マンガにおける「分身論」 −戦後マンガのキャラクターと鏡としての大衆社会

小山昌宏

かつて文学が、人間の内面を掘り下げ、精神と人格の境界にもう一人の自分を発見し、幾多の物語を表現してきたことは、残されている多くの小説に伺い知ることができる。たとえば、ドストエフスキーの『二重人格』、スティーブンソンの『ジギル博士とハイド氏』、また、日本では芥川龍之介の『歯車』、梶井基次郎の『Kの昇天』などに。現代では、村上春樹の小説に、「分身」論を読み取ることも可能である。

 戦後日本マンガは、そうした「文学」とは異なる「大衆的」な視点で、数々の物語を紡いできた。それはマンガが戦後、子どもにとり、もっとも身近で手ごろな「メディア」であり、大人社会との窓口であると同時に、大衆社会化しつつある大人社会の鏡であったことと緊密に関係している。

 まだ「貧しさ」が残っていた60年代に発表された手塚治虫の『双子の騎士』は、国内と国外に分離させられた二人の王子が、協力し国を発展させる物語であったが、ここでは物質的な発展のために、双子という別人格の分身が、疎外と対立を乗り越えて一体化することで、繁栄が約束されていた。だが、すでに、繁栄を先取りする形で、わたなべまさこは、同時代に、互いを呪いあうシャム双生児の物語を描き、また、70年代にはつのだじろうが『恐怖新聞』で、生まれるはずだった一人の双子が、霊となり生き残ったもう一人の双子を呪詛する物語を描いた。繁栄を享受できるのは、「選ばれ、生き残った人間なのだ」という影が、つねに物語につきまとった。

少女マンガ版「ジギル博士とハイド氏」である宮脇明子の『ヤヌスの鏡』が登場したのは、物質的な「豊さ」を体現した70年代後半であった。すでにあたりまえの「豊かさ」により、「幸福」を実感できずに、分離しつつあった精神と肉体は、全く異なる別人格を生んだ。そして激しい愛憎物語の果てに分離した人格は感動的な統合をとげる。「ヤヌスの鏡」で表現された二重人格は、現実社会との「闘争」を余儀なくされる意味において、まだ社会的規制が機能していた70年代〜80年代初頭の時代性を象徴していた。

しかし、80年代後半になると、日渡早紀の『ぼくの地球を守って』のように、現実逃避の「人格分離」が、前世の生まれ変わりとしてたち現れた。そこでは人間性は、執着的なパラノと逃避的なスキゾに分離し、現実すべて過去世に責任を押し付ける意味において、壮大な「逃避」物語となり、現実への無力感を増幅させた。この作品を契機に、時代と地理をこえた輪廻転生思想が、少年少女世界に定着した。

90年代に入り、クローン技術が現実のものになると、現実に生きる人間が未来世界によってまかれた種(クローン)であり、今をよりよく生きようとすれば、未来世界を破壊しなければならないジレンマにおちいる清水玲子の『輝夜姫』のような作品が登場した。人間がクローン化し、クローン人間がより人間的に生きようとする物語は、「エヴァンゲリオン」の綾波レイに典型的にみられるが、すでに「大きな物語」が崩壊した現代社会では、キャラクターは、より社会性を失い、本来であれば個を映し出す鏡としての社会が、個と個の関係に映し出されるという逆転現象がおきている。その意味で「人間は社会的動物である」という定義は、「社会は個的動物のただの集合である」と換言することが可能である。

マンガ表現は、個々のキャラクターに映し出された「社会性」をキャラクター自らが再発見するとき、「現代文学」として機能するのである。