不定期日記 2

10月2日(日)

アニメ「風の谷のナウシカ」−物語の系譜、マンガとの相違点 改稿(書き下ろし)の仕事が終った。マンガ論の一環として描かれたものだが、アニメ「ナウシカ」とマンガ「ナウシカ」との相違点を中心に改稿、加筆した。

まぐま次号の映画特集。先だってインタビューしたドキュメンタリー映像監督の横田安正監督のテープおこしにはいる。来週中には活字化、校正に入りたい。

先だって秋葉原のヨドバシカメラビルにできた有燐堂書店に営業でむかう途中、メイド喫茶のメイドさんにちらしとアメをいただく。ソックス上からスカート下までのふとモモの「絶対領域」に視線をむけるも、「エロキモイ」と思われるのがいやで、「ウサ耳」かわいいねなどと言いそうになってこらえる。

店名は「パラダイス・メイド」 外神田にある店らしいが、メイドさん1000円引き鑑賞券には泣かされる。

30代の一線で活躍するライターや研究者をみて、40代のあせりを感じるときもあるが、ライター・研究者・編集者の三輪をまわしていけば、表現する機会と接点は限りなく広がることを信じていまは、進むのみ。

出版ベストセラー製造業。「アップルシード」がついに、朝日新聞に掲載された。業界中では、かなり有名で、「ネタ」をストックし、出版社に販売する。もちろんマーケティング済み。もはや、持込原稿は、自費・事実上の自費出版である共同・協力出版でなければ、世にでないような厳しい状況で、双方の事情を知る当人としては、かなり複雑な気持ち。

最近、ライターとしての自分よりも、編集者としての自分が勝りはじめている。ネタさがしに、様々な催しや、分野の交流に深入り。何かに「蛸壺化された文化」を感じると、身体が拒否反応をおこし、越境と逃走をそそのかす。

アナ−キーな血は死ぬまで流れ続けるのだろう。

そういえば、もうそろそろ、しりあがり寿さんの「サイン、書名入り 原画」が送られてくるころ。楽しみ。

9月24日(土)

ここ1週間 MIXIブログに掲載した展覧会&映画会を含め6つにいってきました。

政治ネタに疲れ果てましたので、っここいらで休憩。

 

●マンガ家 しりあがり寿さんの体感アート展にいってきました。

しりあがり寿 オレの王国、ベンチを置いたよ。展

2005.9.10(土)-9.23(金) 11:30-19:00(日曜休)
art space kimura ASK? TEL:03-5524-0771
東京都中央区京橋3-6-5 木邑ビル2F

ASK?ホームペームページアドレス
http://www.kb-net.com/ask

16畳ほどのスペースの床、天井、壁を問わず、和紙に墨汁と薄墨で書きまくられた「寿空間」。床は池で鯉が泳ぎ、白い渡り廊下の先には、赤いベンチがあります。もちろん座って鑑賞できます。

壁は林と5本の滝となって、様々なキャラクターで埋め尽くされています。キティ、パンダ、おなじみの親父キャラにカエルにあらいぐま、レッサーパンダもいる。よくみると、ゲバゲバや、「お猿」までいるではないか。

この作品は、好きな絵を切り取り予約で販売もしている、完全オリジナル作品。B6サイズほどで、5000円、B5ほどで8000円。しりあがりさんの「サイン」入りで、展覧会終了後に送られてくる。

私は「お猿」の部分を購入した。80年代の「宝島」の「お猿のロッカー」のリアル版といったところ。
それにしても、「お猿」の絵は上手すぎる。水墨画の味わいと、脱力感(筆使い)をあわせもつ。額窓を選ぶ楽しみも増えた。

●弥生美術館の内藤ルネ展にいってきました。 弥生美術館は少女文化&バイセクシャル展示館として、その名声を確立しております?が、水森亜土、中原淳一などの少女文化の間に、宇野亜喜良、長沢セツ、石原豪人、四谷シモンなど妖しい方々の展示も過去には交えてくれました。

てなわけで、今回はルネ展です。↓
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/exhibition/yayoi/now.html

「かわいいはルネから始まった」というコピーにビビっときまして、ルネのイラストとの出会い、60年代、姉の少女雑誌との出会いの思い出が再燃。最近まで、ルネはずっ〜と女性だと思っていました。もちろん男です。

さらに展示場で衝撃が。見覚えのある「薔薇族」のゲイのイラスト…。内藤ルネはゲイだったのです。このイラスト、角刈りのふんどし少年が、髭もじゃの男に調教されていたり、「ブラック・イズ・ビューティフル」を主張する黒人青年の裸身の泡まみれの入浴シーンなど満載。

その隣には、かわいらしい少女イラスト、グッズなどが会場狭しと並べられ、まさに弥生美術館のコンセプトにふさわしい展示となりました。

会場入り口には、ルネ自伝「すべてを失くして 転落のあとに」が販売されていました。帯にはピーコの推薦文が…

ルネさん、もうかなり高齢なのですが、若き日の肖像写真は、おすぎとピーコそっくりです。男性との恋愛遍歴の数々の後にたどり着いた答えが、かかれていました。(買わなかったのですが)

弥生美術館、どこまでいってしまうのか…目が離せません。

●昨日、池の上 シネマボカンで、奥田徹監督の「ベリースタートっ!」を観させていただきました。

なんというか。今からもう20年前の学生時代の「もやもや」を想いだしました。何か、はっきりしないストーリー(失礼)も、いい意味で、そのもやもや感をかもし出していて、久保田さんと阿部さんの「かけひき」にぐんぐん引き込まれていきました。

確かに映像の露出?黄色がきついし、編集も完全に計算されていないのかもしれません。しかし、監督の可能性は、何か大きな期待をいだかせます。それは、なんなのでしょうか?

青空と天城純子さんの「破天荒な声」と久保田さんの、どんよりとしながらも素朴な感性も、阿部さんのバランスがとれすぎて飛び出せない悩み多き日々も、すべて若い頃の自分がもっていたものなのです。

青春時代の宝ものを発見したような気分で、今日も、会場で当選(いただいた)DVDを再見しました。
人の偽りない「感情や気分」がいっぱい詰まっています。

奥田監督、マイミクありがとうございました。

9月14日(水)

衆議院選挙結果は、予想どおり、この国が議会制民主主義から衆愚制独裁主義に移行したことを確認。

小泉支持者の多くは、女性と20代の若者。どちらも、日本の保守政治(自民党政治)によってできた男性中心社会と利益誘導型政治に怨念をもつ。有能「女性刺客」にわが身を投影する女性と、フリーター、NEETのやり場のない憎悪の解消を「小泉」に託す。

だが、小泉後の大増税、所得の10%を越える増税と消費税。11月の憲法9条改正とセットになった国民投票法による「改憲反対運動」「反対報道」の規制。(もう4年前に報道管制はおこないました 小泉懇談会)

小泉支持のお母さん方は、よもや、自分の子供が、戦場に送られるとは思わないだろう。え〜小泉さん違うでしょ。と嘆くのは、いつの時代でも愚者の嘆きである。若者たちも自分が支持したものに、戦場におくられる日がくるとは思わないだろう。

でも、もう現実だ。11月に憲法改正。圧倒的多数の議員の賛成と、現憲法9条を変えると「もめる」から、現行憲法を自衛ではなく、戦争のできる自民党草案にすべてとりかえようというこんたん。このままでは、国民は、「改正」に投じるでしょう。

イギリスとオーストラリアが、8月にイラクを来年12月に撤退すると、日本政府に打診した。マスコミはまたしてもだんまり。憲法が改正されれば、年内12月に晴れて、「自衛隊は軍隊なのだから、自分たちで守ってね」と、英豪はいってきている。

マスコミは、こうしたことを一切報道しない。おそろしい。インターネットで世界とつながっているものが、かろうじて入手できる情報。

「マスコミがふたたび、戦争する国に、国民をミスリードしないように祈ります」(久米宏 ニュースステーション 最終談話)

戦争にいくものは、貧しい者ばかりです。戦争は手っ取りばやい雇用と収入を命にかえて与えます。

少子化がすすみ、貧富の差が広がる日本。やがて軍隊も人が足りなくなる。徴兵制の時代もくる。

2005年、9月。昨年の有事立法につぎ、日本が自らの平和を手放す戦後史に刻まれる年となった。

湯水といっしょに赤子を流す  赤子は憲法9条。 湯水は日本国憲法。

さあ、亡命かレジスタンスか? 金がなければみじめな時代が到来した。

国債が1000兆をこえれば、ハイパーインフレも必然?。資産は崩壊する。

そのとき、日本人は、おお泣きに泣くのだろうか?

また、60年前のように1から始めればいいさぁ。だって皆が選んだ道だから。

9月7日(水)

先日、日本映像学会のアニメーション研究会で、五社英雄監督に師事し、時代劇『眠狂四郎』で監督となり、その後『女系家族』『死の接吻』、80年代には『オレゴンから愛』を撮った横田安正監督の隣になり、2次会では、その映像論、ドキュメンタリーの作法を教説いただく。

横田監督は、ドキュメンタリー監督として国際的な活躍をし、数々の国際コンクールの審査員も勤めている。無意識にみていたドキュメンタリー映画で、印象にある作品が、横田監督の作品であったことがわかり驚く。

小川伸介、原一男、土本典昭、是枝裕和氏などの個性派監督と同様、いい意味で、大変個性が強く、話にグイグイ引き込まれた。その映像論は、「リアリティ構成法」という素晴らしく、実践的な映像論。感性と理論と両面をそなえた懐の深い監督である。

その実践映像論を具体的に記載した『ドキュメンタリー作家の仕事』(フィルム・アート社)を、昨年暮れに上梓されたが、これが素晴らしくわかりやすく、面白い。当日、サイン本を購入。

哲学的に映像をみる「無意味さ」をかみしめながら、映画の本質を、ここまで平易に書かれた感動に、しばし呆然とする。

マンガ関連図書も、執筆陣もととのい、来年の上梓にむけて、調整に入る。研究会を重ねての本なので、評判がよいといいのだが、と今からやきもきする。

年内は、この本の総論と、学術用の論文(メディア論)と大友克洋AKIRA論の3本で、アップアップしそう。マンガ表現論は、骨子(構成)だけしておいて、年末から一気に書き上げる予定。

…………★……………★………………

11月20日 アキバでやる「文学フリマ」に当選決まる。冬コミの参加もあわせて、今年残り4ヶ月は忙しくなる。得意な季節なので、ふんばりはきくだろう。

8月31日(水)

選挙前に、様々な方とメールのやりとりをさせていただいている。

今回も、メールいただいた畏友への返信を掲載させていただく。

拝復

確かに、選挙結果には期待をもてません。

お祭気分で投票率があがっても、悪傾向を助長するだけですが、「民主主義」的観点からみれば、低投票率よりはましかもしれません。

この数日間、自民、民主、公明、共産、社民と各党、大物国会議員のHPをのぞきましたが、過去のトピックにいたるまで、「財政再建」と「少子高齢化」対策について、まともな回答(道筋)をしている政党はひとつもありませんでした。

これでは、どこの政党にいれるか、基準すらありません。がっかりです。「国民は知らされていない・知る意欲もない」ばかりではなく、それ以前に「政党が無策である」とみるべきではないでしょうか。

頭のいい人がいっぱいいるはずですが、「財政再建の道筋ひとつ」示せないとは愕然とします。自民、民主、公明では、財界・官僚利益型政治にメスを入れることは無理ですし、いたずらに庶民増税をおこない、財政再建もできないのは明らかですし、

さりとて、社民、共産も大企業優遇税制を廃し、ただ「金を弱者」に回すという昔ながらの論理で、財政再建の全体像がみえてきません。徹底した無駄使いの見直しと、地方ならではの特色をいかした事業で、「財政再建」を成功させた多くの自治体がありますが、ここからみえてきた教訓が、与野党ともまったく視野にありません。

いまだに、中央は既得権益の確保に、地方は公共事業ウエルカムの様相ばかりが報道され、「税金の無駄使い削減の徹底の方法と手段、税金の使い道のガラス張り化、税金徴収の公平化 など、問題解決の「基準」となるべく、指標すら確立されません。

東西冷戦がとっくの昔に終了したのに、与野党は、いまだに「金をどう動かし、分配するか」という資本×労働の論理(マネーゲーム)のみで動いていて哀れです。てっとりばやくいえば、「与党は、財界マネーのおこぼれで政局を運営し、野党は財界マネーをどうぶんどるのか」という論理で物事をくみたてます。

まずは、年度ごとの債務を±0にしなけらばならないのに、小泉さんになってますます累積超過しているのは、まったくもってお笑いです。いよいよ、やばい状態です。やはり、日本人は理よりも情で動く。

こちらも言いたい放題にて、大変失礼いたしました。

8月28日(日)

世の中は、9.11の選挙にむけてヒート・アップしているよう。

生来の天邪鬼で、「投票にかならずいく」「いく」で70%を越えるという事前調査を知り、逆にトーンダウン。小泉劇場の演出はなかなかのようである。

しかし、「郵政民営化」「改革」に賛成か、反対か なんていう小泉劇場のキャッチフレーズのまやかしで、自公連立政権が続くようであるなら、いよいよ、改革という名の「踏絵」を強制される隠れキリシタンのような生活を強いられることであろう。

では、小泉首相就任以後、日本はどうなったのか、やはり、実績の評価をもとに、今後の是非を決めなければならないだろう。

           2000年度    2004 年度  評価

名目GDP     513.4兆円    505.4兆円   ×

長期債務     642兆円     740兆円    ×

完全失業率     4.7%      4.6%      △

勤労世帯実収入 558,424円   529,822円    ×

自己破産者数   139,281人   211,402人    ×

自殺者数     31,957人    32,325人     ×

銀行貸出金額  458.7兆円   385.4兆円     ×

日経平均株価  13,973円    11,766円     ×

東証時価総額  390.7兆円   375.6兆円    ×

「夕刊フジ」より抜き出し

なんと、改めて驚いたことに、完全失業率が、横ばいのほかは、すべてにわたり悪化している。通信簿にたとえてみれば、9科目中、8科目が1で、1科目が2というところ。しかしながら、財界(企業)は、今、戦後未曾有の内部留保(資本金)を更新しており、その金額はバブル時を上回る数字になったが、「経済悪化」と「労働組合」の弱化が理由に、その恩恵は、「庶民」にまるで還元されていない。というか労働者意識の薄い我々が招いた結果なのですが…。

株価低迷→経済悪し→国の借金増化→されど・財界ホクホク→庶民生活苦し→自己破産・自殺者増加→社会の不安定化→

これでは、現実の争点から目をそらせ、郵政一本化で、「小泉劇場」の脚本を演出しなければならない理由も、素直に伺える。

選挙の争点は、こちらも世論調査で明らかだが、これにもズレが。

社会保障 87.5%  景気対策 60.9%  財政再建 33.7%  外交・安保 33% で、

郵政民営化は13.7% と少ない。

このズレが、そのまま投票行動に表れれば、自公は敗北するのだが、そうはいかないのが、日本人のバランス感覚。70年安保後、公に怒ることを忘れ、隣人や家族や友人に当り散らしたりする国民性。トホホ…。

週刊ポストに掲載された、小泉劇場のシナリオの基本戦略は、日本国民「愚民化」計画である。このことについて立花隆氏はこうのべている。 

立花隆の「メディア・ソシオ・ポリティクス」↓

http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050707_syuen/index3.html

●今週の「週刊ポスト」が、「竹中『疑惑のチラシ作戦』でバレた『小泉支持者はIQが低い』内部文書」という記事で面白いことをバラしていた。

●竹中郵政改革担当大臣が雇ったPR業者のPR戦略文書に、「小泉内閣の支持基盤は、主婦層、子供層、シルバー層など、『具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する』IQが低くて構造改革にはポジティブな層」という分析があるという。

●このバクロ文書は、小泉・竹中コンビにとって致命傷になるかもしれない。

●これから参院の郵政問題の審議がはじまるが、小泉・竹中にこの文書が突きつけられ、「あなたは郵政民営化を支持してくれる人達はIQが低い人々と考えるPR業者に、郵政民営化のPRを頼んでいるのか。あなたは大衆はIQが低いと思っているのか。あなたは大衆をバカにしているのか」

などと連日にわたって攻めたてられたら、いかにもっともらしい否定答弁をならべて切り抜けようとしても、そうすればするほど、そういう文書の存在が喧伝され、「小泉・竹中イコール大衆をIQが低いとバカにする政治家」というイメージができあがってしまうだろう。

●自分をバカにする人間に対する大衆の怒りは、爆発すると、とんでもなく大きい。

●おまけに、このPR業者に対する発注それ自体が、不明朗きわまりないもので、ほとんどスキャンダルといっていい裏事情があることが報道されている。この文書は二重の意味で、小泉・竹中コンビの致命傷になるかもしれないのである。

 

だが、バカにされたとしても、多くの日本人は、「甘んじて」バカを受ける人々が、まだまだたくさんいるだろう。「小泉さんも一生懸命やっている」「堀江モンやら、女性刺客に期待がもてそう」「改革の流れを止めてはいけない」…

客観的にみて「小泉政権」どころか、戦後の保守政治はとっくに破綻・終焉しています。東西冷戦終焉後の国のあり方と方向性が、政治家自身も座っていない悲しき現実にあります。民主党は、労働組合に深くコミットしながら、財界への気配りも忘れられない政党であり、自民党同様、官僚にも財界にも「オオナタ」を震うことはできない。そのあいまいさを、アメリカからの指示にて、いままでは許されてきました。だが…。

庶民は、こうしたブルジョア政党にのみ「政権」を委託された戦後を、憔悴しながら見守るしかないのである。今度の選挙は、立花隆流にいえば、「国民の愚民度」を計る選挙といえそうだ。

さる昔、企業講演会で「ゆでガエル」の話で盛り上がったことがあった。水からぬるま湯にいたカエルは、それが熱湯になっても逃げ出さなかった。甘んじて「死んだ」のだ、逃げればいいのに。天国でカエルはいいあう。「まさか、熱湯にするとは思わなかったね」…。

8月20日(土)

14日、コミケ最終日に、活字系雑誌の購入にでかける。とにかくビックサイト会場内も暑く、サウナのごとく、汗が流れる。ゆりかもめは車内が狭いので機嫌が悪くなる(気分がではない)。

購入したもの。「K−とれじゃ〜」(川井憲次全CDデーターブック・川井憲次協力)、「LOGICAL PRODUCT」(特集:アニメと特撮の間で…)、「てんぷら社会科学研究会 NO.2」、「押井学会 伍 WWF30」(構造と死)、「サブカル評論 第8号」、「PERSONA」(オタク文化を問い直す)「PERSONA」(針路学特集)の7冊。押井学会は、WWFのHPでも、なかなかの考察をおこなっているが、今回の内容も濃い。(まだ全部読んでませんが…いつも濃いので)。

B館の萌え系エロマンガとA館の肉体系エロ劇画との対比。人間の性欲のバリエーションの豊富さに苦笑。

19日、かねてからの美術館ラリーを展開。昼飯は吉野家の豚キムチ丼。370円。

11:00 山種美術館 日本画 詩情展/12:30 礫川浮世絵美術館 美人・奇術・妖怪 浮世絵展/

14:30 泉屋博古館(分館) 江里佐代子 截金の世界展 /16:00 松岡美術館 フランス近代絵画展 印象派からエコール・ド・パリ/17:30 東郷青児美術館 ベルナール・ビュフェ展 

真夏の最中に、美術館めぐりも楽ではないが、同じ人と違う美術館で偶然遭うのもヘンな感じ。今回、目を見張ったのは、吉田善彦の「尾瀬三趣」。尾瀬の自然を描いたもの。独特な桜色と紫のぼかしと色合いが、私好み。

モネの「ノルマンディの田舎道」では、絵のなかに吸い込まれそうになる。シャガールの「婚約者」は、深いが透明感のある蒼緑色が、心に染み込む。ユトリロの風景(町並み)はいい。自分が街のなかにいるような錯覚をおこす。あらためて好きになった画家。

9月も実施の予定。

今週は読書週間。「自己開示の心理学研究」(北大路書房 榎本博明)、「環境思想 歴史と体系」(NTT出版 海上知明)、「美の構造学 バウハウスからフラクタルまで」(中公新書 三井秀樹)の3冊を読み、ノートを作成。

放送大学で「渡辺守章×浅田彰」の「表象文化論 2」が始まった。テキストとしての写真のもつ、コードとデコードの相補性の説明に相槌をうつ。バルトの「写真論」をようやく読む。

メダカが孵化し、うじゃうじゃ。またそのうち大きくなるだろう。庭の山椒の木のクロアゲハの幼虫は2令に入る。だいぶ大きくなり、2cmくらいに。終令に入るにはもう少しかかる。はやくサナギになって、羽化して欲しい。

夜中に蚊に足の指を刺され、痒くて目がさめる。小指がパンパンにはれ、痛痒い。

20日。「ささやななえ 『凍りついた瞳』がみる歪んだ社会」を脱稿。

8月11日(木)

小泉「郵政法案」政治の茶番劇は、廃案、衆議院解散という「小泉」流政治手法によって、まさに最終章にはいった模様。

ここにきて、小泉支持率が上がったのには驚くが、まだ、期待する国民が多くいるのには本当にあきれる。それは小泉にしか期待できないからというのが本音だろう。だが、破壊者としての小泉を支持した者は、最後にそのツケが、すべて自分の懐にまわってくることを覚悟しているのであれば立派だが、物見遊山気分。破壊されるのは、「自民党」と「保守利権誘導政治」だけではない。国民生活そのものが壊滅するのである。(もう十分に壊されているのだが)

小泉流は、日本的[和の政治]から大きく逸脱している。

自民党反対派は、小泉の「議員内閣制を無視した強引で、審議をつくさず、修正案すらも受け入れぬ独裁的体質」、「急激なアメリカ型社会への移行による社会構造・経済構造の破壊」「郵政民営化の主題化による年金と社会保障問題隠し・先送り」を、おおいに批判する。

だが、日本にとっての根本問題である、少子高齢化社会問題、債務超過による国の膨大な借金問題。この二つの問題の解決の道筋なくしては、改革の糸口は何もみえてこない。政府案はこの大きな枠組みに対して、何もしていないばかりか、この根本問題を国民からそらし、先送りしつづけている。

少子化→経済の沈滞→年金制度への不安→高齢化社会維持負担増→限りない債務超過 とサイクルは悪化し、我々のとれる選択肢は、おおむね次の2つのステップを踏みながら2つしかない。

●1 多産化→経済の繁栄→年金制度の維持→増税→高齢福祉社会維持(豚も犬も羊も生きろ)

●2 少子化→経済の衰退→年金制度崩壊→増税→格差社会の到来(豚と犬は生き、羊は死ね)

だが、●1の可能性の展望はまったくない。それは、極端に企業に有利な国家システムを作りあげたため、会社が父親を家庭に帰らせない「常識」をつくりあげたために、子どもを育てられる環境になく、身を粉にして働いてきた世代の年金財源は、社会保険庁の「失政」(無駄使い/投資)により、財源の落ち込みがあるからである。●2はより現実的な方向性である。小泉の政策は、何でもかんでも「民営化」すれば、活性化するという愚かな選択肢しかないため、民営化のツケである、競争的疲弊、競争的腐敗、競争による破壊が、企業の活性化、経済の活性化どころか、人間そのものを病ませていることに、まったく気づいていない。

やみくもな民営化→競争化社会の激化は、人間をますます追い込み、社会病理を深め、精神破壊をより進めることになる。(過労自殺・精神疾患・脅迫人格(JR西日本の列車事故の事例はいうまでもない))

●2の選択肢のなかで、では、できることはなんだろうか?

■1 少子化→倒産・解雇・労働放棄→小泉改革による「経済システム」の破壊→賃金格差社会の進展→ 希望格差社会の発展→「知恵・財力・人脈」>「無知・貧困・無頼」社会による決定的な格差社会の到来

■2 少子化→政治屋・官僚の倫理の確立(はは〜)→労働者層の雇用安定→増税→将来に渡る社会保障の確立→希望社会の確立(高度福祉社会)

  →少子化社会の脱出→→??

■1は、アメリカ型であり、■2は北欧型である。

アメリカ型は、金持ちにより金が集まるシステムをつくりあげ、世界の国々を「金儲けの対象」としてしかみない徹底したグローバル化をめざしており、国内の人々の格差(知・財・人脈)を進め、世界の国々の格差をひろげていく。(国内の貧困や、アフリカや南米の飢餓、貧困など知ったこっちゃない人々の国)

北欧型は、自分たちの税金の使い途を、ガラス張りにし、税金をかすめとってゆく「政治屋」や「官僚」を監視し、私腹をこやす元凶をたつとともに、やみくもな民営化をおさえ、教育・福祉・医療など、より社会的な分野に関しては納得づくで高い税金を支払うことに同意し、無料か無料に近いフィードバックを得られる社会。企業は、私腹を肥やすためにあるのではなく、より社会的責任、倫理を要求され、社会につくす存在になってゆく。

北欧の人々は、安心して子育てができ、男が会社で夜中まで働き続けるような、クレイジーなシステムもなく、こそだてができる。また、職業政治家や官僚の日常の管理が弱まり、市民が労働者であると同時に、ゆとりある時間をもてるため、「政治家」として地域社会に貢献する機会がふえている。

私たちは、目先の「郵政」などに惑わされるのではなく、こうした大きな流れのなかで、より現実的で、「幸福」なシステム、ビジョンを提示し、政策として打ち出す「政治勢力」を選択しなければならないのだろう。

金持ちやら、実力者、政治家やらからの「おこぼれ」をもらって生きる奴隷根性をすて、自分たちの稼いだ金が、まずまっとうに使われる政治を作り上げたいもの。

小泉改革は、いまのところ、アメリカ型の臭いしかたちこめない。無理なグローバル化や民営化をしなくても、国民の立場にある公党ならば、「汚い金の流れを断ち」「官僚の無駄使いを断ち」「税金をまともに使う」だけで、「改革」の初歩ができる。

自民党反対派を恫喝する力があるのだから、労働基準法違反をしている企業や、天下り官僚を裁き、企業献金など、さっさと禁止したほうが、よっぽど、我々のためになりそうだ。そんな初歩のこともできないのが、どうしてもできないのが、小泉改革だ。

だまされてはいけない。小泉についてゆくものは、小泉に一番被害を受ける羊となる。小泉改革を歴史はどのように裁くのだろうか? 小泉改革だけが、選択肢なのではない。

7月28日(木)

マンガ表現試論Cを脱稿。400字で40枚。今回は神話、伝説、昔話といった物語に影響をあたえている「文芸」の構造を勉強することで、マンガの「物語」への影響を探るという視点。マンガにおける物語を「情報学」的な視点からみてゆくまでには、もう1回、ワンクッションいれる必要がある。

『情報文明論』公文俊平(NTT出版)、『情報の社会学』小林修一・加藤清彦編(福村出版)、『女神の神話学』松村一男(平凡社)、『昔話とこころの自立』松居友(宝島社)、『昔話と文学』野村滋(白水社)、『昔話の本質』M・リューティ(福音館書店)、『昔話の魔力』B・ベッテルハイム(岩波書店)など、読みながら楽しくノートをとり、自分なりの?や意見を入れてゆく作業は、楽しい。

前稿で、キャラクター分析にやや手垢がつきかけたユングのπ型を踏襲したが、どうも、おぼろげながら、物語の6つのπ型以前に、神話的思考のなかに、人間の志向性、嗜好性が垣間見えてきた。母性を畏怖し、穢れさす「男性性」「父性」に、物語の基底がみえはじめた。その救済措置としてのπ型がグレートマザーとしての「女神」。

少女でありながら、父性を持ち、処女でありながら母となり、世界救済を企てる女神。それはまぎれもない聖母「ナウシカ」である。ナウシカはギリシア神話のアルテミスから聖書のマリアまで一騎に駆け上がる。

聖母ナウシカは、英雄となりえたが、生殖を得られない。男性英雄だけが幸福と生殖を得られる神話以降の物語構造は、『風の谷のナウシカ』にも生殖をあたえなかった。

男たちがつくった文明・シュワの墓所を破壊したナウシカは、なぜギリシア神話のナウシカや、小野小町のように放浪し、男をさげすみながら生きなければならなかったのか? それは、文明を作り上げた男性・中心社会を女性社会へと変革するには、とてつもない時間とパワーが必要だからだ。その歴史と時間が巫女たちを悲しませる。宮崎駿の「諦念」は、ナウシカに産ますことを断念させた。

産まないことが、男性中心社会に対する復讐である。これは男性社会の現実の壁を壊せないなら、せめて、壁をリフォームしないで、老朽化させる作戦、少子高齢化戦略だ。

セーラームーンのような母性の圧倒的勝利がフィクションとして機能するのは、戦いよりも平和を、競争よりは共生を、憎しみよりも愛をというテーマあってのことだが、人間は戦い好きで競争好き、愛とおなじほど憎しみを心に飼っている。世の多くの男性は、いまだに、こんなくだらない競争にまきこまれている。はやくリタイアして、「男らしさ」などを捨てちまえばいい(笑)。

競争原理から協力・共同・共生原理への転換は、そうそうやってこない。守られたい私(女)と守ってあげたい私(男)の共同幻想にたっぷりとはまっている方々が減ってきたのは、本当にいいことだ。

女神アマゾンと化し、アマゾネスを率いて男性社会と戦うナウシカも魅力的だと思うのだが…

7月17日(日)

ここ2週間、中央線沿線の書店開拓をおこなう。のべで20軒ほどまわる。うち「まぐま」が新規取り扱いになったのが5軒。検討中3軒。EYEMASKが9軒である。サブカル・ポップといってもビジュアル誌ではない「文芸誌」は、なかなか苦戦中。7月中にあと10軒の拡販をめざしたい。

出版・イベントプロデューサーの方とW氏の仲介で、話をいただく。今後、インタビューの仕事、大手からのライティングの仕事を受注できるようにしたいところ。やはり、単行本を1冊、老舗からはやくだしたいところ。次のステップにいくためには必須。

intoアニメーション4は、やはり、林静一さんの短編「鬼恋歌」を観れたのがよかった。そのつげ義春的背景、ミズキしげる的鬼キャラ、林さんの少女キャラがかもし出す情緒世界が、萌えキャラとスピードに圧倒された今のアニメを忘れさせてくれる出来。注目というか、期待したいのは、加藤久仁夫さん。その絵本風の画風、話づくりも好み。真島理一郎氏の「jump」シリーズは、秀逸、来年劇場用アニメーションとして公開予定。

ついに体重が60キロに。ここ半年で8キロ太る、生まれてはじめて60キロを超えた。背からするとあと2〜3キロくらいは太れるが、太ってみて思うのは、持久力、体力が痩せているときよりも格段にましていること。1回10kmの散歩で、足腰も鍛えているために、身体は重くない。睡眠不足でも身体がもつのは初体験。

国土地理院から、街の断層地図をとりよせ、現在の街の等高線と、大正、昭和初期の地図と対比する。縮尺をコピーであわせ、昔の、山と谷にそって、過去の等高線を赤鉛筆で上書きし、現在の等高線を青鉛筆で囲った。井草川が、遊水地をもった広範囲の沼地を形成し、我が家は、その崖の上にあったことがわかった。地層を調べたところ、やはり、関東ローム層(赤土)の下には礫層(黒土)、その下には、粘土質の、濡れた葦の繊維が含まれた土がでてきた。

川の流れは、大正期から3度かわっているようだ。子供のころ、台風で下の家はいつも水浸しだったが、うちは被害はなかった。

知り合いの先生が、山手線の断層地図を作成。数年前にみせていただいてから、郷土史マニアになってしまった。都内遊水地めぐりも再開したい。

7月10日(日)

ようやく、湿気になれてきた。寒いのに、湿気のため暑いと勘違いした身体が、薄着を好み、見事に風邪をひいた先日。

ここ1週間は、マンガ表現試論の原稿に没入。神話・伝説・昔話とつらなる民間説話関連図書の読み漁りと、資料ノート作成に日々を費やした。

マンガをみる今のところの視点は二つ、ひとつは、他のメディア、文学、演劇、映画、アニメ、紙芝居、絵本、写真、…などとの比較、影響関係から「情報」としてのマンガを見る視点。もうひとつは、そうしたメディアが放つ「物語構造」の探求。マンガに連なる前史としての神話、伝説、昔話の構造をあぶり出し、近代的自我の芽生えとともに、何がマンガに影響を与え、何が脱落したのか? 

西洋の物語構造と日本の物語構造の差異はどこにあるのか。まず、ふたつめの視点から分析をすすめ、ひとつめの視点へ戻る。それが、自分なりの方法論である。

自分なりであるが、ものごとを連続して深く考えることは、新たな視点の発見につながる。垂れ流される大量の情報に、疑義を呈することも、その訓練のおかげでできるようになってくる。イデオロギーという名の「物語」が、オウェルのアンチユートピアの洗練によって、西洋的な思考、志向性にこそ、その根があるのだと理解できれば、もう一度、日本的な構造をユートピアにぶつけてみたくなった。

若い頃、フロイトやマルクスにかぶれ、構造主義や記号論を語っていた者が、森の思想や和の思想にかたむく。わからないでもないが、それは、日本の風土と歴史をはぐくんだ「身体性」に、理性が引きづられていくからだろう。西洋哲学を読むよりは、和辻や亀井を読んだほうが、すんなり理解できるのはそういうことらしい。

西洋の物語は、「父と子の抗争」を経た「聖杯の探究」に傾く。「幸福の追求」こそが、テーマを貫いてゆく。翻って日本の物語はどうか? 日本では物とは、鬼や妖怪、幽霊を指す。物語とは、人間によって、生きながら地獄をみせられた物どもが、あの世にもいけない状態で、この世への未練を「物語る」。

「幸福の追求」どころか、後ろ髪ひかれる「怨念」への恐怖。「祟り」への鎮魂。これが、日本的な物語のメインテーマとなる。近代以降は地下水脈となり、時折発露して、「ジャパニーズホラー」として再評価される。

だが、死んだものは「何もできない」。そんなわかりきったことなのに、死者は、生者の心に住み、「うらめしく」生者の「幸福」をうらやみ、呪い、うらめしがるのである。またそうした潜在意識は、健常者の心身を蝕んでゆく。心理カウンセラー、占い師、精神科医がもてはやされる昨今は、こうした日本人のパーソナリティに、現代の社会状況が追い討ちをかけているのだろう。

この東西のパーソナリティの違いは、歴史と文化の累積のなかで、回避することは不可能である。

日本では奇蹟的に、女性が「ひらがな」をもつことができ、男性の文字「漢字」文化とは異なる形で、物語を紡いできた。日本の物語は、貴族階級の女性によって創生されたともいうことができよう。それだけに、幽霊の定番は、権力者によって虐げられた女性であり、平将門、藤原純友をはじめとする逆賊「落武者」である。

権力者は、今も政敵の「怨み」を恐れながら、自己の延命をはかる。だが、「和をもって貴しとする精神」は、小泉首相にはない。その意味からすれば、小泉首相は、「祟り」をおそれない西洋かぶれ、特殊イデオロギー信者であると言えないこともない。つまり、日本人らしくない変人である。

7月2日(日)

朝まで生テレビを見る。70歳後半から80後半に差し掛かった旧「帝国軍人」幹部(少尉から大尉クラス)が多数集った本音トーク。大東亜戦争、太平洋戦争、中国戦線、シベリア抑留、複雑多岐な議論と証言はいろいろな意味で面白かった。俳優の池辺良、自民党・加藤六月氏も参加していた。

まず細かい歴史認識についての問題。サイパンでの天皇皇后の「哀悼式」にあわすかのような「ガダルカナル」玉砕の責任問題。歴史上は、大本営が、「転進」と称した「玉砕」命令をだしたことになっているが、実は、陸軍×海軍幹部が集った御前会議にて決定した事実。つまり天皇の命令により、3万人もの戦死者と2万人にのぼる餓死者をだした「事実」が明らかになった。

次に、日本は八紘一宇、五族共栄のもと、南進(北進)したが、それはABCD(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲網を突破し、アジア諸国を西洋列強から解放するという大義によっていたことになっていたが、ただ単に「ガソリン」が欲しかっただけ。つまりは、自国の利益(権益)確保が目的で、「解放」は、行動を正当化するためのスローガンであったこと。

さらに、南京大虐殺の当事者が発言。「女・子供を生きたまま縛りあげて揚子江にほうりなげた」「従軍慰安所などという施設はなかったが、日本、朝鮮、フィリピン、ベトナム…多数のアジア人に「慰安」をさせていた」「そんなことは陸軍の日常」とまで発言。「南京大虐殺がなかったなどというやつは、現場をみていたのか」と、当事者の発言は重い。「殺した数なんか問題じゃない。戦争になれば、何だってする精神状態になる」

「新しい教科書」を作る会の連中は、「戦争のことを何も知らない」とまで発言。う〜ん重い。

田原総一郎が、「なぜ、今まで証言しなかったのか」と尋ねられると、「生活に追われて生きてきた」「誰にも聞かれなかった」「戦犯として裁かれることが怖かった」とまたしても本然トーク。

さらに興味ある事実が語られた。神風特攻隊に出撃したものは、誰も生きて帰ってこない。それは「ガソリンを片道分しか入れないからだ」という伝説は、まったくの嘘。「特攻」から生きて帰ってきた少尉が証言。両翼のタンクに常に満タンにして出撃。2500kmは飛ぶと。ただし、「生きて帰ったものにはリンチが待ち受けていた」「練習機では通常のガソリンの半分ほどしか入れられなかった」「これが、伝説になったのか」

「特攻では飛行機や回転(人間魚雷)が有名だが、モーターボートを使った特攻もあった。…

「インドネシアでは、インドネシア独立のために、残留した日本軍人が、戦後も戦った… 独立運動を指揮した。 八紘一宇は理念だけではない」「理念と実益にはねじれがある」

「シベリアでは60万人もの日本兵が抑留され、6万人が死んだ」(アメリカとソ連と大本営が密約で、日本兵の苦役をもって「戦後賠償」させることを決めていた)

そして、日本人として皇民教育を受けた「台湾兵」が発言。「僕たちは、ボルネオの軍港で爆弾処理をさせられただけなのに、戦後B・C級戦犯として1260名もの台湾人が処刑された」「日本人なのに、戦後台湾人といわれて恩給もない。名誉回復もなく、靖国神社に祀られている、合祀をやめるように直訴しても門前払いだ」

歴史の断片的な証言とともに、戦争の大状況を誰もが理解していなかったことがわった。各人、めいめいの戦争を生きていたのだ。

しかし、戦争の事実は ここにあった。

「戦闘で死ぬものはほんの一部です。ほとんどは、餓えて病気になって死ぬのです」「戦争とはそういうものなのです」

「なぜ、戦争に反対しなかったって! 子供のころから軍人勅諭、戦陣訓を叩き込まれたものが、戦争に反対するわけがない」「教育の成果ですよ」

こうした先達の「証言」を踏まえて。「歴史は醜い面も、美化されている面も、被害者意識も、加害者意識も乗り越えて、事実を追及するなかで試されなければならないだろう」

歴史をイデオロギーで飾りたてることをいまこそ、やめる必要があるだろう。事実の積み重ねが、やがて真実になる。

人生の時間が迫ってきているご老人の方々には、戦争体験を赤裸々に語っていただき、その分厚い証言から、「日本の戦争」の正体を明らかにしていってほしい。歴史学者は、史実と証言を立体的に積み上げていただきたい。

6月27日(月)

web掲載の靖国問題にて畏友から返信をいただいた。今回はさらに友人あてに返信させていただいたものを、そのまま掲示させていただきたい。

確かに中国への反感は強いものがあるようです。
> 今、手元に資料はないのですが、
> 元公安関係者(警察関係)で、現在公安評論家の報告によれば、
> ここ10年、外国人犯罪は増えておらず、全外国人犯罪に占める
> 中国人犯罪の割合は減少(横ばい)しているとのことです。
> (データーをあとで入手してみたいと思います)
>
> なのに、なぜ中国人犯罪ばかりが、クローズアップされるのか、
> ここに留意したいのです。
> おそらく日本人のなかに、
>
> 日本のODA援助→中国の経済発展・ODA資金の流用による金利稼ぎ→恩を仇で
か えす国家体質
> つまり、援助している遅れた国のくせに、エネルギー、教科書や靖国など生意気な
発 言しやがって という意識があるのではないでしょうか?
> それに、中国人留学生→アルバイトに雇わない(ブラジル・フィリピン・ベトナ
ム… 人の順番で雇う)ことが、この「生息のサイクル」を拡大再生産しているようで
す。
> 私も、外食産業の現場に出入りしていて、雇用者から、中国の留学生は、他の東南
ア ジア学生とちがって、> 「我が強い チームワークができない 目立つ仕事をしたがる(バックヤードの汚
れ仕事 よりフロア−の仕事)」(一人っ子政策の影響か)など、いつも苦情を聞き、「中国人は使わない。使いたく
な い」との中国人留学生の評判はひどいものです。
>
> 日本人のなかにここ10から15年ほどの間に、中国人は「ずるがしこく、利己主
義」とのあらたな実感に基づいた偏見が蓄積されているものと思います。中国人留
学 生は、萩国際大学ではないですが、いいように日本から誘われて、一族の期待と援
助 を受けて留学。しかし、日本人は彼らをアルバイトに雇わない。金に困り犯罪とい
う パターンが多い。最近は不景気で本当に偏見ではなく、本当に雇えない…。
>
> 靖国問題や日本人の扱いに端を発し、親日から反日に転向した留学生が、本国に戻
> り、反日運動に火をつけている現状があります。
>
> こうした悪の「日中のサイクル」を、その日本史の先生に注文をつけた親?はどれ
ほ どの知識があるのでしょうか?それとも、その人は中国人留学生を使っていた経験
が あるのでしょうか?
>
> ドイツ人(猫)、ポーランド人(豚)、ユダヤ人(鼠)の関係は、日本人、朝鮮
人、 中国人の関係に似ているといったら、ドイツ人の先生に苦笑されたことがあります。
>(動物表記はマンガ「マウス」(アート・シュピーゲルの見たてです)
> 私も不勉強ですが、本当に歴史を知らない人々が、声高に「つくられた歴史観」を
叫 びだすのは怖いです。
> 事実を認めず、歴史を捏造する反中国イデオロギー信者の尻馬にのるマスコミにも
警 戒します。
>
> 隣国と仲良くするのが21世紀の課題の一つだと思います。
>
> 第2次世界大戦が、「民主主義×ファシズム」の構図ではなく、植民地争奪最終戦
争 という見方は 歴史的にみて正当にみえます。面白い見方だと思います。
>
> 小山昌宏

6月20日(月)

先週は、写真展、マンガ学会、不動産セミナーと忙しい1週間だった。今週もアニメ-ション学会、書店回り、版元うち合わせと、多忙だが、本来これが普通で、ここ1年、のんびりしていたので、少しネジを巻きたい。

さて、なんだかんだいってまた政治ネタ。なぜなのか考えてみたところ、政治を論議する場にいま、自分がいないということがわかった。政治について論議することから、ここ数年とことん逃げまくっていたわけだが、元来の祭好きが政(まつりごと)をきらいなわけがない。

靖国問題は、教科書問題と同根的な構造をはらんでいるように思える。靖国について、あまり考えてこなかったので、ここ1週間、ネットでいろいろな方の意見をのぞきながら、自分の頭の整理にかかった。

まず、靖国神社とは何者か?ということ。靖国神社設立は、明治期の廃仏毀釈運動の高揚により、神道が国家神道化してゆく仕上げとして、明治天皇の肝入りで建立された?明治政府公認の政治決定であった。つまり国事としての「国定神社」として、伊勢神宮や出雲退社ほかの神社とは明らかに「出自」が異なるということ。

次に靖国は英霊といわれる「日本の国家発展に優れた功績を残した英雄的存在」を祭っている。だが、一般に、軍国主義による政教一致に対する反発としての憲法20条、すなわち宗教と政治の一体化を厳しく断罪し、戦後分離したにもかかわらず、「公人−私人」参拝論などの狭隘に入りこんだ問題すりかえに終始しているのはなぜなのか?

さらに、英霊とは、西郷隆盛、東郷平八郎、乃木希介など、優れた人材にもかかわらず、祀られない英雄が一方では存在し、英雄である戦争戦死者ではなく、戦後裁かれたA級戦犯7名が祀られているのはなぜなのか?また旧植民地の「英雄」(日本人以外)の遺族、国内のキリスト者の遺族が、合祀の取り下げを願い出ているのはなぜか?

靖国神社は、一神社、いわば私企業である。それがある一定の基準のもとに、国の認可のごとく、英霊を差別なく祭り、英霊と考えるに値する「英雄」を祀らない。憲法違反問題を持ち出すことなく、私が公を代表していることが、公(政治)が公(宗教)と癒着した前近代の根を「私−公」に摩り替えることで、憲法違反問題を切り抜ける保守言論の知として機能している。

つまり、「公(政治)と公(宗教)」の一致は、憲法違反だが、「公(政治)と私(靖国)」の一致ならば、その「英霊追悼」機能という靖国の「公」機能は、私企業の行使において許されるのである。

首相参拝・「公人・私人」論争のばかばかしさは、内閣総理大臣という公人が、英霊を追悼する「私人」としての純粋な気持ちをもって参拝するという、あきらかな憲法違反を、「私人」としてなら許されるなどという詭弁の道を残したことにある。公人である首相が一私企業(靖国神道)の英霊参拝という「公」に参ずることこそが、間違いなのである。

公−公(政治−宗教)一致を公−私に機能を移管せざるを得なかった矛盾が、外面的な政治経済的近代化と内面的な前近代的「靖国参拝」政教一致機能との矛盾として、日本人の情緒に問い掛けてくる。

内閣総理大臣という「公職」を辞したのちならば、いくらでも参拝することは、もちろん「信教の自由」のもと、保障されている。ここに、気持ちが「私人」として純粋ならば、「公人」として許されるという非常に情緒的で、日本的な前近代的な非合理性が靖国信仰を支えている。

そして高橋哲也氏も強調するように、日本に長らくある「怨心平等」、敵であっても戦った後には敬意を払い、敵でさえも味方のように祀るという日本古来の「信仰」が、明治以降の国家統制において、勝利者のみ英雄として祀ること(選民思想・エリート主義)に、日本人はその精神的アイデンティティを求め、戦争被害国は、政教一致の象徴として靖国を軍国主義の[象徴」として問題視する。

小泉首相は、少し考えれば、このくらいのことはわかりそうだが、前近代的パーソナリティに染まっている人々からすると、この「情緒」を奪われることは、大変つらいことなのらしい。なんといっても。それは日本人の魂なのだから。中国も、韓国も経済的には確かに日本よりは遅れているかもしれない。だが論理性においては、はるかに日本より合理的である。日本は、論理性において靖国参拝の正当性を証明できなければ、国際的にはまったく「説明責任」を果たしていないことになる。

公機能(戦没者追悼)を私(靖国)に背負わせ、私人として公人参拝するというロジックを理解できるのは、日本の保守。守旧派の人々だけである。個人的には、情緒としてほんの少しは理解できるが、論理破綻をもって「滑稽」な論議にしかみえないのには困ったものである。

情緒(感情)から論理(理性)への外交転換、これこそが、「国益」をもたらしてくれるものではないのか?いたずらにある保守派議員のように「内政干渉」と叫んでみたところで、なんの有益性はない。またそれに賛同し、反中国を叫ぶコラムニストのようになったところで、新たな差別化を国内で促進するだけで、居心地は悪くなるばかりである。

日本人の情緒など、もはや何十億の世界の人々のわずか数百万人くらいの「日本人」にしかわからないだろう。島国根性から、グローバルスピリットへの転換。意固地になるとまた思わぬ黒船がくるので、それこそ気をつけたほうがいい。

情緒的な政治家を情緒的な国民が支えてきた。だが、時代は外・内交とも論理的かつ情緒的(共感性)の両面をもちえた優れた政治家を必要としているのだ。

6月12日(日)

先々週から、マンガ関連研究会のまとめのため、若者の家庭・学校・街頭行動を外面化としての「不良化」と内面化としての「おたく化」に分類し、読み分けた。

60年代の巴里夫、寺田ヒロオ、西谷祥子、60年代〜70年代にかけての永井豪、赤塚不二夫、70年代の本宮ひろ志、望月あきら、吉沢やすみ、とりいかずよし、庄司陽子、70年代〜80年代の高橋留美子、80年代の新田たつお、きうちかずひろ、吉田聡、もとはしまさひで、高見まこ、海老原武、紡木たく、釈英勝、80年代〜90年代の江川達也、90年代の藤沢とおる、松本大洋、井上三太、ささやななえこ、2000年代のももち麗子、森本梢子、水谷先生までを読み通した。

さすがに数百冊を読み通して、見えてきたことがあり、これを文章化し、著作にする作業に8月以降から入っていきたい。そのためには学校論、教育論、教師論の勉強に加え、現場の状況の取材にも入りたい。マンガに描かれた世界と現実の子供たちの置かれた状況はどうリンクし、どうずれているのか?

ここ1ヶ月、六法全書をとりだし、日本国憲法を前文から再読。それは97〜99条の「最高法規」としての憲法の確認にあった。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を追ふ」。憲法はこの国の最高法規にして、司法・立法・行政にその遵守を課し、さらに98条で、「その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」とする。考え方によっては、憲法各条文を書き換えてしまえば、為政者は「最高法規」の名のもとに「司法・立法・行政」の方向性すら規定してしまうのだから、その変更、特に9条には十分な配慮が必要とされるのは当然のこと。

性急に改憲するのではなく、また為政者や知識人だけではなく、時間をかけて私たちの間でも論議の輪がひろがってゆくことが大切。97条では、「基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、…これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とある。9条の改憲が、この「有事法」による基本的人権の否定につながらないことを望みたい。

そして小泉首相も国会で読んだ前文。「専制と隷属」「圧迫と偏狭」「恐怖と欠乏」からの解放は、「恒久平和」の維持努力のみならず、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とのこの文章の重みは、靖国問題、教科書問題、水域・領有問題、すべてにわたって他国との「粘り強い話し合い」にしかみいだせない。

日本・中国・韓国の研究者・実務家が共同編集した「未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史」(高史研)が発売された。政府レベルでは、ようやく、3国間(2国間)の歴史研究にむけての「合意」などの動きがみられるが、「新しい歴史教科書」(扶桑社)の「アジアへの加害をたなにあげて自尊意識をあおる」教科書・「自国のことにのみ専念して他国を無視してつくられた」教科書に危惧を抱き、さらに韓国・中国の自国にものその傾向があることを危惧した3国間歴史研究者は、3年前から「近現代史」のすり合わせを始めていた。

昨日落手し、今読み始めている。出だしの印象では、同じアジア、儒教的風土、共通文化圏から3国対西洋列強という印象だが、この図式のなかで、3国間の矛盾が拡大してゆくとの見方…。しかし、間違ってもこの本が、「反西洋」に傾くことはないだろう。読み進めてゆきたい。

6月5日(日)

昨日、とんデモ本学会に参加。真面目な英文法学者・副島隆彦氏が書いた「アポロ月面着陸はなかった…だろう論」が堂々の優勝。しかし、真面目な研究者ほど「狂う」とおそろしい。自然科学の知識がないのは文化系研究者の宿命だが、アポロが月にいっていないことを、なぜ畑違いの文化系学者が書かなければならないのか?

小学生でも知っている引力と重力の関係を大学教授たるもの、まったく理解していないことも露見。場内は爆笑の連続につつまれ、基本的な科学的知識が、まったく欠如していることがわかった。無惨としかいいようがない。

立花隆も、文化系だが、ニューサイエンスに傾倒し、現役東大生にその科学的知識の欠如を暴露されたのは記憶に新しい。文化系が科学系に口をだすと、「トンでも本」が生まれる確立は、限りなく∞である。

ついに石原知事が浜渦副知事の「公私混同」、都議会での「証言詐称」により、窮地に。「涙にくれて二人で泣き明かした」と雄雄しい知事が「女々しい」発言。マスコミの卑屈な「石原よいしょ・たいこもち」が、知事が弱みをみせたとたん、強気というかイジメにかかる。その掌返しにはあきれるばかり。ホントウにマスコミは怖い!いいたいことがあるのなら、記者会見できちっと質問するのが、記者の仕事ですね。「よいしょ」してどうするんだ。

政党機関紙を除く、ジャーナリズムでは「都政新報」のみが、特殊イデオロギーを強制する石原都政批判を展開してきた。「生理のあがったババァは、生きてる価値がない」などと語った知事にしては、往生際が女々しい。

石原ー浜渦ラインの都政、小泉ー飯島ラインの国政。攻撃されるとヒステリックに相手を恫喝してきた石原知事。攻撃されると開き直って論点をすりかえる小泉首相。中曽根さんに「靖国参拝」をやめたほうがいいといわれてもやめない「意味のない頑迷さ」こそ、自尊心の高い石原知事には真似ができない小泉さんの「世渡り」術だ。その行動と論理の矛盾はすでに破綻をきたしている。

5月29日(水)

まぐまパーティも無事終了。映画上映、演奏、次号・主演監督、松田&飯野&高橋監督の予告映像も上映。来場いただいた読者、映画関係者、絵画関係者、友人関係者、スタッフの皆さんの熱意と援助のおかけで、毎回楽しい宴を味あわせていただいている。これも、参加いただいた全員のパワーの賜物と感謝の限り。重ねて御礼を申しあげます。

『成果主義とIT』共著・(晃洋書房)がでる。これは、まぐま13号掲載の大衆文化の「完全版」というか、一部図や内容の変更をおこなっている。これは、「文化」を解釈するうえで、どうしても相反する事柄が、両方正しく考えられることから、同じ論文の内容が「変わる」という前代未聞?のスタイルをとっている。一義的な解釈はこと文化に関しては難しい。同じ論文の改訂版をだしてゆく作業は、新しいテーマに受け継がれてゆくのだろう。

今年から、来年にかけて、画家・ファッションリーダー・ナガサワ・セツの「研究」とNHKを一方的に解雇された小野耕世・龍村仁さんのATG映画「キャロル」事件の歴史的な掘り起こし作業をおこなっていきたい。二つの流れは、おそらく、サブカルチャ−が「サブカル」に移行する時代的背景を浮き彫りにしてくれるに違いない。

6月は学会の集中月間のため、ほとんどの土日が埋もれる。補講もあり、出張で出金も多い。7月末締めの原稿にむけて7月もほとんど忙殺状態かもしれない。

遊び心は多忙によって生まれる。

5月17日(火)

3日間にわたる恒例の大掃除をおこなった。編集作業と執筆にとりかかると、部屋が紙だらけ、資料だらけになり、おまけに、アニメ、映画、音楽関係のビデオ、マンガ、本、CDが散乱し、部屋の床は堆積物で歩けなくなる。それを片付けるのに、丸1日はようする。

今回は、ついに書庫が本でパンパンになったため、ダンボールに入れ、庭の物置に保管し、保管資料の週刊誌を大量処分、書斎棚の整理をして、難をのがれた。最近は、ほとんど本を買わなくなった。家から1分の図書館利用。新刊はリクエストする。マンガはマンガ喫茶、アニメはケーブルTVの録画、レンタルビデオを利用するようにした。これ以上のソフトの堆積は、キャパが許さない状況。

40を超えてから、本を読んで感心、感動することがなくなった。音楽が唯一、感動するメディアとなってしまった。フジロックの元ちとせのライブがよかったので、彼女のライブビデオを入手。入れ込んだ。ハイミヌカゼ1曲で、涙と震えがとまらない。

30代で世を去った二人の友人の合同追悼慰霊会を6月後半、7月前半くらいに催したい。二人の人生を考えた場合、現代社会を生き抜くことの過酷さをかみしめなければならない。心の病なら治る。しかし死んでしまってはもう、始まりは永遠にこない。

僕らは、この閉塞感あふれる退屈な人生、他人を省みることのない冷徹な社会を、人生の幕を閉じるまでの暇つぶしとして生きなければならない。だとすれば、少しでも楽しく、命を実感できる日々を送りたい。その実感は、一人一人にとって異なるものだろう。

そのためには、少なくとも国家権力によって再び、その幸福が奪われないよう、しっかりと権力を監視していかなければならない。

憲法99条は、為政者が国民をミスリードしないために、国民が国家権力をしばるために制定された条文である。それは「国民主権」の根幹である。

僕たちは、自分たちが、為政者を選ぶ「公権力」を持ち、為政者を縛る「権力」を法のもとに得ている自覚が薄い。今、僕たちは、この「国民主権」を、無意識のままに手放し、「お上」に再び、その力を返上しようとしている。

左翼も右翼もない。平和で自由な世の中にすみたいのは、全員の願い。僕たちは、「国家権力」をしばることができる憲法をもっている。だから、為政者はそれを変えたくてしょうがない。おそらくそれだけのこと。

5月9日(月)

4月は腰痛、歯痛、さらに眼痛のうえに、風邪っぴきで散々なめに。基礎体力が落ちているので、長距離散歩の趣味を再開。1回、10〜15kmくらいは歩く。足腰を鍛えなおしたい。

散歩は杉並区、練馬区に流れる地図にのっていない川を追う散歩である。大正時代、昭和初期の郷土地図を片手に幻の河川を追う旅は楽しい。先日は家のすぐ横を走る井草川の源流をもとめて縄文遺跡のある上井草谷まで歩いた。世田谷や多摩地域にも来年は進出したい。

昨日は、早起きして、杉並区と練馬区の堺にある南田中地域の「喜楽沼」を散策した。この沼は、いまは、バス停の名称で残っているだけで、沼はなく、喜楽沼ドライブイン、喜楽沼荘という使われていない建物がのこっているだけ。

その裏は、喜楽沼駐車場というかなり広い駐車場があり、きけば、戦後、石神井川につらなる沼地であったものが、釣堀に買取られ、経営破たんから埋め立てられて駐車場になったとのこと。沼地近くには、用水敷地なる歩道があり、細い歩道の下には今は使われなくなった用水がながれている。石神井川とのつながりを確認できた。

武蔵野台地はかつて無数の湧水地であったが、戦後の開発により井戸水のくみあげで、湧水は涸れ、河川は下水になり、小河川は暗渠化された。身近な自然が失われていった記憶は子供こころに深く、いま、その感情が郷土の土地探訪にむかわせている。

阿佐ヶ谷の南側には桃園川という河川がかってあった。今は暗渠化のため、遊歩道になったため、地図にのっていない。子度どものころ、おばがこの川沿いに住んでいたため、記憶にのこっているが、その川の深さは、こどもごごろに恐怖をもたらした。阿佐ヶ谷の七夕祭りを開催するショッピング通りを横に流れる川線の存在を旧い地図で発見。今はコンクリの長さ50cmくらいの板で上は、小路になっている。

昨日も、井草川に流れる支流跡を家の30m前で発見。家は高台にあるので、下側は昭和30年代まで田圃だったことがわかった。家のあるところも昔○○山と呼んでいた。

東京都内は実に起伏にとんだ地形。僅か40年前には、都内でも○○山、□□川といった無数の地名が残っていたに違いない。散歩と郷土史の趣味はますます深みにはまりそうだ。

4月30日(土)

マンガ表現試論の連載も4回めの草稿にはいった。マンガの「物語」とは何か?を追求するうちに、そもそも物語りとは、人間にとって何を意味するのか?問いが深くなり、収集がつかなくなりはじめた。

神話、昔話、童話に関する専門本をこの間、かなり読む。物語そのもの構造、キャラクターの象徴する意味、人間が言葉を用いて、その意思や感情を伝える際に、その内容を効率的に伝えるために、世界観とその発露である「物語」を利用しているという、シャノンの説に興味をもった。

情報はその確率が小さいほど、情報量が拡大する という「法則」は、話し手が、情報量が多すぎ、聴き手に多くの時間と労苦を費やさせることを考えたとき、あらかじめ、話を整理し、少ない情報で的確な内容を伝えるために、「物語構造」が整備されてきたということらしい。

だが、こうした物語は、現実との対応上、常に、流通する物語に違和感をもつものが、物語中にノイズをさしはさみ、また、あるものは、物語のコアをフィルタリングし、全く別ものに消化、あるいは昇華させてきた。

物語から読みとれる、人間に共通する価値観も、読み手がその「物語」に共感することで、増幅し、物語を支える思い込み(共同主観)によって固定化してゆく。物語は何も活字によってのみ作られるのではない。日々マスメディアによって流される映像、音声、知識人やら文化人の解説などから、現実を固定視し、意思の力によっては、何もかわらないんだという敗北的な現実感が蔓延する。

だが固定化された「物語」に、少しノイズをいれるだけで、また、少しフィルタリングするだけで、現実のでたらめで、為政者にとって都合のいいシステムの「物語」は、全くなりたたないことがわかる。今は、全体性の回復が、個を押しつぶす全体主義にかわるのか、個性の拡張が、社会全体をゆるゆるにしてしまうのか、瀬戸際にたたされている。その

全体性か個性、どちらを選ぶのか? という、二者択一の無意味な問いも、つくられた「物語」である。個と全体は、切り離されるものではない。全体性が弱まり、社会性が喪失されれば、弱肉強食の個にとっても大変、生きづらい社会になり、国家や社会の全体性が強ければ、個は育たない。

朝日新聞がついに、転換をみせた。保守、右派陣営から、日教組とともに戦後民主主義の「全責任」を押し付けられた朝日は、マスコミ、政治家からもたたかれる散々な存在になった。

だが、4月30日、朝刊からの連載記事「忍びよる統制」は、最近顕著なビラまきなどの、憲法で保障されている市民的政治的自由権を侵害し、逮捕する警察体制、石原都知事の「君が代」「日の丸」の学校現場への強制による反対者の「逮捕」強行による言論統制へのアンチメッセージとなっている。これは、先の太平洋戦争で、体制翼賛に奉仕した朝日の、戦後日本に対する最低限の抵抗と誠意とみてよい。

また、アイヌ問題、性同一障害問題などの、「人権」記事もめだってきている。70年代のような、元気のいい記事を朝日に期待したい。日本全体が保守化したなかで、憲法改正、教育基本法改正、そして個人情報保護法案で、がんじがらめにされるまさに戦争「前夜」なことを、今自覚している人は少ない。あまりにも、のほほんと 生きすぎたために、国家の危険な本質を忘れてしまったためである。

憲法改正基本法案、教育基本法改正案、個人情報保護法案、まともに字が読めれば、個を制限し、国家に従わせる内容なことは、一読瞭然。

憲法9条改正、集団自衛権の発動をうながす、「憲法改正」に反対する「憲法9条の会」が、大江健三郎、加藤周一、小田実、沢地久江、三木睦子、井上ひさし、らによって呼びかけられ、現在全国に1280の会が結成されている。先だっても、小室等らフォーク歌手有志が、ネットをたちあげた。

60年安保時で、全国に20万の会ができたことを考えると、このまま、早期に国民投票法にもちこまれ、30%代の投票率であれば、間違いなく、日本は、すすんで、交戦権を持ち、すすんで、有事をつくりだす側にまわってしまう。

国の提供する物語は嘘だらけだ。まず、そうしたつくられた物語にノイズをいれて、フィルターで、消去し、マスコミ、官僚、政界、財界の四すくみ日本の「物語」を、意識的に相対化していくスピードをはやめていきたい。

4月22日(金)

中国、韓国での反日デモが、かつてない規模で問題化している。それは先の大戦での大陸への日本の侵略、閣僚の靖国神社参拝による「歴史問題」、あるいは、日本海の海底油田、竹島の「領有問題」をきっかけに、突如沸き起こったかのようにみえる。

しかし、中国が怒っている核心は、日本政府首脳の「歴史認識」にあるとおもえる。中国が問題視している日本の歴史教科書・中学生向け「新しい歴史教科書」(扶桑社)をあらためて読み直してみた。

まず、気になったのが、まえがき にあたる「歴史を学ぶとは?」とあとがきの「歴史を学んで」だ。

まえがきでは、「教育は権利だと法律に書かれていても、国の生産が低く富が限られていた時代に、公平は単なる理想にとどまっていた」というくだり。戦前の法律では、教育は権利ではなく、義務である。国に奉仕するための義務であって、そもそも国民主権がないのだから、断じて権利などではない。権利として定められたのは、戦後の憲法と教育基本法によるものである。ここに、戦前にも「人権」「権利」が国民に付与されたかのような錯覚をあたえる。また国のためなら、「権利」など問題にならないのだという意図がみえる。

さて、次にあとがき、この文章は、読んでいて???が浮かんだ。

「学習し終えたみなさんは、日本人が外国の文化から学ぶことに熱心で、謙虚な民族であるかということに気がついたであろう」「今は、理想や模範にする外国がもうないので、日本人は自分の足でしっかりと立たなくてはいけない時代なのだが、残念ながら戦争に敗北した傷がまだ癒えない」「深い考えもなしに外国を基準にしたり、モデルに見立てたりすることで、独立心を失った頼りない国民になるおそれが出てきたことは、警戒しなくてはならない」

これは、本当に偉い先生が書いた「検定」教科書なのだろうか?

まず、謙虚であれば、隣国はあれほどまでに怒らないだろう(笑)。そして、自分が世界のトップにたったので見習う国がないという傲慢。傲慢でありながら、敗北した傷がいえないと自傷するナルシズム。確かに戦火をくぐった人々、沖縄戦、本土の空爆、広島長崎の原爆、北方、南方戦線、海外に移住した日系人差別…。傷ついたのは確かである。しかし、日本が先の大戦で侵略した事実は歴史から消せない。つまり加害者である事実は歴史から抹消できない。

だからこそ、憲法の理念が生まれ、アメリカに押し付けられたとされながらも、世界に類例をみない「不戦憲法」が生まれた。戦後日本の平和は60年続いたというが、国際法上はベトナム戦争からイラク戦争まで、日本は「後方支援」の名のもとに立派に「戦争」に参加している。国土が戦火にさらされていないだけで、他国の戦禍にはかかわりあっている。頼りない国民どころか、隣国にとっては、まさに警戒しなくてはならない国だ。

さて、中身については、歴史を専門としなくても、「???」が浮かぶ記述が多い。あげるときりがないので、その記述傾向をあげるならば、「先にやられたから、やりかえした」「日本がやらなければ欧米にアジアは牛耳られた」という認識パターンが随所にみられることだ。確かにアジアが、イギリス、フランスをはじめ、欧州の植民地になっていた事実、また日本がその植民地化を恐怖し、攻撃的防衛、つまり正当防衛をおこなったという論理展開は言葉の上では成り立つ。

しかし、歴史はそれを「過ち」として位置付ける。「新しい教科書」を書いた先生方は、ドイツのポーランド侵攻、その後の侵略行為、ジエノサイドを「戦争犯罪」として認定する。ならば、なぜ、自国の行為だけは、「正当」なのであろうか?それがわからない。(それは自分のことではないからだろう)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

さて、このような疑問こそが、そもそも自虐史観だと思われる方も多いのではないか?

中国は、60年代は反米、70年代は反ソキャンペーンを展開、80年代は資本主義経済路線・開国開放路線で、社会主義一党独裁政権死守というお国事情もあり、常に外敵をつくり、富の再分配にて国内をまとめるという政治手法をとりつづけているのも確か。日本の国力の伸張、日米安保の憲法侵害という変遷を、国民の反日キャンペーンに利用していることも確かであろう。そして、下半身の資本主義経済、上半身の社会主義統治が、天安門事件での市民弾圧の教訓を、中国共産党内部にむかわせないように、外敵にむかわす。

中国はそろそろ限界にきている。政治的に開けた多元主義、議会主義を、複数政党制のもとに導入し、選挙権を国民にあたえ、下半身の市場経済(自由経済)につりあった上半身の自由主義統治をいれなければ、その国民の格差、不満、矛盾を「反日」だけにむかわすことはできない。中国では、いまようやくブルジョア革命が待望される時期にはいったのである。

日本は国益をあげたいのだろうから、こうした中国の事情を把握した上で、中国の市場経済化をとおした「民主化」を支援する立場を堅持したほうがよさそうである。

オリンピックと万博で、世界の桧舞台にたつ中国、その姿はまさに、東京オリンピックと大坂万博で、再生をアピールした日本の姿に重なる。そして反日デモで暴れる中国国民は、かつて反米デモで暴れた日本国民の姿にかさなる。

みんな豊かになりたい。豊かになれば、意固地にならなくてもすむ。「文明国」であるならば、他国への恫喝、暴動はマイナスイメージとなる。

日本と中国との間の「歴史問題」には、歴史認識問題に隠れた「豊かさ」をめぐる心裡問題があるような気がしてならない。加害者が豊かになり、被害者が貧しい。そうした戦争被害者・中国国民の立場にたてば、「加害者」を許す気持ちにはなかなかならないのではないか?

だからこそ、土下座外交を日本が何度したところで、靖国参拝、教科書問題で、言葉とはうらはらに体を翻しては、信頼はますます遠のいてゆく。その意味で「新しい歴史教科書」は、まったくもってより「旧い歴史教科書」として、隣国の怒りを触発するのである。日本政府、本心「今日も反省なし」と、日記には書いておこう。

4月18日(月)

ブログのほうの更新にかまけて、日記の間があいてしまった。

日記を書き始めてから、もう4年近くなった。この間、知り合い、見知らぬ大勢の方から、メールをいただき、それがきっかけで、交流が始まった方も多い。

ありがたいことに、専門家の方から、知識不足や憶測を指摘され、再度参考文献を教示いただいたりした。特に北欧の政治体制について、各国の違いや、微妙な国民性の違いについて、目を開かせていただいた。お詫びも礼状もずいぶん送らせていただいた。

環境問題で、他誌で連載していた私のテキストを読んで、メールをくださった大阪市立大の山中由紀さんには、後に「環境まぐま」の編集長をお願いしてしまい、「まぐま」が大阪市大のテキストに採用されるという幸運も授かった。環境社会学者でまぐまに執筆いただいている吉本さんと共通のお知りあいが関礼子先生ということもあった。

政治的な発言も多々あるため、「偉そう」「説教っぽくていやだ」「自分を棚にあげて」との率直なメールも多数いただいたが、なぜか、読みつづけていただいているのが不思議でもある。

自民党関連の憲法調査会の最終報告がでた。ネットで内容を確認したが、平時よりも有事の保障、市民的政治的自由の制限と公益の優先、社会保障の自益者負担の推奨と、憲法の基本的人権そのものの制限を、そこに感じざるをえない。

国民は、ほとんど、改憲で、日本がどうなるのかも知らない状況で、国民投票法を制定しようとしている与党の動きは、基本的人権が憲法の総則において規定されているため、憲法さえ変えてしまえば、細部にわたる法律条項、人権を配慮しないでいいという危険なレトリックも成り立つ。

自民・民主の若手議員は、わたしと同じ40代が多いが、格差社会と戦争のできる「普通の国」に賛成するものが多く怖い。おそらく、議員の親の世代は、戦火を潜り抜けてきた世代だろう。その子供たちが、「戦争」はいたしかたない。「集団的自衛権」やむなし。という。また、社会を破壊して、そのあとでセーフティネットをつくり、「弱者」を救済するという。だから、格差は自由競争をすすめる上で仕方ないらしい。40代議員は、自分の子供に「格差」と「戦争」を味あわせることができるのだろうか?議員はそもそも、特権を駆使して逃げるのだろう。

子供が悪くなったのは、日教組の責任、財政破綻したのは、70年代革新自治体の責任と、40代の保守系議員が声高にいいはなつ。怖い。戦後教育が悪いのは、こうした言葉を平気でいい放つこれからの日本の舵取りをする与党若手議員を生んだことにある。悪いのは日教組だけではない。舵取りをする議員だからこそ、私たちを不安にさせる言動、行動はつつしんでもらいたい。

日本は世界で稀に見る成功した社会主義の国だ。自民若手議員が、平気でこんな政治学のいろはをしらない発言をする。そもそも、社会主義、共産主義の「概念」すら、彼らは知らないのだろう。経済学的な資本論と市場経済論、国有化論、法律学的な所有論、労働論、政治学的な統治論、社会文化的な自由論、文化芸術的な美学論、倫理学、道徳的人間論、様ざまな議論が入り組んだなかで、その概念は「規定」されている。

旧ソ連が世界ではじめて制定した、8時間労働、男女賃金均等、教育費、医療費の全面国家負担…。欧州各国は、その理念に近づくことで国家を運営してきた。日本では、いまだにどれも、実情として近づけないばかりか、遠のいてゆく。

これが、はたして成功した社会主義なのだろうか。日本は?

皮肉にも、ソ連は、理想と悪夢の同居した恐怖政治で、人々の自由と生命を奪い、国民に労働の強制をしいた。旧ソ連の悪夢は、受け継がなくていい。日本が「成功した社会主義の国」であるならば、理想だけを受け継いで、憲法前文の理念を、議員の「自己責任」をもってすすめ、国民を幸福にしていただきたいものである。政治家の仕事は、それ以外にない。といっておこう。

4月4日(月)

ようやく編集作業が一段落した。徹夜と脱力で、体調も下降気味。

昨日は、イラストレーター、画家で活躍の渡辺洋子さんの個展にゆく。彼女の絵は内なるエネルギーに満ちていて、絵そのものがパワーを放っている。それはサイコパワーなのであるが、Mr.マリックがやってるようなものではもちろんない(笑い)。心を元気にしてくれる力なのだ。

癒しでもなく、みるだけで元気が沸いてくる。不思議な絵。

その足で、アールデコの代表的なアーティストのルネ・ラリック展にゆく。その細かい仕事に驚嘆。ガラスの美しさは色や形、光に対する透過度だけではなく、細工、文様、造詣にありと再認識した。その前のエミール・ガレ展、ミュシャ展を見逃したため、今度は必ずみるぞと決意をあらたにする。

編集終了とともに、批評の原稿に着手。「はだしのゲン」を読み直す。

このマンガは、単なる原爆マンガではない。原爆を介在させた戦争批判であり、戦争をおこした為政者批判であり、戦争をとめられずに助長した国民批判にみちている。原爆被害のリアルさは、物語がすすむなかで、人間の心の弱さ、醜さをあらわにする。日本初の英訳マンガに78年にはなり、ロシア、韓国でも出版。インドネシア、タイ語にも翻訳中である。

「はだしのゲン」の社会性の強さは、各方面で賞賛と批難を巻き起こし、73年以来掲載していた集英社はその連載継続を断念する。その後、小田実らのオピ二オン誌「市民」(1975〜76年)、共産党の「文化評論」(新日本出版社)(1977〜1981年)、「教育評論」(1982〜1985年)とその連載誌を変えたのは、オピニオン・イデオロギーの時代からポピュリズム・コンシューマリズムの時代へと、漫画が大きく傾斜してゆく時期に重なってゆく。

一般に広く大衆に影響をもつマンガが特定の「思想」、「傾向」を強くしたとき、すでにエンターテイメントはなりたたなくなるのである。だが、中沢啓治の「はだしのゲン」は、何も特定の思想や傾向をもつものではない。リアルな真実と体験に根ざした物語、怨嗟と怒りが、そこに描かれているだけなのである。戦争の事実が、「イデオロギー」として怖がられ、避けられてゆく傾向が、すでにマスコミに浸透しはじめていたのであった。

この戦争の「真実」を戦後、子供たちの前から隠した「イデオロギー」に対する反動として、戦争を「特別視」する傾向の「歴史教科書」(扶桑社)が生まれるにいたり、戦争被害者である隣国の怒りもピークに達した。

中沢啓治が「はだしのゲン」で南京大虐殺にふれ、原爆から戦争へ、そして戦争をする心裡にまで迫ってゆく態度は、マンガ史上、特筆に価する。既存の原爆小説、戦争小説のいなんと生温いことか。

3月24日(水)

予想通り、ライブドアの連勝で、ニッポン放送はライブドアの経営参加を拒否できなくなった。中島みゆき、市川森一、…様々な大物が、ライブドア「ニッポン放送」には、出演できないとの報道がされている。

しかし、ニッポン放送社員のTVインタビューを聞いて感じるのは、赤字体質に近い企業運営にもかかわらず、平均年収1160万円という金融機関なみの「異常な」高収入への執着である。庶民からすれば、零細で200〜300万円、中小で300〜500万円といった給与体系である「大衆」へむけた従来の「報道」姿勢は、フジサンケイグループ特権階級の「あがき」にしかみえない。本音は貧乏人になるのは「いやだ」である。

ライブドアが参画すると、まともな「報道」はできない。本当か? 長年ニッポン放送を聞いている自分でさえ、その番組に文化放送、TBSと較べても「政治中立性」に疑問の姿勢を感じざるを得ない。また、他2社と較べてもラジオのもつ特性をいかしきれていないと思うのは私だけか?

ニッポン放送社員には、自分達が「まとも」な放送をしているという自負があるらしいが、労働組合なき「高年収者」たちが、他企業よろしく、ライブドアを恐れ、労働組合をにわかに結成するのは「戯画」的であり、自分達の既得権維持にしか映らないのは、滑稽である。

かつては、民放労連も、産業別組合志向の旗高く、自企業の利益さえよければという時代ではなかった。政治家、官僚、マスコミの特権性は、情報と金を多く手に入れ、取捨選択する自由度が高いことを意味する。金持ちはしょせん、金持ちのための報道しかしない。これは、政治家も官僚もおなじこと。

東武鉄道 竹の塚踏み切り事故、あそこの踏み切りは仕事で何回も通った。ある種の「開かずの踏み切り」である。これも、もうずいぶん前から、「危険」なので「高架工事」をの話がでていたが、850億円もの予算捻出に、鉄道会社がふみきれず、手付かず。足立区は「革新」吉田市長が、再選をかけて、この「踏み切り高架」を公約に掲げていたが、区議会自公与党に、つぶされたいきさつがある。

政治と金はくっつき、報道と政治はくっつく。庶民は何も知らされず。

西武鉄道高架問題。環八が渋滞し、井荻と今の高野台駅のところを一気に高架化したのは、もうずいぶん前。これも、長年の住民運動の成果である。西武鉄道は初期のころ、「金は一切ださない」と区や都や住民へ負担を押し付けることで、「公共の利益」よりも「私企業の利益」が上との考えを崩さなかった。

それが、最終的には、西武ですら資金を一部負担することになった前例がある。足立区の例は、弱い立場であり、また踏み切り使用者である住民が、自ら運動し、それを理解し、助ける政治家に働きかけて解決すべき問題であった。予算は「弱い」立場のものへは、黙っていたらけっして流れない。

石原都知事が、排ガス規制違反のバスを、都が地方へ売却29台したと、おかんむりである。残り100台以上は廃棄処分。しかし、このバスは我々の「都税」で購入したもの。ゆってることは「正しい」が、経済観念で考えるとおかしい。そもそも、欠陥車をつくったメーカーとだまされた都が「おばか」なわけで、都知事の「環境意識」には敬服するが、地方自治体が、安く購入したいのであれば、それもいいのではないか?自分達のことしか考えていないのは、ニッポン放送社員同様である。我々の都税は、また無惨に使われてしまった。

ライブドア、果たしてマネーゲームか? フジサンケイのような年寄りに支配されるよりは、若い支配を受けたい。同じ資本主義ならフェアな支配を受けたい。自由競争万能であるならば、敗者やそもそも競争に参加できない弱者を資本主義はどうしてゆくのか?フジを古き資本主義、ライブドアを新自由主義とすれば、グローバリズムがセカイ的価値観として定着した今では、古き良き「日本」はなくなる。それが時代の流れだ。

ライブドア、テレビをネット事業の金儲けにしか使わない。と皆が「疑っている」。堀江さんが、どれほど、私企業のためではなく、公共の利益に「電波」を利用するのか?やってもらえばいい。ニッポン放送を、フジテレビを、サンケイ新聞を、年収1000万円以下の「大衆」に希望をあたえ、貧乏人のための報道をするメディアにして欲しい。それは、情報の全面開示であり、国家や金持ちの利益となる情報操作をしない、この原則が必要。

期待は全然していない。できたとすれば、私は心底、彼を尊敬するだろう。これこそが、報道の革命だ。

3月15日(火)

先週からパソコン、CONPACがおかしくなり、復旧するまでに時間をとられた。また編集用のマシーンのVAIOも故障し、丸2日、仕事がとまってしまった。どうやら、もともとリソースが少ない上に、メモリーを多くしたので、マシーンのバランスがくずれてしまったらしい。

無事、復旧。

確定申告にも追われ、本日、修正版を無事、提出した。3月は原稿が、あと1本、編集作業、研究会報告と忙しい日々。土日がすべてつぶれる。

6日から従姉の吉田美和子の人形展がはじまった。京都・昔人形青山には、18日に行く予定。観光するにも金が足りず、研究会と展示会で2日間を過ごしたい。

東北ドイツ文学研究 がとどく。自分の執筆分担を読む。うーむ。「学術誌」ということもあったが、も少し肩の力を抜いて書けばよかったと反省。ドゥルーズを哲学的に揶揄したドイツで人気のマンガ「ハロードゥルーズ」に関する書評なのだが、他の方のものを読み比べるとなおさらである。

3月9日(火)

戦後60年、オウムサリン事件から10年、このふたつの節目を思うとき、最近、顕著になった従来の政治文化、社会状況の激変を強く感じざるをえない。かつてはその激震地はソフトバンクであったし、現在はライブドアの「挑戦」として現れている。ソフトバンクは日本の閉鎖的な市場性を、はやくから警告し、自らが「マーケット」をつくりあげることで、財界への強い影響力を獲得した。ダイエー球団を買い上げても、なんのアレルギーもなく成功した。それは、すでに、その手法がマーケットで評価されたためである。

ライブドアは、プロ野球問題で、読売の「ナベツネ」を撃沈させ、今回はフジサンケイグループの影響力を、結果的に弱体化させるだろう。フジ・サンケイグル−プ・サンケイ新聞を、「自由社会の広報新聞」「反左翼新聞」ではなく、日本経済新聞に対抗する「済新聞」の復活にあるという、堀江社長の構想には、戦後60年で作り上げられた硬直し、既得権益に固持するメディアのへの大改革の視点があり、面白い。

経済情報を日経が独占するのはおかしい。というのは堀江氏の考え方であり、「読売・サンケイ」という保守政治を支えるイデオロギーの一角が揺らぐことは、日本社会のために大変有益である。あまり大きな声でいえないが、別の意味で、S学会の強い影響下にある毎日、「朝日・毎日」の「平和社会の広報新聞」の一角も崩して欲しいものである。

だが、堀江氏の背後にあるといわれている外国資本の脅威から、国独資(国家独占資本)が一丸となって「会社」を守れという、フジ=ニッポン放送の「ナショナリズム」にも賛成できないし、さりとて、市場を青田買いする外国資本によるグローバリズムにも賛成しかねる。

SONYが、初の外国人CEOを選出。外国資本構成率が高いため、80年代以降、国内企業からは冷たくされ、国内の銀行からの積極的な支援をうけづらかったため、SONY銀行の創設に踏み出さざるを得なかった。ここからみえることは、SONYは、いい意味でも、悪い意味でも、とうの昔にグローバリズムとナショナリズムを癒合させ、世界企業に成長していたことを意味するのだろう。

SONYと対照的なのが、西武・コクドグループである。家の利益と企業利益の一体化したところで、その悪質な「方法と手段」が時代の変遷のなかで重大犯罪に発展した。

ライブドアとフジ・サンケイグループ。SONYと西武。時代の流れは、どちらに加勢するか明らかである。

司法がどちらに軍配をあげるか?この裁定は今後10年の日本のあり方を強く既定するだろう。

同じ支配を受けるのであれば、保守的な「ジジイ」たちの支配を受けるより、若い「セイネン」の支配を受け入れることが得策である。

森元首相は、堀江氏を「金さえあればなんでもできるんだといった戦後教育が生んだ問題児」といい、中山文科相は「ニートは、競争をいけないものとする戦後教育が生んだ」といった。

日本の為政者には、自分達が「そうした政治をおこない、そうした社会にし」、「競争をあおりながら、なおかつ競争が足りない」という「イジメ」をしつづけていることに全く、気付いていない。愚直である。

保守政治、日本社会を根底から揺るがすもの、それはニートであり、ひきこもりであり、登校拒否児であり、パラサイトシングルであり、おたくであり、やおいであり、子供を上生まない女達である。

時代を牛耳る保守政治への「復讐」は、もはや政争をこえて、経済・社会・文化を根底から揺るがしている。サブカリストは、そうした状況を見守り、促進させることに協力しつづけることで輝く。こうした時代に生き、今、これから既成の文化を崩壊させる本当の「世紀末」文化の到来を予感する。自分もそうした目にみえない隊列の一員でありたい。

3月1日(月)

まぐま編集会議終了。クラシックを筆頭に、フォーク、ジャズ、ロック、民族音楽、各ジャンルがつどう。またフジロックフェス、ロンドンライブハウスレポートなど、充実した内容。特にクラシック対談は、荻原・梅田両氏の専門性とあいまって、音楽の域を越えた文化「批評、評論」論にまで昇華されており、音楽にかかわらず、その思考の範疇は、あらゆる分野にも汎用性の高い原理的な考察となっている。

クラシックが既に「終焉」している学であれば、マンガは比較的新しい文化であるがゆえに、「アカデミズム」からはじきだされた「学」足りえることが困難な状況にある。すでに大学機関が、教養と啓蒙から離れ、実業にその生き残りをかける状況に拍車がかかっているもとでは、そもそもテキストクリティークたる学は先細りしてゆくだろう。マンガも例外なく、産業は残り、ビジネスとしての大学教育としては残るが「学と言論」は死滅する可能性が高い。

その意味ではクラシックとともに、文学もその命を70年代に終えたといっていいだろう。現在流通している「文学」はエンターテイメントと究極の「私」小説だけ。もはや文学は同人誌にしかない。「セカチュウ」とは「自己中」の裏返しの世界観にすぎない。

3月の大学評価学会では、こうしたサバイバルゲームを繰り広げる大学、研究機関の評価をめぐって、先鋭的な議論がなされる。マンガと大学というテーマを考えてたとき、すでに、「学」としてのマンガは、隣接する絵本学やアニメ−ション(日本のアニメを含む)との連携を抜きにしてはあやうい。マンガはアカデミズムに利用されているが、バカにされているのが現状である。

マンガは読むものであって語るものではない。また語ることができたとしても、書く意味はあるのだろうか?この読む→語る→書くの隙間に、大衆文化としてのマンガの悲哀がある。大衆文化とアカデミズムを融合させる気合は、まぐまという雑誌を超えて、学としてのマンガを成立させる悲願に重なってくる。

でも、そのほうが、きっと面白いという程度の意気込みなのだが…。

墓場を探すクラシック、ゆりかごからでたばかりのマンガ、こうしたものが同居するまぐまという雑誌は、まさに現代という時代の精神性を象徴しているのだろう。

2月20日(日)

mixiのブログを始めたので、日記をそちらにうつそうかと考えましたが、こちらは少し考える、いつもの日記で、ブログは、日常の雑記みたいになりそうです。

このmixiはコミュニケーションツールとして、不特定多数者による「アラシ」や「イジメ」を、あらかじめ友人、知人のみ招待され登録されるという、紳士的なツールとなっています。登録者でも、閲覧拒否をパスワード操作一つで、できる。コミュニケーションを深めるにはかなり使えるものと面白がっています。

「大衆文化概念の再検討」の原稿、16000字分終了。後半部分があるが、とりあえず、終了。いつも勉強して書くというよりも、書きながら勉強するので、活字になったあと、書き直しをしたくなる。しかし記録として考えた場合、それでいいのかもしれない。不完全主義。

レディズコミックの編集者の方々と、3時間あまりの親睦会。漫画家と編集者の微妙な関係、売れる雑誌のコツや、少女マンガ家とレディズコミック作家の違いなど、興味深いお話をきけ、勉強になる。

ヒロシの二ュ−バージョンをはじめてみる。うーむ。面白くない。自虐ネタが単なる悩みネタになり、ひねりが足りない。ヒロシ、ピンチ。ギター侍もパワーがややおち。安定しているのは長井さんだが、すでに青木さやかは、司会にうつったようだ。友近は面白いが、青木の新ネタは笑いがおきない。

いろいろと考えることが多く、へタレ系からナヤミ系に。歳とともに、ナヤミの質が変わってくる。青春の悩みなど、本当に贅沢なものだったと、邂逅する。

ライブドアとフジTVの対決。FUJIサンケイ的言論にも嫌気がさすが、ライブドアの影の外資も警戒する。ようするに保守政治とグローバリズムを嫌悪しているだけなのだ。

アルタナティヴは芸術の世界だけのお話なのか?、政治における第三の選択はないのか。

2月17日(木)

自分の原稿執筆とテープおこしにおわれる。昨日、まぐま表紙のイラストの件で、画家の丸山幸子さんと打ち合わせ。線と面と色の話で小一時間盛り上がる。表紙の構想、グラビアの絵も決まり、書き下ろしをいただけることになる。音楽本にふさわしい表紙に期待大。

放送大学の「表象文化とメディア」での渡邉守章、浅田彰両氏の講義が、深みと知識の豊富さにおいて大変勉強になる。グーテンベルグ以降の文化をマクルーハンを引き出しに、言語、文字、映像文化の厚みととらえ、グーテンベルグの印刷の発明が、キリスト教のスペクタクルからリニアな黙読(内面の創造)をもたらしたとするあたりの説明は、終始関心する。

また写真に対するベンヤミンとバルトの対比的説明も見事で、ベンヤミンの写真論は読んでいたが、バルトの写真論も読んでみようと思いたち手帳に書き留める。図書館にあればよいのだが…。

体調が悪いが、クリームシチューが食べたくなる。が、また気持ち悪くなるのはいやだ。固形ルーをいつもの1/3にし、代わりに豆乳と牛乳を3・1の割合で入れる。こうすると固形ルーの油分が少なくなるので、あっさりとした味になり、実際油も少ないので量も食べることができる。

もずく酢にみりんをいれてみる。あの独特のすっぱさが消え、適度な甘さがで、おいしい。気がつくと酢の物を取り忘れるので、これからはこの手でいこう。

最近読んだマンガ 西原理恵子「ぼくんち」カラー版、紺野キタ「SALVA ME」、志村貴子「放浪息子」1〜2巻、ホラーコミック「呪怨」 

U・エーコ「物語における読者」読み進まず。

知り合いが40代ではじめてのパパになる。うーむ。身につまされる。どうするか。子供が二十歳になったら自分はもう年金暮らしか(笑い)。人生の時間は早い。

2月14日(月)

上條淳士の「SEX」が3・4巻と立て続けにでる。しばらく読んでいないため、「8」のストーリーとごっちゃになり、また最初から読むはめに。情けない。記憶力の減退がすすんでいる。「BAKI」最新刊を読む。最近緊張感がない試合が多い。マンネリといえば、マンネリだが、勇次郎のバキ化が気になる。妙に人間くさい。

アニマックスでハンター×ハンター、幽☆遊☆白書の再放送がはじまる。またみてしまうだろう。ファミリー劇場の七つの海のティコも再放送するたびに、みてしまう。林原めぐみの声に無意識に反応する自分が怖い。ミンキーモモ、スレイヤーズ、らんま1/2と1日に林原ワールドが4本もやってる月間には、アニメに振り回される日々が続いた。

この歳で、声に「萌え」てるのかと、ガクッとくる。あとはやはり喜久子さんだろう(笑い)。癒される。

ギャラリーグラナダでの「絵画展」 内宇宙の鼓動 展 前半 遊亀組 終了。吉岡孝悦・塩浜玲子のデュオによるマリンバ演奏、坂本桂寿子のオペラ独唱の合間にみる絵画、オブジェの数々。根橋洋一氏の妖しくもさわやかなエロス漂う少女、丸山幸子氏のめくるめく細密描写は、イスラム的であり、縄文的でもあり、不思議な心象を抱いた。

家業の確定申告終了。個人の確定申告にとりくむ。国税庁のHPからの入力エラーが解決できず、仕方なく手書きではじめる。やれやれ。

大衆文化を、美術史眼でみると、ルネサンス/バロック/ロココは、ギリシア・ローマ/ロマネスク/ゴシックの反復であり、オリジナルをめぐるコピー史のバリエーションの一展開であるような気がしてきた。

大衆文化において、メインカルチャーに対する芸術運動、アバンギャルド、ダダ、キッチュ、サイケは、オリジナルに対する破壊と創造、新たなオリジナル追求にあった。60年代の対抗文化も基本的には、オルジナル追及である。ミニマリズムとポップアート、この60年代の芸術運動は、コピー的援用をおこないながら、オリジナルを創造したため、オリジナルとコピーの価値観は、消滅した。

サブカルとポップ。オリジナル追求にあったサブカルとコピー命のポップの間の、亀裂はでかい。もはや、経済市場における商品としての芸術、美術は、サブカルとポップの差異すらもない事実に、狭苦しい対立は意味をもたない。

文化は真似ぶ(学ぶ)ことから始まる。模倣し、血肉化し、オリジナリティの中にコピーは生き、コピーのなかにオリジナリティは存在する。もはや、盗作問題は、芸術的な問題というよりも、著作権の問題である。

2月8日(火)

体調が悪化。めまいのため、寝るはめに。年1回、めまいがあるので仕方なし。

昨日、小川さんと吉本さんと、マンガ関連図書の、第1回位置合わせ。おたく、やおいの現状、具体的な現象を吉本氏より説明いただく。帰りに紀伊国屋で、はやりの萌え系マンガの解説もいただく。セカイ系と萌え系の出会いは、今後、どのような世界観をつくっていくのか?楽しみである。

某音楽専門TVの方から、fra-foaの関係者特典BOXをいただく。今も、開封するかやめるかまよっている。まさか、ちさ子のフギュアははいってないだろうと、冗談のつもりが、マジに伝わる。…でも、けっこう入ってたらうけたかもしれない。地味なバンドだからぁ。fra-foaは。でも透明感あるちさ子の歌は好きだ。

ちなみに、最近、サンボマスターの広告が、新聞にもでかでかと掲載され、驚く。そんなバンドではない(笑い)

フランス、イタリア、デンマーク遠征で、人気を博したバンド、ズビズバの高橋秀樹氏と再会。といっても、自宅におしかけてしまったのだが。民族音楽のLDをみせていただき、解説をうける。前にあったのは、もう15年前。可愛い娘さんと息子さんとの生活で、学生時代は、お互いに神経症気味であったが、彼はいいパパになっていた。3歳の息子さんを抱っこして、地震ごっこをして遊ぶ。遊んでるときは子供はかわいいのになぁ…。

60年代に活躍したデザイナー、ナガサワセツに非常に興味をもつ。花井幸子、金子功、浜野安宏、川久保玲。山本耀司、渡辺雪三郎、金子国義、四谷シモン、上野紀子…そうそうたる弟子達を輩出している。先日、セツのお弟子さんにインタビューしたのがきっかけ。

セツは会津若松出身で、私の母、父方にゆかりの「同郷人」に親近感をもつ。そういえば、タイムボカンの笹川ひろしさんも会津の出身。共通しているのは、幕末獅子的な、硬いイメージの一方、底抜けのユーモアセンスがあることだ。志村けんも会津がルーツなので、納得する。

セツについて、将来的にまとめて書いてみたい欲望にかられる。それは、自分にとって寺山修司とならび、60年代文化の扉をあけてくれる鍵となりえるのかもしれない。

2月4日(金)

ようやく1週間にわたる冬場恒例の風邪も峠をこえた。ここ3日ほどの寒さは都内でも底冷えするほど。

昨日、セミナーでNPO法人地主家主協会の方の話をきく。都内には4000人のホームレスがいる。内2000人は、なんと仕事をもっていることが判明。会社倒産やリストラ、自己破産、離婚…様々な理由で一時的に住居をなくした人々だ。おまけに、若年層、女性が急増している。このような人々が家を借りるとき困るのが、保証人の引き受手がいないことだ。

地主家主協会では、なんの手立てもなく、強制的にガード下や、新宿地下街からホームレスを退去させた東京都の依頼をうけて、こうしたホームレスに部屋を提供してくれる家主を探している。2000人のうち、400部屋は現在確保されたそうだ。

独身者の女性のマンション購入が長期的なマンション市場を活性化させている。。独身者の賃貸居住者は、親や兄弟、親戚…など、年取るにつれて亡くなって身近な保証人がいなくなる。何かあったとき、収入と蓄えがなくなり、家賃滞納や、取り壊しによるアパートの立ち退きなどが、発生しようなら、確実にホームレスである。

女性は男性よりもこれからはより、現実的な話である。

40〜50代の独り者は、老いにそなえて、住居の確保、健康保険、病気。怪我による入院時の日額保障、最低この3つ。そして、老後の年額生活費×予想生存年数分の蓄えが必要になる。

心配なのは若い人で、若いころは病気知らずで、フリーターで健康保険にも入らず、生命保険にもはいらない。おまけに年金もはらわず、将来も健康であることを錯覚している人が多いことだ。また40歳で、貯金が全くない人々も多くいる。

120万人NEETだ。1600万人パラサイトシングルだ。50万人引きこもりだ。30万人不登校だ。こうした人々が日本をだめにするなどと政治蚊(ぶんぶんと耳障り悪くとびまわる、税金と言う血を吸う虫)、役人はいうが、こうした人々が老齢化したとき、憲法で保障される最低限の文化的生活をいとめないものが、膨大な数にのぼるだろう。そのときですら政治蚊は、まだ吸血行為をやめないだろう。

社会構造が激変しているのだから、システムを労働集約型から、分散型に、日本もアメリカ化し、貧富の差の拡大が必至であるならば、金持ちから税金を多くとり、冨を貧しいものに再分配するのは、あたりまえのことである。そのほうが、国の安定、長期発展にとってはいいのはなおさらである。現状は全く逆に振れているのだが。

我々の世代が年金を受給できるかどうか、非常に厳しい世代となっている。サラリーマンなら年金は否応なしにとられる。自営業なら、任意であるが…。現在受け取る金額よりも払う金額が多いとわかっているなかで、誰もが払いたくない。社会保険庁の犯罪による年金財源の浪費により、NHK料金未払いの論理に似て、この制度の崩壊は目にみえている。結局、小泉は何もしなかった。それどころか、いよいよ公約撤回の増税である。

国の税金や年金を食い物にしてきた「政治蚊」や「官僚」には、できるだけ、金はだしたくない。その分、将来設計を含めたマネープランを策定し、年金にたよらない貯蓄、資産運営をおこなうか?個人努力でいったほうがよい。

それとも、国や官僚の不正をただし、嘘で固められた財源資料にメスをい入れ、税金や年金が、保守政治蚊や公務官僚の私腹をこやす手段にされるのではなく、少しでも公共の福祉に使用され、市民の生活のために使われるほうがよいのか? 

私は、税金使用をこうした将来の不安を無くすセーフティネット構想、または福祉国家戦略におかれるのであれば、払いたい。ただ財源確保のため、国の浪費の穴埋めのために何の反省もなく、努力もない政府の運営が続くのであれば、暴言であるが、脱税ですら「正義」となる。それには保守政治の解体、国民主権の確立が必要だ。

税金や年金は、政治蚊・官僚だけに食い物にされているのではない。癒着企業との三位一体によって、くいものにされている。田中康夫知事によって暴かれ、その旧体質は長野では解体された。

こうした保守政治蚊に国をまかせているのだから、相談いただいた方でも、多くの人々はマネープランはしっかりしている方が多いと思いきや、国だのみで、いざとなったら「おかみ」批判では、情けない。とにかく、国などにたよったら悲しいめにあう。そこからしか発想はスタートはしないだろう。マネープランはヘルスプランとともにライフプランの基本であり、その上にはじめてワークプラン、ファミリープランが育つのである。

西武の個人大口株主による訴訟がおきる。3000円以上の株を20000株以上購入し、株価激下で、3000万円以上の資産の目減り。山一證券のときと同じ。ゴルフ会員権も同じ。株に資財を投資する基本的な過ち。訴訟もいいが、株の性質を理解していないとしか思えない。株は昔も今もギャンブルである。余裕資金で増やすのが常套である。南無阿弥陀仏。

1月30日(日)

まぐま13号の編集にはいる。とりあえず、作品ごとにファイルをつくる。Tさんのインタビュー原稿の校正に入る。

3月の研究会報告のレジュメをもとに書き下ろしはじめる。3月の晃洋書房の締め切りに間に合うように同時進行。「大衆文化」概念の再検討 概略をまとめるだけでも、新たな発見があり楽しい。

『階級論の現在』(J・スコット 渡辺雅男)、『不平等社会日本』(佐藤俊樹)、『世界デザイン史』『日本デザイン史』(美術出版社)、『暴力の哲学』(酒井隆史)を読む。

階級社会は消滅した という言説は、実感でも学説でも正当のように思える。しかし、階級社会は存在する。不平等社会は、拡大し、暴力はたえない。それは地域社会、家庭、学級へと崩壊の一途である。

「存在は意識を規定する」とはマルクスの有名な定義であるが、社会的存在である人間が、社会的意識を失っているのはなぜか?

アメリカンドリームは、階級社会、差別社会の存在をそもそも認めない、アメリカ社会学が、学付けし、最下層のものでも、年収数十億のCEOになれるかのごとく、底辺からトップへの階層がつらなるだけである。

ブッシュの「自由」とは、かつて「平和と愛」と一体であった「自由」を「勝者の自由」に限定した。勝者は、歴史的に固定化され、学歴、収入、希望までが格差ある社会に突入した。

階級社会は存在する。差別社会は進展する。かといって不満と不安につけこんで、ファナティックな国体化、共同化を目論むものには組しない。多元的で、多様、様々な意見をあらかじめ排除する「シナリオ」にのってすすむ国会をみていると、ますます疑惑と不信がつのる。バランスが悪い国になり、本当に居心地が悪い。

1月23日(日)

一昨日、音楽専門チャンネル会社の担当役員の方と打ち合わせ。会社設立から音楽、映像配信事業の歩みの下準備をいただく。80年代以降の音楽シーン、ビデオクリップ、これからの事業構想など、次回打ち合わせが楽しみな内容である。

NHKと朝日新聞が泥仕合。気付いたのだが、ポーカーフェイスの安倍晋三であるが、「こころにない(嘘くさい)ことを語るときは、左眉毛が上にあがる。人間嘘をつくときは、どこかにその兆候がでるという。例えば、目がきょろきょろしたり、目をぱちぱちしたり、指を細かく動かしたり、嘘発見機にかけるわけにもいかないから真相は、日本の慣習に従い、またうやむやにされるであろう。南無阿弥陀仏。

「圧力をかけた」「かけない」が問題なのではない。言論に携わるものが政治権力である自民党にお伺いをたてるNHKのその姿勢が問題視されているのである。それにしても、相変わらず何の反省もないNHKの元局長発言は、NHKの体質そのものを反映しており、この放送局とおなじ構造をもっているのが、社会保険庁をはじめとする「お役所」であり、自民党である。中川、安倍氏の逆切れも、見苦しい。

金八先生とゴクセン。この両教師ドラマに感じるのは、仲間由紀恵が父性化し、武田鉄矢が母性化していること。担任として自分の生徒を守りぬくゴクセンは、暴力で問題を解決することを辞さない。昔なら男性教師の見せ場を女性が解決する。そして金八、言葉で生徒を説得することから、無条件に生徒を信頼し、懐に飛び込んでくる生徒を抱きしめる包容力をにじみだす。

金八を観つづけている当方としては、前回の性同一障害とレイプ問題、前々回の親の過労自殺と引きこもりによる教育家庭の崩壊についで、今回の麻薬問題と自殺問題といった現代の困難さの前に、金八は、もう祈るしかない。「皆で祈りましょう」という言葉が最近多い。

ゴクセンは、原作がマンガということもあり、リアリティはないものの、ドラマとして「いい話」を感じさせるすじだて。金八は物語が宗教化してきて気になる。

やはり、夜まわり先生こと、水谷先生は病気だった。どうやらガンらしい。

今週のBGMアルバム。ドアーズ「サウンドトラック」、プロコルハルム「青い影」、キンクス「ベスト」、キャメル「ムーンマッドネス」、四人囃子「一触即発」「プリンテッドゼリー」、知名定男選「沖縄民謡」など。

読んだマンガ、白土三平「シートン動物記」、アート・スピーゲルマン「マウスTU」、「ガラスの仮面」新刊。先週から確定申告と原稿おこしに追われる。

1月17日(月)

昨日、荻窪Velbetsunで、moonballのライブにでかける。吉祥寺、西荻、阿佐ヶ谷、高円寺は、家からも近く、徒歩15分、自転車で30分以内ででかけられる距離なので、ライブには便利。

さて、古賀氏とのユニットを解消し、リズム隊が加わり、ギター、ベース、ドラム、キーボードに植田慶介氏のボーカルがどう響くか?。楽しみにしていたが、私の耳には、まるで、モータウンサウンドにのったかのような植田氏のボーカルは、氏独特の緊張感と、透明感をややそいでしまって少し残念だった。

つまり、バックサウンドの質と植田氏の声質、世界がマッチしていない。耳障りなく、よくまとまっているものの、サウンドとしては、モータウン→ココナッツサウンド→シュガーベイブ・細野晴臣的な世界からの脱却がのぞまれる。

リズム隊(特にドラム)がボーカルにかぶり、PAのバランスが悪いのか、ノイズに聞こえる場面があった。ボーカルをフィチャーリングするアレンジにかえ、素人のたわごとだが、中〜後期オフコースのアレンジが、大変参考になるのではないか。植田氏の声の透明感、緊張感をいかすためには、小田和正の声を生かすバックサウンドが必用。

植田氏のギターとボーカルが響き、気付くとバックでベースとドラムが心地よいリズムを刻んでいる。そして、鍵盤は、植田氏の声が途切れたところで、まるで、途切れていないかのような重層音を奏でる。

と、勝手な感想を述べてしまったが、声がサウンドに埋もれてしまったことはまずいのではないか。もちろん、それがいいという方も大勢いらっしゃるだろう。

植田氏は、この日記を読んでくれているらしいので、(^。^;)。少し、しゃべってみました。(*_*)

1月15日(土)

3月の情報問題研究会で、報告する 「大衆文化」概念の再検討 の報告レジュメが完成。レジュメに基づき活字におろす作業をはじめる。曖昧使用していたサブカルチャーとマスカルチャー概念を歴史をおい、分別、ポピュラー概念の発生から、フォーク概念、マス、ユースカルチャーの意味付けを自分なりにおこなう。ポイントはその文化の担い手と資本主義市場とのリンク度、そして、アバンギャルド、キッチュ、サイケデリックなどの「芸術概念」、アングラ、カウンターカルチャーなどの「政治概念」との距離感にある。

そしてもう一つの視点は、メディアの発明と発達、モラルライトとコピーライトの著作権概念から、こうした大衆文化概念をとらまえる視点である。

より原理的なところにまでせまると、芸術的なオリジナル指向と経済的なコピー指向の狭間に、大衆文化が揺れ動いてきたのがわかる。

現在の大衆文化は、オリジナル志向が薄れ、コピー指向が強く、経済的市場に席巻されているかのごとくみえる。だが、そうとはいえない面白い側面が顕著になってきているのも確か。グローバル化がもたらした市場のボーダレス化は、文化の担い手の「プロとアマ」のマージナル化ももたらした。

プロがプロ市場とアマ市場の両方で商売をし、アマはもプロになったからといってアマ市場を捨てない。これは、「売れるものしか生き残れない」という文化の発展とは真反対のパワーが市場に働いているからである。

市場が経済効率最優先で、回収と転用が早すぎ、プロもアマも売れなければすぐ捨てられる。プロダクションもマーケットも作り手を育てなくなってから久しい年月がたつ。

ついに、日本企業がその「社会的価値」を女性によって試される時代がきた。その価値尺度とは、「男女差別」である。現在の男性中心主義社会では、子供は女性が育てる。女性は補助労働をおこなう。ゆえに、男女の賃金格差は当然である という暗黙の了解があり、いまだに、その「働き方」のシステムを日本企業はあらためようとしない。それどころか、ジェンダーフリーへの反転攻勢を、政治レベルで石原都知事を中心に、明星大・高橋教授が音頭をとる。

都民の半分は女性であろう。女性を軽んじ、女性の地位向上を押える知事に票をいれる女性の気持ちは謎である。服従は日本の美徳でありんす。よく思うのは、こうした男をふりかざす手前は、家庭では尻にしかれていたり、逆に「妻」だけにはやさしかったりする。妻は「女」ではなく、「母」なのである。

文藝評論家の江藤淳は、妻の病死のあと、あっけなく、自殺を遂げた。妻なしには自分では日常生活すらできない。マッチョな男性史観の批評の裏で、情けないパーソナリティが露呈する。古き日本人の典型。

男性の長時間労働、過労死、過労自殺は、同じ女性差別の根から発生している。この長時間労働は、世界的にも異常事態として、ILOからも是正勧告がなされている。だが、政府はそれを無視しつづけている。

すべては自己責任なのである。世界有数の自殺大国であり、希望格差社会である日本の少子化は、現政府の「男性中心価値観」では変えようがない。

働く女性が株主となり、「男女平等」の見地。すなわち、子育て休暇の取得、子育て中の女性の雇用、賃金の平等化、から、企業の格付けリストを作成し、企業が男女とともに働きやすい職場であるかどうかによって、評価し、問題企業なら株価に影響がでるようなシステムが構築されつつある。それは、男性にとっても働きやすい職場である。

70年代からの消費者運動は、公害企業や問題企業の製品を流通において、監視、非買運動によって企業に反省を迫った。この株主運動は、この時代にあった方法である。まさに消費組合的な力が時代を変えた70年代の成果を踏まえ、労働組合が労働者を守らなくなり、無力化した労働者自らが、共同株主となり、企業の保守性を市場で裁くのである。

企業の保守性と政府の保守性は一体である。マッチョな脳の筋肉先生が、「男」を振りかざし、「オレについてこい」なんてスタイルでいまだにやっている(笑い)。

もはや、食えないことよりも、今死なないことを選択した。企業社会をリタイアした当方にとっては、結果がめにみえるのには時間がかかるが、何もしなければ、何も変わらないというあたりまえのことを痛感した。

1月14日(金)

杉田かおるが財閥系の御曹司と結婚。同世代としては、磯野貴理子以来の衝撃がはしる(笑い)。テレ朝の「ロンブーの格付け番組」で、「汚れ」を演じている彼女にも春ということで、落ち着くのではないか?そういえば、最近、梨花と青木さやかの爆発ぶりに隠れて大人しくなっていたのはこういうことだったのかと納得(笑い)。

安倍、中川両氏が、NHKに圧力。番組のイデオロギー性を指摘。安倍氏は、得意のポーカーフェイスで、なにごともないような、いけしゃーしゃぁの応対。報道ステーションでみていた当方も腹がたつ。当のNHKプロデュサーは、妻子もあり、4年前はできず、今、路頭に迷う覚悟で告発したと会見。

安倍氏の対応は不誠実なばかりか、それが、NHKと対応したのが、番組放送の前だろうが、後だろうが、放送倫理に反する行為であり、「情報の自由」を制限する行為であることは明白。安倍氏を政界のプリンス、ポスト小泉などと持ち上げて、天狗にしたのは、メディアそのものである。海老沢体制が政治権力従属を促進したこともあるが、NHKは、もはや、金、人、情報にわたり腐っている。「不偏不党の報道」などありえない、スローガンを掲げ、その実、歴代政府の垂れ流し報道をしてきた功罪はおおきすぎる。

視聴料金を拒否するのは大人げないので、払っているが、ここまでくれば、拒否するのも正当化されるだろう。

青色発光ダイオードの裁判。中村修二氏の「日本の司法は腐っている」という嘆きに、共感。組織がいかに個をつぶし、飼い殺し、その実、「大切にするふりをする」か、氏は深く実感している。ここにも、伝統的に個より全体、革新より保守的な日本人気質にぴったりのジャッジである(笑い)。

立川についで、葛飾でも、警察による「ビラ配布中の不当逮捕」再燃。弱体化する共産党を狙った「表現の自由」へのみせしめ。政権党を担っている公明党の母体である、「学会」が、神奈川県警とならぶ歴代の盗聴集団にもかかわらず、なんのお咎めうけないのは、アンフェアである。反対勢力の弾圧には敏感でなければならない。それは、間違いなく、その次に一般人がやられるからだ、歴史の法則である。

都議会をウオッチ。共産党以外、オール石原与党と化した議会は、石原の顔色で議事がすすむファシズム議会と化している。恐ろしい。特に公明党の石原おべんちゃら答弁には、聞いているほうがあきれる。権力者によりそい、よいしょする姿は、さしずめ、「虎の威をかる狐」の様。見苦しい。

公党を批判するのは、なるべく控えたいものだが、政治バランスからいっても、この党の存在価値は危うい。すなわち日本の政治は危うい。

また社会保険庁職員が組織ぐるみで、公金の横領。やってくれた。私腹を肥やす額が半端じゃない。もう、中国のように「八つ裂き刑」にしたいくらいだ(笑い)

もう、皆、膿をだしきってくれ!(^。^)♭

明治期、夏目漱石は、無政府主義者や社会主義者を「腹中の蟲」として、なくてはならない存在と認めた。反対勢力の弾圧は、権力そのものの暴走、やがて権力の解体をもたらす。それが、軍国日本であったわけだ。

今、腹中の蟲は、青色吐息である。保守権力も、体内細菌のように、反対勢力を活用することをすすめたい。日本では根付かなかった「社会民主主義」は、共存共栄、共生をすすめる。保守の暴走による「国体化」、旧革新がすすめた「共同化」、どちらにも反対する。相反するものが、共生できる社会。これこそが、豊で、生きやすい社会だ。と思う。

1月8日(土)

いとこの吉田美和子の人形展が京都昔人形青山で、3月6日〜30日まで開催される。新作は当HPの表紙にUPした。前作の少女人形から、格段の表現力が増し、オリジナリティが確立された。人形をみれば、誰のものかすぐわかるくらい、作り手の内面が人形に投影されている。心が見事に表情にでている。

表現力は技術力とともに、自分の心理に迫らなければ、その技術を美に反映させることは難しい。ミメーシスからスタートした模倣は、イミタチオ、すなわちコピーたるイミテーションを経て、オリジナリティに到達した。このヒトツの型であるオリジナリティは、S字を描きながら、やがて緩やかな老いを迎える。オリジナリティの反復は、自分の型を破り、更なる飛躍への反復である。

人生もまさに同じ繰り返しである。

コピーとオリジナルの無意味をシミュレーションとシュミラークルという概念で語ったのは、ボードリヤールだが、ロザリンド・クラウスは、「オリジナリティと反復」(1985)で「コピーとオリジナル」について、どちらにも価値をみとめず、ただ両者の関係の実在のみを認めるという、90年代にクラウスに出会った私に、驚くべき価値観をあたえた。

ルネサンス以降、モダンによってつくられた「オリジナリティ」神話、そして、サブカルチャーに流通するコピー神話の、どちらにも価値をみいださない考え方、生き方。今思えば、「まぐま」の基本的な考え方の元になった。アカデミズムにも、サブカルチャーにも価値を認めず、ただ、両者の関係性の記述と、個別具体的な思想的記録性にのみ、価値をみいだす態度。そんな漠然とした思いが、確かに当時はあった。

アカデミズムに拒絶されながら、商業主義を批判し、自己満足、自己完結に終らない何かをみいだし、生み出す意欲があった。それは、オリジナルの追求でありながら、コピーであり、アバンギャルドでありながら、キッチュである何かをめざしていた。

今、まぐま はアカデミズムに近づき、商業主義に近づこうとしている。結果として、そうなるのはよいが、戦略的にそうなるのは、雑誌の危うさが回避され、かえって雑誌の命脈にとっては危うい。

まぐま とは、馬熊であり、マグマであり、MGMである。動物的で、溶岩であり、淫猥なものであったはず。

ここいらで、ヴァージョンアップされた原点回帰を意識したほうが、いいのかもしれない。

1月5日(水)

なにやら、新年から脱力している。ポテトサラダが食べたくなりジャガイモをつぶし、きゅうりを薄くきり、ハムをまぜる。マヨネーズで適当に味付けして、またこねる。

2日、鬼子母神にすすきのミミズクを買いにいく。帰り巣鴨にいこうとしたが、地蔵通り商店街は、超満員のにぎあいで、車をとめられず、断念。地方ナンバーの車と、大型バスでのりつけてくる地方のお年よりのパワーに圧倒される。

梶芽衣子の「修羅雪姫」を観る。上村一夫の劇画は、少し垢抜けてるが、映画は、かなり暗い。だが、女さそりの梶芽衣子のあの独特の「憂鬱」は、修羅雪姫にはない。暗いことは暗いのだが、それよりも「美しさ」が際立っている。和服姿で男を切り殺す姿、血飛沫があがり、腕が飛び、返り血を白いうなじあびる姿に「美」を感じるのは危うい感性である。

修羅雪姫 怨み恋唄 は、若き伊丹十三が、幸徳秋水役をやっていて、またいい味をだしている。鹿島雪こと修羅雪姫の恋心と怨み心の「痛み」が、観るものの心にしのぶ。

映画をあまり観なくなって15年。みなくなったのは、目がダメになったのもあるが、いまおもえば、主人公に共感できる映画が少なくなってしまったように思える。60年、70年代の映画のもっているルサンチマンとサバルタンは、闘いに敗れ行くもののむなしさに裏打ちされていた。「ベルリン天使の歌」「パリテキサス」をみたとき、あのとき、自分のなかで映画は終った。それは、きっと「灰とダイアモンド」「ノスタルジア」の深い「虚無」が、自分の心のなかで解放されてしまったからだろう。

にしきのあきらの70年代のあの演技、スターが落星し、暗く、虚無的な自我をスクリーンにたたきつけたにしきのが、80年代にひらきなおり、お笑い番組に登場し、「スターにしきの」で笑いをとってゆく。

そのとき、にしきのは、スターを捨て、憂鬱を捨て、今風の「人間の顔」を捨てた人間として、まさに食うために働いたのだ。

2005年 1月1日(土)

去年は地球環境破壊がもたらした台風の多発、水害、そして地震、年末にまで大地震が。

経済がどうなろうと、政治がどうなろうと、環境がどうなろうと、日本がどうなろうと、ただ生きていくしかないだろう。ただたんたんと生きたいように生きていくしかないだろう。

煮物の材料、鍋物の野菜を買いに行く。ついでに正月用の生花も。ここ1年キャベツがとくに好きになり、小さめなきゃべつなら、2食で、ほぼ完食する。千切り生でも、ゆでてチンゲン菜ととともに、コンソメスープに入れても食べる。ジャガイモとひき肉に練りこんで、野菜コロッケもつくる。けっこう繊維質で、食感が気に入る。

年末、10年ぶりに、米沢嘉博氏の「戦後ギャグマンガ史」「戦後少女マンガ史」「戦後SFマンガ史」を読む。改めて自分が読んできたマンガが時間軸上に再配列された。労作である。米沢さんは、現在、アックスで戦後エロマンガ史を連載中である。こちらもまとまるのが楽しみ。

竹内オサム先生の「ビランジ」の原稿、マンガ論Bを脱稿。締め切りは1月20日である。今回は、ジャンプ系マンガからセカイ系マンガの分析。

ともあれ、2005年が始まった。やっと「ホムンクルス4巻」を読む。ガラスの仮面 新刊は買うも、まだ読まず。

12月23日(木)

来年の企画について、版元さんと打ちあわせ。ビジネス本が上手いこと企画がとおれば、春にかけて集中執筆できる。

年賀状を数年ぶり年内に書き上げる。メールの年賀が増えているが、毎年新しく知り合いになる方もいるので、全体として横ばい。24日キャンペ−ンと送る人もあたるキャンペーンに応募。20,000円のグルメギフトが欲しい。

運転免許の書き換え。最近車に乗ることが少ない。近場をうろうろしているせいもある。

CVテレビで安達祐美の「ガラスの仮面」全話をみる。本放送のとき、最終2回が見られなかったので、結末をみる。けっこう、安達祐美はかわいいので、なぜか同情心がむくむくと湧きあがる。原作の北島マヤよりも、けなげさがドラマのほうが強い。

お昼のドラマで、長谷川初範と荻野目慶子が修羅場な夫婦を演じてたまげている。荻野目の情演(情念の演技)によって、心が激しく揺さぶられる。荻野目の存在感の前に、長谷川の演技が芝居がかってかすむ。かつて「ヘレンケラー」で天才女優といわれた大竹しのぶと荻野目慶子、二人とも「魔性の女」といわれるのは、天性の情念によるものだろう。

荻野目の演技、いつもながら、まるで自分の人生のそのままのような、不幸な人生に対する違和感を全く感じさせない。まさに魔性である。

ついでに、いまから、20年前の学生時代、奥多摩で合宿しているとき、たまたま、荻野目慶子がドラマの撮影にきていて、同じ民宿にとまっていたため、朝、お目にかかった。そのときは、特別に美人と感じなかったのだが、とっても魅力がある、男をひきつけるオーラを発していた。正直ドキドキしたのを思いだした(笑い)。

荻野目洋子が妹としって驚いたのも懐かしい。

女優の話が続くが、私の好きな女優、洞口依子が、最近でないなぁと思っていたら、ガン療養中としった。黒沢清監督の「ドレミファ娘の血は騒ぐ」以来のファン。完治して復帰してほしいもものだ。

60年代に貴重な文化活動をされていたOさんを取材。今ではみることもできない、当時の貴重な写真をみせていただき、お話しを長時間にわたって伺う。驚くべき、ビートルズの生写真や、ミュジカル・ヘアーの舞台裏話し、セツ・ナガサワモードスクールのアヴァンギャルドの日々。

70年代第一オタク世代としては、うらやましい話しの数々。だが、あれほど、燃え上がったこの団塊の世代の人々の保守化は、日本社会の老化を強く印象づけた。いまや活躍している批評家や評論家、タレントや学識者は、夫々の持ち場に逃げ込むことなく、当時は人々とともにあったことを感じさせる。

自分がますますわからない。だが、やりたいことは山ほどある。限られた人生の時間をそのためにつかってゆく。荊の道であるが、おそらく幸せにちがいない。

12月16日(木)

ひさしぶりに高円寺商店街をぶらついた。やたらと古着屋とクスリ屋が多くなったことがわかる。名前は知っていたが、「アニマル洋子」という古着屋と古本屋がいっしょになった店にへんな波長があう。結局入らなかったが。

阿佐ヶ谷のBOOK OFFへゆく。1冊100円のビジネス本を10冊購入。わすれさられ、捨てられた知識と知恵を回収する。BOOK OFFの商品の流れは、例えば、1冊1500円の新刊が、1ヶ月後に1000円、2ヶ月後の500円、おおむね4〜5ヶ月後くらいで、100円になっているようだ。

知り合いの本が、100円になっているのを何度もみているが、少し複雑な心境だ。自分の本は、そもそも売れてないので、古本屋でみることはほとんどない。読みたかったが買い忘れていた学術図書が100円になっているのは、しのびがたいものがある。自分が参加した共著もあった(笑い)。

久しぶりに眼鏡を新調した。極度の近眼のため、分厚いレンズしか受け入れられなかったが、技術の進歩で、ややうすで、ちいさな縁の眼鏡にかえた。映画館で2時半以上の視聴にたえられないやわな眼球である。

1コママンガ専門誌 EYEMASK 29が届く。マッド・アマノさん、橋本勝さんの作品は、大変秀逸である。きくところによると、マッドさんは,強烈な小泉パロディのため、出版社の腰がひけているようである。自分の文章。高橋留美子 恋愛の法則をななめよみ。

批判を「文句」と自己規制する、言論界に明日はない。でも明日はくる。必ずくる(笑い)。

12月10日(金)

怪獣特撮忘年会から数日、研究者仲間と池ノ上の台湾料理屋で上海蟹を食べる。音楽ケーブルTV・スペースシャワーのプロデューサーの方にもお会いでき、次号まぐまの「音楽特集」のあたり?をつける。

来年企画のマンガ関連図書のアウトラインを打ち合わせ。3名の共同編集で、コンセプトの練り上げ、互いの論文、著作を読んだ上での執筆者の選定などを今後の課題とした。

2次会は渋谷でカラオケ、3次会は西荻の居酒屋、始発をジョナサンで待つという悲惨な平日を過ごしてしまい。年長の当方の体力低下に歯止めがからず。

昨日、版元さんと打ち合わせ、というか、単なるストレス発散会。近著の解説の話しから、江戸文化とサブカルチャー、最近の出版社の動向、売れる本づくりの話しなど、多岐にわたる。来年はビジネス本の構想もあるが、スイッチがはいらない。

若い学生さんから、近著「ポップカルチャーは世界を…」の読後メールを頂く。やはり、批判であろうが、ほめ言葉であろうが、メールをいただくことはうれしいものだ。面白いことに、若い「普通」の学生は、マンガやアニメにさほど興味がないことがわかった。だから、オタク的な批判や指摘でもなく、素直にうけとめてもらい、ひと安心。

中央沿線の居酒屋系で、「ポップカルチャー…」が話題になっているという噂をきき取材。当方としては、沿線沿いに拡販対策をとるべく、あてにならない本屋ではなく(そもそも並ばない)、情報戦を企てるべく準備したい。

うけたのは「ドラえもん」の記述と「デーモン小暮」の記述だそうだ。本人はいたって真面目に書いているのだが、笑われるのはとても愉快である。バカにされるのも大歓迎。

ようやく版元に注文がまとまってはいってきたようだ。大手出版社の本しか並ばないこの流通システムでは、弱小出版社と無名ライターはいろいろなことを考えなければならない。

買えない場合は、皆さん、図書館にリクエストしてください。って、この間お会いした、学術系版元さんもおなじこといってたが…。拙著は購入していただきたいものだ。

イラク自衛隊、派遣延長閣議決定、北朝鮮経済制裁に消極的な政府。ここにみられる姿勢は、アメリカの判断待ちの決断なき惰性である。今の国民そのものを象徴している。

12月4日(土)

「江戸文化とサブカルチャー」(至文堂)が完成。「サブカルチャーとしての武士道精神」を掲載させていただく。

怪獣・怪人特撮ナイト(早いクリスマス会)が終る。1次会では、永井豪マンガネタで盛り上がる。チープな怪獣ネタの連発で笑う。2次会は、昭和ガメラと大魔人ネタで盛り上がる。昭和ゴジラと平成ゴジラネタ、流星人間ゾーンのゴジラ出演など…。映画デビルマンの悪口と「けっこう仮面」の実写版の話しで盛り上がる。

帰宅後、急遽、マニュアルのコンテンツづくりのヘルプ。朝7時くらいまで、かかり寝る。

久しぶりに鯛焼きを食べる。おしいので、粒、こし、白あんと3匹たいらげる。月に1回、かならず糖分欠乏に教われ、甘いものをたべまくる日がある。食べ終わったあと、チョコレートを1箱たべ、伊藤園の新シリーズ、モカオレとエスプレッソをたて続けに飲む。

そのあと、急に眠くなり、ねる。

悪趣味映画秘宝(洋泉社)を読む。梅宮辰夫・不良番長シリーズの記載に爆笑。ついでにズベ公映画の系譜なる文章が!スケ番デカも、「ズベ公」映画とは…。意外である。海女ものについては、笑えないほど恥ずかしい事実が発覚(笑い)。海女ものというのは、エロスの対象であると同時に、ギャグの宝庫だった。

「怪談海女幽霊」はまだしも、「夜這い海女」「若後家海女 うずく」に失笑、「色情海女 ふんどし祭り」の記述にいたり、笑いは消え、いったいどういう映画なのか???が浮かぶ。真剣に悩む(笑い)。

そういえば、「死霊の盆踊り」という映画もあった。思い出し笑いをする。

来週は忙しいので、今週はOFF。

11月28日(日)

勢古浩爾「まれに見るバカ」、櫻井哲夫「TV魔法のメディア」、中野晴行「マンガ産業論」、夏目房之介「マンガ学への挑戦」、大城宜武「漫画の文化記号論」を読む。

マンガ表現論B、セカイ系マンガのまとめ30枚終了。残るは時間論、空間論。10枚。

社会文化学会、全国大会終了。フェミニズムと女性労働がメインテーマ。「制度」「政治」がメインで、メンズリブも含めた「フェミニズム」、男女の生活におりて「文化」を語るほうが、現代的な課題、女性差別を補完する男性内の「男性性」の解放とからみ、実感をともなえたのではないか。

会場で、まぐま「マンガのディスクール」5冊、「ポップカルチャー…」を8冊販売。ありがたいことである。

劇団SET最終公演に、Kさんのお誘いでゆく。相変わらずの三宅さん、小倉さんのかけあいは爆笑の連続、同世代の野添さんの演技は、日本の「バカ中年」の代表者で親近感を得る。若手もここ数年で個性がでてきてたのもしい。

マンガ「少女革命ウテナ」「最終兵器彼女」「アラベスク」再読、画集「天使のたまご」を読む。

11月22日(月)

昨日、およびがかかり、「紙ふうせん」のファンのつどいの末席に座らせていただく。後藤悦治郎さん、平山泰代さんの庶民的で、気さくなお人柄に触れ、なごむ。

5夜連続で、石原家のドラマをやっていたようだが、なぜ、この力のいれよう?理解ができない?かつての花田家につうじるプチ「皇室化」と考えるのは、あまりにも穿っているか?いや〜なものを感じる。

一昨日、久しぶりに大掃除する。いや〜相変わらず、紙くずと埃をかたづけるのに苦労。拭き掃除が一番。

今週1週間は、身体と精神の状態はよかったが、感情の起伏が、普段平板な自分にしては珍しくあった。分析中毒から自己分析をしてみたが、おもいあたる節が…。

そういう日に限って、潜在意識が夢に全部でてくるので、便利。夢のなかの他者が全部、自分の非を代弁してくれたり、身代わりになっておこられたりしてくれる。その姿を第三者の自分が、客観的にみて、自分のこととして反省するという奇妙な絵だ。第三者はいつもこどもの姿で現れる。だが、言葉づかいは大人である。

もう数年前から、かならずこういう夢をみる。逆にいえば、夢のおかげで、日常生活を平平とおくれるのかもしれない。

13〜18歳のころの、あの憂鬱と万能感がかわるがわるやってきた、あの鬱と爽は、ながい時を経て、顕在意識と潜在意識の仕組みによって、自由になったようだ。

それは、どうにもならない世の中への不平不満や、人間のもつ性質(タチあるいはサガ)を許せるようになったからだろう。それは、自分自身を自分で許すことができるようになったのかもしれない。

11月15日(月)

引き続き、マンガ表現試論Bの執筆、少年ジャンプ作品にあらわれたキャラクターの簡易分析をおこなう。本宮、中島、車田、宮下、原・武論尊の熱血の系譜から高橋の友情、鳥山のCOOLへの変換、冨樫、桐山が壊れ、織田の「ONE PIECE」でのちばあきお的「友情」の回復に、「努力」する主体の「友情」軸と「勝利」軸へのブレが、ジャンプの原動力であることの確認。

冨樫、桐山の「壊れ」は、闘うことが自己目的化したキャラ(作者)の血の叫びであった。大泉実成氏の「消えたマンガ家」の着目点はいまも秀逸である。

小林稔氏と、「プロレスは格闘技か・7」座談の収録。前回分6の「おこし」もできていない。HP上は5で更新がとまっている。なんとか、アップしたい。

昨日、文学フリマ にいく。会場が狭いこともあり、その分、熱気があった。

購入した本、「面白いストーリーの作り方」(はまさん)、「早大文学 22・23合併号」「リブレリ」(早稲田大学現代文学会)、「Majestic-12 vol.1」(MJー12)、「仮面特攻隊 2003〜04 春のアニメ号」「仮面特攻隊 05準備号」(佐藤朋幸)、「講本憲法入門」「麻薬経済学試論」「暗黒人間のソウル漂流記」(暗黒通信団・しんきろう)、「サブカル評論」(田中北京)など。

アニメ、マンガ、特撮、サブカル、ポップに捧げる情熱に脱帽!

まぐまのHPの相互HPさせていただいている 暗黒通信団・しんきろう さんに再会。

フリマのあと、水木しげる展を江戸東京博物館にみにいく。展示物が多く、大変楽しかったが、やや疲れた。物凄くこんでいる。やはり貸本時代の作品に魅了される。

また水木が描いた絵を、セノイ族の人々が彫刻したレリーフがすばらしく、福島県のかっぱ伝説のある地方の旅館の依頼で描かれたかっぱの水彩画とともに、とても欲しくなった。

さすがに、妖怪ちんぼ というちんぼの先が9つに分かれて、チンボジェット噴射で空中をとぶ妖怪は紹介されていなかった(笑い)。公の場所では下品すぎるからだろう。

「ブラックジャック」がはじまった。今回のシリーズは、絵がアニメタッチではなく、マンガの線になっていることに着目。線の太さがまるでGペンでかかれたようにみえる。ヒューマンな内容とともに、画風も70年代に戻そうという、いい意味での手塚治虫回帰がみられる。

大学のオタクたちの生活を描く「げんしけん」がアニメでもはじまった。というかやってる。深夜帯であるが、神奈川、埼玉TVほか、ケーブルTVでもやっているので、みのがさない。微妙な笑いをさそう。

東北ドイツ文学会の「「ハロー・ドゥルーズ」特集の初校がとどく。手なおしを若干おこなう。

心が「足の裏」にあることを再発見! 高史明さんの言葉は、間違いではなかった。こころ温まるとは、足の裏が暖まることである。足の裏は地球と直接接しているのである。ものいわぬセンサーである。

11月5日(金)

TBSで報道された園遊会での、米長邦雄、東京都教育委員と天皇との会話が、波紋をひろげている。先日いただいた友人からのメールで再度、考えなおしてみた。

天皇:教育委員会としては、本当にご苦労様です。

米長:はい、一生懸命頑張っております。 

天皇:どうですか。 

米長:日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます。
天皇:ああそうですか。
米長:今頑張っております。
天皇:やはりあの・・・、その、強制になるということでないことがね
米長:ああ、もう、もちろんそうです。
天皇:望ましいと
米長:ほんとにもう、すばらしいお言葉をいただきましてありがとうございました。
天皇:どうぞ元気で。
米長:はい、ありがとうございます。

この発言は3つの問題点を含んでいる。

一つは、戦後の象徴天皇制が、先の大戦の過ちから、政治権力不介入を原則とし、二度と政治権力が天皇制を利用し、国民の命と権利を奪うミスリードをしないという反省の上に、アメリカによってその存続を許されたこと。したがって天皇の公での政治発言は許されないこと。

二つめは、だとすれば、米長氏が、石原都知事の命※をうけ、教育現場に「日の丸・君が代」強制という、イデオロギーをもちこみ、服さない人間を処罰する現実を、天皇自らの言葉で「強制になるということでないことがね」という言葉をひきだすことで、政治に「天皇」をひきだすということで、行いを正当化し「戦後政治」の禁忌を破ったこと。

三つめに、「強制になるということでない」という言葉自体の問題である。これは、強制でなければよいよいう単純な意味をもたない。その言葉は、日本人が「自然に抵抗なくそうなればよい」という希望的意味と、「強制でおこなっていることへの批判」をも意味している。

ブッシュ・小泉・石原という戦後最悪のジョーカーが3枚もそろい続けている今、この国家権力の「強制」の勢いは、とどまることをしらない。権力が「天皇制」という権威を利用し、アメリカのますますの補完戦略国への道を正当化するとすれば、戦後「民主主義」は、空中遊郭。砂上の楼閣となる。

ただ、天皇の言葉は、教育現場の弾圧を続ける石原都政の「権力が権威にたしなめられた」ともとることができ、微妙な「現在の天皇制」のあり方が浮き彫りにされている。天皇自らが禁忌を破りながら、破った米長氏をたしなめているのである。

皇太子の「雅子妃発言」と今回の「発言」は、戦後象徴天皇制によって人間宣言したはずの人間天皇が、いまだに一機関にすぎないことを吐露している。

皇室からの発言は、日本の民主主義を進化(深化)させるか、崩壊に導くか、分水嶺にあらわれた「お言葉」として直視する必要がある。

「イラク戦争」を試金石にした米大統領選は終ったが、自衛隊を派兵させたままの私たちは、本当に呑気である。

※石原都知事の命: 国家イデオロギーの強制  ジェンダーフリーの解消(女性差別の助長) 自己責任のとれる都民の推進(都(公)は責任をおわない)

11月3日(水)

ついに風邪。ダウン。下痢と発熱がようやくおさまる。

新球団は楽天に軍配。最初からわかっていたことなので、茶番にしらけながらTV会見をみる。

楽天社長は、まだ若いのに、顔が官僚ぽくて好きになれない。

昨日、夜中、ドラマにもなった「夜回り先生」こと水谷修さんの特番を、NHKで深夜やってたため、ついついみてしまう。定時制高校の授業が終ったあと、延べ5300人の夜の街にたむろする若者に声をかけたという。内22人に死なれたという。多くの子供たちは薬中毒で死んでいった。

仕事と夜回り、休みはほぼ講演日程でうまり、なおかつ、1日1000通の子供からの「SOS」のメールに目をとをし、300通の返信をするという。

水谷氏はいう「子供の多くは昼の世界でイジメられている。先生にいじめられ、生徒にいじめられ、そして、家でも親にいじめられる。このいじめは、言葉の暴力であり、目的化された人生への同調をせまるものである」「子供たちの息抜きと居場所は夜の街にしかないのだ」

インタビュアーの江川紹子さんはいう。

「先生お一人の責任ではなく、社会の問題でもあるわけですから、そんなに無理をされなくても…」

だが、水谷氏はいう。

「大人、一人一人の問題なのです。だから自分の問題なのです。今の教育の問題を、国は家庭に責任をとらせようとしています(教育基本法の改定)。しかし、それには反対です。学校教育を受けられない貧しい子供たちがいるからです」

あまりの責任感に、「同僚とも摩擦があり、校長ともソリがあわない」と、自ら告白する。

過労で、かなり顔色が悪い水谷先生をみて、激務で倒れた小児科医の話を思いだした。子供の数が減っているため、儲からない小児科医にはならない。診察時間は大人の倍、薬は大人の半分。いつ病気になるかわからない子供。効率主義が医療にも浸透し、儲からない小児科はへり続けている。

税金で豪遊する政治家、年金を私物化し、窃盗する社会保険庁、効率主義と能力主義、残業で父親を家庭に返さない企業。国の歪みを正当化する政治に同調し続け、無力で無関心な大人たち。

社会の強者が、弱者をいじめ、一番の弱者である子供は、夜の街に、今日も向かう。そして、大人たちに春を買われクスリを買わされる。

アメリカでは部下による上司殺人で、年1000人死んでいるという。日本でも能力主義の導入で、ボスハラにあい、親が家庭内で荒れている話をよく聞く。しょせん、能力主義は日本人にはあわないのだ。

誤っているのに、認めないのは小泉総理の体質と同じで、笑える。

10月29日(金)

新潟中部地震、被災者の方々には、お見舞いを申し上げるしかない。郵便局から義援金を送らせていただく。

阪神淡路大震災のときは、ガス会社がガスを止めるのが遅れて、ガスに引火。火災による死者数は、相当数にのぼった。人災の感はいなめない。今回の地震では、ガスは早くとめたようだ。

新幹線が初の脱線。対向車がなく、脱線したまま700M走った。怪我、死者なし。まさに不幸中の幸いである。

日本は火山国で地震国、列島いたるところ活断層が走っている。中越地震は本当に、他人事ではない。昼夜の作業のレスキュー隊の方々も大変だ。本当にご苦労様である。

『宮沢賢治の植物に学ぶこころ』の解説のため、久しぶりに賢治の評論、研究本、詩などを読み直した。賢治の世界は、その表現の広がりから、様々な視角からのアプローチがされている。宗教、哲学、自然科学、エコロジー、ベジタリアン、詩、…。だが、意外にも、賢治は身近な自然、鉱物、植物の研究者として、様々な優れた実験をおこなっていた。

賢治の世界観は、単なる空想ではない。頭と体が自然とくっついている。だが、研究本の多くは、ただ頭で書かれたものが多い。

名著は、古今東西、頭だけで書かれた書物は少ない。頭だけで書かれたようにみえて、行間から体の軋みや慟哭が聞こえてくる。生々しい。

こころは、頭にはない。こころは、胃や子宮や足の裏にある。考えることだけがこころではない。

なんのために、イラクへいったのか? 前例がありながら、なぜ、彼はイラクへいってつかまったのか。彼は、日本にいなかった。世界を放浪していた。だから、「自己責任」論議も、家族の心労も、政府のいらだちも実感することができなかった。

台風、地震、イラク人質、小泉さんの目の下に隈ができている。

蔦森樹編「メンズリブ批評」(東京書籍)を読む。社会との関係から降りることもできない自分はオタクではない。女性関係を年少者に限定できない自分はロリコンでもない。同時(同時代)的なポップ事象にただ浸れず、構造や歴史を放棄できない自分は、完全な意味でのサブカル≠ナもない。

フェミニズムが女性の地位向上運動として、過激化したウーマンリブは、現在、男性の解放なくしては、女性の解放もないと説く潮流と、資本主義社会の競争原理に、参入し、勝ち残る女性エリートの「個人主義」原理に分離しはじめている。専業主婦ダメ論争も、ここに、女性内の内ゲバがある。

だが、男性原理と同化する女性と、女性が変わるだけではなく、女も変わり、男も変わらなければ、女の幸せもないとの考えは、男×女という対立軸を、男×女、男×男、女×男、女×女という価値軸の多様化をもたらした。だが、厳密にいえば、性は男と女だけではない。

セーラームーンのウサギ(女性原理)とギャラクシア(男性原理と同化した女神)との戦い。ウサギの勝利にみられるカタルシスは、闘うことが自己目的と化したこの社会への浄化というよりも憐憫である。

かつて社会性、権力、富は男が独占していた。だが、女性が獲得できる時代がきつつある。そのなかで、社会性、富、権力から降りる男性が増加している。メンズリブの運動は、まさに、男が男性という性による社会的役割を放棄する。強くたくましく、理想を掲げ、女・子どもを導く男なんか、どこの世界におるかい。

自分を振り返れば、すでに、富、権力から降りた。というかおいてかれた。「男性性」そのものから降りたいという願望が日増しにわく。オタクにも、ロリコンにも、サブカルにもなれない自分の今の生活は、まるで「独居老人」のようだ。

だが、男性性から降りたとしても。近代の呪縛である、社会性、歴史性、構造性からは降りられない自分は、金力という権力ではなく、知性という権力に縛りつけられているのかもしれない。

男性性の放棄の後に、捨て去られるとすれば、それは構造性だろう。そして社会性、歴史性。歴史性をすてられないのは、社会性は歴史性を前提にしているからである。あらゆる権力を否定しようとすれば、歴史こそが、最大の権力である。

最近読んだマンガ ブラックジャックによろしく10巻。血と骨 1巻、プル―ト1巻(浦沢さん) ギャラリーフェイク・ベストコレクション(細野さん)、晴れた日には絶望がみえる・あなたの遺産(あびゅうきょ さん)、他他。 

日本人の精神病患者数は、全人口の1.7%(100人に1.7人)。数にして200万人。だが、精神病患者犯罪者数は、全犯罪者数の0.6%(100人に0.6人)しかいない。それは、院内に隔離されているから犯罪に結びつかないと考えるのか、精神病患者は「犯罪」をおかす確率はとても低いと考えるのか。

日本では、前者に考えられ、だから「出すな」となり、陰惨な事件がおきると必ず、精神鑑定をおこない、精神病=犯罪予備軍的なイメージを分厚く形成した。

ブラックジャックによろしく 10巻 はいろいろと考えさせられることが多かった。

10月23日(金)

昨日、夏にシベリア拘留の体験記(蒼天社刊)を出された堀場氏と版元さんと小田原で会食。私が解説をかかせて頂いたこともあり、初見にもかかわらず違和感は全くなく、貴重なお話を伺う。

ソ連とアメリカの合意のもとに、シベリアでの強制労働を認知した日本政府は、被爆者への援護同様、過去の「事件」として扱い、ジュネーブ条約を無視し、戦後保障を「拘留者」におこなっていない。

体制やイデオロギーは、関係なく、国家というものは、人間の歴史上、常に少数の人間が、大多数の人間を支配しているものである。太古は直接的暴力によって、現代では情報操作によっての違い。

こうした考えを「単純」と切り捨てられること、昨今、拙者も直接批判を賜ることが多い。だが、階級史観なきあと、拙者はこの「民衆史観」を日々実感している。イデオロギーや思想ではなく、日々この肉体が実感しているのである。

98%の「庶民」が2%の「権力」の批判に向かわず。庶民どうしでいがみ合う。

故国ヴェナンに「小学校」を建設しているゾマホン氏(「ここが変だよ日本人」でおなじみ)はいう。

「アフリカにみられる内戦の多くは、フランスやイギリスなど欧米の利権にそう形で、アフリカの資源を収奪する代理戦争である。政権の多くは、この利益に支えられてひもつきになり、武器を買わされる。そして国内の権力闘争から内戦がおこる」

アフリカ諸国は、戦後、直接的植民地支配から独立したが、現状は、旧支配国の文化と統治を踏襲し、統治者は、どれだけ欧米にコミットするかで競いあう。

西側諸国(東側なき)の「民主主義」は、忘却されたこうした第3世界の存在なくしてはありえない。

10月17日(日)

ここのところ、遠ざかっていたプロレス観戦をする。といってももう会場にいかなくなって5年。もっぱらケーブルTV。全日、新日、パンクラス、みちのく、大阪、ドラゴンゲートなど。

新日は長州がリングに戻り、末期症状。22年前、長州、藤波、前田、猪木がリング上で、覇権闘争を開始した当時の役者がいない。

なぜ、長州なのか? 永田、ライガー、天山が吼えようが、一瞬にして衆目を奪う長州の存在感。これは、長年、猪木に対して抱いてきた観衆の目線である。

新日のプロレス「闘争劇」の論理が、今崩壊しつつある。カリスマ不在のリングでは、この新日の理論は、無効だ。

ストレス解消のためにみるプロレスで、ストレスがたまる。蝶野のたちまわりも予定調和。

西武王国が落日を迎えている。読売、三菱、ダイエーなど、カリスマ経営者が、ワンマンで築いた「国」が、社会の進展に、その体質を合わせられずに「硬直化」「瓦解」しつつある。

薬害エイズ訴訟、ライ患者訴訟、そして水俣病関西訴訟、国の権威が事実の前に崩れ落ちた。

権力が権威を維持できない時代。権力は合意なき暴走を繰り広げながら、権威をとりもどそうと必死だ。

10月12日(火)

97年にでた太田裕美、ゴールデン・Jポップ/ザ・ベスト 全36曲 を購入。ここ数日BGMでなごむ。

日本の絵本史 全3巻(鳥越信)編(ミネルヴァ書房) を読む。漫画とアニメの間に絵本をおくと、絵としての画像文化に一本の糸がみえてきた。

一昨日、赤塚不二夫記念館(青梅)にいく。なつかしのマンガの掲示、原画の展示。様々な交遊の写真、トキワ荘の赤塚不二夫の部屋の再現など、展示物の量も少なからず、多からずで、楽しかった。

お土産に、うなぎイヌ、ベシ、ニャロメのブリキのバッヂを購入。

昨日、相原さん出展、ギャラリーグラナダに絵画グル−プ展にいく。個性的なクリエイターの方々の作品は、飽きさせず、大変面かった。松本夏樹氏によるスライド映写による「錬金術と光学魔術」の講演も大変勉強になる。氏の独創的なところは、単なる解説ではなく、当時の映像を再現し、当時と同じ空間と画像を再現しようとする試みにある。

ケーブルテレビで、宇宙戦艦ヤマト、全26話を録画、計13時間。明日から毎日2話ずつみる。

10月4日(月)

昨日から寒くなる、今年は夏が丸三ヶ月あったような気がする。熊本は夏日が100日をこえたらしい。

まぐま12号 パーティ終了。お店の雰囲気がよく、料理もおいしかった。上映も演奏も満足。関係者の皆様に感謝。主催者が1ギャラリーになってしまったことを反省する。

幻冬舎から「趣都の誕生 萌える都市アキハバラ」を出している森川嘉一郎氏が、ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展に日本館(おたく展)を出展したが、まさか、その部屋のモデルというか、そのまま、吉本たいまつ氏の部屋が再現されたとは。

パーティでご本人からお聞きし、ビックリ。幻冬舎から、カタログが逆輸入されたので、さっそく、購入し、拝見したい。なんか、フィギュアもつくらしい。(まさかたいまつ氏のではないだろう)

ダイソーのPC100円ゲームにはまって4ヶ月、シリーズは20作ほど。なかでも飽きないのが、戦国ゲームだ、まさにシミュレーションならぬシュミレーションで、五大老VS秀吉軍や、信長VS今川軍など、組み合わせや地形、軍団数が勝手にかわり面白い。

戦記もののようなチープな音楽にのって、ほら貝が吹かれ、ウォーと合戦の雄たけびがとどろく。つばぜり合いでは、刀の「カキン」という音も入り、武将がうちとられるとき、ウァー!と叫ぶが、石田三成だろうが、徳川家康だろうが、みんな同じ声だ(笑い)。

シュ-テイングゲームは、昔ほどの運動神経というか、反射神経がなく、すぐに敵にやられてしまう。高校時代はインベーダはすぐに全滅していたのに。それに較べ戦国ゲームは牧歌的だ。私はよく闇討ちをかけるが、友軍が参列せず、返り討ちで負ける(笑い)。

しかし、シュティングゲームでは7割の敗戦率が、戦国では8割の勝率である。誇ることもないけど…。ゲームだからね。

「ダイソー100円ゲームの研究」なんて、1作1作解説したら、面白いか? ちなみに携帯の「プーさんの木の実拾いゲーム」は18万点をだし、自己ベストを更新した。どうでもいいか。

「東宝争議追想」宮森繁、「ベンヤミン アドルノ往復書簡」野村修訳、「現代の戦争報道」門奈直樹を読了。

斎藤貴男「非国民」のすすめ」を読書中。

9月26日(日)

音楽産業における「ポップ」概念のまとめをノートに書き付ける日々。

複製技術と著作権を「所有権」的見地から位置付ける作業。

結局、書かないと頭に残らない。

マンガ史をさかのぼったら、絵本史に結びついた。

マンガを動かしたら、アニメだが、アニメを止めてもマンガにならない。

近代の大量複製文化が、ポピュラーを生んだが、ポップにいたるには大量消費を待たねばならなかった。

パンクは産業である。イギ-・ポップもニューヨークドールズも…

クラッシュ、ストラングラーズは良品。 ピストルズは不良品だった。

サイバーパンクはポップである。パンクはまだポピュラーの尻尾を引き摺っている。

誰もが面白いと思うものは、観ない、読まない、語らない。

誰もが見向きもしないものを探す、見つける、楽しむ。薀蓄を傾ける。

通とはそういうものだった。通はオタクだった。

オタクは通でなくなった。萌える変態、集団と化した。

なぜならば、通は相手にされない時代だからだ。

オタクだって燃えていた時代もあった。

 

大阪の地図を1時間眺める。場所場所の絵が、脳裏に浮かんでは消える。

万博公園の池の水鳥の羽根が残像する。今里の茶店でレイコーを飲んだ日々。スーパーでホルモンを買った日々。

神崎川のほとりで詩を作った日々。ずいぶん永い間、住んでいたような気がする。

 

20歳までは、詳細に覚えている。30までは酔っ払うと思いだせる。40までは、言われても思いだせないことがある。40過ぎてからは、書いたものをみて生きていることを確かめる。

間違っていなかった。書くことを続けてきて良かった。

 

明治期の無政府主義者、管野須賀子、相互互恵を唱えただけで、投獄された時代。

山縣有朋の屋敷であった、目白の椿山荘にいくのが嫌いだった。仕事でいくのもいやだった。

秋水とともに管野須賀子を処刑したのは、山縣有朋だった。

 

9月21日(火)

20日は日比谷野外音楽堂で、SWEET LOVE SHOWER LIVEの生中継をみる。YUKI サンボマスター、10FEET CHAR 鬼束ちひろ、PUSHIM  A K GENERATION など、6時間あっというまに過ぎてしまった。

やはりサンボマスターのライブにはのせられてしまった。山口隆は叫ぶ。

「フジロックでは、主催者から、きみたち60年代風の音楽だから、ガツンとやってくれよ」とハッパをかけられた。だけど、60年代の若者は、ラブ&ピースを叫んでいた若者は、いま、若者に銃をもたせようとしてるじゃないですか!

ジミヘンやジャニスは麻薬で死に、ストーンズのライブでは発砲があり、人が死に、麻薬の売買がされている。皆さん!これが幸せですか? 今日、日比谷に集まった皆さん! このライブでは人は死にません。麻薬をやってる人もいません。僕は、僕は、こうして皆さんの前で演奏できることが幸せです。演奏してもいいですか?皆さん。

この松村邦洋に似た、冴えない男、山口隆は、80年台に現れたブルーハーツよりもさらにダサい、だが、ロックが何かを一番しっている男である。今、山口から目がはなせない。

18日の龍谷大学の研究会、テーマは二つ、現代企業分析、イギリスのクリティカル・リアリズムを応用、発展させた坂本雅則氏(龍谷大学)は見事な分析の視座となる原理論を展開。当方のこれからの文化産業研究に多大な応用をもたらしてくれた。

竹内真澄氏(桃山学院大学)の北欧社会研究は、世界の人権、社会権、教育権の指標・実践機関である、ILO、ユニセフ、ユネスコに反対し続けるアメリカと日本という、世界の「孤児」の特殊性が、80年代のフランス社会党政権期にドロールのEU主導により、社会権を拡大していった欧州と社会権を拒み、弱肉強食を推進したアメリカ・イギリス・日本の特殊性が強調された。

イラク戦争でも、イギリス、アメリカ、日本の「イジメ」の基本姿勢は崩れなかった。社会よりも、個人の突出(自由)を上におく、アングロサクソン型グローバリズムは、結局、突出した富裕者と貧困層を拡大し、人々の生活を困難にさせていく。

デンマークの年間労働時間は1578時間(ドイツなみ)、スェーデンが1624時間、ノルウェイはなんと1376時間まで短縮されている。日本はまた2000時間を越えた。相変わらずの過労死、自殺、精神病の蔓延、異常事態はおさまらない。1500時間台で、週休3日、1376時間となると週休4日近くと考えがちだが、1日の労働時間が短いのだ。つまり、家庭の団欒があり、父親も子育てに当然関わる時間が確保されている。法律で!。

なぜ、北欧で高度福祉国家が実現したのか?これも面白い話しをきけた。個人の成熟度、社会というものの考え方が、いまだに世間意識しかない日本人とは全く違うのだ。税金が高くなるから働かなくなる、経営者は税金払うために商売をしているので、仕事に実が入らない、なんて日本人的な発想はない。

税金が高くとも、福祉、教育、医療、労働条件、人が幸せに暮すための知恵として、高度福祉社会を選択した彼らは、税金が高いから安心して暮せるのである。自分達のお金が、自分達のために使われるからである。

福祉、医療、教育といった分野まで、民間化、つまりは商品化させ、安上がりの政府をつくり、経営の食い物にし、特殊法人が、我々の税金を食い物にする。世界から消滅しつつある社会主義国だが、医療、教育費が完全無料な国はキューバのみである。

プロ野球スト決行!日本もなにかが変わろうとしている。予感がする。大リーグの経営、すなわち、球団の戦力の均衡、不均衡にならないギャラ分配のシステム、赤字球団への相互扶助など、「それは社会主義だ」ときって捨てたナベツネの思考は、相互扶助が結局、大リーグの利益をあげ、正当な競争が、ファンを満足させることに気付いていない。愚かである。

40代のプロ野球ファンが語った。なんで、俺たちはこんなひどいことがまかりとおっているのに我慢しているのだろう。これはプロ野球だけの問題じゃない。そうだ、プロ野球は日本企業の縮図なのだ。

異議申し立てじゃない。皆が幸せになる方法を、みんなで考えようぜ!。サンボマスターの山口も、野音で同じことをいっていた。自分が音楽産業のなかで自由でないことを自覚する山口。でも、いいたいのだ。それが音楽だから。

過労死や、過労自殺や、精神病を増やしている、異常な企業社会日本の、働き方の根本を、一人一人が考え、知恵をだしあい、いきやすい世の中をめざして現実化していく。余暇時間を奪われた日本人は、自分達が幸せになる方法を考える時間すら奪われている。M・エンデのモモは、いつでもそれを教えてくれる。

私は、お金より時間の人生の選択をした。一度しかない人生。奪われた時間を自分にとりもどす。異常な世の中をほんの少し正常にするだけでいいのだ。

9月15日(水)

最近、文学団体から、同人誌の提出だの、推薦作をだしたら…表彰してあげます。や、自費出版会社から、同人の優秀な人の本をだしませんか?といった一方的な手紙やら、はがきやらが多く、大変不愉快な思いをしている。

おそらく、まぐま が、どこかの文学関係の名簿にのったのだろう。

しかし、狙いは、金をだして、本をだしませんか?というものだ。著作者の出版意欲につけこみ、著作者の資金で、お手伝いをする「資本主義」の原則からもはずれたシステム。

それなのに、有名人の本を同時にだす無神経さには、とほほである。無名の書き手の金で商売し、資金をあつめ、それを有名な書き手の資金に回す。売れる、存続するとはこういうことだ。

まぐまは、確かに他人からみれば、同人誌だろう。また書き手自らが同人という人もいる。しかし、とうの本人は、同人誌と思ったことは一度もない。いまだに異人誌である。

また、書き手はプロの書き手である。つまり、メンバーの核は、出版・企画に携わり、執筆し、少ない金額とはいえ、お金をもらって書いている人々の集まりである。つまり、一寸の虫にも5分の魂なのだ。なめるんじゃない。

共同やら、協力をうたう自費出版社のみなさん。よく調べて、連絡してきましょう。また、不特定多数あてのコピーではなく、直筆などで送ってくると、グッとくる場合もあるでしょう。反感ではなく、ハートをつかんで欲しいもの。

同人誌という形態だけで、食い物にする出版社の姿勢こそが、本が売れない時代の究極の手である。

書き手を掘り起こし、育て、成長させるといった「文化」への貢献は皆無である。このあたりが、ちらりとみえるだけでも、反感はかわないでしょう。

そうした姿勢への反論が、studio zeroの篇プロのスタートであった。無料で相談に応じ、マニュアルで、書き手をすぐ、「共同」「協力」とめいうった、自費出版契約に持ち込むなんてクレイジーな商法はありえない。

相談にのったら、こちらの情報はすべて開示する。インチキ出版から身を守るための「業界」の非常識も詳細に伝える。ようは、本人が納得して、金をだせるかどうかなのである。だから、共同や協力出版社ではなく、本当に真摯な自費出版社を紹介する。

だいたい、モノカキなんて食えない商売だ。有名人だって講演の報酬で食べ、書き物は小遣いだ。それを承知で、「同人誌」を続けるのだ。モノカキは貧乏なのだ。

ということで「資金提供します」「販売のお手伝いします」「大量に購入します」といった蜜のような申し出には、喜んで応じますが、ありえない話なので、こうしたことは、すべて自助努力でやってこそが、鶏口となるも牛後とならない出版社の心意気なのだ。

アイデアライフをみよ。根性のある出版社である。

9月14日(火)

やわらかい本が無性に読みたくなり、大泉・竹熊氏の「庵野秀明 パラノ スキゾ エヴァ」2巻 「ルパン三世 カルトブック」 「童話ってホントは残酷」1・2、「マザーグースって残酷」 1日で読む。さすがに目がぱさぱさになった。

「制度としての〈女〉 性・産・家族の比較社会史」平凡社を読む。女の解剖学(荻野論文)、純潔の絶対主義(田邊論文)が面白かった。

「ポップカルチャーは世界を救うか」蒼天社発行、文藝書房発売、が20日すぎに発売になる。次回作の構想(書き下ろし)に入り、執筆を開始したが、発売元引き受けは、これから。来年中にはだしたい。

「サブカルチャーからポップカルチャーへの」 論文構想をねる。増田聡氏の諸論文は、ポピュラーミュージックの「学術」的見方を示し、一定の基準を提示していて、大変勉強になる。アドルノ、ベンヤミンの論述を基本に語る切り口は、もはや大前提、常識。この論文では、少し違う角度から「ポップ」をみていきたい。また資料探し、準備に時間がかかる。

来月、2日、まぐまパーティ。この日はmoonballという、今一押しのユニットのライブをKさんの仲介をいただき、セッティングした。かならずや満足いただけることお墨付き。久しぶりに才能あるミュージシャンに出会った。

9月8日(水)

台風がすごかった。地球環境がガタガタであることは間違いないのであるが、渋谷駅が水没しかかったのは冗談ではなかった。車で走るとよくわかるのだが、渋谷は本当に谷である。山の手線の下が一番低く、青山方面、三茶方面からくると、先の車がみえなくなる。

いよいよ、プロ野球選手会、スト決行か? ライブドアでも、シダックスでも、はやく加盟して、6×6の球団経営をめざして欲しいもの。閉鎖的な「プロ野球」は、もう壊れるしかない。「たかが選手の分際で…」と語ったナベツネと、大リーグは選手が尊敬されていると語った松井秀喜。民度は中国よりも高いのでしょうか?石原さん。

今週は、よく本が読めた。「東大オタク学講座」岡田斗司夫、再読。田中仁彦「ケルト神話と中世騎士道物語」、ピーター・ミルワード「天使VS悪魔」、スーザン・J・ネイピア「現代日本のアニメ」、おかだえみこ「人形アニメーションの魅力」、草薙聡志「アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?」、日テレ編「押井守論」。

今週読んだマンガ、二階堂正宏「極楽町一丁目 嫁姑地獄篇」、白土三平「赤目」、福山庸治「夜は散歩者」、富沢ひとし「エイリアン9 エミュレイターズ」、高橋留美子「ダストスパート」「うる星やつら」全巻。「らんま1/2」全巻、「犬夜叉」36巻まで、「1ポンドの福音」「めぞん一刻」全巻、「人魚の森」「Pの悲劇」「ルーミックワールド」全巻、…。高橋留美子は読み始めると、とまらない、やめられない。しかし、140冊そうとう体力を消耗した。

石森プロ、角川書店、バンダイビジュアル、朝日ソノラマ、講談社への図版使用の御礼と献本をおこなう。

平田弘史先生から、先生にインタビューいただいた「マンガのディスクール」の宣伝を、先生のHPに掲載いただいた。感謝感激のあまり、「弓道士魂」を再読。また夜があけてしまったのであった。

80年台に活躍した「PSYS」の90年代以降のCDアルバムが、BOOK OFFで100円で売っていたので、全部購入した。いや〜方向性が全くなく、サウンドエフェクトも効果になっていない。楽曲は単調で、なにをしたいのかが、全くわからなかった。もう、終ってしまったのだろうか、松浦雅也。

「lemomの勇気」は名曲だし、「キュービックラヴァー」は、伝説である。マンガ「TO−Y」のイメージアルバム。PSYS、スライダーズも、ゼルダも、バービーボーイズも、楠瀬も、楽曲がヒートしていた。あの頃。(良かった…といいかけて…回顧はじじいの始まり)と気付く。

フジロックのビデオをみる。ルースターズが再結成されていて、結構興奮。結局、70年代のブリティッシュロックと80年代のインディロックから、成長していない自分の姿があらわに。

サンボマスターも、GOGOも、そういえば、60年代フォークやGS、の臭いがするからなぁ。fra-foaは70年代ニューミュージックの香りがする。ブルーハーツは好きだけど、ハイローズが好きじゃないのは、そういうことだ。

ついでに、ロバート・パーマー、トッド・ラングレンを聴く。トッドは本当にイージーリスニングだ(笑い)。

高野寛、久しぶりに聴く。結構気にいる。独特な音階が気持ちいい。ダウン・アップが激しく、メリハリあり。

9月4日(土)

都内、神奈川県内の引き継ぎ、挨拶まわり、まぐま12号の配本を2日間で版元さんとおこなう。インタビューの核、来年のマンガ関連のムック、単行本の内容のうちあわぜ。結局、自分達が聞きたい、知りたいという内容になるので、マーケット上は、相変わらず大変だろう。回りきれなかった書店は、後日。

ようやく、コミック百科事典が送られてくる。自分の執筆分担のところをみる。過去のとりあげられたマンガ家名をみるにつけ、日本の漫画研究は、本当に国内で閉じていると実感。日本のマンガは読むが、外国のマンガを読まない、日本の実情を反映している。ドイツでのマンガ研究は本格的である。

マンガ評論、批評誌がマンガ情報誌にならざるを得なくなり、「批評」が売れないことから、消滅したことは、ビジネスぬきで、「批評誌」を復活させる意義はある。赤字にしないを最低限に、この課題にとりくんでいきたい。

まぐま13号の音楽特集の基本案のたたき台作成中。次回の会議にかけ、内容の絞込み。

高橋留美子 「恋愛の法則 うる星やつら〜犬夜叉まで」 脱稿。400字10枚。

版元さんの紹介で、G書館の社長に挨拶。もう十数年前に、電話で一度お話させていただいた。再開といっても、ほとんど初めましてである。

「スラムダンク」と「ヒカルの碁」を読み直す。ジャンプのピーク時の作品の力はすごい。スラムダンクの感動は、連載時のまま。安西先生(おやじ)がいい味だしてるね〜。

コンビ二で、内山まもるの「帰ってきたウルトラマン」「ウルトラマンA」があるのをみつけ、懐かしさのあまり購入。

マンガ表現論の流れは、「視線誘導」にかたむきつつある。コミッカーズの連載や夏目氏のとりくみ。絵画における視線誘導の書物もでている。「脳は絵をどのように理解するか」(新曜社)ロバート・L・ソルソ、鈴木・小林訳。

8月24日(火)

連日オリンピックを夜中までみているため、朝昼がひっくりかえり、終わりしだい元にもどさないといけない、などと考える。井上康生の一件、女子体操のフォルキナの平行棒の転落は、驚きを隠せない。

ソフトボールもルールに助けられてのメダル。感動したのは、北島の100平泳ぎと体操男子団体、女子マラソン野口。なんといっても、同世代のアーチェリーの親父教師だ。やはり同世代の工藤の200勝にも感動した。(プロ野球だが)

浜口京子もアニマル浜口のほうがめだっていたようで、苦笑。金をのがし残念。室伏の銀もおしい。

残るはシンクロか。

先だって、まぐまの重鎮、Oさんと会談。長時間にわたり、スポーツ、三島由紀夫と全共闘、西洋絵画に描かれた天子論、ケルト民族の妖精学、西洋音楽史、広松渉の哲学、宮台×宮崎、沖縄問題と憲法、安保問題など多岐にわたり意見をいただく。、哲学史、ドゥルーズ翻訳の裏話、現代フランス思想についてもレクチャーをいただき、大変、充実した時間をすごした。

ドイツでなぜ、哲学と音楽が発達したのか…、この課題についても、事後。

師というものは、人生の目標でもある。私にとっての勉学の師は同志社大の竹内オサム先生、岡山大学の橋本勝先生、そしてOさんである。

「ケルト妖精学」井村君江、「ベンヤミンの使命」三原弟平、「不可能な交換」ボードリヤール、「天使の美術と物語」利倉隆、を読む。

9月も引き続き、天使と悪魔、妖精と精霊、怪物と怪獣についての書物を読み込みたい。

8月19日(木)

8月8日の渋公の吉川晃司のライブをみる。39になった吉川は、同世代と思えないほど、格好いい。(こっちがオヤジ化してるのだが…)

ただ、布袋と較べると楽曲に難がある。さりとて布袋の楽曲がGREATというわけでもないが。しかしなぜか格好いい。ドラムのポンタ秀一さんはともかく、後藤次利がいまだに若いのには驚く。

25日にはGO!GO!7188のライブ。ドライブしたGS感一杯のGOGOだが、奇妙なコード進行と楽曲が、美微妙なアンニュイ感をかもし出し、癖になる。MOTVでライブ生中継があるので、またしてもブラウン管のお世話に。

最近、知念里奈をTVでみないと思っていたら、ミュージカル、ミス・サイゴンに出ていることがわかった。本田美菜子版がすばらしかったので、知念版もみたい。かといって劇場にいく気もないので、ビデオを待つ。

「日本文化論の系譜」大久保喬樹/「美少女の現代史」ササキバラ・ゴウ/美術手帖 96・2月号「かわいい」特集/二階堂黎人VS新本格推理作家おおいにマンガを語る を読む。

同世代のササキバラ・ゴウの「美少女」は、わかりやすいが、既知のことが多いのは入門書だから仕方がない。萌えの前兆を吾妻ひでおにもってくるのは、同感。

8月15日(日)

ようやく、まぐま12号の編集が終る。印刷所との打ち合わせも終る。土壇場で、また疾患がでて、医者通い。やはり夏はどうもだめだ。おかげで、アルコールを断ち、ようやく、先日飲んだ。久しぶりのアルコールで、くらくらら。

版元さんとの調整も終わり、9月初に各書店への挨拶と、引継ぎをおこなう。本当にいろいろとお世話になった。出版計画とアイデアを持ち寄る。

8年ぶりの単著「ポップカルチャーは世界を救うか」も、最終校正も終わり、いよいよ、上梓にむけ最終調整。

休む間もなく、8月末の締め切りが2本。少しインターバルをいれてとりかかりたい。

ケーブルテレビで、ウルトラマンを2日にわたり、全話放映。当然全部みた。忘れているエピソードもあったが、ウ−の雪ん子のエピソードで、思わず涙ぐむ(笑い)。ジャミラで、涙ぐむ。シーボーズで涙ぐむ。昔泣いたところで、やはり、今も泣いた(笑い)。メフィラス星人が、結構笑えた。インチキ紳士ぶりに拍手。井出隊員は、ナイーブでおっチョコちょいで、愛すべきキャラ。

まだ、理性への信頼も、科学への信奉も生きていたころの、物語。いい時代だったなぁと感慨にひたる。

ウルトラマンの勇気は、間違いなく、自分を支えていたのだなぁと、ひとしきり感慨にひたる。

マンガ表現論(3)の草稿をねる。大塚英志「キャラクター小説の作り方」、木村裕一「童話のつくり方」を読む。マンガにおけるキャラクターと世界観の相補性を考える上で、大変参考になる。今のマンガはキャラが強く、世界観がだめになっていることが確認できた。これは、人間が弱っていることの証である。心も体も「動物化」したキャラの蔓延は、社会の行き詰まりを…。

「天使の饗宴」を読書中。

今週読んだマンガ。井上三太「ぶんぶくちゃがま大魔王」、田島×大塚「多重人格探偵サイコ」、星野之宜「残像」、山本英夫「ホムンクルス」3巻。

忙しくて、論文など、HPが日記以外更新はできない。これは、日程調整しないとだめだ…といいながら半年たった。

8月8日(日)

相変わらず「まぐま」12号の編集である。合間にビデオをみたりしてるから、なかなかはかゆかない。

10日には、完了しないと、月内発行がピンチ。急ごう。

なかむらたかしのアニメ「パルムの樹」をみる。2年まえに、ショート公開、確か2週間くらい小屋にかかって、その後…という作品だが、暗い、救われないという評判は、なんのその、面白かった。現代のピノキオ版だが、その地下世界の構造、「YES」のジャケットデザインを彷彿とさせる背景にも関心。さすがにチューブの魔術師といわれているだけのことはある。

昨夜、編集を放り出して、お誘いあり下北沢へライブへいく。帰ってきてから、またコード分析をやってたので、編集できず(笑い)。

7月27日(火)

クーラーを入れない生活。おかげで、冷房病にもならず、汗を流して新陳代謝がいい。奇跡的に今年は夏風邪をひかない。これも扇風機のみの生活のおかげである。

『江戸のサブカルチャー』の原稿40枚終了。資料の読み込みで眼がかすんだ。あらためて「武士道」について、かねがね思っていた疑問が解決した。新渡戸稲造から三島由紀夫の「葉隠」まで読んでしまった(笑い)。

幕末から明治初期の武士階級の「商業」については、『日本ナショナリズム史論』(木村時夫)が大変参考になった。また「天皇制」をめぐる幕末から昭和初期の、国民文化の分析は、「伝統文化とファシズム」竹山護夫論文が秀逸である。三島由紀夫分析は、「文化・イデオロギーの危機」中原章雄論文が、三島の「絶叫」の本質の的を射ており、論文の基本コンセプトに影響をいただいた。

大江健三郎が、なぜ三島賞の選考委員になったか、それも記者会見までひらいたのかの謎もとけた。

「われらの時代に」「二ッポン問題」宮崎×宮台、「ファンタジーの冒険」小谷真理、「武道論」富木謙治、「大江健三郎 再発見」すばる編集部、「三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか」宮崎正弘、「絵画の教室」谷川渥…、他多数。こんなに本を読んだのは高校生以来である(笑い)。

あらためて読み直したい漫画、「ギャラリーフェイク」(細野さん)「ベルセルク」(三浦さん)「モンスター」(浦沢さんの)最近読み直した劇画、平田先生の「薩摩義士伝」、読んだマンガ、「ブラックジャックによろしく 精神科編 9巻」 木城ゆきと 初期短編集も。

「萌え」の分析のために、「天使」と「妖精」関係の本を8月は大量に読む予定。AKIRA論のために、和洋の宗教書も。ただ、専門家ではないので、あくまでも論文のためのネタ探しでである。

さぁ、まぐま編集と平行してきたが、明日、あさってからは、編集に集中したい。

7月22日(水)

久しぶりに永作博美がらみのドラマがはじまり、末期ガン患者に扮する天海佑希とその別れた夫の再婚相手である永作とのからみがはじまった。来週みて、見つづけるかどうか判断したい。おそらくみるだろう。(笑い)

さて、参議院選挙も一段落し、昨年の選挙以来の政治動向予想がほぼあたった。

大別すれば、3とおりの評価ができよう。

一つは55年体制終焉後のイデオロギーを基軸とする「保革対立」図式の完全なる終焉、二つは、戦後保守政治のめにみえる瓦解、みっつめは、戦後民主主義の浸透度の評価である。

社共の「社会民主主義」が、「護憲」「平和」の「保守」的言動に終始し、憲法9条を「世界平和」のためにいかにいかすかという、新自由主義に対抗すべく「平和綱領」的具体的な指針をいっこうに示せないこと、それが、9条改正、日本が世界で戦争をできる体制をつくろうとする自民・民主の戦略に対して「空想的平和論」的な印象を免れないこと。現実として、日本人が海外で人を殺し、殺される輪のなかに入ることを許してしまうこと。

社共は、弱者を保護し、労働者に依拠し、年3万人をこえる自殺者対策、雇用のために働いている姿がみえない。

「人道支援」のもとに、海外派兵をくりかえしおこない、実績づくりをおこないながら、国民の戦争アレルギーを徐々になくす「保守政治」の戦略は一定の功をなしたといえよう。マスコミが中選挙区制から小選挙区制への移管を押し、2大政党に有利な体制づくりの基礎を10数年かけておこない、細川政権の誕生にかんがみ、世論の操作をおこない、財界とのからみから2大政党制にゆるやかに移行し、保守政治延命の推進をはかる大きな役割をはたしてきたが、現状はその戦略も功をなしたといえよう。

しかし、それが、かえって日本の政治、保守政治を解体においやった。末期ガン患者たる自民党への抗がん剤たる公明党、すでに、細川政権以降、保守政治の枠内で、自民・民主どちらが政権をにぎっても有利なように、下準備をする財界、官僚。民主党下ではより意向がとおりやすい。

国民は自民的利権誘導政治の腐敗に愛想をつかし、「生真面目」な保守にかたむいたが、それは、自民的な保守への失望にほかならない。「民主」がその受け皿になったが、その成果は期待できないことは明確。だが、自民よりはいいという国民の「否定的選択」に、数年後に、さらに失望し、完全なる政治的ニヒリズムにおちいることの危険性が高い。完全なる思考停止。為政者のいいなり政治。

それは、地方への金の循環を切ったために疲弊する地方経済、年金問題を解決するためには、年金システムのみならず、腐敗した社会保険庁の解体(改革)を余儀なくされ、アメリカの恫喝のもとでのグローバル経済化の促進のための銀行対策をすすめなければならないが、これを推し進めればすすめるほど、基本的に「国民」の利益が悪化するのである。

民主党構想は、基本的に、国内の「競争」を強化し、グローバル化を「歓迎」するもの。自民党下で守られていた「利権」は消え、「競争」の勝利者に分配される。日本的な資本主義からグローバルな資本主義への移行である。

公平な資本主義は、それだけ、弱肉強食度がたかまり、「普通」の人々が生きられない世の中になる。公平かつ互恵なる資本主義の形成はできるか?

9800万票のうち、5600万票(投票率 56,5%)の選挙結果(比例)は、242議席うち、改選121議席の49議席にすぎない。72議席は選挙区により、定数2〜3名平均の議席に分配される。これは、上位二名、当然2大政党のみの当選となる。

参議院における比例方式に選挙区を一本化し、比例と選挙区を足した数で、ドント方式により議席再配分することが、死票をなくす見地からのぞまれる。選挙区選挙はたとえば、人口わずか76万人の島根県が定数3人、840万人の神奈川県が定数6と、人口比で10倍以上にもかかわらず、議員数がわずか2倍と、大都市における民意が反映されず、地方の「保守政治」を守る選挙制度の「民主主義」的改革が必要である。

民主党が真に「民主」なれば、こうした2大政党に完全有利な選挙制度をも改正し、民意が反映されるシステムをも考慮しなければならないだろう。そもそも小選挙区制、2大政党制こそが、金持ちをより金持ちに、貧乏人をより貧乏にする「アメリカ」という国のたどった末路なのである。

政権交代のために小選挙区制、2大政党制に傾いたが、ただ政権交代すればいいという、「論調」には困ったものである。(宮崎哲弥さん)

日本人は、格差のあまりない、個々人の競争より、団体で集団で国力を維持する国民気質である。日本がアメリカの真似をすればするほど、日本人が苦しみ、国力が衰えていることを考慮すべき。日本人はできもしない主体性や個人幻想をすて、ゆるやかな集団主義で対処したほうが得策である。これは狭義のファシズムとは異なる。

日本が本当に生き延びるためには、アメリカの真似で、伝統的な国力を根こそがれないことだ。

7月9日(金)

突然ですが、「プロ野球」にあきれ果てて、「プロ野球」断ち、宣言いたします。今期は日本の「プロ野球」をみません。大リーグはみます、BSのですが。

こんなときだから、応援したほうがいい。とおっしゃる方も、多々おられることと思いますが、ナベツネと読売嫌いの当方としては、今回のプロ野球を会社の「人事異動」としかとらえない、前近代的な考え方に支配された業界に愛想がつきました。

確かに選手の年俸高騰はあるでしょう。しかし多くの方が、論じるように、親会社のいいなりの球団経営。赤字補填、大球場使用での採算性の問題。巨人中心の業界経営。地元ファン軽視。

オーナ会議の閉鎖性、ライブドアをもちだすまでもなく、新規参入者への障壁。

すべてが、化石のような体質で、これ以上の発展はのぞめません。ファン、プロ野球選手会、そして球団が同じーブルにつける体質をつくいらないかぎり、プロ野球に未来はありません。

江川電撃トレード、桑田、清原問題、札束で集める選手、原電撃解任…。もう巨人、いいかげんにしてくれ。1球団の思惑で、野球界を汚すな。

江川さん。経済的事情ばかり申し、巨人弁護ががっかりです。原さんの想いがわからなかったのでしょうか?

というわけで、大リーグのようにストライキをうてない選手会の、弱腰体質にもへきへきです。大リーグ改革も、会社と選手の本気のやりとりから生まれました。「球団にまかせて、ぼくたちはプレイをするだけ」なんて発言を選手がしている。この国の駄目さかげんは、ついにプロ野球をも駄目にした。

古田さん、ストライキですよ。ガツンとやってちょー。選手あってのプロ野球ってことをナベツネに思いしらせてください。まぁ期待はあまりしてませんけど。

この怒りはおさまりそうもありません。だから身勝手ながら野球断です。お前一人、勝手にどうぞと思われる方もいらっしゃるでしょう。なんの影響もなく私ひとりで吼えていても馬鹿ですね。オーナ会議の爺連中の様子に呆けてしまいました。日本社会には、途方もない軋みと老朽化がおそってきてます。

新しい船を動かすのは古い水夫じゃないだろう。自民党、経団連、読売、爺の墓場。利権の聖地。

7月7日(水)

「江戸のサブカルチャー」の執筆のため、連日「読書」の日々。

なにやら、武士道ブームが、ここ数年続いているらしい。「葉隠」やら、「バガボンド」も売れているのは、その影響かと思っていたが、今日の新聞では、ジョージ秋山の「武士道」もでるそうだ。三島由紀夫の名まで、持ち出されている。

確かに、完成された武士道の理念は、江戸から明治を作る際の、原動力になったことには、間違いない。岩崎弥太郎、渋沢栄一、福沢諭吉…、江戸末期の下級武士として育ち、藩財政にたけ、今でいう会計学に通じ、「商業国家」をめざす理念として、質実剛健、質素倹約、家徳志向などが指標として役立ったのだろう。

枡野浩一『漫画嫌い』 藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』 再読。J・M・アダン『物語論』、バルト『物語の構造分析』、谷川渥『絵画の教科書』、今福龍太『クレオール主義』、ギー・ドゥ・ボール『スペクタクルの社会』 …かなりの本を1週間で読んだ。

マンガ表現試論A 物語の機能とマンガ表現 執筆完了。400字40枚。物語機能の分析は、結構楽しみながら書けた。「大きな物語の終焉」なんてうそっぱちだったことが、確認できた。人間は今も昔も物語が好き!

ここ数日、酷暑と湿気で、体がだめである。エアコン絶ちしていたが、さすがに冷房を入れた。

小野耕世さんから、原稿をいただき、ようやく、原稿が8割。12号の発刊は20日ほど、遅れる。

アップしないといけない文章が、かなりの数になったが、なかなか。そのうち更新したい。

6月28日(土)

アニメ「美鳥の日々」が佳境を迎えた。美鳥が病気で、眠りつづけ、思いを伝えられない、澤村の指に再生した日々。彼女の幸福感は、心が元の体に戻って、記憶を失ってさえも、澤村への気持ちを伝えられない。

そして、ついに「告白」をする勇気。少年サンデー誌でありながら、昨今、純粋に「恋心」を描いてかえって好感がもてる。

「妖怪人間ベム」の最終回をみる。子供のころにみた印象とかなり違っていた。最後、人間たちによって焼き殺されるシーンは、ショッキングだったが、今みると、彼らが死んでいなかったこともあらためてわかり、さほどである。

ベムはいう。「妖怪人間は、人間の正義を守り、悪を滅ぼすために生まれた。我々が人間になったら、人間に巣くう悪を滅ぼすものがいなくなる。人間を守ること、それが妖怪人間の使命なのだ」

人間の悪を姿に投影した、妖怪人間。その目的が、人間を守ることであっても、その姿と特殊能力によって、人間から差別され、疎んじられる。人は自分の悪を弱者に投影し、その正義を強者に投影する生き物である。

その逆の心性をもつものは、今生では生きにくいものとなる。そのことを意識したうえで、生きる。その結果がもたらした負の力を抱えてもさらに、生きなければならない。

民族、血統、家族、性差、年齢、階層、階級、職業、所属、社会的地位…、

再分化された「私」という人間に、つけられたレッテル。他者の評価によってしか、「私」のない、日本的個性。言葉だけの公共性、市民が住む国日本。あるのはいまだに世間と庶民だけだ。

イラク人質問題で噴出した「自己責任論」と、小泉訪朝会見後の「家族会へのバッシング」、これは、まさにメディアに露出した「有名人」への攻撃する対象としての「動物園」化であり、攻撃する側の「動物化」である。

そこには、正義も悪もない。ただ、権力に対して、もの申したてることへの、盲目的で、卑屈な反感だけが存在する。「たいした人間でもいないのに、えらそうなことをいうな」。出る杭をうつ。足をひっぱれ。

この国は、国民主権の国ではなかったのか? 憲法の理念や、意義、制定の足取りや、戦後に果たした役割…、勉強すらしない人間が、「憲法改正」を声高に叫ぶ。それは、ただ、「護憲」を叫ぶ、人間よりも醜悪である。

反感をむき出しにする前に、相手の話しに耳を傾け、誰もがわかるように、ロジックを組み立て、話しをする。こんな前提でさえ、いまだにこの国では、まともに機能しない。

福沢諭吉はその多くの著書で、西欧列強との比較で、そうした、個性の総和としての「主権在民」を高く評価し、日本人に欠如したものとして、強く認識している。

ポストモダンや「大きな物語の終焉」など、言葉だけの世界。日本は、「政治的に」いまだに、モダンですらなく、個の総和たる言論の結果もたらされる「物語」さえ、つむいでいない。

未来はプレモダンのままであろうか?絶望も希望もなく、ただ平板な、世界だけが延々と続く、悪夢の国、日本。

6月22日(火)

マンガ学会終了。今回、マンガというテキスト、文化現象、産業など、様々な切りくちで語りうるマンガについての批評、評論、研究のあり方について、考えさせられることが多かった。

特に、教育の現場で、マンガを実践する報告については、マンガをとおしたコミュニケーション、デイスカッションから、共通の関心事としてのマンガ作品についての、グループごとのテーマの選択という方向性が、確認できた。テーマは心理学、社会学、経済学、政治学、教育学、哲学、文化人類学、ジェンダー、文学、美学、様々な切り口で語ることが可能である。

一般教養としてのマンガ学を考えた場合、学生の関心は個々であるから、能動的にテーマ選定にかかわれるように、設定することが教員にとって必要であろう。

7月は原稿の締め切りが3本、400字で100枚くらいになる。編集作業と同時進行で、かなりきついことになりそう。はやくライブにいきたいものだ。作業中は、もっぱらBGMは山下久美子。

今週から、12号のプレ書店まわり。予定チラシの配布と配布書店の拡大見込み。書泉グループと青山グループが鍵。次々号以降、50店舗から80店舗までの拡大をめざす。

単著の校正にはいる。7月中にできればいいか。

6月17日(木)

イラク戦争に反対するアメリカの少女の平和集会でのスピーチ集『私たちはいま、イラクにいます』(講談社)のフォトを担当したジャーナリスト森住卓氏が、産経児童出版文化賞受賞を拒否した。

森住氏は、精神的ダメージを受けた高遠菜穂子さんに代わって、記者会見で報告した人だが、産経新聞のイラク戦争報道を「日本政府やアメリカサイドの報道に偏り、イラクの独立のために抵抗している人々をテロリストと呼び、アメリカの戦争に協力的です」と拒否理由を述べた。

9.11以降のアメリカのファナティックな行動は、レジスタンスとテロリズムの区別さえつかなくなっている。日本のマスコミも、抵抗する者をすべてテロリストと呼び、アメリカよりの報道を続けてきた。

だが、テロリズムであろうと、レジスタンスであろうと、今日も一般市民、女性、子供が殺されていることは、事実である。日本政府とイラク戦争加担報道をする新聞、マスコミは、残念ながら、人殺しを正当化しているにすぎない。小泉人道支援を手助けするよりも、戦争終結にむけた知恵をだせ。大本営発表のオウム返しと化したマスコミには知も涙もない。

戦争から60年。日本人は他国の人命が次々に奪われているにもかかわらず、国益と称して、アメリカの戦争を許している。本当に情けない国民になったものだ。

森住さんのような、一本筋のとおったジャーナリストが、まだこの国にいることに、久しぶりにすがすがしい思いがした。

有事法案も採決され、年金法案も強行採決された。

日本という国にあきれ果てた。私腹を肥やす官僚に国が食いつぶされ、企業のおこぼれで生きる政治家と、企業のスポンサー料と言論を天秤にかけるマスコミ、官僚、政治家、マスコミが、すべて国益とともに砂金流れる川から我田引水する。

こうした体制を許し、またそのおこぼれにあずかる民住む国が日本だ。だから、アメリカのおこぼれを拒否することはできない。

日本のドキュメンタリー作家よ。ムーアのような映像をなぜとらん。小泉首相の多重人格と健忘症こそ、格好の素材ではないか。

6月13日(日)

まぐま12号の編集にあけくれる。まだ未到着原稿もあり、DTP完成の延期が危ぶまれるが、なんとか、納期遅れをださないようにしたい。

社会文化学会、研究会。「ナショナリズムとシチズンシップ」について。26日の本会での報告が楽しみ。

マンガ表現論Uの執筆を続ける。見る行為から読む行為への連続性の表記。そもそも、「読む」という行為の対象であるテキストに入る前に、「物語」そのものの構造分析に入る。ウラジミール・プロップの「魔法物語」の31の機能性から、物語の7つのプロトタイプへ、人類に共通する文化構造、「物語」性、キャラクター分析に入る。ユングを読みながらキャラクターのπ型が、物語に及ぼしている度合いを考える。

人格=個性であった60〜70年代のマンガが記号化されはじめたのが70年代後半から80年、江口寿史の「ストップひばりくん!」と大島弓子の「綿の国星」がその兆しと考えている。ひばりくんは、個性が「ジェンダー」と「ファッション」に、「綿の国星」は、チビ猫に猫耳の「萌え」の兆しを感じ取ることができる。

記号の組みあわせで、キャラクターをつくり、物語にあうように変形する。または、物語がキャラクターによって変形させられる。

「ほしのこえ」を再見する。観なおしてわかったことがある。この物語には「大人」はいない。そして家族もいない。共同体もなく、社会もない。この映像は、二人にとって現実でありながら、観るものにとっては、すべてその二人の心象風景である。

宇宙で戦うミカコと地球に残るノボルのそれぞれの孤独と愛。二人の「寂しさ」は、現実であり、かつ、生きることの「哀しさ」を、観るものに与える。それは、普段意識しない自然との対比で、我々が自然に生きる「空虚」さに入り込んでくるからだ。だが、その空虚さのなかに、ほんの僅かな生への意思がこめられている。それが、観るものの心にひっかかるのである。

声優版よりも監督自らがアテレコをしているオリジナル版のほうが、なぜか入ってくる。それは、喋りが素直だからだ。

まぐま11号の「インディーズムービー」特集でも、この映画を上げる人が多く、アニメときいて、みてみたが、次回作を観てみたい一人であることは間違いない。

6月5日(土)

2日、渋谷OーWESTの「サンボマスター」のライブをみる。噂どおり、三上寛と遠藤憲司をロックしたバンドだが、山口隆のギター、ボーカルの説得力はなんだ。激しいビートでも、ブルースでも、こんなに入ってくるボーカルは久しぶりだ。これはパンクだ!。山口は福島県、ベースの近藤は栃木県、ドラムスは千葉県出身、とくに山口は、松村邦洋を少しやせさせ、眼鏡をかけた、田舎者まるだしの冴えない風貌である。

それが、ギターを弾き語ると同時に変貌する。魂の語り手に。特に岡林信康の「今日を越えて」をアレンジした曲では、感動がこみあげてきた。かっこ悪い格好よさ。これはブルーハーツ、ブランキー・ジェット・シティ、fra-foa以来の衝撃。

アニメ映画「星の声」をみる。これも噂どおり、綾波レイのようなつぶやきとともに、ミカと昇の友情(愛情)が真夏の太陽、蒼い空、そして、夕暮れ、冬の雪空などの印象的な映像と美しいピアノを背景に、ささやくように語られる。そして、二人の声はユニゾンし、ミカは国連軍の探査隊に、昇は、地球での航空隊に編入し、引き裂かれていく。

ミカの送るメールはシリウスから、8年もの歳月を経て、地球の昇に届く。二人の友情は時空間を隔てて愛に変わっていった。二人の希薄な存在感が、愛を深くするというこの逆説。引き裂かれるなんの理由もなく、なぜ二人は離れ離れになったのか。

久しぶりに、大林宣彦の「HOUSE」を観る。はじめてみたのは25年前、今みても、映像がCGではだせない手手作り感が、実験的で楽しい。池上季実子、神保美喜も。大場久美子も松原愛も、みんな昔のままである。スイカを食べながら、口の中から目玉をみせ、骸骨と踊る南田洋子も若く、きれいである。70年代の映画を観ると必ず当時にタイムトリップする。

皆、家に食べられていくのだが…。

岩瀬達哉氏の「年金大崩壊」を朝日ニューススターで観る。昭和16年に軍費調達のために作られた法案が、そのまま戦後、年金法にかわっただけの内容であることを暴露。しかも、官僚が天下りの財源のために作られたものであることも明確に。現在150兆円の基金が、厚生省から委託された年金資金運用基金という天下りたちによって、投資という名の無益な運用をされ、年間3兆円もの損失を、いまだに続けている。これは、いうまでもなく全部、我々、国民の積立金である。国家的な詐欺が、法律という名のもとに許されている。

現在。30兆円の運用を政府は許しているが、数年後には147兆すべての運用をさせるとのこと。まあ、グリンピアや公用車や、天下り連中の「私腹」は、こうした官僚支配を許す政府を現政権の協力で作られてきた。

それはなぜか。自民党自体が、この基金を戦後、農村の票集めに流用したからである。農村の減反政策、都市との文化、経済的差別を、金で解決してきた。戦後政治は拝金主義の亜流でしかない。

ドイツとフランスでは、日本の年金基金を研究し、「戦時中よりもひどい」「参考にならない」「あきれる」と批判している。このような自体でも、日本では政変もおきない。「日本人はおかしい」とカナダ人はいう。

しかし、現政権により、法案の強行採決がとられ、一元化を唱えた小泉首相自らが、踏みにじった年金問題解決の道。それでも、国民は怒らない。それは、なぜか。共産党以外の政党がすべてつくってきた歴代の政権が、このような事態をつくりあげてしまったからだ。つまり日本人の選択の総和の上に積みあげた非道なのだから。政権を批判することは自分を批判することなのだ。

しかし、共産党アレルギーのあるこの国では、欧州のような「社会民主主義」もうまれず、まともな政治意識はついに、生まれなかった。もう日本人は選択する政党がないのだ。与党も悪いが野党もだめだというマスコミ流、傍観者うずまく国では、だめな政治の原因が自分自身にあることがわかっていない。

私は、アニメ映画「星の声」に通じる、このような非道でさえも、諦念として受け入れる、日本人の人格構造、無抵抗さかげんに、発言者としての意地だけは守り抜こうと孤独な抵抗を続けたい。

今度の参院選挙は、まさしく、ラストチャンスである。国政選挙で投票率が4割を割った時点で、事実上、シビリアンコントロールは崩壊し、まさに国民の1割の支持(100人中10人の支持)で国政を動かす議会制「ファシズム」体制にすみやかに移行する。この影響がどのような市民生活への悪影響を生み出すかは、明治期以降の日本の歴史を教えない学校教育で育った世代にはわからない。

小泉、石原という「ファシスト」は、我々の選択の結果生まれた自己批判ができない日本人の鏡である。だから、我々が変われば、こういう政治屋は消えていくのだ。だが、無理だろう。それが戦後日本人なのだから。

戦後は憲法を変えることで終るのではない。我々が変わることで終るのだ。

6月2日(水)

先日、1コママンガ、風刺漫画家の橋本勝先生のインタビューをおこなった。政治漫画再生計画と銘打ったインタビューは、新たな政治漫画の未来を示唆していて、大変意義があった。詳細はまぐま12号で。

大友克洋先生の写真掲載の許可をいただき、ようやく、大友克洋論の決着。先生は、スチームボーイの公開前で、大変お忙しい。すぐにアメリカへまた旅立たれていった。

6月19日〜20日と、川崎ミュージアムで、マンガ学会が開かれる。今回は松本大洋、士郎正宗、マンガ文法論の展開など、自分の専門分野とリンクするテーマが多く、大変楽しみ。19日は日本トンデモ本大賞が千代田公会堂で開かれるのだが、残念にも重なってしまった。じつに残念。

CTのアニマックスで、妖怪人間ベムのアニメをみている。子どものころ、みた印象より、かなりまとも。物語も出来ているし、人情も義理もある。これは妖怪人間のほうにだが。人間は義理人情のない悪役がいつも人のいい人をいじめたり、騙したり、殺したりしている。人間のほうが、妖怪人間にふさわしい。

でも、あの指3本の絵をみると、なぜか哀しい気持ちがこみあげてくる。なぜなんだろうか?

また、少年ではなく、少女が同級生を切り殺した。殺人の衝動は、殺意より先に巻き起こる。

5月28日(金)

27日、岡山大学での「情報文化論」のコメンテーター。マンガについて、あらためてさまざまな切り口があることを実感。社会学としてのマンガ、文化人類学としてのマンガ、産業文化論としてのマンガ、文学としてのマンガ、マンガはテキストであるから、クリティークをとおして世界を物語ることが可能である。

8年ぶりの単著がようやくまとまる。7月発売をめざして、校正中。発売は文藝書房。企画、発行は蒼天社に担当していただく。タイトルは「ポップカルチャーは世界を救うか マンガ・アニメ文化の快楽と商品価値」

虫プロ、東映動画、竜の子、東宝…、数多くのアニメの作画、演出をプロデュースしてきた大貫信夫さんのインタビューのテープおこし中。手塚治虫、笹川ひろしなど、エピソードが大変楽しく、爆笑の連続。キューティハニーからタイムボカンシリーズのお色気路線をつくったのが大貫さんだ。坂口尚、永島慎二、林静一、富野由愁季、天野嘉孝、押井守…、いろいろな交友がアニメ夜話となって炸裂。こうご期待。

荻原、梅田両氏が企画に携わり、執筆された「絶対!クラシックのキモ」(青弓社)を読ませていただく。梅田氏の編集者魂に感服。

マンガ、アニメ関連のインタビュー集を考案中。

5月20日(木)

シベリア抑留者の記録、草稿を読ませていただく。解説文の依頼をいただき、ここ数日、ロシアと日本の関係を江戸時代にさかのぼり、調べてゆく作業をおこなう。帝政ロシア時代の日露戦争にさかのぼり、スターリンが日本に復讐魂をもっていたことに驚かされる。

ロシア革命成就を干渉する1918年のシベリア出兵で、日本とソ連の関係は最悪化する。両国ともジュネーブ条約に調印していなかったたために、後にソ連の対日電撃参戦、ポツダム宣言違反による関東軍将兵60万人のシベリア抑留、6万人の死者が現実のものとなってしまった。

独裁者スターリンいわく、「日露戦争以来の日本の特別勘定を精算してもらう」。これが、敗戦国として日本が代償として支払った「ソ連国土復興計画」という名の強制労働であった。

尚しらべてゆくと、シベリア抑留者は日本人だけではなかった。ソ連国内から政治犯、戦犯445万人、ドイツから150万人が使役(死役)に借り出されていたのである。独裁者スターリンは、その「共産主義」に従わない者を政治犯として収容所おくりし、その違反レベルで、極刑から終身労働まで好き勝手に扱っていた。

そして、さらに驚くべきことに抑留者は、関東軍の上官の軍令に従い、自らがシベリア行きの貨車に乗り込んだのである。ここにソ連と日本の上層部がとりひきをしたのではないかという疑いの念が発生している。飢えと寒さ、虱と赤痢、終わりのない重労働。仲間の死体を埋めるにも極寒のシベリアの地では、土が凍って掘れない。掘ったころには体力がつき、さらに死者が増えてゆくのである。

戦後1953年に、日本はようやくジュネーブ条約に批准。だが、「抑留国が捕虜の賃金残高(未払い賃金)の照明書を発行し、捕虜の所属国がその残高を決算する」という条文に、日本政府はいまだに答えていない。被爆者援護法も制定せず、多くの被爆者が死に絶えてゆくのをまつ政府と同様、シベリア抑留者の平均年齢は80歳を越え、死に絶えるのを待つ政府。

アメリカ軍による国民の「民主主義」教化、ソ連による「共産主義」教化された抑留者のその後の命運も、戦後日本の「政治」を規定してしまった。こうしたアメリカとソ連の影響を越えたところで、「神の国」づくりや「富国強兵」が頭をもたげてくる。

我々はもうすでに、次なる戦火の過ちに無意識に足を踏み入れたことに気づいていない。

5月15日(土)

マンガ表現論Uの執筆にかかる。前回、提示した水木しげるの「見る小説」「読むマンガ」を手がかりに、読書論、観賞論が、文化論につながるポイントを提示したい。物語論は、その民族性を反映しているから、物語文化論としてのマンガについての記述を最終的にかけるかどうか。

10年前のマンガ論が、テクニカルな記述であったためか、今回はかなり難産。しかし、今大切なのは、マンガに表現された「文化」「情報」「魂」とでもよべるものである。

蒼天社、カーツゥーンマガジン「EYEMASK」28号の完成が迫る。今回はジョージ秋山が日本が高度経済成長に踏んだ過ち、拝金主義とその暗部としての公害を全面的に描いた漫画「銭ゲバ」と、資本主義システムの自己責任にあえぐ庶民を描く青木雄二「ナニワ金融道」について雑感を掲載させていただいた。

この雑論では、資本主義システムにおける拝金主義が、人格が貨幣によって物象化された銭ゲバの「特殊」人格に一般化され、その結果もたらされた公害垂れ流し企業オーナー(今風にいえば、雪印や三菱ふそうのような)としての非人道性と表裏一体のものとして描かれていることを著した。拝金主義は人間を金としてしかみないから、非人道の道を歩むしかないのである。

だが、時代が30年たってみれば、「ナニワ金融道」にみられるように、我々の拝金主義は、人格の奥深くに浸透し、経済的価値観としての「損得勘定」が、世を席巻し、善悪を評価する倫理的価値観、美醜を判断する美的価値観までもが、損得勘定の秤にかけられ、政治屋によって売り買いされる時代になった。

グローバリゼーションは、かつては「新自由主義」の名のもとに、規制緩和、自益者負担となってあらわれ、拝金主義を世界のスタンダードに位置付けるばかりか、馬鹿くさい「勝ち組み・負け組み」選別思想を国民に植え付けた。その結果、人々をマッチョな力による脅しと殺しによってひざまずかせるグローバリズムの正体が、卑しい我々の「損得勘定」にすぎないことも国民に忘れさせた。国益と称して「戦争」という人殺しに加担する日本国政府は、骨の髄まで金まみれになった輩の政治屋によって運営されている。

そうだ。日本の政治は、たかが、損得勘定 だけで運営されている。損得勘定だけの政府を党を、人を、一体誰が尊敬できようか。信頼できようか。

でも、銭が欲しい。私腹をこやしたい。拝金主義の裏腹としての新興宗教。しかし、信者の精神的至福は主宰者の物質的私腹となる。今の政治は拝金主義政党と「新興宗教」政党が、損得勘定で一体化した、もっとも醜悪な政治である。

この流れを変えられるのか?

5月10日(月)

連休は、伊豆に劇画界の巨匠、平田弘史先生をたずね、インタビューさせていただいた。そのド迫力ある劇画は、先生の生き方と密接、不可分であり、永遠と語りおろすそのパワーに圧倒され、ぬるま湯の自分の人生を反省させられる日々おくった。

特に、書く内容、発言はその人間の生き方が現れており、昨今のあまっちょろい学生気分の評論家、もの書きの「発言」に対する苦言は、身に覚えがあり、今、先生の発言を拝聴しながら、人間の心について再考しなおしている。そして自分の生き方を発言者としてふさわしい心に変えようと努力することを誓った。

先生にHPのいとこの人形を大変ほめていただいたことは、自分のことのようにうれしかった。

カルチャルスタディーズ関連の再考をしながら、入門書を2冊、96年、3月におこなわれたスチュワート・ホール氏をむかえてのシンポジウム「カルチャル・スタディーズとの対話」(新曜社)を読む。その関連で、知り合いの研究者よりA・ギデンズを紹介いただく。ギデンズは「社会理論の最前線」(ハーベスト社)はよんでいたが、国家分析についての論文は知らない。知り合いがまとめられた論文のコピーを読ませていただく約束をする。

自分の表現が、大局でみれば、このカルスタの中に位置付けられる仕事をしているという自覚が芽生える。

押井守「イノセンス」をようやくみる。帰りにフィルムコミックも購入。気になっていた物語の入れ子構造と、入れ子に誘われる言葉の装置の配置を、再確認する。本当に危うい映像である。だが、なぜか、バト−の心境が実感としてとても理解できるのは、危うい精神バランスにある現在の自分の鏡像を草薙素子が憑依(ゴースト)した人形の表情にみたからであろう。

竹内オサム先生より、まぐま12号の原稿、手塚治虫に関する考察をいただく。いつもながら、先生のご配慮には感謝、感激する。ありがたいこと。

晃洋書房「個人情報保護と市民社会」共著が、5月末に発売される。今、押井守の思考、世界観に大変興味がある。マンガにあらわれた精神分析を押井論までひっぱり、今は誰も語ることがなくなったユートピア論と映像技術転用論に結び付けて語る誘惑にかられる。

単著「ポップカルチャーは世界を救うか」は、二転三転、なんとか6月には出版にこぎつけたいところ。

4月24日(土)

4月にはいって寒暖の差についていけず、またしても体調をくずしている。やわなのは、しかたないにしても、寝込まないで、もっているのは精神力の賜物か(笑)

東浩紀×大澤真幸「自由を考える」(NHKブックス)を読む。二人が説く、国家の規律・訓練的指導型権力から環境管理型権力への移行とその併用、大衆が「管理」を望んでいるという逆説に、いたく共感を覚える。

日本の民主主義が、衆愚政治に完全に移行した2003年秋の選挙以降、イラク人質問題をめぐり、首相官邸が筋書きを描いた「自作自演」「自己責任」論に、見事に、無思考のままのり、自らが弱者の意識もなく、強者の尻馬にのり、弱者いじめをする「衆愚」が、権力を見事に保管している姿は、まさに「管理」をのぞむ大衆の実例そのままである。

近代思想の地平を開いた巨人、マルクスとニーチェ、この二人はコインの表裏である。マス概念が生まれる以前、19世紀に、資本主義の発展とともに生み出された労働者階級に、マルクスは依拠し、インターナショナル創設から、労働社会階級の政治組織、共産党を設立、その歴史における階級史観から、ブルジョアジーにかわってプロレタリアートが政権を運営する世界を夢見た。

だが、その歴史的行為の顛末を予見するかのように、ニーチェは来るべき、無自覚な労働者階級の発現と、無責任な大衆の堕落を予知していたのである。ニーチェによれば、そもそも社会主義思想そのものが、堕落以外のなにものでもなかった。

圧倒的多数の労働者階級が無意識に形勢する大衆(マス)は、まさに権力者の道具であり、お上志向がいまだに強い、日本では、マスコミが両者をとりもつ媒介者として強く機能しているため、泥沼にはまった状態は、決して改善されることはない。政府・官僚・マスコミ・大衆という四者関係は、完全に膠着、癒着したまま、全体主義に傾斜していく。

人質問題をめぐるパウエル発言と、欧州、とくにフランス、ルモンド紙記事は、日本の「人質自己責任論」との間にある、個人主義と全体主義の温度差を、まざまざと感じさせた。

北朝鮮が時代遅れの規律・訓練型、非人道、全体主義的国家であれば、日本は今風の政府・マスコミ一体化による環境管理型、全体主義国家にむかいつつあると断言できる。

今回の「自己責任論」は人質とその家族にだけむけられたのではない。いざとなったら、「すべて自己責任ですから、国家は面倒をみませんよ」という、国民全体に向けられた中曽根首相以来の「自立自助」の精神の勧めの極みである。

国民は今回の事例から、非道かつ無責任、かつ弱者救済を後回しにする国家権力の本性を深く学ぶべきである。ニーチェとマルクスに習えば、日本人は今、発言者となり、国家が滅んでも生き延びることができる「超人」になる決意をもつか、一人一人が、より自由で、生きやすい社会づくりに参加するかの分岐にたたされている。

だが、その両方とも、自らが労働者であることも無意識かつ無自覚で、マスコミ情報を鵜呑みにするか、鸚鵡返しするだけで、精神的、物質的消費を日々繰り返すだけの大衆が、多数を占めている状況では、全体主義国家への道はたやすい。大衆は自ら管理を望んでいる。管理される心地よさは、反発する苦痛にくらべれば較べものにならない。

自由とは、そもそも痛みによって勝ち取られてきた権利であったのだ。

4月18日(日)

イラク邦人人質5名が無事解放された。今回の問題は、様々な人々の思惑が錯綜し、論点が明確になりつつある。

まず、第一に、イラク問題とは、そもそもなんであったのか、ということだ。

大量破壊兵器を保持し、世界平和に脅威であると判断した、アメリカが国連の意思を無視し、一国主義の立場から、イラク侵攻を果たし、フセイン政権を打倒し、国内平定の上、主権をイラク国民に委譲するというシナリオをブッシュは描いていた。

そして日本は、アメリカのシナリオを無条件に支持し、平和憲法をイラク特措法という特別法で、空洞化させ、自衛隊の国外派遣を可能にした。

だが、イラク戦争終結から、激しさをました「抵抗」レジスタンスは、おさまる気配をもたない。ブッシュ政権内部では、イラクには大量破壊兵器が、はじめからなかったこと、そもそも9.11テロをブッシュは知っていた、という内部告発を受け、ブッシュは、もはやイラク問題を国連に丸投げする気配をみせている。

そもそも、ブッシュが描いたシナリオは、前提からして間違いだった。そして、誤ったシナリオを支持し、イラクへ自衛隊を派遣したのは間違いであったとの認識にたたなければ、邦人5人の「自己責任論」に、ことの本質がすりかえられる危険性が十分にある。

イラク聖職者協会の冷静な判断は、日本は、世界に類をみない平和憲法をもつ尊敬すべき国であり、自衛隊などの国家支援ではなく、NGO、NPO、ボランティアなどの文民支援の地道な努力があることを十分に認識していることである。、また人質となった邦人たちへの「自己責任論」的中傷は、イラクへの人道支援を根強く重ねてきた「人質」および支援者、また多くの関係者自らの力をしらないものだと判断していることだ。

また違った意味で、パウエルでさえ、邦人「人質」を、「誇るべき存在」と評価していることは、日本人の「お上」志向から、人質を中傷する「全体主義」とは、正反対の個人主義の強さを意味している。

人質たちは、この意味で、自らの命を自らで救ったのである。自己責任を果たしている。傍観者として、自己責任をとうだけの「無責任な大衆」こそ、そもそもイラク問題はなんであったのかということの本質を、覆い隠す政府の思うツボである。

第2に、イラク国民の状態について、マスコミ、政府、国民はなんの関心もないことだ。

すでに「戦争終結」からイラク人の800名をこす人命がたたれてる。ファルージャでは、女性、子どもの別なく、民間人の別なく、アメリカ軍によって殺害されている。そして、自衛隊は給水「業務」のみをおこない、陣地内のシェルターに閉じこもったままである。

イラクの人々は、こんな自衛隊に期待はない。

「文民支援がイラク復興の中核であり、自衛隊はサイドストーリーにすぎない」

すでに、文民指導のイラク復興に奔走し、銃撃にちった奥さんは、そう語った。

学校を建設し、病院を建設し、復興のためのボランティアを多数おくっている国、日本。イラクの人々はそんな日本のことをよく知っている。

ブッシュが国連にイラク騒動を丸投げしたあと、小泉首相、与党はこぞっていうのだろう。

「国連の範囲内でアメリカ丸投げ支持を続けます」と。

政府は、先に疑いようのない公理(アメリカ正義の法則)を前提にしているうちは、平和憲法も、人道支援も、ODA同様、金まみれの印象を世界に与えつづけるのだろう。

そもそも石油問題のつなひきによる、国連・指導国の思惑が、イラクという国を「ここまで追い込んだ」ともいえなくはないのだ。

4月10日(金)

ついに恐れていた事態がおこった。最悪である。福田、小泉会見の「自衛隊撤退なし」は、国家権力本来の姿がもっとも端的にでたものである。権力は自衛隊をシェルターで守りながら、民間人は見殺しにする気だ。

こんな政府を我々は支持しているのである。3名が殺害されたとしたら、政権与党に評をいれたすべての者は、「人殺し」である。福田、小泉、川口の娘、息子を3人の代わりに人質にさしだせ。それはできないだろう。それが「家族」だ。しかし、こうした政府をつくったのは、我々国民なのだ。

しからば、我々が小泉政権をやめさせなければならない。投票という行動によってこの国をよくしなければ、我々の未来はない。怒りを抑えきれない。それは、こんな政治を許していることだ。

自民、公明政権を終らせよう。アメリカの1州となりさがった自民・公明によって、未来は暗黒である。

ということで、自衛隊撤退まで、抗議行動を続けることにした。大人しくしていたら、権力に殺されることは明白だ。

首藤議員の発言の後、すぐに奥、井上両氏の死因についての発表が、はかられたかのようにあった。警察発表では、米軍の誤射の場合、口径が上方からあるはずで、口径は真横から打たれたとの見解。だが、その車両は発表者以外、誰もみていないのである。情報を開示し、公平な知見がおこなわなければ、情報操作はたやすい。

国民は国家権力の恐ろしさを知らない。

4月2日(木)

またしても、政治ねたである。

ついに、卒業式で日の丸、君が代に対して起立をしなかった都の教職員200名あまりが戒告処分を受けた。このままでは、来年は公職追放(懲戒免職)の恐れがでてきた。あきらかに思想、信条の自由に反する憲法違反である。丸谷才一ではないが、裏声で歌うぐらいでちょうどいい。君が代は(笑い)。

それよりも雅子妃の容態のほうが気になる。かつて美智子妃も「ご病気」になられた。市民的権利を剥奪され、公人かつ国の象徴の一員になられたのであるから、その暮らしは、想像しがたいストレスがあるのだろう。

署名したこともなく、デモに参加したこともなく、もちろんストライキに参加したこともない。選挙にもいったことがなく、新しい歴史教科書を読んだこともなく、もちろん普通の歴史教科書も読んだことがなく、ただ政治を嫌悪している国民が、ますます政治を悪くする。独裁者は、そうした時代の隙間にかならず現れる。過去の歴史はそれを教える。

改正とは、憲法のもつ普遍的理念、和平、非戦、自由、平等の精神こそ、深め、発展させることであり、現政権のように制限し、剥奪することではない。

石原知事が、またしても都職員100名あまりを警察に出向させる職権乱用?に走った。どちらも公職であることで、都知事権限で可能なのかもしれないが、あまりの国防ならぬ、「都防」意識に、墓場からきな臭い臭いがたちこめてきた。

民主党、首藤議員が、委員会で、奥、井上両氏のイラクでの死に不審があることを、あらためて追求している。銃弾はロシア製のカラシニコフというが、アメリカ製の銃弾とも、明らかになっていない。二人は銃撃を受けた車両はアメリカ軍によって捕縛され、イラク大使は、二人の死に接することも、車両をみることもできなかった。その死因が明確にならず、銃撃したゲリラの犯行声明も、その後の調査、追跡もない。いまだに車両の状態、死亡原因を外務省は報告、発表しない。車両は現在、日本の警察が保管しているらしい。

両名は、銃弾ではなく、破片で傷つき、銃撃後数時間生きていたことが、確認された。しかもその前後にスペイン、韓国関係者が銃撃されたときは、米軍は即座に、アメリカ関係の病院に死傷者を運んでいるのに、奥、井上氏は、地元のイラクの病院に運んでいる。

また、両名はトラベル計画を提出せず、移動しているため、米軍に二人の通過の情報が届いていなかった。

以上から推測すると、両名はアメリカ軍によって、誤射された可能性が大である。

イラク派兵をめぐり、国論が二分していた時期に、アメリカと日本とのあいだで、、密約がかわされた可能性が大。ここで、誤射の事実が出れば、憲法違反をしてまで、政権は自衛隊を派遣できなかっただろう。

だが、この事実を、覆い隠している現状は、イラク攻撃の根拠が完全になくなったブッシュ、小泉政権にとって、アキレス腱どころか、命とりになりかねない。

沖縄の少女殺害、そしてまたしても日本人がアメリカ軍によって殺されたかもしれないのだ。

イラクで、アメリカの民間人数人が殺害され、町中を引き回された上、つるされた、みせしめである。

イスラエルとパレスチナを持ち出すまでもなく、すべての戦争は、血で血を洗う限りない応酬が続くだけだ。

埼玉の東松山に丸木美術館がある。私は、このような惨劇に深い悲しみを抑えられないとき、かならず訪館してしまう。はじめて訪館したのは、もう25年前である。それからもう10回はきている。原爆、南京大虐殺、沖縄戦、水俣、アウシュビッツ、三里塚、そして第五福竜丸の被爆を描いた、人間の悪行、ジエノサイドの様子を体験しにいく。床から天井まで、いくつもの部屋のすべての壁を覆っている、巨大な地獄絵から死者の声が聞こえてくる。

丸木夫妻の絵は、イデオロギーを超えて、人間の負の本質を描ききっている。それでも人間は生きてゆくしかないのだ。死の後には生が芽生えるしかない。気づくと、いつもそういう考えになり、ホールの中をぐるぐる回っている自分に気づく。

来館した人々が書き残した言葉が、数冊のノートに残っていた。女子高校生の一文が、目に入る。「私ははじめて戦争というものを考えました。私は人を殺そうなんて考えたことがありません。でもどうして人間は殺しあうのでしょう」「大切なのは平和ではなく、和平。平和を作り出す努力。それが大切なのです」「私はこれから、それを考えていきたいと思います」

3月29日(月)

晃洋書房の5月発売の原稿がようやく、終了。昨年の学会の報告に加筆、修正したもの。今回まとめるにあたり、押井守の映画を再考するなかで、精神と肉体、夢と現実の対処の仕方が、自分なりにわかってきて、変に納得してしまった。今まで考えもしなかった人生の意味が、彷彿とする。

コミック百科事典の最終校正は4月5日。今週中にあらかた、訂正する予定。あとは大友克洋先生に、写真掲載の許諾をいただくのみ。

至文堂の「国文学 解釈と鑑賞」別冊の執筆のお話をいただく。監修兼編集は立教大学、文学部の渡辺先生である。年内発売を予定。劇画家・平田弘史先生の「武士道」について、書かせていただこうと思います。

現在、生活のために広がりすぎた仕事を整理、絞込みする時期にはいってきていることを痛感。シフトする時期がきているようだ。

3月26日(金)

政治的発言が続いているので、これを最後に、当面しないようにしたい。

今、久米宏がニュースステーション、最後のコメントを述べている。「日本の民間放送は戦争を知らない。民間放送が国民を戦争にミスリードしないことを願います」

この時代だからこそ、久米宏のコメントは痛切だ。久米宏がやめる理由もここにある。

昨日、政治評論家 森田実氏が、「朝日ニュースター」で、政界とマスコミの癒着を暴露。ブッシュ・小泉、公明党を批判する言論人が、マスコミから仕事を奪われている状況を語った。小泉シフトは財界からマスコミ、特に巨大な利権が動くTV局への巨額なスポンサー料を抑えている。この銭をとめられたら、TVは経営不可能だ。

権力に批判的な言説が、TVから消えたのは3年前。TV地上波は体制翼賛会的な報道となった。森田実氏はベトナム戦争時、毎日新聞で、反米の論陣をはったため、社を追放された過去をもつ。白歐大学の福岡さんが、4チャンネルを追放されたのも「政治発言」がきっかけだ。

地上波の次は、週刊誌だ。そして次はラジオ。権力の準備は着々とすすんでいる。本当のことが報道されない。友人の記者たちから、非公式の事実をときどき聞き、驚くが、発表ができない。という。もう事実はアングラ世界でしか知りえない時代がきた。

言論人に問う。今、この流れを勇気をもって止め、言論に事実と真実を取り戻す必要があるのではないか。

言論人から消えた勇気。労働者から消えたデモとスト。こんなに大人しい我われがうつ病になったり、自殺なんかする必要はない。企業の横暴をやめさせ、国家権力の暴走を阻止する。それが、社会や国をよくするのだ。それは我々の心の中の勇気なのだ。

この勇気が社会を動かし、国をうごかさなければ、日本は大変なことになるだろう。

今年1月31日に、国連子どもの権利委員会が、日本の都立定時制高校の廃止を、子どもの学ぶ権利を奪うものとして、日本に勧告することを採択した。ILOに次ぎ、国連によってまでも、日本の国民の権利が次々に奪われていることを「異常」として判断している。

アメリカしかみていない日本。それがいかに偏っていることか。せめて国連の情報くらい、報道してほしいものである。まず、アメリカ中心から国連中心に。アメリカの沖縄の基地の25%返還示唆も、旗色の悪くなったブッシュの小泉延命策のひとつ。

石川島播磨が長期にわたり、会社から共産党を追放する運動をおこない、ZC(ゼロコミュニスト)運動として、賃金、昇格差別、会社行事からの追放、等をおこない。精神的。金銭的苦痛を訴えた原告が勝訴。これは氷山の一角。この数百倍の会社で、いまだにあからさまに差別がおこなわれている。

個室に閉じ込めての反省文執筆業務。部署全員で一人の社員を罵倒する糾弾会など。手口は異常である。

ただ、逆に共産党が支配する会社、組織では、これに近い差別もおきている事実もある。かつての部落解放問題と同様な構図だ。社会的には少数者であっても、集団内多数派権力というものは、思想、信条をこえて暴走する。すべては民主主義の未成熟。

日本という国が、異常な世界へはしっているかのようだ。

日本の常識は世界の非常識に。まず事実をしらなければ、権利は次々に奪われていく。

民主主義は多元性こそが大事。

 

次回の参院選挙の争点は、日本の民主主義を守るための試金石3つ。

アメリカ追随か、国連中心か。(政治)

税金の大企業利潤への奉仕か、国民のための使用か。(経済)

報道の規制か、言論の自由か。(文化)

今の政権では、アメリカ追随、大企業奉仕、言論規制は、ますますすすむ。

いってることが、共産党に近くなってきた(笑い)。共産党の閉鎖性、独善性、は嫌いだが、

それは歴史的にみた場合、「少数者」の共通した「特徴」だ。それこそ、多数派を形成する上で、解消されるべき問題だ。

それだけ、危機が深いのだろう。民主主義のために。

3月19日(金)

最近、図書館の本が少ないと思っていたら、都の文教予算が削減されていることがわかった。しかも最近の本屋と同じように、どうでもよい本ばかりがならんでいると思ったら、なんと石原知事が検閲して、自分の気に入らない本はおかないようにしていることがわかった。都知事は国家に先駆けて、検閲、自分の意にそわない思想書などは完全にスポイルしていることもわかった。

今、都知事にみせたい映画はチャップリンの「独裁者」である。この映画で、チャップリン扮するヒンケルが、カーテンをよじ登ったり、風船の地球儀と戯れて、破裂して泣いたり、ムッソリーニ役と、椅子の高さをきそって、天井まであがっていくばかばかしさに自分の姿を感じ取れればたいしたもの。

独裁者ヒンケルは地球風船とたわむれたが、石原都知事は、たかが東京都風船と戯れているにすぎない。地球儀でみたら田舎の独裁者だ。さしずめムッソリーニは、小泉首相だろう。都知事はなにかと、国がやらないから都がやるが口ぐせ。田中康夫知事にカワードなヤツ(臆病モン)とよばれて、涙目になったのを笑いをこらえてみていた昨今。

二人とも天井まで椅子をあげていき、やがて落ちるだろう(笑い)

独裁者ヒンケルと入れ替わった床やのチャーリーのラストシーンの演説。

この演説を石原都知事、小泉首相に捧ぐ。

 

「申し訳ない 私は皇帝になりたくない。支配はしたくない。できれば援助したい。ユダヤ人も黒人も白人も。

人類はお互いに助け合うべきである。他人の幸福を念願として お互いに憎しみあったりしてはならない。世界には全人類を養う富がある。

人生は自由で楽しいはずであるのに 貪欲が人類を毒し、憎悪をもたらし、悲劇と流血を招いた。

スピードも意思を通じさせず、機械は貧富の差をつくり、知識を得て人類は懐疑的になった。

思想だけがあって感情がなく、人間性が失われた。知識よりも思いやりが必要である。思いやりがないと暴力だけが残る。

航空機とラジオは我々を接近させ、人類の良心に呼びかけて、世界をひとつにする力がある。私の声は全世界に伝わり、失意の人々にも届いている。これらの人々は罪なくして苦しんでいる。人々よ失望してはならない。

貪欲はやがて姿を消し 恐怖もやがて消え去り 独裁者は死に絶える 大衆は再び権力を取り戻し 自由は決して失われぬ!

兵士諸君 犠牲になるな! 独裁者の奴隷になるな! 彼らは諸君を裁き 犠牲を強いて家畜のように追いまわしている!

彼らは人間ではない!心も頭も機械に等しい!諸君は機械ではない!人間だ!

心に愛を抱いている 愛を知らぬ者だけが憎しみあうのだ!

独裁を排し、自由のために戦え!

神の王国は人間の中にある

すべて人間の中に! 諸君の中に!

諸君は幸福を生み出す力を持っている 人生は美しく 自由であり すばらしいものだ!

諸君の力を民主主義のために終結しよう!よき世界の為に戦おう! 青年に希望を与え 老人に保障を与えよう!

独裁者も同じ約束をした だが彼らは約束を守らない!彼らの野心を満たし 大衆を奴隷にした!

戦おう!約束を果たすために!世界に自由をもたらし 国境をとりのぞき 貪欲と憎悪を追放しよう!良心のために戦おう!文化の進歩が全人類を幸福に導くように

兵士諸君 民主主義の為に団結しよう!

 

…ハンナ 聞こえるかい 元気をおだし

ご覧 暗い雲が消え去った 太陽が輝いている 明るい光がさし始めた

新しい世界が開けてきた 

人類は貪欲と憎悪と暴力を克服したのだ

人間の幸福は翼を与えられていた やっと飛びはじめた

虹の中に飛び始めた 希望に輝く未来にむかって

輝かしい未来が君にも私にもやってくる 我々すべてに!

ハンナ 元気をおだし!」

 

独裁者もかつては幸福になるために生まれてきた、我々人類の一員のはずだったのだ。石原都知事、小泉首相。心の中の貪欲と憎悪を捨て、大衆のために幾ばくかの心をふりむけなさい。

3月18日(木)

ここのところ、権力による国民弾圧がましているため、いてもたってもいられなくなった。少し前から、国民、都民は小泉、石原というウルトラナショナリストを長に選び、二人のすきかって放題を喜んでいるが、それが早晩、自分たちの身にふりかかることを忘れている。

高校の卒業式では、君が代、日の丸掲揚にそむくものは処分。かつては「表現の自由」を守るベく活躍したマスコミは、広島県の校長の自殺を機に、「君が代」「日の丸」を全面支持。教育委員会は、監視役派遣、権力統制を強めている。

石原都知事は、都立大の経営を馬鹿なことに予備校「河合塾」にまかせようとしたために、大波乱となり、本当の公私混同となった。公を私に「商売」として依存させる、今の流れは亡都の極み。

従わないものは、処分する。政府は不退転の決意で望んできているのに、国民はのん気だ。日本がテロに狙われるのは、憲法違反の自衛隊派兵で、アメリカに加勢しているからだ。いかなければ狙われない。こんな簡単なことがわからないのにはあきれ果てる。

イラク戦争反対を訴え、トイレに落書きしただけで書店「模索舎」の店員は、裁判で懲役1年6ヶ月が求刑された。みせしめの不当弾圧。また3月はじめに市民団体員が、イラク戦争反対のチラシを配布したところ、不当逮捕された。この人は公務員であったために、ILO違反の政府方針(公務労働者は公僕のため、労働者としての権利に制限がある)が世界の常識はずれなのに、日本の公務労働者をみせしめ逮捕だ。

週刊文春の異例の発刊スピード指し止めも、明らかに権力筋からの「見せしめ」弾圧である。

あんまり、市民を甘くみて、怒らせると、大変なことになることを権力は知らない。

はっきりいおう。次ぎの選挙で、自民・公明にはいれてはいけない。これ以上ひどい世の中にしないように、よりましな国にするために、非自民、非公明の政府をつくるべきだ。

スペインでは、社会労働党が12年ぶりに圧勝。テロ後、そくイラク派兵とりやめを打ち出した。勇気ある決断とは、テロに屈しないと気張りつづけるのではなく、国民の安全と安心を考え、撤退することである。

都内6駅に機動隊を増員警備させたところで、テロはおこるときはおこる。恐れをとりのぞくのはテロの原因であるアメリカ加担をやめるだけでいい。

政治の流れがかわらなければ、テロはおこる。真綿で言論を締めていく権力の走狗は、法律の名のもとに、国民の身動きをうばっていく。

次回の選挙がラストチャンスである。これで、流れがかわらなければ、日本国民は、ナショナリストの独裁を許し、自分たちの安全も自由も手放すだろう。5年後がおそろしい。おそらくネットでこのような発言することもできなくなるだろう。そのために、住基ネット管理をはじめたのだから。したら逮捕される時代は秒読みだ。

こんな私の不安も、全く分からない、理解できない人々がかなりいるに違いない。これが戦後民主主義の崩壊に立ち会う歴史的瞬間なのだ。

企業中心社会の上に聳え立つ国家中心主義社会。国家と大企業が独占して国民を管理、命令する社会。これは国家と党が、国民を管理する旧ソ連や北朝鮮となんら変わらないのだ。おそろしい。

3月14日(日)

有事関連法案の中身をみていたら、有事には、とんでもないことがまかりとおる危険性が明らかになった。

民間空港・港湾の優先使用。 道路の優先使用。緊急通行。海・空域の優先使用 民間船舶の航行制限、民間航空機の飛行禁止空域の設定(移動規制)。電波の優先使用(言論統制)。自衛隊による物品・役務の提供 支援地域に制限なし(軍事優先による文民統制の崩壊)。武器・弾薬の提供も土地・家屋の強制使用(私有財産没収)。これにはむかうものは、罰則される。首相がすべて強制的に執行できる。

驚いたことに、この権限をアメリカにも与えるという!。これぞ売国ではないか!

なんたることだ。権力が一度はじめた戦争に、抵抗するものは法のもとに罰せられる。有事なのだから「しようがない」なんていう人がいたら、かつての言論弾圧の時代の恐ろしさを知らない人間だからだ。

「有事」を利用して、権力は幾度も暴走する。監禁、投獄、拷問 なんだってやる。

あの時代の恐ろしさを、私は両親、親類から、いやというほど聞かされている。人間にとって大切なのは、パンと自由だ。

抵抗をやめた日本人の末路が、いよいよみえてきた。

本当にとんでもない時代になった。この法案だけは通してはならない。だが、多数派を形成する自民・公明与党によってまかりとおるのだろう。平和を望む心が、闘いによってしか得られない平和という、誤った正義感に日本がつきすすんでいる。

一部の為政者にこれ以上、生活と安全を滅茶苦茶にされるのはいやだ。

スペインでテロ。アルカイダの反抗の可能性が高まった。次ぎの標的はイタリア、イギリス、日本。テロへの憎しみと怒りはもちろんのこと、その原因をつくるアメリカに追随することを国是にまでたかめた首相に、多数の日本人の命が奪われたときに、責任がとれるのだろうか? おそらく日本人のなかにも憎しみの連鎖を生み出すことになりはしないだとうか?

この法案に誰が賛成し、どの党が賛成し、どういう権力の綱引きがされるのか。じっくり見極めたい。

通勤電車にはのらない。地下鉄にものらない。繁華街にはあまりいかないようにしたい。テロの危険性がじわりじわり高まる。国に殺されたくない。

昨年の選挙以降、日本の権力者は、ますます凶暴化している。結局、金持ちどもに生命を握られているのかと思うと、怒りが繰り返しわきあがる。

本当に政治をかえなければだめだ。

3月9日(火)

明日から、松屋銀座で、一大創作人形展がひらかれる。もちろん従姉の吉田美和子も出展する。この人形展は日本の人形創作の大御所5名の共同開催で、創作人形の現在のベストがみられる。すばらしいもの。

最近、セットメニューに疑問をもっている。今日は昼にカレーセットをたのんだら、ラーメンは1人前で、カレーライスは半分サイズ、これならラーメンセットだろう。カレーを1人前にして、ラーメンを半分にしてくれと頼んだら、嫌な顔をされた(笑い)

セットものは、客の意向で、どちらかを半分にできる。そうして欲しい。間違いない。

有事関連7法案が閣議決定。テロだ、戦争だ、災害だと、大騒ぎして、いざとなったら人権抑圧。本当に権力は馬鹿である。その権力を支持する国民は大馬鹿である。この国はそうした馬鹿ものたちが、束になって「国造り」してきたのだ。馬鹿の歴史に幸あ〜れ〜。

今日、山崎ハコさんが、ラジオに出ていた。あの「飛びます」をいきなり口ずさんだりして、「織江の歌」で、いっしょに「しんしゅけしゃん」とか「オリエは大人になりました」とか結構、ハイになった(笑い)。ハコさんは「暗い」のだけど(笑い)でも、声はますます透明感がまして、素敵です。

3月6日(土)

執筆が一段落し、部屋の掃除にかかる。いやー、もうこんな中によくいたな、と思うほど、埃まみれ、紙まみれである。アレルギー反応で、花粉アレルギーはないが、埃とダニアレルギー反応がでるため、掃除はまめにしないといけないのだが…。書庫に本棚を増設検討中。

やはり、3月はライブにいけそうもないので、執筆しながら、ミュージックビデオをみるということで四苦八苦。2月末から睡眠時間が短かったので、時間調整しながら、スケジュール調整したい。

WOWOWのTHE WHO、QUEENのライブをみる。フーは、やはり、キース・ムーンとピート・タウンゼントの「狂気」がステージでは凶器と化していて、リズムとコードがかなりずれているところが、また素晴らしい。いうなれば一人一人が勝手に弾いているのだ。(クリムゾンとは正反対)(笑い)これが、荒削りなロックというやつだ。荒削りだからロックなのだが。

クイーンは、もうフレディの声の「山を3つくらい越えそうな」素晴らしさ、打楽器のように弾くピアノとパフォーマンスに、ブライアン・メイのギターも凌駕されている。クイーンはやはり、フレディのバンドだったことが、ライブでよりいっそうはっきりした。

上條淳士「8(エイト)」3巻、「ブラックジャックによろしく」新刊、「バキ」新刊、を読む。上条さんの作品は、もう芸術である。「SEX」「赤×黒」「8」この3作品は、「湘南爆走族」や「ビーバップ・ハイスクール」などの「ヤンチャ」ものとは対極。少年から青年への時代のナイーブさと破壊願望をあやうい物語に展開する才能は見逃せない、でも精神のSEXは描けても、肉体のSEXが描けない上條淳士は、永久の「TO−Y」かもしれない。

上條さんの描く女性は魅力的である。セクシーでもキュートでもコケティッシュでもない。エンジェルだ。

押井守、イノセンスが本日より公開。今回、「赤い眼鏡」「天使の卵」を見直し、「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」「攻殻機動隊」「アヴァロン」の作品が、線でつながった。夢と現実、仮想と現実、最近、生きている今が、誰かの夢の中の世界なのではないか、あるいは、もうひとつの世界の出来事が、そのまま今の自分のすべてなのではないか、のような錯覚にみまわれる。

押井さんは、理想は夢の中にあり、それが現実化したとたんに悪夢になることをよく知っている。だから、現実は永い悪夢であり、理想は悪夢の萌芽(卵)であることを、いつも悲観的に語る。

押井守作品が、世界的な広がりをもって迎えられるのは、そうした悲観が、世界の人々の心に親和するからだ。今世界は、メランコリーな時代、ブルーな時代真っ只中である。

2月29日(日)

ついにトヨタが中部電力、JR東海とくんで、中高一貫全寮制学校をつくるとの報道があった。教師も全寮制の住み込みらしい。子供を「打目」にした原因は、労働者が生活のほとんどすべてを企業に捧げなければいきられない「企業中心社会」にあるにもかかわらずである。

企業中心社会を死守すべく、エリートを養成する試みだろうが、人間の可能性を全面的にみず、ただ商売に優れた人材を生み出そうとする教育は、果たしていかがなものか。

現在の自民、民主の若手政治家が、かつての松下政経塾出身なことを考えると、ますます視野の狭い、スケールの小さい人間をつくるだけと、いえるのではないか。

追い詰められるブッシュ大統領。9.11テロ以前、大統領就任3ヶ月で、すでにイラク攻撃の準備にかかったと暴露された。パウエル氏も、イラクが保有する通常兵器製造のためのアルミ缶を、核開発のためのものと偽りの発表。側近に失望の告発を受けた。

ブッシュ政権は、今、存続の大義すら失った。

まぐま11号パーティ。疲れもふっとび、元気をいただいた。時間はただ過ぎてゆくものではない。時間はやってくるものだ。やってくる時間は、受け止める自分の心の時間によって、暗くも明るくもなる。

2月22日(日)

2月締め切りのマンガコラム(蒼天社)の仕上げにかかる。3月末締め切りの晃洋書房の論文の構成にかかる、ともに5月末発売予定。3月にイラストレーターの橋本勝さんとの打ちあわせを蒼天社の社長のお世話でさせていただく。

マンガ表現論2の構想にかかる。前回、マンガのもつメディアの可能性を認識論的に把握、水木しげるの「マンガ論」をてがかりに、マンガにおける、見る、読む行為を、読書論、作品論、作家論として、方法論的に表記できないかとの苦闘。マンガ論世界が記号論として記述に、一段落がついた現在、作品と作家、社会との関係性を批評する言説の必要性を感じている。

加藤洋之&後藤啓介氏のイラスト、マンガ集を再読。後藤氏の描く少女と加藤氏の描く、有機的な都市、アナログ感ある細密描写にめくるめく幻惑をいだく。観る度に著しくそのときの精神状態が反映されるのが両氏の作品。平田弘史先生から、加藤さんは、ご近所に住んでいることを知り、驚く。

体調は一進一退、いそがしすぎることもあるが、週末に疲労が加速する。毎日、湯船で肩、背中のマッサージ、足ツボ、手ツボのマッサージ、内蔵マッサージはかかせない。内臓マッサージは、ヒクソン・グレーシーで有名になったが、ヨガのひとつで、口から息をはきながら、お腹から空気をはきだし、ぺったんこにした後、腹筋を上下に律動させる。5秒ずつ、3〜5セット。

これをすると、胃腸の働きが回復する。

先日、KB氏と再会。まぐま11号を渡す。氏の事業も軌道にのり、忙しいなかにも充実感が感じられた。女性に人気のある彼のイラストも、仕事に忙殺され、当分描くのは無理だろう。相変わらず酒量は多いが、たまにはライブにでもいきましょうと、いつもの村さ来で、盛り上がった。

当の自分は、月に1〜2回しか飲まなくなった。とにかく資料整理と打ち合わせに追われ、気付くと締め切りが近づくという日々。時々、働かなければ、好きに執筆できる時間がとれるのにと、ぶつぶつ考えるときもあるが、今は労働の日々が文章に反映される方向性を自分らしさと思えるようになった。

知り合いの編集者、作家が仕事がなくなっている現状をかんがえるとき、不況は創作者の生命をとめる危険性を感じとっている。

まぐまの方向性、別冊まぐま となる、マンガ年報的な、単行本発行の仕事も、これからの課題。不況だからといって、クリエイターとしての意気込みも、不況ではいやだ。

2月14日(土)

2月に入り、超多忙状態。先週やっとの思いで、K氏と、グレン・ヒューズ&J・L・ターナーライブへいく。渋谷クワトロは、往年のD・パープル、レインボウをはじめとするB・ハードロックのオウディエンスで会場はごったがえし。バンドのバックは、G:梶山アキラ氏。

ステージは予想どおりか、G・ヒューズのワンマンショウ気味。パープル時代の、ミスツィリーテッド、ユー キープ オン ムービィングはすばらしかった。グレンヒューズから、今は亡きトミーボーリンに捧ぐとメッセージもあり、70年代最後のD・パープル日本公演の「紫の燃焼」のライブも頭をよぎる。

トミー・ボーリンはソロアルバムで、自分の墓石(日本風)に「富墓林」と彫って、ジャケットにしてしまい、死んでしまった。やや苦笑してしまう、純キャラなのだ。

J・ターナーは、パープルV期のD・カバーディル的立場で、少々かわいそう。レインボウ時代のヒット曲(アイサレンダー)で盛り上がったが、アンコール曲の「紫の炎」BURRNは、パープル時代はカバーディルがメインボーカルで、今回もターナーがメインで、グレンが絶叫するのかと思えば、グレンが最初から最後まで全部歌ってしまった。まぁ、グレンのハイトーンボイスを聴きにいったのでいいか。途中から最後まで、踊っていたので、翌日、足が筋肉痛だった。(笑)

see you soon(笑) と意味ありげなコメントとともに グレン・ヒューズは消えていった。

図版許諾の連絡で、手塚プロ、朝日ソノラマで、ようやく一段落。劇画家、平田弘史先生ともメールでやりとりさせていただいた。メールから暖かいお人柄が伝わり、写真の「武士」たる印象が、急変する。

若手評論家の吉本たいまつ氏と打ち合わせ。勉強させていただく。東浩紀氏とも親しい氏の専門は環境学。まぐま10号の執筆者ともお知りあいで、世界の狭さを実感。コミケ文化を中心に、吉本氏の筆力に期待がかかる。

まぐま11号完成。本日届いた。力作である。新たな展開に期待。いろいろな方の力が、凝縮された1冊。まさに雑誌作りは、人づくりである。

2月8日(土)

2月からWOWOWで、今敏の初TVアニメ、「妄想代理人」がはじまった。「パーフェクト・ブルー」以来の「サイコサスペンス」の模様。今から楽しみである。

ロザリンド・クラウスの「ピカソ論」を読み始めた。『オリジナリティと反復』も名著。クラウスの議論は、絵画にフロイトの心理学を読み込んだ興味深いもの。今回、「大友克洋論」を書く上で、画像を写真と絵画から考察する中で、画家の心理の反映としての「画像」論は、「見る目」を広げてくれ、大変興味深いものであった。

2月は、ライブ月間と自分でかってにきめこみ、4本のライブにいくことにした。G・ヒューズ、G・ターナープロジェクトライブ、岩崎宏美、三上ちさこ、少年ナイフ。だが、体調いかん。結局気分で決めるだろう。

岩崎宏美は、歌の上手さでは、歌謡界でベスト3に入ると思っている。声、表現、感情、バランスがよく、心にスーとはいってくる。三上ちさこはfra-foaのボーカリスト。まだ若いが、すでにカリスマ的なステージングに期待。少年ナイフは、いまだに演奏が不安定だが、欧州では絶大な人気を誇る。

先週土曜日より38度の高熱。結局、土、日、月と完全睡眠。仕事もできず。ひたすら寝る。

大友克洋論の図版使用で各出版社、プロダクションと電話で折衝。FAXと図版をお送りした。講談社、角川書店、日本文芸社、等、残るは朝日ソノラマさん。

1月29日(金)

経団連が11年ぶりに政治献金を再開する。対象政党は自民、民主といったところ。公明は経団連の政党評価リストからはずされ、与党としての面目をつぶされた。これも2大政党制をめざすの財界の視野には用のない政党と評価されてのことだろう。

民主党には旧社会党の残党がいるため、弱者救済のための「対策」が盛り込まれているのがマイナスポイントだ。経団連のこの考え方は、労働者を搾取している剰余価値(内部留保金)を、労働者に分配しないで、自分達の言うことをきく政治勢力にそのまま献金にあてるもの。

トヨタ出身の奥田さんらしい考え方だ。中国との「経済戦争」のために、雇用の不安定、賃金抑制は当たりまえとも発言。大企業栄えて、民滅ぶ。企業社会が、社会を文化を、語らいも憩いも奪い尽くしたことへの反省はない。人材は役に立つもののみ人財だ。日本人の98%は使い捨ての日もう間近。

政党法ですでに我々の税金が、政党の勢力によって分配されているうえに、企業からの献金があるとは、本当に保守政治家は一度なったらやめられない。共産党のみが、税金による助成金をうけとっていない。

アメリカ元CIA特別顧問が、90年代半ばにイラクはすでに大量破壊兵器を破棄していたと暴露。これでもアメリカはイラク占領を続け、経済利益を確保しつづけるために「民主主義」を世界に布教しつづけるのだろう。かつての日本にそうしたように。

国連は日本を守ってくれない 小泉首相はついに本音。政府の二本柱の外交、日米安保と国連は大嘘。あくまでのポチ(犬)の身分で満足。

湾岸戦争以来、久しぶりにデモに参加する。メディアどころか、財界の全く息のかからない、そして、共産、社民にはない、魅力あるビジョンをもつ新しい政治勢力をつくらなければならない、とひそかに感じる今日この頃。思うだけで、直接政治にはかかわりあいませんが。小泉、石原が「改革者」にみえるのは、かつての「革新」勢力のビジョンの低迷も遠因。

最近、金持と貧乏人 階級、階層、帝国主義、賃労働と資本、搾取などの、死語になりかけたマルクス経済学の用語を意識的に使うようにしている。ことの本質がそのほうが明らかになるからだ。

1月25日(日)

2004年も1ヶ月近くなり、新たに「日記2」を立ち上げた。

「情報問題研究」と「まぐま」に連載している「快楽の前に懺悔するサブカルチャー」もE回をかぞえた。Fは5月掲載予定。この論文は、戦後文学と哲学において闘われた「戦後主体性論争」を実は軸にしている。戦後民主主義を日本に根付かせるために、数々の文学、哲学分野から発言、論稿が寄せられ、戦わされた。

「思想」「思想の科学」「文学」などの雑誌がその主戦場だった。こうした論争は「啓蒙」側からの発言であり、文壇や大学というインテリゲンチャからの戦争責任と軍国主義を許した「主体性」の回復の試みであった。

その「主体性」は、50年を経過してみると、新たに商業主義に食い込まれた大衆社会の「成熟」により、主体=エゴ、自己中心というやっかいな個を生んでしまった。

当時のインテリは難かしくいっていたが、主体性とは、要するに、自分の頭で考え、自分の腕で飯を食い、自分の足で行動する というものだった。

主体性が自己中心性に変わってしまったのは、社会が自分の頭で考えることを、「先生」や「社長」、「マスコミ」に任せ、自分の腕を磨かずに ただ飯 を食い、自分の足を動かさずに、人の足ばかりを動かそうとするずるい「大衆」に席巻されてしまったからである。

先だって、知り合いの石鹸会社に「某テレビ局」のディレクターが訪れ、北朝鮮製の石鹸を差し出し、「いかに品質が悪いか発言をしてくれ」との依頼があった。

調べた結果、日本製のように、様々な化学成分を含んでおらず、自然に近い品質で、洗浄力も、石鹸として優れていることが分かった。その旨、後日、ディレクターに説明をすると、「それじゃだめなんです。いかに駄目な製品をつくっているという証拠でなければ」という。

この局はオウム事件をはじめ、やらせ番組で有名である。結論が先に用意されている「報道」。これが怖い。

また知り合いの医者のところにも、やらせ発言依頼がきたという。これは「日記」でもいえない、ひどい内容である。酔っ払ったらいうかもしれない(笑い)

いまや、マスコミは、スポンサー(企業)、政府の完全なスポークスマンである。政治がらみの一般報道はすべて疑う。これが私のマスコミに対する距離感覚である。高校生のときの朝日の誤報。北方領土にソ連の基地が建設された。この報道には戦慄が走った。

そして、欧州のように、政財界の資本の息のかからない、リベラルなメディアを日本でもつくらないといけないと危機感をつよめている。それは「週間金曜日」ですら、乗り越えられなかった問題である。自衛隊のイラク報道のように、前もって報道管制を敷く、福田官房長官発言は、日本の大本営化である。いよいよやばい時代である。やはり、権力と資本のまえに、ひれ伏そうとしている。食うために「生き方」を捨てたジャーナリズムに用はない。

明治期の文豪たちは、江戸時代までの「世間」意識と導入された欧州的な「近代的自我」との厳しい格闘の証拠を小説に表している。芥川、漱石、鴎外、そして北村透谷。彼ら当時のインテリ層は、「発言すること、書くことの責任」を、かなり強く意識していた。それはまぎれもなく「生き方」に表現が直結していたからだ。

芥川賞を、19歳、20歳の甘やかされた少女たちに贈った文壇。村上龍が「限りなく透明に近いブルー」で受賞したときに、すでにその予兆はあったのだ。Oさんは、これを文壇の「モーニング娘。化」と語った。名言である。商売が見え隠れする。芥川も驚いているだろう。

サブカルチャーは、ポップカルチャー化し、その余波はついに文壇をとらえた。いま、発言すること、書くということ、表現するということに、どれだけのものかきが責任を意識しているだろうか。我々、同人のような影響力のない発言者と違い、マスコミに登場する作家、評論家、大学教授など、影響力のある人間が、権力と資本に飲み込まれた日本で、言論は死んだも同然である。