ポピュラーからポップ そしてレイブへ

        ―快楽の前に懺悔するサブカルチャー C

 小山 昌宏

0 「怒り」だって結局「商品」なんだぜ  

一九七五年、イギリスでは労働党政権下の社会福祉国家政策が失敗し、経済の低迷による深刻な失業問題をひきおこしていた。大量の失業者のなかでも、若者達の失業は日増しに膨れ上がり、犯罪、暴力、暴徒化が社会問題化していた。だが、失業からくる食と職への失望が、若者たちに暴力とは異なる「表現」をもたらした。楽器を手にいれるのでさえ、困難かつ、弾き方すら知らないブルーワーカー層が、うさばらしのため、国や社会、大人たちへの抗議を音にして演奏しはじめたのである。

伝統的に社会的に固定化された階級・階層社会のイギリスで、七○年代の若者たちは、五〇年代のティデイボーイズ、六〇年代のモッズの反逆の伝統を引き継ぎパンクスと呼ばれた。バンドはエレキギターに、ベース、ドラムスの単純なセットで、楽曲は、テクニックの話しどころではなく、スリーコード進行で、すべての楽器を打楽器のように弾きまくり、そしてヴォーカルはただがなり立て続けるものであった。

激しい怒りが憎しみとなり、ある者たちは有色人種追放をうたうナショナルフロントへ走り、またある者たちは新しいパンクスを結成し、キングスロードでは守旧派のテッズと乱闘を繰り返していた。

キングスロード403番地、そこには過激なボンデージファッションを売る店「セックス」があった。ニューヨークで「ニューヨーク・ドールズ」のマネージメントに失敗したマルカム・マクラレンは、店のデザイナーであるヴィヴィアン・ウエストウッドとともに、この店に出入りする若者たちと会話をするようになる。マルカムは怒髪天をつく金髪、穴だらけのTシャツ、青ざめた顔に焦点の定まらない目をした若者たちのなかでも、ひときわ異様な衝撃力をもつ若者に目をつけた。その若者の名は、ジョン・ライドンといった。歌もうたったこともない、楽器を演奏したこともない若者たちに、マルカムは「すべての怒り」をぶちまけるように火をつけた。こうしてジョンはジョニーに生まれ変わり、ヴォーカルを中心としたパンクロックバンド「セックス・ピストルズ」が誕生した。そしてピストルズは次にジョニーをしのぐ、ドラッグアイドル、シド・ビシャスをメンバーに迎えた。ピストルズの回りは乱闘騒ぎが日常化し、彼らはテレビでは、「エリザベス女王」に暴言をはき、街頭ではいつも警官と小競り合いをおこした。あまりの騒ぎにレーベルのEMIは、契約を破棄し、「ピストルズ」はイギリスを追放され、自由の国アメリカへ渡航を余儀なくされた。

だが、すでにベトナム反戦運動の熱の冷めたアメリカは、政治不信をいだき、大人に抗議し、意味なく口汚くののしる「彼ら」の言動に理解を全く示さなかった。シド・ビシャスは、アメリカ公演を最後に、「人格の商品化」を拒絶し、ニューヨークに残り、ドラッグづけの日々を送った。「俺は二五までに死ぬ」を口癖にしていたシドが、恋人ナンシーを殺害し、逝ったのは二一のときであった。そして、ジョニーもまた口癖にしていた「俺たちに明日はない」の言葉を残して、ぼろくず同然になりながら、ジャマイカに逃走したのである。

一 ポピュラーの発祥

社会に反抗し、体制批判をおこなう表現手段として発現したサブカルチャーが、やがてポップカルチャーに変容していく様には、巨大文化資本のマーケット政策の変容があった。従来文化は広義的に、「民族的」「芸術的」なものと、狭義的に「地域的」共同体のなかに綿々と受け継がれてきた。だが、いわゆる「ポピュラー」といわれる文化は、近代資本主義生産様式が生みだした科学技術の発展にともなって、従来の文化を統合する形で急速にひろがったのである。それは多数の人々に情報を伝達する手段であるメディア、ラジオ、テレビに乗り、一回限りの演奏を記録するレコード、ビデオ、紙やセル媒体を同時に複製するコピーの登場によってもたらされたのであった。

このような「複製技術」の時代における文化の変容をW・ベンヤミンは、芸術作品のもつアウラの発現が消失し、歴史的証言力によって支えられてきた芸術が、複製技術、すなわち、「ポピュラー」文化に敗北したと考えた。またT・アドルノは、急速に、複製技術化され、大衆化したアメリカの文化を、文化作品が消費されることを前提に生産されることを前提として、「消費者が満足する結果であるよりもむしろ利潤をえる手段として機能」している、と批判した。アドルノの議論は、マルクス主義のもつ「ある社会を支配する観念は常に支配階級の観念である」というテーゼが前提にあった。この趣旨からアドルノは二〇世紀に生まれた文化装置である「メディア」の支配性をも批判した。それは同時に、歴史的には、ベトナム戦争を機に、大衆運動とともに発展したサブカルチャーが、ポピュラー文化と結び、資本との競合と妥協の中で、メディアを逆に操作する経験をするなかで、一律に巨大資本によって企画化され、「個性を装った無個性な文化は、大衆によって消費されない」という事実につきあたることになった。

そもそも「ポピュラー」文化は、一八世紀中盤、イギリスブルジョア社会と商品市場の発達にともない、"popular culture" として出現した。ポピュラー・ミュージックは、一九世紀には、伝統的で牧歌的な国民歌謡と同義であると考えられていた。だが、一九世紀後半には "folk" という言葉が、「ポピュラー」の語彙を奪い、"popular music" はイギリスでは新しく発展してきたミュージック・ホールで生み出される歌を指すようになった。
 このように「ポピュラー」の名称は、音楽産業から発祥した。R・ウイリアムズは「ポピュラー」の語源をラテン語の"popularis" 「人民の」に求めているが、その言葉は、同時に「低俗な」「卑しい」という意味も存在したとしている。そして一九世紀には、ブルジョア社会の進展にともない、ひろく労働者階級を包摂する大衆社会が出現すると、大衆は自らのアイデンティティを「ポピュラー」にこめ、社会主義運動とともに「人民的」「民衆的」な意味を文化的に付与したのである。それはブルジョアジーからすれば「低俗」な文化も、大衆からすれば、新しい時代の文化の幕開けであった。「ポピュラー」は、はじめから産業(資本)と大衆(民衆)が結びついて誕生したのである。

二 カウンターカルチャーとしての「ポピュラー」

一九世紀に大衆文化として生まれたポピュラー文化は、二〇世紀に入ると産業が急速に発達したアメリカ社会で一般化した。アメリカは人種のるつぼであり、様々な少数民族、人種、移民が様々の文化を形成した。今日使用される言葉の多くが、この一九四〇〜五〇年代にポピュラーから発祥している。それは、様々な音楽形態をともない社会現象として認知されたのである。一九二〇年代すでに、黒人ジャズ・ミュージシャンのなかで"hip"「ヒップ」は、「流行を理解できる」「頭がいい」という意味で使われていたが、五〇年代には若者たちの間で、「解放的」「かっこいい」「反体制」という意味で「保守的」「ダサイ」「体制」という"square"「スクエア」という言葉の反語として広まった。ジャズメンはさらに、ヒップではないジャズメンとの差異を強く意識した"bebop"を生み出していった。その音楽は、デトロイト、ロス、ニューヨークでの黒人暴動を背景に、複雑なコード進行を持ち、第二次世界大戦前の商品化された白人によるジャズへの対抗意識によって生みだされたのである。それは人種的自立と解放を求める黒人たちの音楽であった。「ビーバップ」のミュージシャンのチャーリー・パーカーは、さらに戦前のジャズと自分たちの音楽を区別し、一九四七年に"cool"を標榜した。続いてマイルス・デイビスが、『coolの誕生』を発表したのは、一九四八年であった。

ジャズから生まれたこうした言葉は、「クールの誕生」により、広く人種を超え、若者たちに一般化した。それは若者が自分たちのファッションとスタイルを、「大人」「常識」と区別するために標榜したのである。こうした戦後アメリカの文化は黒人というマイノリティカルチャー、若者というカウンターカルチャーを形成し、六〇年代の「ヒッピー」を生み出す前身となる"beat"「ビート」を生み出すことになった。一九五七年以降、アメリカの物質的繁栄に反逆する若者たちは、突然街を捨て、放浪生活にはいり、麻薬、フリーセックス、同性愛、東洋文化、宗教に傾斜していく。彼らは"beatnik"と呼ばれ、反体制、反伝統、反文明的生活をおくることになる。だが、忘れてはならないのは、すべての文化は、資本主義から逃れることはできないという事実なのである。五〇年代に繰り広げられたアメリカ黒人ミュージシャンによる「文化の差異化」は、マイナーな違いを商品化し、次々と上市していくことで存在する高度消費社会の原型を結果的に作り上げてしまったのである。

三 ヒッピーとミニマル・ミュージック

五〇年代に展開されたアメリカ政府の「封じ込め」政策、冷戦による「社会主義政治文化圏」の封じ込め、マッカーシズムによる思想的異教徒(共産主義者)封じ込め、社会に適応できない市民の精神病院への封じ込め、女性の家庭への封じ込めは、六〇年代に入り、抑圧され、内圧のかかった窮屈な空気として解放を希求する動きが強まった。ビートニクは、家賃高騰ですみづらくなったノース・ビーチから自分たちの活躍できるゾーンをもとめて、当時黒人と低所得者の居住地として人口が急増していたシスコのハイト・アッシュバリーに集まってきた。様々な人種、同性愛者、サンフランシスコ州立大学の学生、ボヘミアンが、おって全国から移り住んできた。こうしてハイト・アシュバレーは、LSDの一大消費地になり、政治的には人種解放運動、ベトナム反戦運動の拠点、経済的には、共同生活による自給自足経済、クリシュナ教徒による食糧、衣類の無償配布による資本主義市場経済の否定、自然食レストランの開店によるジャンクフードへの対抗、サイケデリックファッションによる既製美への挑戦、すなわちカウンターカルチャーを産みだしたのである。だが、サブカルチャーとして誕生したヒッピー文化は、資本主義システムに対するカウンターカルチャーとして全米に認識された瞬間、メディアによる報道、商品化に拍車がかかり、一般化することで、対抗文化の差異を「商品」化されてしまったのである。ヒッピーグッズのバンダナはカウボーイハットのように商品化され、象徴化されたのである。

一九六九年に開かれたウッドストックコンサートは、こうしたヒッピー文化の頂点におこなわれ、このコンサートでぼろもうけを考えていたプロデューサーは皮肉にも、五〇万人もの入場者のほとんどが無賃入場者であったため、この最大規模の「対抗文化」の商品化に失敗した。そして「ウッドストック」の精神のみが、残ることになった。ウッドストックでリッチー・ヘブンス、サンタナ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フーたちが、繰り広げたロックスピリッツは、いわば封じ込められた窮屈なアメリカに対する最大限の解放のPRであった。だが、ロックミュージックも、中心文化に対抗する文化の象徴として流布したが、そのシステムは資本主義そのものによって支えられていたのはいうまでもない。ミュージシャンの糧はレコードによるセールスにかかっていたのであるから。

こうした「文化運動」は、資本の運動に対抗する意味で、政治的であり、現代では資本主義システムのもとで、常に中央集権化に対抗する周辺文化として位置付けられるにとどまっている。「ハイパー・コンシューマリズム」と化した現代資本主義は、わずかな差異もみのがさず商品化するシステムを完膚なきまでに完成させてしまったからである。

ヒッピー文化が、いわば封じ込め政策による外壁の突破、政治色の強い抑圧との戦いであったとすれば、ミニマル・ミュージックは、作為性を極端に排除した反ブルジョアジー芸術運動であった。ミニマリズムの萌芽は、一九世紀の終盤に発表された、かのエリック・サティの「ヴェクサシオン」にみられる。この曲は主題と二つの演奏を八四〇回反復するコンサート演奏を拒んだ「反芸術」の音楽であった。そしてこの「ヴェクサシオン」を六三年に一八時間四〇分かけて演奏したジョン・ケージは、五二年に四分三三秒の間何も演奏しない沈黙の音楽「4分33秒」を発表している。制度に対する「制度」を構築するのではなく、全く演奏をしないことで、楽音に対する雑音を意識させる「音楽」として「制度」批判となった。こうした試みは、六〇年代アメリカで、テリー・ライリー、ラ・モンテ・ヤング、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスらによっておこなわれた。ミニマル・ミュージックの父といわれるテリー・ライリーの革命的作品《In C》が一九六四年に発表されると、それはスティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラス、ジョン・アダムズらアメリカを代表する作曲家たちから、ザ・フー、ソフト・マシーン、カーヴド・エア、タンジェリン・ドリームなど欧米のロック・グループにまで大きな影響を与えた。《In C》の衝撃は、五三のフレーズの断片を、好きな楽器で好きなときに好きな人と時間制限なしで、自由に反復できる「親しみやすく無意味で不確定な世界」をつくりあげたことにあった。ミニマル・ミュージックは、同時代のカウンターカルチャーに刺激され、作品で「作品」を乗り越えていく前衛的傾向から、「芸術」を社会に開示し、大衆的で親しみやすいメロディアスな音楽となっていった。それは単純なフレーズの反復によってなりたつと同時に、リズミカルであったため、「難解」とされる現代音楽のなかにあって、「聴きやすい」ものとなった。この親しみやすさは、結果としてジャズや民族音楽など、ポピュラー・ミュージックの要素を積極的に取り入れたこととも関係した。ミニマル・ミュージックが産みだした方法論は、その後、ロック、ラップミュージックに積極的に取り入れられていく。とくに音楽技術の発展により、エレクトロニクス全盛の時代になる八〇年代になると、サンプリング・ミュージックとして新たな展開をみせた。

四 ハウスとヒップホップ

七〇年代に巨大な市場へと成長したポップ・ロックミュージックは、エレクトロニクスの急速な進化にともない、複合・多重録音から、コンピューターによるサンプリング・ミュージックへと発展した。八〇年代前半、YMO、クラフトワークらによって開かれたハイテクとポップミュージックとの結合は、七〇年代のパンク・ロック、へビィメタル・ロックという妙に人間くさいヒッピー文化を消化してしまった。管理社会の象徴として様々なサブカルチャーで批判的に扱われたコンピューターは、ポップミュージックと結びつくことによって六〇年代のロックミュージックに匹敵するハウスミュージックを生み出していく。かつてドラックをアメリカ政府から譲り受けたヒッピーがロックミュージックを生み出したように、今またパソコンを政府から譲り受けた元ヒッピーが、巨大コンピューター産業をおこし、若者たちにパソコンを譲り渡した。ドラックではないドラック、パソコンは体制から逃れる手段として、あるときには反体制の道具として若者の心的サイバースペースを作り上げていったのである。

ハウス・ミュージックは、八〇年代はじめにシカゴのクラブ・シーンから生まれたダンス・ミュージックである。コンピューター、シーケンサーの導入で、音源のサンプリングと反復演奏が可能となったため、オリジナルなダンス・ミュージックがなかったクラブシーンで飛躍的に発展した。フランキー・ナックルズ、ファーリー・ジャックマスター・ファンク、スティーヴ・“シルク”・ハーレー、ロン・ハーディーといったDJたちが初期ハウスを担っていたが、その音楽はその後ニューヨーク、ロンドンに飛び火し、細分化されたサブジャンルを次々に派生させていった。
 ハウスは七〇年代のディスコミュージックのように、多様な人種、様々な嗜好をもつ人々に受容される音楽だったことから、クラブには文化的多様性が存在した。ハウスダンスはそのミックスされた多様な文化の雰囲気のなかから生まれた。アフリカンダンスを踊るアフリカ系アメリカ人、サルサやミレンゲを踊るヒスパニック系プエルトリコ人、サンバやカポエラをバックグランドに持つブラジル人、ジャズダンサー、モダンダンサー、タップダンサー、ヒップホップダンサー、B-BOYなど、様々なダンススタイルがミックスされてハウスという踊りが形成されていったのである。

ハウスの核心は、ミュージックそのものというよりは、クラブに集まる様々な文化をもつ人間たちのダンスをとおした異文化接続による自己確認にある。ハウスの音楽がコンピューター「リミックス」性にあるように、ハウスのダンスは異文化「リミックス」にあったのである。

ハウスは八〇年代後半からジャズ、ラップ、ソウル、リズム&ブルース、テクノ・ポップ、レゲエ――といった様々な音楽要素と融合しながら独特なダンス・ミュージックへと深化していった。またアンビエントやトライバル、エスニックといったジャンルを超えた音楽ムーヴメントと今も結合を繰り返している。

その同一性の強いリズムを軸に反復される音作りは、コンピューターの登場なくしては不可能であった。その音楽は身体が動きつづける(踊り続ける)ために生まれた、ランナーズハイをおこさせるアシッド性の強いドラッグミュージックである。グルーブすると、長時間に渡り踊りつづけることができるが、グルーブしないと身体が動かないので、曲の良し悪しはすべてグルーブ感にあるといってよいだろう。

ヒップホップは、一九七〇年代後半、ニューヨーク・ブロンクスに移住したジャマイカ人・クールハークが提唱した“ブレーク・ビーツ思想が黒人居住区で行われるパーティーを媒介として広まった。
 ヒップホップは音楽だけに限定されるのではなく、アート、ダンス、DJなど“ブラック・カルチャー”全体を総称し、アフリカ・バンバータやシュガーヒル・ギャングなどの商業的成功を受け成長し、現在では音楽の場合、ほぼラップミュージックをさすようになった。その創始者DJクール・ハークが居住したニューヨークを軸にアフリカ・バンバータ、クランドマスター・フラッシュ、LLクールJ、KRS-ONE等まさにルーツ・アーティストたちがイースト・コーストから生まれた。
 それは七〇年代後半はブロック・パーティーにかかせないダンス・ミュージックとしての役割、八〇年代は、ブラックパワー・ナショナリズムを高揚させるための先導的な音楽として再認識された。それはまた社会運動や政治運動に連動して強いメッセージ性を持つリリックスとジャズやリズム&ブルースといった正統派黒人音楽のブレイク・ビーツやフックを引用するハード・コア路線スタイルであった。九〇年に入りメッセージ性はしだいに薄れ、楽しさを追求したデ・ラ・ソウルやジャングル・ブラザーズをメンバーとするネイティブ・タン派の登場から始まったニュー・スクール・ムーブメント、ウータン・クランの登場(93年)によるハード・コアの復活、バッド・ボーイ・レーベルのポップ路線、また西海岸流ギャングスタイル的なアプローチをするミュージシャンも登場し、現在では、地域性を特徴付けるサウンドの統一はなくなった。

東海岸から生まれアメリカ全土に急速にひろまったヒップホップは、八〇年代に入りワールド・クラス・レッキン・クルーやアイスーTらが基盤を作った西海岸に定着した。そして八七年NWAの登場そして九二年のDR.ドレのソロ・デビューにより、ヒップホップは爆発的な人気とステイタスを獲得した。
 定着当時はブラック・アイデンティティーの強調という政治的メッセージ性に貫かれていたが、次第にマネー・ドラッグ・セックス・バイオレンスなどストリートギャングの欲望を反映するリリックスに象徴されるギャングスタイルに収斂されていった。だが、その基底には、ブラック・アイデンティティを共鳴盤にするファンク・ミュージックを基調としたパーティー・グルーヴが主流を成している。
 黒人音楽から発生したリズム&ブルースを下敷きにしたロックミュージックが、反体制からLOVE&PEACEと結びつき、世界へ広まったように、ヒップホップはブラックパワーから発生し、エレクトロニクスとコンピュ―ターの最大限の成果を取り入れ、グローバルなひろがりをみせている。ロックミュージックが多様化の末にすでに賞味期限切れとなりかかった今、ハウスもヒップホップもそのダンス・ミュージックとしての音源は、より単純化の方向に向かっている。

それは単にミックスダウンをやり直し、ボーカルや楽器を再録して、アレンジしなおしたものから、コンピューター制御により、オリジナルとは別のテンポと音色に再編したものでもあり、オリジナル音源から印象的な部分をサンプリングしてそれをループさせ、新たに別の演奏にダビングし一本の曲に仕上げ、曲によってはオリジナルが全く解らないほど、音源が解体され再構成していく、ハウス、ラップミュージックの歴史を追認するかのような動きである。

ヒップホップとハウスの差は、アフリカ系アメリカ人を軸とするアンダーグランドからグローバル化したダンスミュージックとはじめから多様な異文化の雑種であったダンスミュージックの違いであった。音楽的にはハウスはややアップテンポであり、音楽が踊りを制御するのに対し、ヒップホップは踊りが音楽を支えるといった差である。八〇年代に活性したハウス、ヒップホップは、サイバーパンクと同様に「身体」をとおした「自己確認」の音楽であった。ハウスがいわばはじめからグローバル化していたのに対し、ヒップホップは、アンダーグランドな場所、貧困、暴力、差別との戦いからグローバル化した部分、よりきつい矛盾にとりこまれることになった。

 

五 ニューエッジとレイブ

ハウスもヒップホップもグローバル化とともに、クラブ(小屋)に縛られ、商業主義に取り囲まれてその音楽も形式的に細分化されていった。六〇年代に流浪の民であったビートニクからヒッピーにいたる文化の流れは、七〇年代終わりのテクノの登場により、終焉したかのように思われた。だが、八〇年代のテクノロジーとサイバーパンクの登場により、ドラックはあらたな電子空間に再誕したのである。       

ドラッグ・LSDは、もともとライ麦の寄生菌で、子宮収縮剤の研究中に謝って合成され発見された向精神薬として広まった。ユングによって知られた『チベット死者の書』に触発され、魂の開示を目的とした『サイケデリック・イクスピアリエンス』を著した元ハーバード大学教授のティモシー・リアリーによって、伝統的に管理された身体と精神の開放の道をさし示された若者たちは、精神医学者のスタニスラフ・グロフによって注目されたヨガの呼吸法(ホロトロピック・ブリージング)とドラッグを併用することで、ある種の臨死状態を経験することになったのである。このドラッグによって従来お祈りや、儀式でしかなかった「宗教」が、霊的な次元で体験されることによって、言語を介した体制ではなく、直接神と向かいあえるシステムになった。トリップによって自己が消滅し、理性(言葉)によって支配された狭い人格を超え、やがて時間と空間を超越し、まばゆい光に包まれた「私」が現れる。そこで霊的なイメージを次々と受け取り、言葉にはできない真実を受け取った魂は、やがて肉体に帰還し、新たな自分との出会いを遂げる。それはアポロ宇宙飛行士の多くが、宇宙空間に浮かぶ青い地球をみ、月世界での無重力体験をすることで、地球帰還後、伝道者になった事実とあまりにも酷似していた。つまり薬とロケットという科学の力によって、人間は原初的な宗教体験への還元をはかれたのである。  このような体験は「ガイア」体験として、六〇年代のドラックとロックミュージックにカルチャーショックを受けた多くのコンピュター開発者によって八〇年代に電子空間に再誕することとなった。その方向性は、メモリーの増大によるコンピュター内部、サイバースペース上に新しい地球、ガイアを誕生させる試みだったのである。 

 六〇年代にドラッグカルチャーの教祖となったティモシー・リアリーは、電子メディアが浸透しはじめた八六年に自己診断意思決定システムを内包するコンピッターゲームソフト「マインドミラー」を発表することによってサイバーカルトととして甦った。それは九〇年代にいたり、デジタルワールドとバーチャルワールド、そしてリアルワールドの三世界を流通させるニューエッジ上にあらわれたメディアとして再確認された。ハウスもヒップホップも「音楽にのって踊る」機能からみると、それはデジタルワールドによって変換され、リミックスされたサウンド化されたドラッグであり、リアルワールドからバーチャルワールドへのトリップであることに間違いない。だが、それは初期ヒップホップにある激しい政治性と隣あわせの肥大化した自己像と縮小化した身体のバランスを取り戻す儀式にすぎなかった。白人が踊れないヒップホップからハウスが生まれ、ハウスからアシッドハウスが生まれた。ハウスはレイブを産むのだが、重要なことは、ハウスもヒップホップも音楽のジャンルであるのに対し、レイブはジャンルではないことである。レイブはクラブからはじまったパーティが、野外に飛び火し、自然と人間がダンスをとおして一体化すると同時に、ダンスをとおしたより深い自己確認、細胞レベルからの精神と肉体の合一をはかる儀式と化したのである。それはややアップテンポで音楽が踊りを制御するハウスや逆に個々の踊りが音楽を制御するようにみえるヒップホップと異なり、レイブに参加する個々は、まさに音楽に対するノリはバラバラであり、会場の一体感は全く得られない。それは、参加する個人が深く、ダンスをとおして自己の内面に降下し、世界と自分のつながりを再認識するパーティなのである。よくいわれる「フルムーンレイブ」では、人々はイルカやクジラと対話することも可能であるし、ハウスでいわれるDJはレイブではサイバーシャーマンと化し、宇宙と自然について「エイリアン語」で語りかけたりするが、レイブ参加者はそれを「理解」する。それは脳による言語理解ではなく、「細胞」による身体的理解なのである。 

 巨大化したロックミュージック市場、そしてハウスもヒップホップも今またおなじ道を歩み、資本主義市場の流通にのり、音楽というジャンルで上得意として定着した。レイブはそれ自体がひとつの単発的、偶発的なイベントであるため、市場に取り込まれることはない。レイブパーティは人知れない山奥や孤島で行われることが多いからである。天候によっては参加者も主宰者も多額の借金を背負う。利益のないところに市場は出来上がらない。世界的には二○万人前後のレイブ参加者が、現代のサイバーシャーマンたるDJとともに世界を移動しながらイベントに参加している。レイブ参加者は、より日常生活に輝きを取り戻す者と定職につくことができなくなり、フリーター化し、放浪する者に分岐している。彼らにとっては、「レイブ」体験こそが、生そのものであり、非レイブ的日常は「死んだように生きること」を意味する。ヒッピーが現実社会への「闘争」的役割をもっていたとすれば、レイブは「逃走」の一面をもっている。だが、グローバルな管理と監視体制から逃れるために、ノマド化する人々の数は、現況の世界的不況のなかでは増大することはない。「逃走」は今日では生きる糧を得る者の一時的な避難をさすのである。 

 レイブにいわゆるポピュラーとしてのブームは到来するのか。それはレイブがひとつの場でありつづけ、メディアもレコードもはいらない「事件」であるため、市場化するのは至難である。だが、仮にレイブが単なる野外のダンスパーティとして市民化したとすれば、それはすでにレイブではなくなっているだろう。レイブによる人々の共鳴の磁場は、日常の資本主義的商品市場ではおこりえないものだから、レイブが日常化する可能性はゼロに近い。レイブが日常化したとすれば、それは資本主義的な市場の問題ではなく、人間そのものの存在基盤が大きく変質したと考えるのが正解だろう。 

六 SEX PISTOLS 再び

六九年のウッドストックから三〇年たった九九年、ウッドストックコンサートが再び開催された。それは、三十年間のアメリカの成長と退廃を証明するかのようなコンサートとなった。三十年前、戦争反対、人種差別反対を主張して勘当された青年たちは、それでもなお社会が変わる予感を抱いてウッドストックに集まってきた。それは三十年後の「ウッドストックとは狂ったように踊ることさ」と応える若者たちの、会場内での放火や破壊などの理由なき無軌道ぶりと好対照をなしている。そこでは、多様な価値観を認め、助け合い、自らの責任をもって参加するという「ウッドストックの精神」はもはや失われてしまったのである。

会場では、四○代にさしかかった「七〇年代」の怒れる若者たちの代表である「セックス・ピストルズ」のジョン・ライドンが、中年太りした重い体を動かし、往年の「反体制パンク」を熱唱していた。なによりも人格の商品化をいやがり、死の逃避をはたしたシド・ビシャスとジャマイカへ逃亡し、生き残ったジョニー・ロットンことジョン・ライドン。生ききつづけることは醜い。だが中年太りし、なお頭を鶏冠にしてがなりつづけるジョンに、同年代で疲れた自分をみいだしていた。「がなりつづけろ。おっさん」「俺たちの分まで」。ロックの精神はパンクが引き継いでいる。人生は闘争と逃走が対になっているものだから、生き続けることは容易ではない。公害問題に目覚め、思春期に抱いた資本というシステムとの戦いももう二五年になる。自分自身がシステムにどっぷりとつかり、その恩恵も辛酸もなめ、ポップは自分の細胞レベルで日常化してしまった。だが、妙に居心地の悪い風が腰のあたりをすりぬける。やはり何かがちがう。音楽の中にその萌芽をみいだすことは、いつも可能である。グローバル化は何も悪いことばかりではない。その妙な居心地の悪さの正体についての情報も、同時にもらうことができるのだから。音は時代を先駆ける。声は時代の渇望を予言する。きっとそうだろう。変わりはしない。いつまでも。

2002年 まぐま 9号 掲載