NHK特集 御前会議 紹介(2)

平成03年08月15日放送ダイジェスト
画像は録画VTR 平成18年08月03日作成

当時の昭和天皇 明治天皇の歌 鈴木貞一企画院総裁

 昭和16年9月6日、この年2回目の御前会議が開かれた。
 「対米戦争の決意」という重大な問題をめぐる国策を議題とした御前会議であった。

<原>今日はどこまでも外交打開に努め、それで行かぬときは戦争をやらなければならぬとの意と思う。戦争が主で外交が従と見えるが、外交に努力して万やむを得ないときに戦争をするものと解釈する。

<及川海軍大臣>書いた気持ちは原議長と同じであります。帝国政府としては事実において日米国交は今日まで努めているところである。現在の事態に直面し、やむなきときは辞せざる決意をもってやるということを取り上げて書いたのである。第1項の戦争準備と、第2項の外交とは軽重はない。
<原>本案は政府と統帥部の連絡会議で定まりしことゆえ、統帥部も海軍大臣の答えと同じと信じて自分は安心いたしました。戦争決意につきましては、慎重審議せられるということですが、首相の努力がついに行われなかったときには、いよいよ戦争という最悪の場合となる。そうなると統帥部の言うように戦争決意をせざるを得ない。この戦争決意は慎重に審議するというから、これ以上質問をしない。

 御前会議議事録によると質疑は短く終わった。しかしこの後、極めて異例のことが起きた。天皇が初めて御前会議で発言したのである。御下問つづりによると、杉山・永野両統帥部長に質問するという形で天皇は発言した。 天皇は、明治天皇の歌を詠み、感想を求めたのであった。天皇が詠んだ「四方(よも)の海みなはらからと思う世になど荒波の立ち騒ぐらむ」という歌は明治天皇が日露戦争の際に詠んだもので、軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味だとされている。その意味で、昭和天皇も戦争に対し疑問を呈したと言われている。
 
 後に近衛首相は手記の中で、9月6日の御前会議は未曾有の緊張のうちに終わったと述べている。会議に出席していた企画院総裁鈴木貞一はこの日の御前会議をめぐり近衛首相と次のような会話を交わしたと証言している。

<鈴木貞一談>
「私がその問題で近衛さんと話したときに近衛さんはだ「いや、そりゃまだその政府としては決定しないと。最後の戦争をするかしないかというものは御聖断によって決めなくちゃいかんとか。だから軍はだ、大いに戦争を主張するというのも、それは何もその、今は別にそうするんじゃないと。自分の意思ははっきり言うと、こういうことなんですかね。だから政府としてはね、何も決めていないんです。けれどもその、統帥部はこれでもう戦争に行く下地ができたと、こう考えたわけですね」
 政府が干渉できない統帥権のもと、参謀本部は直ちに軍隊の動員を命じ、ひそかに南方に作戦部隊を集結していった。

<牛場友彦談>
「僕はね、近衛さんがもっと、もうだれが反対しようと天皇に会って、ほんとうに気持ちを、ぶちあけたらどうだと…統帥権というものを何とか一時中止にさせてもらう。何で止めさすことはできないか、そういうことを言うべきだったと思うですね。近衛さんに言う勇気がなかったとすりゃ、その点だけですよ、私の不満は。どうしても、天皇陛下にお会いして、統帥権というものを何とかしなきゃね。とにかく日本に内閣が二つ、政治するところが二つあるんですからね(政務と統帥)。いかに内閣総理大臣がこうしようと言っても統帥権でそれはだめだ。軍がこうすると言えば、絶対に通るんですからね…。陛下も戦争をやらない気があるのなら、歌を詠まれるかわりに戦争はやめようと一言言われれりゃ、それきりなんですがね…」

昭和天皇独白録・原書 寺崎英成 マリコ・テラサキ
近衛首相とジョセフ・グルー 近衛文麿別荘 米政治顧問ホーンベック

 アメリカ・ワイオミング州キャスパー。ここに天皇が御前会議について率直に述べた貴重な資料が残されている。マリコ・テラサキ・ミラーさんが保管している、いわゆる『昭和天皇独白録』である。天皇の言葉を書き記したのは、戦後天皇の御用掛を務めた寺崎英成である。この資料は昭和21年3月から4月にかけて5回にわたって天皇が側近に語った言葉を記したものである。天皇は「御前会議というものはおかしなもので、全く形式的なものであり、天皇には、会議の空気を支配する決定権はない」と述べている。さらに大本営政府連絡会議という仕組みに欠陥があったとしている。「四方の海……」という明治天皇の歌を詠んだ9月6日の御前会議を「実に厄介な会議だった」と述べている。

 御前会議の終わった9月6日の夜、近衛首相は駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談した。外交交渉に期限をつけられた近衛首相は時間が切迫していることを強調し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打った。国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。
 当時国務省の対日政策に大きな影響力を持っていたのは、顧問のスタンレー・ホーンベックであった。ホーンベックは国務省の中国通であったが、日本に関する知識は乏しかった。スタンフォード大学にホーンベックの膨大な資料が残されている。

 これらの資料から当時の彼の対日認識を知ることができる。ホーンベックは頻繁にハル国務長官に意見を具申しており、長官にあてて提出した覚書が多数残されている。ホーンベックは近衛首相のもとで日中戦争が始まり、三国同盟が結ばれ、南部仏印進駐が行われたとして近衛に対し不信感をあらわにし、その責任を追及している。ハル長官もこうしたホーンベックの意見に同調し、首脳会談には消極的であった。しかし、東京のグルー大使は繰り返し首脳会談の実現を訴えた。グルーは、日本は誤算が生んだ危機的な状況から抜け出そうともがいていると述べ、首脳会談が危機打開の最後のチャンスだと訴えた。

 しかし、ホーンベックはグルーの意見に反論。断固たる態度こそ日本を抑えることができるとし、妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと主張した。こうして10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
 日本の陸軍はアメリカの回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断した。当時参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。機密戦争日誌には「外交の目途なし、速やかに開戦決意の御前会議を奏請するを要す」と記されている。急速に対米戦争の機運が高まる中で、長期戦となる公算が強い戦争に海軍上層部の間で疑問の声が上がり始めていた。

 10月6日、幹部会談の記録。海軍上層部が中国の撤兵問題のみで日米が戦うはばかげたことという点では共通の認識を持っていたことがわかる。しかしこの席で及川海軍大臣が陸軍とけんかしてでも戦争に反対することを主張したのに対し、永野軍令部総長が「それはどうかね」と反対し、海軍大臣の決意に水を差したことが記されている。外交交渉の期限もいよいよ迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衛首相は政府の重要閣僚を自宅に呼び、対米戦争への対応を協議した。いわゆる荻(てき)外荘会談である。この会談では9月6日御前会議決定の国策が問題となった。

<及川>外交で進むか、戦争の手段によるかの岐路に立つ。期日は切迫しておる。その決断は、総理が判断してなすべきものである。もし外交でやり、戦争をやめるならばそれでもよろしい。

<東條>問題はそう簡単にはいかない。御前会議決定により兵を動かしつつあるものにして、今の外交は普通の外交と違う。日本では統帥は国務の圏外にある。総理が決心しても統帥部との意見が合わなければ不可能である。政府と統帥部の意見が合い、御聖断を必要とする。軍のやっている基準は御前会議決定によっておるのだ。

<豊田>遠慮ない話を許されるならば、御前会議の決定は軽率だった。前々日に書類をもらってやった。

<近衛>今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん。

<東條>これは意外だ。戦争に自信がないとはなんですか。それは国策遂行要領を決定するときに論ずべき問題でしょう。なお、細部について言えば、駐兵問題(注・中国)は陸軍としては一歩も譲ることはできない。

 外交交渉に行き詰まった近衛首相は開戦にも踏み切れず、ついに政権を投げ出した。軍部に押し切られ、最後まで政治的主導権を握れずに終わったのである。新しく首相に任命されたのは対米強行派の東條英機陸軍大臣であった。海軍大臣は島田繁太郎。島田は艦隊勤務が長く中央の情勢に疎かった。外務大臣は東郷茂徳。東郷は外交交渉の継続を条件に入閣した。東條内閣の成立は陸軍でも驚きをもって迎えられた。

近衛文麿(第3次内閣) 第40代首相 東條英機 モーゲンソー米国財務長官
東郷茂徳外務大臣 嶋田繁太郎海軍大臣 中原茂敏陸軍省資材班長

 東條内閣には「9月6日御前会議の決定にとらわれることなく、内外の情勢を再検討するように」という天皇の意向が木戸内大臣から伝えられた。東條陸軍大臣を首相に推薦したのは木戸内大臣であった。企画院総裁鈴木貞一も東條内閣誕生に深くかかわりを持った。東條を首相に推薦したねらいを戦後こう証言している。

<鈴木貞一談>
「東條さんをやったのは、陛下がご発言になって、それはやっちゃいかんと。陸軍は非常にあれだろうけれども、とにかくシナから撤兵をしてアメリカと仲よくなるのを……。だけど交渉だけするようにしなさいということを一言おっしゃっていただいてね。そうすりゃこれはね、東条という人は非常にああいう忠誠心の強い人だから、もう断じてこれ抵抗しませんよ」

 天皇も東條内閣について言葉を残している。いわゆる天皇独白録では「組閣の際に条件さえつけておけば陸軍を抑えて順調に事を運んでいくだろうと思った」という言葉が記されている。天皇は東條を信頼していたと言われる。東條は天皇への忠誠心が強く、きめ細かく天皇に上奏したからだとされている。東條首相は9月6日御前会議で決定された国策の再検討のため、大本営政府連絡会議を開いた。会議は8日間にわたった。再検討はヨーロッパ情勢、作戦の見通しなど多岐にわたったが、中でも国力の判断がその中心の課題であった。

 事務方としてこの再検討に携わった元陸軍大佐中原茂敏。彼は陸軍省資材班長として国力判断を担当していた。当時国力判断の基礎となるのは船舶の保有量であった。国力の維持には南方から船でいかに資源を運ぶかが重要なかぎとなったからである。そのため再検討は敵の攻撃による船の沈没予想量を海軍が出すことから始まった。1年目は80万トン。2年目は60万トン。3年目は70万トンと、横ばいのまま推移するとされた。一方造船量は次第に増加し、3年目には沈没量を超えると楽観的に予想されていた。しかし実際に戦争が始まると沈没量は予想をはるかに上回り、造船量も思うように伸びなかった。そのため国力維持が全く不可能になるというずさんな計画であった。さらに作戦時期にこだわる軍部は国策再検討を急がせていた。連絡会議議事録には「4日も5日もかけてやるのは不可、早くやれ、簡明にやられたし」という軍部の要望が記録されている。

<中原茂敏談>
「だから両総長は、私なんか8日間缶詰でやっとるときに、時々あらわれて「いつまで議論しとるんだ」と。海軍は永野さん。陸軍は杉山さんですよ。だから僕はあっちのほうには再検討のご命令がなかったと、そのときはなかった。陛下のご心配も国力がついていくかどうか。それに伴って戦力もついていくかどうかをもう一回再検討を、白紙還元しなさいと…こういうことだったですね」
再検討が進む一方で島田海軍大臣は開戦を決意した。沢本海軍次官の手記には10月30日島田海軍大臣が決意表明したことが記されている。島田は、自分は突然場末から飛び込み、いまだ中央の情勢はわからずも空気からして容易に事態は挽回できず戦争を決意すると述べたとされている。11月1日、再検討の結論を出すべく最後の連絡会議が開かれた。会議は17時間に及び、この席で鈴木企画院総裁は国力判断について企画院としての結論を出した。連絡会議議事録には「物的には不利のように考えているようだが心配はない、物の関係は戦争したほうがよくなる」という鈴木総裁の言葉が記されている。

 しかし会議の最後の段階で東郷外務大臣が危機的な日米関係を打開する外交の切り札を提案した。東郷外務大臣の提案は「乙案」と呼ばれる日本の妥協案であった。この案は交渉の議題を南方に絞り、南部仏印からの日本軍の撤退という画期的な内容を含んでいた。撤退により資産凍結以前の日米関係に戻すことが、そのねらいであった。軍部は東郷外務大臣の辞職をおそれ、しぶしぶ乙案を認め外交交渉を続けることに同意した。しかし、戦争決意が明確に打ち出され、結果的には国策の再検討はできずに連絡会議は終わった。連絡会議の結果、新たな帝国国策遂行要領が合意された。そこでは戦争を決意し武力発動の時期は12月上旬と明記された。しかし12月1日までに交渉が成功すれば武力発動は中止することも最後に盛り込まれたのであった。国策の再検討終了後、ただちに天皇への上奏が行なわれた。天皇はこの時開戦の大義名分について東條に問いただしている。戦争機密日誌は、この時の天皇の様子を「お上はすでにご決意あそばされあるものと拝察する。安堵す」と記してある。昭和16年11月5日、宮中東一の間において開戦の決意を固める御前会議が開かれた。

中国国民党主席蒋介石 蒋介石の電報 宋美齢
ハル・ノート 東郷茂徳乙案 開戦の陸軍機密日誌

 この年3回目の御前会議である。
 <原>本日決定の御前会議の議題は9月6日の御前会議の決定の延長である。9月6日の決定は第1に日米交渉の進展に関することであったが、これが妥協を見ざるは遺憾である。交渉の内容については、余は全然承知しあらず。
 本日までに提示されているこの文書だけではわからん。まずもってどういう点が本案の成立前までにできたかということを外相に伺いたい。

<東郷>欧州の戦争に対する両国の態度に関しては、拡大を防止する点は大体一致している。日中の和平問題に関しては、駐兵問題において一致せず、アメリカ側は全面撤退の声明をなすべきと主張し、日本はこれに応ぜられぬ。

 太平洋の政治問題は双方ともに武力進出をせざることにしあり。これについては仏印の撤兵問題であって、これは話はついていない。

<原>本日のご説明によると、前回と今日とアメリカの態度は何ら変化なく、今日はかえってますます横暴をきわめておる。したがって本交渉も望み薄と見て甚だ遺憾に思う。しかし、アメリカの言うことをそのままに受け入れることは国内情勢から見ても、また国の自存から見ても不可能であって、日本の立場を固守せねばならぬ。今をおいて戦機を逸してはアメリカに対し開戦を決意するもやむなきものと認める。初期作戦はよいのであるが、先になると困難も増すが何とか見込みあると言うのでこれを信ずる。

 東條首相に国策の再検討を命じた天皇は、この日の御前会議では慣例に従い何も発言しなかった。アメリカに対しては乙案が提示され(注・全て暗号解読されていた)、交渉継続の意思が伝えられた。ワシントンの大使館には交渉期限は11月25日と打電された。アメリカは南部仏印からの撤退が盛り込まれた乙案に初めて前向きの検討を始めた。アメリカ側の案をルーズベルト大統領に提出したのはモーゲンソー財務長官である。国務省はモーゲンソー案をもとに従来の原則主義にこだわらない交渉継続を目指した暫定協定案を作成した。暫定協定案では、日本が南部仏印から撤退し、北部仏印の兵力を2万5000人に止どめれば資産凍結を緩和し民間用の石油の輸出を認めるという内容が盛り込まれた。ハル国務長官は中国・イギリスなどの大使を呼び暫定協定案を提示し理解を求めた。しかし中国の胡適駐米大使が猛然と反発。直ちに本国の蒋介石に暫定協定案の内容を送った。重慶の蒋介石はアメリカが中国を犠牲に日本と取引をするのではないかと激しく動揺した。そして夫人の宋美齢とともにアメリカ政府の説得を試みた。ワシントンでは宋美齢の兄の宋子文が胡適大使とともに説得工作に当たった。宋子文はアメリカの大学で学び、アメリカ政府に知己が多かった。

 このとき、蒋介石が出した秘密電報が台湾に残されている。かつて蒋介石が住んだ陽明山。ここに蒋介石の資料が多数納められている。今回初めて公表された蒋介石の機密電報。アメリカが暫定協定案を取り下げるようワシントンの中国大使館に説得工作を指示した電報である。宋子文あてに出された電報。宋子文には陸・海軍の長官を説得するように指示している。この電報には「日本に対する石油禁輸と資産凍結を緩和すれば、中国人民はアメリカが中国を犠牲にして日本と取引したと受け取らざるを得ない。4年半に及ぶ我々の多大の犠牲と、史上類を見ない破壊を伴った日本との戦いはむだに終わるであろう」と記されている。一方、胡適大使にあてた電報ではハル国務長官を説得するように指示している。ここでは「今妥協すると中国はかつてチェコスロバキアやポーランドがドイツの犠牲にされたのと同じ災難をこうむる」と訴えている。中国側は繰り返しアメリカ政府への説得を試みた。ハル国務長官は洪水のごとく大量の電報が寄せられたと後に述べている。中国の反対は功を奏し、ハル長官はルーズベルト大統領あてに、中国政府の反対により「暫定協定案の提出は留保する」という意見書を提出するに至った。さらに陸軍長官から日本軍が南方へ移動中との情報も入り、ルーズベルト大統領は暫定協定案の放棄を決断したのであった。11月26日、アメリカは従来の四原則に加えさらに厳しく中国・インドシナからの全面的な撤兵を要求した、いわゆる「ハル・ノート」を日本に提示した。事実上の最後通告であった。

<石井秋穂談>
「和解となればね、あのときは日本は支那から撤退せにゃいけなくなりますね。それでわしは考えたんですがね、支那から撤退となると満州をも含む。それにもかかわらず賛成する人があろうかと…おったらそれはほんとの平和主義者か。そういう人がずっと上の人から、下のほうの幹部に至るまで、だれかおるだろうかと考えたら、おらん、だれも。理論的に申せばどれもこれもみな問題はあったことになりますけどね…(しばし沈黙のあと)

 それを正直に申せばね…侵略思想があったんですね。ええ。それで限りなくね、あっちこっち、これが済んだら今度はこれというふうに、侵略思想があったんですよね、そういうことになりましょうね……」

 中国からの全面撤退を求めた「ハルノート」を日本政府は拒否、外交交渉は終わった。陸軍参謀本部は、こう情勢判断した。「これにて開戦決意は踏み切り容易」。また、当時の天皇の様子について陸軍の機密戦争日誌には「お上も十分納得あそばされたるがごとし」と記されている。昭和16年12月1日、開戦を決断する御前会議が開かれた。この日初めて政府の全閣僚が出席し、会議の冒頭、東條首相は、自存自衛を全うするため、やむなく開戦に至ったと説明した。会議は2時間で終わり、太平洋戦争開戦は決断された。12月8日、日本は真珠湾を攻撃。およそ3年9カ月に及ぶ太平洋・大東亜戦争に突入していった。

 昭和16年に開かれた4回の御前会議。その合わせて10時間余りの会議が、その後の日本の運命を大きく変えた。