世紀末コミックを読み解く(2) 

ー手塚治虫と松本零士

                                                   小山昌宏

 

1 機械化世界と人間

ロボットゆえに人間の正しい心をもち続けなければならなかった鉄腕アトムの苦悩と機械化することで正義を実践するサイボーグ009の徒労は、正義を相対化し善悪の彼岸で機会と人間の融合問題を語ることが難しかった60年代の限界を明示していた。しかもそれは、人間=善、機械(ロボット)=悪という暗黙の了解のもとに、悪なるロボットが善なる人間になるための修業(鉄腕アトム)と善なる人間が悪にうちかつために、その体内に悪を宿し(受肉し)、外的には悪を浄化し、体内に悪を蓄積し続ける所業(サイボーグ009)のふたつの物語を反復せざるを得なかったのである。

70年代の物語は、この前提を継承しつつも、単純な善悪二元論が相対化され、人間性そのものが問われた10年であった。それは松本零士『キャプテンハーロック』と『銀河鉄道999』が、どちらもハーロックvsマゾーン(異人)、星野鉄郎vs機械化人間という対立図式をとりながらも、マゾーンに制裁される腐敗しきった人間の悪性を、ハーロック率いるアルカディア号の電子頭脳に融合しているトチローの魂の善性を描くことによって際立たせ、また人間の不死の夢、差別と貧困の拒絶の理想を、人間機械化計画の悪夢によって、機械化された人間(特権階級)と機械の身体を手に入れられない生身の人間(貧困階級)との闘争にひきおとした結果、機会と人間の対立よりもコンピュートピアそのものを生み出した人間の精神悪が、あばかれることになった。そして機械をコントロールする人間力が常に問われつづけたのである。松本零士の世界観には、人間のよどみが産み出した悪と戦う魂の生命力復元力が備わっている。戦いの中に自らを」発見し、情熱をかきたてていくこと。松本マンガは、人間の情熱のなかにのみ、夢も希望も未来も備わっていることを教えた。その意味で松本零士は人類が誕生する前から心材した環境世界、そして人類が改変し、加工した道具的世界によって産み出された機械化世界でさえ、人間がコントロールしていける可能性をいだかせた。しかしハーロックが嫌悪した地球政府もろとも地球は侵略者のしかけた「太陽破壊」によって太陽系もろとも消滅した。鉄郎は叫ぶ。

「何のために僕は頑張ったんだ!! 何のために機械人間、機械帝国と戦い…大勢の人々が犠牲となっいて死んでいったんだ!!何のために命を捧げたというんだ!! みんな…みんな地球のためじゃなかったのか!! 」

「ブタみたいになってたけど、あれも地球人だった!! 貧しい人も富んだ人も、それもみなファミリーだった!!」

「それが… 消えるなんて!!」

「鉄郎!! 故郷(ふるさと)は消えはしないぞ!! 太陽系は消えはしないぞ!! 鉄郎!! お前がここにいるじゃないか!! 太陽系も地球も、お前のなかに生きつづけているのだ!! 鉄郎が生き抜く限り…母なる大地は消えはしない」

「地球で飼いならされたブタ共がだらしなかっただけで、星の海には多くの人間が今この瞬間歯を食いしばって生きている」

「人の血は続く。今を生きる俺たちが生き抜く限り、永遠に生きつづける!! お前はそれを学んだはずだ!!」

ハーロックの言葉が鉄郎の胸に響く。地球という生命に育まれた人の血は母なる大地を失ってさえ消えはしない。人が人である限り、何をもってしてもその命の灯を消し去ることはできない。人間自らが産み出した環境を変えられるのは人間だけであることを鉄郎は知っていた。

大航海時代、人間は勇気をふるいたたせて七つの海へ旅たった。帰るべき故郷が消えた今、鉄郎は旅そのものを住みかとした。宇宙の海を駆ける銀河鉄道999とともに鉄郎は、心の故郷(ふるさと)を探しつづける。永遠の命を戦いとる旅を。

2 機械と人間の融合

手塚治虫は70年代に松本零士の「対立}とは逆に、人間の心と機械の身体、あるいは機械の心と人間の身体の融合の過程をドラマ化した。『火の鳥』・未来編では、自らのマザーコンピューター「ハレルヤ」に市民の未来をすべて託してしまうヤマトのロックと聖母「ダニューバー」の命を執行するレングードのモニタ少佐の対立、核戦争により世界のメガロポリスは消滅する。

「25世紀には人間の文明は絶頂にたっした。そのあと衰退がはじまったんだ。おかしな退化だった。原因はだれにもよくwからなかった… 科学も芸術も少しも前進しなかった。みんなはむしろ昔のスタイルや生活にあこがれだした。30世紀ごろには21世紀ごろの文明に戻ってしまった。あきらかに人類は…いや地球は老化現象をたどっていることがわかった 遠い星の植民星もいつのまにかさびれ死にたえていった 人類は地球にしがみついてなんの希望も野心もなくその日その日を送っていた」

「政治屋どもはどうしていいかわからなかった くるしまぎれにやつらは文明の支配を機械にゆだねた」

難をのがれたロックが、人間をが生み出した機械(PC)によって生をうけた人間であること、CPの思考が自分の思考であることを告白する。35世紀、人間は完全に機械の奴隷であった。

『火の鳥』復活編では、エアーカーの事故で死亡したレオナが、21世紀の科学技術によって蘇生する。よみがえったレオナの眼に、人はすべて土や石のささくれ、無機物にみえるのであった。思い悩むレオナの前に、人間として現れた女性、それがロボットチヒロ61298号だった。レオナはチヒロの身体に人間のぬくもりさえ感じた。それが移植された人工頭脳によってもたらされた機械の心のなせる技であった。以来、レオナに愛されたチヒロの電子頭脳に、消去不能の情報が再生されつづけた。ロボットのチヒロの心に芽生えたもの、それは愛であった。溶鉱炉の排水の流れに安らぎを感じ、互いの愛が人工的につくられた腐敗ただよう環境のなかで純度をたかめていく。やがてレオナが殺され、二人がひとつになることを望んだことを知った天才科学者猿田博士は、電子頭脳記憶装置によってレオナとチヒロの心を融合させた。二人ののすごした時間、空間はレオナの記憶のなかに吸収され増幅された。

人間(レオナ)とロボット(チヒロ)の心をうけつぐ、新しいロボットはロビタと名づけられた。ロボットでありながら、どこか人間的なロビタに子供たちは夢中になり、大人たちは家族のように大切に扱った。やがてロビタは複製され、家族を心理面からささえる存在となった。そうしたロビタの存在をよく思わない者によって仕組まれた罠。

子供の死とロビタへの冤罪。ロビタは抗議の行動をとる。自殺であった。全国の家庭にちらばっていたロビタが、一斉にに投身自殺したのである。

手塚治虫は、松本零士の心、精神に宿る魂の一元論に対し、人間の心も電子頭脳と究極的にはかわらぬ環境が産み出したひとつの生命にすぎないと考える。レオナとチヒロが一体化する時にもみせた、『火の鳥』がみせる生命原理は、戦いによって進化し、日常によって腐敗していく「生命」の輝きの一瞬の出来事として説明する。すべての存在はやがて無に帰し、輪廻によって転生する。人間の精神も人間が作り出した世界、機械化都市(コンピュートピア)でさえも、また人類が誕生する以前の本源的自然でさえも、手塚にとっては宇宙生命(コスモゾーン)によって、あらかじめ予定調和された世界なのである。そこでは人間の文明も文化も、高度に発達した後、必ず衰退し、崩壊することを予測している。手塚治虫の『火の鳥』は、手塚治虫という偉大なる精神が産み出した、もうひとつの人類史であり、未来を予言する書として読むことができる。そこには胸をうつ感動をこえたすべての浄化作用が働いている。

3 「機械と人間の融合」問題

松本零士がしめした人間の魂中心の世界観、手塚治虫がみすえた宇宙原理(コスモゾーン)は、自然と文明、人間と社会、科学技術と組織といった人間にまつわる文明史的な文化水準をその物語のなかに含んでいる。特に手塚治虫が『火の鳥』の原理(コスモゾーン)で、相容れない矛盾を融合する際にみせる浄化作用と解放作用は、手塚自身が負っていた、人間疎外、物象化、共同体の崩壊、社会の混乱、社会秩序の消滅、地球生態系の崩壊の予期の恐怖からの救済であった。

手塚治虫は、今から30年も前に、人類が築き上げた道具的な世界観、道具的な理性がもたらす技術が共同体、社会、地球環境にもたらす結果を予測していた。人は一度発明した技術によって文化水準を向上させるが、それは同時に人間とその環境、道具的な技術を含めた人間そのものを生かす場を整備する智、知恵をみがかないために、有用性、有益性、すなわち役立ちもうかる場へと一方的に進化しつづけたのである。

手塚治虫が危惧したことは、そうした有用性、有益性に満ち溢れた世界から生まれる疎外、物象化にひきずられる形で、古い共同体、社会、秩序、自然がなすすべもなく破壊されていくことにあった。それは、文明史的にみれば必然であるが、文化史的にみれば、人間が人間として存在する意味を一方的に消失することと同義であった。しかも技術の発展によってそれを支えるシステムが、体系だてて継承されない文化の断裂さえもおきてしまった。

80年代におきた知の安売りが、さらに文化から物語を奪いとった。「人間と機械の融合」問題とは、人間文化のひとつの比喩であり、元来人間が自然史的に保有していた技術を、科学技術の進化によって、人間そのものが寄ってたつ大地、環境、思考水準そのものを破壊する力として活用するあやうさを物語ったのである。

携帯電話、携帯パソコン、電子メールの普及、CPゲームの深化は、人間社会がもっている共同主観性をますます主観化(幻想化)する恐れをもっている。共同主観性と客観性とは似て非なるものである。

松本零士は、ハーロックやメーテル、トチローやエメラルダス、そして鉄郎に象徴されるキャラクター(まさに主体)の復活を願い『銀河鉄道999』を再開した。そして手塚治虫は生成、発展、消滅する文明を描きながら、人間の同じく文化史を『火の鳥』で描いた。その世界は救いようのない人類の贖罪にを描いているが、『火の鳥』鳳凰編でみせた主人公、我王の生命力、意志の力、信念は、松本マンガのキャラクターの情熱と同じ温度を感じさせた。それは、手塚が決して冷徹な知性の人だけではなかった証左である。手塚治虫が『火の鳥』のなかで唯一、情熱的なキャラクターえお産みだしたのは主人公が権力にたいする怒りをあらわにしたからであった。「機械と人間の融合」問題とは、一言でいえば、人間が人間的な感情、思考、生命力を失うことへの警鐘であった。それは動く人間(ホモモビリダス)、加工する人間(ホモ・ファーバー)、また言語を駆使するもの(ホモ・ロクエンス)、思考するもの(ホモ・サピエンス)である人間が、その社会性をなくしたときに、善悪を人間の未来ときりはなして考える危うさの告発であった。松本零士と手塚治虫はSFマンガをとおして、現実の私たちのありかたを照らしだしたのである。

アート&ポリティカル誌 「A,L,T」 1999 8号より