真冬の夜の夢

   長い冬の出来事

 

 あれは今からもう十七年も昔の冬のことでした。私はある朝激しい痛みに目がさめて、そのまま病院に担ぎ込まれました。しかしいくら調べても医者も痛みの原因がはっきりわからず、顔面から全身に広がる激しい痛みは、一時の鎮痛剤でようやく収まり、しばらくは平穏な日々が続きました。

 そのころ、私は一人で戦っていました。たった一人での戦い。それは権力との戦いでもあり、自分との戦いでもありました。極端な思い込みは、日増しに心身をすりへらせ、弱らせ、睡眠不足は幻覚や幻聴をいだかせるのに十分な脳内麻薬を分泌させていたようです。それからしばらくたった寒い冬の朝、私の体はとうとう動かなくなりました。脳は身体に命令を送りますが、身体はその指示に従おうとしません。目はまるで、自分の身体ではなく、まったく違う物体を眺めているかのようにその状況を観察しています。

 突然、身体が震えはじめました。頭はなにも反応しないのに、身体が震え、細胞がまるで助けを求めるかのように命脈しました。身体は頭よりも先に、この命の危機を、今思えば知らせていたのです。その夜を境に、私の身には、今まで経験したことのない不思議なことがおこりはじめたのです。

  入眠時幻覚と金縛り

 意識を失った時、人間は動かなくなります。意識があっても動けなくなるとき、それはある種の催眠状態にあり、それは人の命令による場合と、無意識の自己催眠による場合があります。一般に睡眠時に金縛り状態になるのは入眠時幻覚と呼ばれ、入眠時の心身の状況が自己催眠にかかりやすい状況にあることを示しています。言い換えれば、金縛りにあう人は、自らがその状態になる前提、つまり自己の精神的抑圧を増幅させながら、それを睡眠状態にも持ち込んでしまうことになります。睡眠状態の時、人は意識下に押さえられていた精神的な抑圧を解放するので、寝入りばなのように、意識と無意識が交錯する状態にあるとき、人は、はっきりと意識下で見た事のないものを見、聴いたことのない音を聴き、体験したことのないような体感を味わうことになるのです。私もこのような毎夜の金縛りを繰り返すうちに、ついに、あのなんと表現したらよいのか解らない際限のない恐怖とこの上ない至福を同時に味わうことになったのです。

君はドッペルゲンガーをみたか

人は死ぬ直前に自分をみるといわれています。それは目の錯覚かもしれませんが、確かにもう一人の自分が現れるのです。私にも現れました。彼は毎晩、金縛りで動けなくなった私の身体の上に乗り、ものすごい力で全身を締め付けてきました。当初、私は金縛りの恐怖におののき、胸への締め付け、呼吸困難で死を何度も予感しました。毎晩こんな恐怖に襲われることを考えると余計に眠れなくなり、睡眠薬を飲んでも眠れなくなりました。しかしやがて、睡魔に襲われいつものように動けなくなりました。

いつしか毎晩金縛りを繰り返しているうちに、目の前の彼に変化が訪れました。肉体はすでに死にむけての準備に入り、魂はかろうじてアストラル体に守られて肉体につながっている状態でした。最初、その声は自分の声だと思ったのです。死への恐怖に震える声は自分の声のようで、自分の声でなく、何かとても懐かしい声のようにも思えました。彼は直接私の脳に毎晩話かけてきました。

 

「何がそんなに悲しいの」

 

 確か彼は いつもそう問いかけてきました。

 

「何も悲しくなんてないよ」

私もいつもこう答えていました。

 

しかし、私はその応えが嘘であることをしっていました。

なぜならば、もう一人の私は、まぎれもなく、命の糸でつながっているもう一人の自分、幽体だったからです。彼の上半身は私と離れていましたが、下半身はつながっていたのです。いつしか私は、彼と楽しかった子供のころの話をしました。いつごろから、人生がつまらなくなってしまったのか。人生の失敗そして成功に一喜一憂したころ。自分という存在がつまらないものに思えたころ。死を覚悟して暮らし始めたころ。今思えば、彼は、自分という人間の卑小さが、愛されなかった日々の記憶によって増幅され、愛されたいと強く願う心が自分を抑圧し、緊張の糸で縛り付けていることに気がつかなかったのです。幼少時からの記憶の糸が現在につながり、二十数年の生がフラッシュバックしてとおり過ぎました。あの時の自分、あの時の言葉、傷つけ、傷つけられた歴史が、すべて自分の愛の欠乏感にあったことを知りました。

そして私は「悲しみ」の正体が、自我という人間にとって逃れようのない空蝉であることが解ったのです。その瞬間、もう一人の自分は、「にッ」と微笑むと消えていきました。あれほど、重く縛られていた私の体は、重しをつけていないと浮かび上がりそうなほど、軽く感じられていました。

 

 幽体離脱

 

全身の毛穴から汗がふきでました。そして胸の鼓動は、はりさけんばかりに脈うちました。空気が割れるような音がし、空が引き裂かれました。激しい耳鳴りがジェット音と金属音が入り混じりながら地響に変わりました。自分が、今どこかへ旅立とうとしている。はっきり実感しました。

 気がつくと、軽く感じられた身体は、完全に宙に浮いていました。そして眼下には、人形のように横たわる自分が寝ていました。ひどく冷静でした。さっきまでの鼓動と耳鳴りはなりをひそめ、私は自分の身に何がおきたかを理解しました。しかし幽体を上手くコントロールできずに、ただ部屋の中に浮いているだけの時間がすぎていきました。そして私は自然に外にでようと念じました。すると身体はまるで液体になったかのような感覚があり、何事もなかったかのように外へ飛び出しました。

瞬間にテレポートしたその世界は荒れ果てた荒野に、膨張した濃いオレンジ色の太陽が、世紀末の断末魔をあげながら沈んでいく風景でした。幾本もの梵天の塔の周りを衛星が楕円を描きながら回遊していました。自分の身体は自然にその軌道にひきこまれ、しばらくの間、その軌道を衛星とともに回遊しました。しかし妙なことに気付いたのです。衛星はあきらかに星間バランスをくずしていました。ところが高速で回りつづける衛星は決して衝突することはありません。いつのまにか、私は緑や群青色に彩られた膨張する衛星グループの軌道から離脱しようともがきました。

その間、ニュートリノが私の身体を幾度も通り過ぎていきました。身体は物質のようで、物質ではない、質量も形相も消滅し、なおかつ存在する超物質へと変化していました。そのときでした。巨大なフレアーが幾重にも現れ、明滅しながらスターチャイルドが誕生しました。何かとてつもない遠大な力に引っぱられ、私は自分が無に帰るながれに入ったことを知りました。物質が消滅し、意識も精神もない、ただエネルギーといわれる力のひとつに自分が合流していくのだ。

私は泣き叫びました。そして自分が宇宙と一体化する喜びを感じていました。今自分は完全に分解され、素粒子に戻っていくのだと。…

精神が身体に戻っていました。心臓は張り裂けんばかりに鼓動をうち、身体は熱病の後ににたけだるさに支配されていました。「死は生を生み、生は死のながれのほんの一瞬の輝きでした」。なぜかそんな言葉を、私のなかに生まれた違う自分がいっているのがわかりました。無と有の間にあって生は、人間に与えられた唯一の意味であること。そのことがわかると死は無ではなく、死は無意味ではないことが解りました。

21世紀のアナログマガジン まぐま 6号 掲載 2001