魔法少女と戦闘少年にみるジェンダーの変遷

小山昌宏

はじめに

 

前回、政治経済にわたり、多大な影響を及ぼすにいたった日本社会に蔓延するキャラクター文化の特徴を、高度な消費文化と情報資本主義が結びついた結果もたらされた実像なき個人主義にあることを特徴的にみた。それは、現実に生きる人間を社会的動物としてトータルに捉えるのではなく、人間のパーソナリティの断片をピックアップし、誇張し、拡大する「マンガ」的手法の効果が、日常の思考や行動にまで深く浸透しはじめたことを意味している。政治家として様々な矛盾をかかえる小泉首相のポジティブな断片を具象化したキャラクター「シシロー」は、改革の旗手となる雄雄しいイメージとして登場したが、それははじめから虚像の象徴として、危機的なキャラクターを支えるために計略されたのであった。

その意味で、日本の文化に特出してみられる宗教や政治といった「大きな物語」の終焉を、キャラクターという「小さな物語」で救済する試みは、現時点でほぼ失敗に終わったとみることができる。それは、かつて首相候補として名があがった小沢一郎も消え、石原慎太郎、管直人の名もいまや効力を失いかけていることにもみられる。

 「大きな物語」の終焉と「小さな物語」の終末を短期的に迎えてしまった日本社会は、リオタールのいう「転用と回収」のスピードが極度にアップしたため、正当な価値判断がなされないまま、一部政治家や官僚によって高度な政治判断をくだすことを要求される危機的な状況にまで追い込まれてしまったのである。  

今回は、その「大きな物語」と「小さな物語」の終末と同時に芽吹いた新たな接続のきざしを「魔法少女」というキイワードとともにアニメ作品の流れを追いながらみていきたい。

  斎藤美奈子 『紅一点論』の視点

 

斎藤美奈子は『紅一点論』で「戦後日本の『上層部』(世界)はたくさんの男性と少しの女性で構成されている」と指摘するとともに、戦闘ヒーローと魔法少女の分析を緻密におこなうことで、アニメからみた戦後社会批評に成功した。「男の子の国」に描かれる女性(少女)はいつも悪者に捕らえられ、ヒーローの登場を待つ職場の花か、戦闘少年を脇でサポートする添え物の戦闘少女(モモレンジャー)として描かれた。社会の重要なポストは女性には数が限られている。斎藤はそのことを「男の子の国」(戦闘少年の国)と「女の子の国」(魔法少女の国)の役割分担として分類し解析した。

 「男の子の国」とは、択ばれた等身大ヒーローやロボットヒーローが変身(武装・パワーアップ)し、悪の組織と闘う世界であった。その前提になるのは、高度な科学力と科学技術であった。また「女の子の国」の魔法少女は、変身(化粧)することで魔法の力を手に入れ、メイクアップし、友だちの力をかりて学校や地域、社会の問題を解決する役割をもたされた。その力は魔法と錬金術の力によるものであった。「女の子の国」の魔法少女は、はじめから「男の子の国」(男性社会)とは対極にある魔法の国という地域「協同」社会に住み、「男の子の国」にいる少数少女は、「競争」企業社会に働く「紅の戦士」として、「男性社会」で「お茶くみとコピーとり」の仕事しか与えられなかったのである。

このような男性中心社会では、女性が社会的に成功するためには、「リボンの騎士」のサファイヤや「ベルサイユのばら」のオスカルのように身も心も男装しなければならなかった。また結婚せずに子供を産まないセクシーな女性は「悪の女王」(「タイムボカン」シリーズのドロンジョー)のように、さえない男性部下を指揮、連敗するリーダーとして、戯画的に描かれた。

 このような斎藤の指摘は、誠に的確であった。

しかも、おかしなことに「悪の国」では正義の国よりもいちはやく雇用の機会均等法が施行されていたのである。

魔法少女の典型

  一九六六年の初の魔法少女アニメ「魔法使いサリー」以降、東映動画(現東映アニメーション)が生み出した魔法少女アニメは、一九八〇年の「魔法少女ララベル」まで、ほぼ魔法の国(不思議の国)のプリンセスであり、父親からみた「よい娘」を演じるお嬢様キャラでなければならなかった。永井豪の「キューティハニー」のように、戦闘少年が登場せず、悪の組織も主人公も登場人物すべて「戦う女性」であるアニメ、「ひみつのアッコちゃん」のように、魔法使いではなく、普通の少女が鏡の国の妖精から「魔法のコンパクト」をさずかり、周囲の問題を解決するが、等身大の少女の自我(わがまま)のまま描かれた例外もあるが、この八〇年までの魔法少女は、総じてプリンセスとなる修業(通過儀礼)として「夢と希望」を人々にあたえる仕事に、なんの疑いもなく取り組んでいた。だがその使命への疑問はなかったが、プリンセスになることを拒否し、王子の求婚を拒否する「花の子ルンルン」(一九七九)に、八〇年以降の社会変化の予兆をみてとることは可能であった。

魔法少女の世界救済の失敗

 「魔法のプリンセス ミンキーモモ」が、プリンセスでありながら、プリンセスになるための通過儀礼として「夢と希望」を与える仕事を命がけでやらなければならなくなったのは、八二年のことであった。すでに「キャンディ キャンディ」のキャンディは、看護士という仕事をまっとうしていたが、モモは小学生でありながら、大人の女性に変身し、様々な職業を経験しながら人助けをしていた。八〇年以降、女性の就業化が進み、アニメ作品においても、急速に女性キャラが社会進出をすることになった。そうした社会背景の変化により、魔法少女は、今までは周囲の人々や学校、地域社会の人々に

                                              
モモの使命 (82年 「空モモ」)  

・夢と希望がなくなった地上に、夢の国「フェナリナーサ」 を降臨させ、人々を失望と悪夢から救済する

・夢の国 フェナリナーサの王宮の広間にある王冠の12個の穴  に夢4つで1つの誕生石を備えることができる。48の 夢(12の誕生石)がそろったとき、魔法の国フェナリナーサ は降臨し、人々は夢と希望をとりもどす地上にユートピア がよみがえる     

 夢と希望を与えていればよかったものが、仕事をしながら、世界を救済しなければプリンセスになれないばかりではなく、命まで失う危険な使命(過労死)を与えられることになったのである。

 この危険な物語設定がモモの将来を暗示していた。モモはやがて、必死な努力にもかかわらず人々から夢と希望がうすれていくことを実感し、夢のパワー不足になり、魔法の力が費えてしまった。魔法を使えなくなった魔法少女は、地球で普通の少女としていき、人のためにではなく自分のために生きていくことを決意する。そのやさき、モモはトラックにひかれ、あっけない死を遂げる。少女がたった一人で世界を救済しなければならないその重みは、男性社会に通逓する男性原理の支配に対抗し、燃え尽きたキャリアウーマンの未来を暗示していたのである。

八〇年代は、「モモ」の幕開けにより、魔法少女アニメに暗雲がたちこめたが、「魔法の天使 クリーミーマミ」(一九八三)、「魔法の妖精ペルシャ」(一九八四)の登場により、典型的な「お嬢様」魔法少女からアイドル(マミ)、天衣無縫野生児(ペルシャ)へとそのバリエーションをひろげていく。そして「ひみつのアッコちゃん」「魔法使いサリー」の新シリーズが、リバイバルする。こうした八〇年代の「魔法少女」は、六〇年代魔法少女アニメを見て育った若きアニメーターたちが、少女から大人への時代の心の「揺らぎ」に思い入れた製作番組としてオタクブームの先鞭をつけることになった。六〇年代魔法少女は、少女をとおして地域社会が安定し、発展する様をえがいたが、八〇年代魔法少女は、少女のパーソナリティの「かわいさ」が社会に進展し、結果として「ワガママだけど、可愛いから許す」というネームまで生み出していった。学校、地域社会といった「共同体」から逸脱した少女の自我が、メディアを媒体に肥大したのが八〇年代の特徴であった。

 魔法少女の世界救済 戦闘美少女と癒し

 八二年の「魔法のプリンセス ミンキーモモ」で世界救済に失敗した魔法少女は、環境問題、エイズ問題などでさらに、深刻化した世界を前に、リベンジをはからなければならなかった。九一年に復活した「魔法のプリンセス ミンキーモモ」(八二年版は「空モモ」九一年版は「海モモ」)は、「空モモ」の生まれ変として復活をとげた。

前作、「空モモ」が声優小山菜美の山の手お嬢様風「モモ」スタイルを確立したのに対し、「海モモ」は下町鉄火場娘を演じる林原めぐみの元気さが、物語の悲惨さを結果的に深めていった。海モモの努力により、海底からマリンナーサが浮上するも、その地表は砂漠と化していた。その砂漠こそが、モモが悪夢のなかでみた地球そのものだったのである。人々の心から夢が消え去るとき。モモの魔法もまたついえ、モモは魔法を使えば使うほど、消耗し、衰えていく。魔法の国の両親は不治の病に伏し、誰もモモを手助けしてくれる人はいなくなった。そして地球から夢のパワーが完全になくなり、マリンナーサに移らなかったモモは、完全に魔法の力をなくし、大きな物語を捨て、人間の少女として小さな物語のため、地球に生き残ることになった。

 それから一年後、暗雲をたち払うべく美少女アニメが誕生したのは一九九二年のことであった。すでに少女マンガとして親しまれていた「美少女戦士 セーラームーン」は、普通の少女月野うさぎが、宇宙を支配する幻の水晶を

モモの使命 (91年 「海モモ」 )                                             

・自然が破壊され、蔓延する奇病(エイズ)のため、人々の心から 夢が消えたため海底に沈んだ夢の国(マリンナーサ)を地 上に浮上させ、人々を救済する。空中の夢の国フェナリナ ーサを 地上に降臨させる仕事と比べても、そのしんどさは比較 にならない。

・モモの住むレジエンドパークは戦争に破れ、絶望した人々 は魔法の力さえも失っていく。地球滅亡は秒読みにはいっている)

うばおうとするダークキングダムの存在を知り、自らが月の女神(ネオクイーン セレニティ)であることを自覚し、悪と闘う物語であった。「モモ」がその夢の実現に失敗するのに対し、セーラームーンは、そのシリーズ全作品をとおして「人類の救済」と「宇宙平和」を実現する。セーラームーンが「戦闘美少女」ものとして先鞭をつけ、「女にも戦わせる」「感情(主観性)が世界を支配する危険性が高い」との厳しい批判があるにもかかわらず、少女たちに絶大な人気を誇ったのは、セーラームーンの人格構造とその世界構造にあった。

 セーラームーンは、太陽ではなく月の象徴である。メインキャラのうさぎをサポートするセーラー戦士たちは、「太陽系」の惑星のシンボルであるにもかかわらず、太陽ではなく、地球の衛星である月によりそう。これはあらかじめ太陽(男性性)を廃した世界構造であると同時に、さまざまな能力をもった同性(女性)が、「どじでだめな私」をサポートしてくれ、しかも衛というナイト(未来の夫)に守られ、ちびうさという未来の娘(理想的な家庭像)をもちながら、内なる自己悪であるセーラーサターン、かつては宇宙一の女神でありながら男性性に支配された未来の自分であるギャラクシアを、その心ごと包みこみ、抱擁し、癒す力をもつセーラームーンへの強い憧れとして共感を生んだのであった。普通の少女では男性社会でその力を発揮していくことは困難である。まして主人公のうさぎのような無垢なる魂を持ち続けることは、現実社会では不可能である。だが、セーラームーンを支持した少女たちは、普通の少女が変身でき、サポートしてくれる同性、異性の仲間がいて、無垢なる慈母的な愛で、戦闘社会(男性社会)を破壊するのではなく、癒し、包摂してしまうその力を憧憬したのである。いわば、セーラームーンの人格構造は、戦闘ではなく、究極的な愛をうけいれる世界造によって保持されていたわけである。 

その意味で「モモ」が心痛む寓話であるとすれば、セーラームーンは究極的なファンタジーであり、ひとつの理想的な女性像(世界観)の現れであったのである。

 少女にとって戦闘とは未来にもつべき「仕事」であり、愛とは「家庭」そのものであった。仕事か家庭かの選択ではなく、仕事と家庭の両立、そして同性(女性)に厳しい同性(女性)世界ではなく、戦闘(仕事)をとおした女性同士の戦友意識(心の絆)こそが、まぎれもなく彼女たちが欲していた小さな物語が大きな物語を実らせた実感であった。

フェミニズムの原型

男性性と女性性の差、性差についての従来の言説は、ロゴス、合理性、真理といった言葉に示される「男性性」と物語性、対話、共感といった言葉に示される「女性性」で代表されてきた。キャロル・ギリガンは『もうひとつの声』(一九八六 岩男寿美子監訳、川島書店)で、女性に特徴的にみられる思考のコンテクスト依存(人間関係)、物語的な思考様式は、自己を抽象的な他者と区別された自律的な主体とみる男性性の道徳意識を「道徳意識」の発達基準として捉える視点から生まれたと指摘した。この言説に対し、リン・シーガルは、『未来は女のものか』(一九八九 織田元子訳、勁草書房)で、こうした女性性は社会的劣位によって発達せざるを得なかった性質にすぎない奴隷の美徳であると、批判し、女性が男性と同等に評価され、特権を享受できていれば、この道徳的感性も消えうる可能性が高いと指摘した。このような物語性、対話を重視する傾向は、女性に限らず従属的地位にある人々に典型的に身についた防衛能力であると反論した。

ロイス・マックネイは、ギリガンの言説に対し、「女性性という特殊なものを一般化することは悪しき「本質主義」であり、女性の道徳的アイデンティティを非歴史的、没文化的な定義に帰着させる社会的要因を考慮しない誤りであると指摘した。

このような論争のなか、スーザン・へックマンは、『ジェンダーと知』(一九九五 金井淑子ほか訳、大村書店)で、両者の見解の相違が、フェミニズムにある「合理性と非合理性の対立」がそのまま男性性の優位性、女性性の劣位に帰結している問題であることを確認し、ギリガンの主張は、むしろ女性的な価値を優位に置きながら合理性・非合理性の二元論を保持するラディカル・フェミニズム的なものというより、合理性・非合理性の二元論のモデルそのものを疑問視するポストモダン的なものと評価した。

こうした論点の相違は、合理性・非合理性の対立、合理性の優位をみとめるが、男性性と女性性の二項対立は拒否するリベラル・マルクス主義フェミニズム、合理性・非合理性の対立、男性性・女性性の二項対立は認めるが、優位、劣位については判断を拒否するラディカル・エコフェミニズム、そもそも合理性、非合理性の二元論そのものを拒否するポストモダンフェミニズムの立場から生まれた。

ヘックマンはポストモダンフェミニズムの立場から、西洋近代合理主義にある「男性中心」的言語は、女性が女性に対し女性のように話す(非合理)か、女性が男性として話す(合理)の選択しかない。どちらの選択肢もさけるべきだと主張した。

エレーヌ・シクスーは『メデューサの笑い』(一九九三 松本伊瑳子ほか訳、紀伊國屋書店)で、ポストモダンフェミニズムの立場から、男性の道具、男性の概念、男性の場所をわがものにするのではなく、男性中心社会に包摂されながら、同時に排除される「女性的なもの」が、女性独自の経験や身体を語る隙間をつくり、システムにすみ、システムそのものを変えてしまう可能性を示唆した。女性特有の「憑依」「変身」という現象は、同じくシステムに包摂されながらも排除された周縁的な存在である植民地の民衆による、生活世界での横断的な「もののやりかた」として読みかえることができるのである。

 魔法少女の「変身」は、「ミンキー・モモ」においては、この女性的なものを本質として守ろうとするか、それとも奴隷の烙印として放棄するかを鋭くせまられ、結果として死をもって放棄させられてしまったのである。男性的合理性は救済のために犠牲はつきものとするのに対し、女性性の本質主義はすべてを等しく救済することを望む。モモは世界すべてを救済しようとしたために自壊した。モモは男性社会において男性と同等に評価され、成功を納めるために男性以上の働きをしなければならないキャリアウーマンの象徴として描がかれ、燃えつきてしまった。

セーラームーンは、その意味で男性中心社会を、変身し、縦横無尽に横断することで、最終的には女性性に巣くう男性性(戦闘性)を包摂し、溶解することに成功した作品であった。世界平和はセーラームーンにおいて女性性の「本質主義」勝利として描かれたのである。

 アニメにおける男性性と女性性の交錯

 男性社会が生み出したアニメを象徴するもののひとつが、巨大ロボットアニメである。このロボットアニメの歴史も、膨大な作品とその検証が必要になるが、極端に単純化すれば、「機動戦士ガンダム」(一九七九)以前、以後で語ることが可能である。「ガンダム」以前のロボットアニメは、手塚治虫「鉄腕アトム」(一九六三)や横山光輝「鉄人28号」にみられるように、人間に疎外されたロボットが人間のために役立つドラマであり、永井豪の「マジンガーZ」(一九七三)にみられるように科学技術の成果と正義が一体化し、主人公が確固たる信念をもち、悪をたたく勧善懲悪物語であった。そうしたロボットの疎外物語や勧善懲悪物語が、等身大の人間が戦争の前線で悩み、苦しむリアルな姿として描かれたのが「ガンダム」であった。主人公アムロの気弱さは、従来のロボットアニメヒーローの「男らしさ」には、程遠い情けなさであった。だが、つくられたガンダム以前のヒーロー像は、アムロのような本音をさらけ出すことはなかった。この「本音」が少年たちの共感をよびさまし、熱狂的に迎えられることになった。

しかもガンダムは、以後のアニメの人物設定に影響をあたえることになる「父親不在」の主人公と、同世代の女性へのコンプレックスを深く表現することとなる。

「新世紀エヴァンゲリオン」(一九九五〜一九九七)における主人公・碇シンジは、敵であるシトとともに戦う少女、綾波レイと惣流・アスカ・ラングレーの男性社会を生き抜くために「戦い」「勝利する」その意志力、強い信念にたじろぎ、戦いから逃げ出す。そして威厳ある父にみえる碇ゲンドウも実は、心の救いのために亡き妻である碇ユイに似せて綾波レイをつくり、最終的にレイに裏切られ非業の死をとげる。

アニメに描かれた男性性は「機動戦士ガンダム」以後、「巨人の星」に典型的みられた「威厳ある父」「母親不在」、そして常に物語につきまとってきたオイディプス・コンプレックスは霧散し、少年にとって幻の「父親を探す」「男性性獲得」の旅として描かれたのである。

このように少年は、男性でありながら、男性社会に参入できず、戦うことを恐れながらも生き、少女はあいかわらず男性社会での戦いを強いられるアニメ(「サクラ大戦」「ストラトス・フォー」「らいむ色 戦奇譚」)で、戦う資格は美少女にしか与えられない現実を生きているのである。

                                                                

だが「ポケットモンスター」では、サトシ、カスミ、タケシの旅中で、食事は女性であるカスミではなく、料理の得意なタケシが担当し、本来男性的な職種である警察官、獣医などにも、多くの女性が働く姿が自然と描かれてもいる。戦いに際しても、女だからと男が手加減をし、「女に負けたからだめだ」といった言葉はでてこない。勝ち負けは、男女の性差にあるのではなく、自己の鍛錬がたりないことをさりげなく描いている。

こうした女性性と男性性の交錯、「平等化」の変化と同時に、祖国防衛のために小学生の女の子三人が、かわいいエイリアンと戦う「陸上防衛隊まおちゃん」のように、本来大人が守るべき子どもが、大人を守るという転倒がおきているアニメも人気である。なんでもありのアニメ表現にあって、男性性、女性性ばかりではなく、大人と子供の役割、境界線がなくなったこともみのがすことはできない。

 大きな物語と小さな物語の接続

いずれにしても、TVアニメ表現は、一定の男らしさや女らしさを表現する「型」が消滅し、男女、大人・子どもの関係なく戦いの前線に立たされるという脅迫神経症的な日常を描いているものが多数を占め始めている。良い悪いの判断は別にして、空想の世界でありながら、少年少女までを日常的に戦いに参入させる日本の「戦士・戦闘文化」は、事実大変根強い。加藤春恵子の第四回世界女性フォーラムでの報告にあるように、戦闘美少女は「性的対象物としてみられることに慣らされ、男性中心の社会に慰安を提供するための訓練を与えられる仕組みになっている」という指摘を頭から否定することはできない。だが、「アニメの少女戦士たちは、オカルト戦争を戦っている。番組のなかで伝えられる、信じようとする意志、あるいは精神力こそが勝利の源だとのメッセージはかつての日本の軍国主義教育やオウムのマインドコントロールと共通する」との指摘を、そのままストレートに受容することはできない。間違いなくいえることは、アニメにおける祖国防衛や地球平和といった「大きな物語」と少年、少女たちの小さな物語(日常生活)が、あまりにもかけ離れてしまった結果、現実の無力感の前に、「大きな物語」への接続の代償行為として戦闘アニメがあるのではないかという仮説の存在である。

九〇年代のエイズ問題やアメリカのイラク攻撃にはじまる若者のデモやパレードへのカミングアウトは、現実の大きな物語の迫力の前に、自分が生きている実感を空想空間にではなく、現実にコネクトしたものとみてよいだろう。まさしく、少年・少女はアニメ空間において、現実社会での競争を、勝利であれ、敗北であれ、追体験し、実生活の経験以上に深く人格に刻印していく。アニメはその意味で自然と「大きな物語」を描かざるを得ないし、少年期に小さな物語をもちながら、現実社会という大きな物語を架空体験する装置として存在するのである。

アニメは現実社会と日常生活を結ぶ架空体験装置として存在すると考えた場合、この番組は危険であるという見方よりも、番組をとおして、戦争という日常が決して非日常ではないことを、少年・少女が自己の精神史に刻み付け生きる役割を果たしている重要性にこそ着目したい。そのための教材としてもアニメは、ジャパニメとして世界に流通していくはずである。かく言う筆者も「セーラームーン」のオカルト戦争も、個人的には、戦争への鎮魂、戦いから平和への魂の解放を感じた一人である。果たしてこの感性は、正しいのだろうか、それとも間違っているのだろうか。

(社会文化学会 第四回全国大会・報告に加筆)

『IT化社会の倫理問題』 (晃洋書房)刊 所収