ガメラはゴジラよりも日本人らしい

         

                            小山昌宏 

 

 「大怪獣ガメラ」は一九六五年(昭和四〇年)に封切られた。北極海に眠るガメラは,米軍機による国籍不明の核弾頭搭載機の迎撃により、多量の放射能の中からよみがえった。八〇〇〇年の眠りから目覚めたガメラは、エネルギーを求め日本に上陸する。ガメラは飛来する印象が強いが、このときばかりはゴジラと同じように、亀らしく海のなかから現れた。ゴジラが南方戦線で散った英霊の怨念とビキニ環礁で被爆した第五福竜丸乗組員の怨嗟から日本に再び災禍をもたらすのに比べ、ガメラは、「おとなしく眠っていたところを起こされ、寝おきが悪く、腹もすいた」状態で日本を襲う。ゴジラにはイデオロギーがあるのに対して、ガメラは、ただ生物学的な動機で暴れるのである。しかも米軍と国籍不明機のトラブルによる核爆発にもかかわらず、なぜか日本を襲う(笑い)。ガメラはなぜ眠りを覚ましたアメリカを襲わないのか。「この野郎! 俺はゆっくり寝ていたのに、起こしやがって」と、まずはロサンゼルスに上陸し、ひと暴れした後、飛行しながらニューヨークを火の海にすべきだ。そうあるべきだったのだ。

 ゴジラが東京湾から上陸し服部時計店を破壊し、国会議事堂を粉砕することができても、なぜか皇居を足蹴にできなかったように、ガメラははじめから、アメリカ相手に正当防衛的な戦いを挑むことができなかったのである。なぜか「被爆国」である日本ばかりを襲う(笑い)。

「襲いやすい」からというのが、怪獣たちの言分であるようだ。「ゴジラが日本を襲ったから俺も襲った」とガメラは供述している。「日本人はすぐ忘れてくれるので助かる」とも発言している。ガメラは、その供述どおり、以後、対バルコン、対ギャオス、対バイラス、対ジャイガー、対ジグラと怪獣が日本に登場するたびに、喜び勇んで日本にやってきた。ガメラはいつもひと暴れできる日本が大好きなのである。「ゴジラはさあ、なんか、難しいこといって、話題をつくるだろ。でも俺はさ、ただ子供がすきなだけなんだ。所詮は亀だからね。俺はさ」とヒーローらしからぬ自虐的な人生観をつづっている。だが、この述懐はまさしく正しい。初代ガメラは、品格こそなかったものの、まっとうな常識を身につけていた。「ゴジラの二番煎じ」であることも自覚した上で、「子供が好きだからさ」と発言しているあたり、正直者でもあった。また子供心に「どうも人間くさい怪獣だな」と親しみを覚えたのも、亀なのに指が五本あったり、猿と違って、親指が独立して、ものをつかめる手の器用さにも感心させられたからである。それもそうだが、ガメラの一番優れているところは、亀の分際をわきまえていたことである。

 なのに!どうしてじゃー。たかが亀のくせに、平成ガメラは格好良すぎる。なにがアトランティスの守護神じゃ。「ガメラは誰も人を殺したくない」って浅黄ちゃんはいうけれど、甘やかすでねえ。ガメラはただ闘争本能で戦っているだけだ。ウルトラマンガイアの若き古生物学者・浅野未来ちゃんもいっておる。「怪獣は眠りをさまされたり、そのパーソナルエリアに入ったものには攻撃的になる」と。こんなの生物はなんでもそうじゃー。平成ガメラはゴジラと同じで理屈をこねている。怪獣なら怪獣らしく、堂々と人間に対して振る舞いなさい。遠慮はよくない。人間と同じ土俵で勝負したら、人間に飼いならされるペットになっちまう。先代はちがったぞ。敵怪獣と勝負しながら、人間とも勝負していた。子供を「人質」にとりながら、「俺は怖いんだぞー」って印象を与えていたぞー。平成ガメラよ。恥も外聞も捨てて、人間のために!なんて振る舞いはやめて、野生に帰れ! 先代の教えをよく思い起こしてみなさい。人間によって仕立てられた君は格好いい。映画としても優れた作品だ。だが君の顔は、その険しい表情とは裏腹に、正義のいやらしさがにじみでている。先代のあの少し口をあけた、愛嬌ある風貌に近づくために、少し勉強しなおしたほうがいい。

 それでもガメラは、ゴジラよりも自分のみのほどを知っている。皇居を踏めないゴジラよりも、アメリカと戦えないガメラのほうが、プラグマティストとして正しい。いずれにしても、いまだに皇居を踏めないが、ハリウッドに進出し、アメリカで暴れたゴジラに比べ、アメリカを恐れ、物忘れがひどく、弱者にやさしい日本人しか相手にしないガメラ。うーん日本人的だ(笑い)。