11月28日 美術関連のリンクに、「レンブラント館」を追加しました。レンブラントを始め、デューラー、ゴヤなどの版画作品の紹介を中心とした加藤さんのサイトです。別館には音楽のページもあって、加藤さんはチェンバロも練習されているそうです。 たまたま先週、京都で開催中の「大レンブラント展」に行くことができました。40数点の油彩をまとめて観ることができてうれしかった。今月に入ってから村内美術館でのクールベ展と上野の芸大美術館での「ウィーン美術史美術館名品展」も観たので、このところ美術づいています。 ペーパーバック紹介に、マーガレット・アトウッドの「侍女の物語」と映画化作品「闇の聖母」を追加しました グレアム・スウィフトの「ウォーター・ランド」('84)を読みました。彼の作品を読むのは、ブッカー賞受賞の「ラスト・オーダー」('96)に続いて2作目ですが、イギリスの湿地帯フェンズ地方の盛衰の歴史と、一族の数世代にわたる生と死とを描いていて、感動を覚えました。 短篇集「アンジェリーナ」/小川洋子 を紹介します。自他ともに認める佐野元春ファンである小川さんが、彼の曲をイメージして書いた短篇小説10篇を収録しています。小川さんの処女長編「シュガータイム」のタイトルも彼の曲からとられていました。小川さんが佐野元春の曲を初めて聴いたのは、19歳の時に、ボーイフレンドがプレゼントしてくれた「SOMEDAY」のレコードでした。 最初に流れてきたのが、「Sugartime」だった。 もうその瞬間から、身動きできなかった。それまでに聴いたどんな音楽とも違っていた。オリジナルで詩的で、真摯で、エネルギーにあふれていた。人間が音楽に感動するというのは、つまりこういうことなんだと、初めて実感できた。 それから一日中「SOMEDAY」を聴き続けた。窓から見える空と緑が、特別なもののように美しく見えた。 「妖精が舞い下りる夜」/小川洋子(角川文庫 '97初版) ○アンジェリーナ 佐野元春と10の短篇 /小川洋子(角川文庫 '97初版) この短篇集に収録されているのは、佐野元春の曲のタイトルから採られた「アンジェリーナ」、「バルセロナの夜」、「彼女はデリケート」、「誰かが君のドアを叩いている」、「奇妙な日々」、「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日々」、「また明日・・・」、「クリスマスタイム・イン・ブルー」、「ガラスのジェネレーション」、「情けない週末」の10篇です。 もともと佐野元春はミュージシャンの中では、とりわけ詩の才能に卓越したアーティストなので、作品のイメージを発展しやすいのではないかとも思います。それぞれの短篇の前には、歌詞も掲載されています。 全体として、小川さんの概して低温基調の他の主要作品と比べると温かい感触で、小川さん自身リラックスして楽しんで書いているんだなということが伝わってきます。とはいっても中には、体の一部の記憶が失われていくとか(誰かが君のドアを叩いている)、声だけを体から離してピアスケースにおさめる話(また明日・・・)など、いかにも小川ワールド風の作品も収録されています。 いくつかの短篇のストーリーと、そのタイトル曲が収録されている佐野元春のアルバムについてのコメントを加えてみました。 □アンジェリーナ アンジェリーナ 君はバレリーナ ニューヨークから流れてきた 淋しげなエンジェル 地下鉄の駅のホームのベンチで、僕は置き忘れたトウシューズを拾い、家に持ち帰った。内側には"ANGERINA"と刺繍されていた。僕は持主を探すため新聞に広告を出した。 ある日、アンジェリーナから電話がかかり、土曜日の午後、彼女は僕の家を訪れた。彼女はその日、トウシューズを持って帰らなかった。次の土曜日、再び訪れたアンジェリーナは、トウシューズをはいて踊ってみせて欲しいと頼んだ僕に事情を話してくれた。彼女はバレリーナだったが、膝の手術をするためにこの町に来たのだった。必要のないトウシューズを持って。 踊ることはできないけれど、と言って彼女はトウシューズをはいてみせてくれた。 彼女の足元で、不意に風が舞い上がったような錯覚を僕は覚えた。姿を見せた膝は、小さくて滑らかで、とても病気には見えなかった。トウシューズは肌の一部のようにぴったりと、足を包んでいた。爪先の曲線やリボンの結びめが、彼女を縁取る輪郭と一続きになっていた。壊れそうなくらい華奢(きゃしゃ)なのに、毅然としたしなやかさがあった。それは足というより、一つの奇跡だった。 「しばらくトウシューズを預かって。また踊れるようになったら、取りに来るから」と言って帰って行ったアンジェリーナは、それ以来、二度と現われなかった。
□奇妙な日々 土曜日の午後、今夜久しぶりにガール・フレンドがうちで夜を過ごすのだ。僕が夕食の準備をしていると、玄関のチャイムが鳴り、扉を開けると中年のおばさんが立っていた。おばさんは、この地区の地図作成の為の調査をしていると言い、最近空き地になった近所の土地に、以前何が建っていたかを僕に尋ねた。思い出せない僕だったが、おばさんはあきらめなかった。夕食の準備は着々と進み、おばさんは帰らず、ワイングラスを割ってしまい、彼女は約束の時間が過ぎても来なかった。 闖入者のおばさんに対する僕のとまどいと、待てど来ない恋人への焦りの想いをユーモラスに描いた作品です。
□情けない週末 MOTOのコンサートが終って、外へ足を一歩踏み出すと、いつも街が濡れているように感じるのはなぜだろう。 その夜わたしは一人だった。コンサートの帰り、少し遠いけれど駅まで歩くつもりだった。何かが変だった。あたりを見回すと、いつの間にか人の姿はなかった。その時、通りの向こうから車が一台近づいてきた。 車は軽やかにクラクションを鳴らした。「SOMEDAY」のイントロに流れるのと同じ音色のクラクションだわと、まぶたの裏側で弾ける光を感じながらわたしは思った。 気がつくとわたしは地下鉄の通路にいた。通路の突き当たりの階段を上がると、外はさびれた公園だった。10年前、彼とよく待ち合わせをした公園だった。何もかもあの頃と同じだった。 10年前、彼の誕生日の夜、ショートケーキが二つ入った箱を揺らさないように、両手で抱えたわたしは、公園の入口で転んでしまったのだった。噴水の縁に腰掛け、わたしを待っていた彼は、ケーキを台無しにして、しょげている私を慰めてくれた。 「取り返しがつかない、ってことが、たまらなく怖かったの。さっきまで手にしていたものを、わたしは二度と目にすることはできないんだ。人間はこんなふうに、いくら大事にしているものでも、簡単になくしてしまうんだ。だから、もしかしたら公園に、あなたはもういないかもしれない。・・・・歩道にうつぶせになっているほんの数秒の間に、そんなことを考えたの」 10年前のあの夜と同じ場所に、わたしは腰を下ろした。あれから、わたしは彼を失った。ケーキを駄目にしたみたいに、あっという間に。そろそろ戻らなければ。でもどうやって、どこへ戻ったらいいのだろう。わたしには分らなかった。
11月16日 シューベルトのピアノ曲「4つの即興曲 作品90」から第4曲を紹介しました。作品90の他の3曲、それに作品142の4曲の即興曲も同様に好きな曲です。この間、名曲喫茶でリクエストしたエドヴィン・フィッシャー(1886-1960)による作品90の演奏もとてもよかった。フィッシャーのディスクでは、とくにバッハの平均率クラヴィア曲集の演奏を愛聴しています。フィッシャーはバッハについて次のように書いています。 彼の作品に美しさと作用力とを与えているのは、つねに真理、絶対的に偽りなきものなのだ。彼の作品のなかに具現しているもの、それはロゴスであり、あらゆる存在の究極の意味なのである。 「音楽観想」/エドヴィン・フィッシャー(みすずライブラリー '99年初版) ピアノの個人レッスンでは、バッハのイタリア協奏曲の第2楽章を始めました。以前中途まで練習したことがあって、今回はなんとか最後までたどりつきたいと思っています。 ○ クールベ展/村内美術館(八王子 11/1−12/24 開催中) クールベ展を先週の土曜日に観てきました。クールベ(1819−1877)はフランスの東部の小都市オルナンに生まれ、ミレーと同時期の写実主義の画家ですが、まとめて観たのは今回が初めてでした。 人物、鹿、自然、故郷などとテーマ別に整理された作品展示は、観やすくていいなと思いました。 運良く、今回の美術展の監修者で、「美術の森の散歩道」(当サイトで紹介)などの著書を出されている井手洋一郎先生の軽妙なギャラリー・トークを拝聴することができました(約50分間、次回は11月16日、30日の土曜日13:30開催)。 お話の中では、クールベのナルシストとしての側面や、風景画にこめられたクールベの思いなど大変興味深いものがありました。クールベというと人物画が主体というイメージが先入観としてありましたが、出展作品の中では、クールベの故郷の山や川を描いた風景画も多く、これらがとくに気に入りました。 村内美術館は、地元にあるということで、勝手に自分の美術館のような気がしていて(会員になっています)、常設展でも2ヶ月に1回くらいは通っていますが、会期中に、もう一度観に行くつもりでいます。 美術館へは八王子北口の東急スクェア横より送迎バス(無料)が出ています。都心の美術館のようには混んでいないので、名画をじっくりと観たい方にはお薦めの美術館です。 いずれもサイトでも今回の展示作品が観られます。 11月8日 '70年代 J-POP紹介として、中島みゆきの4アルバムを追加しました。 ペーパーバックでは,イアン・マキューアンの'98年のブッカー賞受賞作「アムステルダム」の紹介を追加しました。面白かったけど、既に紹介している'01年のブッカー賞のノミネート作品「Atonement」の方が僕の好みでした。近々読むつもりでいる「愛の続き」('97)にも期待しよう。 グレアム・スウィフト作で、'96年のブッカー賞受賞作「ラストオーダー」を読了しました。このところ現代作品が続いたので、気分転換にフィッツジェラルドの「グレート・ギャッビー」を再読しています。今年のブッカー賞受賞作の「Life of Pi」/Yann Martel のペーパーバック版は、来年3月まで入手できないようなので、残念ながらしばらくおあずけとなりました。 坂口安吾の日本の中世を舞台にした二つの短篇と、それらを下敷きにした野田秀樹と夢の遊眠社の演劇公演「贋作・桜の森の満開の下」を紹介します。ついでに、久々に安吾の「堕落論」を読み返し、快刀乱麻、切れ味のいい文章に酔いました。 私はただ、私自身として、生きたいだけだ。 私は風景の中で安息したいとは思わない。また、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。 「デカダン文学論」(「堕落論」角川文庫 所収)/坂口安吾 ○桜の森の満開の下(1947)、夜長姫と耳男(1952)/坂口安吾 □桜の森の満開の下(1947) 桜の樹の下には屍体が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。 「桜の樹の下には」(「梶井基次郎全集 全一巻」ちくま文庫)/梶井基次郎 鈴鹿峠を根城にする山賊がいて、容赦なく旅人の命を断ち、金品を奪い、また女を奪い女房としていた。こんな男でも桜の森の満開の花の下へ来ると、おそろしくなって気が変になった。亭主を殺して奪ってきた8人目の女房は美しい女で、山賊は女の虜になるが、この女は我がままで冷酷だった。男に他の女房を殺させ、さらに都の品々を得る為、多くの旅人を殺させた。つのる女の要求をかなえる為、男は女を連れて都で暮し始めた。男は女が欲しがる都人の首を刈り、生首で女は遊んだ。そんな暮らしに嫌気がさした男は山へ帰る決心をし、女にも彼の気持を翻らせることはできなかった。男が女を背負い、桜の森の花ざかりの下に来たとき、女は鬼に変わり、男は夢中で鬼を絞め殺した。我に返った男の目の前には女の屍体があった。男は、この峠に住みついてから初めて泣いた。我にかえったとき、彼の背には白い花びらが積もっていた。 そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯(はて)は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は初めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。 □夜長姫と耳男(1947)/坂口安吾 オレは大きな耳を持った耳男(みみお)、二十歳、ヒダ随一の名人のタクミ(匠)の弟子だ。親方の代わりに夜長の長者に招かれ、同じく招かれた二人の名人と、長者の一人娘の夜長姫の為、三年後の姫の十六の正月までに弥勒菩薩を競って彫る事になった。あるときオレは美しい奴隷女のエナコと諍いを起こし、エナコに片耳をそぎ落とされてしまった。おまけに姫の戯れから、もう片方の耳もエナコが姫から授かった懐剣で斬られた。エナコは懐剣で自害した。 可憐なヒメは無邪気にイタズラをたのしんでいる。その明るい笑顔を見るがよい。虫も殺さぬ笑顔とは、このことだ。イタズラをたのしむ亢奮もなければ、何かを企む翳りもない。童女そのものの笑顔であった。 オレはそれから三年、ヒメの笑顔を押し返すほど力のこもった怖ろしいバケモノの像を造りだそうと必死にノミをふるった。ひるむ心が起こったときには水を浴びた、蛇の生き血を飲んだ、蛇の屍骸を小屋の天井から吊(つる)した。だが意図に反して、オレが造ったバケモノをヒメは大いに気に入ってしまった。本当に怖ろしいのは、ヒメの笑顔だ。この笑顔こそは生きた魔神も怨霊も及びがたい真に怖ろしい唯一のものなのだ。このままではオレはヒメに殺されると考え、ヒメの顔を彫らせてくれと哀願し、聞き届けられた。オレは今度こそ弥勒の顔にヒメの笑顔をうつそうと精魂を傾けた。そのころ疫病が流行り、人々がバタバタと死んでいき、そんなありさまをヒメは無邪気に楽しんでいた。 「私の目に見える村の人々がみんなキリキリ舞いをして死んで欲しいわ。その次には私の目に見えない人たちも。畑の人も、野の人も、山の人も、森の人も、家の中の人も、みんな死んで欲しいわ」 オレはヒメが村の人間をみな殺ししてしまう、それどころか、このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界はもたないのだと思った。オレはヒメに歩み寄り、ノミを胸にうちこんだ。ヒメは目をあけてニッコリ笑い、ささやいた。 「好きなものは咒(のろ)うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして ...」 いずれも安吾の渾身の力が凝縮した作品。この一言に尽きます。 ○贋作・桜の森の満開の下(坂口安吾作品集より)/劇団「夢の遊眠社」公演ビデオ('92年2月 東京・日本青年館にて収録) (作・演出)野田秀樹 (演)耳男:野田秀樹、夜長姫:毬谷友子(客演)、オオアマ:若松武(客演)、マナコ:羽場裕一、早寝姫:星ともえ(客演) 萩尾望都の傑作コミック「半神」を、萩尾望都と野田秀樹が共同で脚色した夢の遊眠社公演「半神」は、とてもすばらしいものだったけど、その「半神」と並び夢の遊眠社の代表作とされるこの作品でも同様の感銘を受けました。上に紹介している安吾の二つの傑作短篇を融合させ、ダイナミックな演技、めくるめく言語感覚が際立つ野田ワールドを展開させていて、自身の経歴に"安吾の生まれ変わり"と書くほどに安吾に心酔している作者・野田秀樹の意気込みが感じられるスケールの大きな作品です。 主軸のストーリーは、「夜長姫と耳男」に拠っていますが、これに「桜の森の満開の下」での人と鬼との関係を重ね合わせ、さらに天智天皇崩御後の朝廷の権力闘争(大海人皇子による壬申の乱 672年)を物語に取り込み、人と国家の関係図式をも織り込んでいます。この権力闘争の表現手段として、権力の象徴としての王カン(缶)を使った"カンけり"、権力に敵対する者を鬼とみなして追放し、追い詰め、征伐する"鬼ごっこ"が使われているところが野田さんの非凡さといえます。 幕開き冒頭、鬼女が耳男に自分も一緒に連れて行ってと語りかけますが、その言葉が最後の場面で、耳男が権力を握ったオオアマ(大海人皇子=天武天皇)に鬼としてミヤコを追われた際、一緒に逃げた夜長姫が耳男に語りかける言葉と同じであったことから、耳男は夜長姫が鬼の化身であると知ります。 姫様、永遠に下り続けて行くほどオレは強くない だめよ 転がるように下って行くと言ったのは、あなたなのだから でも今日でなくてもいい 今日でなくてはいけないわ 初めて会った日も、こうして桜の花といっしょにこんな話を.... そのときおぶっていたのは私 .....鬼! 舞台一面に桜吹雪が舞うラストシーンは感涙ものでした。 主役の夜長姫を演じた毬谷友子さんは巧みに声色を使い分け、童女の無邪気さをもった姫と、姫の心に潜む鬼とを演じ分けていました。毬谷さんは、「浮世絵師三部作」の作者である劇作家の故・矢代静一氏の娘さんで、舞台出演とは別に矢代静一作の「弥々」の一人語り公演を重ねているとのこと。深津絵里さんが夜長姫を演じた2001年の公演も観たかった。 (挿入曲) 満開の桜の森の場面で流れるのが、プッチーニのオペラ「ジャンニ・スキッキ」からソプラノのアリア 「私のお父さん」でした。満開の桜と、プッチーニのふくよかで甘い旋律とはよく合うんだなと、選曲の妙に感心しました。
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