NHK特集 御前会議 紹介(1)

平成03年08月15日放送ダイジェスト
画像は録画VTR 平成18年08月03日作成
 

タイトル  皇居東一の間  木戸幸一内大臣(東京裁判)
御前会議議事録 石井秋穂陸軍中佐  石井秋穂(平成3年)

 昭和16年宮中の一室である重要な会議が開かれていた。天皇が臨席した御前会議である。

 昭和16年の7月から12月にかけて、この部屋で4回の御前会議が開かれた。日本はその4回の御前会議で太平洋戦争の開戦を決断したのである。しかし当時国民は御前会議の存在さえ知ることはなかった。開戦をめぐる御前会議は終戦後の東京裁判で初めて国民の知ることとなった。天皇の側近だった内大臣木戸幸一は、法廷で御前会議の複雑な実態を初めて証言した。

 防衛庁防衛研究所。ここに昭和16年の御前会議をめぐる重要な資料が残されている。御前会議の議事録である。この資料は東京裁判中は関係者の手で隠され、連合国側の目に触れることはなかった。御前会議とは果たしてどのような会議だったのか。その実像を知る手がかりは今なお限られている。昭和16年12月1日の太平洋戦争開戦を決めた御前会議の議事録。4回の御前会議はどのような経緯で開かれ、太平洋戦争の開戦はどのように決められていったのか。

 御前会議に諮られる国の最高政策の原案を書いた元陸軍軍人が今も健在で(注・平成8年死)ある。山口県宇部市に住む石井秋穂氏である。当時、陸軍大臣東條英機の側近であった石井氏は国策つまり戦争にかかわる国の政策の立案を任務としていた。石井氏はみずからかかわった国策の立案と、その国策が御前会議で決定されていったいきさつについて初めて語った。
<石井秋穂談>
「わしらはね、こんなばか者だけどね、わしらは真っ先に第一弾をやればそれは大切な国策になるんですな。そして大分修正を食うこともありますけど、まあそのくらい重要なものでした。それもみんな死んだ。生きとるのはわしだけになった。そういう国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ」

 昭和16年、日中戦争は既に4年近く続き、日本はその打開に苦しんでいた。中国を支援するイギリス・アメリカとの対立は深まる一方であった。そうした中で、重慶に追い込んだ蒋介石の国民政府への攻撃が続けられていた。
 ヨーロッパでも、昭和16年6月、ヨーロッパ各地を席捲していたドイツが突如ソビエトに侵攻、独ソ戦争が始まった。ドイツ・イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦争にどう対応するか、極めて重大な岐路に立たされたのである。御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。陸軍は独ソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた。
 陸軍の参謀本部が日々の行動を記録した機密戦争日誌。今回初めて撮影が許されたこの資料は、御前会議に至る陸軍を中心とした国策立案の経緯と、当時の陸軍の情勢判断を伝えている。独ソ戦争の開始直後陸軍は、本次大戦は「ドイツは有終の美をおさむべし」と、ドイツの勝利への期待を記している。

大井篤海軍中佐(平成3年) 機密日誌 御前会議への行程
大本営・政府連絡会議 起案文書 南部仏印進駐

 一方海軍も、この機に後の日本を左右する重大な国策の策定に乗り出した。国策の原案を書いたのは、後に連合艦隊司令長官山本五十六の参謀となった藤井茂中佐である。元海軍大佐の大井篤氏(注・平成6年死)の手元には藤井茂の資料が残されていた。藤井茂が綴っていた日誌。この日誌には当時彼が書いた国策の原案が残されている。この原案は独ソ戦争勃発の翌日に早くも書かれている。ここでは資源が豊富な南方へ進出することが明記されていた。従来からの海軍の主張を独ソ戦争を契機に実行しようという目論見であった。原案には「歴史に残る大文章なり」と記され藤井の興奮を伝えている。当時海軍が進出を目論んだ南方とは、今の南部ベトナム、当時のフランス領インドシナであった。そこはイギリス、アメリカにとっても戦略上の拠点で、アメリカは日本の動向に神経をとがらせていた。二人は陸軍と海軍で戦争にかかわる国策の立案に携わり、連絡をとりながら国策をまとめていった。当時国策は次のように決められた。

 既に日中戦争によって戦時態勢にあった日本の国策とは、戦争を巡る国の最高政策である。そのため、原案は陸海軍の中堅官僚によって起案され、調整を経て陸海軍の部局長会議に上げられた。その後、大本営と政府との連絡会議に諮られ、ここで合意に至ると国策として事実上決定された。しかし太平洋戦争開戦のような国策については御前会議が開かれ、天皇を前にした会議で天皇が納得したという形がとられた。
 起案から二日後、直ちに首相官邸で政府と軍部との会議が開かれた。会議は三日間に及び、当時の松岡外務大臣は南方進出に反対し、ソビエトとの開戦を主張した。この松岡外務大臣の開戦の主張は会議では採択されず、軍隊を国境地帯に動員し、ソビエトとの戦争を準備するという結論に落ちついた。こうして独ソ戦争後の新しい国策が決められた。「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」である。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡外務大臣と陸軍が主張した対ソ戦準備という、二正面での作戦展開であった。南方進出について軍部は事前に天皇に報告している。いわゆる上奏である。上奏は陸軍参謀総長杉山元、海軍軍令部総長永野修身が行なった。この上奏に天皇がどう答えたか。防衛庁に残る「御下問つづり」に天皇の言葉が記録されている。天皇は「国際信義上どうかと思うが、まあよろしい」という言葉を残している。

 昭和16年7月2日、宮中、東一の間において独ソ戦争後の国策を議題とした御前会議が開かれた。主な出席者は、

 総理大臣 近衛文麿
 陸軍大臣 東條英機
 海軍大臣 及川古志郎
 外務大臣 松岡洋右
 陸軍参謀総長 杉山 元
 海軍軍令部総長 永野修身
 企画院総裁 鈴木貞一
 枢密院議長 原 嘉道
であった。原は発言しない慣習になっている天皇にかわり疑問点を質問し、意見を述べる役割を担っていた。議題は事前に合意されており、会議の議論は形式的なものであった。しかし、ここで決められた国策は国家の不動の意思となった。

<原>はっきり伺いたいのは、日本が仏印に手を出せばアメリカは参戦するや否やの見通しの問題である。
<松岡>絶対にないとは言えぬ。
<杉山>ドイツの計画が挫折すれば長期戦となり、アメリカ参戦の公算は増すであろう。現在はドイツの戦況が有利なるゆえ、日本が仏印に出てもアメリカは参戦せぬと思う。もちろん平和的にやりたい。
<原>解った。自分の考えと全く同じである。すなわち英米との衝突はできるだけ避ける。この点については政府と統帥部とは意見が一致していると思う。ソ連に対してはできうるだけ早く討とうということに軍部・政府に希望をいたします。ソ連はこれを壊滅せしむべきものである。以上の趣旨により本日の提案に賛成である。

 最後の原枢密院議長の要請はソビエトとの戦争の準備を計画していた陸軍に弾みをつけることになった。こうして独ソ戦争後の国策は起案からわずか10日間で御前会議で決断された。
<加瀬俊一談>
「御前会議っていうものは、大本営政府連絡会議が決定したものを、それでは御前会議で正式の国策に致しましょうということになると、何月何日御前会議を開きたいという。そして陛下のお許しを得て開く。その連絡会議の決定というものは、その直前ぐらいに宮中に回るんですね。連絡会議の決定だけでは、それだけの権威は持っていないわけですね。政府と軍部の関係大臣が集まって、一つの決定をしたという。やっぱり陛下が親臨された場で、可決されれば、これはもう不動の国策になったという形ですね」

当時の海軍省 参謀本部 陸軍本部
牛場友彦元首相秘書官 コーデル・ハル米国務長官 米国の大陸原則

 当時の明治憲法では主権者である天皇の大権のもと、国務をつかさどる政府と、統帥つまり軍隊の動員・作戦は制度上明確に分けられていた。政府は統帥については全く立ち入ることができなかった。日中戦争以後、統帥の最高機関として大本営が設置され、国策は政府の要求で設けられた大本営政府連絡会議で事実上決められた。しかし、開戦など戦争をめぐる重要な国策は、さらに天皇が出席した御前会議に諮られる慣習になっていた。
 7月2日の御前会議決定を受け、軍部は直ちに国策を実行に移した。北方のソビエトに対しては演習を名目に国境を接する満州に70万人を超える兵力を大動員した。独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。しかし、ほどなく独ソ戦争が膠着状態となり、この計画は中止された。

 一方、南方については南部仏印への進駐が実行された。南部仏印一帯(フランス領インドシナ・現ラオス付近)はアメリカにとっても重要な戦略拠点であった。日本の進出を東南アジア一帯を支配する計画的な一歩ととらえたアメリカは日本に対し強い懸念を抱いていたのであった。アメリカは日本への警告として、まず日本の在米資産の凍結を実施。アメリカでの日本の経済活動をすべてアメリカ政府の管理下に置いた。そして日本の進駐を確認した上で、石油の対日輸出禁止という強硬策を打ち出した。当時日本はアメリカに石油の75%を依存していた。アメリカ政府は日本の南部仏印進駐がアメリカの安全保障にとって死活的な問題であると言明し、初めて軍事上の脅威であるという認識を示した。

 アメリカの強硬策は南方進出を強く主張した海軍に大きな衝撃を与えた。海軍省軍務局の高田利種課長は戦後こう証言している。
<高田利種談>
「南部仏印に手をつけるとアメリカがあんなに怒るという読みがなかったんです。そして私も南部仏印まではいいと思っていたんです。よかろうと思っていたんです。根拠のない確信でした。私はだれからも外務省の意見も聞いたわけではない。何となくみんなそう思っていたんじゃないですか。南部仏印ぐらいまではよかろうと。これは申しわけないです。申しわけなかったですよ」
近衛首相は思わぬ事態の進展に驚いた。そして直ちにルーズベルト大統領との首脳会談を提唱し、危機的な日米関係の打開を図ろうとした。
<牛場友彦談>
「アメリカとの交渉の結果、支那の撤兵をやめなきゃもう会談は実現しないと思ってましたからね。近衛さんは支那の撤兵を東条をつかまえて何遍議論しましたかね…。東条は絶対に言うこときかない。及川海相も応援してくれたんですけど絶対だめでした。これは(支那は)日本軍の心臓だって言うんです。絶対撤兵は許さないという…」

 当時アメリカは日本の大陸政策を厳しく批判していた。昭和16年の4月以来続けられていた日米交渉においても国務長官ハルは絶えず日本に厳しい要求を突きつけていた。日本の野村吉三郎大使は苦しい交渉を強いられた。一連の交渉に際し、アメリカ側が繰り返し主張していた原則がある。いわゆるハル4原則である。
 1 他国の領土保全と主権の尊重
 2 他国の内政への不干渉
 3 通商上の機会均等(この3つは中国大陸での日本の行動を牽制するもの)
 4 太平洋の現状維持(これは東南アジアでの日本の行動への懸念を表明したもの)
 それまでソビエトを戦争の相手と考えてきた参謀本部はアメリカの強硬な対応に激しく動揺した。参謀本部の「機密戦争日誌」は「対英米戦を決意すべきや、この苦悩連綿として尽きず」と記している。この苦悩は巨大な国力を誇るアメリカを前にしたおびえでもあったと言える。

新庄健吉陸軍主計大佐 古崎博元三井物産社員 秋丸次朗陸軍中佐

 アメリカの国力を軍部はどう認識していたのか。参謀本部からアメリカの国力調査に派遣された一人の軍人の資料が最近研究者の手で明らかにされた。参謀総長杉山元が出した辞令には「対米諜報ヲ命ズ」と記されている。任務を命ぜられたのは陸軍主計大佐新庄健吉(注・昭和16年死)であった。
 新庄健吉が任務についたのはニューヨークである。新庄は活動の舞台を三井物産ニューヨーク支店に選んだ。当時エンパイアステートビルの7階にあった三井物産。新庄は物産の社員を装って諜報活動に専念していった。当時三井物産はアメリカに最大のネットワークを誇る日本の企業で、新庄はその情報量をフルに活用した。新庄はこうした企業や軍の情報をもとに当時のアメリカの国力を徹底的に調査していったのである。当時既に世界一の工業生産力を誇っていたアメリカは民主主義陣営の兵器工場を自認していた。そして全米の工場をフル操業させて生産を続け、ドイツや日本と戦うイギリスや中国に対し武器を送り続けていた。新庄健吉がアメリカで調査した内容を伝える文書が残されていた。そこにはアメリカの工業生産の実態が細かく記され、日本の国力はアメリカの20分の1という結論であった。
<古崎 博・元三井物産社員談> 
「戦争したら20対1の戦力は厳然として太平洋の上に残る。太平洋での戦争は機械の戦争ですから5%のこっちの損失に対して、アメリカの損失を100%にしなければ、そのバランスはずっと執れていけないわけですね。これは実際問題として、それは新庄さんもよく言ってらっしゃいましたけども、まあ戦争すりゃ大体五分五分だよと。だから5%こっちが損害があれば向こうさんにも5%損害があると。それが続いていったら日本はゼロになるし、向こうはいつまでたっても100だと。それはもう明らかに、数学の計算上そうなるじゃないかと。戦争は絶望的に勝つ見込みがないなというのが新庄さんの結論でした」

 東京の陸軍省でも秘密裏に日米の国力調査が行われていた。調査担当者は、陸軍省戦争経済研究班。ここには多くの民間の学者も加わった。責任者は秋丸次朗陸軍中佐(平成4年死)だった。
<秋丸次朗談>
「大体、1対20というような見当ですかね。我々の調査も、新庄さんの調査も合わせて考えて、そして、その戦争指導班にいろいろと意見を述べたんですけどね。いる人はみんな居眠りしとったです。聞いていない」資産凍結、石油禁輸という事態を受けて日本では感情的な主戦論が台頭し、急速に戦争の機運が高まっていった。

 陸軍の石井中佐も新たな国策の立案を急いでいた。
<石井秋穂氏談>
「資産凍結を受けてね、もう一滴の油も来なくなりました。それを確認した上でね、それで、わしは戦争を決意した。もうこれは戦争よりほかはないと戦争を初めて決意した」
しかし新たな国策の原案は海軍から先に提出された。海軍で国策の立案に当たった藤井茂。藤井日誌には石油禁輸を受けた二日後の8月3日に原案を書き、局長の同意を得たと記されている。しかし陸軍は対米戦争の決意が明記されていないと、海軍案に反発した。戦争準備を急いでいた陸軍は国の最高方針として戦争決意を固めることを求めた。
<石井秋穂談>
「問題ちゅうのはね、それでいけなかったときにはね、えーと、9月末にね、最後的、最後的措置を講ずと。どうするの、わからん。だってそう書いてある。最後的措置を講ずると、戦争に訴えるというような意味に、正直に書いた」

 陸軍によって戦争決意が明記された国策案は直ちに部局長会議に上げられた。しかし海軍は戦争決意の表明に難色を示した。陸軍案は当初「戦争を決意し…」と明記。しかし海軍首脳がそれに反対したため結局、「戦争を辞せざる決意のもとに」という海軍案で落ちついた。戦争決意という重大な問題が文章上の表現をめぐる議論に終始したのである。この国策に軍部は重要な項目を追加した。南方地域の天候、石油の事情など、作戦上の理由からアメリカなどとの外交交渉に10月上旬という期限をつけることを要望したのである。

 こうして資産凍結という新たな事態に即した国策「帝国国策遂行要領」がまとまった。第1項には「帝国は自存自衛を全うするため対米英蘭戦争を辞せざる決意のもとにおおむね10月下旬を目途とし戦争準備を完成す」と記され、戦争の決意が示された。第2項に「帝国は右に並行して米英に対し、外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む」と第1項の戦争決意の後に外交交渉の努力が記された。さらに軍部の主張どおり外交の交渉期限は10月上旬と明記されたのであった。この新たな国策は9月3日、たった1回の大本営政府連絡会議で合意された。大本営政府連絡会議から2日後の9月5日、天皇の要望により参謀総長 杉山元、軍令部総長 永野修身が国策の内容を上奏した。このとき天皇は第1項に戦争決意、第2項に外交努力を記した国策に対し、なるべく平和的に外交でやれと強調した。杉山は天皇の質問に対し、南方上陸作戦を説明した。すると天皇は怒りをあらわにして、絶対に勝てるかという言葉を杉山に投げかけた。杉山はそれに対し、絶対とは言えぬが見込みはあると述べている。天皇は9月6日、御前会議の直前に内大臣木戸幸一を呼び、今日の御前会議で質問したいと述べた。それに対し木戸は、会議の最後に外交が成功するように協力すべしと軍部に警告するように進言している。