 
ライオンハート/恩田 陸(2000)→ 恩田陸のページにまとめました。

 
魂は全てを凌駕する。時は常に我々の内側にある。
 命は未来の果実であり、過去への葦舟である。

 恩田さんの作品はこれが初めてですが、とてもよかった。好みのタイプの作家のようなので、引き続き何冊か読んでみようと思っています。恩田さんはミステリー作家に分類されるんでしょうが、この作品は5つの短篇連作によるファンタジー・ラブ・ストーリーです。それぞれの短篇には、1枚づつ絵画が関連づけられていて、このあたりも僕の趣味に合っていてうれしくなりました。
 17世紀から20世紀に渡る様々な時代、場所でのつかの間の邂逅と別れを繰り返すエドワードとエリザベスの物語。

 
「分らない ― 分らないわ。でも、会いたいのよ。あなたもそうでしょう?私たちは何度も出会っている。結ばれることはない。でも、離れた瞬間から、会う瞬間を待ち続けている ― 生まれる前も、死んだあとも。理由なんて分らないわ ― でも、会いたかったのよ。そうじゃなくて?」

 なぜ彼らは、出会い、別れ、そして別離の瞬間から次の出会う瞬間を待ちつづけなければならないのか。答えもちゃんと用意されていますが、この小説を魅力あるものにしているのは、愛し合いながらも運命と時に翻弄される男女のめぐり会いと別れの場面という恋愛小説のエッセンスの凝縮で書かれているからだと思います。これらの場面の中では1932年のロンドン、雨のエアー・ポートでの少女エリザベスとの出会い、それに1871年のフランス、雨上がりの空に二重の虹がかかる農園の林檎の木での刹那の邂逅がとくに印象的でした。後者では、画家のジャン=フランソワ・ミレイが目撃し、風景画「春」を完成させたというエピソードが付加されています。
 

新潮社 '00初版


「春」(1868-1873)
油絵 860mm×1110mm


(補足)
 作者によるあとがきによると、「ライオンハート」というタイトルは、ケイト・ブッシュのセカンド・アルバム('78年)のタイトルに由来するとの事。ケイト・ブッシュはデビュー・アルバム『天使と小悪魔』は持っていました。才能のある人ですが、ちょっとエキセントリックなところがついていけない感じでした。ピーター・ガブリエルの傑作アルバム『So』の「Don't give up」という曲で、デュエットとして参加していて、これはとても好きな曲です。

 恩田さんは、あとがきで "この小説はロバート・ネイサンの「ジェニーの肖像」への個人的なオマージュである" とも書いています。この作品はジェニファー・ジョーンズとジョゼフ・コットンの主演で映画化されていて、以前紹介した『聖なる春』/久世光彦 の中でも言及されていて、見たいと思いつつまだ探しあぐねています。

 
中学1年のとき、本郷の映画館で観た「ジェニーの肖像」という映画があった。目の粗い画布の上に焼きつけられたような、ぼんやりと懐かしい画面の映画だった。私は祖父といっしょだった。暗い映画館の客席で、私は祖父に気づかれないように、咳(せき)に誤魔化しながら泣いた。何度も、泣いた。
『聖なる春』/久世光彦

 
 この小説の構成は、各章の扉に掲げられた絵に続いて、それぞれに短い"プロムナード"が置かれていて、これはムソルグスキーのピアノ組曲『展覧会の絵』の趣向に倣(なら)ったものです。ピアノ独奏でも演奏される機会の多い曲ですが、ラヴェルによるオーケストラへの編曲版も有名です。さらにまたキース・エマーソンにより編曲、演奏されたロック版(『展覧会の絵』/EL&P '71)により、一層ポピュラーな曲となりました。

So '86
Peter Gabriel



展覧会の絵
ベルマンによるピアノ独奏と
カラヤン指揮のオーケストラ
演奏がカップリングされている




9月15日
 
13日にメンテナンス作業が終了し、夜間の接続困難は解消したようですが、広場への投稿が文字化けするという不具合が発生しました。新しいサーバーの設定の問題だと思うので、それほど時間がかからず復旧すると思いますが、投稿していただいた方には大変ご迷惑をお掛けしました。
 Chaiさんと、みそさんのサイトへのリンクを追加させていただきました。
 「ハワーズ・エンド」/E.M.フォースター、「レクイエム」/タブッキ、「ウエハースの椅子」/江國香織 を読みました。「夏の庭」/湯本香樹実を読み返しました。

 聖戦という名のもとでのテロ、正義という名のもとでの報復という展開だけど、国家、民族、主義、宗教、あるいは企業の総体としての意志は、組織を構成する人間ひとりひとりのそれぞれの思いとは別の論理で決まるからこうした極端なことになるような気がしています。それと、男性原理で世界が動いている限り、だめなんだろうと思う。


夏の庭 The Friends/湯本香樹実(1992)→ 湯本香樹実のページにまとめました。

 
死んでもいい、と思えるほどのなにかを、いつかぼくはできるのだろうか。たとえやりとげることはできなくても、そんななにかを見つけたいとぼくは思った。そうでなくちゃ、なんのために生きてるんだ。

 太陽の光の七つの色。それはいつもは見えないけれど、たった一筋の水の流れによってその姿を現す。光はもともとあったのに、その色は隠れていたのだ。たぶん、この世界には隠れているもの、見えないものがいっぱいあるんだろう。そうしてそれは、ほんのちょっとしたことで、姿を現してくれるものもあれば、偉人伝に出てくる科学者や冒険家たちのたどったような、長くてつらい道のりの果てに、ようやく出会うことのできるものもあるにちがいない。ぼくが見つけるのを待っているなにかが、今もどこかにひっそりと隠れているのだろうか。


 とても好きな作品です。今回読み返し、新たな感動を覚えました。10カ国以上で刊行されて数々の賞を受賞し、映画化、舞台化もされていて、近年の児童文学の大きな収穫というだけにとどまらない魅力を持った作品です。
 6年生の男子3人組(語り手のひょろっとした"僕"とデブの山下君と、すぐキレる河辺君、彼らのそれぞれの個性が見事に描かれているのもこの作品の魅力のひとつ)が、小学生最後の夏休みに経験する出来事、そして彼らにとってこの出来事は、少年時代に別れを告げるイニシエーションというべきものとなります。
 山下君が祖母の葬儀に参列し、その模様を二人に話していた。そして彼らはあらためて自分たちにとって死というものが、観念的で現実感をともなわないものであることに気づく。「死ぬってどういうことなんだろう」、興味津々の彼らは、近所のあばら家に住む一人暮らしのおじいさんを見張って、その死を見届けようということになります。監視を続ける彼らに、やがておじいさんが気づき、彼らとの交流が始まります。


 
もしかしたら、歳(とし)をとるのは楽しいことなのかもしれない 。歳をとればとるほど、思い出はふえるはずなのだから。そしていつかその持ち主があとかたもなく消えてしまっても、思い出は空気のなかを漂い、雨に溶け、土に染みこんで、生き続けるとしたら……いろんなところを漂いながら、また別のだれかの心に、ちょっとしのびこんでみたりするかもしれない 。初めて来たところなのに、来たことがあると感じることがあったりするのは、そんなだれかの思い出の、いたずらなんじゃないだろうか。 

 リアルな"死"を見極めようとした彼らが、おじいさんとの交流を通じて感得したものは、リアルな"生"だったのだと思います。彼らそれぞれの家庭も問題を抱えていることがうかがえますが、"死"によって照らし出された"生きる"というレベルから、彼らなりの今までとは違った見方、生き方ができるようになったのでは、と感じました。



新潮文庫
'94 初版


○(映画)夏の庭(1994)94年度キネマ旬報 日本映画第5位
 (監)相米慎二 (演)三国連太郎、戸田菜穂

 『夏の庭』は相米さんがいなかったら、決して書くことはなかったものなので、その相米さんがこんな映画を作ってくれて、ほんとうにうれしい。「少年たちと老人の出会い」という決められた事柄を外から攻めるのではなく、そこにある心の過程を大切に描いている。人の生死を越えて残る、夏の日々の、家の、庭の記憶が、見終わった後、静かに心を浸すような映画だ。
『ボーイズ・イン・ザ・シネマ』/湯本香樹実


 相米慎二(1週間ほど前にがんで亡くなってしまった。まだ50代の若さでした)は、「セーラー服と機関銃」('81年、薬師丸ひろ子主演)、「台風クラブ」('85年)などの作品で知られる現代日本映画を代表する監督のひとりです。重いテーマを軽やかに、そして鮮やかな情景描写で原作の雰囲気を再現しています。三国連太郎が子供たちの人生の師(弱さを含めての)にぴったりの配役。子供が出る映画というのは、難しいものだけど、3人組もよくやっているという印象で、始めのうちは、くせのあるヤツだなあと思っていた河辺君にもだんだんと親近感を感じてくるのがいい。
全編に流れるギターデュオのBGMも軽やかで作品のイメージに沿ったもの。
前半の快調さに比べると、後半が急ぎすぎてやや空回り気味のようなのが惜しいところかな。



9月4日
 
夜間、サーバーにつながりにくくなっていますが、9月13日、14日に増強工事を行なうとのことですので、ご容赦をお願いします。
 ペーパーバックで、E.M.フォースターの『眺めのいい部屋』を再読し、引き続きフォースターの『ハワーズ・エンド』を読んでいます。プリムさんおすすめのロバート・F・ヤングのSF短篇集『ジョナサンと宇宙クジラ』(ハヤカワ文庫)を読みました。ヤングはブラッドベリにロマンティシズムをさらに加えたような作風で、これは好みです(いずれ紹介の予定です)。

幽霊ー或る幼年と青春の物語ー/北 杜夫(1954) 
 
 
人はなぜ追憶を語るのだろうか。
 どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。 ― だが、あのおぼろげな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕(かいこ)が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。

 
 北さんの処女長編小説であるこの作品のの冒頭の文章です。
 『幽霊』は北さんが23歳のときに書き始めた小説で、憧憬に満ち、繊細でみずみずしく、20代の感性でなければ書けなかったであろう稀有の作品だと思います。

 
人は幼年期を、ごく単純なあどけない世界と考えがちだが、それは我々が逃れられぬ忘却という作用のためにほかならない。しかし、忘れるということの意味を、人は本当に考えてみたことがあるだろうか。なにか意味あって、人はそれらの心情を忘れさるのではなかろうか。

 語り手の"僕"は、小さい時に両親をなくし、2つ上の姉とともに大家族の叔父の家に預けられた。しかし、残された唯一の肉親である姉も短い病であっけなく死んでしまう。ひとりになった僕は、幼年の記憶に封印して意識の底に追いやり、信州の自然のなかに自らを没入することにより孤独を忘れようとする。

 
もともと肉親もなく、今まで共に暮していた人々とも遠くはなれて、見知らぬ険しい山頂にひとりぽつねんと坐っていたためばかりではない。明日をもわからぬ戦局のためばかりではない。人がはじめて突きぬけた孤独を覚え、自分自身に尋ねようとする時期に僕は達していた。無限にひろがる<自然>にとりかこまれながら、陳腐な、だが永久にけっして尽きることのない問を自分に課した。この僕は一体どこから生まれてきたのだろう?

 18歳になった僕は、ある日、偶然耳にしたドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の響きに、意識の底深くに埋もれ空白となった幼年の記憶につながるものを感じた。それは憧憬する少女たちの面影のなかに感じるものと共通する"何か"だった。そして単独行での北アルプス山中の霧のなかで、その埋もれていた"何か"を白いおぼろげな映像として見出した時、僕はもはや自然のなかに逃避せず、「人間のなかへおりて行こう」と決意した。
 20代でなら人は誰でも自分の幼年から青春への軌跡を振り返り、1篇の自己発見の物語が書けるのではないか、そして年をとるにつれ、はるか遠くになってしまった幼年・少年時への想いがつのっていくもののようです。


(参考)『牧神の午後への前奏曲』(1894)/ ドビュッシー 
 10分程度の短い作品ですが、初めてドビュッシーの作品の魅力に強く惹かれたのは、この曲でした。
 象徴派詩人ステファヌ・マラルメの相聞牧歌『牧神の午後』(1876)に寄せて書かれた曲です。
 
現代詩がボードレールのある種の詩のなかにしっかりとその根をおろしたように、現代音楽はこの曲とともに目覚めたといってもよい。
/ ピエール・ブーレーズ


 あの水精(ニンフ)らは永遠に生かしておきたい。
 
 あんなに透明な
 ニンフの浮薄な淡紅の色は、眠そうな
 繁茂する森のまどろんだ空気の中を飛びまわる。

 『牧神の午後 ― 牧歌 ―』の冒頭句より


 





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