宮崎駿・高畑勲を生んだ東映動画60年代問題史! 小山昌宏

忘れ去られた東映動画問題史

東映動画黎明期

宮崎駿が批判した手塚治虫のTVアニメ製作システム「リミテッド・アニメ」が、「アニメ」一般をさすようになってから久しい年月がたつ。手塚治虫が東映動画と関係をもったのは一九五八年・夏のことであった。当時手塚は「ぼくのそんごくう」を『漫画王』に連載していた。東映動画は、五八年、日本初の本格カラー長編アニメ『白蛇伝』を成功させ、続く五九年『少年猿飛佐助』を公開した。だが、漫画映画としての面白さに欠けたため、オリジナル作品をあきらめ、手塚に話が持ち込まれた。

こうして『ぼくのそんごくう』を動画化した『西遊記』の製作が着手された。製作期間は、一年の予定を大幅に越え、五八〜六〇年の三年間を費やした。「アニメ」は、まだ始まったばかりだった。

組合結成

東映動画は、一本五千万円以上かかる長編動画製作費の削減、人件費、製作時間の削減を掲げ、制作期間目標を半年に設定し、『西遊記』の製作を進行させた。だが、『西遊記』製作では、動画・原画部門スタッフ六〇人は、月平均残業時間八八時間を超え、製作期間中に一〇人が過労入院したにもかかわらず、基本給が安いため、残業して生活費を稼ぐという過酷な労働条件下におかれていた。

おりしもディズニーが、『眠れる森の美女』を、六年の歳月、製作費二二億円の巨費を投じて製作、上映している最中であった。フルアニメーションシステムで製作された『眠れる森の美女』の「完成度」は、当然高く、制作期間、資金、スタッフが限定されたなかでの日本の「アニメ」製作は、そのクオリティも当然限定された。

すでに一九五九年、結成されかかった労働組合は、会社側の圧力によって潰されていた。六一年、その苦い経験から「労働組合」は準備ほどよく結成されるにいたった。だが、労働条件におりあいがつかず、六回にわたる時限ストライキを決行。大川博社長は、長沢委員長他、組合幹部三名を出勤停止・懲戒処分を施した上で、スタジオをロックアウトした。大川社長の怒りを買ったのは、以下のような「ビラ」の声明にあった。 

「ディズニーの長編動画は一本つくるのに四年も制作期間をかけているのに、東映動画では一年しかない」「公開日に間に合わすために、徹夜作業が続き、五六年以降百人が職場を離れ、恒常的に六人に一人の入院患者がでている」「賃金は月平均一万二千円、冬のオーバーを買うこともできない」

以後、労働条件は、幾たびの「闘争」によって改善されていく。

宮崎駿入社

宮崎駿が入社したのは、一九六三年。東映動画はその間、『安寿と厨子王丸』(六一年)『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』(六二年)『わんぱく王子の大蛇退治』(六三年)を公開する。

 宮崎駿が直接作品に携わるのは『わんわん忠臣蔵』(六三年・手塚治虫 絵コンテ協力)からである。動画を担当した。六三年から六六年まで、『狼少年ケン』『少年忍者風のフジ丸』(以上TV)『ガリバーの宇宙旅行』(劇場アニメ)で動画担当。続いて『ハッスルパンチ』『レインボー戦隊ロビン』『魔法使いサリー』(以上TV)の原画に携わる。

この数年間、宮崎駿は、大塚康夫から動画の基本を学び、森康二のもとで原画を学んだ。宮崎は仕事と平行して労働組合に従事する。またTVアニメの仕事は、手塚の虫プロの「リミテッド・アニメ」批判の基礎を抱かせることになった。宮崎駿が入社した六三年、組合執行委員で、新入社員むけの挨拶をした大塚康夫は「男おいどん」みたいな青年宮崎が、鋭い質問をしたことを後年述懐している。宮崎は六四年、組合・闘争委員会・書記長になり、翌年に結婚している。二四歳のときだった。

太陽の王子 

東映動画は、『ガリバーの宇宙旅行』(六五年)の後、長編アニメの製作を控え、東映動画設立一〇周年記念長編作品『少年ジャックと魔法使い』(六七年)に傾注した。しかし、続く『ひょっこりひょうたん島』(六七年)の失敗により、永らく演出を担当していた藪下泰次は東映動画を退社した。

翌六八年には『アンデルセン物語』を公開したが、前年に学研が製作した人形アニメ『マッチ売りの少女』の完成度のほうが高く、観客動員も減少し、東映動画作品は完全に停滞期に入ってしまった。

だが、そうした停滞に危機感をつのらせた会社・組合が危機感を共有し、一致して全力で取り組んだ作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』(六八年)が準備されていた。高畑勲の初演出作品、宮崎駿が原画場面設定にとりくんだ東映動画史上、最も輝く作品となった。

「よい漫画映画をつくろう」とのスローガンを掲げて取り組んできた労働組合が、会社から企画としてあたえられた『ホルス』に全力で取り組んだのには訳があった。

TVアニメの台頭、高視聴率によって、劇場用アニメも、リミテッド・アニメの波(経費削減)にさらされ、子どもたちが、漫画原作の長編アニメをみたがる傾向が強まったため、オリジナル長編アニメはますます作りづらい状況においこまれたからであった。

会社が用意した資金は七千万円、だがこの金額では、新しい表現方法、緻密な画面構成もできず、従来の演出の範囲内でしか製作できないことは眼にみえていた。組合は、マスコミ共闘会議、日本映画復興会議の協力を得て、「アニメ表現」の新時代を標榜して譲らなかった。最終的に組合は会社から、一億円(一説では一億五千万円)の製作費を獲得した。観客動員のために、組合員は宣伝のために、日夜奔走した。

「映画復興の危機が叫ばれてから久しく作る側からも観る側からも、映画の復興の要求はますます強い声となって高まって来ております。私達東映動画労組におきましても組合結成以来『よい映画を作ろう』のスローガンを運動方針の一つにかかげてまいりました。しかしTV局のしめつけを切りぬけるために低賃金、契約制度、下請化、人員削減と労働強化に、スケジュールの短縮、技術面の手抜き=A時流に迎合した企画、その他様々のいわゆる合理化≠推進し、私達技術労働者の良心と生活の両面を抑圧しながら原価を切りつめるといった極めて消極的な製作をもって対処して来ているのが現状です。まさに動画映画は現在の日本の劇映画界がたどっている状況と全く同じ道を歩もうとしています」

「このような状況に対し、たまたま会社によって取上げられた作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』において、私達は、この企画を発展させ、内容を豊なものにするため最大限の努力を払い、そしてまたこの行程を通じて『太陽の王子』を自分達の作品として支持し製作着手して来ました」

「会社の攻撃は、時には相対的に能率の低い技術者をスタッフから排除しようとしたり、スタッフ間の内部矛盾の拡大を狙ったり、賃上げや一時金の査定に極端な格差をつけたり、まさに様々なかたちをとって行われました。これをはねかえし、或いは耐え抜くためには、会社に対する攻撃の闘いだけでなく、闘いのための内部的意志統一にかけた何百回にもわたる本当に苦しい討議、いってみれば果てしない自己との闘いが続きました」「この作品の内容は主に団結をテーマにしておりますが、これを製作するためにもスタッフの強固な団結が必要だったのです」

「太陽の王子」スタッフ実行委員会発行 冊子(六八年)より

北欧神話とアイヌの伝説『オキクルミと悪魔の子』をベースに、深沢一夫のシナリオ、大塚康夫の作画監督、原画の森康次、演出の高畑勲、そして設定の若き宮崎駿…、闘いをとおして作品が完成し、そのシナリオの構成の一貫性、キャラクターの描き分け、心理描写、闘いや、心理のシュールな表現など、当時としては最高の「漫画映画」となった。間違いなく宮崎駿の原点は、この戦いをとおして形成されたといえるだろう。

長靴の猫 

『長靴をはいた猫』(六九年)は、「ホルス」で気をよくしたスタッフがのりにのってつくった作品だった。「ホルス」から「長猫」にかけての二年間が東映動画の絶頂期となった。原作は、シャルル・ペロー、演出は矢吹公郎、脚本は井上ひさし、宮崎駿と大塚康夫は、ファンのなかで語り草になっている「王宮でのおっかけっこ」の設定、場面展開にとりくんだ。この発想は後に「カリオストロの城」でルパンが王宮の屋根を走り抜けるシーンや、最近では「千と千尋」で千尋が崩れ落ちる雨どいを走りねけるシーンなど、応用編のバリエーションのひとつとなっている。

公開当時、小学校の講堂で鑑賞し、後に映画館でみた筆者は、ラストシーンの「おっかけっこ」で興奮し、後日、主題歌の「びっくりしたにゃ〜・びっくりしたニャ〜」を繰り返し、またしても先生のおしかりをうけた記憶が甦る。

この作品も東映動画「ギャグ作品」の最高傑作となり、七八年に再上映となった。

宮崎駿退社 

「長猫」の後、宮崎駿は『空飛ぶ幽霊船』(六九年)、『どうぶつ宝島』(七一年)『アリババと40匹の盗賊』にとりくんだが、新たなる可能性を求めて退社する。退社の実情は東映動画内部の混乱であった。

「劇場映画からテレビに移るときのね。ようするに転換がきかなかったんですよ。しかも、札束は舞うし。札束を追うやつはひたすら追うし、札束を追わないやつはそれを『なんだあいつは』なんて冷ややかに見て、腹をすかしているという状態になっちゃった。出来高払いっていうのは、大事に仕事をしようというより、とにかく一枚描けば50円ですから。月10万円かせいだ20万円稼いだというやつが出てくるんです。」

(『風の谷のナウシカ ガイドブック』 宮崎駿談)

こうして宮崎駿は七一年に退社した。「面白い作品」をつくれない。宮崎駿は語っている。東映動画は、以降、仮面ライダーと人気TVアニメの劇場版に終始していく。追い討ちをかけたのは、手塚のTVアニメがウルトラマンに負けたように、東映長編動画もウルトラマン、ゴジラの怪獣軍団(東宝)に完敗したためであった。

「『アリババと40匹の盗賊』はもうやけくそ。絵コンテも全部変えて、自分のところだけ面白ければいいやって。自分のシーンが終ったら映画終ったみたいになっちゃった」(前掲書)

大川博死去

五九年、東急電鉄から東映に社長として、会社再建のために迎えられた大川博は、ディズニースタジオを見学した際、手塚治虫以外で、日本のアニメはアメリカを抜くと確信した一人であった。ディズニーでは、精度の高い作品を制作するためにユニオンショップ制をとり、少人数精鋭となり、その資金面からも人員増員ができずに製作年月が長期化する。大川は、人件費、労力だけではなく、日本のアニメーターの能力、アイディアをはやくから評価していた。そして、一年に一作のペースで、一本、五千万円の投資でつくれば、なんとかやっていけるとにらんだ。そして五七年に東映動画を設立した。だが、実写(特撮)と較べてもアニメは資本がかかりすぎる。大川博は、東映の「赤字部門」といわれた動画部門を再興し、システム化したままこの世を去った。

七二年、東映社長が岡田茂に交代。東映動画社長は、東映勤労部長、登石社長に交代した。いよいよ赤字集積部門の動画部門は、激しい合理化にさらされた。従業員三二〇人のうち、一五〇人が希望退職に応じた。ここからアニメは、手塚治虫が開いたTVリミテッドアニメのもとで、低賃金、重労働、海外下請けが定着し、劇場用アニメは、漫画原作付作品「宇宙戦艦ヤマト」など、集客がよめる人気作品に移った。宮崎駿はTVに移り、「面白さ」を追求した。それから『風の谷のナウシカ』が、劇場に登場するまで、一〇年の歳月を待たねばならなかった。

「まぐま」11号所収 2003年 studio zero