靖 国 神 社 考

平成19年08月04日作成

 靖国神社と云えば昨年までは、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に対する中国・韓国の反発などで大いに、いわゆる「靖国問題」として紙上喧しかった。今の安倍首相は小泉前首相にもまして参拝したいのは、やまやまだが中国や韓国との外交問題・経済問題が優先して参拝はしないらしい。今は靖国参拝どころではなく、平成19年、今年の夏の参院選挙で大敗、自分の首さえ怪しい。私は今年07月の最終日曜日、何度目かの参拝をした。むろんHPの取材だが実際自分の戦死した父親が祀られているのかどうか、確かめる気持ちもあった。「問い合わせ票」の回答は1週間ほど掛かるとのご託宣である。私の結論を先に云えば、総理大臣の靖国神社参拝は賛成、“A級戦犯合祀”は反対である。(なお実父の合祀に関しては待てど暮らせど何の連絡も無かった)

 先年07月20日、日本経済新聞のスクープとかで、
富田朝彦(とみたともひこ)・元宮内庁長官のいわゆる「昭和天皇発言メモ」によって、靖国神社問題が新たな段階に入った。昭和50年以降、昭和天皇の靖国神社参拝が、ぷっつり途絶えていた理由が明らかにされた。靖国神社が昭和53年に極東国際軍事裁判でA級戦犯として刑死した7人を合わせた14人を合祀した。つまりこれに対する昭和天皇の不満が述べられていたからである。内容は伝聞メモであったにせよかなり具体的である。日米開戦のきっかけになった日独伊三国同盟に邁進した当時の松岡洋右外務大臣、白鳥敏夫駐伊大使は名指しである。

 『私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ』
 (文藝春秋平成18年9月号P111)

 「松岡」とは昭和16年、第二次近衛文麿内閣の時の松岡洋右元外務大臣、「白取」とは、白鳥敏夫元駐イタリア大使、「筑波」とは、靖国神社宮司で昭和41年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった筑波藤麿である。「松平」とは終戦直後の最後の宮内大臣であった松平慶民、「松平の子」とは慶民(よしたみ)の長男で昭和53年にA級戦犯を合祀を決断した当時の靖国神社宮司、松平永芳である。この発表されたメモは全文ではないにせよ、昭和天皇が62年09月病気になってからの聞き取りなので信憑性は高いらしい。全文公開が待たれるはずである。だがこの数行の昭和天皇の肉声で、昭和天皇が靖国神社に参拝しなくなった理由は明白となった。
 現在の総理大臣安倍晋三の母方の祖父は昭和35年の総理・岸信介である。岸信介・佐藤栄作兄弟首相の義理の伯父が松岡洋右である。

 「靖国神社の前身である東京招魂社は、戊辰戦争から西南戦争に至る明治維新の官軍の犠牲者を祭神として慰霊するところから創建された。明治12年(1879)に靖国神社となり、唯一の別格官幣社(臣下を祭神に祀った官幣社)の社格を与えられる。すでにその5年前から明治天皇による行幸と親拝が始まった。戦前において、天皇陛下がお参りする官社が靖国神社以外なかったのは、外征戦争も含めて「天皇の軍隊」の犠牲者をお祀りする神社だったからである。つまり靖国神社とは天皇のために命を捧げ、祭神となった臣下たちを慰霊するための神社である。天皇が参拝しない近頃の現実は、靖国神社の存立の根本にかかわる問題である」(「月刊現代」平成19年07月号P45)であるにもかかわらず、A級戦犯14人を合祀した当時の松平永芳宮司の主張は「政治的には日本とアメリカその他が完全に戦闘状態をやめたのは、サンフランシスコ講和条約を発効した昭和27年04月28日だ。つまりこの間は国際法では日本は戦闘状態にあったのだ」との考えで、こと松平宮司に関して云えば極東国際軍事裁判を戦時下における政治的行為の一種とみなしているらしく、A級戦犯は戦場での死と同じで「昭和の殉難者」であるとの主張。この考えは30年経ても靖国神社に一貫して踏襲されている。

 昭和天皇から内々に「参拝はできませんよ」との意向が示されたにもかかわらず、それを無視しA級戦犯を合祀した理由は政治上、歴史上、信仰上にいかなるものなのか。私にはそうした極端なイデオロギーは理解できない。単純に、天皇の意向を無視できる存在そのものが理解できない。そこには昭和30・40年代の旧厚生省の旧軍人グループの思惑、
日本遺族会の思惑、靖国神社の最高責任者の宮司の思惑がトライアングルを形成していてことが進んだらしい。このへんの経緯はたいへん複雑怪奇でここでは敢えて触れない。昭和史に詳しい半藤一利氏・秦郁彦氏・保阪正康氏の著書に詳しい。いずれにしても今年新たに発掘された「卜部(うらべ)亮吾元侍従メモ」・昨年の「小倉庫次侍従日記」そして「富田メモ」によって昭和50年以降、昭和天皇・今上天皇の靖国神社参拝がない理由として意味づけなされ、国民は納得させられた。

 「靖国神社」と、その参拝は、どのような問題があるのか、ここで簡単におさらいをしておきたい。ただし現在の私が理解する範囲内である。
◇組織
 靖国神社は、神社本庁発足の時点より神社本庁に属していない。これは、「靖国神社は日本国の護持の神社であり、いつかは国に返すべきなので、特定の
宗教法人の包括下に入るべきではない」とは靖国神社・神社本庁双方の判断による。
◇戦死者・戦没者慰霊の問題
 第二次世界大戦(日中戦争・太平洋戦争・大東亜戦争)における、日本軍の軍人、軍属の戦死者・戦没者を日本人自身がどのように慰霊・追悼するのがふさわしいか。靖国神社において、戦前から引継がれる神道形式によって祭ることがふさわしいのか。
◇政教分離に関する問題
 内閣総理大臣・国会議員・都道府県知事など公職にある者が公的もしくは私的に靖国神社に参拝することに関して、憲法上の規定である
政教分離に照らし、これが適当であるといえるのか。国内では最も大きな論点のひとつとなっている。
◇歴史認識・植民地支配に関する問題
 公職者の参拝に端を発して議論されることが多いが、靖国神社に参拝することが神社の標榜する歴史観を認め、場合によっては近隣国との外交的な摩擦を生むのではないかとする議論。国内的な
戦争責任の認識、極東国際軍事裁判で戦争犯罪人として裁かれた人々の合祀を認めるかなどといった問題がひろく含まれる。
◇信教の自由
 日本では、信教の自由は、「何人に対しても」これを保障するとされているため、政治家であっても宗教および思想について制限を加えることができないとする考え方が一般的である。しかし一部の人々は、政治家は国の機関であり、参拝は
第20条3項の国の機関による宗教的活動に該当すると主張、政治家が靖国神社に参拝することは憲法違反だとの説を採る。
◇宗教性
 日本では、宗教性の有無に関して「参拝は宗教的行為ではなく、習俗的行為であるから政教分離原則には抵触しない」とする説と「参拝は宗教的行為であるから問題である」とする説が対立している。首相の公式参拝について、神道形式に則った参拝が「憲法20条との関係で違憲の疑いを否定できない」との認識は昭和55年(1980)の
政府見解でも確認された。
◇公私の別
 公私の別として取り上げられる問題として「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝しているものであるから政教分離原則には抵触せず問題がない」との意見がある。これは、人権的な観点を重要視するもので、「
首相個人の信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであり問題がない」との立場をとっている。
(以上フリー百科事典・ウィキペディア参照)

 因みに昭和天皇が不快の念を漏らさざるを得なかった昭和53年に合祀されたA級戦犯とは次の14人である。
◇刑死した者
 東條 英機 内閣総理大臣・陸軍大臣・陸軍大将
 広田 弘毅 内閣総理大臣・外務大臣・駐ソ連大使
 土肥原賢二 陸軍大将・奉天特務機関長
 板垣征四郎 陸軍大将・支那派遣軍総参謀長
 木村兵太郎 陸軍大将・ビルマ方面軍司令官
 松井 石根 陸軍大将・中支那方面軍司令官
 武藤  章 陸軍中将・陸軍省軍務局長
◇刑期中に病死した者
 平沼騏一郎 内閣総理大臣・枢密院議長・終身刑
 白鳥 敏夫 駐イタリア大使・終身刑
 小磯 国昭 内閣総理大臣・朝鮮総督・陸軍大将・終身刑
 梅津美治郎 陸軍大将・関東軍司令官・陸軍参謀総長・終身刑
 東郷 茂徳 外務大臣・駐ドイツ/駐ソ連大使・禁固20年
◇戦犯指定を受けながら判決前に病死した者
 永野 修身 海軍大臣・海軍大将・海軍軍令部総長
 松岡 洋右 外務大臣・南満州鉄道総裁

      

            左から松岡洋右・東條英機・白鳥敏夫

 極東国際軍事裁判で
A級戦犯に指定された軍人・政治家は28人だが、後に釈放されて戦後長く生きた人たちは14人いる。内大臣木戸幸一や後に外務大臣にまでなった重光葵などで、開戦時、企画院総裁だった鈴木貞一などは平成元年まで100歳を生きた。

 この14人の合祀は、少しでも太平洋・大東亜戦争など、昭和史の本を読んだことがある人なら「昭和天皇の不快の念」を待たずともおかしいと思うに違いない。いやいや戦争に駆り出されて非業の死を遂げた人たちは決して面白いはずはない。私も「極東国際軍事裁判」は戦勝国の復讐裁判の意味合いが濃いとは思うものの、彼らはあの無謀な戦争を国際的戦略もなく、場当たり的作戦を強要し三百十万人もの同胞を死に追いやった戦争遂行内閣の責任者である。一知半解だが私の今の考えでは、あくまで戦争に反対だった広田弘毅・東郷茂徳の総理・外交官は合祀されても不思議ではないが、残りの12人は靖国神社などに祭られる殉難者などでは決してないと思う。日米開戦の原因に、ここが引き返せないポイントだったと多くの識者が指摘するのが、昭和15年に締結された「日独伊三国同盟」である。これを大いに推進したのが松岡洋右外務大臣であり、白鳥敏夫駐イタリア大使である。昭和天皇が、終始ヒトラー率いるドイツに疑念を抱いていたのは「昭和天皇独白録」に詳しい。立憲君主である天皇は、輔弼(ほひつ)の立場の謂わば政治の責任者である政治家・外交官に命令は下せない。「松岡はヒトラーに買収されたのではないか」(「昭和天皇独白録」P67)
等との指摘は今ではかなり有名である。自分は騙されたと思う昭和天皇が、皇室の守り神の意味合いが濃い靖国神社に、それらの当事者が祀られたのでは怒るのは当然である。

 前年小泉総理大臣が09月に勇退を控えて案の定「イタチのさいごっぺ」のごとく平成18年08月15日、靖国神社に参拝した。これはこれで信念だろう。しかし肝心なA級戦犯合祀など見解を最後まで示すことはしなかった。小泉前総理は「人それぞれの心の問題だ」と言っておしまい。この辺がこの人の要領の良さなのか。「富田メモ」のスクープは、いわゆるA級戦犯を分祀すべきだ、靖国神社とは別に“
国家追悼施設”を作るべきだとの勢力には朗報には違いない。私は先日、文藝春秋平成18年08月号の「大論戦 8・15小泉総理靖国参拝」の記事を再読してみた。中国語が原語で堪能との元自民党幹事長・加藤紘一氏は完全に中国寄りの考えである。太平洋・大東亜戦争で多大な迷惑をかけた中国・韓国などに配慮すべきとの主張、上坂冬子氏はすでに決着済みとの考えである。どちらの言い分にも説得力があると思うのは、私に政治・歴史の知識が疎いことになるのか。

 総理の靖国神社参拝肯定の上坂氏、追悼施設容認の加藤氏共に特には言ってはいないが、中国にはそろそろいつまでもペコペコ謝るのはどうかいうニュアンスがある。中国は今や国連の拒否権を持つ5大国で核兵器をも持つ。その国に日本は
3兆円ものODAを供与しているのである。いつまで内政干渉とも云うべき、総理の靖国神社参拝を攻撃するのだろうかと私は思う。中華人民共和国の創設者、毛沢東は反対勢力の自国民数千万人を殺害したことが徐々に明らかにされ、現在の中国は、貧富の差も大きく国内に暴動は絶えないらしい。私には日本攻撃は多分に自国民から眼を逸らす意味合いが濃いと思う。だからと云って先の戦争で日本軍が罪の無い中国人を大量虐殺した事実が消えるものでは決してない。

 靖国神社とは別に戦没者の追悼施設を造るべきとの加藤紘一氏は、秘書の金銭問題で議員辞職を余儀なくされ、永遠に総理大臣を棒にふった政治家である。今や子分格の谷垣禎一財務大臣にさえ先を越された。彼の言い分にあまり説得力がないようについつい思ってしまう。政治家が今や一宗教法人でしかない靖国神社の内容にとやかく云うのは憲法違反になる。だが靖国神社自身もそろそろ頑なに分祀を拒否すべきでないように思う。あと30年もすれば靖国神社を真に支えている日本遺族会会員もいなくなる。靖国神社そのものが形骸化されてしまうのは判っている筈である。老若男女、外国人でも誰でも参拝できる性格を考えるときである。行きたくもない戦争に駆り出され300万人の70%の軍人が戦死でなく餓死・病死、その戦争を指導した軍人・大本営参謀たちが戦死でもないのに合祀され、その遺族は靖国神社には関係ないとは云うものの国から
遺族年金を年間700万も支給されているのである。昭和53年のA級戦犯合祀とはこの遺族年金支給も理由の一つだろうと思うのは私だけなのであろうか。

 分祀反対派の意見として「神道の原理原則において、祭神として一つに纏められて祀られた神は、一つの統合された神と見なされる。よって祭神の切り分けは不可能である。いわゆる分祀とは、ある神社から勧請されて同じ神霊をお分けする事を云う。つまり元の祭神と同一のものがまた別に出来上がる。靖国神社の場合も同一であり、分祀をすればA級戦犯も混った祭神が、同様にまた別に出来上がる事になる」との主張。であるなら終戦後、20数年以上して生きていたことが判った横井庄一氏(先頃死去)や
小野田寛郎氏は生きているまま英霊なのだろうか。いかなる処置で英霊でないことにしたのか、理由を聞きたいものだ。

 昨年06月、日本遺族会会長で自由民主党の「古賀誠」氏ら幹部が「首相の靖国神社参拝は有り難いが、近隣諸国への配慮、気配りが必要」との見解を纏める。「今後も総理大臣の靖国神社参拝継続を求め、靖国神社に代わる新たな追悼施設は認めない。A級戦犯の分祀は靖国神社自身の問題だ」と控えめだが、暗にA級戦犯の分祀を言っている。古賀誠氏は「多くの人が参拝するときに心のなかでは分祀していると思う」とも云う。合祀のときに日本遺族会には連絡がなかったらしい。その古賀誠氏も戦争遺児である。私の父親も確かに靖国神社に祀られているのなら、戦争を遂行した、防ぐことのできなかったエライ軍人・為政者に寛容であるわけにはとてもいかない。

 今年平成19年07月号の「月刊・現代」の半藤・秦・保阪氏の鼎談では、秦郁彦氏の指摘するように(「現代史の対決」P66)昭和40年、当時の筑波藤麿宮司が本殿横に分社した「鎮霊社」に本来はA級戦犯は祀られていたらしい。したがって当初のように戻すことが研究・視野に入っているらしい。そうでなければ靖国神社は本来の姿に戻らない。靖国神社は皇居の西北に位置し、天皇・皇室の守り神であるのが本来の役目だとの指摘は説得力がある。昭和天皇が再び靖国神社へ詣でて祈りたかったことは、昭和62年の歌にも残っているのである。

 
この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし

参考書
◇文芸春秋・平成18年9月号「昭和天皇「靖国メモ」未公開部分の核心」
◇月刊現代・平成19年7月号「昭和天皇の怒りを鎮めるために」
◇「昭和天皇独白録」文春文庫
◇「現代史の対決」秦郁彦・文春文庫

 この『無明庵』の「戦争の昭和史」は、なかなか完成しないが、いささか大風呂敷を広げたからでもある。昭和史のなかの一人の人物を取り上げるだけで、数年経つと歴史上も個人的にも評価が断然違ってくる。それがこの文章で大いに云わせていただいた「松岡洋右」。日米対立を招いた「日独伊三国同盟」の解釈は、松岡が単にヒトラーやスターリンに籠絡されただけではないことが、今では見てとれる。結果論だが、外務大臣の
松岡洋右、外交官・重光葵が憂えた昭和16年夏の「南部仏印進駐」が決定的な日米対立となった。近衛文麿は、これを理解出来なかった。極東国際軍事裁判に一度出廷しただけで松岡は二度と主張することはできなかった。病床を最後に見舞ったのが、実妹の子の佐藤寛子と後の総理大臣・佐藤栄作夫婦、病死寸前に松岡はクリスチャンの洗礼を享けている。日本的なものへの決別ともとれる。靖国神社に祀られても“いい迷惑”と思っているのかも知れない。岡洋右と近衛文麿の実像については『日米対立』『日米交渉』の章で推敲、改訂した。平成20年に自分の父親は合祀されていたことが判明している。