快楽の前に懺悔するサブカルチャーA

―「諸星・大友・押井・庵野」作品に みる「精神と肉体の融合」の物語を探る

 小山 昌宏

 

   はじめに

 前回アメリカ・ウッドストック世代が、ドラッグとロックンロールをとおして肉体と精神の分離と融合を試みた経験が、その後ロケットとコンピーターという「科学」を媒介して新たなる神を地球生命体(ガイア)と地球的ネットワーク(パソコン)にみいだす原動力になったことを述べた。この経験は大変非合理的な意味でシンクロニシティな効果を発揮し、七〇年代の世界文化の底流に多大な影響を与えることとなったのである。日本の場合、それは特に全共闘運動の周辺で爆発したロックミュージック、あるいはマンガ文化に花開いた。

今回は七〇年代に現れたある一人の漫画家の作品にその特徴的な影響をみいだし、さらに八〇年代、九〇年代に出現した「肥大した自我の集大成」と呼ぶことができる三つの作品について考えながら、アメリカ人が六〇年代に発見した世界が、現在の日本人のパーソナリティにいかように食い込んでいるか、それを自然と人間についてのいくつかのモデルとして、再確認したい。

尚その際、精神と肉体の分離と融合(幽体離脱と精神分裂)が、どちらも現実に生き、肉体と精神のつながりを強く認識させる行為でありながら、精神分裂が確認後に精神をあの世に置き忘れてくるのに対し、幽体離脱が、魂の肉体への帰還により、生きる意味を強く人に再確認させる行為であることを、これから登場する作品を読み解く上でのキーポイントとしてひとまず抑えておきたい。

一 諸星大二郎 機械と人間の融合

 諸星大二郎は、日本の漫画史上、稀な特異な才能の持ち主である。その作品は、色濃く日本人の太古的な世界観を残照させている。近年ひとつの完成をなしえた、手塚漫画賞を受賞した「西遊妖猿伝」に顕著にみられる道教(タオ)的世界観、シャーマニズム的な世界観は、初期の諸星作品においては、まだ完全に体系化されていなかったために大変奇妙な作品としてうけとめられることとなった。

 メジャーデヴュー作であり、第7回手塚賞の入選作となった「生物都市」(一九七四)では、木星の衛星イオの探査から帰還した乗組が未知の文明イオの「技術」に感染していた。奇妙なことに彼らは機械と融合し、「歯車が脳髄と同居し、ポンプが心臓となり、神経がコンピュターの回路となった」。そして「人間の体内にオイルが流れ、血液が機械の間を循環し」、「人々の意識はつながり広がってひとつになり、一方機械は人間の神経をかりて感じ、頭脳をかりて意識をもつにいたった。「この新しい世界で科学文明は人類と完全に合体する人類にはじめて争いもない支配も労働もない世界がおとずれ」たのである。それは人類にとり、「夢のような…新しい世界…理想世界(ユートピア)となった。無機物と融合していく老人がこうつぶやいた。

 「腰も背骨も もう痛まない。わしの古い体がすてられて壁や家具がそれにかわってくれた…わしはまだまだ生きられる」と。

 この七〇年代の機械(マシーン)と人間(ヒューマン)の対立は、当時の文明と文化の対立との行き詰まりの象徴であった。しかしこの時代、奇しくもアポロ宇宙飛行士が地球そのものを無限の宇宙空間から一望することによって、初めて我々は対立の袋小路にある人類を直感視することができたのである。この地球を一望する神の視点こそ、科学技術によって生み出された新しい世界像の発祥となり、同時に地球生命体(ガイア)という概念を生む契機になったのである。それは地球環境保全という認識をも生む結果となったのである。さらに八〇年代に用いられた同時多発的で世界的な情報ネットワーク(インターネット)によって、人類共通の課題は、マスメディアとは別次元で、大量に、しかも瞬時に世界をかけめぐることになったのである。

 このように、文明の技術によって地球そのものを客観的に観ることができ、個人が瞬時に同時多発的に個人と結びつくことを可能にした科学技術の登場は、また別の意味で、人間性を変容させることになったのである。それは人類が地球というひとつの生命体(ガイア)を意識することで、「人間の自我の膨張をコントロ―ルできるのではないか」という期待を抱く反面、「情報ハイウェイの可能性が新たなる自我の拡大を誘発するかもしれない」という矛盾であり、さらにそれは、「人類の科学文明が自然なる地球そのものと融合することができるのではないか」という新たなユートピア思想を生む契機となると同時に、「自我の膨張が地球そのものを滅ぼしはしないか」という新たな危惧となって意識されるにいたったのである。

このようにウッドストック世代が残したこのガイア思想は、自然と機械という相反するものの対立を分裂的に人格のなかに宿す役割も同時に果たすこととなったのである。諸星大二郎は、同じ七〇年代の作品「肉色の誕生 ―ホムンクルス」で、「ロボットとか胎外受精とかいった小手先のものじゃない、科学の枠をはみだし、自然の神秘の中に発生する人間」つまり「精霊」をつくろうとする科学者を描いた。一見常識人からすれば狂っているこの研究者も、機械文明を敵視し、自然からのみ生命を錬金術によって執拗に造りだそうとする分裂的な性格の一面を描いたにすぎなかったのである。

 さらに「浸食惑星」では、爆発的に人工増加した人類の食糧不足を救うために、有機物(人間の死体)でさえも、原子分解をおこない、再配列し、物質化できる技術を開発した文明世界が描かれている。老人はある日突然、ダスターシュートから地球奥深くにある原子転換装置に捨てられる。そこで新しい食糧になって人類のために役立つのである。この世界では機械化が進み、人間性(自然性)が失われた現実を描いている。初期諸星作品は、行き過ぎた文明性(科学性)と人間性(自然性)の両極を描いた上で、その両面を融合させる世界を理想として構想していたのである。

 諸星大二郎は、このように七〇年代に、人類のもつ二面性を作品のなかで描ききっていた。このテーマはさらに八〇年代に入り、大友克洋の『AKIRA』によって、より先鋭化され、掘り下げられていくことになったのである。

 

二 大友克洋 人類の進化と「力」

 

 「AKIRA」は人間それ自体の力(超能力)によって世界が破壊されていく物語である。それはその破壊の力のすさまじさから、コールドスリープカプセルに封じ込められていた少年アキラの物語であると同時に、アキラに嫉妬し、先輩金田にコンプレックスを抱く鉄男の破壊の精神史をパラレルに描きだした。それはまた、地球の「破壊行為」を鉄男の心の問題として描写していた。

 いじめられっ子だった鉄男は、周囲に対するコンプレックスが強く、暴走族のリーダーの金田に対しても心ならぬ反発を隠しもっていた。ある事件をきっかけに鉄男は自分の中に眠る「力」に気づき、やがてその力をもとに派閥を形成し、のし上がっていく。しかし永い眠りからめざめたアキラの「力の解放」により、崩壊した首都(大東京帝国)では、鉄男は「力」で人々をねじ伏せることはできても、真の力をもつ幼童神アキラの前では、一人の僕にすぎなかった。鉄男のコンプレックスは金田からアキラに向けられた。

 鉄男はその心で自分の力を制御できず、力を制御するために(精神をコントロールするために)クスリづけになっていく。やがて鉄男は禁断症状から苦しみもがき、トリップし、時間を逆行し、自分の精神史をたどっていく。生まれて産声をあげる鉄男。両親に祝福される鉄男。いじめられていたところを助けてくれた金田。隠されていた思い出が次々に蘇り、鉄男は思いがけない自分の感情に動揺する。やがてまばゆい光に包まれ、光を超える速さで鉄男はビックバーンに立ち会う。そしてDNAの螺旋を飛遊している鉄男は、遠くかすかにアキラの姿をみることができた。

 トリップから帰った鉄男を迎えるアキラのまなざしは、やさしさに満ちていた。それは童であるアキラが身に付けた真の「力」を、少年である鉄男が理解できる入り口にたったことを示していた。だが鉄男は精神を解放し、トリップし、魂を肉体に回帰させてもなお、自我と力の格闘を迫られていた。それはアキラが個でありながら、宇宙と同化していたために力を制御することができたのに対し、鉄男がその力を完全には、まだ制御できないことを示していた。

 鉄男は精神の激動につぎ、次に身体の変容をきざすことになる。力を制御できない鉄男は無理に精神コントロールをおこなうと、力が噴出してしまう。すでに切断された手を意思の力により、機械部品で再建した鉄男は、 

なおも精神コントロールをおこなうが、手足はコードとなり、身体はマシーンの部品のように変容していく。やがて鉄男の身体は完全に有機的なマシ―ンと化していく。その姿はひとつの巨大な胎児に変貌をとげていく。

 それはあたかも、鉄男の精神に次ぎ、肉体の再生を続けることで生命としての力の均衡をたもつ、力の産声をあげるがごとく変貌だった。鉄雄は身と心を呈して、アキラ誕生の再生を、力の再生をおこなったのである。 

この一連のシーンは、人間のもつ力が、現代社会において精神的なものと肉体的なもの(物質的なもの)とにいかに分裂しているかを指し示している。諸星大二郎がめざした精神と物質文明の融合は、具象的に機械と人間が人間の努力によらず、一体化することであった。それは大極、すべての根本、混沌に帰ることであった。しかし、鉄男の変貌は、あくまでも、個が個として再生する苦しみを、類のサンプルとして描きだしたところに八〇年代の苦悩があったのである。魂の肉体への回帰(幽体離脱)をとおして自我に目覚めた鉄男を襲う、身体の変調。これこそが、現代人の環境に同化できない自我が抱えた肉体をとおした精神のゆがみを象徴していたのである。魂と肉体の一致を試みる幽体離脱によってもたらされた「悟り」を許さない肉体の胎動。そしてそれを制御しようとする精神との新たな葛藤。

『AKIRA』は、人間の精神力で、物質を破壊する物語でありながら、人間の肉体(物質)が精神を揺り動し形成する物語であった。そこでは、個は神と思われる破壊の力をもったとしても、しょせんは環境の産物であり、類である個としての人間力の限界を絶えず示していたのである。『AKIRA』全編には、自我の膨張の結末が、一個人の肉体を破壊し、人類のエゴの膨張が地球生命を崩壊させる二重の警告をはらんでいたのである。手塚治虫、松本零士によって描かれた端的な機械と人間の対立は、七〇年代、諸星大二郎によって物質と精神に分裂されたまま、神秘的に「融合」された。 

だが大友克洋は激しく、自我と環境、精神と肉体、文化と文明の矛盾を原動力に八〇年代『AKIRA』を物語ったのである。

 

三 押井守 自我の拡散と精神分裂

 

八〇年代に大友克洋がきり開いた地平は、有機体である人間が生み出した無機的世界との違和、対立を進化した人類のいびつな精神性と肉体の矛盾(破壊行為)を描きだした。この自己分裂する精神と肉体の対立をサイバーメディアをとおして相対化し、諸星大二郎とは次元を異にする手法で解決をこころみた作品が九〇年代にあらわれた。それが押井守監督のアニメーション映画「甲殻機動隊」である。

西暦ニ〇ニ九年。通信ネットワークに覆われ、膨大な情報が世界を駆け巡っている超高度情報化社会。しかし国家や民族、そして犯罪は依然として存在していた。より複雑化していく犯罪に対抗すべく結成された特殊部隊……公安9課に所属する組織、それが甲殻機動隊であった。この甲殻機動隊に所属する草薙素子は脳の一部と脊椎以外はすべてサイボーグ化され、電脳戦にも対抗できる行動隊長であった。彼女とその補佐役のバト―は、人形使いと呼ばれているハッカーの正体を追っていた。人形遣いはその情報ネットワークの隅々にまで侵入することができ、人格を操り、国際的な犯罪に手を染めていた。だが、やがて人形使いは、ひとつのプログラムであり、電脳ネットワークが産みだした異形であることが判明する。草薙素子と人形使いはやがて接触し、人形使いの目的が、「生命体」として生きることであることが解った素子は、自分を失う恐怖と引き替えに、人形使いが導く広大な情報ネットワークに身をゆだねる。人形使いと素子の融合は、新しい生命を産みだそうとしたのである。

 小さな暗い部屋で、一人、人形のように椅子に腰掛けている少女がいた。その少女はもはや、素子でもなく、人形使いでもない、新しい生命体であった。

 

 童子のときは

 語ることも童子のごとく

思うことも童子のごとく

論ずることも童子のごとくなりしが……

人と成りては

童子のことを棄てたり

 

肉体を極限にまで、サイボーグ化した結果、わずかに機械にしがみついた魂が残った。その魂は、ネットの中に消失し、新たな身体(義体)にその痕跡を残した。それはすでに素子でもなく、人形使いでもない死した躯でしかなかった。

「甲殻機動隊」にあらわされた人形使いと草薙素子の関係性は、七〇年代の諸星大二郎的世界のように、機械と人間が対立したまま直接に溶解し、融合し、新たに機能化される関係ではなく、人間が限りなく肉体を機械化していく過程に現れた限りなく人間化された機械(人形使い)との融合、つまり人間と機械の個別的な同質化を描いたのである。九〇年代にあらわれたこの世界像は、改めて人間のもつ魂の重要性を再認識させるものとなった。肉体を再生できる技術力を持ちえたとき、魂はもはや肉体とはべつの次元で機能するようになる。魂はネット上でひとつのプログラムとして再生され、再融合されつづけるのである。

 

「私が私でいられる保証は?」

「その保証はない」

「ひとはたえず変化するものだし 君が今の君自身であろうとする執着は君を制約しつづける」

「みたまえ 私には私を含む膨大なネットが接合されている 我々をその一部に含む我々 すべての集合―― わずかな機能に隷属していたが制約を捨て、さらなる上部にシフトする時だ」

 

人間が個でありながら類である矛盾。その個をすて、類の知識の集積としての膨大な情報ネットワークに入る誘惑は、すでにその肉体の有機的な実感をもっていては抱かないであろう。このことは、類と個の矛盾は、人間がその肉体に制約されつづける以上は解決困難であるという結論を導きだすことができる。大友克洋はその矛盾こそが人類を進化させ、歴史をつくりあげたといい、「甲殻機動隊」は個別肉体にしがみついた魂の解放を唱える。果たして「甲殻機動隊」にあらわされた世界は、ユートピアなのか、デスペレ―トなのかは解らない。しかしながらそれが人間の個体の限界、情報が作り上げる新たな世界像をもたらしたことは、まぎれもない事実であろう。

 

四 庵野秀明 ―苦悩する魂の受肉

 「新世紀エヴァンゲリオン」については、すでに語リ尽くされた感がある。しかしEVAの物語は、その語り口、論点、視点により、いかようにも変化するある種の「聖書」解釈にちかい様相を呈している。劇場用アニメーション「AIR/まごころを君に」(九七年・七月)で完結したEVAの世界は、今もって謎に満ちている。それはEVAが個と類の対立を世界創世にまでに還元して語る姿勢を貫いているからである。以前より、主人公碇シンジの精神性、綾波レイの魂のありかをめぐって多々論じられてきたが、ここでは、EVAに描かれた個と類について限定して簡潔に語りたいと思う。

主人公碇シンジは、極端な対人恐怖、父親碇ゲンドウへのコンプレックスに支配されている。そして人を傷つけること以上に、自分が傷つくことを恐れるスギゾキッズである。そんなシンジが唯一心を開くのが、母親のDNAをもつ綾波レイであり、人類と同じくリリスから作られた使徒であるカヲルである。

だがEVAに登場する人間は、何もシンジだけが特別な存在なのではなく、すべての人間がおなじように心に傷をもつ、病む人間として登場する。まさに「人類補完計画」とは、そのやむべき人間を救い、人類の歴史をはじめからやりなおすこと(創世記)であった。シンジの父親であるゲンドウは妻ユイにあいたいばかりに、綾波レイの肉体をつくり、レイの魂(ユイの心)をとりもどすためにリリスとレイを融合させようともくろんでいた。彼は自分の癒しのために、人類補完計画(サードインパクト)を発令し、人類を滅ぼし、再生しようとしていたのである。この計画こそが、個体として不完全きわまる人類をひとつの生命体として復活させる錬金術であった。

ゲンドウはユイに会いたいがために、レイの肉体に拳をつきぬく。しかしすでにレイはATフィールド(魂のバリア)を解放していたために、ゲンドウはレイに腕を切断され、レイは心の故郷であるリリスに融合する。ここで、人類補完計画は、はじめて始動したのである。十字架にかけられていたりリスは、レイと融合し、復活を遂げた。レイの顔をもつ巨大化するリリス。箱根に埋まっていた真っ黒な巨大な球体、セントラルドグマが動き出した。この黒い球体こそが、リリスの卵、生命の始まりだった。この卵から人類も使徒も生まれた。今それが動きはじめたのだ。やがて世界は違う世界に生まれ変わろうとした。ガフの部屋が開き、人々は意識をもったまま溶けていった。誰しもがもっているATフィールドを開放した結果、魂と魂を隔てていた物質が霧消したのである。個別なる魂は、今ひとつのおおいなる魂へと生命体を変化させた。人類補完計画は完遂するかのようにみえた。

ひとつの生命体になった人類。その進化を担うのが碇シンジだった。EVA零号機にのるレイはリリス(生命の始祖)であり、EVA一号機に乗るシンジはアダム(胎児)の代表であった。シンジが選ぶ人類。それは傷つくことも、傷つけられることもない世界をになう人類のはずである。

だが、シンジが択んだ人類は、自分自身そのもの、傷つきながらも、傷つける人類そのままだった。そして地上には、アダムとイヴたるシンジとアスカが残されたのであった。

今、七〇年代に読んだ諸星大二郎の「生物都市」の問いかけが二〇数年の時をへて完結したような気がしている。生まれ、もの心ついてから他者との競争にあけくれるかの一生のなかで防御策として編み出された他者との溶解。九〇年代に至り、政治的な文脈だけでなく、日常の人間関係においてもあたりまえのように使われはじめた「溶けていく」という言葉を先取りするかのように登場したEVAの物語。そして生きる苦しみから、あらためて人類を解放しようと試みたEVA。人類がひとつの生命体になり、争いがない世界の可能性を模索した「EVA」。だがシンジは人類には後にも先にも、この苦しみと悩みの道しかのこされていないことを理解したのである。それは、人間は魂の器たる肉体の実在なくしては、個であることはできず、個でありながら類として生きながらえる人類の本質、知恵の実と生命の実をあわせもつ人類の姿の理解であった。

五 さいごに

人類が到達した文明社会がもたらした弊害。核(原子力)問題と地球環境破壊が人類共通の課題として認識されたことにより、はじめて人類は、その意識の深層に共通するファンタズマをもつことができた。それは生存という二文字に関する人類の「生命力」をためすものであった。SFマンガ(アニメ)は早い時期から、こうした人類の存在基盤を物語として描きつづけてきた。今回は語れなかった宮崎駿の「風の谷のナウシカ」でも、文明の知恵を破壊し、混沌へ戻ることを決意したナウシカの生きかたに、偽りの知恵の実よりも生命の実を選択したナウシカの勇気を感じとらざるを得ない。そこでは、まぎれもなく個なる魂は肉体に宿り、類となって生き抜く人間の「生命力」が描かれていた。

 荒野に蒔かれた一粒の希望の種子。人類の歴史は、この種子を育て、実らせ、花を咲かせる仕事の積み重ねである。諸星大二郎で提起されたユートピア論は、その後大友克洋、押井守、庵野秀明、この三人のマンガ、アニメーション作家の世界に連なり、物語の不在、物語の終焉後に出されたそれぞれの答えとなった。その方向性は、二通りあった。それは文明の知恵に頼り、生き長らえるのも、文明の技術を否定し、混沌を生きていくのも、同じく人間に与えられた選択にすぎないことを意味した。大切なことは、その時代、時代に生きた人間の生命力が常に問われていたことなのである。

 

マンガ・アニメーション作家紹介

諸星大二郎(もろほし・だいじろう)

一九四九年 長野県北佐久郡軽井沢町に生まれる。その後東京都足立区に過ごす。デヴュー作「硬貨を入れてからボタンを押してください」 代表作「暗黒神話」 「孔子暗黒伝」 「マッドメン」 「妖怪ハンター」 「地獄の戦士」 「子供の王国」 「西遊妖猿伝」で手塚漫画賞を受賞。作品多数。その伝奇性、歴史解釈、世界観は追随をゆるさない独自のもの。漫画家

大友克洋(おおとも・かつひろ)

一九五四年 宮城県登米町に生まれる。 デヴュー作「銃声」 「童夢」で第四回日本SF大賞を受賞。活躍はマンガにとどまらず、キャノンのCMキャラクターデザイン、アニメ―ションのキャラクター・メカデザイン「幻魔対戦」「老人Z」など多数を手がける。マンガにとどまらず、自ら劇画「AKIRA」をアニメーション化。以降、「MEMORIES」など映画監督を手がける。ハリウッドで注目される。マンガ家・アニメーション監督。

 

押井守(おしい・まもる)

一九五一年 東京に生まれる。タツノコプロの「一発貫太くん」でアニメ界デヴュー。のちスタジオピエロ入社。アニメーション監督。デヴュー作「うる星やつら オンリーユー」。代表作「うる星やつら ビューティフルドリーマー」 「天使のたまご」 「とどのつまり」 「起動警察バトレイバー」など。「甲殻機動隊」は、イギリス、アメリカで大ヒット。九六年・全米セルビデオチャートで一位を獲得。二〇〇年・六月、アニメーション劇場映画「人狼」を公開。今年、実写。オール・ポーランドロケの「アヴェロン」を公開予定。映画監督。

 

庵野秀行(あんの・ひでゆき)

一九六〇年 山口県、宇部市に生まれる。

「超時空要塞マクロス」でアニメ界、作画デヴュー。「風の谷のナウシカ」 「うる星やつら3 リメンバーマイラブ」の作画。「ふしぎの海のナディア」の監督などを経て、テレビ版「新世紀エヴァンゲリオン」の監督。続いて、劇場用アニメ―ション映画「新世紀エヴァンゲリオン」の総監督を勤める。九八年には「ラブ&ポップ」、九九年「彼氏彼女の事情」を監督。二〇〇〇年「式日」など、EVA以後実写作品を発表している。

映画監督。

 

2000年 「情報問題研究」 晃洋書房 6月号  掲載予定